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アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

大洋〜横浜の あの年 あの日、そして あの時間 VOL. 001 1978年春先の浜スタ 巨人戦


 ネットとはありがたく便利なもので、FaceBookの友人がある写真を公開していて、どうやって入手したのかと尋ねると、やはりネットで検索したらたくさんあったとのことでした。タイトルにしました、ある時の横浜大洋 vs 読売巨人の試合の電光掲示板です。もしかしてこうした写真が簡単に手に入るならちょっとしたシリーズを組めるかも?、と思っています。

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 さてこの試合、いつのものかを推理して参ります。もちろん出展を探るとか、当時の新聞記事などを閲覧すれば簡単に特定できるかも知れませんが、記憶を辿り、個々の選手の略歴、個人記録から推察することはできます。

 これは1978年、横浜移転初年度のおそらくはシーズン1/3を経過したころの写真です。その根拠は、場所が横浜スタジアム、シピンが巨人にいてミヤーンが横浜大洋にいます。間違いなく横浜移転(1978年)以降でありますが、この両選手ともに1980年まで日本におりました。1978、79、80年のいずれかと言うことになります。そこで巨人の投手に目を向けると故 小林 繁 投手の名前があります。実は、彼は有名な江川問題で1979年より阪神に移籍します。と、言うことで写真は1978年と言うことが判明いたしました。
 「シーズン1/3を経過したころ」としたのはかなりアバウトであります。打席のミスター・ホエールズ、松原 誠 選手の本塁打が5本となっており、シーズンのトータルでは16本でありましたので、おおよそ「1/3」とした次第です。その松原さん、打率が .304となっておりますが、この年は164安打のセリーブ最多安打で打率は .329でありました。本来は「春男」(春先ばかりによく活躍する選手)であった彼がこの試合の後の夏場、秋口でさらに打ったことが伺われます。加えて言えば、「無冠の帝王」であった松原さんは、当時は「最多安打」のタイトルがありませんでしたけれど、今の時代であれば立派なタイトルホルダーであった、そんな年でした。

松原誠カルビー

 冒頭でご紹介した フェリックス・ミヤーン 選手は、この年の開幕の中日戦で故 星野 仙一 投手から2安打して順調な滑り出しでありました。しかしこの試合では7番と下位を打っております。来日前の大リーグ、ニューヨーク・メッツ時代に右鎖骨を骨折しており、来日してすぐの頃はその古傷で力が発揮できないでおりました。そんな時期であったかと思います。
 横浜大洋のマウンドが 平松 政次 投手ですので、この試合ではないと思いますが、ちょうどこの頃、斎藤 明雄 投手(入団2年目の当時は「明夫」ではなく「明雄」でありました)が投げていて、ランナー1、3塁、王 貞治 選手の打った打球はショートゴロ、6-4-3のダブルプレーかと思われた瞬間、ミヤーン選手の一塁送球が力なくワンバウンドとなって1点を献上したシーンがありました。

ミヤーン

 横浜大洋の得点は4回に一挙7点でありました。安打数がたったの4安打ですので、おそらくは四球やエラーで出たランナーをホームランで返す豪快な攻撃だったと思われます。ただ、とても不思議に思うのは、この翌年、江川問題で阪神に移籍する先出の 故小林 繁 投手、横浜に7点取られたマウンドにいたようです。この年の彼は13勝12敗2セーブ、敗戦処理で出てくるような投手ではなかったはずです。先発して7点取られつつ続投していたものと思われます。今では考えられない投手起用だったようですね。

巨人 小林繁

 今、横浜スタジアムは球団誕生から70周年を祝うイベントが続いております。先日の土曜日は 松原 誠 氏と 平松 政次 氏、日曜には 山下 大輔 氏と 遠藤 一彦 氏がゲストとして盛り上げてくれました。私のファン歴は現時点での歴史の4/7の40年とちょっと、「大洋〜横浜の あの年 あの日、そして あの時間」、少しずつ紹介して参りたく存じます。

浜スタライトスタンド

70thDeNA旗


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