アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

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大洋〜横浜を盛り上げた主役たち VOL.002 決して裏切り者ではない! 須藤 豊 監督


 先日、今年限りで引退となった 三浦 大輔 投手に関する記事の中で須藤 豊 氏のコメントを載せたものがありました。三浦 投手については、昨年、取り上げましたし、またいずれ「主役たち」としてご紹介することがあろうかと存じます。今回は須藤 氏、大洋〜横浜に関わった期間は極めて短かったですが、この人物もファンにとっては忘れられない存在で、親分肌で素晴らしい指導者であったと評価する人と、監督の立場でありながらチームを放り出し、翌年には巨人の一軍スタッフに入閣した「裏切り者」と非難する人がいて、大洋〜横浜ファンの中では賛否の意見が分かれる人物です。私の個人的意見を盛り込んで、横浜大洋ホエールズとしては最後のAクラスとなる采配を振るった須藤 豊 監督をご紹介いたします。まずは先述の記事の供覧から、、、。

三浦大輔引退に須藤監督インタビュー

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【DeNA】三浦ルーキー時代監督の須藤豊氏「立派なチームの顔になった」
09月21日 08:56スポーツ報知

 DeNA・三浦が現役引退を表明した。大洋時代、入団1年目の監督だった須藤豊氏(79)が当時の思い出を語った。

 「奈良の高校生で、いいピッチャーがいる」。私が初めて三浦の名前を知ったのは、「オーソドックスな上手投げだが、縦の変化球(カーブ)が一級品。何とか指名したい」と、担当の高松(延次)スカウトから聞いた時だった。
 もう時効だから話すが、当時、三浦の関係者に「大学進学」とアピールさせて、一本釣りすることを考えた。その年のドラフトは、東北福祉大・斎藤隆、大経大・有働克也という大学生投手を上位で指名することが決まっており、何とか単独指名を―と考えてのことだった。しかし、他球団も甘くはない。ドラフト会議が近づくにつれ、三浦の名前があちらこちらで挙がるようになり、会議当日は気が気でなかったことを思い出す。

 三浦の功績は「立派なチームの顔になった」ということだ。私は、そのチームの代名詞となるような選手を育てることがプロ球団の使命の一つと思っているのだが、三浦は大洋、横浜、DeNAの「顔」として立派に務め上げた。長い期間、コンスタントに成績を残したからこその結果であり、あらためて敬意を表したい。
 今季、グラウンドで顔を合わす機会があった。その時は「まだやめるなよ」と彼には言ったのだが、「ホエールズ」のにおいのする選手がいなくなることは、本当に寂しい。(90〜92年途中・大洋監督)

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◇ 須藤 豊 氏 略歴

 須藤 豊 氏の略歴を年表形式で供覧いたします。現役時代の年度別個人成績および監督、コーチ時代のチーム成績については割愛させていただきます。

1.プロ入り前

 1937年(昭和12年) 高知県安芸郡 生まれ
 1954年(昭和29年) 高知商業二年生 遊撃手として春(ベスト8)、夏(ベスト4)甲子園出場
            同年の国体では優勝
 1955年(昭和30年) 三年生夏 高知県大会決勝で敗退、甲子園出場ならず

2.現役時代

 1956年(昭和31年) 毎日オリオンズ入団
 1957年(昭和32年) 故 別当 薫 監督、故 西本 幸雄 コーチの下、規定打席(11位、.278)到達
 1958年(昭和33年) 大映と合併(大毎オリオンズ)、佐々木信也 選手入団で控え選手に
 1961年(昭和36年) 宇野 光雄 監督就任、確執が生じる
 1962年(昭和37年) 巨人へトレード、二塁手の定位置を争う
 1965年(昭和40年) 土井 正三 選手の入団で控え選手に
 1968年(昭和43年) コーチ兼任、オフに引退

 プロ通算13年 959試合 2359打席 2149打数 495安打 8本塁打 143打点 42盗塁 285三振 .230

3.指導者時代

 1969年(昭和44年) 巨人 二軍内野守備コーチ(〜1973年)
 1974年(昭和49年) 巨人 一軍内野守備コーチ
 1975年(昭和50年) 長島 茂雄 監督で球団史上初の最下位で責任を取る形で退団

 1976年(昭和51年) 埼玉県川口市の鉄建用丸棒メーカー「向山工場」に入社

 1980年(昭和55年) 大洋GM 故 別当 氏の誘いで横浜大洋ホエールズ 二軍監督(2年間)

 1983年(昭和58年) 巨人 二軍守備走塁コーチ
 1985年(昭和60年) 巨人 一軍守備コーチ
 1986年(昭和61年) 巨人 二軍監督 以後イースタン・リーグ4連覇達成(〜1989年)

巨人時代の須藤氏

 1990年(平成02年) 横浜大洋監督 7年ぶり、ホエールズ最後のAクラス、セリーグ特別功労賞
 1991年(平成03年) 前年と同成績(64勝66敗)で5位 佐々木主浩 投手を抑えに抜擢
 1992年(平成04年) 開幕からチームは低迷、5月2日休養を申し出てそのまま退団

横浜大洋時代の須藤氏

 1993年(平成05年) 巨人 長島 茂雄 監督のヘッドコーチ(〜1995年)

 1996年(平成08年) NHK解説者

 1997年(平成09年) 西武 ヘッドコーチ(1999年)

 2004年(平成16年) 巨人 ヘッドコーチ 同年オフ退団

4.ユニフォームを脱いで現在まで

 2005年(平成17年) より、ラジオ日本などの解説者、四国アイランドリーグ・高知ファイティングドッグスのアドバイサリースタッフ、日本テレビ「ズームイン!!SUPER」のレギュラーコメンテーター、同「ズームイン!!サタデー」のレギュラーコメンテーター


◇ 横浜大洋監督(90〜92年)前後で起こったこと

 当時の横浜大洋ファンであった人なら誰でも知っていることですが、上述の略歴を見ますと、不思議な感覚に陥る人がいると思います。読売巨人でコーチ、横浜大洋では二軍監督、読売巨人に復帰してコーチ、二軍監督になった、指導者としての道を歩んでいた 須藤 氏が横浜大洋ホエールズの監督となって、チームをAクラスに導いて、そんな彼が92年のシーズン序盤でチームを去ることになりました。そんなに簡単に当時の選手たちを放り出すような(無責任な)人物が、その直後に読売巨人、その後には西武ライオンズのヘッドコーチに就任した違和感です。

1.現代まで賛否両論分かれる大洋〜横浜ファンの評価

 ファンの間で横浜大洋時代を振り返るにあたり、須藤監督の話題となることはしばしばです。ガッツ溢れる親分肌の監督としての評価と、シーズン途中の辞任とその後の巨人入団に話しが及ぶ場合と、須藤 氏については賛否両論が正面からぶつかります。「須藤はチームを放り出した」と公言する横浜大洋ファンは少なからずいて、その根拠に、春先に休養、退団した監督が翌年には巨人のユニフォームを着たこと、そもそも現役時代に大洋ホエールズにはゆかりの無い選手であったことが挙げられています。
 さて、ファンの多くの思惑とは別に、私の個人的意見を盛り込んで、須藤 豊 氏の横浜大洋監督(90〜92年)前後の歴史を紐解いてまいります。

2.1990年(平成02年)横浜大洋ホエールズ監督就任

 須藤 氏は80、81年に二軍監督を勤められて、90年、横浜大洋に復帰する形で一軍監督就任でした。大洋〜横浜はネームバリューのある人を監督に招聘する傾向にありますので、二軍監督であった人物が9年の歳月を経て一軍を指揮するのは珍しいことだったと思います。しかしそれは本来あるべき姿かも知れません。80、81年当時二軍を経験した若手選手と言えば、新人であったドラフト3位 高木 豊、同4位 市川 和正、ドラフト外、「こけしバット」で有名な 山崎 賢一 選手や、その2年前に入団した 屋鋪 要 選手であり、彼らにとっては若い時分に厳しく指導された須藤 氏とまた同じ釜の飯、彼らが成長した自分を見て欲しいと発憤し、チームの意気が上がるのは想像に堅くないところであります。またそれが、古葉 竹識 監督最終年に80敗もした最下位で、人間関係がぎくしゃくした後であればなおさらだったと思います。

高木市川屋敷山崎
左から高木 豊、市川 和正、屋鋪 要、山崎 賢一 各選手

 90年の3位は、打撃成績1、2位がジェームズ・パチョレック、高木 豊 選手で、ジョーイ・マイヤー 選手のとてつもないパワーに驚かされ、斎藤 明夫 投手が先発で久々の10勝、故障が癒えた遠藤 一彦 投手が抑えに周り21セーブでカムバック賞と、若手の横谷 彰将、清水 義之 両選手の抜擢と、進藤 達哉 選手、佐々木主浩 投手の台頭をベテランが上手くカバーした、そんな、前年とは比べ物にならないほど、明るい印象でありました。親分肌で、若手育成に長けた須藤監督ならではの、チームのよみがえりでありました。

斉藤 遠藤 写真
斉藤 明夫 投手(左)と遠藤 一彦 投手(右)

3.高知商業の後輩への思い入れ

 須藤 監督が就任する前より高知商業の後輩がおりました。中山 裕章 投手(85年 ドラフト1位)であります。彼のプロ初勝利は87年で、この年、規定投球回に達しましたが5勝止まりの防御率5.17でありました。当時の古葉 監督は、彼を疲れが見えてきた斎藤明投手の代わりに抑えに回しました。88年の中山 投手は、恐るべき、全てリリーフの70試合142イニングを投げて10勝6敗24S 防御率 2.28とプロ生活最高のシーズンを送りました。今は死語となっている「ファミコン」の「89年版ファミリースタジアム」で彼は最速155 km/hでフォークが切れる投手として設定されており、日本プロ野球を代表する投手と言っても過言ではありませんでした。
 ところが、その中山 投手、89年には思わぬ不調に見舞われ、1勝10敗17S 防御率 .410の成績でありました。そんな矢先に須藤 監督誕生だったのです。90年当時53歳であった須藤 氏が、当時23歳であった、この高知商業の後輩を息子のようにかわいがり、大きな期待を寄せていたことは間違いありません。前年に大不調であった彼を先発に転向させ、90年、91年は二年連続で開幕投手に指名しました。大抜擢です。
 90年4月28日の阪神戦の試合中、未だに勝ち星がない先発転向の中山 投手の前で、須藤 監督は突然、歌を歌い始めました。高知商業の校歌です。一小節だけ歌ったところで、中山 投手に「この次はどうだった?」、と尋ねてきて、中山 投手は続きを一小節だけ歌ったところ、監督が「その次は?」と続き、結局、中山 投手は校歌を最後まで歌ったそうです。中山 投手はその試合、シーズン初勝利を3年ぶりの完封で飾り、「開幕から不調でした。この試合もだめだったらファームに落とされるかもしれないと思ってた。だけどプレッシャーが歌っているうちになくなっちゃって・・、監督が先輩に見えてきたんですよ」とコメントしております。

4.涙をのんで二軍降格の後の不祥事

 当時、高校の後輩に対する格別な待遇を「中山贔屓」とされる方もいましたが、私は当時の横浜大洋における必然性を感じておりました。70年代の大洋ファンは優勝なんて思いもつかないものでありました。それが78年横浜移転から79年の2位躍進で希望の光が見えて来て、斎藤 明夫、遠藤 一彦 投手、屋鋪 要、高木 豊、田代 富雄 各選手が一人前となって、外国人選手獲得は順調でありましたし、80年代は「斎藤・遠藤がいるうちに優勝を!」が合い言葉でありました。それが翳りを見せて来た90年代初頭、次世代として中山 投手と、野村 弘樹 投手(PL学園、87年 ドラフト3位)の両輪が開花することが何より求められておりました。加えて、90年の中山 投手、先発転向は抑えとして遠藤 投手の復活と、佐々木 投手がその後を継ぐ目算があったのでしょう、流れとしては悪くない方針でした。
 しかしながら、先発2年目、91年の中山 投手は、序盤はまずまずでしたが、秋口になって全く勝てなくなりました。ゆったりとした、巨人OBの堀内 恒夫 氏曰く、「最高の理想的な投球フォーム」から切れの良い速球、フォーク、スライダー、シュートを制球良く投げる彼が、しかしながら先発での力配分を修得できず、打者との駆け引きも未熟であり、言わば殻を破れない状態でありました。これは秋元 宏作 捕手と谷繁 元信 捕手の併用で正捕手が決まらないのも大きな要素だったかと思います。
 何試合かKO負けが続いたある日、須藤 監督は初めて中山 投手に二軍行きを通達しました。あの時、何か気の利いた言葉とか、ファームでの課題でも伝えてやれば良かったのでしょうが、須藤氏には上手い言葉が浮かばなかったのでしょうか?、あるいは、前年3位からこの年は下位に低迷し、心に余裕が無かったのかも知れません。シーズンオフの11月12日、中山 投手は不祥事を犯してしまい、12月25日、逮捕され、即刻、横浜大洋球団は彼を解雇としました。

5.自戒の念で迎えた92年シーズン

 須藤 監督は92年のシーズンを迎えるにあたり、高校の後輩であり未来ある若者を正しく導くことができなかった自戒の念で、気力充実とはかけ離れた状態だったと思います。須藤氏が休養を申し出たのが92年5月2日、まさにペナントはこれからというゴールデンウイークのまっただ中でした。この日は広島戦で先発、野村 投手が10点のリードをひっくり返されたとんでもない試合でしたが、この時点での横浜大洋の成績は7勝15敗であり、まだまだちょっとスタートダッシュにつまずいた程度でありました。
 彼の辞任は、チームの不成績に対して責任を取ったものではなく、あくまでも精神的理由、気力が続かない、あるいは苦しい心境から不眠に陥っていたような、そんな状況ではなかったか?、少なくとも92年開幕当初、監督として横浜大洋に留まることができる精神状態ではなかったのではないかと推察する次第です。

6.翌年の巨人ヘッドコーチ就任は長島 茂雄 監督の配慮

 春先に休養、退団した監督が翌年には巨人のユニフォームを着たことを責める声が聞かれます。もちろん尤もな意見だと思います。しかし逆を言えば、巨人としても、シーズン開始当初でチームを放り出すような人間としての評価ならコーチ就任を要請したりはしないでしょう。恐らくは、思い悩んだ末に休養、辞任して落ち込んでいる須藤 氏を野球人として終わらせてはならない、との巨人軍関係者、具体的には、75年に球団史上初の最下位で責任を取らせてしまった長島 茂雄 監督の配慮があったのではないか?、と思います。それはそれで、貴重な人材を球界から失わない一つの方法であったと思いますし、当時、私自身は指導者としてやり直すチャンスが与えられた須藤 氏に対しエールを送ったのを記憶しています。


◇ 決して裏切り者ではない!

 長嶋 監督に拾われるように巨人軍のヘッドコーチに就任した須藤 氏は、監督より依頼された「若手を育てる」という大目標を掲げておりましたが、FAで選手をかき集める、今でもやっている巨人軍の方針に納得が出来ずに退団することになります。そして、横浜大洋の監督を「途中下車」した時のことを思い出すと今でも胸が痛むと言います。92年の須藤 氏の休養から退団は、チームを放り出したのではなく、指導者としての失敗を心から悔やんだ結果であり、それ以前の経緯があっての翌年の巨人入閣であって、この流れにおいて彼について「決して裏切り者ではない!」と強く主張するものであります。

須藤豊氏

 これからもお元気で、若手育成の持論を展開していただきたく存じます。

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