アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

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来日してから成功を修めた外国人野手たち 〜 日米野球の優劣について 〜 02


 日米野球の優劣を主張するピート・ローズ氏が言うところの、「(元近鉄の)タフィー・ローズはメジャーではさっぱりだったが…」来日してから成功を修めた選手は多数おります。むしろ、日本で活躍した外国人選手のかなりの部分をこうした選手が占めると言えます。「プロ野球」、「外国人」で検索すると、ある記事が目に入ってまいりました。

No1 助っ人

 「歴代最強助っ人外国人、週刊ベースボール社が球界人200人に聞いたベスト10」と題して、プロ野球の優れた外国人選手として紹介されているのは以下の10人であります。

 第01位 ランディー・バース(阪神)
 第02位 アレックス・ラミレス(ヤクルト、巨人、横浜DeNA)
 第03位 アレックス・カブレラ(西武、オリックス、ソフトバンク)
 第04位 タフィ・ローズ(近鉄、巨人、オリックス)
 第05位 ロバート・ローズ(横浜)
 第06位 ロベルト・ペタジーニ(ヤクルト、巨人、ソフトバンク)
 第07位 同率 ブーマー・ウェルズ(阪急、福岡ダイエー)
 第07位 同率 オレステス・デストラーデ(西武)
 第07位 同率 ウィリー・モー・ペーニャ(ソフトバンク、オリックス、東北楽天)
 第10位 ラルフ・ブライアント(中日、近鉄)


 この10人中、ペーニャ以外の9人に共通しているのは、来日前にほとんど米大リーグでの実績がないと言うことです。ペーニャにしても大リーグ生活8年間で5球団を渡り歩き、規定打席到達は1度もなく、メジャー通算425安打程度でありました。米大リーグでの実績がないのに、来日してから成功を修めた選手たちを何例か取り上げて簡単に解説いたします。


◇ ランディ・バース Randy Bass

 阪神で活躍したランディ・バース(Randy William Bass、1954年03月13日〜)選手は、米大リーグ時代に、すでに長打力は高く評価されていたそうですが、全力疾走ができないため守備にはつけられず、また速球には弱い弱点もあったとのことです。1983年に来日、1985年には打率 .350、54本塁打、134打点で三冠王に輝き、阪神、21年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献、シーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成しました。翌1986年も打ちまくり、2年連続の三冠王に、シーズン打率 .389は今なお日本記録であります。
 バース選手の日本での活躍にはいくつか要素があります。現代との大きな違いとして、球場の広さがあります。阪神の本拠地、甲子園球場は1991年まで左中間と右中間にラッキー・ゾーンがありました。バース選手は高い飛球を打つ傾向にありましたので、広い球場では外野手に捕球されてしまうような打球でもスタンド・インと言うケースがあったと思われ、これは打率、本塁打の向上に有利でありました。
 投手の質も米大リーグや現在の日本とは少し違ったと思われます。今から30年も前、当時の日本の投手は球速にして140 km/h前後がせいぜいで、これを超える球威がある投手は各チームに1人、2人であったと思われます。1985年の巨人には江川(11勝7敗)、斎藤雅(12勝8敗)、槇原(4勝7敗)各投手がいて、これほどの速球投手が揃っているチームは珍しく、多くのチームがエース投手や抑えの切り札のみが140 kg/hを超える速球を投げるものの、控え投手の球威の無さは米大リーグの比ではなく、速球に弱かったバース選手にはもってこいの環境でありました。
 優良外国人選手に共通の要素として、野球に対して極めて真面目であったことも言われています。バース選手は来日当初、アウトローの落ちる球に空振りを繰り返していました。低迷する阪神が第3の外国人としてリチャード・オルセン投手を獲得した際、日本の野球に適合していると評価されたスティーブ・ストローター選手を残してバース選手を解雇するプランがあったそうです。結局、球団がストローター選手を解雇してバース選手を残留させたのは、彼の態度、努力、人格を評価したと言われております。

ランディ・バース写真

【ランディ・バース選手 年度別打撃成績】
バース年度別成績


◇ アレックス・ラミレス Alexander Ramirez

 アレックス・ラミレス(Alexander Ramon Ramirez、1974年10月03日〜)選手は、ベネズエラ出身でヤクルト、巨人、横浜DeNAに所属、歴代外国人野手で唯一、2000本安打を達成、名球会選手であります。2016年現在、横浜DeNAの監督であり、これは同球団史上初の外国人監督であり、日本プロ野球では初のアメリカ人以外の外国人監督であります。
 米大リーグ時代はピッツバーグ・パイレーツにてスタメン起用されていたものの、極度のスランプに陥りチャンスをものにできなかったようですが、先述のバース選手同様、守備力は乏しく、果たして長期に渡り大リーグで活躍できたかは疑問でした。
 主としてヤクルト、巨人での活躍は記憶に新しいところですので解説の必要はないと思いますが、彼の偉業の中で、この選手を語る上で忘れてはならないのが2007年の成績であります。122打点、204安打、打率 .343、すなわち「100打点、200安打、打率3.00割」以上であり、これは、松井選手、イチロー選手も記録したことがない、日本プロ野球史上唯一の記録であります。
 ラミレス選手の打撃は、癖がない至ってオーソドックスな印象でありましたが、好打者に共通する、引っ張り専門ではない、右方向に追っ付ける柔軟なものでありました。彼の最大の特徴は、バッテリーの配給、とりわけ捕手のリードに対する研究でありました。「試合を支配する要素の70%はメンタリティー、残り30%がフィジカル」との考え方から、捕手が配球の主導権を握る日本野球のスタイルに合わせて、「捕手を中心に研究する」ようになったとされます。このあたりは、米大リーグには無い日本の野球にアジャストした結果と言えるかも知れません。

ラミレス2000本安打

【アレックス・ラミレス選手 年度別打撃成績】
ラミレス年度別成績


◇ タフィー・ローズ Tuggy Rhodes

 本名、カール・デリック・ローズ(Karl Derrick Rhodes、1968年08月21日〜)選手は28歳での来日で41歳まで現役でありました。日本プロ野球では唯一の400本以上の本塁打を記録した外国人選手であります。
 米国においては、1988年の1Aで65盗塁を記録するなど、俊足の中堅手として期待された選手でしたが、本人は長距離打者を目指しており、これが大リーグに残れなかった理由とされます。1994年のシカゴ・カブス時代、ニューヨーク・メッツとの開幕戦に先発出場して、ドワイド・グッデン投手から3打席連続本塁打を記録しました。この経験がさらに彼に、俊足を生かす選手よりもパワー・ヒッターをビジョンさせたのかも知れません。
 さて、ローズ選手の年度別で目を見張るのは、何と言っても三振の多さだと思います。近鉄入団から、規定打席に到達しなかった、オリックスでの選手生活最終年の2009年に途絶えるまで、日本プロ野球在籍の13年中、12年間に100三振以上を記録、130三振以上は7回に及び、合計では1655三振を数えました。1度もシーズン100三振を経験しなかったバース選手やこの後に紹介するロバート・ローズ選手とは雲泥の差であり、また年を重ねるにつれて三振数が減ったラミレス選手とも違う、むしろ三振数は歳と共に増加しております。
 そんな、昔の言い方で「大型扇風機」と揶揄されるような選手でありましたが、シーズンの打率は3割超えが3回あり、通算では .286とまずまずでありました。三振が多いのに打率を稼げて長打力がある、と言うのは、この選手が類い稀なる身体能力に恵まれているからと思います。スウィング・スピードの速さ、ボールを遠くに飛ばすパワーであります。つまり、引っ張り専門の荒い打者なので、空振りは多いものの、バットに当たりさえすれば詰まってでもヒット・ゾーンに打球が落ちる、そんな打撃スタイルであった、日本で成功した最大の理由はその優れた身体能力を上手に活用したため考えます。

タフィーローズ写真

【タフィー・ローズ選手 年度別打撃成績】
タフィローズ年度別成績


◇ ロバート・ローズ Robert Rose

 ロバート・ローズ(Robert Richard "Bobby" Rose, 1967年3月15日〜)選手は、ブログにていずれは必ず取り上げたい大洋〜横浜の歴史上最高の外国人選手であります。同時に申し上げたいのは、本年4月9日に他界した 故 牛込 惟浩(うしごめ ただひろ、享年79歳)氏の、大洋〜横浜、外国人スカウトとしての集大成であり、最高の仕事であったと言うことです。

牛込氏とその著書
故 牛込 惟浩 氏 と 著書「サムライ野球と助っ人たち 横浜球団スカウトの奮闘記」

 ロバート・ローズ選手は、1985年の米大リーグ、ドラフト5巡目指名選手であり、1989年、カリフォルニア・エンゼルスでメジャー昇格した際には、将来を嘱望される野手であったそうです。故牛込氏の記述では、1989年、別の選手の視察でエンゼルスのキャンプを訪れた際に、知り合いから「とても有望な選手がいるよ!」と紹介されたのがロバート・ローズ選手であり、それ以来、注目していたとのことでした。1992年5月、ニューヨークからボルチモアへ移動中だったバスが交通事故を起こして足を故障したためマイナーへ降格となり、そのオフ、横浜大洋ホエールズ球団(直後に「横浜ベイスターズ」に改称)との契約となりました。 彼は、この、日本のプロ野球チームへの入団を心から喜んで、契約書を胸に抱いて寝た、との逸話が残っております。今から24年前の1992年11月、ローズと言う名の選手の入団を知った私は、ふと「ピート・ローズくらいに働いてくれればなぁ!」と思ったものの、年俸3500万と知りちょっとがっかりしたのが想い出されます。スナップ・スローでダブルプレーが採れる「守備の人」との振れ込みでありました。

ロバートローズ守備写真

 ロバート・ローズ選手にとって幸いであったのは、ミルウォーキー・ブリュワーズやシンシナティ・レッズで活躍し、知名度が高く、大リーグの大先輩であるグレン・ブラッグス選手が同時に入団したことだったと思います。各球団のマークが分散したと言うことはあります。それ以上に、大変、優しいタイプの人間ですが、元々の真面目な性格に、ブラッグス選手の熱さ、ガッツや不屈の精神のようなものを教わったように思います。ブラッグス選手と一緒にいた3年間がその後の5年間に大きく影響したように考える次第です。

ブラッグスとローズ写真

 ロバート・ローズ選手の打撃は、多くの種類のバッド・スウィングを繰り出し、広角打法であり、軽打あり、強振あり、押っ付けた打撃ありで、極めてバラエティに富んでいたと思います。巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかく単打を打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とされるほど恐れられており、鹿取義隆コーチは「投手から見ると、どこに投げても打たれそうな雰囲気のあるバッターでした」と語っています。横浜時代同僚だった駒田徳広氏は、「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットにしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間に打球が飛んでいく。その技術は凄かったですね」と語っております。
 他の選手同様、打撃成績を下に供覧しますが、取得したタイトルは、首位打者 1回 (1999年)、打点王 2回 (1993年、1999年)、最多安打 2回 (1999年、2000年)、最高出塁率 1回 (1997年)、最多勝利打点 1回 (1994年)でありました。「お祭り男」のような要素もあって、史上唯一のサイクル安打3回(1995年05月02日 中日戦、1997年04月29日 ヤクルト戦、1999年06月30日 広島戦)を記録、4回出場したオールスター・ゲームのうち、1999年第2戦目には1試合最多タイの6打点をたたき出しました。1998年、大洋〜横浜球団として38年ぶりのリーグ優勝、日本一に輝いた「マシンガン打線」の4番バッターでありました。
 日本プロ野球における通算打率 .325は、生涯通算打率ランキングの条件である4000打数に71足りないものの、ランキング1位のレロン・リー選手の .320を上回っており、横浜時代に記録した1275安打は、外国人選手が一球団で放った安打数としてはロッテのレロン・リー選手に次いで史上2位であります。

 レロン・リー(11年)  1315試合 5485打席 4934打数 1579安打 283本 33盗塁 690三振 .320
 ロバート・ローズ(08年)1039試合 4525打席 3929打数 1275安打 167本 16盗塁 566三振 .325


 彼が日本で成功した理由、彼の研究心は、日本の投手やバッテリーの配球よりも、自身の打撃、身体能力に向けられていたように思います。打撃フォームがシーズンによって少しずつ変化して、例えば、来日時にはしっかりとしたクラウチング・スタイルでしたが年を経て徐々に起きて来たように記憶しています。スタンスも大きくオープンだったことも、スクエアだったこともあります。
 8年間で体型も随分変わりました。筋肉トレーニングを趣味のように重ねていましたので、年を追う毎にマッチョマンへと変身してまいりました。1996年、大矢監督の下、三塁にコンバートされた際に打撃不振となり、最終的には三割( .304)に到達したものの、16本塁打は助っ人外国人としてどうか?、と球団側がパワー面を物足りなく思っていたことがありましたが、弛まぬ努力の結果、パワー・ヒッターとしても開花し、1999年には37本塁打を記録するまでになりました。

ロバートローズ写真

 ロバート・ローズ選手 日本球界復帰のニュース YouTube

【ロバート・ローズ選手 年度別打撃成績】
ロバートローズ年度別成績


◇ 来日してから成功を修めた外国人野手たちを振り返って

  「歴代最強助っ人外国人、週刊ベースボール社が球界人200人に聞いたベスト10」の中の、第01位 ランディー・バース、第02位 アレックス・ラミレス、第04位 タフィ・ローズ、第05位 ロバート・ローズ 各選手について簡単に触れてまいりました。この4人の外国人選手に関して言えば、米国では、レギュラー選手にはなれず、成績を残せなかったものの、日本では水を得た魚のように活躍することができました。これをもって、日本の野球が米大リーグよりもレベルが低いとするのは早計かも知れません。新天地で真剣に野球に取り組んで、球団は「助っ人」としてチャンスを与えて、同時にプレーヤーとして最も脂が乗り切った「旬」な時期を日本で過ごしたと言えます。もし、この外国人たちが活躍した同じ時期に米大リーグにいたとしたら、やはり同じように活躍したかも知れない、それくらいハイレベルの選手たちでありました。
 また同時に、これらの選手と同様に、米大リーグでは活躍できなかった、あるいはそこそこの成績であった選手で、助っ人として来日したものの、日本でもいい仕事ができなかった外国人は無数におります。来日する助っ人外国人が日本で活躍するかどうかは、必ずしも日米野球の優劣では決められない、ピート・ローズ氏が言うところの、「(元近鉄の)タフィー・ローズはメジャーではさっぱりだったが、日本では55本塁打を放った、これが真実だ。」と、「来日してから成功を修めた外国人野手たち」という、ある一面だけを見て米大リーグの優位性を言うことは難しいと思います。

 もう一つ、心情的なことを言わせていただきますと、上で挙げたような外国人たちは日本のプロ野球において多くの夢を与えてくれた存在であります。異国から来た選手とは言え、彼らの熱意と努力を垣間見た時、日本の野球のレベルが低いから活躍できたのだ!、とは簡単に言えない気持ちはありますね。
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