アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

「ドカベン」 故 香川 伸行 氏 の晩年とその家族


 プロ野球の南海・ダイエーで活躍し、「ドカベン」の愛称で親しまれた 故 香川 伸行 さんの家族が9月15日放送のTBS「爆報! THE フライデー」に出演したとの記事を見つけました。彼がつい3年前の2014年9月26日、心筋梗塞で他界したことは「出来事」のページでも写真入りでご紹介しました。

2014年 平成26年 下半期 出来事(第四版):エボラ出血熱、世界を揺るがすIS、長期化するウクライナ、米 白人警察官 黒人殺害

 故 香川 さんの記事には、彼のプロ野球引退後の運気の低迷と急逝、家族の苦しみからの立ち直りが端的に描写されております。まずは彼の略歴を簡単にご紹介いたします。1979年、浪商高校が甲子園で躍動した一員で、中日ドラゴンズ、ロッテオリオンズ、千葉ロッテマリーンズで活躍した 牛島 和彦 投手の女房役でありました。香川 選手は、華々しい高校時代とは裏腹にプロ野球選手としての記録は平凡でしたが記憶に残る選手でありました。

浪商時代の香川と牛島


◇ 故 香川 伸行 氏 略歴

 故 香川 伸行 さん(1961年12月19日 - 2014年9月26日)は、大阪府出身のプロ野球選手(捕手・内野手、右投右打)、野球指導者、野球解説者です。非常に横幅の大きな体格が、水島 新司 氏の野球漫画「ドカベン」の主人公、山田 太郎 に似ていたことから、「ドカベン」の愛称で呼ばれました。

1.高校時代

 浪商高校で 牛島 投手(前出)とバッテリーを組み、高校3年の1979年に第51回 選抜高等学校野球大会で準優勝、同年の第61回全国高等学校野球選手権大会では3試合連続本塁打を記録するなどの活躍を見せましたが惜しくも準決勝で敗退しました。1979年のドラフト会議で南海ホークスに2位指名されプロ入りしました。

2.プロ時代

 1980年7月8日、日生球場の対近鉄バッファロー戦、井本 隆 投手よりレフト場外への特大の初打席初本塁打を放ちました。直後のジュニアオールスターゲームに出場、MVPに輝きました。順調に成長を遂げた1983年には規定打席未到達ながら打率 .313、15本塁打でベストナインに選出されました。しかし、その後は太り過ぎにより成績が下降、1986年には三塁へのコンバートも経験しました。1987年に最初の夫人と離婚、1988年には再婚、南海が福岡ダイエーホークスに変わった1989年に戦力外通告を受け、同年限りで現役引退しました。

故 香川 伸行 氏 ホークス時代

3.引退後

 引退後はRKB毎日放送の野球解説者、日刊スポーツの野球評論家を務めた他、水島 新司 氏 がパッケージをデザインした讃岐うどんの通信販売も手がけ、長男の在学していた中学校の野球部コーチもしていたこともありました。
 讃岐うどんの通信販売は1998年で手放し、1999年に2度目の離婚、2001年に高校時代の恋人と、子連れ同士で再々婚しました。2002年に福岡市博多区中洲で居酒屋の経営を始め、香川 氏 見たさの客が多く当初は経営順調でしたが、糖尿病から腎不全に陥り人工透析が必要な状態となり、2005年には手放すこととなりました。2005年11月、社会人野球チームを結成しましたが翌年には撤退、退団となりました。
 2010年10月29日に開催された「プロ野球OBオールスターアスリートカップ」に出場し、吉永幸一郎 選手 や 藤本 博史 選手 などとともにパシフィック・リーグチーム選手の1人として打席に立て、これが野球選手としての最後の勇姿でありました。
 2014年9月26日、福岡県朝倉郡の自宅で倒れているところを家族が発見し、救急搬送されましたが死亡が確認され、死因は心筋梗塞、享年52歳でありました。


◇ ドカベン 故 香川 伸行 氏の晩年とその家族の記事

ドカベン香川の記事

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ドカベン香川さん、携帯電話持ったまま亡くなっていた
…妻に衝撃与えた通話とは


 プロ野球の南海・ダイエーで活躍し、「ドカベン」の愛称で親しまれた香川伸行さんの家族が15日放送のTBS「爆報!THE フライデー」(金曜後7・00)に出演。14年に52歳の若さで死去した香川さんは、携帯電話を持ったまま自室で孤独死していたことが明らかになった。

 1989年の現役引退後、野球評論家として活動していた香川さん。離婚経験のある香川さんは2001年、バツイチだった弘美さんと結婚。子宝にも恵まれ、互いの連れ子も合わせて6人家族となった。

 妻・弘美さんは結婚後に香川さんの糖尿病を知り、食事を節制するように促したが、支持者との会食など目が行き届かない場所では管理ができず、気がつけば現役時代110キロだった体重は138キロに。身体にも不調をきたすようになるが「なるようにしかならへん」と病院通いを拒んだ。

 香川さんは楽観的な性格だったが結婚7年後、最悪の事態を招く。07年、糖尿病が影響し腎不全に。身体障害者1級となり、人工透析を一生続ける生活を余儀なくされた。定職に就いて仕事するのが困難となるも、子どもたちはまだ学生。経済的な問題が弘美さんに重くのしかかった。

 長男は学費が支払えず大学を中退。弘美さんの連れ子だった長女は香川さんに馴染めず猛反発。さらに次女と三女が不登校になってしまう。中学教師の弘美さんにとって、あってはならないことだった。“なんでこんなことに…”と嘆くも、香川さんは「学校に行きたくないなら、ええんちゃうか」とサラリ。子どものピンチにも楽観的な夫が許せず、思わず怒りを爆発させてしまう。

 家族がバラバラになる前に、正常な家族に戻りたいと思った弘美さんは、中学教師を辞めてパート勤務に。生活が苦しくなるのを覚悟の上で家族の時間を優先させた。だが14年9月26日、夫婦に最後の日が突然訪れる。この日、弘美さんは介護ヘルパーのパートに出掛け、香川さんは人工透析から帰宅し自室で一人過ごしていた。弘美さんが仕事を終えると携帯電話に着信が。帰宅した娘からで「パパが動かん…。声掛けても返事せん…」と香川さんの異常を知らせる電話だった。

 駆けつけた弘美さんが見たのは部屋で倒れていた夫の姿。このとき急性心筋梗塞を発症していて、救急搬送されるも既に息を引き取っていた。

 孤独な旅立ちとなった香川さん。発見された時には携帯電話を手にしていたが、通話履歴を見て弘美さんも知らなかった事実が判明する。香川さんは死ぬまでの1、2時間の間に知り合いにに電話を掛け続け、仕事を探していたのだ。関係者によると、亡くなる数カ月前から必死に職探しをしていて、その努力は実を結び始めていたという。

 天国に旅立って3年。家族にも変化が起こり、次女は自ら通信制の高校に通いはじめ、三女も高校受験を目指し勉強に励むようになる。長女はパティシエとして働き、長男は社会人として自立。弘美さん自身も仕事を楽しめるようになったという。弘美さんは、香川さんの口癖「なるようにしかならへん。ええんちゃうか」は“周りに惑わされる必要はない”という意味だったのではと捉えるようになり、今は前を向いて頑張れるようになったと、心の中の夫に感謝した。

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 第二の人生に苦しみながらチャンスを拾おうとしている矢先に逝った彼の姿を後から知ったご家族が、もう一度、彼の分まで人生を取り戻しつつある現状に胸を打たれます。必ずや、人気者の「ドカベン」こと、故 香川 伸行 さん が見守っているでしょう!と申し上げます。謹んでご冥福をお祈りいたします。

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