アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

大洋〜横浜を盛り上げた主役たち VOL.003 球団史上No.1投手は「白鳥の舞い!」平松 政次 投手


 大洋〜横浜に関わった選手、監督、コーチなどをご紹介するコーナー、3人目はオールドファンであれば外すことはできない 平松 政次 投手です。「カミソリシュート」の異名を取る高速で凄まじい切れ味を誇るシュートを武器に、1967年 大洋ホエールズ入団、1978年より1984年まで横浜大洋ホエールズで、大洋〜横浜一筋18年間のプロ生活、球団史上最多イニング数を誇り、唯一の200勝投手であります。

平松投手 投球02


◇ 大洋で201勝の平松政次氏、殿堂入りに涙「夢ではないかと」

 まずは、本年1月16日、エキスパート表彰で野球殿堂入りが発表された記事のご紹介です。

平松氏殿堂入りの記事

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 今年の野球殿堂入りが16日、都内の野球殿堂博物館で発表され、プレーヤー表彰で西武黄金時代の捕手として活躍したロッテの伊東勤監督(54)、エキスパート表彰では、監督として3球団でリーグ優勝した星野仙一氏(69)と元大洋のエース・平松政次氏(69)が選出された。

 受賞あいさつの開口一番に平松さんの正直な気持ちがあふれ出た。「この場に立っても、まだ夢ではないかと思います」。そう言うと、自ら頬をつねった。

 エキスパート部門で、ずっと次点に甘んじてきた。「若手がどんどん出て来て、今年は原(辰徳)君も(候補に)入って来た。後輩に抜かれ、もう入れないと思っていました」。電話で連絡を受けた時「涙が出た」のは、大げさではない。

 通算201勝。球団では唯一の200勝投手。実績は申し分ない。代名詞のカミソリシュートは、入団3年目のキャンプで初めて投げた。先輩の近藤昭仁、和彦から「大した球がないな。他の球は投げられんのか」と言われてかっとして、ろくに練習もしていないシュートを投げてみたら、これが大きく変化した。「シュルシュル」と音がしたという魔球伝説の始まりだ。

 巨人キラーとしても鳴らした。巨人戦51勝47敗。通算勝利数は国鉄時代の金田正一さんの65勝に次ぎ2位だが、金田さんが負け越している(72敗)のに対し、勝ち越しているのも大きな勲章になる。同郷の1年先輩で、高校時代からライバルでもあった星野仙一さんとの同時受賞。ともに巨人入団を夢見ながら果たせず、そのあこがれのチームに勝つことで存在価値を見いだしてきた。闘将・星野がナゴヤ球場のベンチの扇風機を殴って壊したシーンを、平松さんは司会を務める「プロ野球ニュース」の珍プレーで紹介しているが、平松さんにも交代させられたベンチで、扇風機を利き腕の右手で殴って壊して、骨折しかけた経験がある。長嶋さんの内角をえぐったシュートは、そんな激しい闘争心を体現したものだったのだろう。(洞山 和哉)

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◇ 略歴

 1947年(昭和22年)9月19日生、6人兄姉(男2人、女4人)の末っ子、岡山県高梁市の出身、174 cm 74 kg。3歳で父親と死別しております。ここでは、平松 投手の略歴を客観的データ、記録に加え、私個人の記憶、私見を交えてご紹介いたします。

1.1965年 甲子園で優勝投手

 岡山東商業「平松 政次」が全国にその名前を知られたのは1965年(昭和40年)春の、第37回 選抜高校野球大会でありました。前年の秋季中国大会決勝で米子東高校に敗退、準優勝の成績を経ての甲子園出場でありました。

【第37回 選抜高校野球 岡山東商業の戦績】
 一回戦  岡山東商 7-0 コザ高(沖縄)
 二回戦  岡山東商 1-0 明大附属明治高(東京)
 準々決勝 岡山東商 3-0 静岡高(静岡)
 準決勝  岡山東商 1-0 徳島商(徳島)
 決 勝  岡山東商 2-1 和歌山商(和歌山)

岡山東 平松

 平松 投手は、ほとんど速球ばかりで、一回戦から準決勝まで、戦後初の4試合連続完封で勝利しました。決勝の相手は元阪神タイガースで同学年の 藤田 平 選手がいた和歌山商業で、その4回の表に失点するまでの39イニング連続無失点の大会新記録を樹立し、延長13回サヨナラ勝ちで優勝投手となりました。
 同年夏の県大会予選、準決勝で元ヤクルトスワローズのエース、倉敷商業の 松岡 弘 投手に投げ勝ちました。決勝では元東映フライヤーズでドラフト1位、高卒ルーキーでプロ初登板初完封した、関西高校の 故 森安 敏明 投手と投手戦を演じ、延長11回 2対1、サヨナラ勝ちで春夏連続の甲子園出場となりました。しかし、甲子園では一回戦の日大二高戦で8安打4失点を喫し敗退、涙を飲みました。

2.1966年 日本石油入り

 1965年11月17日、第1回ドラフト会議で中日ドラゴンズより4位指名を受けました。中日との入団交渉では契約金の上限である1000万円を超える2000万円をテーブルの上に置かれて「好きなだけやる」と勧誘されたそうですが、これを拒否、月給2万3000円の日本石油に入社しました。

 初めてのドラフト 中日 4位指名を拒否

 これについては、本命が巨人軍であったのに指名されず、との解説をよく目にしますが、負けず嫌いな 平松 氏の性格を考えると至極当然のことでありました。日本プロ野球で初めて開催された、手探り状態のドラフト会議ではありましたが、それでも指名順位はプロ球団からの評価の高さを意味しておりました。平松 投手は4位指名でありましたが、同じ岡山県で凌ぎを削った前出の 森安 投手は東映フライヤーズとサンケイスワローズからの1位指名でありましたし、憧れの巨人軍は、甲府商業で甲子園出場経験のない 堀内 恒夫 投手を1位に指名しました。甲子園の決勝で対戦した 藤田 平 選手は阪神タイガースの2位指名と、ことごとく同学年の高校生が自分より上位のドラフトで指名され、これは気の強い負けず嫌いの平松 氏には我慢がならなかったのだろうと思います。

3.1967年 日本石油で優勝後 大洋ホエールズに入団

 日本石油では都市対抗ベスト4進出に貢献するなどの活躍で日本代表入り、憧れの巨人スカウトからは1位の確約を得ていましたが、翌1966年の第2回第2次ドラフト会議において(大分国体不出場が第1次に対して国体出場が第2次)、巨人の1位指名は立教の 槌田 誠 捕手でありました。巨人は南海ホークスとの抽選の末に 槌田 選手を獲得しましたが、もし槌田 選手を外していれば 平松 投手を1位指名する予定だったとされます。

 憧れの巨人 1位指名の確約は裏切られ

 第2次ドラフト1位で近畿大学の 故 山下 律夫 投手を指名した大洋ホエールズが 平松 投手を2位に指名しました。平松 投手は大洋への入団を快諾せず、交渉は翌年までも持ち越されました。岡山東商業の大先輩で大洋の主力選手であった 故 秋山 登 投手と 土井 淳 捕手が説得にあたり、「長嶋さんと勝負するのも一つの男の道」と言われ、平松 投手は都市対抗で優勝したら入団すると約束しました。1967年8月8日、都市対抗野球決勝で日本楽器を5安打完封に抑え、日本石油を優勝に導き、MVPにあたる橋戸賞を獲得、2日後の8月10日、入団しました(背番号3)。

秋山と土井 写真
岡山東商業〜明治大学〜大洋にまで18年間バッテリーを組んだ 故 秋山 登 投手(左)と 土井 淳 捕手(右)

 ちなみに1966年のドラフトにおける大洋は、第1次で8人、第2次3人の計11人を指名しましたが、6人に拒否され、入団したのは前出の 山下律 投手、平松 投手、松岡 功祐 内野手(第1次ドラフト1位、サッポロビール)ら5人でありました。

4.プロ入り直後

 大洋入団からわずか6日後の1967年8月16日、広島東洋カープ戦でプロ初登板しましたが、後に「平松キラー」と呼ばれた 藤井 弘 内野手に2本塁打を浴びてプロの洗礼を浴びました。しかし、中3日で先発した8月20日のサンケイスワローズ戦では岡山東商業の大先輩である 土井 捕手のリードで、99球、わずか4安打、三塁を踏ませない完封でプロ初勝利を飾りました。結局、初年度は3勝4敗で終わりましたが2完封でしたので2年目に大きく期待されました。
 ところが、背番号が27に変わった2年目の1968年は、7連敗を経験し、5勝12敗と大きく負け越しました。当時の 平松 投手は代名詞の「カミソリシュート」はなく、カーブやスライダーも曲がりが乏しい、本人曰く「間違いなく150 km/hは出ていた」速球一本やりの投手で、当人はひそかに「俺のプロ野球生活は3、4年で終わりだな」と覚悟したと言います。

70年代の平松投手

5.1969年「カミソリシュート」を会得して全盛期へ

 1969年、後述するキャンプでのある出来事で「カミソリシュート」を身につけた 平松 投手は、この年は14勝12敗、防御率2.56と頭角を現し、翌1970年には生涯で最高のシーズンを送りました。初の開幕投手を務めて、51試合38先発(リーグ1)23完投6完封5無四球(リーグ1)25勝(リーグ1)19敗(リーグ1)182奪三振 防御率1.95の成績を収め、最多勝、球団史上初の沢村賞、セ・リーグ ベストナインにも選出されました。1971年も開幕投手を務め、17勝(13敗)で2年連続の最多勝、ベストナインに輝き、阪神タイガースの 江夏 豊 投手(1968年25勝、1973年24勝で最多勝)、読売ジャイアンツの 堀内 恒夫 投手(1972年26勝で最多勝)とともにリーグを代表する投手となりました。

江夏と堀内 写真
江夏 豊 投手(左)と 堀内 恒夫 投手(右)

 巨人の 堀内 投手が鋭く曲がるカーブを武器にしていたのに対し、ホップするストレートを武器とした 江夏 投手、シュートで右打者の胸元をえぐる 平松 投手の投球は威力抜群で、V9の巨人でコーチを務めた 故 牧野 茂 氏がラジオで「1970年代の 江夏、平松 は打とう立って打てる投手ではありませんでした。ただひたすら投球数が数えて衰えを待つのみでした。」と解説されておりました。以下に 平松 投手の年度別成績を供覧いたします。

平松投手年度別成績

6.計9回の開幕投手

 平松 投手がチームのエースとなって3年目の1972年は記録上の開幕投手は 山下律 投手ではあり、平松 投手ではありませんでした。これは、この年の4月9日、対ヤクルト開幕戦に先発登板したものの2回降雨コールドでノーゲームとなったためでありました。故障のため本当に開幕投手が務められなかったの1977年、腰痛でキャンプ不参加となった年が初めてでありました。従って、彼は1970年から1976年までの7年連続を含む計10回の開幕に指名され、記録上は計9回の開幕投手を務めました。これも密かに大洋〜横浜球団の記録であります。

【大洋〜横浜で開幕投手2回以上の投手(敬称略)と連続年数】
 平松 政次  計9回(登板は4年、指名は7年連続が最高)
 三浦 大輔  計7回(4年連続が最高)
 遠藤 一彦  計5回(5年連続)
 稲川  誠  計3回(3年連続)
 斎藤 明夫  計3回(2年連続が最高)
 権藤 正利  計2回(2年連続)
 大石 正彦  計2回(2年連続)
 高野 裕良  計2回(2年連続)
 森中千香良  計2回(2年連続)
 中山 裕章  計2回(2年連続)
 有働 克也  計2回(2年連続)
 盛田 幸希  計2回(2年連続)
 秋山  登  計2回(連続はなし)
 野村 弘樹  計2回(連続はなし)

 大洋〜横浜の開幕投手の記録を調べて驚いたのは、平松 投手の前の大エース、秋山 投手が2回だけで、しかも1961年と1966年と飛び飛びであったことでした。故障や監督采配などの諸事情があったのだろうと思いますが、必ずしも開幕投手だけがチームのエースではないと言えるでしょう。一方で、2009年の 三浦 大輔 投手を最後に、2010年から今年までの8年間(ランドルフ、山本、高崎、藤井、三嶋、久保、井納、石田 各投手)、横浜の開幕投手は、連続は愚か2度目の開幕投手を務める人材は出現しておりません。長期にチームのエースに君臨する投手が不在である証であり、平松 投手の開幕投手9回の球団記録に迫る投手の出現が待たれるところです。

7.12年連続二桁勝利

 1970年より球団記録、9回の開幕投手を務めましたましたが、2度の最多勝以降は、1973年17勝、1974年15勝以外は、概ね13勝止まりのシーズンでありました。それでも毎年Bクラスの弱小球団において計12回12年連続の二桁勝利はまぎれもなく球団史上No.1でありました。

【大洋〜横浜での主な投手(敬称略)の年間二桁勝利の回数と連続年数】
 平松 政次  計12回(12年連続)
 秋山  登  計9回(9年連続)
 遠藤 一彦  計7回(6年連続が最高)
 三浦 大輔  計7回(2年連続が最高)
 斎藤 明夫  計6回(3年連続が最高)
 野村 弘樹  計6回(3年連続が最高)
 稲川  誠  計5回(5年連続)
 権藤 正利  計5回(2年連続が最高)
 高野 裕良  計4回(4年連続)
 山下 律夫  計4回(2年連続が最高)
 斎藤  隆  計3回(3年連続)
 鈴木  隆  計3回(2年連続が最高)

 ただ、1977年、1978年、1980年の10勝はシーズン終盤の、当時で言う所の「消化試合」における10勝到達で、記録のための登板であり勝利であったとの印象もありました。

8.翳りを見せ始めた28歳の1975年

 投手にとって記録上の勝利や敗戦の数は打撃陣などチーム事情の影響を少なからず受けますが、登板数の減少は監督采配に加えて衰えや故障など個々の選手側の要素が反映されます。平松 投手のシーズン登板数は68-70年が50試合以上、71-74年が40試合以上を数え、これは、当時としては当然でも、現代のプロ野球における先発ローテーション投手では考えられない数字であり、これは当時の先発登板の間隔が短いうえに、先発のみならずリリーフでの登板もあるからです。昨年のセ・リーグ最多勝(16勝3敗)、広島の 野村 祐輔 投手は25試合の登板が全て先発であり、68-74年の 平松 投手の年度別成績と比較いただけば、その違いは一目瞭然であります。

 当時としては当然でも 現代では考えられない登板数をこなして来て

 1975年の 平松 投手は突然、登板数が28と減少しました。リリーフでの登板が前年の16から6と激減しておりますが、先発も前年の30から22に減りました。この原因として、前年までが野手出身の監督ばかりであったのが、この年は投手出身の 故 秋山 登 氏に変わったことはあるでしょう。一方、古い選手名鑑では 平松 投手自身が「恋に落ちて」との記載があり、実際のところはわかりませんが、事実、彼は翌年、洋子 夫人と結婚しました。
 1976年は41試合の登板と奮起しましたが、13勝17敗で防御率は3.81と必ずしも満足いく成績ではなく、それ以後、シーズン登板数が40を超えることはなく、普通の先発投手になりました。

平松 川崎時代

9.カーブを磨いて1979年 最優秀防御率

 20代前半にフル回転であった彼のキャリアにおいてはすでに晩年に当たる32歳の年、横浜に移転して「横浜大洋ホエールズ」となった2年目の1979年に最後の輝きを見せました。この年は 故 別当 薫 監督にとって最後の采配が噂されておりました(後述)。平松 投手は僅かながらのイメージ・チェンジを図りました。それはカーブであります。元々、本人曰く「僕のカーブはカーくらいしか曲がらない」と、それほど特徴的なカーブではありませんでした。ところが、1977年の新人で大きなカーブを駆使する 斎藤 明夫 投手の影響を受けたからかも知れませんが、平松 投手は大きくタイミングを外すカーブを携えて開幕に及びました。

 大きく曲がるカーブを習得して開幕へ

 さて1979年4月7日、開幕戦の相手は前年に球団史上初のリーグ優勝、日本一にも輝いたヤクルトスワローズ(広岡 達郎 監督)でありました。ヤクルトの先発は、前年に16勝をあげた同郷の 松岡 投手(前出)でありましたが、田代 富雄 内野手の猛打が爆発、1試合3本塁打を記録して味方は9得点、投げては 平松 投手、胸元をえぐるカミソリシュートとドロンと曲がる大きなカーブが面白いように決まり、3安打14奪三振の完封と、最高のスタートを切りました。中4日で先発した4月12日、広島戦では7回までパーフェクト、8回一死から 水谷 実雄 選手に対する四球で初めての走者を出し、9回の先頭バッター、この年は11本しかヒットがなかった 内田 順三 選手に初ヒットを打たれましたが、1安打に抑えて2試合連続完封勝利を収めました。さらに中4日で登板した4月17日の中日戦でも5回まで無失点に抑えて、開幕から23イニング連続無失点を記録しました。

平松フィニッシュ写真

 この年、平松 投手の完封勝利は計3回でありましたが、その3度目の完封は5月9日の横浜スタジアム 対阪神4回戦で、この試合は記録づくめとなりました。阪神の先発投手は、江川 卓 投手との交換トレードで巨人から移籍した 故 小林 繁 投手で、この年の彼は巨人戦の8勝負けなしを含む22勝で沢村賞に輝きましたが、横浜大洋には1勝4敗でありました。この日の試合で、横浜大洋 基 満男 内野手は1打席目から4打席目まで、プロ野球タイ記録となる4連続二塁打を放ち、チームは21得点を挙げました。投げては 平松 投手、6安打10奪三振 無四球完封、21点差の完封は記録的でありました(現在のところ最多特点差の完封試合は2006年3月27日、楽天0-26千葉ロッテ)。

田代と基 写真
田代 富雄 選手(左)と基 満男 選手(右)

 この年の 平松 投手、オールスターまで8勝2敗の好成績でチームを引っぱり、防御率2.39で自身初、唯一の最優秀防御率に輝き、打率 .346で首位打者の フェリックス・ミヤーン 内野手らと共にチームを15年ぶりの2位に導きました。

10.1981年 故障から 1982年 再生と「政次ボール」

 1980年、別当 監督から 土井 淳 監督に引き継がれたこの年、前年の活躍による疲労が残っていたのか、平松 投手にはだいぶ衰えが見られました。規定投球回到達としては生涯唯一の防御率4点台で(4.30)、10勝目到達はシーズン最終戦となる10月23日のヤクルト戦でありました。
 翌1981年は横浜大洋が42勝80敗と記録的な大敗で最下位となった年ですが、その大きな要因の一つに 平松 投手の故障がありました。前年に続いてアリゾナ州メサで春のキャンプを行いましたが、3月11日の対アスレチックス戦の登板で打球を左足に受け退場、シーズン開幕は二軍スタートとなりました。この年の初登板は6月25日の巨人戦と出遅れ、17試合6勝7敗1セーブと、ついに連続二桁勝利は途絶えてしまいました。この時点で183勝、球団最多勝194勝まで11勝(故 秋山 投手が193勝)、200勝までは17勝となりました。
 1982年のシーズン、長嶋 茂雄 氏の監督招聘を目論んだ横浜大洋球団は 長嶋 氏と親交が深い 関根 潤三 氏を監督としました。実はあまり知られていず、本当のところは違うのかも知れませんが、この 関根 監督就任が 平松 投手に200勝を達成させたと言う私見を持っております。関根 監督は春のキャンプで「平松を再生させる」と明言し、自身の法政大学時代の監督で、近鉄バッファローズの監督も務めた 故 藤田 省三 氏を臨時コーチに招きました。

関根監督と藤田省三氏
関根 潤三 監督と 故 藤田 省三 氏

平松投手フォーム改造

 藤田 氏は 平松 投手のテイクバックが大きすぎることを指摘しました。上の写真の左側が1970年代当時の投球フォームで右が 藤田 氏に修正を受けた後のものであります。背中を打者の方に、右腕は一塁側に向けるような大きなテイクバックから引っ張って来てリリースする投球は、左右の腕のバランスが悪く、もうこの時、35歳となる 平松 投手にはコントロールに難が生まれ、故障の原因となるとの判断でありました。ボールを持った右手とグラブの左手を体の中心から同時にわる(開く)、後述する「わりの理論」に立ち返り、大きすぎるテイクバックを是正して左手をより活用する投球フォームとしたのです。

  「わりの理論」でテイクバックをコンパクト化、フォーム改造

 結果、少しコンパクトにまとまった感のある投球フォームとなりましたが、やや肘が下がって横手投げになりつつあったのが改善され、投球における体の上下動も左右動も是正された、投球に安定感が戻って来た、そんな印象がありました。フォークボールの握りでボールの縫い目に指をかけることにより、無回転に近く揺れて落ちる「政次ボール」を開発したのもこの年であります。これも200勝に向けた秘密兵器でありました。平凡な数字ではありますが、この年、25試合25先発9勝10敗と復活を遂げ、いよいよ200勝まで8勝となりました。

  「政次ボール」は200勝への秘密兵器

 全くの余談ですが、この 故 藤田 臨時コーチの指導があって(だと思いますが)再生した投手がもう一人いました。1978年のドラフト1位、当時としては珍しい子持ちの大学生で「子連れ狼」と呼ばれた 門田 富昭 投手です。右の本格派で、快速球を低目に投げて巨人 王 貞治 選手からも三振を取り、39試合5勝11敗1セーブでありました。残念ながら、右腕だけで投げる投球フォームと酷使がたたって肩を壊してしまい、79年は1試合、80年6試合のみ、81年の一軍登板はありませんでした。彼も「わりの理論」で無理のない投球フォームを獲得して、82年は30試合26先発8勝9敗と復活しました。

11.1983年10月21日 200勝達成

 この年は左太もも痛で出遅れ、初登板は5月19日の巨人戦でしたが散発3安打に抑え、上述の1979年5月9日 阪神戦以来4年ぶり、自身通算28回目、生涯最後の完封勝利でありました。5月26日の対ヤクルト戦では5安打1失点の完投勝利を挙げて通算194勝は 秋山 投手を抜いて球団最多勝利となりました。6月18日には巨人戦で6回1/3を7安打1失点に抑えて巨人戦通算50勝目をマーク、その6日後の6月24日の阪神戦では当時史上22人目の600試合登板を達成と、まさにプロ生活の集大成の年でありました。

 対巨人50勝と通算600試合登板

 10月21日(金)、その10日前にセ・リーグの優勝を決め、西武ライオンズとの日本シリーズに備えて調整段階に入った巨人との一戦がデーゲームにて後楽園球場で行われました。私は、レフトスタンドのまばらな観客の中におり、試合開始前からシトシトと雨が降っておりましたが、傘をさしていたのは若い女性一人くらいで、大洋ファンは皆、雨に濡れながらの応援でありました。
 一回表の攻撃、巨人の先発ピッチャーはこの年15勝を挙げた 西本 聖 投手でありましたが、いきなり1番 高木 豊 選手がライトへの12号 先頭打者ホームランを放ち、連打とジム・トレーシー 選手の一発(18号)も飛び出して、1、2回で7点を挙げて 西本 投手をKOしました。

高木豊とトレーシー
高木 豊 選手(左)と ジム・トレーシー 選手(右)

 平松 投手はいつもながらの落ち着いた立ち上がりで4回まで巨人打線を0封に抑えましたが、雨は間断なく降り続け、8-0と横浜大洋がリードを広げた直後の5回裏には2点を返され、さらに6回裏、連打でピンチを迎え、レフトへの平凡な飛球をルーキーの 西村 博巳 外野手が雨水で足を滑らせて捕球できずに転倒(記録はヒット)、4点を返され試合は8-6、そんな様相の中、さらに降雨は激しくなって参りました。
 これでは試合中断だろうと思われた矢先、審判団が集まって来て、その直後に右手を挙げた主審より「ゲーム」のコール、平松 投手はマウンド上でガッツポーズ、その瞬間、平松 投手の史上19人目、200勝が達成されました。2017年現在、甲子園の優勝投手で、投手として名球会に入っているのは 平松 投手だけであります。

 W  5 2 0 0 1 0 |8
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 この試合、球場に行くだけではなく、ラジオのニッポン放送ショウアップナイターを録音しましたので、深澤 弘 アナウンサーの実況を再現いたします。

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 降り続く雨の中、さあ審判団が集まってまいりました。なにやら協議を初めて、おっと!、ゲームです! ゲーム! この瞬間、平松 政次、200勝利達成です。平松、マウンドで両手を挙げます、すごい歓声です。あっ!、選手たちがマウンドに集まって来ます。これから胴上げです、胴上げ! 平松 投手の体が1回、2回と宙に舞います。

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平松200勝胴上げ

おめでとう平松 写真

 平松 投手の200勝は大洋〜横浜球団生え抜き選手として初の名球会ではありませんでした。平松 投手200勝達成の約3年6ヶ月前の、1980年4月23日、対阪神4回戦 横浜スタジアムにて、1回裏、松原 誠 選手がサイドハンドスローの 長谷川 勉 投手よりライナーで左越3ランホームランを打ち、これは大洋〜横浜球団生え抜き選手として初、史上12人目となる、 松原 選手 2000本安打の瞬間でありました。1978年に横浜移転、79年には2位と躍進して 別当 監督は勇退、80年、生え抜きの優勝経験者である 土井 監督に引き継がれた矢先の球団初の名球会選手出現に、ファンとして胸踊る気持ちであったのが思い出されます。

松原誠選手
松原 誠 選手

 ところが、松原 選手は日本プロ野球選手会を社団法人化させて選手会長として球団と議論を重ねており、その活動が大洋球団に良く思われていなかったとされます。この1980年は自身15年ぶりに100安打に到達しない不成績で、膝の故障もあり、オフには巨人 古賀 正明 投手との交換トレードで移籍となりました。「巨人に移籍しても嬉しくない。大洋で優勝するのが目標だった」と会見で涙したのが思い出されます。
 球団として初の名球会選手で将来の監督候補と考えられていた 松原 選手をこうした形で放出した球団に絶望感を覚えた、そんな1980年代初頭であり、83年の 平松 投手200勝達成は大洋〜横浜ファンにとって、再び球団に対して誇りを持てる出来事となったのでありました。

12.1984年 最後のシーズン

 もはや満身創痍(まんしんそうい)で迎えた1984年は 平松 投手にとって最後のシーズンとなりました。中6、7日での先発起用が続きますがなかなか勝ち星に恵まれません。5月10日の広島戦で 山根 和夫 投手より三振を奪い、史上10人目、当時の大洋球団としては初の2000奪三振を達成しましたが(現在の球団記録は 三浦 大輔 投手の2481奪三振)、6長打を浴びて敗戦、5月24日の神宮、ヤクルト戦は2発を含む7安打で5失点の敗戦など、開幕から4連敗のスタートとなりました。6月24日、長野におけるヤクルト戦、平松 投手は8回を6安打6奪三振で無失点、シーズン初勝利、これが彼の生涯最後の勝利となりました(201勝は球団史上最高)。オフには引退となりました。

13.引退後

 引退後はフジテレビ、ニッポン放送、テレビ神奈川の解説者を務めて現在に至ります。

 2006年06月02日 横浜スタジアム右翼席に名球会を讃えるプレートを設置された
 2012年12月01日 ホエールズ ベイスターズOB会会長に就任
 2017年01月16日 2017年度野球殿堂エキスパート部門表彰者に選出された


◇ 平松 政次 投手 主な記録

1.タイトル

 最多勝:    1970年 25勝、1971年 17勝
 最優秀防御率: 1979年 2.39

2.表彰

 沢村賞:    1970年
 最優秀投手:  1970年、1971年
 ベストナイン: 1970年、1971年
 野球殿堂:   2017年(エキスパート部門)

3.その他の記録

 通算勝利:   201勝(球団記録)
 通算完投:   145完投(球団記録)
 奪三振:    2045奪三振(球団2位)
 通算イニング: 3336回1/3(球団記録)
 与死球:    120与死球(セ・リーグ記録)
 球宴出場:   1969〜1974年、1976年、1980年
 通算本塁打:  25本(投手として歴代4位)
 巨人戦勝利:  51勝(歴代2位)


◇ 選手としての特徴とエピソード

1.短気で気が強い性格

 現役時は短気で気が強い性格として知られたそうです。若手時代に、エラーをした、プロ入りは2年早く年齢は4つ年上の、江尻 亮 選手に対し砂を蹴飛ばして首脳陣から大目玉をくらい、ベテランになってからも、31歳となる1978年7月20日の横浜スタジアム ヤクルト戦で、5-1でリードしていた3回表に4点を奪われて降板した際に、土井 淳 ヘッドコーチの叱責に対する怒りで、利き腕の右手でベンチの扇風機を叩き壊したとのエピソードもあります。ミスをした周囲に対して怒るので、コーチから「みんな懸命にやった結果なのだから変なプレーをしてもお前が助けろ」と諭されても、「俺は勝ちたいんだ! 変なプレーをして巨人に勝てるのか!」と反論したとされます。

2.「カミソリシュート」

 平松 投手の代名詞である「カミソリシュート」は、社会人時代に投げ方を教わっていたものの、本気で投げたことはなかったされます。カーブもあまり曲がらなかったため、投げる球の大半がストレートであったと言っております。ところが、あるきっかけで「カミソリシュート」は生まれました。
 プロ入り3年目の1969年春のキャンプでのこと、雨天で室内練習をしていて、平松投手は体育館の板塀にめがけて投球練習をさせられていたそうです。「プロになっても、こんな高校生みたいな練習をさせるのか」とイライラがたまっていたところに、故 近藤 和彦 選手に「そんなへなちょこボールしか投げられないのか」と言われ、腹立ち紛れに投げたのがシュートでした。プロ入り後は一度も投げていなかったこの球が驚異的な変化を見せたため驚いた 近藤 選手が 故 別当 薫 監督ら首脳陣を集めて、そこでさらに5球ほど投球したところそこでも素晴らしい変化を続けて、この6球で最大の武器が誕生しました。「カミソリシュート」の命名は 平松 投手の前のエース、秋山 投手のシュートに付けられた名前でありましたが、平松 投手が受け継ぐ形となりました。

 キャンプの偶然で生まれた「カミソリシュート」

 1974年7月9日の対巨人戦、平松 投手の投じたシュートが打席の 河埜 和正 内野手の左手に当たってバックネットに転がりデッドボールかと思われましたが、故 平光 清 球審は「ストライクのコースに入った球を河埜が打ちに行き、グリップエンドに当たった」としてファールボールを宣告しました。この判定に激高した巨人の 故 川上 哲治 監督が審判に執拗に突っかかった為、川上 監督に退場が宣告されました。これが 川上 氏の監督生活最初で最後の退場となったそうです。

 川上 監督を退場に追いやった魔球

 平松 投手の「カミソリシュート」について若干の私的解説を加えます。投手の投げたストレートが落ちる(おじぎする)ことなく捕手のミットに収まるのはボールに縦の回転が加わっているためで、この回転が強ければボールは高めに浮き上がり、これを「球が伸びる」、「ホップする」と表現します。この縦の回転がないボールは重力と空気抵抗で落ちるボールとなり、その原理で投げられているのが、その程度こそ違え、フォークボール、ナックルボール、チェンジアップなどの回転を抑えたボールです。
 球が回転していたとしても横回転であれば、やはりボールには横に曲がるのみならず、浮力がないので球は落ちます。横回転の代表はスライダーとシュートでありますが、このどちらのボールも完全な横回転だけでは浮き上がることはありません。巨人にいた 西本 聖 投手はシュートピッチャーでありましたが、彼のシュートは沈むボールであり、それを駆使して内野ゴロに打ち取るケースが多くありました。
 平松 投手のシュートは全然違いました。曲がりが大きく、ど真ん中に投げたものが右打席にまで及ぶ変化で、また低めに投じたものが、右バッターの胸元に浮き上がる軌道でありました。当時から今までの、あんなにエゲツないシュートを投げる投手は見たことがありません。あえて言えば、横浜大洋でセットアッパーを務めた頃の 故 盛田 幸妃 投手のインハイはナチュラルにシュートして浮き上がるボールであり、中日、巨人に在籍した 落合 博満 選手は大の苦手としておりました。

3.「ガラスのエース」は完璧主義者

 風邪をよくひいたり故障が多かったため「ガラスのエース」と呼ばれておりました。風邪についてはよく解りませんが、登板数はそれなりで、シーズン通じて働いた年が多かったと思いますし、故障に関して言えば若い頃からの登板過多は原因としてあったと思います。それでは「ガラスのエース」の傾向は無かったかと言うと、元巨人の投手で、巨人、大洋で投手コーチ、巨人の監督も務めた 故 藤田 元司 氏テレビ解説で言っていました、「平松 は完璧主義者なんですよ。どこか身体に変調があると投球を乱し易く、また登板を嫌がることがあるです。」と。確かに、原因不明の登板回避や、5回で勝利投手の権利を得ての突然の降板など、思い当たるふしはちらほらあります。そういう時、決まって報道されるのが「○○に違和感があって」でありました。「違和感」は風邪でも故障でもありません。私的には「完璧主義者」と言う 藤田 氏の表現がぴったりのように思っています。

4.チームで浮く存在、トレードの話も

 1978年9月9日 中日戦 7回表に フレッド・クハウルア 投手から三振を奪って、場内に「平松投手、プロ入り1500奪三振達成です。おめでとうございます!」とのアナウンスがありました。この時、横浜大洋のベンチで拍手をしたのは 中塚 正幸 選手だけとラジオのアナウンサーは言っていました。「平松に対するチーム内の風あたりは強いようですね〜」とアナウンサーは続けました。ナインのミスを許せず、自分は「ガラスのエース」と言ったところがチーム内で浮く存在になった原因かと思います。
 それが理由かどうかは知りませんが、平松 投手には横浜移転の少し前のオフシーズンにはトレード話がしばしばありました。当時、「トレード成立は時間の問題」と、最も大きく取り上げられたのは、ロッテオリオンズの 三井 雅晴 投手でありました。同投手は、1974年に新人王のタイトルを取ったものの、二桁勝利は1975年に10勝しただけで、平松 投手よりもだいぶ格下の投手でありましたが、平松 投手よりも7歳年下で、森安 投手の再来と噂される豪速球の持ち主でした。結局、トレードは実現せず、三井 投手は故障した肘に対して日本人で初めて 故 フランク・ジョーブ 博士の手術を受けました。後に 松原 誠 選手との交換トレードで巨人から移籍してきた、当時 太平洋クラブライオンズの 古賀 正明 投手もトレードの相手として噂に挙がりました。

5.打者としても球団史上投手No.1

 平松 投手は打撃にも優れており、投手では歴代4位の通算25本塁打を記録しております。漫画「巨人の星」(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)にて星飛雄馬 投手の大リーグボール3号を初めてヒットにしたのは 平松 投手であります。また、アニメ「がんばれ!!タブチくん!!」(原作:いしいひさいち)で ヤスダ(安田 猛)投手からサヨナラホームランを打ったこともあります。以下、平松 投手の年度別打撃成績を供覧いたします。

平松 年度別打撃成績

 通算打率は .156と投手として平凡な数字ではありますが、故障が目立ち衰えが見え始めた1977年以降の8年間は全ての年度に安打10本以下で打率も .150未満と、通算成績を押し下げる記録でありました。これに対して76年以前の10年間の打撃は素晴らしく、10安打以上が8回、打率2割以上が3回でありました。71年は、打率は .130でしたが、年間12安打のうち5本が本塁打でありました。通算の盗塁が3個あり(成功率100%)、これがベンチのサインによるものであったかは分かりません。
 大洋〜横浜では、昨年、引退した 三浦 大輔 投手がバッティングの良い投手として有名であり、昨年7月11日のヒットで一軍公式戦の24年連続安打を記録し、これは野手を含めた日本プロ野球歴代4位タイ記録となり、またこれは「プロ野球の公式戦で投手が安打を放った最多連続年数」というギネス世界記録に認定されております。

【三浦 大輔 投手の通算打撃成績】
 25年 571試合 967打数 123安打 1本塁打 44打点 0盗塁 114犠打 21四死球 363三振 打率 .127
 ※ 年間10安打以上は1回のみ

 三浦 投手はミートが上手く、打ってから一塁への全力疾走が印象的でありましたが、平松 投手の打撃はもっと力感があり、野手顔負けのスラッガーでありました。私事ですが、三浦 投手の唯一の本塁打を憶えておりますが、平松 投手の本塁打は2本、リアルで見ました。いずれもフルスイングで見事な当たりでありました。

6.巨人キラー、ONとの対戦

 平松 投手の巨人戦通算51勝は 金田 正一 投手(国鉄)の65勝に次ぐ歴代2位であります。ただし、金田 投手は国鉄時代の通算353勝の1/5に満たない65勝なのに対し、平松 投手は通算201勝の1/4以上を巨人から挙げています。また、金田 投手は65勝72敗と負け越していますが、平松 投手は51勝47敗と勝ち越しており、巨人戦30勝以上の投手で勝ち越しているのは 平松 投手、星野 仙一 投手(中日)、川口 和久 投手(広島)の3人だけであります。

【対巨人勝利ベストテン 勝敗、勝率、完封数(敬称略、2017年現在)】
 01.金田 正一(国  鉄) 65勝72敗 .474 完封 14
 02.平松 政次(大  洋) 51勝47敗 .520 完封 7
 03.山本  昌(中  日) 43勝44敗 .494 完封 6
 04.村山  実(阪  神) 39勝55敗 .415 完封 13
 05.杉下  茂(中  日) 38勝43敗 .469 完封 8
 06.江夏  豊(阪神 他) 35勝40敗 .467 完封 9
 07.星野 仙一(中  日) 35勝31敗 .530 完封 3
 08.安仁屋宗八(広島 他) 34勝38敗 .472 完封 4
 09.松岡  弘(ヤクルト) 34勝46敗 .425 完封 6
 10.川口 和久(広  島) 33勝31敗 .516 完封 8

 11.斎藤 明夫(大  洋) 31勝33敗 .484
 12.北別府 学(広  島) 30勝33敗 .476
 13.長谷川良平(広  島) 30勝35敗 .462

 平松 投手は 長嶋 茂雄 選手が最も苦手にしていた投手として知られています。長嶋 氏は 平松 投手の200勝達成記念パーティで「あの頃は寝てもさめても平松のシュートが頭から離れなかった」とコメントしています。平松 投手は 長嶋 選手を打率1割台に抑え、凡退の2割2分に当たる33個の三振を奪い、4割5分に当たる65の内野ゴロ(内野併殺7)に仕留めました。25打数無安打の時期もありました。しかし、長嶋 選手と並ぶ巨人打線の中核であった左打者の 王 貞治 選手は苦手にしており、史上最も多い25本塁打を打たれ、打率は .370、100打席以上対戦した投手としても最も打ち込まれた投手でありました。

王長嶋 写真

【平松 投手の対ON成績】
 長嶋 茂雄 181打数 35安打 08本塁打 打率 .193
 王  貞治 235打数 87安打 25本塁打 打率 .370

【王 選手の投手別本塁打ランキング(敬称略)】
 25本 平松 政次(大  洋)
 24本 星野 仙一(中  日)
 20本 江夏  豊(阪神 他)
 18本 松本 幸行(中  日)、松岡  弘(ヤクルト)
 17本 村山  実(阪  神)、安仁屋宗八(広島 他)
 16本 古沢 憲司(阪  神)
 15本 山下 律夫(大  洋)、石戸 四六(ヤクルト)

 長嶋 選手を抑えながら 王 選手に打たれる傾向は同時代に活躍した 松岡 投手や 星野 投手にも見られました。これは彼らの最盛期が 長嶋 選手の晩年(72~74年 引退、打率 .266、 .269、 .244)に重なっているのに対し、王 選手は73年、74年に三冠王を取るなど、全盛期は続き、77年まで本塁打、打点などのタイトルを取り続けたことが理由とされます。
 その説明に異論はありませんが、私見として、平松 投手に関して言えば、踏み込んで打つ 長嶋 選手の打撃に対して胸元に浮き上がって来るカミソリシュートはなんとも邪魔な存在であり、そのため外のボールも打てなくなる、そんな相性であったと思います。一方、王 選手に対しては、当時のあらゆるチームで行なっていた「王シフト」を大洋でも採用しており、平松 投手も外角への投球が多くなっておりました。個人的記憶では、カミソリシュートをレフトに本塁打された映像は残っておりませんが、いつも右方向に引っ張った本塁打を打たれておりました。これは、どうしても外角一辺倒ではカットされたり外れたり勝負にならないところで、平松 投手の負けん気の強さがインコースへの投球となって、それを 王 選手に痛打される結果となった、そんな感覚でおりました。

7.故 別当 薫 監督との確執と和解?

 平松 投手が監督として真っ先に思い浮かぶのが 故 別当 薫 監督だと思います。以下に 平松 投手の年度別登板、勝敗と監督、チームの勝敗をまとめて見ました。平松 投手は実働18年でありましたが、そのうちの8年間は 別当 監督であり、しかも最も 平松 投手が活躍した時期に重なっておりました。

【平松 投手 年度別登板、勝敗と監督およびチーム成績】
 67年 16試合10先発 03勝04敗 三原 脩 59勝71敗 4位
 68年 51試合13先発 05勝12敗 別当 薫 59勝71敗 4位
 69年 57試合25先発 14勝12敗 別当 薫 61勝61敗 3位
 70年 51試合38先発 25勝19敗 別当 薫 69勝57敗 3位
 71年 43試合32先発 17勝13敗 別当 薫 61勝59敗 3位
 72年 41試合26先発 13勝15敗 別当 薫 57勝69敗 5位 ※ 8/31より監督休養、青田代行
 73年 49試合19先発 17勝11敗 青田 昇 60勝64敗 5位
 74年 46試合30先発 15勝16敗 宮崎 剛 55勝69敗 5位
 75年 28試合22先発 12勝10敗 秋山 登 51勝69敗 5位
 76年 41試合35先発 13勝17敗 秋山 登 45勝78敗 6位
 77年 32試合21先発 10勝09敗 別当 薫 51勝68敗 6位
 78年 36試合15先発 10勝05敗 別当 薫 64勝57敗 4位
 79年 30試合25先発 13勝07敗 別当 薫 59勝54敗 2位
 80年 30試合29先発 10勝11敗 土井 淳 59勝62敗 4位
 81年 17試合16先発 06勝07敗 土井 淳 42勝80敗 6位 ※ 9/24より監督休養、山根代行
 82年 25試合25先発 09勝10敗 関根潤三 53勝65敗 5位
 83年 23試合22先発 08勝08敗 関根潤三 61勝61敗 3位
 84年 19試合18先発 01勝10敗 関根潤三 46勝77敗 6位

 一方、別当 氏にとって、通算20年の監督生活の約半分である9シーズンを大洋〜横浜で勤め、1000勝監督で唯一優勝経験がない彼の、通算1237勝のうち4割9分を占める540勝を大洋〜横浜で収めました。

【別当 薫 氏 監督成績】
 通算成績  20年 2497試合1237勝1156敗 勝率 .517 2位3、3位6、4位5、5位2、6位4
 大洋〜横浜 09年 1178試合0540勝0567敗 勝率 .488 2位1、3位3、4位2、5位2、6位1

 さらに言えば、監督が休養の期間の 平松 投手の細かい成績は入手できませんでしたので、大雑把な年度成績に基づくデータですが、別当 監督の采配で 平松 投手が投げた試合は、341試合195先発107勝であり、これは 別当 監督にとって9年間の大洋〜横浜監督で3割弱の試合に 平松 投手を登板させ、監督としての勝利の約2割( .198)が 平松 投手が勝ち投手でありました。
 逆に 平松 投手にとって、通算635試合登板のうち5割4分を占める試合が 別当 監督の下、平松 投手の通算の先発登板は421試合でありますが その4割6分が 別当 監督の起用、勝ち星については、通算201勝の半分以上を 別当 監督采配で挙げました。1年限りの監督の下、1年限りの活躍をした投手であれば、100%監督生活と選手生活が一致する監督と選手の関係になるでしょうが、片や4球団で20年の監督を務めた1000勝監督と、片や18年のプロ生活を送った200勝投手ですから、お互いに特別な存在だったと思います。

 多くの時間を共有した 平松 投手と 別当 監督、そして確執も

 そんな二人ですが、1970年代、「エース平松と別当監督の確執」が盛んに報道されておりました。「投げてくれるか?、と聞かれればそりゃあ投げますよ! だけど、あんまりですよ! こっちが壊れてしまいます」と 平松 投手のコメントがスポーツ誌や週刊誌に掲載されておりました。シーズン中は、平松 投手の右腕を持ち上げて勝利を祝福する 別当 監督の写真が新聞紙上にしばしば掲載される二人でしたが、野手出身で投手を酷使する監督と、デリケートなエース・ピッチャーの構図が浮き彫りになりました。

別当と平松

 しかしながら、私見を申すなら、この二人は意見のぶつかりこそあったものの、強い絆で繋がる盟友であったと思います。平松 投手が頭角を現し、一気に全盛期となった69〜71年に 別当 監督の大洋は3年連続Aクラスでありました。1979年は 別当 監督にとって最後の監督采配と思われるシーズンでありました。「別当 監督最後の年」、と言う意識があったかどうか?、平松 氏に聞いてみたい気持ちはありますが、この年の彼は見事に監督の期待に応えました。別当 監督の指名による4回目の開幕投手で上述のごとく素晴らしい開幕ダッシュとなりました。別当 監督は、もはや 平松 投手をリリーフで使うことはなく、先発投手として大事に起用しましたし、平松 投手はその期待の応える働きをしました。平松 投手と別当 監督が、最後に共に戦うシーズンにおいて心を一つに和解して戦ったのでは?、そんな感覚にさせる1979年2位でありました。


◇ 平松 投手、その華麗なる投球フォームは「白鳥の舞!」

 タイトルにも書きました、私の個人的な気持ちとして 平松 政次 投手は、「カミソリシュート」は良いとしても、「ガラスのエース」ではなく、最も当てはまる形容は「白鳥の舞い!」であります。過去から現在まで、数え切れないほどの名投手が出現しましたし、平松投手よりも成績、力量ともに優れた投手は多数おりますが、投球フォームの美しさは歴史上一二を争うほどだと考えております。

白鳥の舞 平松投手

 とりわけ、現代の突っ立ったままで肩腕の力で投げて、体重が後ろに残っているか、右投手が一塁側に体が流れるような、そんな投球フォームに見慣れてしまうと、平松投手の投球フォームには、その美しさに衝撃を覚えるものであります。なかなか良い動画が手に入らないので、ここでは二種類のソースに書かれた彼の投球フォームの解説を連続写真を掲載してご紹介いたします。

1.ファンブック「横浜大洋」No.21(アドスタジオ、1983年8月1日) より

ファンブック横浜大洋21号表紙

平松連続写真0102
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平松連続写真 ¥0910
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 写真10 で肘からボールまでの前腕の線が地面と平行に近くなっており、肘がしなっているのがよく分かります。肘を基点としたテコの原理が働いており、肘が先行してボールが後から付いて来る形となります。この肘のしなりは、ボールが一瞬、肘の裏に隠れるため打者にとって出どころが分かりづらく、ボール離すリリースをより打者寄りとさせます。
 写真7, 8, 9 で肩の線よりも肘が上に上がっており、ボールの位置が高く、そして後ろに引かれています。これは 写真4, 5 でグローブ面を打者に向けて体の近くで回すことにより、写真8, 9 でグローブを脇の下に入れつつ、左腕の引っ張りがあって胸を張ることができます。こうして、左足を上げてから下ろす際のグローブの向きの段階から、胸の張り、肘のしなりに繋がる連続した動作が生まれているのです。
 もう一つ、写真1 の顔の表情は力が抜けた自然体となっておりますが、写真7 から 8 で口元が引き締まるのが見て取れます。これは写真8 で左足が地面に付いた時であり、勢いエネルギーを爆発させている瞬間を意味しております。それまでは余分な力を入れずにボールをリリースする瞬間に力を込める投球の表れであります。

2.SPORTS NOTES “PITCHING”(平松 政次 監修、鎌倉書房、1984年9月20日) より

平松監修のピッチング

平松「ピッチング」写真01

平松「ピッチング」写真02

平松「ピッチング」写真03

平松「ピッチング」写真04


◇ あとがき

 大洋〜横浜ファンにとっては、キャンプでの練習が不十分で、春先に躍進するものの夏場には下降線をたどる、いわゆる「ぬるま湯大洋」や、主に巨人にとって苦しくなれば大洋との3連戦で貯金がもらえる「横浜大洋銀行」などと、プライドを傷つけられる描写がありました。長嶋 氏を招聘したいと言う理由で外様の監督がやってきて、ちょっと良い戦いをすると「◯◯魔術(マジック)」などと、いかにも新監督の力でチームが動いているような、監督が主役となるシーズンもありました。
 そんな弱小球団のファンでも確かに誇りを持てる、日本プロ野球球界の上位にランキングされる投手がおりました、それが 平松 政次 投手でありました。感謝の気持ちでいっぱいであります。
 
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