アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

歴史上最多の子孫を残したチンギス・カン(改訂版)


 人類に最も多くの子孫を残した人物がいたとされます。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、なかなか思い出せず、いろいろと調べて、やっと見つけました、モンゴルの建国の英雄として知られるチンギス・カン(1162年頃? - 1227年8月18日頃、在位:1206年 - 1227年、幼名はテムジン)です。

 世界人口の半数以上を統治する人類史上最大規模の世界帝国

 最終的には、当時の世界人口の半数以上を統治するに至る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げ、世界中でもっとも子孫を多く残した人物とされる、チンギス・カンを取り上げます。

チンギスカン


◇ チンギス・カンのモンゴル統一

1.出生から成人まで

 チンギス・カンは、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がった遊牧民、モンゴル族に生まれました。チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書「元朝秘史」には、チンギス・カンの遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立った夫婦であること、その11代後の子孫は早くに亡くなりますが、その未亡人が天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けたこと、そして、その末っ子が繁栄して、その家系にチンギス・カンが生まれたことが記されています。

 祖先の逸話が歴史書に伝えられる家系

 「元朝秘史」と、それとは別にモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録である「集史」によると、チンギス・カンが誕生した時、父親であるイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たとされます。このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられております。

 捕縛して連行した敵の名前を長男に命名

 モンゴル族の長である父イェスゲイは、かなりの有力者で勢力を拡大して行きましたが、テムジン(チンギス・カン)が10歳くらいの時、敵対するタタル族に毒殺されてしまい、その勢力は一挙に瓦解してしまいます。父の死後、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中、母親であるホエルンは女手一つでテムジンら子供たちを育てましたが、テムジンが成長したところで、イェスゲイの子が成長して脅威となることから、タイチウト族に囚われとなる絶体絶命の出来事もありましたが、タイチウトに隷属民として仕えていたソルカン・シラに助けられたとされます。


2.モンゴル族再興から部族統一まで

 成人したテムジンは、コンギラト族の長デイ・セチェンの娘で幼少期の許嫁でもあったボルテ・ウジンと結婚し、モンゴル族の民もテムジンの元に戻り再興を果たしました。しかし、モンゴル族再興の後、宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、妻であるボルテを奪われましたが、父の同盟者であったケレイト族長トグリルや、テムジンの幼馴染であるジャダラン族の長のジャムカらの協力で、メルキト族と戦闘し勝利、ボルテの奪還に成功しました。ただ、残念なことに、ボルテはその時、父親が分からない子供を身ごもっていたと伝えられます。

 妻ボルテを奪還したものの

 メルキト族に勝利したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となりました。彼の振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになりました。こうして勢力を拡大する彼と、メルキト族との戦闘で協力を受けたジャムカとの関係は冷え込んでいきました。
 ある時、部族間の家畜を巡る争いから、テムジンはジャムカと戦闘に及び敗れますが、勝利後のジャムカの残虐な振る舞いからジャダラン族の中からモンゴル族へ投降する人間が出てきました。かえって勢力を拡大したモンゴル族、テムジンは、ジャムカ率いるジャダラン族と、かつて妻ボルテを奪ったタイチウト族、そして父を毒殺したタタル族を破り、ここにモンゴル高原の中央部の覇権を確立しました。1195年頃、チンギス・カン(テムジン)が32、3歳ぐらいのこととされます。

 モンゴル高原の中央部の覇権を確立

 しかし、その頃、父親の同盟者であったケレイト族長トグリルの息子イルカ・サングンと対立し、ケレイト族に亡命したジャムカの讒言でモンゴル族は奇襲を受けてテムジンは北に逃れることとなりました。勢力を回復させたテムジンは再びケレイト族と争い、これを滅ぼし。その後はメルキト族とナイマン族も滅ぼして、オングト族を服従させてテムジンは高原の部族の統一を果たしました。この間、宿敵ジャムカを捉えて処刑しています。


3.モンゴル帝国大汗(だいハーン)

 1206年にテムジンは各部族の長を集めるクリルタイを開き、全部族の統治者である大汗(だいハーン、アジアにおける君主の呼称の一種)に即位しました。この時からチンギス・カンと名乗り、モンゴル帝国が創設されることとなりました。

チンギスカンの即位
1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによりチンギス・カンとして即位


◇ チンギス・カンの征服事業

1.西夏(中国北西部)・ウイグル王国を服属

 西夏(せいか)とは、1038年、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部に建国した王朝であります。上記クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていました。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立しましたが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させており、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせました。また、同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功しました。


2.金朝(中国)の征服

 帝国の建設を進めたチンギス・カンは、金朝(中国)に対する遠征の準備を進め、1211年に金と開戦しました。三軍に分かたれたモンゴル軍は、万里の長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らしたとされます。この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めましたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗しました。しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていきました。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となりました。なお、当時5000万人ほどいた中国の人口が、わずか30年後に行われた調査では約900万人になったされ、大量虐殺が行われたと考えられます。

 中国人の人口が1/5以下となるほどの大量虐殺

 こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服、併合しました。1215年には現在の北京をも包囲、陥落しております。


3.西遼・クチュルク(モンゴル高原東部)の征服

 このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していました。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧しており、、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂、そこにつけ込んで攻撃し撃破しました。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑され、西遼の旧領はモンゴルに併合されました。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は、西はバルハシ湖まで拡大し、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなりました。


4.ホラズム・シャー朝(中央アジア〜イラン高原)の征服

 1218年、チンギス・カンはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣しましたが、東部国境線にて殺されると言う事件がありました。その報復と言う名目で、チンギス・カン自らが20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達しました。モンゴル軍は三手に分かれて中央アジアを進行し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服、ホラズム・シャー朝は1220年までにほぼ崩壊しました。

ホラズム・シャー朝
ホラズム・シャー朝の領土


5.西夏(中国北西部)への最後の遠征

 1225年、西征より帰国したチンギス・カンは広大になった領地を、子供達に分割譲渡を計画したが、これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝が、ホラズム遠征に対する援軍を拒否しており、その上、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいました。チンギス・カンは帰国1年で懲罰遠征を決意し、1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲しました。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ちましたが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅しました。


◇ チンギス・カンの死とその遺言

 1227年、チンギス・カンは西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否したものの、このとき彼は陣中にて危篤に陥りました。軍の本隊はモンゴルへの帰途に就きましたが、1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で死去しました。「元史」などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られたとされます。
 彼は死の床で、遺言として、西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したとされます。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その死後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎を残したのでありました。

チンギスカン像(ウランバートル市内)
ウランんバートルのチンギス・カン像

1206年
1206年 モンゴル帝国領

1219年
1219年 モンゴル帝国領

1223年
1223年 モンゴル帝国領

1227年
1227年 モンゴル帝国領(この年、チンギス・カン死去)

1237年
1237年 モンゴル帝国領

1259年
1259年 モンゴル帝国領

1279年
1279年 モンゴル帝国領


◇ チンギス・カンのDNAを受け継ぐ1600万人

 2004年、オクスフォード大学の遺伝学研究チームはDNA解析に基づき、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表しました。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析から、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たとされます。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとのことです。逆算しますと、1人の人物が13世紀初頭、数百人から数千人の子どもをもうけた計算となり、当時、これだけの子どもをもうけることが可能だったのは、東欧からアジア大陸までをその勢力に治めた「モンゴル帝国」を築きあげた、チンギス・カン、ただ1人だったろうと言う考えであります。
 また、この研究を主導したひとりクリス・テイラーは、検出されたDNAがチンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザーラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげています。フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったといいます。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べています。

※チンギス・カンの子孫は食事無料!

 英・ロンドンにあるモンゴル料理店「シシ」では、限定した数日間の来店客に無料でDNA鑑定を行い、モンゴル帝国の始祖チンギス・カン(位1206~27年)の子孫と判明した客には食事を無料提供する試みを開始しました。父親から息子に受け継がれるY染色体を検査するため、鑑定を受けられるのは男性に限られます。このモンゴル料理店「シシ」によりますと、今回の企画は、モンゴルで再び姓を名乗ることができるようになったことをたたえるのが目的だそうです。モンゴルでは、過去70年間、国民の団結などを理由に、姓を名乗ることが禁止されていました。しかし1990年代に政府がこの政策を撤回し、国民に名字の登録を呼び掛けしましたが、国民の半分以上が、チンギス・ハンの家系が名乗っていた名字を登録したそうです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カン
http://dic.pixiv.net/a/チンギス・ハーン
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/124/news/
関連記事
スポンサーサイト