アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

真実は? 「日航ジャンボ機墜落事故」、疑問と疑惑

 先の「日航ジャンボ機墜落事故」について、今度は公に言われている疑問点、非公式に噂されている疑惑にまで言及します。

◇ 公式に発表されている事故対応への疑問

1.放射性物質の存在?のため捜査を待機

 事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されており、また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていました。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があるとして、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたとのことでした。

2.米軍ヘリから激しく遅れた自衛隊の墜落現場到着

 最初に墜落現場を発見したのは米軍ヘリであり、墜落事故直後には現場に到達して、救助活動は行わずに立ち去った模様です(後述)。もしそうだとしても、墜落現場についての情報が、在日米軍横田基地から政府、自衛隊など、日本の機関に報告されたはずです。しかしながら、消防、警察や、災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、正確な位置情報については誤報が繰り返され、翌13日の朝まで現場に到達することはできませんでした。墜落直後には多数の生存者がいた可能性があって、早期の救助活動が要求される局面で、なぜ、それほどまでに情報共有がなされなかったのか極めて疑問であります。

3.墜落現場の特定の遅れと二転三転の報道

 先の記事で、123便墜落現場は「8月13日04:30航空自衛隊救難隊、05:10の陸上自衛隊ヘリ、05:37の長野県警ヘリにより墜落現場の確認」と述べました。これは公式に発表されたものです。上述のごとく、早い段階(墜落の20分後、8月12日19:20頃?)で米軍ヘリが123便墜落現場に到達していたのに、自衛隊の現地確認は翌朝でした。
 123便の墜落現場は現地付近に住む住民によってかなり正確に特定されておりました。群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時、元海軍少佐、零戦パイロット)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断、土地勘のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請したそうです。しかしながら、8月12日、夜23時頃、一番先に捜索のため到着した機動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、道案内を頼んでおきながら機動隊員から 「その場所は違う、こっちだ」と根拠のない主張をされたそうです。墜落現場はスゲノ沢だと言うと 「いいやそこではない、中ノ沢だ、上官の命令だ」とも、、、。わざと捜索の場所を変えさせて、しかも足取りが遅い機動隊員は、ついに夜明けまで墜落現場にたどり着けませんでした。

 現地住民の誘導に対して否定する発言、足取りの遅さ

 しかも、その8月12日の夜、NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行っていました。埼玉県三国山、長野県御座山、群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠などなど、これらは御巣鷹山から8-10 kmの円のなかに入ります。前出の上野村村長、黒沢丈夫氏は、政府の墜落地点の計測ミスに怒りを隠さなかったとされます。零戦時代の知識でも特定可能なのに、現在の技術で墜落地点が特定できないはずはない、と、、、。

 NHKの墜落現場報道は御巣鷹山周囲で二転三転

 墜落現場の特定が遅れたのは「わざと遅らされていた」のではないか?、救助隊を分散させ、数時間にわたって、御巣鷹山に誰も近づけないようにする何らかの「作為」が働いたのではないか?、報道が二転三転して正確な墜落地点を示さなかったのは、現地の人が現場に行くのを阻む目的だったのではないか?、と言う事です。

4.他の生存者に関する認識の不一致

 生存者の証言によれば、墜落直後には相当数の乗客が生存していた可能性がありました。救出された当時12歳の少女の証言によると墜落した直後は周囲からがんばれという励ましや、早く助けに来ないのかなどという話し声が聞こえていたが、次第に静かになっていったと語っています。

【川上慶子さん(当時12歳)の証言】

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 墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。

川上慶子写真

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 こうした証言から、救出が早ければもっと多くの命を救えたのではないかという意見があります。しかし、事故調査報告書は、この点については事実認定をしておらず、生存者4名以外は即死もしくはそれに近い状況であったとしております。

5.十分に解明されなかった垂直尾翼破壊の原因

 123便を撮影した写真から、同機は垂直尾翼の大部分を失った状態で飛行していたことが判明しており、垂直尾翼の破壊が本事故の大きな要因であることが考えられました。しかし、事故機の垂直尾翼の破壊過程については、尾翼の回収が部分的であるため、その詳細は特定できなかったとしています。損壊した垂直尾翼について、事故から2か月以上が過ぎた1985年11月に、海上保安庁の協力を得て相模湾周辺の海底探査が行われましたが、何も発見できずに打ち切られており、垂直尾翼の大半は回収されませんでした。

日航機垂直尾翼

 事故の翌年、1986年4月25日に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会では、公述人として参加した技術関係者や学識経験者から、事故原因の究明に重要な要素である垂直尾翼の破壊過程が十分に解明されていないと言う意見、尾翼の捜索も不十分であるという指摘がなされました。

6.事故調査報告書の「急減圧」に対する否定意見

 事故調査報告書では、事故原因として、圧力隔壁の損壊部分から与圧された客室内の空気が流れ出したことで、機内には相当な減圧が発生したと推定しています。事故調査委員会はこの減圧についての計算を行い、異常発生の8秒後には機内の与圧はすべて失われ、気温もマイナス40度にまで低下したことを示唆しています。

 圧力隔壁の損壊なら酸欠、気温低下が起こったはず

 しかしながら、パイロットが急減圧発生時の所定の対応をとらず、酸素マスクを使用した形跡はありませんでした。生存者は、長女の美紀子さんと共に助かった吉崎博子さんは、急減圧に関して、「子供の世話をしていてマスクが外れることもありましたが、それでも苦しいとは感じませんでした。」、また、機内の室温急低下に関しては、「私は半袖のブラウスと長めのキュロットスカートという服装でしたが、特に寒いということはありませんでした。」と証言しています。圧力隔壁の損壊は機内の状況から考えてまったく否定的であることは明白なようです。

7.不自然に速い事故原因究明の幕引き

 運輸省航空事故調査委員会は、事故発生2日後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始しました。調査には事故機の製造国であるアメリカから、国家運輸安全委員会 の事故調査官らが顧問として加わっております。
 123便は墜落事故の7年前の1978年6月2日に伊丹空港にてしりもち着陸事故を起こしており、その際に事故機の製造者である米国ボーイング社が修理に当った経緯がありました。今回、事故から約1月も満たない9月6日、ボーイング社による声明が出され、1978年の「しりもち事故」の際の、同社による修理が不適切なもの(修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態、下図)であったことが今回の墜落事故の原因と発表されました。

ボーイング社の説明図

 これをもって公式な原因調査は終了しています。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声がありますが、現在に至るまで行われてはいません。ボーイング社があっさり、修理における自らの不手際を認めるのは不自然ですし、事故から1月足らずで事故原因の究明が終了するとはあまりにも速すぎる幕引きであったと考えます。


◇ 墜落後1時間半、幻に終わった米軍救出劇

 墜落事故からちょうど10年が経った1995年8月、日航ジャンボ機墜落事故当時、横田基地に駐屯、ロッキードC-130輸送機のナビゲーターをしていた元在日米軍中尉、マイケル・アントヌーチ氏が事故についての新事実を証言しました。

マイケル。アントヌーチ氏

https://www.youtube.com/watch?v=65krBx_Bblg

 1985年8月12日18:25日航123便が発信した緊急救難信号を、付近を航行していたC-130輸送機が受診しました。その直後に123便の機長と管制が英語ではなく日本語で交信しているのを聞いて、C-130輸送機に搭乗していたアントヌーチ氏は、重大な事態が発生していると思ったと供述しています。確かに18:32管制より123便に対して日本語での交信を許可した記録が残されています。
 18:56管制のレーダーから123便が消滅したのを受けて、米軍横田基地司令部はC-130輸送機に対して123便の捜索に向うよう命令しました。アントヌーチ氏によると、19:15巨大な山火事を発見、墜落地点として報告したとされます。C-130輸送機は現場の上空で旋回を続けて情報収集をしていたとされます。20:30頃、横田基地より、救難ヘリが向っているとC-130輸送機に連絡が入りました。また、キャンプ座間より米陸軍のUH-1ヘリコプターが到着、現場へと誘導し、ロープを降ろし救助を開始した直後、横田基地より中止を命じられ、帰還命令、またその事実も他言しないよう上官から命令されたとのことでした。

 米軍ヘリへの救助活動中止、その事実を他言しない命令

 生存者の証言によりますと、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったと言います。また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃しています。マスコミ各社は「日本側がアメリカ軍の救助協力を断った」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まりましたが、元在日米軍中尉、アントヌーチ氏が証言した救助活動中止と他言を禁止する命令は誰が何の目的で発したものかは今なお不明であります。


◇ 事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

 日航ジャンボ機墜落事故の夜、墜落現場付近の住民で山歩きに精通した若者が現場にまで訪れた人物がいました。このMさんと呼ばれる人のインタビューがネットに公開されております。全文でご紹介します。なお、この証言は、2009年6月、「(新)日本の黒い霧ブログ管理者」が講師を努めた小グループのセミナーにM氏を招いて、その席上で収録したものとされます。

事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

 *****

司会:それではMさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に
   向われたそうですが、まずその経緯を教えてください。
M氏:私の実家は、事故現場から観て西側、長野県の方にあります。当時
   は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆という
   こともあり、たまたま実家に帰省していました。事故の速報を知っ
   たのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現
   場は長野県の北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村や
   もっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋
   ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残る
   は南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向いました。
   たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行って
   みようということになりました。まだ、若かったですから、その時
   はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされ
   てテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませ
   んでした。オフロードバイクにまたがり、友人2人と共に南相木村
   に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入
   っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこ
   の行程から抜け、林道から先を進んだのはオフロードに乗った僕達
   2人だけです。
司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表
   は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したの
   ですか?
M氏:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐ
   るぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその音に中心
   付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクが可能な限り近く
   の林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。
司会:ええっ? じゃあもうその時点で墜落地点は判っていたと・・・
M氏:はい。当然、警察の分かっていたはずですよ。だって僕達が南相木
   村へ向っているその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。
   でも、普通のバイクなので切り返しの多い山道に難渋していて、オ
   フロードに乗った僕達は簡単に振り切っちゃいましたけど。林道の
   終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音
   がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところ
   を一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思い
   ました。
司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険
   だと思わなかったのですか?
M氏:あの辺の山の持ち主の息子とか知ってますし、一緒に山に入って遊
   んでましたから、どんなところかは大体分かっていました。松の木
   と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知って
   ますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。と
   にかく、対ら機現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませ
   んから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関
   係なく強引にいくつもの尾根を跨いで行きました。ですから、直線
   距離でわずか7、8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くま
   で6-7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったは
   ずです。
司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?
M氏:当時は時計を身につける習慣はなかったのですが、着いた時に山の
   尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思い
   ました。
司会:そこで何を見ましたか?
M氏:既に自衛隊員が7-80人、いや100人位は来ていました。それを見て、
   自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠
   牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こ
   えました。
司会:ええっ? その時に生きて声を出している人がいたのですか!! 
   どれくらいの人が生きていたのでしょう?
M氏:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくと
   も4-50人はいたと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人
   を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分
   たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもら
   うことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員
   さんに伝え、早い手当を頼んでいました。
   ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かす
   と危険なので」、後から来る部隊が手当することになっている」と
   言うだけで、何もしようとしない。手にした4-50cm位の丸いバッ
   グに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。
司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?
M氏:まだ暗くてよく見えなかったのでそれが何かまではわかりません
   でした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思って
   いました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手
   に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴は
   つま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく
   調べて入っているなと思いました。
   ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出た
   ら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないで
   すか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。
   しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバ
   ッグを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も
   吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと
   思います。
司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?
M氏:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着し
   て来ました。また、暗視スコープを装着した最初の部隊も引き上げ
   る体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山
   を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だった
   ので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました、
司会:4-50人いたという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょ
   う?
M氏:それは僕もずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝
   の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。
司会:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな
   人はいませんでしたか?
M氏:僕が見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいまし
   た。この程度なら死ぬことはないなと思い、救助活動(隊員への声
   かけ)を後回しにしたのをはっきり覚えています。あの人がどうな
   ったのか、僕にも分かりません。
司会:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告してい
   ます。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告
   をどう思いますか?
M氏:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれ
   てます。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせ
   ば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せる
   はず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
司会:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう。
M氏:それは見ていないので分かりません。
司会:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありま
   せんでしたか?
M氏:そういうことは特に感じませんでした。
司会:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不
   自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?
M氏:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の
   破片や遺体(の一部)が飛散していましたから。それにあの辺りは
   針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲
   に燃え広がるはず。それにしゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だ
   なぁ。
司会:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。
   しかし、Mさんは生きている何十人もの声を聞いている。この報告
   について、改めて感想を聞かせてください。
M氏:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことが
   できたはずです。
司会:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。
M氏:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒
   らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡が
   まるでない、それは山を知る者としてたいへん不思議な事です。
司会:ありがとうございました。

 *****


 M氏の証言に見る、日航ジャンボ機墜落事故の公式に発表されている報道との矛盾点、および公にされていない事柄は以下の通りです。

1.墜落現場が不明とされた時間帯に救助隊?が到達

 M氏が事故機の墜落現場に到達したのは13日04:00頃、この時にはすでに事故機の周囲に100人程度の自衛隊員が降り立って作業をしていたと証言しています。公式には、8月13日04:30航空自衛隊救難隊、05:10の陸上自衛隊ヘリ、05:37の長野県警ヘリにより墜落現場の確認とされます。

2.事故直後の生存者についての矛盾

 生存者についての見解は公式の報道でも矛盾が指摘されております。生存者の墜落直後は多くの生存者がいたとの証言は、M氏の証言とも一致しております。事故調査報告書には生存者4名以外は即死もしくはそれに近い状況であったとしていますが、M氏はもっと具体的に「指先が1本ちぎれただけの男」について証言しております。

3.M氏が見た自衛隊員は在日米軍?

 M氏は100人にも及ぶ自衛隊員が13日午前4時には事故機墜落現場にいて、その装備は片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグルと証言していますが、軍事評論家の説明では、当時において、この装備は自衛隊よりも在日米軍に当てはまるとされます。

4.人命救助よりも何がしかの物体を回収?

 M氏の証言の中に、ホバリングしているヘリコプターに地面から拾った物体を回収していたとあります。人命よりも優先する何かがあったことになります。

 このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会はありませんでしたが、2010年5月16日、江戸東京博物館にて、その日目撃したことの証言を依頼されました。ところが、講演の2週間前、アクシデントが発生、車の後輪がバースト、あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運転テクニックで回避したとのことです。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱線銃によるものと判明しました。さらに、「123便事件の真実について、これ以上語るのを止めよ」というメッセージが彼に送られたそうです。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができました。


◇ 日航ジャンボ機墜落に関する諸説

 以上の通り、日航ジャンボ機墜落事故には公式発表とはずいぶんと矛盾する、あるいは異なる事実、証言がありました。事故に先立って行われた不適切な米ボーイング社の修理、隔壁の接続部の金属疲労、などに伴う垂直尾翼の破壊によって、操縦不能となって墜落したとされる公式報道からはかけ離れた真実が別にあるような?、考えさせられます。123便墜落についての憶測をいくつか列挙いたします。

1.自衛隊による演習用ミサイル衝突説

 JAL123便が操縦不能になった原因は、飛行機の垂直尾翼が破壊されたことにあります。これを金属疲労が原因とする以外に、何らかの飛行物体が衝突したと考えるのも自然なことです。そこで、高度24000ft(7200m)の上空における飛行物体として考えられるものは飛行機かミサイルくらい(UFOも?)、そんなところかと存じます。

 実際、ボイスレコーダーなどの分析記録によると、操縦クルーや乗客の一部がその謎の飛行物体を目撃しているフシがあるとのことです。123便が羽田空港を離陸したのは18:12、水平飛行に移行した18:18過ぎであり、ベルト着用のランプは消えていたと考えられます。この時、123便の右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたとのことです。18:23
再度ベルト着用の指示がでます。18:24には、スチュワーデスが、「(トイレにいき)たいという方がいらっしゃるのですが、よろしいでしょうか」とコックピットに許可を求めています。これに対する、ボイスレコーダーに残された副操縦士の返答は「気をつけて、じゃ気をつけてお願いします、手早く、気をつけてください」であり、これは声紋分析で高度な緊張状態とされます。

 18:18ベルト着用のランプが消えて18:23再点灯
 18:24 副操縦士の高度に緊張した声


 謎の飛行物体を操縦クルーが視認した18:18時点の飛行機の高度は1万1300 ft(3440 m)ですが、衝撃音とともに尾翼が破損した18:24:35時点の高度は、2万3900 ft(7170 m)とのことです。わずか6分の間に1万2600 ft(3780 m)も上昇しました。123便は右前方から飛んできた飛行物体に対して、これを避けつつ高度を上げるものの、この6分間、飛行物体に追い掛け回され、ついには背後から垂直尾翼への衝突だったと考えられます。このことから考えて、謎の飛行物体は明らかに巡航ミサイルであると言えます。標的が、どのように高度を変えても、時々刻々自ら軌道修正を行い、標的を追い詰めて標的の後ろに回ろうとします。その結果が123便の垂直尾翼破壊だったのです。

 謎の飛行物体は巡航ミサイル

 18:24:35の衝突から、18:24:42と7秒後には機長より緊急救難信号、スコーク77を発信されました。この「スコーク77」は、国際緊急無線信号であり、めったなことでは使わない信号だそうです。仮に、事故調査委員会の言うように、圧力隔壁の破損が原因で尾翼が破壊された場合、「ドーン」という爆発音が聞こえただけでは、コックピットの中では何が起こったのか解らなかったはずであり、7秒後と言う速やかは「スコーク77」発信もあり得ないことです。機長は、謎の飛行物体に6分間もつけ回されていたからこそ、「ドーン」という音が聞こえた時、その飛行物体が垂直尾翼にぶつかったと確信して「スコーク77」を発した、そう考えるのが極めて妥当です。

 ミサイルによる6分間の巡航があったからこそ
 衝突7秒後のスコーク77発信


 では、どこから飛んで来た飛行物体なのかと言うと、1985年8月12日は、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」が試運航中であったことです。護衛艦は昔のことばでいえば戦艦です。戦艦の試運航というのは、単に海上を航行するだけではなく、兵装運用実験を行うことが大切な目的だそうです。

護衛艦まつゆき

 この「まつゆき」の実験の一環で、発射されたミサイルが、たまたま相模湾上空にさしかかった123便に衝突してしまった、と言う推測がなされております。それを裏付けるものとして、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた故小川哲氏(当時41歳)と言う人物が、123便に近づいて来るオレンジ色の飛行物体をカメラに収めたとされます。下の写真は、日航機墜落事故の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ったものです。

小川哲氏の写真

 自衛隊の失態に繋がることですので、事故調査委員会はそういう事実を知ったうえで、あくまで圧力隔壁破損が垂直尾翼破壊の原因であることで通してしまい、外部からの飛行物体の存在を隠す方針としたのではないか?、と言うものです。

2.自衛隊機による撃墜説

 JAL123便の目撃情報として、「ジャンボ機のあとを、戦闘機みたいなのが2機追いかけていった。」(浦和市の住民)、「飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。」(長野県南相木村中島地区の住人3人)。これらの証言はJAL123便の後から戦闘機が追従したことを物語っています。実際、この時間帯に自衛隊のF-4EJ戦闘機2機とF-15J戦闘機1機の計3機が飛行していたことが知られています。

 123便に追従する戦闘機2機の目撃情報

 さらに、墜落事故の翌日、8月13日の埼玉新聞の見出しは「夕やみに“火の玉”」とあります。埼玉県浦和市に住む住民と長野県の川上村住民は次のように言っています。「マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。」(浦和市の住民)、「埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた。」(長野県川上村の住民)。

 夕闇に「火の玉」と化した123便

 垂直尾翼が破損したくらいではジャンボ機が「火の玉」となることは考えづらく、上の証言を総合すると、何とか山中に不時着しようとしていた123便に対して、追従した戦闘機が人目につきにくい山かげに入るのを見極めてミサイルを発射したと推測されております。

3.核兵器使用の説

 JAL123便墜落の目撃情報に「ピカッと雷光のように走った閃光、黒いキノコ雲」と言うものもあります。墜落現場残留物にイエローケーキと言う物体が指摘されております。これは、核兵器に使用される軍用の濃縮ウランで、錬度が高く、レンガ色をしているそうです。墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、多くの人が体調に異変を来たしたそうで、その症状から放射性物質であると判明したとされます。

イエローケーキ

 元日航職員で、日航ジャンボ機墜落事故の陰謀説を唱えたために殺害されたと噂される故 佐宗 邦皇 氏の証言では、骨が約3 cm刻みの破片になって飛び散るほどの、広島原爆の30倍以上と推定される衝撃であり、これらは小型の核爆弾使用を示唆しているとのこと、、、。決して不時着態勢に入っていた速度の航空機のものではないとされます。
 東大地震研究所の微小地震計が、墜落時刻に異常振動を観測、記録しています。第1波は18:56:26、第2波は3秒後。これら2つの波は極めて微小な物でありました。これは、123便墜落の衝撃と考えられます。しかし18:56:31から観測された第3波は、約5秒間揺れ、その後も10秒近く揺れる大きなものでありました。最初の2つの波は航空機の地面衝突によるもの、しかし、第3波は広島原爆の30倍を超える小型核爆弾の衝撃ではなかったか?、との考え方があります。

4.情け容赦無い殺害部隊存在の説

 123便の墜落現場において、生き残った罪も無い乗客、乗務員にとどめを刺した者達の存在を指摘する声もあります。123便の生存者たちは、無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた、とするものです。

焼けこげた遺体

 上の写真は子供の遺体でありますが、頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになります。しかし、子供の遺体のすぐ周囲に生えた木立にはほとんど焦げ跡がありません。しかもこの写真を掲載した「フォーカス」の文面には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」と記載されています。

 周囲の木立に焦げ跡がないのに黒焦げとなった遺体

 この現象がさらに強いのは、コックピット内であり、焼き尽くされ何も無い、操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況だったと言われます。いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずですし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。当時、遺体の歯形で本人確認を行った 大國 勉 氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)は、「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」、と証言しています。

 骨の芯まで二度焼きしたような状況の遺体
 まるで火炎放射器で焼いた跡のよう


 周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのは、やはり、証拠隠滅のために火炎放射器で徹底的に焼き尽くしたからと言う説を後押しします。


◇ 日航機撃墜の理由は?

 上述の、「自衛隊による演習用ミサイル衝突説」であれば偶然の事故もあり得ることですが、もっと意図的に、あの日のJAL123便を撃墜する理由があったとの説があります。ここでご紹介するのは、上で申し上げた事故の本来の姿とリンクするものではなく、あくまでもこの事故の背景にあったものを推測するものであります。ここで挙げるのは、いずれも米国に有利となるお話でありますが、上の説明では、どちらかと言うと日本の自衛隊が犯人であるかの憶測が飛び交っております。これに対する説明に明確な説明をされている人は少ない印象ですが、NHKをはじめ、メディアを巻き込んだ、日米の国家ぐるみの意志であったと説明している人が多数いることをここで申し上げます。

1.プラザ合意から急速な円高へ

 日航機墜落事故の翌月、1985年9月22日、プラザ合意、G5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レート安定化に関する合意、がなされました。この歴史的な合意を機に、円ドル為替レートが250円/ドル台から1年後には一気に120円/ドル台に円が急騰しました。急激な円高を受けて、以降日本経済は輸出企業を中心に大打撃を被ることになります。そして日銀の窓口指導による、バブル創出、崩壊、金融ビッグバンによるM&A等で外資ハゲタカファンドの進出、郵政民営化、莫大な国富の喪失と続いて行きます。前出の故 佐宗 邦皇 氏は講演の中で、米国によるこのプラザ合意に従うよう日本政府への圧力がかかっており、その一環としてJAL123便の撃墜があったと言っております。

2.純国産オペレーティングシステム「トロン」完成を阻止

 墜落した日航機には、純国産コンピュータ・オペレーティングシステム「トロン」開発プロジェクトの技術者17名が搭乗しており、全員が亡くなりました。この「トロン」とは坂村健・東大教授(当時、助手)が開発した基本OSで無償のオープンソースでありました。
 95年に「Windows95」が日本に上陸しパソコン市場を席巻し独占しましたが、実はその当時、日本の多くのパソコンメーカーはOSとして「トロン」の採用を希望していたとされます。それがWindows95の独占的な採用になったのは、米国政府からの圧力だったのであり、「トロン」開発プロジェクトの技術者が死亡して、開発が遅れたことも大きく関係していると考えられます。
 もしもこのとき日本のメーカーがパソコンのOSを「トロン」にしていたなら、無償というメリットもあって世界中のパソコンに採用されていたかも知れないとされます。つまり、日本の基本OSが世界を席巻し、現在のマイクロソフト「Windows」の躍進やOS市場の独占も無かったかも知れないとのことです。


◇ 雑感

 文面は、いささかオカルトのような内容となりましたが、色々と調査するにあたり、背筋が寒くなる想いがありました。もしかしたら、「大きな嘘」がかえって明るみにならない典型かも知れません。もしも、米国や日本政府がメディアをも動かして闇の力に従っているとしたならば、29年も前のこの「事件」を、どうやって今後の教訓にして行くのかは難しいかも知れません。しかしながら、罪もない人々の死を痛む強い気持ちは、真実に目を背けず、真実を知ることを恐れない、真実を探求する勇気に繋がるものと確信します。

 29年目の夏を迎え、謹んで、亡くなられた方々の冥福をお祈りし、ご遺族の方へのお悔やみの言葉を申し上げます。
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57:国家犯罪

逆に真実が公表されるのも怖いですね・・・
知らぬが仏かも・・・

2016.08.28 13:12 Masa #bhhZubZs URL[EDIT] 返信

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