アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

現代において行われた!? 族誅(ぞくちゅう)

 昨日、処刑された北朝鮮の張 成沢氏(チャン・ソンテク、1946年2月6日 - 2013年12月12日)に関連する記事が目に入り、親族をも処刑したとのこと、あり得る話と思いつつも、現代においても、「族誅(ぞくちゅう)」と呼ばれることが行われたことに、背筋が寒くなる感覚を持ちました。まずは、その記事の引用から入ります。

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張氏家族処刑の記事タイトル

 【ソウル聯合ニュース】北朝鮮が、張 成沢(チャン・ソンテク)元国防副委員長の粛清後、張氏の親族の大半を処刑したことが分かった。複数の北朝鮮消息筋が26日、明らかにした。
 消息筋によると、張氏の親族に対する処刑は金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の指示により大々的に行われ、処刑の対象者には幼い子どもも含まれた。
 張氏の姉と夫の全英鎮(チョン・ヨンジン)駐キューバ大使、おいの張勇哲(チャン・ヨンチョル)駐マレーシア大使と張大使の20代の息子2人は昨年12月初めに平壌で処刑された。全大使夫妻と張大使夫妻はいずれも銃殺された。このほか、張氏の2人の兄(いずれも故人)の息子や娘、孫に至るまで直系親族は全員処刑された。親族らの処刑の時期は確認されていないが、張氏が処刑された昨年12月12日以降と推定される。
 消息筋は、張氏の親族が処刑されたのは張氏の勢力を残さないためだとした上で、張氏の勢力の粛清は広範囲にわたって行われていると説明した。

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◇ 張 成沢 氏 処刑の経緯

 ここで、昨年12月の北朝鮮 張 成沢 元国防副委員長の処刑について簡単に解説いたします。ごく表面的な報道に基づくものであり、その裏にある根深い部分があるとしても、それは他に譲りますし、今後、明らかになる事実もあろうかと存じます。

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 張 成沢(チャンソンテク)氏は、現北朝鮮第1書記、金 正恩(キムジョンウン)氏の父で第2代最高指導者である金 正日(キム・ジョンイル、1941年2月16日 - 2011年12月17日)の妹、金 慶喜(敬姫、キム・ギョンヒ、1946年5月30日 - )の夫で、北朝鮮を建国した金 日成(キム・イルソン、1912年4月15日 - 1994年7月8日)の義理の息子にあたる、現政権におけるNo.2と目された人物でありました。

金日正、金正日、金慶喜
左から金日成、金正日、金慶喜

金第1書記家系図

 北朝鮮の朝鮮中央通信は昨年12月13日、金 正恩(キムジョンウン)第1書記の叔父、張 成沢(チャンソンテク)元国防委員会副委員長が国家転覆をはかった罪で裁判にかけられ、処刑されたと伝えました。朝鮮中央通信によりますと、張氏は「あらゆる策謀と卑劣な手段を用いて国家転覆をはかった反逆者」として12月12日に特別軍事裁判にかけられ、本人が起訴内容をすべて認め、直ちに死刑が執行されたとのことでした。
 同通信は張氏について、党と指導者を裏切った「卑劣な人間のくず」であり、「犬よりひどい」人物と描写していました。また、張氏の処刑について、北朝鮮情勢に詳しい米ピーターソン国際経済研究所のマーカス・ノランド氏は「驚くべき展開だ」と指摘し、「20年にわたって北朝鮮を見てきたが、私が覚えている限り、上層部の処刑が公に発表されたことはなかった。噂はあったが、今回のような大々的な逮捕や処刑は前代未聞だ」と話しており、張氏の、言うなれば「クーデター」が北朝鮮政府にとって、極めて衝撃的かつ驚異的な事件であることが伺われます。


◇ 族誅(ぞくちゅう)

 さて今回、話題にしたいのは、たとえ政府にとって衝撃的で驚異的なクーデターの首謀者であろうとしても、幼い子供も含む張氏の親族の大半を処刑したと言う事です。こうした、権力闘争に敗れた一族全員を虐殺することを、族誅(ぞくちゅう)と言い、その起源は中国、殷の時代に始まり、秦の時代になって拡張され、清の時代までみられたとされます。また、属国の朝鮮、ベトナムでも行われ、日本では、江戸時代まで敵対者の一族郎党を全員処刑する例があったとのことです。処刑される範囲で三親等=「三族皆殺し」、九親等=「九族皆殺し」とも呼ばれます。中国では、古来から「罪は九族に及ぶ」とされており、族誅には親族にまで連帯責任を負わせることによる犯罪抑止、そして遺族の遺恨を根こそぎ断つ目的があったと言われます。

 「犯罪抑止」と言うと正当性を感じますが、実は、非合法的な処刑に対する一族の怨恨が将来において国家あるいは特定の権力者に災いを起こすことを防ぐ、「一族(郎党)皆殺し」であったことは間違いないと思います。


◇ 源 頼朝を処刑し得なかった平 清盛

 日本においても歴史上、族誅(ぞくちゅう)は一般的に行われて来たことでしたが、逆に、これをせずに将来、自分の首を絞める結果となった権力者もおりました。平 清盛(1118年 – 1181年3月20日)もその人物だと思います。

 詳しい歴史の内容は他に譲るとして、武家が公家に代わって政権を担う戦乱が平安時代末期ありました。皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し武力衝突に至った保元の乱(1156年)の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感が高まっておりました。平 清盛の5歳年下である源 義朝(1123年 – 1160年2月11日)は、後白河上皇の近臣である藤原 信頼が首謀者となった平治の乱(1159 - 60年)に加わり三条殿焼き討ちを決行、二条天皇側近らの画策で天皇は六波羅の平清盛邸へと移り、官軍となった平氏が賊軍となった信頼らのいる大内裏を攻撃、義朝軍は敗れ、一門は官職を剥奪され京を落ちました。
 義朝に従う13歳の三男、源 頼朝(1147年5月9日 – 1199年2月9日)らは、本拠の東国を目指すが頼朝が途中で一行とはぐれてしまい、平 頼盛の家人・平宗清に捕らえられました。父、義朝は尾張国にて長田 忠致に謀殺され、長兄、義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑、次兄、朝長は逃亡中の負傷が元で命を落としたとされます。
 1160年2月9日、京、六波羅へ送られた頼朝の処罰は死刑が当然とされていましたが、清盛の継母、池禅尼の嘆願により死一等を減ぜられて伊豆に流刑となったとされます。共に武家の世を願った平 清盛が42歳当時、同世代ながら対立することとなった源 義朝にどのような感情を持ったのかは想像の域を出ませんが、政変に加わった13歳の三男を死刑としない決断を下したのでした。

平清盛と源頼朝
平 清盛(左)と源 頼朝(右)

 その後の、頼朝挙兵(1980年、33歳時)、壇ノ浦の戦いにおける平氏滅亡(1185年3 月24日)、征夷大将軍として鎌倉幕府成立(1192年)と、時代が大きく流れた、その原因として、平 清盛が平治の乱で敗れた源 義朝の一族に対する族誅(ぞくちゅう)をなし得なかったことが大きかったと思います。この出来事が後の世の教訓となったか?、「一族郎党打ち首」と言う形の族誅(ぞくちゅう)は、鎌倉〜室町〜戦国時代に引き継がれたものと思われます。


◇ 現代において族誅(ぞくちゅう)?

 言うまでもないことですが、過去の歴史において行われたことであっても、21世紀の現代で、法治国家において、ある犯罪者を処刑するのみならず、幼い子供を含むその親族をも処刑する行為が許されるはずはありません。今回の北朝鮮での出来事は「特別軍事裁判」において罪が確定し刑が執行されたと報道されており、そこまでは、どんな国であろうと、法に基づいた判断とされますが、その親族については、裁判がなされたとは考えずらく、また族誅(ぞくちゅう)あるいは、三親等=「三族皆殺し」、九親等=「九族皆殺し」と言う法律があるとも思えず、法には基づかない為政者の命令であり幼い子供は紛れも無く無実、つまり親族については殺人に他なりません。

 張 成沢元国防委員会副委員長の国家転覆罪とそれに対する処刑の是非とは別に、親族への処刑は、これが事実ならば糾弾されるべき北朝鮮指導者の犯罪と考える次第です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140126-00000002-yonh-kr
http://ja.wikipedia.org/wiki/族誅
http://ja.wikipedia.org/wiki/平清盛
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