アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

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メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち 〜 日米野球の優劣について 〜 03


 ゆっくりとしたペースで論じておりますが、日米野球の優劣を考える題材として、米大リーグでの活躍は無かったものの日本野球で成功を修めた外国人野手を何人かご紹介しました。取り上げたランディー・バース、アレックス・ラミレス、タフィ・ローズ、そしてロバート・ローズと言った選手たちが、もし来日せずに米大リーグに残留していたならば、そのままレギュラーにはなれずに活躍することはなかったかどうか、それは解らない、ちょうどプレーヤーとして最高の時期が日本滞在期間であった可能性を申し上げました。
 さて今度は、同じ来日外国人野手でも、米国での成績が異なるタイプの選手をご紹介して、やはり、日米野球の優劣を考えたいと存じます。「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」でありますが、ここで1つだけ、はっきりと申し上げなければならないことがあります。
 日本人が米大リーグに挑戦する場合は、全てではありませんが、多くの選手が脂の乗り切った、まさに人生で最も「旬」な時期に渡米します。その最たる例がイチロー選手で、プロ入り9年目の2000年、日本プロ野球記録である通算7度目の首位打者、7年連続通算7度目となるベストナイン、ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得して、10年目となる01年、28歳のシーズンにシアトル・マリナーズにポスティング・システムでの移籍となりました。
 これに対して、米大リーグからの助っ人外国人で「メジャーで活躍してから来日した」と言えども、その活躍は直近のものではありません。「かつて活躍した」と言うものであり、メジャーにおいて今まさに活躍している、野球人生で最高の成績を挙げているまさに「旬」な選手の来日は皆無であります。

 日本人のメジャー挑戦の多くは脂の乗り切ったまさに人生で最も「旬」のことが多い
 今、まさにメジャーで活躍していて、人生で最高の成績を挙げている選手の来日は皆無


 これは、ある意味、当然であり、日本人は米大リーグに憧れるけれど、米大リーグの選手は日本プロ野球にそうした意識はなく、もちろん契約金や年俸面で日米に大きな違いがあります。日米野球の優劣を考えるにあたり、日本から米国へ、米国から日本へと移籍した選手を取り上げるのは、ごく自然の発想ではありますが、実は個々の選手の野球人生における浮き沈みについては、「日本から米国」、「米国から日本」に大きな違いがあると言えます。

 さて、前置きが長くなりましたが、「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」として、ちょっと古いですが、典型的な選手をご紹介します。横浜スタジアムに移転となった横浜大洋ホエールズに来日したフェリックス・ミヤーンと言う選手です。


◇ フェリックス・ミヤーン Felix Millan

 フェリックス・ミヤーン(Felix Bernardo Millan Martinez, 1943年8月21日〜)選手、上で「典型的な選手」と申しましたのは、「助っ人外国人」として典型的と言う意味ではなく、「メジャーで活躍して、衰えあるいは故障してからの来日」と言う意味であります。この選手は、パワー・ヒッターではなく、長打が少ない、安打製造機である点では、外国人として異色の存在でありました。

ミヤーン記事

 68年、25歳のシーズン、アトランタ・ブレーブスでレギュラーとなった彼は、米大リーグ実働12年で、70年、自己最高のシーズン打率 .310を記録、74年にはニューヨーク・メッツの一員として日米野球で来日、「キャット」の愛称が日本でも知られることに、翌75年は全162試合出場で、自己最高のシーズン191安打を記録しました。その翌年は139試合の出場にとどまり、150本安打と成績を下げ、77年のシーズン中、セカンドの守備でランナーと交錯、右鎖骨を骨折するアクシデントに見舞われました。同オフ、横浜大洋ホエールズからのオファを受けて、35歳となる78年の来日となりました。
 バットを水平に寝かせて構える独特のバッティング・フォームでしたが、来日1年目は鎖骨骨折の後遺症があって、肩が思わしくなく、あくまで私の記憶ですが、ある横浜大洋 vs 巨人の試合で、1アウト ランナー1, 3塁、打者 王貞治選手、斎藤明夫投手の投球に対してショートゴロでありましたが、ショート 山下大輔選手から転送されたボールを2塁ベースのミヤーン選手はジャンピング・スローしましたが、力無い送球は1塁に届かずセーフ、3塁ランナーがホームインでこれが巨人の決勝点と言うことがありました。
 ただ、バッティングは、さすがは大リーガーと思わせる能力があり、来日本塁打は78年5月23日の巨人戦、故 小林繁投手からの満塁アーチでありました。パワーはありませんけれども、当時の米国ではほとんど対戦がないタイプである故 小林投手の球をレフトに強振できるところに非凡な力を感じました(75年にメジャー・デビューしたエカーズリー投手はアメリカン・リーグのクリーブランド・インディアンスで、ミヤーン選手はナショナルリーグのニューヨーク・メッツ)。

 ミヤーン選手が年齢詐称とする松原氏のインタビューと故 小林繁投手からの本塁打シーン YouTube

 来日2年目となる79年、横浜大洋球団は二塁手の基満男選手を西武ライオンズからトレードで獲得しました。これはミヤーン選手の年齢的衰えを考慮しての方策と思われますが、この年の彼は、怪我と称して上手に休みながらもギリギリ規定打席に到達、打率 .346をマークして、球団史上初の首位打者に輝き、ベストナインにも選ばれました。36歳での首位打者獲得は、それまでの故 川上哲治氏、長嶋茂雄氏が持っていた日本プロ野球での最高齢記録を塗り替えるもので現在も破られていません。

【フェリックス・ミヤーン選手 年度別打撃成績】
フェリックス・ミヤーン年度別成績

 ミヤーン選手にとって何よりも幸いだったのは、鎖骨骨折と加齢に衰えを迎えた34歳の、ちょうど良いタイミングで日本からのオファーが来たことでした。そして、来日初年度は127安打2本塁打で打率 .287と平凡に物足りない成績であったのに、現役大リーガーに期待したのか?、横浜大洋は契約の延長をしてくれました。79年の史上最高齢の首位打者は、98試合の出場で、試合数が多く、広い国土を移動しながらダブルヘッダーも多い、米大リーグ時代とは雲泥の、随分と楽なシーズンを送ったものと思われます。言葉は悪いですが、昔の日本プロ野球は米大リーグの選手たちが故障や加齢に伴う衰えに際しての再就職先でありました。


◇ ラリー・パリッシュ Larry Parrish

 似たような選手をもう1人ご紹介します。ラリー・アルトン・パリッシュ(Larry Alton Parrish, 1953年11月10日〜)選手は、モントリーオル・エキスポズ、テキサス・レンジャース、ボストン・レッドソックスを経て、89年、ヤクルト・スワローズで来日したホームラン・バッターでありました。この選手は、米大リーグにおいて、2度の大活躍がありました。1度目は、79年のエキスポズ時代に167安打、30本塁打で打率 .307であり、2度目はレンジャーズでの84年、175安打22本塁打、101打点、打率 .285を記録しました。デビューから6年目の26歳時と脂がのりきった31歳時の成績であります。87年にも32本塁打、100打点を記録しましたが、この年は152試合に対して154三振と肉体的衰えを大振りすることでカバーしたと思われる記録が残っております。35歳となる88年、ついに全く打てなくなり、打率1割台でシーズン途中にレンジャースからレッドソックスへと移籍、シーズン通じて88安打、14本塁打、打率 .217と低迷しました。

パリッシュ活躍の記事

 89年、37歳、メジャー 256本塁打の記録をひっさげてヤクルトに入団、「ワニを食べる男」として話題となり、この年、42本塁打、103打点をマーク、本塁打王のタイトルを獲得し、ベストナインに選ばれました。しかし、三振も多く、池山隆寛、広沢克己 両選手と、3人揃って「100三振トリオ」と呼ばれ、同年オフに就任した野村克也 監督の評価は低く、ヤクルトを自由契約となりました。現役最後の年は、阪神タイガースにて95安打、28本塁打、80打点、.249の成績で終わりました。

【ラリー・パリッシュ選手 年度別打撃成績】
パリッシュ年度別成績

 パリッシュ選手は、年齢的限界から、米大リーグで通用しなくなった選手が、日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた典型だと思います。自身シーズン最高となる42本塁打は米大リーグでも経験のないリーグ本塁打王ですし、メジャーでは経験のないベストナインに選出されました。こうしたケースを見ると、米大リーグの方が日本プロ野球よりも厳しい世界であると思わされます。


◇ アンドリュー・ジョーンズ Andruw Jones

 もう1件、日米の野球レベルが拮抗して来たと言われるごく最近の選手をさらりとご紹介します。アンドリュー・ルドルフ・ジョーンズ(Andruw Rudolf Jones, 1977年4月23日〜)はオランダ出身の米大リーグにおけるスター・プレーヤーでありましたが、晩年を日本プロ野球、楽天・ゴールデン・イーグルスで過ごしました。

ジョーンズ画像

 「こんなすごいプレーヤーが日本に来たんだ!?」って思わせるほどの年度別打撃成績を以下に示しますが、上で紹介しましたラリー・パリッシュ選手と似たような経過を辿っております。この選手の「旬」は20代前半から後半にあったように思われます。00年、23歳のシーズンは3割、30本(36本塁打)、199安打で104打点、しかも21盗塁でありました。外野手として、98年から07年までの10年間、ゴールド・グラブ賞に輝き、今で言うならばヤクルトの山田哲人 選手のような三拍子そろった選手でありました。05年にはリーグ最多の51本塁打と打点王128打点で2冠を達成、プレイヤーズ・チョイス・アワーズ(Players Choice Awards)と言う、メジャーの選手会で選ばれるナショナル・リーグ優秀選手および両リーグ年間最優秀選手に選出されました。ちなみに、その前年のアメリカン・リーグの優秀選手はイチロー選手であります。米大リーグにおいて、シーズン30本塁打以上が7回、100打点以上が5回に及んでおります。

【アンドリュー・ジョーンズ選手 年度別打撃成績】
ジョーンズ年度別成績

 こうした優れた選手であっても、故障や年齢的な衰えは訪れます。07年のシーズンは肘を痛めて鎮痛剤の注射を打ちながらの出場であったとされます。同年オフにはフリー・エージェントとなり、ロサンゼルス・ドジャースと、日本円にして約36億円で2年契約を結びましたが、08年のシーズンは極度の不振で1年で解雇となりました。実はこの年以降、米大リーグでは規定打席に達することはありませんでした。ドジャースを解雇となった彼は、レンジャース、ホワイトソックス、ヤンキースと渡り歩きましたが、年間40〜60安打で10数本の本塁打、12年にはヤンキースで打率1割台にまで低迷しました。
 彼もパリッシュ選手同様、晩年に日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた選手でした。13年のシーズンは、チーム144試合中143試合に4番で出場、26本塁打で94打点、オールスターに出場し、楽天の日本一にも貢献しました。米大リーグのままであったらこれほどの活躍はなかったと思います。


◇「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」を見て

 もちろん、メジャーで活躍して来日したものの、全く日本プロ野球で満足いく仕事ができなかった選手は数多くいます。そうした選手たちは、大きく峠を過ぎており、米大リーグと同様に日本プロ野球でも通用しないレベルにまで落ち込んでいた、あるいは、日本プロ野球を舐めてかかり、老後の小遣い稼ぎのような感覚で来日した選手もいたと思われます。
 一方、今回、取り上げて選手たちは「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」でありかつ、日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた選手たちであります。彼らは、米国大リーグに残留したとしても、日本で残したような活躍はできなかったように思えます。彼らの努力、心機一転の巻き返しや、日本プロ野球への順応と言った、そうした要素は否定しませんが、こうした選手の存在を考えるにつけ、日本プロ野球よりも上を行く、米大リーグの選手層の厚さや、生き残りの厳しさを感じざるを得ません。

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