アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

真実は? 「日航ジャンボ機墜落事故」、公式発表より

 今年になって航空機事故が続いています。3月8日、マレーシア航空370便(乗員乗客239名)が、マレーシアのクアラルンプールから中国の北京に向けて航行中、タイランド湾上空で消息を絶ち、今なお発見されてはおりません。同じく、7月17日、アムステルダム発クアラルンプール行きのマレーシア航空機、MH17便(乗員乗客295名)が、ウクライナ上空を航行中、撃墜される事件が起きました。台湾では7月23日夜、台湾南部の高雄から澎湖島の馬公に向かっていたトランスアジア航空(復興航空)GE222便が墜落し、乗員乗客58人のうち48人が死亡する事故が起きました。

 こうして海外の航空機事故(事件)を見るにつけ、日本の航空機は久しく重大な事故に遭遇していないものだと思い返します。実際、日本の航空機が死亡事故を起こしたのは29年前に遡ります。8月になりますとあの時の記憶が蘇ります、日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、羽田発伊丹行同社定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故であります。乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名であり、死者数は日本国内で発生した航空機事故では2014年7月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多でとのことです。

日航機事故記事

 この通称「日航(ジャンボ)機墜落事故」が事故ではなく撃墜されたとの、ショッキングな説があります。「真実は?」、少し勉強してみました。


◇ 墜落事故当日のJAL123便

1.フライトプランと乗員乗客

 1985年(昭和60年)8月12日(月)
 日本航空(JAL)123便、ボーイング747SR-46(機体記号JA8119)
 18:00 羽田空港 発
 18:56 伊丹空港 着 予定

 機 長:高濱 雅己(49歳、運航部門指導教官、総飛行12,423時間41分)
 副機長:佐々木 祐(39歳、B747機長昇格訓練生、3,963時間34分)
 機関士:福田  博(46歳、エンジニア部門教官、9,831時間03分)
 乗務員:チーフパーサー波多野 純(39歳、10,225時間)以下、
     女性乗務員11名 (以上、乗員は15名)

 乗 客:509人 (以上、乗員乗客は計524人)

2.リアルタイムJAL123便

 墜落事故を起こしたJAL123便と、東京航空交通管制部、JAL本社、在日米軍横田基地の交信記録、さらにはボイスレコーダー、墜落地点周辺の調査結果から、JAL123便の羽田空港離陸から墜落までの出来事をリアルタイムに箇条書きにしてみました。不正確な部分はご容赦いただきたく存じます。

1985年(昭和60年)8月12日(月)

 18:04  JAL123便(以下123便)羽田空港18番スポットより遊離
 18:12 123便、同空港滑走路15Lより離陸
 18:24:35 相模湾上空、巡航高度2万4千f(7200m)直前の衝撃音
 18:24:40 頃、機長「なんか爆発したぞ」、オートパイロット解除
 18:24:42 123便、緊急救難信号(スコーク77)発信
 18:25 機長より緊急事態発生にて羽田への帰還の申し出、管制了承
 18:27 全油圧喪失、「ハイドロプレッシャーオールロス」と機関士の声
 18:27 頃、客室の気圧の減少を示す警報音、低空へ降下を目指すことに
 18:27:30 123便より緊急事態宣言、管制よりJAL本社に報告
 18:28 管制、123便に真東へ向かうよう指示、123便は操縦不能と返答
 18:31 管制より近傍の名古屋空港着陸を提案、123便は羽田行きを希望
 18:31 頃、客室乗務員より客室の収納スペースが破損したと報告
 18:32 管制より123便に対し日本語での交信を許可
 18:33 機関士より緊急降下と同時に酸素マスク着用を提案
 18:33 頃、JAL本社より123便に対し社内無線での交信を要求
 18:35 123便、R-5 ドア破損し緊急降下中と連絡、無線モニターを要求
 18:37 機長のディセンド(降下)指示も機は上昇降下の不安定飛行
 18:38 ランディング・ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため不可能
 18:40 ランディング・ギアの自重を利用してこれを降下
 18:40 管制、123便専用無線周波数を用意したが123便からの応答なし
 18:41 まで、上昇下降を繰り返し2万f(6000m)以上の高度を維持
 18:41 山梨県大月市上空で右旋回、高度2万fから6千fへ一気に降下
 18:42 123便を除く全航空機に無線周波数の変更を指示
 18:44 頃、埼玉県上空で左旋回、群馬県南西部山岳地帯へ進路変更
 18:45 無線傍受の在日米軍横田基地より支援、123便操縦不能との返答
 18:46 機長「これはだめかも分からんね」と発言
 18:46 管制より羽田空港の入域管制無との交信を提案も123便は拒否
 18:47 123便、木更津へのレーダー誘導要求、管制に操縦不能と返答
 18:47 管制より羽田空港の入域管制無との交信を提案、123便は了承
 18:48 123便、機長の荒い呼吸音が記録される
 18:48 頃、機関士より操縦する副機長に「頑張れ〜」の声
 18:49 JAL本社より社内無線での3分間の呼出しに123便は応答なし
 18:49 頃、機首39度に上がり、速度200km/hで失速警報装置が作動
 18:50 機長より操縦する副機長に対して「どーんと行こうや」の声

※この頃、東京都西多摩郡奥多摩町で123便を撮影した人がいて、その写真によって123便が垂直尾翼の大部分を失った状態で飛行していたことが初めて明らかとなった。
日航機垂直尾翼

 18:51 依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出される
 18:52 機体の安定が見られる
 18:53 管制より123便に交信、123便より「アンコントロール」と返答
 18:53 横田基地より緊急着陸の受入れ準備に入っていると返答
 18:54 123便より現在地の質問、管制、熊谷25マイル(45km)西と報告
 18:55:00 羽田空港、緊急着陸準備を説明、機関士「はい了解しました」
 18:55:01 機長の要請でフラップを下げて機体を水平に戻そう試みる
 18:55:12 フラップ降下直後、南西風に煽られ右に逸れながら急降下
 18:55:45 「あ〜っ」と言う叫び声
 18:55:50 機長「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との言葉
 18:56:00 機長パワーとフラップの上昇を指示、機関士が返答
 18:56:00 管制のレーダーから123便が消滅
 18:56:07 123便、機首は36度も下がり、ロール角も最大80度
 18:56:14 123便、対地接近警報装置作動、この時の速度は640km/h
 18:56:20 頃まで、機長「あたま上げろー、パワー」と叫び続ける
 18:56:23 123便の右主翼と機体後部が樹木と接触、機長「ダメだ!」
 18:56:26 衝撃音
 18:56:28 機体後部が分離
 18:56:30 123便、高天原山の斜面に前のめりに反転して衝突、墜落
 18:57:00 横田基地より基地への着陸を提案も123便からの応答なし
 18:59:00 管制、レーダーから123便が消失したことを発表

3.客室内の状況

 機内の状況を生存者の証言、死者が書き残した文章、写真などから推測した文章がいくつかあります。これらをまとめました。

 機内では、衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデッド・アナウンスが流れました。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクおよびシートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応をしました。一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われたとされます。

日航123便機内

 波多野チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示しています。生存者の証言によると、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたとのことでした。その後、乗客は衝撃に備える安全姿勢、すなわち、前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる姿勢をとりました。
 乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いました。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えています。一般的に墜落事故では、異常の発生から数分の余裕も無く墜落に至ることが多いのですが、この事故では18時24分の異常発生から30分以上にわたって飛行を続けることができたため、遺書を書く時間が与えられた極めて希なケースとされます。
 生存者によると「客室乗務員は終始乗客のサポートをしていた」と語っており、機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー(CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されています。その他、一人の客室乗務員による不時着後に備えて乗客に出す指示を列挙したメモや、異常発生後の客室内を撮影したカメラが墜落現場から見つかり、マスコミによって公開されています。

4.墜落状況

 JAL123便は、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するように衝突、墜落しました。衝撃で、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほどバラバラになり炎上したとされます。後の調査にると、機体の大部分に数百Gの衝撃が加わったとされ、両主翼も離断し炎上しました。

JAL123便残骸

 一方、56分28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落して行きました。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速したとされます。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しませんでした。従って、123便本体にいた人は即死もしくはそれに近い状況であったと考えられるのに対し、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇蹟的に生還できました。そのうえ、客室後部付近を中心に墜落直後の時点ではかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言もあります。


◇ 事故直後の対応

 123便墜落事故後の捜索と救助活動について、公式発表されているものを箇条書きにいたしました。

・18:28頃、千葉航空自衛隊中部航空警戒管制団で123便の緊急救難信号を受信、中部航空方面隊に報告、航空自衛隊の中央救難調整所が活動開始。
・18:56嶺岡山レーダーサイト当直司令は123便が墜落したと判断、F-4EJファントムによる緊急発進を提案、19:01百里基地よりF-4戦闘機が離陸。
・東京航空局東京空港事務所は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部を開設し、同機の緊急着陸体制を整えた。
・19:59管制のレーダーから消失の報を受け、東京救難調整本部は、防衛庁、警察庁、消防庁、海上保安庁などの関係機関に通報し、123便の捜索開始。
・レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけは継続。
・墜落の約20分後19:15頃、米空軍のC-130輸送機が、群馬・長野県境付近の山中の大きな火災とその位置情報を航空自衛隊中央救難調整所に通報。
・19:21頃、航空自衛隊百里基地から発進したF-4戦闘機2機も墜落現場の火災を発見、上空位置での横田タカン方位(300度)、距離(32マイル)を通報。
・墜落から約1時間後の19:54に、救難・救助のため見切り発進した百里基地救難隊のKV-107ヘリコプターは、46分後の20:42に現場上空に到着。
・20:33救難調整本部(東京空港事務所長)から航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)。

※当時のKV-107救難ヘリは両側面のバブルウィンドウ横に救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は可能でしたが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備の無いことなどを理由に、事故当夜の救難員が降下しての救助活動は行われなかったとしております。

・陸上からは、20:21長野県警臼田署のパトカーが埼玉県と群馬県境あたりの黒煙と通報。21:39には埼玉、長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見。
・12日深夜までに、長野県警より墜落現場は群馬県側の山中であると発表するも、その正確な位置情報については誤報が繰り返された。
・消防、警察や、災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、翌13日の朝まで現場に到達することはできなかった。
8月13日04:30航空自衛隊救難隊、05:10の陸上自衛隊ヘリ、05:37の長野県警ヘリにより墜落現場の確認
・墜落から約14時間が過ぎた08:30長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下、その後陸上自衛隊第1空挺団員が現場に降下して救難活動を開始。
・陸路からは上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着、ようやく本格的な救難活動が開始された。
・午前11時前後、4名の生存者が長野県警機動隊、上野村消防団などによって相次いで発見され、陸上自衛隊のヘリコプターで救助、病院に搬送された。


◇ 墜落事故の発生原因

 日航ジャンボ機墜落事故の原因として、公式には1987年6月19日、事故調査委員会(委員長:武田 峻)は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表しました。その要旨は以下の通りです。

・まず123便の後部圧力隔壁が損壊、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼が破壊
・4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失。
・圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなったために生じたと推定。
・その亀裂発生は、1978年の同機「しりもち事故」の際、米国ボーイング社による修理が不適切(修理交換した隔壁上下の接続強度の不足)であったことに起因。
・点検でこれらの異常を発見できなかった。


◇ 墜落事故を振り返って

 8月12日のあの時、私はなぜか大学のある街の自分のアパートでニュースを見ました。本来なら親元に帰省している時期なのですが、、、。もしかしたら追試かなんかがあったのかも知れません。大学の先輩の実家が群馬の田舎の方で、大きな音を聞いたと言っておりました。
 当時、20代前半の大学生であった私は公式発表に対してなんの疑問もなく受け入れておりました。社会も「金属疲労」と言う言葉を、新鮮な現象として認知し、受け入れていたと思います。

 疑惑について、あくまでも中立な立場を取る所存です。次の記事に続きます。
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