アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

死生観 「計画的心停止後ドナー」と「おくりびと」

 年末に米国における脳死全肝移植の実際を少しご紹介いたしました。医療の話は、デリケートであり、とりわけ人の死に関わる事柄となりますと、誤解の無いよう、ありのまま客観的にお伝えすることが求められるでしょう。私の専門分野ではあるものの、全くそちらの方面に触れないのも一案ですが、「死生観」のようなスピリチュアルに関わるものであれば、逆に経験に基づいた私ならではの議論ができるかも知れないと考える次第です。
 今回、取り上げる内容は、私が経験したcontrolled(計画的)心停止後ドナーと、日本における遺体に対する対応に日米の「死生観」を探るヒントになるかもしれないと考えたものであります。もちろん、「死生観」、この分野が一介の1外科医が簡単に論ずることができるほど簡単な問題ではなく、太古の昔から多くの人が探求して来た、人間にとって永遠のテーマであることは言うまでもありません。的外れかも知れない、また重箱の隅をつつくだけの小さな事かも知れない、今回の内容を、己が死生観を考える最初の一歩として「スピリチュアル」のカテゴリーとして取り上げます。

 さて、年末に話題としたのは心停止後ドナーからのダメージを受けた肝臓の移植を受けた状態の良いレシピエントの話でしたが、この「心停止後ドナー」には二通りあって、年末申し上げた症例、uncontrolled(偶発的)に対して、controlled(計画的)と言うのがあります。以下の論文は、私がおりました米国の大学移植外科で行われた8例の心停止後ドナーからの肝移植をまとめたもので、uncontrolled(偶発的)4例とcontrolled(計画的)4例が含まれます。

NHBD論文

 実は、このcontrolled(計画的)心停止後ドナー、すなわち生命維持装置を外すことにより心停止を誘発した後にドナーとして臓器摘出を行う方法は、15年前の学会発表に際して、諸家よりずいぶんと厳しい言葉をいただきました。米国での医療をご紹介したに過ぎず、私が計画して執刀したわけではもちろんないのですが、「安楽死」、あるいは「死の誘発」、はっきり「殺人では?」と言う意見もありました。詳しいマニュアル、適応については文献を引用いたしますので、そちらを参考にしていただくとして、簡単な概要、手順を示します。


◇ Controlled(計画的)心停止後ドナー

 私は、4例のControlled(計画的)心停止後ドナーの手術に参加しましたが、とても鮮烈な印象を受けた初めてのケースを取り上げます。

 1998年初頭、患者は31歳男性、頭部外傷で蘇生不能と診断されました。頭頸部の挫滅が著しく、恐らくは鼓膜も破損しているため、聴性脳幹反射など、日本の厳密な脳死の診断基準を満たしていない可能性はありましたが、詳細は不明です。年齢が若く、出血がコントロールされているためか、循環動態は安定しておりました。


1.患者および麻酔科医の入室

 救急救命室の病床より患者が手術室に入室しました。バックを押して気管チューブに酸素を送り込むドクターがついて来ましたが、そのまま麻酔器の装着、麻酔管理を続けたため、救急のドクターではなく麻酔科医だと思われました。心電図と血圧のモニターが装着され、外回りの看護師は一人でした。


2.手術室の外部からの遮断

 私たち、ドナー手術を行う(ドナー)チームは手術室に入ることは許されず、手洗い後、術着を着て、隣の部屋で待機していました。手術室は、カーテンで窓が閉ざされ、扉の窓も暗幕で遮断、外からは覗けない状態でした。私はカーテンの隙間から中の状況をこっそり観察しておりました。私の「のぞき」を、ドナーチームのメンバーや看護師、移植コーディネーターまでも解っていましたが、誰も私に注意、制止する者はいませんでした。


3.患者家族および牧師の入室
 
 牧師と思しき人物を先頭に、患者の家族、白人の大人の男女5人ばかりが沈痛な面持ちで手術室に入室して来ました。ご老人は祖父、中年の男女は両親、他は兄妹と思われ、患者の手や顔に触れて、涙を流している者もおりました。風貌および患者の氏名からはユダヤ人ではなく、一般的な米国人だと思われました。なお、マニュアルによると、この段階で既に抗凝固剤であるヘパリンが投与されているはずです。


4.聖書の朗読とお祈り

 牧師が聖書と思われる書物を開いて何かを朗読しましたが、これは手術室の外には聞こえません。家族は黙って聞いていました。それほど長い朗読ではなく、牧師はほどなく右腕で十字を切って、礼をしました。家族も十字を切っていたように記憶しています。


5.気管チューブの抜管

 家族、一人一人が患者にお別れのような仕草をしたところで、牧師が家族に確認、麻酔科医に合図をしました。麻酔科医は一礼した後、気管内に留置したチューブを抜きました。家族は黙ってそれを見ており、特に動揺する様子はありませんでした。マニュアルによるとこの段階でも抗凝固剤、ヘパリンが投与されます。


6.低下する血圧と脈拍

 気管チューブを抜去し、人工呼吸器を停止しますと、患者は脳死あるいは脳死に準ずる状態であるため呼吸はしておりません。心臓の働きを示す心電図と血圧(動脈圧)のモニターは作動しており、気管チューブ抜管後も心臓は拍動しておりました。15分くらいの間で、血圧は徐々に低下し、脈拍の間隔が延長して来ました。この15分間に、手術室にいる、患者はもちろん、麻酔科医と看護師各1名、牧師とご家族5人、誰も一言も口をきかなかったと記憶しております。


7.心停止

 ついに心電図モニターがフラット、アラームが鳴り、麻酔科医が何かを告げました。心停止の宣告だろうと思われます。家族に大きな動揺はありませんでしたが、母親と思しきご夫人は声をあげて泣き、全員が牧師の先導で手術室より退室されました。完全に扉が閉じられたところで、麻酔科医の合図で我々、ドナーチームが入室し、速やかにドナー手術が始まりました。

 *****

 以上が、生命維持装置を外すことにより誘発した心停止、Controlled(計画的)心停止後に行われたドナーの手術であります。脳死が確定していないものの、蘇生不能として臓器移植のドナーとなる場合や、家族より心停止後の臓器提供の希望があった場合などが適応となるようです。

 果たして、Controlled(計画的)心停止後ドナーの紹介が、タイトルの如く死生観の話題に繋げることに適切かどうかは正直に申して解りません。ただ、日本において上で申し上げたような手術が成立するかと言うと、法律や規制の面はともかくとしても、心情的に日本人には難しいような印象を持ちます。家族のみんなの意志で、患者の心停止を誘発し、死が確定したところで手術を受けて、胸腹部から臓器の摘出がなされる、そうしたことを多くの日本人が良しとすると思えないところです。
 一方、私が知る限りのキリスト教文化においては、死は命の終わりではなく、神のもとに帰る入り口、キリスト教における葬儀は、死者への供養ではなく、神への崇める信仰であり、故人を礼拝の対象とはしませんので、日本人のように遺体に向かって手を合わせたり拝んだりするようなことはないようです。つまり、牧師により聖書が朗読され、別れを告げた故人との最後の儀式の直後に身体にメスを入れることをキリスト教文化では抵抗が無いと言えるかも知れません。


◇ 欧米より後れる脳死ドナーからの臓器移植

日本の脳死ドナー
本邦における脳死ドナー件数

 そもそも、Controlled(計画的)心停止後ドナーどころか、診断基準に合致する脳死者からの臓器移植からして、日本は大きく欧米諸国に立ち後れております。私が米国の移植医療を日本への紹介を始めたのが1998年でありますが、その前年の1997年(平成9年)に「臓器の移植に関する法律」が制定されたものの、法律制定後初の脳死ドナーは1999年まで発生しませんでした。年間10件程度しか発生しない脳死ドナーに対して、2009年(平成21年)、法律の改正がなされ、翌年より脳死ドナーは著増、現在は年間40件を越えて参りました。それにしても国全体として年間40-50件、まだまだ欧米、とりわけ米国に比べたら未発達であるであると言わざるを得ません。

臓器移植の国際比較
国別の臓器移植の件数

 脳死ドナーは、法律改定後に増えはしましたものの、欧米諸国に比べるとその絶対数は大きく劣ります。その理由に、今なお、ドナーカードなどシステムの不備、医療や保険制度の違い、医療経済の問題、不十分な救急救命医療、銃が無い社会によるドナー不足などが挙げられておりますが、身内が脳死あるいはそれに準ずる状態になった時に、ドナーとして臓器を提供することに賛同できるか?、身内の死をどのように捉えるか?、そこに、日本人固有の死生観があるように思える次第です。


◇ 火葬と土葬に見る死生観に疑問

 いわゆる「日本人の死生観」について、多くの文献やサイトに出会いましたが、まだ、勉強は途上であります。そんな最中、埋葬方法、具体的には火葬と土葬に見る日本人とキリスト教徒を比較する文章を見つけましたので、一部を引用供覧いたします。しかし、ここでの記述については極めて懐疑的な感覚でおります。

 *****

日本人の死生観と他界感

 死者をどのように埋葬するかは、民族の死生観や他界観にかかわることであり、その民族の文化の根本をなすものである。肉の復活の思想を根底に置くキリスト教文化においては、遺体は丁寧に飾られて、来るべき復活に備える。遺体を損傷するなど許されざるタブーである。一方、輪廻転生のなかで魂の実体を信ずるインド文化においては、遺体そのものは重大な関心事にならない。

 肉体の復活の思想を根底に置くキリスト教文化では
 遺体は丁寧に飾られて遺体を損傷は許されざるタブー


 遺体の扱いという点では、土葬と火葬は両極端に位置する。したがって、この両者が同一の文化の中で共存することは、通常は考えがたいことである。しかし、日本においては何故か矛盾、対立を伴わずに共存してきた。先稿で述べたように、日本の長い歴史の中では、土葬が主流であったといえるのだが、それでも、火葬が忌むべきものとして、排除されたことはなかったのである。

 これには、日本人が古来抱いてきた死生観や、その背後にある霊魂と肉体との関係についての見方が、背景にあったものと思われる。

 日本人本来の宗教意識の中では、魂というものは、肉体とは別の、それ自体が実体をともなったものであった。魂は、肉体を仮の宿りとして、この、あるいは、あの、具体の人として現れるが、肉体が朽ち果てた後でも、なお実体として生き続け、時にはこの世にある人々に対して、守り神にもなり、また、厄病神にもなった。しかして究極においては、ご先祖様として、神々の座に列することともなるのであった。

 日本人にとって魂は肉体とは別の実体であり
 肉体を仮の宿とし、肉体が朽ち果てた後も生き続ける


 古来、日本人にとっては、人の死とは、霊魂が仮の宿りたる肉体を離れて、二度と戻らない状態を意味した。霊魂はまた、一時的に肉体を離れることもある。であるから、人が失神したときには、必死になって霊魂を呼び戻そうとした。近年まで各地で広範囲に行われていた、魂よばいといわれる一連の儀式は、日本の葬式文化の特徴をなすものであったが、それはこのような霊魂観に裏付けられていたのである。皇室において、「もがりの宮」という儀式が伝統的に催されてきたが、これも、魂よばいの洗練された形態と考えられるのである。

 霊魂がなかなか戻らず、遺体が形を崩し始めると、人々はいよいよ死というものを受け入れざるをえなくなった。こうなると、残された亡骸は、生きていたときのその人の、今の姿なのであるとは感じられず、たんなる魂の抜け殻に過ぎなくなる。抜け殻になってしまった遺体は、一刻も早く埋葬する必要がある。そうでないと、悪霊が乗り移って、災厄をもたらさないとも限らないのである。

 日本人にとって死体はたんなる魂の抜け殻

 日本人は、どうも死者の遺体に無頓着なところがあるといわれ、それがまた火葬が普及したひとつの背景ともなっているのだが、その理由の大半は、以上のような霊魂観にある。

 日本人は死者の遺体に無頓着(?)

 (以下、略)

 *****


 確かに、日本人には輪廻の発想が伝わっており、霊魂が生まれ代わり死に代わり、肉体は一時の宿であり、死によって霊魂が離れると言う考え方はあると思います。しかし、だから日本人が遺体に対して雑な扱いをするか?、逆に、キリスト教では復活があり得るので日本人よりも遺体を大切に扱うか?、と言うことについては疑問に思います。

 キリスト教では日本人よりも遺体を大切に扱う?

 いずれの文化においても遺体に対して丁寧な扱いをするとは思いますが、日本人は遺体に対して傷を付けることを嫌がる特性を感じます。私が申すところの脳死ドナーのみならず、剖検(病理医により遺体を解剖して病態を調べること)の件数は日本より欧米の方が圧倒的に多いです。日本における日常の医療において、亡くなられた患者に対する病理解剖の話をしても、「死んでまでも痛い思いをさせたくない」、「これ以上、身体に傷を付けたくない」と言われるご家族は少なからずいます。
 脳死ドナーにしろ剖検にしろ、遺体に傷を付けると言う意味では、日本よりも欧米諸国、キリスト教文化の方が寛容であり、肉体を仮の宿、死体をたんなる魂の抜け殻とする日本人が遺体を傷つけることに無頓着で、肉体の復活の思想を根底に置くキリスト教文化では遺体を損傷することはダブーである、こういう考え方には限界を感じます。

 剖検や脳死ドナーで日本人には遺体に傷を付けることに抵抗

 脳死ドナーが日本に少ないこと、ましてやControlled(計画的)心停止後ドナーが日本の医療に定着しないであろうことを、一概に「死生観」だけで考えることはできないと思いますが、「死生観」と言えるかどうか?、一方で一つの考えるヒントとなるかどうか?、遺体に対する日本人の対応について、過去の作品を二つばかりご紹介します。昭和の時代の小説とつい最近の映画であります。


◇ 渡辺 淳一 氏の「死化粧」

 私が医学生であった30年前の医学部の学生の多くは渡辺淳一さんの小説を読んでいたと思います。私も当時のものは概ね読みました。その中に短編ではありますが、昭和40年(第54回)芥川賞候補となった「死化粧」(しにげしょう)と言うものがありました。

死化粧小説

 青年医師が自らの母の、切除不能である小脳橋角腫瘍の手術に参加して、現代医療の限界と手術所見から、母の死を確信するに至りますが、彼以外の家族全てが母親の回復を信じていました。彼は、自分と他の家族たちとの心の隔たりを感じながら、ついに母の命の終わりに接して、さらなる衝撃を受けました。以下、本文からの引用です。

 *****

 「死化粧するから化粧品を持ってこい」と叔父が姉に言ったが、私はそれがどういう事なのか私にはわからなかった。

 (中略)

 「たった一度の死出の旅だからきれいにしてやらねばならない、奇麗になって極楽往生して呉れよ」自分に言いきかせるように言いながら、叔父は無骨な手で乳液を母の顔へ撫でつけた。父と兄は一心に手足を湯タオルで拭き清めていた。残った人達は母の屍体を囲んで輪になり、美しくなっていく母の顔を見上げては、南無阿弥陀仏を幾度も唱え続けた。

 (中略)

 一体此処にいる人達は何のために屍体に群がっているのだろうか、母を生きかえらせようとしているのだろうか、今、どう施しても死者は死者に変わりない筈だ。彼等は今、何か目にみえぬ物の怪にでも憑かれているのではないだろうか。彼等は正気なのだろうか、ひょっとして私は狂人の輪の中にいるのではないだろうか。死者と私だけが彼等とかけ離れていると思った。

 *****


 医者である主人公が母親の死を常に医学的見地から客観的に見て来た現実と、残された家族、日本人の死に対する「死出の旅」との認識に大きな違いが浮き彫りとなって、日本人の死生観を垣間見る小説であったと思います。


◇ 映画「おくりびと」

 2009年(平成21年)の、米国のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した日本映画「おくりびと」で、日本における死者の弔い方を世界に紹介し、日本人の死生観として、「人間の生と死はつながっている」、「死は死後の世界への門であり死出の旅立ちの出発点」であることを示しています。以下、同映画について極めて的確な描写がされているページを見つけましたので、少し長いですが引用します。
 最後に、同映画の中の主人公で、屍体に手を加える仕事に抵抗を持っていた、元プロのチェロ奏者 小林大悟(本木雅弘)が、実際の納棺師の作業を見て、心を打たれる、日本固有の儀式に己の身を投ずる決意につながるシーンを動画で供覧いたします。


おくりびと

おくりびとポスター

 監   督   滝田洋二郎
 脚   本   小山 薫堂
 製   作   中沢 敏明、渡井 敏久
 製作総指揮   間瀬 泰宏
 出   演   本木 雅弘、広末 涼子、峰岸  徹、余貴 美子、
         吉行 和子、笹野 高史、山崎  努
 音   楽   久石  譲
 撮   影   浜田  毅
 編   集   川島 章正
 配   給   松竹

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おくりびと紹介ページ

 2月22日、米国のアカデミー賞外国語映画賞の発表が行われ、日本映画「おくりびと」が受賞しました。日本独特の葬式の習慣を描いたこの映画が、アメリカ人にも認められ、アカデミー賞外国語映画賞を受賞したことは、死者の弔い方についての日本の習慣がある程度普遍的な共感と理解を得ることができたのではないかということで、日本でも大変大きなニュースとして報道されました。私もこの映画を見たので、この映画を紹介しながら、日本人の死生観について論じたいと思います。


1.映画「おくりびと」について

 「おくりびと」というのは、「死んだ人を『あの世』(死後の世界)に送るひと」という意味です。必ずしも一般的に使われる日本語ではなく、この映画によって知られるようになった表現です。この映画の英語名は「Departures」となっています。この映画(滝田洋二郎監督。2008年完成)は、日本で遺体を棺に収める仕事をする男性(「納棺師」とよばれます)を描いたもので、日本でも異色の映画といえます。2008年9月に日本で公開されてから、12月までで興行収入が30億円とヒットとなっているそうです。(お葬式関連では、伊丹十三監督の「お葬式」(1984年)という大変面白い映画もありました。)
 米国アカデミー賞の外国語映画賞が独立部門として創設されたのは1956年ですが、それ以後、日本の映画がこの賞を受賞するのは今回が初めてです。(有名な中国人監督アン・リー氏は、2000年「グリーン・デスティニー」で外国語映画賞を受賞しています。)「おくりびと」は、日本の映画の賞である「日本アカデミー賞」でも10部門で受賞しており、またモントリオール世界映画祭でもグランプリを受賞しています。米アカデミー賞を受賞する前から、既に、米国、カナダ、フランス、オーストラリアなど36カ国での劇場公開が決まっていたそうです(2月24日付日本経済新聞報道)。

 邦画としては初の米国アカデミー賞外国語映画賞

 映画の主人公は元チェロ奏者で、オーケストラが解散したため、ふるさとの山形県に帰り、遺体を棺に収める仕事に就きます。いろいろ戸惑いながら仕事をしながら、だんだんと尊敬の念をもって死者を送り出すことを覚え、この仕事の意義を理解していく様子が映画では描かれています。主人公を演じた俳優の本木雅弘氏は、15年前にインドのガンジス川で死体が流れているのを見てから死生観について深く考えるようになったということです。そして、納棺師の青木新門氏が書いた本「納棺夫日記」を読んで、納棺を題材に、日本人にとっての死について正面から取り上げた映画を作りたいと考えたそうです。

 主人公を演じた本木雅弘氏の依頼で映画が作製された

 米国の映画業界紙『ハリウッド・リポーター』は、この映画を「死に対する畏敬の念を通して生を称える感動作」と評したそうです。日本の映画評論家の品田雄吉氏は、「日本のしきたりや日本人の気持ちを描いた作品が、世界に認められたのは意義深い。」と述べています(2月23日付朝日新聞報道)。米ロサンゼルス在住のアニメーション作家のラウル・ガルシア氏は、「ここ何年かの間に私が見た中で最高の映画だ。日本にこんな儀式があるとは全く知らなかったが、愛する者を送る気持ちは普遍的でよくわかった」と述べています(2月24日付毎日新聞報道)。米国人がこの映画を高く評価した背景には、「9.11」以降の状況も関係あるとの評論も出ています。


2.「納棺師」とは何か?

 日本では普通は人が死ぬと、遺族は葬儀屋にお通夜、葬式、火葬場の手配などの準備を依頼します。葬儀屋は多種多様な仕事をこなしますが、仕事の一つは、遺体を清め、「旅立ち」の衣装を着せ、男性は髭を剃り、女性は化粧を施して生前のまなざしをよみがえらせることもあります。この仕事を特に取り出して専門に行うのが「納棺師」の仕事です。納棺の前に一時間ほどかけて遺族とともに儀式を行うそうです。日本で「納棺師」とよばれる専門家は必ずしも多くはないようです。札幌市に本社があり、全国展開している納棺専門業者の方が日本の新聞のインタビューで以下を答えています。(2月25日付東京新聞)

 納棺師の仕事
  :遺体を清め、「旅立ち」の衣装を着せ、男性は髭を剃り、
   女性は化粧を施して生前のまなざしをよみがえらせる


 ―納棺の専門の会社をつくったのは1969年。きっかけとなったのは、1954年に青森と函館を結ぶ連絡船が台風のために沈み、1400人以上が亡くなった際、損傷のはげしい遺体を清めて遺族に引き渡すのを手伝ったのがきっかけとなった。
 ―同社は、日本でおそらく唯一全国展開している会社である。約130名の納棺師がいる。一人当たり年間数百人の遺体に向かう。


3.日本人の死生観

 この映画の原作を書いた青木新門氏は、「『生と死はつながっている』という死生観と命の尊さや人とのつながりが描かれた作品自体のおもしろさが絶妙なバランスを生んだ」と述べています。そして完成したこの映画では、「単に死体の処理ではなく、亡き人を送り出す厳粛で重みのある姿勢」が示されたと評価されています(2月24日付日本経済新聞)。

 この映画から感じられるメッセージは、まず生きている人はいずれ死ぬ、ということです。また遺体を扱う仕事に対する偏見に対しては、死者を敬意をもって送り出すことの意味を対峙させています。また死に対して、家族のつながりを対峙させています。「もともと遺体を生前の姿に修復する技術エンバーミングは、アメリカで発達したものだ」(2月25日付東京新聞)ということですが、日本では特に遺体を丁寧に扱い、死者への敬意を表します。日本では、日本語では「死体」といえば物体を指す表現ですが、「ご遺体」に対しては、いわば人格を有しているものとして、敬意と配慮をもって扱わないといけないとされます。

 遺体を扱う仕事に対する偏見に対して死者を敬意をもって送り出すことの意味を対峙させている
 死者を敬意をもって送り出す、「ご遺体」に対して人格を有しているものとした配慮をもって扱う姿勢


 青木新門氏は、『生と死はつながっている』と述べています。映画の中でも、死を通過する「門」としてとらえている表現が出てきます。日本人の死生観の特徴は、死後の世界(あの世)があると信じる人が多いことです。中国でも死者のために紙銭を焼いたりすることは聞いています。中国人の友人に聞くと、中国人は死後の世界を信じていないと言われます。現代の中国人が死後の世界の存在を信じているのかいないのか、私にはよく分からないので、調査などがあれば是非教えて頂きたいと思います。

 生と死はつながっている
 死を通過する「門」


 日本人に対して行われたあるアンケート調査で、「死後の世界(あの世)があると思いますか?」という問いに対して、「あると思う」と「ないと思う」と答えた人がともに29.5%、「あると思いたい」と答えた人が40%もあったそうです。しかも死後の世界の存在を信じるのは、年輩者には少なく、むしろ若い人に多いという傾向が見られたそうです。また、「死者の霊(魂)(の存在)を信じますか?」という問いに対しては、「信じる」と答えた人は54.0%、「信じない」は13.4%、「どちらとも言えない」は32.0%でした。「生と死の世界は断絶か、それとも連環していると思いますか?」という問いに対しては、「断絶している」が17.4%なのに対して、「どこかで連環している」は64.6%、「わからない」が18.0%だったそうです。(以上、立川昭二著『日本人の死生観』1998年、筑摩書房。以下の記述も同書より引用)。

 哲学者の梅原猛氏は、仏教移入以前から持っていたと思われる原「あの世」観について、次のような説をたてているということです(『日本人の「あの世」観』)。

(1) あの世はこの世と全くアベコベの世界であるが、この世とあまり変わりない。
(2) 死ぬと魂は肉体を離れてあの世に行って神になり、先祖と一緒に暮らす。
(3) すべての生きるものには魂があり、死ねば魂は肉体を離れてあの世に行ける。

(以下略)

 立川氏は、以下のように述べています。「(日本人にとっては、)生と死の世界ははっきり断絶しているのではなく、どこかで連環しているという考えに通ずる。」、「じつは『死生観』という語も、日本語独自のものである。生死という時、それは生と死をはっきり切り離すのではなく、生から死へ、死から生への連続的なつながりを考え、生と死の間にはっきりとした断絶を考えない。」

 日本人にとって生と死の世界ははっきり断絶しているのではなく、どこかで連環している

 日本人の葬式のやり方、また死後、死者を弔うやり方はいろいろなものがあります。死んでから一週間後、四十九日、百ケ日、1年後、2年後(三回忌)(ここまでは中国の習慣です。それより後の法要は日本で追加されたそうです)、6年後(七回忌)、12年後(十三回忌)、16年後(十七回忌)、22年後(二十三回忌)、32年後(三十三回忌)、49年後(五十回忌)と遺族らが集まって弔います。お墓参りも、一年の間に何度も行きます(なくなった命日、お彼岸、お盆など。)これらの習慣は中国といろいろ異なると思いますが、それを理解するためには、日本人の死生観を理解する必要があると思います。日本では大災害で被害を受け、身近な人を喪った人に対して、「心のケア」「癒し」ということが言われます。これは日本人の死生観を暗黙のうちに前提として行われるものであるのかもしれません。

 「おくりびと」が米国のアカデミー賞外国映画賞を受賞したということは、死者を弔うための日本人の習慣や感性が、米国人から一定の共感を得たということだと思います。四川大地震の際に日本の救助隊が中国人のご遺体に敬礼をした写真が中国国内で配信され、中国人から大きな共感と反響を得たことも思い出されます。この映画を見た在日中国人の友人は、感想として、以下を私に述べてくれました。

 ―納棺の儀式については、最初はすこし違和感があったが、亡くなった人に対する敬意を示すものとして美しいとも感じた。
 ―映画で共感できるところは、家族への愛を描いているところ。
 ―日本人の死生観に関してあまりよく知らなかったが、このような死者とお別れする納棺の儀式は必要ではないかと感じた。将来、同じような儀式をするビジネスが、中国でも誕生するかもしれない。
 (井出敬二 前在中国日本大使館広報文化センター所長)

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映画「おくりびと」ワンシーン

【主人公(本木 雅弘)の言葉】
 冷たくなった人間を甦らせ永遠の美を授ける。
 それは冷静であり、正確であり、そしてなにより優しい愛情に満ちている。
 別れの場に立ち会い故人を送る、静謐(せいひつ)で、
 すべての行いがとても美しいものに思えた。


◇ まとめ

 死生観とは、死あるいは生死に対する考え方、それに基づいた人生観と言えるかと存じます。生死観(しょうじかん)とも言うことがあるようですが、具体的な型には以下の要素が含まれます。

 1.人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか?
 2.死後や死者をどう捉えるか?
 3.生についての人々の考え方や理解の仕方
 3.生きることとは何か?死ぬこととは何か?

 個人の考え方でありますから、国家、宗教や文化によって大きく影響を受け、又はその人の人生における経験や、人生そのものが成功だったか失敗だったかによっても異なってきます。

 今回、米国の大学病院、移植外科にて行われたControlled(計画的)心停止後ドナーと言う、極めて希であり、世界的に一般的ではない医療を取り上げ、これが日本に導入可能かどうかを思い起こした時、脳死ドナーさえもなかなか出現しない本邦において、遺体に傷をつけることを日本人は良しとしない民族である可能性に行き当たりました。
 これに反して、キリスト教文化では死後の肉体の復活を思想の根底におくために遺体を傷つけることはタブーであり、土葬の習慣もこれに基づくものとし、一方、日本人にとって魂と肉体は別の実体であり、遺体に傷をつけることに抵抗はなく、火葬も容易に普及したとする考え方に出会いました。死後の世界の捉え方が日本人とキリスト教文化で異なることに異論はありませんが、遺体に対する扱い方がどうであるか?、と考えた時に、日本人が遺体に対して無頓着とは言えない事例が思い当たりました。それが「死化粧」であり納棺師による遺体への仕事であります。
 キリスト教文化との違いを明確にするにはまだまだ勉強が必要でありますが、少なくとも渡辺淳一氏の小説や映画「おくりびと」の中で描かれている日本人の死の捉え方は、生と死と死後は連続しており、死は死後の世界への旅立ちの出発点、門であるとしており、その旅立ちに向けて遺体を清め、衣装を着せ、化粧をし、生前のまなざしをよみがえらせることに大きな意義、使命感を持っていることがうかがわれます。

 まだまだ、死生観については奥が深く、様々な説、考え方があります。若干、稚拙ではありましたが、遺体に対する日本人の考え方、死生観を考えて行く最初の一歩と考えております。



http://www6.plala.or.jp/brainx/beating_NHBD.htm
http://jme.bmj.com/content/29/3/182.full
http://japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial03.death.html
http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/shukyo/christ.html
http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ6/kudo.pdf#search='死生観+脳死ドナー+欧米+日本'
http://ja.wikipedia.org/wiki/おくりびと
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