アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

がん患者の臨終に垣間見る日本人の死生観


 先日の日曜日の午後、久しくなかったご臨終に遭遇し、いわゆる「看取り」を行いました。もうそろそろ30年の医者生活で、無数の患者の死に触れて来て、いつも同じ、家族の反応もほとんどいつも通りである様を見て、「日本人の死生観」を垣間見た気がいたしました。

◇ 直近とこれまでの看取り症例から

 日曜日の患者は79歳男性、若くはないものの、すごくご高齢でもなく、大腸がん術後再発による終末期の状態でありました。骨と皮にやせ細り小さくなった身体から呼吸が失われ、心電図のモニターがフラットになったところで病棟に呼ばれました。がん患者の最期は明白であり、確かめるまでもないところですが、型の如くペンライトで対光反射がないこと、聴診器で心音、呼吸音がないことを確認し、言葉を發することなく、集まった遺族に向かって一礼した後に両手を合わせて合掌、患者に深々とお辞儀をしました。無言の死の宣告であります。
 病院の個室にお集まりいただいた関係者は、奥さんと、長男、長女、次女にその子供たち、つまりお孫さんたち、それに患者の友達なのか兄弟なのか、年配の男性が2人ほどでした。静寂の中、奥さんと思われる女性が「ありがとうございました」と頭を下げました。目は潤んでいるようでしたが、涙を流すことはなく、声はしっかりとしておりました。私の死亡確認の行為に対してではなく、長くお世話になった病院に対するお礼のその言葉以外に声を発する人はなく、皆が冷静であり、厳かで落ち着いた空気が漂う病室を後にしました。

看取りの場面 写真

 老若男女、慢性または急性、様々な病気や外傷で、いろんな種類の「人の死」がありますが、私が遭遇して来たのは、お年を召された方のがん死が最も高い頻度でありました。ですから、「人の死」としてはごく一部を見ているに過ぎません。そうした母集団に関して言えば、今回の患者と同様に、多くの症例で、その家族は患者の死を受け入れており、涙することはあっても、穏やかな表情は、声を荒げることなく、泣き叫ぶこともなく、厳粛にその時を迎えて、いかにも死にゆく身内を優しく送り出す豊かな心境を感じます。
 米国留学の際にいくつかの死を目の当たりにし、身内の臨終に触れて、大声を挙げて泣き叫ぶ白人も黒人もいましたし、病室に神父と思しき人物を入れて聖書の朗読をいただき、必死に心を鎮める遺族もおりました。圧倒的に日本人に対する経験の方が多いので比較しようはないのですが、「人の死」に対する受け入れ方が日本人と、私が見た数少ないアメリカ人では違った印象でおりました。


◇ 日本人の意識調査から

 「生活点検 1992-2016」と言う日本人へのアンケートに基づく意識調査のサイトがあります。その中で、宗教を信じる日本人は23.8%と二割そこそこでありました。一方、来世を信じる人は30.7%であり、霊魂を信じる人は32.2%とそれぞれ三割を超えてきて、これらはこの15年間でほぼ変わらない数字であり、年代別では60歳以上で低く40歳代の方が高い割合でありました。

生活点検ホーム 写真

 このことは、日本人の「死」に対する感性が、欧米人のそれとは異なり、キリスト教やイスラム教、もちろん仏教などの、宗教に立脚したものではなく、もっと以前の民族に備わったものであることを伺わせます。日本人の死生観が、宗教として教えを受けたものでも、信仰に基づくものでもない、いわゆる国民性であること、それは我々、一般的な日本人が実感していることであることは言うまでもないことであります。


◇ 日本人の死生観を垣間見る事象

 なかなか他国との比較は難しいのですが、日本人固有の死生観をうかがい知る事象がいくつかあります。上で申し上げた国民感情に関するアンケートもその一つであります。

1.「死出の旅立ち」へ向けた行い

 当ブログでも取り上げました「人の死」に際しての行いとして、旅立つ死者に化粧を施す「死化粧」があり、これは映画「おくりびと」でも、納棺師の神聖な仕事を紹介しつつ、「死」が遠く新しい場所に通じる扉に過ぎないと言う信念を伝えております。

2.「死」における落ち着きと冷静さ​

 上の看取り症例で描写したものと重なりますが、日本人は、親戚や家族、親しい人が亡くなっても、声を張り上げて泣き叫ぶことはほとんどなく、涙を流す姿さえあまり見ないとされます。葬式に参列している人は、すでの現実を受け入れた表情で、動じず、落ち着いていることが多く、一方で、スピーチに際しては、「(先に他界した)○○ともう会ったかしら?」、「(あの世から)私たちを見守って下さい」と、「死」と言うものは、やはり新しい世界への移動であり、生きている現世と連続した世界に繋がるものとの概念が見られます。

3.武士道精神における死生観

 古代の武士道に、「夏の花の如く艶やかに生き、秋の枯葉の如く穏かに終りを迎えよ」という精神がありました。また日本の武士道には桜の花に例える部分がありました。桜は咲いてから散るまでが七日間に過ぎないという意味の「花七日」という言葉がありますし、日本の軍歌には「同期の桜」と言う歌があり、咲きながら散っていく桜の花は、はかない命のようで、美しく生き、清く死ぬという武士道の精神を歌っております。「命を惜しむことは恥」であり、生きていることは常に「死」と隣り合わせである発想が見え隠れいたします。

4.日本の自然環境が「仏」の発想へ

 生きていることは常に「死」と隣り合わせと申しましたが、これは身近に思い当たる節があります。直近では九州北部に豪雨災害がありました。日本は古来から災害が多い自然環境であるため、昔から、日本人は人生ははかないものであることを悟り、死ぬと清らかで、万物を超越した存在になるという意識が少しずつ形成されてきたことが考えられます。良い人も悪い人も、死ねば潔白で、皆が「仏」になれるという意識が形成された可能性です。

5.墓地や仏壇の局在

 より身近な発想として、日本の墓地が住宅街付近にあり、また、家庭によっては仏壇を置いて死者と家で共存しようとする現実があります。これは、日本人にとって、生と死後がいかに近いものであるかを表しており、霊魂が不滅であるとする日本人の死生観を示す事象であります。


◇ あとがき

 あるがん死の患者の看取りから日本人の死生観にまで持論を発展させました。「人の死」には様々な場合がありますし、同じがん死であっても、若い人の、現世への強い心残りなど、その死を遺族が受け入れられない場合は少なからずあります。これが事故であったり、災害でも、不測の事態であれば、それは一元的に規定されるものではありません。そうした流動性を持たした上で言えることは、死は命の一部であり、尊厳を持って生き、尊厳を持って死に、死んでからも霊魂は新たな旅に出る、と言う死生観が日本人にはあると考えられます。

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