アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

古代におけるユダヤ人最初の迫害から中東問題まで

 せっかく「中東/アラブ/イスラムの歴史的背景」として中東、アラブ、イスラムについてそれぞれの定義や分布、イスラム教の起源などに触れたので、似たような地域で起こったユダヤ人迫害から近現代の中東問題まで話を延長してみます。
 ちなみに、ユダヤ人の定義ですが、「ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々」という定義は古代・中世にはあてはまりますけれど、近世以降ではキリスト教に改宗したユダヤ人(フェリックス・メンデルスゾーン、グスタフ・マーラー等)も無神論者のユダヤ人(ジークムント・フロイト)も「ユダヤ人」と呼ばれることが多いです。なお、イスラエル国内においてユダヤ教を信仰していない者はイスラエル人とも言われます。


◇ 古代ユダヤ人の迫害と隆盛の歴史

 旧約聖書によりますと、ユダヤ民族の始祖アブラハムがメソポタミアのウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされます。彼らは「移住民」という意味の「ヘブライ人」と呼ばれ、この付近で遊牧生活を始めました。紀元前17世紀頃、ヤコブの子のヨセフの時代にヘブライ人はエジプトに移住し、紀元前1730年頃から紀元前1580年の第15-16王朝、ヒクソス(よその土地の王の意)の時代にはエジプト王の厚遇を得て栄えましたが、第18王朝アハメス一世から紀元前13世紀の第19王朝ラムセス二世(在位前1279-1213)の時代では激しい迫害を受けたとされます。

 始祖アブラハムが部族を引き連れウルからカナンに移住
 「移住民」=「ヘブライ人」
 紀元前17年、カナンから古代エジプトに移住
 古代エジプトの王朝による厚遇と迫害


【古代エジプト年表】
 チニス時代(BC3000 - BC2778)
  第01王朝 ナルメル、アハ
  第02王朝 ペリプセン、カセケムイ
 古王国時代(BC2778 - BC2263)
  第03王朝 サナクト、ジョセル(BC2778 - BC2723)
  第04王朝 スネフル、クフ、カフラー、メンカウラ、ダドフラ
        (BC2723 - BC2563)
  第05王朝 サフラ、カカイ、ウナス(BC2563 - BC2423)
  第06王朝 テチ、ペピー一世、同二世(BC2423 - BC2263)
 第1中間期(BC2263 - BC2070)
  第07王朝 不明
  第08王朝 不明
  第09王朝 ケティ一世、同二世
  第10王朝 ネフェルカラ、ウワカラ、メリカラ
 中王国時代(BC2160 - BC1580)
  第11王朝 メウツ―ホテプ一世〜五世
  第12王朝 アメンエムハト一世〜四世、センウスレト一世〜三世
  第13 - 14王朝 ジェンジェル、セベクホテプ
 第2中間期(BC1730 - BC1580)
  第15 - 16王朝(ヒクソス時代) キアン、アポピ
  第17王朝 ラホテブ、セベクマサフ、セクエンエンラ
 新王国時代(BC1580 - BC1085)
  第18王朝 アハメス、アメンホテプ一世〜四世、
        トトメス一世〜四世、ツタンカーメン、ホルエンヘプ
  第19王朝 ラムセス一世、同二世、セティ一世、同二世
  第20王朝 ラムセス三世〜十一世
 末期(BC1085 - BC332)
  第21王朝 スメンデス、ヘリホル、ピネジェム
  第22王朝 シェションタ一世、同二世、オソルコン一世、同二世
  第23王朝 シェションタ五世、オソルコン三世
  第24王朝 ラフナクト、ボコリス
  第25王朝 (ヌビア人王朝)ビアンキ、シャバカ、タハルカ
  第26王朝 (サイス王朝)プサメチク一世〜三世、ネカオ
  第27王朝 (ペルシャ人王朝)カンビセス、グレイオス一世、
        同二世
  第28王朝 アミルテ
  第29王朝 プサメチク、アコリス
  第30王朝 ネクタネボ一世、同二世
  第31王朝 (ペルシャ人王朝)アルタクセルクセス三世
 プトレマイオス王朝(BC332 - BC30)
  BC332  マケドニア王アレキサンダー大王により征服
  BC305  アレキサンダー大王死後プトレマイオス一世即位
  BC30    クレオパトラ7世自殺、古代エジプト滅亡

 紀元前13世紀の第19王朝ラムセス二世の時代、旧約聖書に「出エジプト記」と記される事件が起こりました。それは、指導者モーセにより約60万人のエジプト在住ヘブライ人がエジプトからシナイ半島に脱出を果たしたものです。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着しました。紀元前1207年のエジプトの石碑に記された碑文がイスラエルという部族についての最古の文献でります。

チャールトンとユル
映画「十戒」におけるモーセ(左、チャールトン・ヘストン)と
ラムセス二世(右、ユル・ブリンナー)


イスラエル
紀元前1207年イスラエルと書かれたエジプトの碑文

 エジプトを脱出した際に、聖なるシナイ山の頂上で神ヤハウェとの契約をさずけられ、これがのちのユダヤ教へとつながります。この出来事は、ユダヤ人にとって、とりわけ重要な意味をもっており、なぜなら、これが歴史上ユダヤ人への最初の迫害であり、ユダヤ教の起源となったからです。
 モーセの死後、後継者ヨシュアにひきいられたユダヤ人は、ヨルダン川をわたり、イェリコの町とその地域を征服します。その後、紀元前11世紀頃には、サウル王のもとで建国を成し遂げ、後継者ダビデ王およびその子ソロモン王の治世で、最盛期を迎えます。

ダビデとソロモンシバ
ダビデ王(左)とシバの女王と会談するソロモン王(右)

 ところがソロモン王の死後、王国は北方の北イスラエル王国と南方のユダ王国に分裂し、紀元前8世紀には北イスラエル王国はアッシリア帝国に、紀元前6世紀、ユダ王国は新バビロニア王国にそれぞれ征服さます。このとき、ユダ王国の人々はバビロンに強制移住させられたのが有名な「バビロンの捕囚」であり、彼らはユダ王国の遺民という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。この捕囚において多数のユダヤ人が虐殺され歴史上第二のユダヤ人迫害と言われます。

 「バビロンの捕囚」
  :多数のユダヤ人が虐殺 = 第二のユダヤ人迫害


 新バビロニアはアケメネス朝ペルシャに滅ぼされてしまいますが、そのペルシャの寛大さはユダヤ人に平和をもたらしました。紀元前538年、ペルシア王キュロス二世の命令によって、ユダヤ人たち(42,462人)は解放され、エルサレムに帰還することが許されました。彼らは帰還後、エルサレム神殿(第二神殿)を再建し、その後、唯一神ヤハウェを信じるユダヤ教、ユダヤ王国が成立しました。


◇ ユダヤ王国の滅亡と中世におけるユダヤ人迫害

 その後、イエス・キリストの出現とキリスト教の起源が起こりますが、ユダヤ王国は紀元66年よりローマ帝国に対し反乱を起こし(ユダヤ戦争)、逆に滅ぼされてしまいます。ユダヤ人による自治は完全に廃止され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する「パレスチナ」という地名が復活しました。

 ローマ帝国に反乱したユダヤ王国は滅亡
 以後2000年近くユダヤ人の世界各地への離散が始まった


 以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散しました。すでにキリスト教世界となったヨーロッパにおいて、ユダヤ人は「イエス・キリストを十字架にかけた者の子孫」として差別されるようになります。このためユダヤ人は、当時のヨーロッパでは卑しい職業とされていた金貸し業にしか就けませんでした。一所懸命働いて成功し、お金持ちになると、ますます嫌われ、差別がひどくなっていきました。


◇ ユダヤ人女性には子宮頸癌が無い!?

 ちょっと余談になりますが、ZARDの坂井泉水が若くして患った子宮頸癌は、私が医者になった四半世紀前頃には、「複数の男性と複数回の性交渉を持った女性が罹る疾患」とされておりました。ヒトパピローマウイルスが発見される以前ですが、なんとなく発生機序に感染症が考えられておりました。高い頻度で不潔な性交から感染、発症するとの発想です。これを後押しする疫学としてユダヤ人女性には子宮頸癌が無いことが明らかとなっており、その理由としてユダヤ人男性が割礼と言って陰茎の包皮を切除する手術を受ける風習があり、亀頭部が清潔を保たれるからと考えられていました(アフリカ女性に行われた陰部の切除とは違います)。
 ところが、この20年ばかりで、子宮頸癌の原因がヒトパピローマウイルスによることが明らかとなって、確かに性行為感染症であるには違いありませんが、割礼により亀頭が清潔であることは意味は無く、単にユダヤ人にはヒトパピローマウイルスが無く、ユダヤ人はユダヤ人としか結婚、性交渉をしないため、この民族には永らく同ウイルスが感染する機会が無かったことを裏付けています。

 ユダヤ人女性に子宮頸癌が無い理由
  X 割礼により清潔なユダヤ人男性の亀頭
  ○ ユダヤ民族にはヒトパピローマウイルスがなかった


 これが何を意味するかと言えば、ユダヤ人は他民族と結婚はおろか性交渉も許されない異端の扱いが中世の世界で長く続いたのであろうと言うことです。


◇ ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺

 以前の文章を引用しますが、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺は選民思想が最も大きく世界の歴史の悲劇として名を残したものでありました。彼らはアーリア民族こそが優等であると考え、より「劣等」である全ての人種を絶滅することが自らの任務だと信じていました。しかし、この紀元はヒトラーに始まったものではなく、1859年、マックス・ミュラー(ドイツ)が、インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言語を話した住民は共通した民族意識を持ったとし、インド・ヨーロッパ語族を使用する人々をアーリアン(アーリア人)と呼ぶべきだと主張したことにあります。

ヒトラー
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)

 この理論はイギリスとドイツで特に盛んに主張されましたが、イギリスの場合はインドの植民地支配を正当化するために利用されたようです。ドイツでは、作曲家であるワーグナーなどが、アーリアン学説を肯定した上でドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると主張し、自民族の権威付けに用いました。この発想が後にナチスドイツに受け継がれたと考えられております。ユダヤ人の弾圧、大虐殺(ホロコースト)は600万人とも1000万人とも言われています。

【ナチスドイツの反ユダヤ政策】
 19年    ヒトラー「ユダヤ人全体を断固除去することが最終目標」との書簡
        以後、しばしばこれに類した演説を行う。
 33年03月 「反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令」
        :ユダヤ人商店に対する大規模なボイコット命令
        →私服ナチ党員によるユダヤ人店舗の破壊、暴行、殺害
 33年04月 「職業官吏団再建法」
        :公務員からユダヤ人を含む非アーリア人を追放
        →その後も弁護士や大学教授、医師、徴兵対象者も対象へ
        ※この頃からユダヤ人のドイツ国外脱出が始まった
 35年09月 「ニュルンベルク法」
        :ドイツ国民のユダヤ人は「国籍を保持するがライヒ市民ではない」
        →ドイツ人および類縁の血を持つ者との婚姻や性交渉を禁止
 37年12月 ユダヤ人資本の経営を解散、譲渡
 38年08月 ユダヤ人らしくない姓に変更することの禁止
 38年11月 武器を持ったユダヤ人を拘束、ユダヤ人の武器保有禁止
 39年04月 ユダヤ人が持つ旅券(パスポート)はすべて無効
        「J」の字が刻印された旅券が新たに交付
        ドイツ国籍および無国籍のユダヤ人より全財産の20%を没収
        損害を申請して保険金を受け取る権利を剥奪
        ユダヤ人の文化・娯楽施設への入場を禁止
 39年09月 ユダヤ人の独立経営、責任者になることの禁止
        (ポラーンド侵攻、第二次世界大戦勃発)
        占領地域におけるユダヤ人の隔離を開始
 39年11月 「すべてのユダヤ人は今後一切の慈悲無しに取り扱われる」との宣言
        以後、ユダヤ人の大虐殺が加熱

【ナチスドイツ 絶滅収容所と犠牲者数】
 ・アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 約1,100,000人
 ・トレブリンカ強制収容所 少なくとも700,000人
 ・ベウゼツ強制収容所 約434,500人
 ・ソビボル強制収容所 約167,000人
 ・ヘウムノ強制収容所 約152,000人
 ・ルブリン強制収容所 約78,000人
 ・Maly Trostenets 少なくとも65,000人

ヘスとアウシュビッツ
ルドルフ・ヘス所長とアウシュヴィッツ第一強制収容所


◇ 中東(パレスチナ)問題

 上述の如く、激しい迫害を受けたユダヤ人の間でシオニズム運動と呼ばれるものが発生します。すなわち、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動であります。
 第一次大戦中の1917年にイギリス外相が「パレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設とその支援」を約束したバルフォア宣言が出されており、第二次大戦後、1947年に国連によるパレスチナ分割決議を経て、1948年にイスラエルが建国され、ユダヤ国家が誕生しました。
 この際、パレスチナに住んでいたアラブ人たちは土地を失い、「パレスチナ難民」が発生しました。彼らはイスラム教を信じるアラブ人ですが、「パレスチナ難民」と呼ばれることで、「パレスチナ人」という民族意識を抱くようになります。「パレスチナ人の土地を取り戻す」との考えが強くなり衝突が起きるようになりました。これがいわゆる中東戦争で、大きなものだけでこれまでに4回起きています。しかし現在もこの地域はイスラエルが支配していて、その中にあるガザ地区とヨルダン川西岸地区という2カ所がパレスチナ自治区になっています。
 イスラエルとパレスチナの衝突は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の宗教対立のように見えますが、実は古代からの長い土地をめぐる争いなのです。

 中東(パレスチナ)問題
 :古代からのパレスチナをめぐるユダヤとアラブの争い



◇ 中東アラブ世界を複雑にした英国三枚舌外交

 上で第一次大戦中の1917年にイギリス外相が「パレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設とその支援」を約束、と申しましたが、実はこの頃、英国は別々に三つの約束をします。これは英国の「三枚舌外交」と呼ばれるもので、パレスチナをめぐるユダヤ人とアラブ人の争い以上に中東のアラブ世界を更に複雑にするものでありました。

【英国 三枚舌外交】
 1915年10月 フサイン=マクマホン協定(中東のアラブ独立 公開)
 1916年05月 サイクス・ピコ協定(英仏による中東分割 秘密協定)
 1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設 公開)

 第一次世界大戦中に英国が用いた「三枚舌外交」とは、中東地域を支配していたオスマン帝国を切り崩すためのものでした。アラブ人には「オスマン帝国が崩壊したら、ここをアラブ人の土地にしてあげる」と約束します(1915年、フサイン=マクマホン協定)。約束をエサに、オスマン帝国の中でアラブ人の反乱を引き起こそうと考えたのです。フランスとの間でもオスマン帝国崩壊後、領土を山分けしようという約束、1916年、サイクス・ピコ協定を結びます。そして、ユダヤ人には「戦争が終わったら、ここにユダヤ人のNational Home(ナショナルホーム)をつくることを認める」と約束します(1917年、バルフォア宣言)。ユダヤ人の資金が欲しかったのです。

 オスマン帝国崩壊後の土地領有に関する空手形

 フランスとの密約であるサイクス・ピコ協定によって、オスマン帝国崩壊後、現在のシリアやレバノンのあたりはフランスの支配下におかれました。しかし、その地域で独立運動の気運が高まり、フランスは人工的に国境線を引いてレバノンという国をつくります。いろいろな宗派が入ったモザイク状の国にすることで、住民が一致団結して独立運動を起こせないようにしたのです。この勝手な線引きはその後のレバノン紛争(1975年)の原因となりました。

 フランスの政策がレバノン紛争の原因

 また、イギリスは、支配下においたオスマン帝国の一部をクウェートとして独立させます。イラクにしてみれば、同じオスマン帝国だった州の1つを、勝手にイギリスがクウェートという国にしたことに不服を唱えクウェートに攻め込みます。これが湾岸戦争となっていきます。

 イギリスによるクウェート独立 → 湾岸戦争へ

 ユダヤ国家の建国のみならず、こうしたイギリスとフランスの支配をめぐる勝手な振る舞いが、さらに今の中東アラブ世界の紛争につながっているというわけです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/古代イスラエル
http://ja.wikipedia.org/wiki/出エジプト記
http://ja.wikipedia.org/wiki/バビロン捕囚
http://home.e06.itscom.net/life/web/gan/sikyugan/
http://ja.wikipedia.org/wiki/絶滅収容所
http://ja.wikipedia.org/wiki/パレスチナ問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/三枚舌外交


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