アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

大洋〜横浜を盛り上げた主役たち VOL.001 福嶋 久晃 捕手


 せっかく「大洋〜横浜を観て40年」なるカテゴリーを作っておきながら、 今年は(も)横浜はペナント・レースで最下位に喘いでおり、リアルな横浜DeNAに語るものはあまりない状況です。私が思うに、横浜ナインは、中畑 監督 がいなくなって寂しさを覚えている、喪失感に気が抜けているように思えます。人一倍、声を出して、激励して、最後まで諦めない、そんな戦う姿勢を前面に出していた中畑さんのリーダー・シップがありました。若い ラミレス 監督 にリーダー・シップが無いとは申しませんが、昨年とは違った雰囲気に横浜ナインはまだ戸惑っているように思います。

 ところで、以前から、少しずつ昔の大洋/横浜の選手、監督、コーチなどを取り上げて想い出話を記録したいと思っていました。でも、誰から始めよう?、などと躊躇していて始められないでおり、先日のゴルフの記事をきっかけに、福嶋 久晃 捕手 からスタートすることにしました。 今後、必ずしも歴史に残る名プレーヤーではなくとも、(私の)記憶に残る、選手に限らず、監督、コーチ、裏方であっても、思いつくままに取り上げて参りたく存じます。まずは、以下は国内女子ツアー「サイバーエージェント レディス」の記事です。


◇「晃子の影になれ」を乗り越えて 福嶋浩子が流した初めてのうれし涙

福島浩子優勝の記事

福嶋浩子と暁子
福嶋浩子38歳の春、姉晃子に涙で「苦しかったよ」
初優勝を決め号泣する福嶋浩子は姉晃子(左)から涙をぬぐってもらう

日刊スポーツ 5月2日(月)9時53分配信

 プロゴルフに疎い私は、福嶋 晃子 プロ(日米ツアー通算26勝)に4歳年下の妹がいて、同じプロゴルファーであったとは知りませんでした。もちろん、姉妹での優勝が史上初と言うのも初耳です。でも、福嶋姉妹のお父さんがどういう人かは存知上げております。大洋〜横浜大洋ホエールズの捕手、福嶋 久晃 氏 であります。さぞや、次女の初優勝に目を細めていることでしょう。


◇ 福嶋 久晃 氏 略歴

 福嶋 久晃(ふくしま ひさあき、1947年4月10日〜)氏 は、大洋〜横浜大洋ホエールズ、広島東洋カープに所属した捕手、内野手で、引退後は広島・大洋でコーチを務めました。旧名は「福嶋 久」で、長女はプロゴルファーの 福嶋 晃子 さん、次女は同じくプロゴルファーの 福嶋 浩子 さんです。

1.プロ入り前

 和歌山県東牟婁郡太地町の出身ですが、当時、この地は捕鯨が盛んであり、大洋ホエールズの親会社、大洋漁業の関係者が多数いらしたため、後のドラフト外入団では後押しされたのことでした。
 大阪PL学園時代に投手から捕手に転向し、3年生の1965年 春の甲子園に出場しますが、準々決勝で高松商に敗れました。同年夏は府予選準決勝で敗退しています。高校同期に、ロッテオリオンズで活躍した 得津 高宏 外野手、ヤクルトに在籍した 長井 繁夫 内野手 がいます。
 高校卒業時に広島よりドラフト8位で指名されましたが、これを拒否、社会人野球の大昭和製紙に入社、1966年の都市対抗に出場しました。この年のドラフト外で川崎球場を本拠地とする大洋ホエールズに入団しました。

2.大洋時代

 川崎球場を本拠地とした大洋ホエールズは1978年に横浜スタジアムに移転しましたので、1967年の入団の 福嶋 選手 は、大洋〜横浜大洋18年、広島で1年の19年の現役生活でありましたが、そのプロ野球人生の半分以上、11年間を川崎球場の大洋ホエールズで過ごしたことになります。なお、本名は 福嶋 久 でありますが、大洋入団後の1972年、名前を「久晃」に改名しております。

福嶋久晃 大洋時代の写真

 福嶋 選手 が入団した頃の大洋は、1960年の初優勝時の正捕手であり、当時の 故 三原 脩 監督 に「グラウンドの指揮官」と呼ばれた 土井 淳 選手 から故 伊藤 勲 選手 が正捕手の座を奪ったばかりでありました。後述の 故 秋山 監督 が 福嶋 選手 を起用するようになった理由として、Wikipediaでは 伊藤 選手 の「打率の低さがネックとなり」と記載されておりますが、それでは 故 伊藤 選手(生涯打率 .231)に比較して 福嶋 選手(同 .239)が大きく打率が高いかと言えば、そうでもなかったと思います。故 伊藤 捕手 は1969年のシーズン、23本塁打を記録し、これは大洋〜横浜大洋〜横浜〜横浜DeNAの現在に至るまで、捕手としての最多本塁打記録であります。小学生の頃、代打で本塁打を打った 故 伊藤 選手 の打撃に惚れ惚れしたものでした。

大洋 故伊藤勲 選手
故 伊藤 勲 選手 の打撃

 さて、故 秋山 登 監督 が就任した1975年、福嶋 選手 は、故 伊藤 捕手 とほぼ同等に起用されるようになりました。これについて、私の記憶の中では、故 伊藤 選手 に比較して、福嶋 選手 の方が捕手としての技量が上であったと考えます。細かいリードまでは分かりませんが、故 伊藤 捕手 は強肩でしたが二塁送球のコントロールが今ひとつで、また後逸も多かったように記憶しています。故 伊藤 選手 の前に正捕手であった 土井 選手 が得意としたとされる、マウンドの投手に顔を向けたまま一塁に矢のような送球でランナーを刺す送球や、バックホームの送球が目の前に迫ってくるまで、知らぬ顔して棒立ちになり、ランナーがスピードを緩めると、いきなり捕球体制をとり、タッチアウトにする「棒立ちタッチ法」は、私が記憶する 福嶋 捕手 は日常に多用しておりました。故 秋山 監督 は、もしかしたら、福嶋 捕手 の中に、岡山東商業から明治大学、大洋と18年間にわたりバッテリーを組んだ 土井 選手 と同等な捕手としての力量を見抜いたのかも知れません。

大洋 故秋山監督
故 秋山 登 監督

 こうして1975年より(1981年まで)年間100試合以上にマスクを被るようになった 福嶋 選手 が最高の成績を修めたのは横浜移転の2年前、1976年で、生涯で唯一の100安打とシーズン18本塁打を放ち、強打の捕手としてポジションを確立しました。


3.横浜大洋時代

 福嶋 選手 は、横浜移転の前年、1977年に第二期監督となった 故 別当 薫 氏 から、捕手として、スラッガーとして絶大な信頼を受けたと記憶しております。その証拠に、抑え投手がいなかった横浜大洋は南海の 佐藤 道郎 投手 を獲得するために、かつての正捕手で、スター・プレーヤーであった 故 伊藤 捕手 を放出しております(田村 政雄 投手とともに1:2の交換トレード)。

福嶋久晃 横浜大洋時代の写真

 横浜移転の1978年は、川崎最後である前年の借金17から貯金7を記録し、大洋にとして3位になった1971年以来7年ぶりの勝ち越しでありました。故 別当 監督 の花道となる1979年、横浜大洋は2位と躍進し、横浜スタジアムができて間もない頃に、確かな輝きを放った横浜大洋ナインの扇子(おうぎ)の要が 福嶋 捕手 でありました。

福嶋本塁死守

 先述の、1960年、初優勝の際に正捕手であった 土井 淳 監督 が就任したペナントレース開幕戦、1980年4月5日、横浜スタジアムの9回裏、代走で出た 屋鋪 要 選手が二塁盗塁を決めたところで、平松 政次 投手と投げ合った、巨人 江川 卓 投手 から 福嶋 選手 はレフトにサヨナラ・ヒットを打ち、この年も大いに期待されるスタートとなりました。

福嶋打撃

 ところが、土井 監督 は、福嶋 捕手 のことをあまり買ってはいなかったように思えました。なぜなら、監督は無線を使って 福嶋 捕手 に投手の配球の指示をする、変わった采配を始めました。いつまで続けたかは知りませんが、バッターと最も近いところに守り、投手と正対して、ダイヤモンドの中心に位置する捕手を信用しない 土井 監督 の采配はチームを大きく迷走させました。1980年は4位、1981年には42勝80敗、勝率 .344と記録的大敗で最下位、土井 監督 は9月24日に休養となりました。
 1982年、横浜大洋は 関根 潤三 監督 を招聘し、ヤクルト、日本ハムで活躍、パリーグを代表する捕手であった 加藤 俊夫 選手(44歳)を 岩井 隆之 内野手 との交換トレードで獲得、この年は、もとよりいた 辻 恭彦 選手(40歳)、福嶋 選手(35歳)とともにベテラン三人捕手体制でありました。この年、再生を目論んだ 平松 投手 や、新人、若手投手の球を主として最年長の 辻 捕手が受けるなど、バラエティに富んだ捕手起用が話題となりました。

福嶋、加藤、辻捕手
1983年 自主トレにて 左から 福嶋 久晃、辻 恭彦、加藤 俊夫 選手

 しかし、若手が育たず、ベテランに捕手を依存していた、1983年当時の横浜大洋が取った方策は、日本中をびっくりさせるものでした。阪神の 江本 孟紀 投手 退団より、同球団への批判を繰り返し、1982年に自由契約となり、米国マイナー・リーグの特命コーチをしていた 若菜 嘉晴 捕手(30歳)を獲得したのでした。若菜 選手 はいとも簡単に横浜大洋の正捕手となり、辻 選手 は1984年で引退、加藤 選手 は1984年のシーズンは代打で活躍しましたが1985年を限りに引退となりました。福嶋 選手 は、関根 監督 の下、1984年より一塁を守るようになりました。

4.広島移籍から引退へ

 1985年、福嶋 選手 にとって最後のシーズンは広島に移籍となりました。この年の開幕、阪神戦では代打で出場し、抑えの 山本 和行 投手 からサヨナラヒットを放つなど右の代打としても活躍しましたが、同年限りで引退となりました。

5.引退後〜現在

 福嶋 氏、引退直後、1986年の広島の二軍バッテリーコーチ補佐を経て、古葉 竹識 氏 が監督に就任したのを期に横浜大洋へ復帰、1987年から1989年まで一軍バッテリーコーチを務めました。その後は神奈川県内でフランス料理店を経営するかたわら、娘、晃子のキャディーを務めております。また、晃子、浩子姉妹のマネージメントを行う株式会社インタープレイスの代表取締役でもあります。野球解説は一時期、J SPORTSで行なっていましたが、現在は活動していません。2016年には、アマチュア野球指導資格を回復し、岡山の関西高等学校のコーチを務めております。


◇ 福嶋 久晃 氏 記録

1.背番号

 56 1967-69年 大洋
 10 1970-77年 大洋
 10 1978-84年 横浜大洋
 10 1985-85年 広島
 85 1986-86年 広島
 87 1987-89年 横浜大洋

2.年度別打撃成績

福嶋久明選手年度別打撃成績

3.オールスターゲーム出場

 3回:1976年、1977年、1981年


◇ ファンマガジン 横浜大洋 81総集号「特集 福嶋 久晃」

 さて最後になりましたが、横浜大洋ホエールズのファンマガジン、1981年 総集号に「特集 福嶋 久晃」が掲載されておりましたので、少しだけご紹介します。

福嶋特集表紙

 多くのご自宅での生活が写真入りで紹介されていて、目を引いたのが奥様、静江さんの中学時代の写真が 福嶋 氏 のアルバムに保管されておりました。

奥様スナップ写真

 その奥様、静江さんとご一緒のインタビューも掲載されておりました。全文は長いので、ほんの一部をご紹介いたします。

 *****

助け合い、信頼の“二人三脚”

夫婦対談記事

 〜〜 ご結婚は何年ですか?
 夫人 子供が49年ですから…
 福嶋 47年だな。
 夫人 結婚したとき蓄えが4万しかなくってそんなところからのスタートだったんです。
    大変なときに結婚しちゃって。
    3 年待ってくれって主人に言われたんですけど、押しかけてきちゃって(笑)。
 〜〜 “押しかけ女房”でしたか(笑)
 夫人 わたしの母が、女の子3人も家に置いとけない(笑)、早く決めた方が良いって。
    母は福嶋さんで決めてたんですけど、父はまた別に考えていたみたいで。
    多少は反対はあったのね。
 〜〜 福嶋さんの3年待ってくれ、というのは?
 福嶋 ぼくの腹には、とにかくまだ給料が安いし、生活もできない。
    それが取れるようになるまで、あと何年か待ってくれ、ということだね。
 〜〜 47年(1972年)というと、まだレギュラーをつかんでいないときですね。
    奥さんが内職されたという…。
 夫人 もう、恥ずかしいんです。
    そういうのばかり取り上げられて、“内助の功”っていわれて…。
    主人には内緒で始めたことなんです。
 福嶋 やっぱり男として辛いものねえ。
    遠征から帰ったら内職してたなんてね。
 夫人 押入れに隠したりしてね。
    わたしにもっと能力があれば、他にいくらでも仕事があるんでしょうけれど…。
 〜〜 今はたいがいある程度名をなして、それからお嫁さんを迎えようという風潮のようですが。
 夫人 いいときに結婚したら分からないこと味わっちゃったのね。
 福嶋 そうだな、一番苦しいときに一緒になっちゃったものな。
    ほとんど金なかったものな。
    用具代も随分いったしな。
 夫人 だから今の若い人たちが、はたして落ちたときガマンできるかどうかよね。
    よく二人で話すの、苦しい時代を踏んできたんだから、何があっても怖くないって。

 (以下略)

 *****


 どうも、ごちそうさまでした(笑)。

 今年の横浜は、捕手固定を目論み、新人の 戸柱 恭孝 捕手(26歳、2015年ドラフト4位)をほぼ全試合に起用しています。そのことの是非は、もう少し、経過を見ないと判定はできませんが、この新人、実によく頑張っていると思います。そして、その彼の背番号が「10」と 福嶋 捕手 と同じなんですね。約30年の時を経て、背番号「10」の扇子の要が再現されております。


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