アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

ロマ、現代まで続くその迫害と差別の歴史

 つい数日前のネットで、ギリシャにおける、(かつてはジプシーと呼ばれた)ロマに関する記事が掲載されておりました。この中東欧に居住する移動型民族、ロマについてその起源から過酷な歴史、現代に至るまでをまとめてみました。あまり日本ではおなじみではない民族、単純に移動して人々、ジプシーとしてしか認知されていなかった、ロマと言う民族が今なお欧州では国家的問題となっていることに正直、驚きました。まずは、ネット記事のご紹介から、、、。

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謎の「金髪の天使」に照会8千件
ロマへの偏見強まる懸念


ダンスを踊る少女

 ギリシャ中部ファルサラの少数民族ロマ居住キャンプで16日に保護された金髪の少女に、米国、スウェーデン、フランス、カナダ、ポーランドなど世界中から8000件を超える問い合わせが殺到している。少女はマリアちゃんと名付けられており、身長1メートル、体重17キロ、肌は白く、ブロンドの長髪、瞳の色はブルー。2009年生まれの4歳とみられている。

ロマ少女記事写真

 地元メディアは事件について「謎の金髪の天使」と書き立てている。マリアちゃんと一緒に暮らしていたロマ夫婦は、Hristos Salis容疑者(39)と妻のEleftheria Dimopoulou容疑者(40)。DNA鑑定の結果、血のつながりがないことがわかり、未成年者略取・誘拐容疑で2人は逮捕された。夫婦の自宅からはピストルと頭から肩の一部まですっぽり入る軍隊用のバラクラヴァ帽などが押収された。夫婦の親族が地元メディアに提供したビデオなどによると、マリアちゃんは夫婦と一緒に野外の会場でダンスを踊らされていた。マリアちゃんのベッドにはクマのぬいぐるみが並べられ、床のじゅうたんの上にはお絵かき用のマーカーや描きかけのスケッチブックがそのまま残されていた。

月110万円超の社会保障費

 地元警察が16日、麻薬密売容疑でロマ居住キャンプを捜索したところ、夫婦とは外見がまったく異なるマリアちゃんを発見、保護した。
 英大衆紙デーリー・メールによると、妻は10カ月の間に6人の子供を出産したと届けるなど、夫婦は14人の子供がいると偽って、月に7000ポンド以上(約110万9千円)の社会保障費を受給していた。妻は2つの身分証明書と名前を使い分けていた。マリアちゃんは幼いころ、ブロンドの髪を茶色に染められていたという。
 夫婦は警察の調べに対して「スーパーの外に置き去りにされていた」「ブルガリア人の母親から引き取った」と供述を二転三転させており、21日に法廷に出廷、マリアちゃんを養育するようになった経緯について釈明する。弁護士は「ロマの夫婦と4歳の少女の間には愛情以外には存在していない」と主張している。また、夫婦の親族は「マリアちゃんはダンスが好きで、無理矢理に踊らせていたわけではない」「2人はマリアちゃんの面倒をきちんと見ていた」と反論している。

ロマの乳児売買組織

 児童支援の慈善団体ザ・スマイル・オブ・ザ・チャイルドの責任者はデーリー・メール紙に「少女が私たちのところに来たときはおびえて一言も口を聞かなかったが、今は他の子供たちと遊んでいる」「少女は悪い環境に置かれていた」と指摘。その上で「少女は誘拐された疑いが濃厚だ。スカンジナビア半島の出身だろう」「オカネのために踊らされていたと確信している」と話した。この責任者によると、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャから英国に乳児を売り渡すロマの組織があることがよく知られているという。

ロマとは

 かつて「ジプシー」と呼ばれたロマは欧州全体で1千万~1500万人いるといわれる。10世紀ごろインド北西部から西方に移動し、トルコなどを経て14世紀ごろ欧州に流入した。言語、文化、生活習慣の違いから迫害され、ナチス・ドイツにより少なくとも20万人が虐殺されたとされる。東欧の共産体制下では強制的な同化や人口調整のため不妊手術が行われた。冷戦終結後も差別は残っている。今回の「金髪の天使」誘拐事件がロマに対する偏見と差別を増幅させる恐れがある。
 ギリシャでは債務危機をきっかけに社会保障費が大幅に削減されており、月に110万円超の社会保障費を不正受給していたロマ夫婦への批判が強まるのは必至だ。ギリシャの経済規模は縮小し、社会不安が増幅。排外主義をあおる極右政党「黄金の夜明け」が台頭し、移民排斥に反対するヒップホップ・アーティストが「黄金の夜明け」の崇拝者に殺害された。
 昨年の大晦日には、ハンガリーのペシュト県で、17歳のロマ系ハンガリー人が口論になった若者2人をナイフで殺傷する事件が起きた。ハンガリーの民主化を進めた民主化組織「フィデス(青年民主連盟)」の創設メンバーの1人は全国紙へ投稿し、「ツィガーニ(ロマのこと)の大半は私たちの社会と共存するのにふさわしくない。彼らは動物だ。動物のようにふるまっている。こうした動物の存在を許してはならない」とロマ排斥を公然と訴えた。
 ルーマニアのロマ人口は2002年国勢調査で53万5千人とされたが、欧州委員会は180万~250万人と推定する。ロマの多くが差別を避けるためロマであることを隠して生きていかなければならないのだ。
 40万人超のロマが暮らすフランスでは10年7月、中北部サン・テニャンでロマの若者が警官に射殺された事件をきっかけに暴動が発生した。
 当時のサルコジ政権は違法キャンプの撤去と送還を強化した。フランスだけでなく、イタリアやデンマークもロマの違法キャンプを撤去したり送還したりしていた。
 これに対して、ロマの社会参加を促す欧州連合(EU)の支援策は十分とはいえないのが実情だ。ロマであることを公表しているハンガリー選出のヤロカ欧州議会議員は「ロマの問題は政治に翻弄されてきた。失業、教育など共通した社会問題として取り組むべきだ」と強調している。

 マリアちゃんの本当の家族はどこにいるのだろうか。一刻も早くマリアちゃんが家族のもとに戻れることを祈っている。今回の事件が刑事・司法手続きにのっとって適正に処理されなければならないのはもちろんだ。しかし、社会全体が安易にロマ排斥や排外主義に走らないよう、「人権」を旗印に掲げるEUにはロマを取り巻く問題に本腰を入れて取り組む政治的リーダーシップを望みたい。

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◇ ロマとジプシーの定義

 記事の中でロマについての概念から各国における現状まで端的に説明されておりますが、あらためて細かい概要からご説明申し上げます。ロマは西暦1000年頃に、北インド、ラージャスターン地方のロマニ系民族が放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着いた移動型民族とされます。旅に出た理由は定かではありませんが、西方に理想郷を求めたなどの説があります。いわゆるジプシーの一種としての扱いになりあますが、彼らがヨーロッパにおいて史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなります。

ロマ001

 一方、ジプシー(Gypsy)と言う言葉について、これは一般にはヨーロッパで生活している移動型民族を指す総称であり、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっています。もっと起源を辿ると、「西暦1100年にアトスに現れた」とする記録が最古のものであり、1427年にパリに現れた彼らが「自分たちは低地エジプトの出身である」と名乗ったことから「エジプトから来た者」という意味の「エジプシャン」の頭音が消失した「ジプシー」(Gypsy) の名称になったとされます。

 ジプシー:ヨーロッパに生活する移動型民族
 エジプシャン「エジプトから来た者」→ ジプシー (Gypsy)


【主なジプシー民族】
 ・ロマ Roma:北インド起源、欧州におけるジプシーの最大勢力
 ・アッシュカリー Ashkali
 ・ドム Dom people:インド、アーリア人のジプシー
 ・リューリ Lyuli:中央アジア出身のドムの別集団
 ・ロム Lom people:東アナトリア半島およびアルメニア出身のジプシー
 ・バンジャラ Banjara:インド出身のジプシー
 ・アイルランド人の旅人 Irish Travellers
 ・スコットランド人の旅人 Scottish Travellers
 ・イェニシェ Yeniche:もともと欧州にいたロマ以外のジプシー
 ・スリランカ・ジプシー Sri Lankan Gypsy people

ジプシー写真01
左からジプシードレス、ジプシーファッション、ジプシー舞踊、
そしてジプシー・クイーン


 ロマは欧州におけるジプシー最大勢力

 近年の日本においては、「ジプシー」は差別用語、放送禁止用語とされており、代わりに「ロマ」と呼称されることがありますが、厳密には「ジプシー」には「ロマ」以外の民族も含まれていますので、これは他のジプシー民族を無視することになります。「ジプシー」と言う呼び名の是非はともかく、ロマ民族に対する正しい知識は残すべきと考えます。


◇ ロマの人種および起源

 ロマの人種的分類は現在まで定説がなく、厳密にどの人種に分類されるのか今だに判明していないようですが、最新の遺伝子研究ではインド先住民のドラヴィダ人との類似性が示唆されております。人種と同様に、欧州への移動以前の元々のロマの起源についても以下の如く諸説あります。

1.5世紀ササン朝ペルシア時代に起源とする説

 ロマ出身のロマ研究家で、1人権活動家のグラタン・パクソンによると、ロマの起源は、ササン朝ペルシアのバフラム5世(在位420年-438年)が、ムルタン(当時はインド、現在のパキスタン)から、当時ルリーと呼ばれたロマの祖先1万人をペルシアに連れて行ったとしています。その後、8世紀にはムルタンの近くのシルマン山に、ヤットという名称のロマの集団が住んでおり、彼らはインドの支配から独立を望み、アラブによるインドへの侵攻時にアラブと手を組んだが、アラブがインドに敗北してしまったため、714年、退却するアラブの軍勢とともに西へ移動した、これがロマの起源であるとパクソンは言っております。

2.インド ラージャスターン州より故郷を捨てた説

 ロマ出身のロマ語学者シャイプ・ユスフォフスキーによると、ロマの祖先はインドのラージャスターン州に住んでいたが、タタール人に追われたのと食料不足とで5世紀に1万2000人が故郷を捨てて旅に出て、10世紀にはさらに西に集団移動し、バルカン半島に入ったとの説を述べております。

3.紀元前300年以前にイラン後圏に入ったとの説

 言語学の観点から、ロマの祖先は紀元前300年以前にイラン語地域に入ったと分析する説もあります。これにリンクして、紀元前327年のアレクサンダー大王の北西インド侵入に伴ってロマの移動が始まったと唱える向きもあります。

4.現代ロマは10世紀以降インドを出発したとする説

 ある言語学者によると、現代のヨーロッパのロマはインドを10世紀以降に出発したと説もあります。

 このように、ロマの起源は一様ではなく、長期間にわたり複数の集団が何度もインドを出発したとも考えられております。ロマ民族の中に文章としての記録や言い伝え、逸話すらも残されていず、これがこの民族の難しいところかと存じます。


◇ 欧州移動後から大戦後までのロマ

1.欧州全土への拡散

 11世紀にセルジュクトルコが勢いを伸ばすと小アジアのロマがバルカン半島に移り住み、ビザンチン帝国の支配下に入り、14世紀にはクレタ島などギリシアの島々でロマの集落が確認されております。1416年 ハンガリーに到達し、1418年にはスイスに到達とされます。
 1422年にイタリアのボローニャに到達したロマの集団は100名ばかりで、アンドレア公爵を詐称する首領が「我々はキリスト教を捨てたため、所有地をハンガリー王に没収されたが、キリスト教徒に復帰するため4000人の仲間とともに洗礼を受けました。ハンガリー王からの命令でローマ法王のもとへ懺悔に行くところであります。今はそのために巡礼の旅をしていますが、旅の期間は盗みをしても罪に問わないとハンガリー王からお許しが出ております」などと虚偽の申し立てをしております。
 1427年8月17日にフランスのパリに到達したロマの集団は12名でしたが、100人以上の仲間を郊外に待たせ、やはり貴族を自称し「我々は低地エジプト出身の善良なキリスト教徒ですが、サラセン人の侵攻で一度キリスト教を捨て、懺悔してローマ法王の許しを得ました。しかし法王のご命令で7年間の巡礼の旅をしております。我々に食事を世話し、巡礼の資金を恵むことはキリスト教徒の義務であるとの法王のお達しです」と、ここでも虚偽の申し立てをしたとされます。

 虚偽の申し立てで各国に侵入

 1447年にはスペインのバルセロナに到達、1505年にはイギリスへのロマの到達が記録されております。


2.皇帝ジギスムントの特許状とその無効

 初期のロマは、神聖ローマ皇帝ジギスムントにより巡礼者として帝国全土の自由な通行を許可されたと称し、いわゆる「皇帝ジギスムントの特許状」を保証として各地を放浪しておりました。しかし15世紀中頃には彼らに対する蔑視が始まり、特にユダヤ人と彼らを同類とする風説が現れました。1500年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世によって「皇帝ジギスムントの特許状」は無効とされ、ロマを殺しても基本的には罪に問われないこととなり、ロマが放浪する犯罪者の温床と考えられ、都市では彼らが現れたら教会の鐘を鳴らして街から除外するようになったとされます。

 ロマとユダヤ人は同類とする風説
 皇帝ジギスムントの特許状の無効
 始まった各国でのロマへの弾圧


 1499年、スペインはロマの入国を禁止、国内のロマは4日以内に退去するか、60日以内に定住して主人に仕えなければ鞭打の刑にして追放するとの勅令が出ました。16世紀半ばにはイギリス各地の地方自治体もロマに退去命令を出しております。1561年にはフランスのシャルル6世がロマを2ヶ月以内に領土から追放するよう命令を出し、この命令に従わないロマは頭髪を剃り落とされ、罪人として晒し者にされ、ガレー船の漕手として3年間の重労働に服すこととしました。1596年にはイギリスで放浪中のロマ196人が捕縛され、うち106人が死刑の宣告を受け、このうち9人が実際に死刑となり、残りは出身地に連れ戻されました。1714年にはドイツでマインツの大司教がロマに対して裁判抜きの処刑・鞭打・追放・重労働を命じております。


3.領邦権力による定住化政策の失敗

 1761年、有名なフランス王妃、マリー・アントワネットの実母であるオーストリア女大公マリア・テレジアと、その息子(つまりアントワネットの兄)でオーストリア大公であるヨーゼフ2世による「近代化政策」の一環として、ロマの定住化が図られました。すなわち、ロマの青年に対して徴兵や職業訓練を行うとともに、領主への従属や納税の義務を課し、ロマ同士の結婚を禁じ、ロマの子はロマではない家庭に入れて育てることとしました。これらは啓蒙主義に影響された、ある意味でロマへの差別をなくすことを目的とした人道的な同化策でありました。しかし、これは、ロマの本来のあり方である移動型民族を否定した定住や、ヨーロッパ人の考えるところの文化的な生活の押し付けとなり、ロマからの激しい抵抗にあいました。1773年には、プロイセンのフリードリヒ大王がロマを隔離して定住させようとしましたがそれも失敗に終わりました。

 マリア・テレジアによる人道的同化策は失敗

マリアテレジア等
マリア・テレジア(左)とヨーゼフ2世(右)

 一方、ポルトガルは1647年にはアフリカの植民地に、1686年には南米の植民地ブラジルにロマの開拓団を送っております。また、イギリスも植民地のアメリカやジャマイカにロマの開拓団を送っております。

欧州各地におけるロマの呼び名
欧州各地における自称名の概略


4.ナチスドイツ等による絶滅政策 ポライモス Porajmos

 ポライモス(Porajmos)とは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツやクロアチア独立国、ハンガリー王国など枢軸国が実行した、ロマ絶滅政策のことを指し、ロマ語の複数の方言で「絶滅」ないしは「破壊」の意味です。
 ドイツを例に挙げますと、ナチス党が自由選挙で国民の支持を受けて政権を獲得した後の1935年、ニュルンベルク法が制定され、ロマおよびユダヤ人は何れも「人種に基づく国家の敵」と定義され、ナチス占領下の国家においても同様の絶滅政策が採られました。ロマに対しては、選挙権を剥奪、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などの措置がとられました。その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われました。

 ニュルンベルク法:ロマ・ユダヤ人 = 人種に基づく国家の敵

 ただ、ユダヤ人に対する政策は、インド・ヨーロッパ語を使用するアーリアン(アーリア人)こそが最も優れた民族であるというアーリアン学説に基づくものでありましたが、同じアーリア人であるロマに対しては、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、「アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚される」、と言う理由でロマ撲滅を図ったとされます。

 ユダヤ人はアーリア人ではないので弾圧
 ロマは「アーリア人の面汚し」なので撲滅


 第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ドイツは再び多数のロマを抱えこむことになり、これに対して当時のドイツ政府が「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされました。これが上述のポライモスであり、大戦中に約50万人のロマが殺害されたとされます。大戦後、ドイツ政府による被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けています。

 ポライモスでは約50万人のロマを虐殺
 戦後補償はユダヤ人よりも不利な扱い


アウシュビッツのロマ
アウシュビッツのロマの子ども達


5.戦後のロマ

 第二次世界大戦までの多くのヨーロッパ諸国で、ロマは固定した店舗で開業することは禁止されていたため、伝統的に鍛冶屋、金属加工、工芸品、旅芸人、占い師、薬草販売等に従事していました。現在も基本的に移動生活を続けているロマは多く、移動手段として自動車を用い、これに伴って職業も以前の馬の売買から、自動車の解体・中古車の斡旋などに変化してきています。

 現在も移動生活をするロマ

 第二次世界大戦前から1945年までのドイツ政府による虐殺で、ロマの人口は減少、社会主義体制となった東欧と旧ソビエト連邦圏では、ロマに定住を求める同化政策をとり、ロマの労働者化を進めるために移動禁止令が制定されました(ソ連1956年~ポーランド1964年)。

 東欧と旧ソビエト連邦圏では同化政策

 一方、西欧諸国ではロマへの同化政策は採用されず、また、国内のロマを少数民族と認めて権利を与えることすらもありませんでした。例外的に社会主義国のユーゴスラヴィア(1974年)とハンガリー(1979年)が、ロマを少数民族と認定しております。
 スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりしています。ドイツでは1995年に、ドイツ国籍をもつロマを少数民族と認定しています。

 スイスではロマの子どもを救済する動き
 ドイツではロマを少数民族として認定


 1990年代の一連のユーゴスラビア紛争では、ロマが迫害の対象となることも少なくありませんでした。1999年のコソボ紛争では、ロマはセルビア人、アルバニア人の双方から迫害を受け、紛争終結後は連邦軍がコソボから撤退し、難民・避難民として域外に逃れていたアルバニア人が帰還して、ロマはここでも迫害の対象となり、今なおロマのコソボからの脱出は続いております。

 コソボ紛争前後におけるロマの迫害

 現在、戦後の経済変動のなかでロマの生業は成立しなくなり、ロマの経済的な困窮は一段と進んでおり、伝統的な生活を放棄する者も多いとされます。


◇ 現在の各国におけるロマ

 現在、欧州に暮らすロマの人口は推定1000万~1200万人とされ、欧州評議会の各国別推計によると以下の通りです。

  ルーマニア 185万人
  ブルガリア  75万人
  スペイン   72万5000人
  ハンガリー  70万人
  スロバキア  49万人
  フランス   40万人
  ギリシャ   26万5000人
  チェコ    22万5000人
  イタリア   14万人

 旧ユーゴスラビアには推定100万人、マケドニアだけで20万人のロマがいたとされますが、ロマには乞食が多いため、みずからの出自を恥じてトルコ人やセルビア人、マケドニア人などと詐称するケースが多く、統計上は旧ユーゴスラビアのロマの数は10万人にとどまっております。ロマの人口が最も多いルーマニアと3番目のスペインについて現在のロマの状況を紹介します。

1.ルーマニアにおけるロマ

 ルーマニアにおけるロマに対しての差別は根深く、結婚、就職、就学、転居などありとあらゆる方面にて行われています。その原因として、ルーマニア国内のロマ支援組織の多くは19世紀半ばまで約600年間続いた奴隷時代にあると主張しています。真偽は確かではありませんが、奴隷時代の言い伝えには、「1800年代の法典はロマを『生まれながらの奴隷』と規定し、ルーマニアの一般市民との結婚を認めなかった。奴隷解放後も根深い差別の下で、ロマの土地所有や教育は進まず、都市周辺部に追いやられたロマは独自の文化や慣習を固守する閉鎖的な社会を築き、差別を増幅させる悪循環につながった」、とされています。

 ロマは「生まれながらの奴隷」

 21世紀に入った現在、ルーマニアでのロマ問題は拡大の一途をたどっております。EU諸国からのロマの強制送還により、ロマ人口は増加しており、ルーマニアにおいて、ロマは自己申告に基づく国勢調査では50万人ですが、出自を隠している人も含めると150万人に達すると言われます。

 ルーマニアのロマ問題は拡大の一途

 教育においてもロマの差別は顕著であり、2002年の調査では、下記の如くロマの進学率が極度に低いことが明らかになっております。

 高卒以上のロマ   6.3% (ルーマニア全体 46.8%)
 全く無教育のロマ 34.3% (同        5.6%)

 これらの問題に対してルーマニア政府は、「国内にロマは存在しないため、ロマに対する差別問題はない」としてロマの存在自体を否定しています。

 政府:「国内にロマは存在せず差別問題もない」

 つまり、ルーマニア国内では、ロマ差別はあくまでも架空の存在でしかない、というのが政府の見解となっており、国内におけるロマ問題への対策をルーマニア政府は何一つ行っていず、国内外からのロマ対策を要求する声に対しても何の反応も示していません。
 1991年にはブカレスト近郊のボランタン村でロマの家100軒が数百名の暴徒に襲われ、焼き討ちに遭う事件が起きました。


2.スペインにおけるロマ

 スペイン各地にロマの部落があり、マドリードの郊外ロスフォスコスにもロマの集住地域となっており、38家族、約200人のロマのバラックが立ち並んでいます。このロスフォスコスは麻薬の売人や泥棒の巣窟と目されており、このバラックを、別の地区への移転が計画されたこともありますが、移転先からの猛反対で計画は頓挫しているとのことです。政府の発表によると、麻薬密売の70%はロマによるものであり、スペイン国民の26%がロマに悪感情を持っているとの統計もあります。
 1991年にはアンダルシア地方のマンチャレアルでロマによる殺人事件をきっかけにロマ追放運動が発生、暴徒化したデモ隊がロマの家7軒を襲撃し、家財道具を通りに投げ出して家を破壊する事件が起きました。このとき、マンチャレアルでは「自分の子をロマの子と一緒に勉強させない運動」「ロマの子を登校させない運動」が起きています。


◇ ロマの特異性と迫害される理由

 ここまで整理して参りますと、ユダヤ人以上にロマが嫌われ、迫害される明らかな理由、歴史がそうさせたのか?、それとも民族固有のものなのか?、特異性が5つほど挙げられます。

 ・民族の起源がはっきりせず統一した歴史がない
 ・移動型民族、いわゆる「流れ者」で文化が異なる
 ・ほとんどが無宗教でキリスト教徒ではない
 ・はっきりとしたコーカソイド(白人系)ではなく分類困難
 ・個人主義であり協調性を欠き地域に同化しようとしない

 欧州において、ロマという民族は得体の知れない、異端であり、協調性がなく同化しようとしない、地域の秩序を乱すものと捉えられて来て、動物を引き連れて一カ所に定住せず、身なりは汚く、言葉が通じない、犯罪が後を絶たない、こうした民族に対して、現代人として迫害は容認できないものの、生活や社会を異にする発想は否定できないところでしょう。ロマの問題は今後、ますます重大となっていくものと思われます。

ロマの集落
ロマの集落


◇ ロマ音楽 ツィゴイネルワイゼンなど

 過去から今に至まで激しい迫害、差別を受けているロマでありますが、ロマ音楽は、現地の文化と相関関係にあり、歴史的に大きな貢献をしております。ルーマニア・ハンガリー文化圏、スペインなどの文化が際立って有名であり、リストの「ハンガリー狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」などに盛り込まれております。
 また、ロマの呼称は各国の言語に基づき異なり、ルーマニア語 Tigani(ツィガニ)、チェコ語 Cikáni(ツィカーニ)、であり、ドイツ語では Zigeuner(ツィゴイナー)と言います。スペイン生まれのヴァイオリニストであるサラサーテが、1878年に作曲した管弦楽伴奏付きのヴァイオリン曲 ツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)はZigeuner(ツィゴイナー、「ロマの」)Weisen(ヴァイゼン、「旋律」)=「ロマの旋律(音楽)」と言う意味で、ロマ音楽の影響を受けたいくつかのハンガリー民謡・大衆音楽の旋律を組み合わせて作曲されております。

サラサーテ
サラサーテ

 最後に、祖国を持たず、迫害と差別の歴史は今なお続く民族の悲哀と、思わぬ情熱をも感じますでしょうか?、葉加瀬太郎氏演奏のチィゴイネルワイゼンをお聴き下さい。

葉加瀬太郎 ツィゴイネルワイゼン
(↑クリックするとyoutubeで実際の楽曲を聴けます)

http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20131021-00029093/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ツィゴイネルワイゼン
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=DKRE59DWsxw
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