FC2ブログ

アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

サンディエゴ旅行 まずは オールド・タウン からスタートがお勧め!


 米国、カリフォルニア州、サンディエゴに行って来ました。旅行の最初に オールド・タウン・サンディエゴ州立歴史公園(Old Town San Diego State Historic Park)を選択したのは正解であったとつくづく思いましたのでご紹介いたします。

IMG_2218のコピー


◇ 直行便でのサンディエゴ渡航 〜 オールド・タウン

 成田国際空港 17:25発 日本航空 JL066便 サンディエゴ国際空港 11:30着

 ちょっと成田発が遅いフライトではありましたが、18:00過ぎには夕食となり、今回は柿の葉寿司を持ち込んで機内食は遠慮しました。持ち込んだビールと免税店で買ったウィスキーをやりながら映画を観て、気持ちよく日本時間の22:00くらいには眠りに着きました。到着は当日の午前11:30で、半日観光で夜には普通に就寝と、時差ボケが解消しやすいフライト・スケジュールでありました。なにより直行便があってよかったです。

 さて、サンディエゴからはレンタカーを借りました。昨年の苦い思い出からオートマ車をしっかり予約して、ノートラブルで空港を後にしました。日本語ナビで高速を利用しないルートでオールド・タウンに向かいました。15分かそこら、あっという間にオールド・タウンに到着、パブリック・パーキングがあっさり見つかり、このあたりも旅行の最初が オールド・タウン でよかったところです。


◇ オールド・タウン の起源

 サンディエゴのダウンタウンから約3マイルほど北西に行った所にあるのが、サンディエゴ発祥の地として有名な「オールド・タウン “Old Town” 」です。これは、1774年にスペインの植民地開拓者がサンディエゴに入ったことを皮切りに、ヨーロッパからの入植者によって作られた集落です。1821年にはスペイン支配下のメキシコが独立戦争に勝利し、サンディエゴはメキシコの領地となります。その後、48年にアメリカ領となり、メキシコとアメリカの文化が混ざり合いながら、オールド・タウン を中心にサンディエゴは栄えていきました。現在では1800年代当時の街並みが再現された歴史公園となっています。


◇ 公園内の風景

IMG_2200.jpeg

IMG_2206.jpeg

IMG_2214.jpeg

IMG_2220.jpeg


◇ 10年連続サンディエゴのベスト メキシカン Café Coyote

 公園の散策の後にはオールド・タウンの南東に位置する「10年連続サンディエゴのベスト メキシカン」と評される “Café Coyote” で夕食としました。アメリカ人は自宅で過ごすことが多い日曜夜ではありますが約30人ほどの行列ができておりました。以下、注文した料理の詳細です。

IMG_2236.jpeg

 店内の雰囲気はこんな感じです。

IMG_2238.jpeg

 まずはメキシカンの「お通し」、チリソースを付けて食べる「トルティーヤ・ チップス」がでてきました。

IMG_2237.jpeg

 「トルティーヤ・スープ Tortilla Soup」、これは絶品です。おそらくは牛肉で出汁(ダシ)をとっており唐辛子(チリ)をベースに味付けしておりますので、遠く離れた異国の地、韓国のユッケジャンに酷似した味で、これにチーズが加わっておりますので、今、流行りのチーズ・ダッカルビを邪気する食感でありました。

IMG_2245のコピー

 続いて「バリトー Burrito」です。これは薄い春巻きのような皮に包まれたビーフの細い切れと野菜、チリであります。

IMG_2247.jpeg

 そして「タコス Totos」、残念ながらこれは、最近、日本にも上陸した「タコベル TacoBell」のものの方が一般に食べやすい感じでした。先のバリトーと併せて、コメと豆の付け合わせについては、ちょっと「引く」感じではありました。

IMG_2248のコピー

 メキシコとの国境にあるサンディエゴの文化に、当然のごとくメキシコが入っており、特にメキシコ領であったこの地、オールド・タウンを最初の観光地に選び、メキシコ料理で始まる、このスケジュールにはわが意を得たりとの心境でありました。


スポンサーサイト

真実は? 「日航ジャンボ機墜落事故」、疑問と疑惑(第二版)

 先の「日航ジャンボ機墜落事故」について、今度は公に言われている疑問点、非公式に噂されている疑惑にまで言及します。

◇ 公式に発表されている事故対応への疑問

1.放射性物質の存在?のため捜査を待機

 事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されており、また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていました。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があるとして、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたとのことでした。

2.米軍ヘリから激しく遅れた自衛隊の墜落現場到着

 最初に墜落現場を発見したのは米軍ヘリであり、墜落事故直後には現場に到達して、救助活動は行わずに立ち去った模様です(後述)。もしそうだとしても、墜落現場についての情報が、在日米軍横田基地から政府、自衛隊など、日本の機関に報告されたはずです。しかしながら、消防、警察や、災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、正確な位置情報については誤報が繰り返され、翌13日の朝まで現場に到達することはできませんでした。墜落直後には多数の生存者がいた可能性があって、早期の救助活動が要求される局面で、なぜ、それほどまでに情報共有がなされなかったのか極めて疑問であります。

3.墜落現場の特定の遅れと二転三転の報道

 先の記事で、123便墜落現場は「8月13日04:30航空自衛隊救難隊、05:10の陸上自衛隊ヘリ、05:37の長野県警ヘリにより墜落現場の確認」と述べました。これは公式に発表されたものです。上述のごとく、早い段階(墜落の20分後、8月12日19:20頃?)で米軍ヘリが123便墜落現場に到達していたのに、自衛隊の現地確認は翌朝でした。
 123便の墜落現場は現地付近に住む住民によってかなり正確に特定されておりました。群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時、元海軍少佐、零戦パイロット)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断、土地勘のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請したそうです。しかしながら、8月12日、夜23時頃、一番先に捜索のため到着した機動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、道案内を頼んでおきながら機動隊員から 「その場所は違う、こっちだ」と根拠のない主張をされたそうです。墜落現場はスゲノ沢だと言うと 「いいやそこではない、中ノ沢だ、上官の命令だ」とも、、、。わざと捜索の場所を変えさせて、しかも足取りが遅い機動隊員は、ついに夜明けまで墜落現場にたどり着けませんでした。

 現地住民の誘導に対して否定する発言、足取りの遅さ

 しかも、その8月12日の夜、NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行っていました。埼玉県三国山、長野県御座山、群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠などなど、これらは御巣鷹山から8-10 kmの円のなかに入ります。前出の上野村村長、黒沢丈夫氏は、政府の墜落地点の計測ミスに怒りを隠さなかったとされます。零戦時代の知識でも特定可能なのに、現在の技術で墜落地点が特定できないはずはない、と、、、。

 NHKの墜落現場報道は御巣鷹山周囲で二転三転

 墜落現場の特定が遅れたのは「わざと遅らされていた」のではないか?、救助隊を分散させ、数時間にわたって、御巣鷹山に誰も近づけないようにする何らかの「作為」が働いたのではないか?、報道が二転三転して正確な墜落地点を示さなかったのは、現地の人が現場に行くのを阻む目的だったのではないか?、と言う事です。

4.他の生存者に関する認識の不一致

 生存者の証言によれば、墜落直後には相当数の乗客が生存していた可能性がありました。救出された当時12歳の少女の証言によると墜落した直後は周囲からがんばれという励ましや、早く助けに来ないのかなどという話し声が聞こえていたが、次第に静かになっていったと語っています。

【川上慶子さん(当時12歳)の証言】

 *****

 墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。

川上慶子写真

 *****


 こうした証言から、救出が早ければもっと多くの命を救えたのではないかという意見があります。しかし、事故調査報告書は、この点については事実認定をしておらず、生存者4名以外は即死もしくはそれに近い状況であったとしております。

5.十分に解明されなかった垂直尾翼破壊の原因

 123便を撮影した写真から、同機は垂直尾翼の大部分を失った状態で飛行していたことが判明しており、垂直尾翼の破壊が本事故の大きな要因であることが考えられました。しかし、事故機の垂直尾翼の破壊過程については、尾翼の回収が部分的であるため、その詳細は特定できなかったとしています。損壊した垂直尾翼について、事故から2か月以上が過ぎた1985年11月に、海上保安庁の協力を得て相模湾周辺の海底探査が行われましたが、何も発見できずに打ち切られており、垂直尾翼の大半は回収されませんでした。

日航機垂直尾翼

 事故の翌年、1986年4月25日に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会では、公述人として参加した技術関係者や学識経験者から、事故原因の究明に重要な要素である垂直尾翼の破壊過程が十分に解明されていないと言う意見、尾翼の捜索も不十分であるという指摘がなされました。

6.事故調査報告書の「急減圧」に対する否定意見

 事故調査報告書では、事故原因として、圧力隔壁の損壊部分から与圧された客室内の空気が流れ出したことで、機内には相当な減圧が発生したと推定しています。事故調査委員会はこの減圧についての計算を行い、異常発生の8秒後には機内の与圧はすべて失われ、気温もマイナス40度にまで低下したことを示唆しています。

 圧力隔壁の損壊なら酸欠、気温低下が起こったはず

 しかしながら、パイロットが急減圧発生時の所定の対応をとらず、酸素マスクを使用した形跡はありませんでした。生存者は、長女の美紀子さんと共に助かった吉崎博子さんは、急減圧に関して、「子供の世話をしていてマスクが外れることもありましたが、それでも苦しいとは感じませんでした。」、また、機内の室温急低下に関しては、「私は半袖のブラウスと長めのキュロットスカートという服装でしたが、特に寒いということはありませんでした。」と証言しています。圧力隔壁の損壊は機内の状況から考えてまったく否定的であることは明白なようです。

7.不自然に速い事故原因究明の幕引き

 運輸省航空事故調査委員会は、事故発生2日後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始しました。調査には事故機の製造国であるアメリカから、国家運輸安全委員会 の事故調査官らが顧問として加わっております。
 123便は墜落事故の7年前の1978年6月2日に伊丹空港にてしりもち着陸事故を起こしており、その際に事故機の製造者である米国ボーイング社が修理に当った経緯がありました。今回、事故から約1月も満たない9月6日、ボーイング社による声明が出され、1978年の「しりもち事故」の際の、同社による修理が不適切なもの(修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態、下図)であったことが今回の墜落事故の原因と発表されました。

ボーイング社の説明図

 これをもって公式な原因調査は終了しています。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声がありますが、現在に至るまで行われてはいません。ボーイング社があっさり、修理における自らの不手際を認めるのは不自然ですし、事故から1月足らずで事故原因の究明が終了するとはあまりにも速すぎる幕引きであったと考えます。


◇ 墜落後1時間半、幻に終わった米軍救出劇

 墜落事故からちょうど10年が経った1995年8月、日航ジャンボ機墜落事故当時、横田基地に駐屯、ロッキードC-130輸送機のナビゲーターをしていた元在日米軍中尉、マイケル・アントヌーチ氏が事故についての新事実を証言しました。

マイケル。アントヌーチ氏

https://www.youtube.com/watch?v=65krBx_Bblg

 1985年8月12日18:25日航123便が発信した緊急救難信号を、付近を航行していたC-130輸送機が受診しました。その直後に123便の機長と管制が英語ではなく日本語で交信しているのを聞いて、C-130輸送機に搭乗していたアントヌーチ氏は、重大な事態が発生していると思ったと供述しています。確かに18:32管制より123便に対して日本語での交信を許可した記録が残されています。
 18:56管制のレーダーから123便が消滅したのを受けて、米軍横田基地司令部はC-130輸送機に対して123便の捜索に向うよう命令しました。アントヌーチ氏によると、19:15巨大な山火事を発見、墜落地点として報告したとされます。C-130輸送機は現場の上空で旋回を続けて情報収集をしていたとされます。20:30頃、横田基地より、救難ヘリが向っているとC-130輸送機に連絡が入りました。また、キャンプ座間より米陸軍のUH-1ヘリコプターが到着、現場へと誘導し、ロープを降ろし救助を開始した直後、横田基地より中止を命じられ、帰還命令、またその事実も他言しないよう上官から命令されたとのことでした。

 米軍ヘリへの救助活動中止、その事実を他言しない命令

 生存者の証言によりますと、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったと言います。また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃しています。マスコミ各社は「日本側がアメリカ軍の救助協力を断った」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まりましたが、元在日米軍中尉、アントヌーチ氏が証言した救助活動中止と他言を禁止する命令は誰が何の目的で発したものかは今なお不明であります。


◇ 事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

 日航ジャンボ機墜落事故の夜、墜落現場付近の住民で山歩きに精通した若者が現場にまで訪れた人物がいました。このMさんと呼ばれる人のインタビューがネットに公開されております。全文でご紹介します。なお、この証言は、2009年6月、「(新)日本の黒い霧ブログ管理者」が講師を努めた小グループのセミナーにM氏を招いて、その席上で収録したものとされます。

事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

 *****

司会:それではMさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向われたそうですが、まずその経緯を教えてください。
M氏:私の実家は、事故現場から観て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は長野県の北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向いました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。オフロードバイクにまたがり、友人2人と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのはオフードに乗った僕達2人だけです。
司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?
M氏:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその音に中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクが可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。
司会:ええっ? じゃあもうその時点で墜落地点は判っていたと・・・
M氏:はい。当然、警察の分かっていたはずですよ。だって僕達が南相木村へ向っているその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。でも、普通のバイクなので切り返しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗った僕達は簡単に振り切っちゃいましたけど。林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。
司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?
M氏:あの辺の山の持ち主の息子とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体分かっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。とにかく、対ら機現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく強引にいくつもの尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7、8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6-7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。
司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?
M氏:当時は時計を身につける習慣はなかったのですが、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
司会:そこで何を見ましたか?
M氏:既に自衛隊員が7-80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。
司会:ええっ? その時に生きて声を出している人がいたのですか!! どれくらいの人が生きていたのでしょう?
M氏:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくとも4-50人はいたと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので」、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4-50cm位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。
司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?M氏:まだ暗くてよく見えなかったのでそれが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバッグを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。
司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?
M氏:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着して来ました。また、暗視スコープを装着した最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました、
司会:4-50人いたという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?
M氏:それは僕もずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。
司会:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?
M氏:僕が見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。この程度なら死ぬことはないなと思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきり覚えています。あの人がどうなったのか、僕にも分かりません。
司会:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか?
M氏:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれてます。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
司会:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう。
M氏:それは見ていないので分かりません。
司会:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?
M氏:そういうことは特に感じませんでした。
司会:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?
M氏:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や遺体(の一部)が飛散していましたから。それにあの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。
司会:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きている何十人もの声を聞いている。この報告について、改めて感想を聞かせてください。
M氏:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。
司会:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。
M氏:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてたいへん不思議な事です。
司会:ありがとうございました。

 *****


 M氏の証言に見る、日航ジャンボ機墜落事故の公式に発表されている報道との矛盾点、および公にされていない事柄は以下の通りです。

1.墜落現場が不明とされた時間帯に救助隊?が到達

 M氏が事故機の墜落現場に到達したのは13日04:00頃、この時にはすでに事故機の周囲に100人程度の自衛隊員が降り立って作業をしていたと証言しています。公式には、8月13日04:30航空自衛隊救難隊、05:10の陸上自衛隊ヘリ、05:37の長野県警ヘリにより墜落現場の確認とされます。

2.事故直後の生存者についての矛盾

 生存者についての見解は公式の報道でも矛盾が指摘されております。生存者の墜落直後は多くの生存者がいたとの証言は、M氏の証言とも一致しております。事故調査報告書には生存者4名以外は即死もしくはそれに近い状況であったとしていますが、M氏はもっと具体的に「指先が1本ちぎれただけの男」について証言しております。

3.M氏が見た自衛隊員は在日米軍?

 M氏は100人にも及ぶ自衛隊員が13日午前4時には事故機墜落現場にいて、その装備は片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグルと証言していますが、軍事評論家の説明では、当時において、この装備は自衛隊よりも在日米軍に当てはまるとされます。

4.人命救助よりも何がしかの物体を回収?

 M氏の証言の中に、ホバリングしているヘリコプターに地面から拾った物体を回収していたとあります。人命よりも優先する何かがあったことになります。

 このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会はありませんでしたが、2010年5月16日、江戸東京博物館にて、その日目撃したことの証言を依頼されました。ところが、講演の2週間前、アクシデントが発生、車の後輪がバースト、あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運転テクニックで回避したとのことです。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱線銃によるものと判明しました。さらに、「123便事件の真実について、これ以上語るのを止めよ」というメッセージが彼に送られたそうです。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができました。


◇ 日航ジャンボ機墜落に関する諸説

 以上の通り、日航ジャンボ機墜落事故には公式発表とはずいぶんと矛盾する、あるいは異なる事実、証言がありました。事故に先立って行われた不適切な米ボーイング社の修理、隔壁の接続部の金属疲労、などに伴う垂直尾翼の破壊によって、操縦不能となって墜落したとされる公式報道からはかけ離れた真実が別にあるような?、考えさせられます。123便墜落についての憶測をいくつか列挙いたします。

1.自衛隊による演習用ミサイル衝突説

 JAL123便が操縦不能になった原因は、飛行機の垂直尾翼が破壊されたことにあります。これを金属疲労が原因とする以外に、何らかの飛行物体が衝突したと考えるのも自然なことです。そこで、高度24000ft(7200m)の上空における飛行物体として考えられるものは飛行機かミサイルくらい(UFOも?)、そんなところかと存じます。

 実際、ボイスレコーダーなどの分析記録によると、操縦クルーや乗客の一部がその謎の飛行物体を目撃しているフシがあるとのことです。123便が羽田空港を離陸したのは18:12、水平飛行に移行した18:18過ぎであり、ベルト着用のランプは消えていたと考えられます。この時、123便の右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたとのことです。18:23
再度ベルト着用の指示がでます。18:24には、スチュワーデスが、「(トイレにいき)たいという方がいらっしゃるのですが、よろしいでしょうか」とコックピットに許可を求めています。これに対する、ボイスレコーダーに残された副操縦士の返答は「気をつけて、じゃ気をつけてお願いします、手早く、気をつけてください」であり、これは声紋分析で高度な緊張状態とされます。

 18:18ベルト着用のランプが消えて18:23再点灯
 18:24 副操縦士の高度に緊張した声


 謎の飛行物体を操縦クルーが視認した18:18時点の飛行機の高度は1万1300 ft(3440 m)ですが、衝撃音とともに尾翼が破損した18:24:35時点の高度は、2万3900 ft(7170 m)とのことです。わずか6分の間に1万2600 ft(3780 m)も上昇しました。123便は右前方から飛んできた飛行物体に対して、これを避けつつ高度を上げるものの、この6分間、飛行物体に追い掛け回され、ついには背後から垂直尾翼への衝突だったと考えられます。このことから考えて、謎の飛行物体は明らかに巡航ミサイルであると言えます。標的が、どのように高度を変えても、時々刻々自ら軌道修正を行い、標的を追い詰めて標的の後ろに回ろうとします。その結果が123便の垂直尾翼破壊だったのです。

 謎の飛行物体は巡航ミサイル

 18:24:35の衝突から、18:24:42と7秒後には機長より緊急救難信号、スコーク77を発信されました。この「スコーク77」は、国際緊急無線信号であり、めったなことでは使わない信号だそうです。仮に、事故調査委員会の言うように、圧力隔壁の破損が原因で尾翼が破壊された場合、「ドーン」という爆発音が聞こえただけでは、コックピットの中では何が起こったのか解らなかったはずであり、7秒後と言う速やかは「スコーク77」発信もあり得ないことです。機長は、謎の飛行物体に6分間もつけ回されていたからこそ、「ドーン」という音が聞こえた時、その飛行物体が垂直尾翼にぶつかったと確信して「スコーク77」を発した、そう考えるのが極めて妥当です。

 ミサイルによる6分間の巡航があったからこそ
 衝突7秒後のスコーク77発信


 では、どこから飛んで来た飛行物体なのかと言うと、1985年8月12日は、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」が試運航中であったことです。護衛艦は昔のことばでいえば戦艦です。戦艦の試運航というのは、単に海上を航行するだけではなく、兵装運用実験を行うことが大切な目的だそうです。

護衛艦まつゆき

 この「まつゆき」の実験の一環で、発射されたミサイルが、たまたま相模湾上空にさしかかった123便に衝突してしまった、と言う推測がなされております。それを裏付けるものとして、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた故小川哲氏(当時41歳)と言う人物が、123便に近づいて来るオレンジ色の飛行物体をカメラに収めたとされます。下の写真は、日航機墜落事故の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ったものです。

小川哲氏の写真

 自衛隊の失態に繋がることですので、事故調査委員会はそういう事実を知ったうえで、あくまで圧力隔壁破損が垂直尾翼破壊の原因であることで通してしまい、外部からの飛行物体の存在を隠す方針としたのではないか?、と言うものです。

2.自衛隊機による撃墜説

 JAL123便の目撃情報として、「ジャンボ機のあとを、戦闘機みたいなのが2機追いかけていった。」(浦和市の住民)、「飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。」(長野県南相木村中島地区の住人3人)。これらの証言はJAL123便の後から戦闘機が追従したことを物語っています。実際、この時間帯に自衛隊のF-4EJ戦闘機2機とF-15J戦闘機1機の計3機が飛行していたことが知られています。

 123便に追従する戦闘機2機の目撃情報

 さらに、墜落事故の翌日、8月13日の埼玉新聞の見出しは「夕やみに“火の玉”」とあります。埼玉県浦和市に住む住民と長野県の川上村住民は次のように言っています。「マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。」(浦和市の住民)、「埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた。」(長野県川上村の住民)。

 夕闇に「火の玉」と化した123便

 垂直尾翼が破損したくらいではジャンボ機が「火の玉」となることは考えづらく、上の証言を総合すると、何とか山中に不時着しようとしていた123便に対して、追従した戦闘機が人目につきにくい山かげに入るのを見極めてミサイルを発射したと推測されております。

3.核兵器使用の説

 JAL123便墜落の目撃情報に「ピカッと雷光のように走った閃光、黒いキノコ雲」と言うものもあります。墜落現場残留物にイエローケーキと言う物体が指摘されております。これは、核兵器に使用される軍用の濃縮ウランで、錬度が高く、レンガ色をしているそうです。墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、多くの人が体調に異変を来たしたそうで、その症状から放射性物質であると判明したとされます。

イエローケーキ

 元日航職員で、日航ジャンボ機墜落事故の陰謀説を唱えたために殺害されたと噂される故 佐宗 邦皇 氏の証言では、骨が約3 cm刻みの破片になって飛び散るほどの、広島原爆の30倍以上と推定される衝撃であり、これらは小型の核爆弾使用を示唆しているとのこと、、、。決して不時着態勢に入っていた速度の航空機のものではないとされます。
 東大地震研究所の微小地震計が、墜落時刻に異常振動を観測、記録しています。第1波は18:56:26、第2波は3秒後。これら2つの波は極めて微小な物でありました。これは、123便墜落の衝撃と考えられます。しかし18:56:31から観測された第3波は、約5秒間揺れ、その後も10秒近く揺れる大きなものでありました。最初の2つの波は航空機の地面衝突によるもの、しかし、第3波は広島原爆の30倍を超える小型核爆弾の衝撃ではなかったか?、との考え方があります。

4.情け容赦無い殺害部隊存在の説

 123便の墜落現場において、生き残った罪も無い乗客、乗務員にとどめを刺した者達の存在を指摘する声もあります。123便の生存者たちは、無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた、とするものです。

焼けこげた遺体

 上の写真は子供の遺体でありますが、頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになります。しかし、子供の遺体のすぐ周囲に生えた木立にはほとんど焦げ跡がありません。しかもこの写真を掲載した「フォーカス」の文面には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」と記載されています。

 周囲の木立に焦げ跡がないのに黒焦げとなった遺体

 この現象がさらに強いのは、コックピット内であり、焼き尽くされ何も無い、操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況だったと言われます。いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずですし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。当時、遺体の歯形で本人確認を行った 大國 勉 氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)は、「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」、と証言しています。

 骨の芯まで二度焼きしたような状況の遺体
 まるで火炎放射器で焼いた跡のよう


 周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのは、やはり、証拠隠滅のために火炎放射器で徹底的に焼き尽くしたからと言う説を後押しします。


◇ 日航機撃墜の理由は?

 上述の、「自衛隊による演習用ミサイル衝突説」であれば偶然の事故もあり得ることですが、もっと意図的に、あの日のJAL123便を撃墜する理由があったとの説があります。ここでご紹介するのは、上で申し上げた事故の本来の姿とリンクするものではなく、あくまでもこの事故の背景にあったものを推測するものであります。ここで挙げるのは、いずれも米国に有利となるお話でありますが、上の説明では、どちらかと言うと日本の自衛隊が犯人であるかの憶測が飛び交っております。これに対する説明に明確な説明をされている人は少ない印象ですが、NHKをはじめ、メディアを巻き込んだ、日米の国家ぐるみの意志であったと説明している人が多数いることをここで申し上げます。

1.プラザ合意から急速な円高へ

 日航機墜落事故の翌月、1985年9月22日、プラザ合意、G5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レート安定化に関する合意、がなされました。この歴史的な合意を機に、円ドル為替レートが250円/ドル台から1年後には一気に120円/ドル台に円が急騰しました。急激な円高を受けて、以降日本経済は輸出企業を中心に大打撃を被ることになります。そして日銀の窓口指導による、バブル創出、崩壊、金融ビッグバンによるM&A等で外資ハゲタカファンドの進出、郵政民営化、莫大な国富の喪失と続いて行きます。前出の故 佐宗 邦皇 氏は講演の中で、米国によるこのプラザ合意に従うよう日本政府への圧力がかかっており、その一環としてJAL123便の撃墜があったと言っております。

2.純国産オペレーティングシステム「トロン」完成を阻止

 墜落した日航機には、純国産コンピュータ・オペレーティングシステム「トロン」開発プロジェクトの技術者17名が搭乗しており、全員が亡くなりました。この「トロン」とは坂村健・東大教授(当時、助手)が開発した基本OSで無償のオープンソースでありました。
 95年に「Windows95」が日本に上陸しパソコン市場を席巻し独占しましたが、実はその当時、日本の多くのパソコンメーカーはOSとして「トロン」の採用を希望していたとされます。それがWindows95の独占的な採用になったのは、米国政府からの圧力だったのであり、「トロン」開発プロジェクトの技術者が死亡して、開発が遅れたことも大きく関係していると考えられます。
 もしもこのとき日本のメーカーがパソコンのOSを「トロン」にしていたなら、無償というメリットもあって世界中のパソコンに採用されていたかも知れないとされます。つまり、日本の基本OSが世界を席巻し、現在のマイクロソフト「Windows」の躍進やOS市場の独占も無かったかも知れないとのことです。


◇ 雑感

 文面は、いささかオカルトのような内容となりましたが、色々と調査するにあたり、背筋が寒くなる想いがありました。もしかしたら、「大きな嘘」がかえって明るみにならない典型かも知れません。もしも、米国や日本政府がメディアをも動かして闇の力に従っているとしたならば、29年も前のこの「事件」を、どうやって今後の教訓にして行くのかは難しいかも知れません。しかしながら、罪もない人々の死を痛む強い気持ちは、真実に目を背けず、真実を知ることを恐れない、真実を探求する勇気に繋がるものと確信します。

 もう1/3世紀、33年目の夏を迎え、なにも真相に近付くことなく風化しようとしている事故(事件)ですが、謹んで亡くなられた方々の冥福をお祈りし、ご遺族の方へのお悔やみの言葉を申し上げます。


真実は? 「日航ジャンボ機墜落事故」、公式発表より(第二版)


 今年も、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、羽田発伊丹行同社定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、この馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故をテレビでとりあげておりました。乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名であり、死者数は日本国内で発生した航空機事故では2014年7月の時点で最多であり、単独機の航空事故では世界最多でとのことです。この事故について、実は単なる事故ではないいくつかの証拠があることを未来語り続けなければならいと思い更新したものを掲載いたします。

 日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、羽田発伊丹行同社定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故であります。乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名であり、死者数は日本国内で発生した航空機事故では2014年7月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多でとのことです。

日航機事故記事

 この通称「日航(ジャンボ)機墜落事故」が事故ではなく撃墜されたとの、ショッキングな説があります。「真実は?」、少し勉強してみました。


◇ 墜落事故当日のJAL123便

1.フライトプランと乗員乗客

 1985年(昭和60年)8月12日(月)
 日本航空(JAL)123便、ボーイング747SR-46(機体記号JA8119)
 18:00 羽田空港 発
 18:56 伊丹空港 着 予定

 機 長:高濱 雅己(49歳、運航部門指導教官、総飛行12,423時間41分)
 副機長:佐々木 祐(39歳、B747機長昇格訓練生、3,963時間34分)
 機関士:福田  博(46歳、エンジニア部門教官、9,831時間03分)
 乗務員:チーフパーサー波多野 純(39歳、10,225時間)以下、
     女性乗務員11名 (以上、乗員は15名)

 乗 客:509人 (以上、乗員乗客は計524人)

2.リアルタイムJAL123便

 墜落事故を起こしたJAL123便と、東京航空交通管制部、JAL本社、在日米軍横田基地の交信記録、さらにはボイスレコーダー、墜落地点周辺の調査結果から、JAL123便の羽田空港離陸から墜落までの出来事をリアルタイムに箇条書きにしてみました。不正確な部分はご容赦いただきたく存じます。

1985年(昭和60年)8月12日(月)

 18:04  JAL123便(以下123便)羽田空港18番スポットより遊離
 18:12 123便、同空港滑走路15Lより離陸
 18:24:35 相模湾上空、巡航高度2万4千f(7200m)直前の衝撃音
 18:24:40 頃、機長「なんか爆発したぞ」、オートパイロット解除
 18:24:42 123便、緊急救難信号(スコーク77)発信
 18:25 機長より緊急事態発生にて羽田への帰還の申し出、管制了承
 18:27 全油圧喪失、「ハイドロプレッシャーオールロス」と機関士の声
 18:27 頃、客室の気圧の減少を示す警報音、低空へ降下を目指すことに
 18:27:30 123便より緊急事態宣言、管制よりJAL本社に報告
 18:28 管制、123便に真東へ向かうよう指示、123便は操縦不能と返答
 18:31 管制より近傍の名古屋空港着陸を提案、123便は羽田行きを希望
 18:31 頃、客室乗務員より客室の収納スペースが破損したと報告
 18:32 管制より123便に対し日本語での交信を許可
 18:33 機関士より緊急降下と同時に酸素マスク着用を提案
 18:33 頃、JAL本社より123便に対し社内無線での交信を要求
 18:35 123便、R-5 ドア破損し緊急降下中と連絡、無線モニターを要求
 18:37 機長のディセンド(降下)指示も機は上昇降下の不安定飛行
 18:38 ランディング・ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため不可能
 18:40 ランディング・ギアの自重を利用してこれを降下
 18:40 管制、123便専用無線周波数を用意したが123便からの応答なし
 18:41 まで、上昇下降を繰り返し2万f(6000m)以上の高度を維持
 18:41 山梨県大月市上空で右旋回、高度2万fから6千fへ一気に降下
 18:42 123便を除く全航空機に無線周波数の変更を指示
 18:44 頃、埼玉県上空で左旋回、群馬県南西部山岳地帯へ進路変更
 18:45 無線傍受の在日米軍横田基地より支援、123便操縦不能との返答
 18:46 機長「これはだめかも分からんね」と発言
 18:46 管制より羽田空港の入域管制無との交信を提案も123便は拒否
 18:47 123便、木更津へのレーダー誘導要求、管制に操縦不能と返答
 18:47 管制より羽田空港の入域管制無との交信を提案、123便は了承
 18:48 123便、機長の荒い呼吸音が記録される
 18:48 頃、機関士より操縦する副機長に「頑張れ〜」の声
 18:49 JAL本社より社内無線での3分間の呼出しに123便は応答なし
 18:49 頃、機首39度に上がり、速度200km/hで失速警報装置が作動
 18:50 機長より操縦する副機長に対して「どーんと行こうや」の声

※この頃、東京都西多摩郡奥多摩町で123便を撮影した人がいて、その写真によって123便が垂直尾翼の大部分を失った状態で飛行していたことが初めて明らかとなった。
日航機垂直尾翼

 18:51 依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出される
 18:52 機体の安定が見られる
 18:53 管制より123便に交信、123便より「アンコントロール」と返答
 18:53 横田基地より緊急着陸の受入れ準備に入っていると返答
 18:54 123便より現在地の質問、管制、熊谷25マイル(45km)西と報告
 18:55:00 羽田空港、緊急着陸準備を説明、機関士「はい了解しました」
 18:55:01 機長の要請でフラップを下げて機体を水平に戻そう試みる
 18:55:12 フラップ降下直後、南西風に煽られ右に逸れながら急降下
 18:55:45 「あ〜っ」と言う叫び声
 18:55:50 機長「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との言葉
 18:56:00 機長パワーとフラップの上昇を指示、機関士が返答
 18:56:00 管制のレーダーから123便が消滅
 18:56:07 123便、機首は36度も下がり、ロール角も最大80度
 18:56:14 123便、対地接近警報装置作動、この時の速度は640km/h
 18:56:20 頃まで、機長「あたま上げろー、パワー」と叫び続ける
 18:56:23 123便の右主翼と機体後部が樹木と接触、機長「ダメだ!」
 18:56:26 衝撃音
 18:56:28 機体後部が分離
 18:56:30 123便、高天原山の斜面に前のめりに反転して衝突、墜落
 18:57:00 横田基地より基地への着陸を提案も123便からの応答なし
 18:59:00 管制、レーダーから123便が消失したことを発表

3.客室内の状況

 機内の状況を生存者の証言、死者が書き残した文章、写真などから推測した文章がいくつかあります。これらをまとめました。

 機内では、衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデッド・アナウンスが流れました。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクおよびシートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応をしました。一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われたとされます。

日航123便機内

 波多野チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示しています。生存者の証言によると、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたとのことでした。その後、乗客は衝撃に備える安全姿勢、すなわち、前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる姿勢をとりました。
 乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いました。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えています。一般的に墜落事故では、異常の発生から数分の余裕も無く墜落に至ることが多いのですが、この事故では18時24分の異常発生から30分以上にわたって飛行を続けることができたため、遺書を書く時間が与えられた極めて希なケースとされます。
 生存者によると「客室乗務員は終始乗客のサポートをしていた」と語っており、機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー(CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されています。その他、一人の客室乗務員による不時着後に備えて乗客に出す指示を列挙したメモや、異常発生後の客室内を撮影したカメラが墜落現場から見つかり、マスコミによって公開されています。

4.墜落状況

 JAL123便は、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するように衝突、墜落しました。衝撃で、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほどバラバラになり炎上したとされます。後の調査にると、機体の大部分に数百Gの衝撃が加わったとされ、両主翼も離断し炎上しました。

JAL123便残骸

 一方、56分28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落して行きました。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速したとされます。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しませんでした。従って、123便本体にいた人は即死もしくはそれに近い状況であったと考えられるのに対し、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇蹟的に生還できました。そのうえ、客室後部付近を中心に墜落直後の時点ではかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言もあります。


◇ 事故直後の対応

 123便墜落事故後の捜索と救助活動について、公式発表されているものを箇条書きにいたしました。

・18:28頃、千葉航空自衛隊中部航空警戒管制団で123便の緊急救難信号を受信、中部航空方面隊に報告、航空自衛隊の中央救難調整所が活動開始。
・18:56嶺岡山レーダーサイト当直司令は123便が墜落したと判断、F-4EJファントムによる緊急発進を提案、19:01百里基地よりF-4戦闘機が離陸。
・東京航空局東京空港事務所は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部を開設し、同機の緊急着陸体制を整えた。
・19:59管制のレーダーから消失の報を受け、東京救難調整本部は、防衛庁、警察庁、消防庁、海上保安庁などの関係機関に通報し、123便の捜索開始。
・レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけは継続。
・墜落の約20分後19:15頃、米空軍のC-130輸送機が、群馬・長野県境付近の山中の大きな火災とその位置情報を航空自衛隊中央救難調整所に通報。
・19:21頃、航空自衛隊百里基地から発進したF-4戦闘機2機も墜落現場の火災を発見、上空位置での横田タカン方位(300度)、距離(32マイル)を通報。
・墜落から約1時間後の19:54に、救難・救助のため見切り発進した百里基地救難隊のKV-107ヘリコプターは、46分後の20:42に現場上空に到着。
・20:33救難調整本部(東京空港事務所長)から航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)。

※当時のKV-107救難ヘリは両側面のバブルウィンドウ横に救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は可能でしたが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備の無いことなどを理由に、事故当夜の救難員が降下しての救助活動は行われなかったとしております。

・陸上からは、20:21長野県警臼田署のパトカーが埼玉県と群馬県境あたりの黒煙と通報。21:39には埼玉、長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見。
・12日深夜までに、長野県警より墜落現場は群馬県側の山中であると発表するも、その正確な位置情報については誤報が繰り返された。
・消防、警察や、災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、翌13日の朝まで現場に到達することはできなかった。
8月13日04:30航空自衛隊救難隊、05:10の陸上自衛隊ヘリ、05:37の長野県警ヘリにより墜落現場の確認
・墜落から約14時間が過ぎた08:30長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下、その後陸上自衛隊第1空挺団員が現場に降下して救難活動を開始。
・陸路からは上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着、ようやく本格的な救難活動が開始された。
・午前11時前後、4名の生存者が長野県警機動隊、上野村消防団などによって相次いで発見され、陸上自衛隊のヘリコプターで救助、病院に搬送された。


◇ 墜落事故の発生原因

 日航ジャンボ機墜落事故の原因として、公式には1987年6月19日、事故調査委員会(委員長:武田 峻)は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表しました。その要旨は以下の通りです。

・まず123便の後部圧力隔壁が損壊、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼が破壊
・4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失。
・圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなったために生じたと推定。
・その亀裂発生は、1978年の同機「しりもち事故」の際、米国ボーイング社による修理が不適切(修理交換した隔壁上下の接続強度の不足)であったことに起因。
・点検でこれらの異常を発見できなかった。


◇ 墜落事故を振り返って

 8月12日のあの時、私はなぜか大学のある街の自分のアパートでニュースを見ました。本来なら親元に帰省している時期なのですが、、、。もしかしたら追試かなんかがあったのかも知れません。大学の先輩の実家が群馬の田舎の方で、大きな音を聞いたと言っておりました。
 当時、20代前半の大学生であった私は公式発表に対してなんの疑問もなく受け入れておりました。社会も「金属疲労」と言う言葉を、新鮮な現象として認知し、受け入れていたと思います。

 疑惑について、あくまでも中立な立場を取る所存です。次の記事に続きます。

日本プロ野球におけるサイクル安打の記録(第二版)


 本日、ナゴヤドーム、中日 vs 横浜 戦において、中日 平田 良介 選手にサイクルヒットが出ましたので「世界記録・出来事・出来事」のカテゴリー、サイクル安打の記録を更新いたします。


◇ サイクル安打 概要

 サイクル安打とは、野球、ソフトボールの試合で、1試合で1人の打者が単打、二塁打、三塁打、本塁打のそれぞれを1本以上打った場合に成立する記録で、一巡安打(いちじゅんあんだ)、サイクルヒット (cycle hits) とも呼び、英語では hit for the cycle と言います。
 1965年までは特に意識されることなく発生していたそうですが、1965年7月16日、阪急の ダリル・スペンサー 選手が達成した際、スペンサー自らが記者に「なぜ自分に質問をしてこないのか。これはサイクル安打といって、とんでもない記録なんだ」と言ったのをきっかけに遡って記録が調べられ、彼が史上24回目の記録であり、第1回目の達成が、1948年10月2日、阪神の 藤村富美男 選手が最初の達成者であることが判明し、以後、意識されるようになりました。


◇ 日本プロ野球 サイクル安打一覧

NPBサイクル安打一覧



◇ 日本におけるサイクル安打 各種分析

 様々な角度から分析させていただきます。ここでは選手名は姓のみで「選手」は省略させていただきます。

1.年度別達成件数の偏り

 実はセパ併せて本年のサイクル安打は、4月21日のソフトバンク 柳田、7月9日、ヤクルトの山田、7月20日の横浜、桑原に続いてもう4件目であります。まだシーズン半ばですのでもしかしたらもう1、2件の達成があるかも知れません。前回の桑原の件に触れて、「最近は多いですね〜!」、「フルスイングする打者が増えて来たからでしょうか?」、「球場の広さですかね?」などと言うアナウンサー、解説者がおりましたがとんでもない思い違いです。
 一つの年度にまとまってサイクル安打が達成されるのは今に始まったことではありません。過去においては2003年にオーティズ(オリックス)、福留(中日)、稲葉(ヤクルト)、村松(ダイエー)、桧山(阪神)の5人のサイクル安打を見ました。上述のごとく、スペンサーが主張してサイクル安打の概念が日本に定着する以前にも、1952年には東谷(阪急)、浅原(東急)、滝田(大映)、山川(広島)らが記録しました。
 サイクル安打は1つの年にまとまって発生する傾向にあります。以下、1936年の日本プロ野球開始以降、サイクル安打が達成された件数別の年度を供覧いたします。

【年度別サイクル安打達成件数とその年度】
 0件:1936 - 1947年、1951年、1956年、1958年、1964年、1966年、
    1967年、1972年、1974年、1975年、1977年、1984年、1987年、
    1988年、1993年、1996年、1998年、2001年、2005年、2006年、
    2009 - 2013年、2015年、2017年(38ヶ年度)
 1件:1948年、1949年、1955年、1960年、1962年、1963年、1965年、
    1968年、1971年、1973年、1978年、1979年、1981年、1982年、
    1983年、1986年、1991年、1992年、1994年、1995年、2000年、
    2007年、2008年、2014年(24ヶ年度)
 2件:1950年、1953年、1954年、1959年、1961年、1980年、1985年、
    1989年、1990年、2002年、2004年、2016年(12ヶ年度)
 3件:1957年、1976年、1997年、1999年(4ヶ年度)
 4件:1952年、2018年(2ヶ年度)
 5件:2003年(1ヶ年度)

 第二次世界大戦前後と今では、試合数、選手数に大きく違いはありますが、2018年度現在、日本プロ野球の歴史は82年であり、これまで72件のサイクル安打が達成され、単純に均しますと0.88件/年が達成される計算になりますが、1件も発生しなかったのが38ヶ年(46.3%)、年間1件のみの年が24ヶ年(29.3%)であるのに対し、複数件の達成を見た年は19ヶ年(23.2%)とけっこう割合を占めます。達成件数から言えば、全72件中1/3に当たる24件は1年間に1件だけの達成でありましたが、残る2/3の48件は同一年に複数の達成を見たものでありました。
 サイクル安打は、どういうわけか?、理由は解りませんが、同一年にかたまって発生すると言う結果が得られました。

2.球団別サイクル安打達成件数

 これはよく言われるデータであります。実は大洋〜横浜が第1位です。以下、サイクル安打達成数の順に球団を列挙いたします。

【サイクル安打球団別達成件数順位】
 9件:大洋〜大洋松竹〜洋松〜大洋〜横浜大洋〜横浜 → 現 横浜DeNA
 8件:名古屋軍〜産業軍〜中部日本〜中日〜名古屋 → 現 中日
 7件:西鉄〜太平洋クラブ〜クラウンライター〜西武 → 現 埼玉西武
    阪急軍〜阪急 → 現 オリックス
 6件:国鉄〜サンケイ〜アトムズ〜ヤクルト → 現 東京ヤクルト
    大阪〜阪神軍〜大阪 → 現 阪神
    広島 → 現 広島東洋
 5件:セネターズ〜東急〜急映〜東急〜東映〜日拓〜日本ハム
    → 現 北海道日本ハム
    大日本東京野球倶楽部〜東京巨人軍 → 現 読売巨人
    毎日〜毎日大映〜東京〜ロッテ → 現 千葉ロッテ
 4件:南海軍〜近畿日本軍〜グレートリング〜福岡ダイエー
    → 現 福岡ソフトバンク
    旧 近鉄
 1件:旧 大映
 0件:現 東北楽天

 これも不思議なデータであります。歴史上、大洋〜横浜はそれほど強いチームではなく、強打者の数も巨人や阪神、西鉄〜西武などに比べれば少ないのが事実です。フランチャイズの球場は?、と言うと、大洋〜横浜は川崎球場から鉾浜スタジアムですので、必ずしも同じ時代の他球場に比べて広くはありませんので、それは三塁打が制限されると言うことになります。なんでそんなチームで最もサイクル安打が達成されたのかは、ただの偶然と思います。

3.サイクル安打複数回達成選手

 サイクル安打を複数回達成した選手は、藤村(阪神、2回、1948年、1950年)、松永(阪急、オリックス、2回、1982年、1991年)、ローズ(横浜、3回、1995年、1997年、1999年)、福留(中日、阪神、2回、2003年、2016年)の4人であります。球団別サイクル安打達成件数で大洋〜横浜が第1位であるのはロバート・ローズの存在が大きいことは言うまでもありません。

4.球団別被サイクル安打達成件数

 球団別の、相手にサイクル安打を許した件数を調べました。

【サイクル安打球団別被達成件数順位】
10件:名古屋軍〜産業軍〜中部日本〜中日〜名古屋 → 現 中日
 9件:広島 → 現 広島東洋
 8件:セネターズ〜東急〜急映〜東急〜東映〜日拓〜日本ハム
    → 現 北海道日本ハム
    旧 近鉄
 7件:南海軍〜近畿日本軍〜グレートリング〜福岡ダイエー
    → 現 福岡ソフトバンク
 6件:大阪〜阪神軍〜大阪 → 現 阪神
    大日本東京野球倶楽部〜東京巨人軍 → 現 読売巨人
 5件:大洋〜大洋松竹〜洋松〜大洋〜横浜大洋〜横浜 → 現 横浜DeNA
 3件:西鉄〜太平洋クラブ〜クラウンライター〜西武 → 現 埼玉西武
    阪急軍〜阪急 → 現 オリックス
    毎日〜毎日大映〜東京〜ロッテ → 現 千葉ロッテ
 2件:国鉄〜サンケイ〜アトムズ〜ヤクルト → 現 東京ヤクルト
 1件:旧 金星〜大映
    現 東北楽天
    旧 トンボ

5.その他

 その他、目についた珍しい記録を列挙いたします。

・打席別では右打席42回(39人)、左打席27回(26人)、両3回(2人)
・6打席目での達成は史上8回
・1、2打席凡退からの達成は1990年 藤本(ダイエー)1人
・サヨナラ本塁打での達成は1954年 大下(西鉄)、1961年 近藤(大洋)のみ
・米大リーグと日本での達成は2004年 オチョア(中日)が唯一
・500本塁打以上7名中の達成者は王、山本、張本、衣笠の4人
・達成者のいるチームが敗れたのは1953年 原田(名古屋)1人

 まだまだ気づくことがあろうかと存じますし、今後の達成があるたびに更新して参る所存です。


疾患豆知識集 VOL. 004:頭痛診療

 仕事の話、最近、嫌に頭痛で外来に来る患者が多く、気質的疾患を否定する目的で、常に眼科コンサルトと頭部CTを行っており、新規の緑内障患者にはまだ出会っておりませんが、ついに先日、42歳女性の脳腫瘍を見つけてしまいました。付け焼き刃の勉強では右前頭葉の星細胞種 Astrocytoma を考えますが、後は脳外科にお任せとなります。
 ただ頭痛薬を出すだけではなく根気強く頭部CTを撮り続けて良かったと思いますが、それにしても頭痛患者は後を絶たず、そのほとんどが緑内障でも脳腫瘍でもなく、自前で治療しなければなりません。けっこう頭痛薬って効果がなくて治療に難渋するケースはあって、今日はちょっと頭痛の勉強をしましたのでここにも記録させていただきます。


◇ 頭痛の概要

 頭痛は誰もが何度も経験する病態でありますが、その種類は多岐にわたり、原因がはっきりしない病態も含まれ、従って治療抵抗性も場合もあります。

1.頭痛の原因別分類

 頭痛には当然のごとく、日常経験する対症療法で良い頭痛と、上述の脳腫瘍のように命に関わる病態とがあります。以下のごとく、大きな分類として一次性(機能性)頭痛と二次性(症候性)頭痛があります。

【頭痛の分類】
 一次性(機能性)頭痛 = 対症療法だけで対処する頭痛
  :偏頭痛、緊張性頭痛、群発頭痛
 二次性(症候性)頭痛 = 他の病態に続発する原因究明が必要な頭痛
  :くも膜下出血、脳腫瘍、脳動脈瘤、副鼻腔炎、緑内障、など

2.頭痛の初療と検査

 頭痛の初期診察と検査として、最も重要なのは二次性(症候性)頭痛の原因となる疾患の除外であります。医師国家試験レベルでもよく言われるのが、頭痛で発症する緑内障を見逃すと失明の危険があり、これは医療訴訟にも発展しかねない病態です。以下に頭痛の初療と検査、考えられる疾患を箇条書きといたします。

1)頭痛以外の症状:前兆、麻痺、構語障害、痺れ = 神経学的異常
2)画像(CT, MRI, MRA):頭蓋内、副鼻腔、眼底 = 脳腫瘍、出血
3)腰椎穿刺:発熱、意識障害を伴う場合 = 髄膜炎
4)眼科・耳鼻科コンサルト = 緑内障、副鼻腔炎
5)皮膚初見 = 三叉神経痛、後頭神経痛、帯状疱疹
6)精神疾患 = うつ病などによる頑固な頭痛

 二次性(症候性)頭痛について他に譲りとして、ここからは、私が関わるところの、一次性(機能性)頭痛についてまとめて参ります。


◇ 偏頭痛

1.偏頭痛の概要

 有病率は人口の8.4%、女性は男性の約3倍、10〜40代に好発します。発作性片側性の脈拍に一致した拍動性の頭痛、悪心、嘔吐を伴い、光や音に対して過敏となります。両側性で非拍動性でも、日常生活が妨げられる程度の痛みで、階段の昇降など日常的動作で増悪すれば片頭痛とされます。

2.偏頭痛の前兆

 前兆を伴う場合(前兆のある偏頭痛)と前兆を伴わない場合(前兆のない偏頭痛)があります。前兆がある場合には、視野中心からキラキラ光る境界をもつ暗点(不可視部分)や視野障害が典型的で、半身の感覚障害や運動障害、構語障害もあります。一般的には前兆は1時間以内で消え、その後頭痛が発生します。前兆の前に食欲亢進、あくび、感覚過敏、むくみ、興奮、疲労、空腹などの気分変調が1-2日間見られることあります。

3.偏頭痛の症状

 2-3日前から食欲亢進、あくびなどの予兆があり、次に先述の前兆が40-60分間続いて、前兆が消えてから60分以内に頭痛が始まります。頭痛は脈拍に一致した拍動性のことが多いですが、拍動性でなく持続性のこともあります。片側性のことも両側性のこともあり、持続は3日以内で、体動で悪化して睡眠で改善します。

4.偏頭痛の原因

 脳血管の周囲に分布する三叉神経が注目されております。この血管の周囲には神経伝達物質であるニューロペプチドがあり、これらが遊離し血管拡張や血管周囲炎症が痛みを発するとされます。これを三叉神経血管説と言われます。

5.偏頭痛の前兆および発作時治療薬

 偏頭痛の前兆が始まった際、あるいは偏頭痛が発症した時の治療薬です。まずはアスピリンやバファリン、ロキソニン、カロナールと言った非ステロイド系坑炎症薬 NSAIDから始めます。

1)非ステロイド系消炎鎮痛剤 NSAID
 :頭痛の程度が軽い場合。アスピリン、バファリン、ロキソニン、等
2)トリプタン製剤
 :頭痛が始まってからでも効果があり、60-70%に有効で、片頭痛の発作に伴う悪心、嘔吐、光過敏・音過敏などの随伴症状に対しても有効。レルバックス錠、イミグラン錠・点鼻・注
3)エルゴタミン製剤
 :前兆の時期に投与すると効果があるがこの時期を逃して頭痛期になってからでは無効。発作回数が少なく発作の持続時間が長い場合のみに用いる。クリアミン錠
4)制吐剤併用
 :頭痛発作時に悪心・嘔吐が強い場合、ドーパミン拮抗薬であるメトクロプラミド(プリンペラン)やドンペリドン(ナウゼリン)などの制吐薬を併用すると効果的。

6.偏頭痛の予防的治療

 片頭痛の発作が3-4回/月、急性期治療だけでは十分に治療ができない場合、症状高度、急性期の治療が薬の禁忌や副作用、または急性期治療の乱用がみられる場合には、片頭痛の予防的治療を考慮します。

1)β遮断薬:プロプラノロール
2)バルプロ酸:デパケン
3)三環系抗うつ薬:トリプタノール
4)Ca拮抗薬:ミグシス


◇ 緊張型頭痛

1.緊張型頭痛 概要

 一次性(機能性)頭痛の一つ、日本では20-30%の有病率で最多です。首筋が張る肩がこるなどの訴えとともに頭痛は徐々に始まり、後頭部の鈍痛が見られます。患者さんによっては、痛みというよりも重い感じ、何かをかぶった感じと訴えることもあり、症状は片頭痛に比べて、長く続くのが特徴です。

2.緊張型頭痛の症状

 徐々に始まり、首筋が張る、肩がこるなどの訴えとともに、後頭部の鈍痛として認められることが多いです。痛みというよりも重い感じ、圧迫される感じ、締めつけられる感じ、また、何かをかぶった感じ(被帽感)と訴えることもあります。頭痛は1週間〜10日ほど続くことが多く、時には1カ月のうち15日以上、ほとんど毎日頭痛が続くこともあります。

3.緊張型頭痛の原因

 国際頭痛学会では緊張型頭痛を引き起こす因子を以下のごとく挙げており、2つ以上の因子が重なって緊張型頭痛が発症としています。

 ・口、顎部の機能異常
 ・心理社会的ストレス
 ・不安
 ・うつ
 ・妄想
 ・筋性ストレス
 ・薬剤
 ・他の気質的疾患による増悪

 多くの場合は睡眠不足、心配事が頭から離れないと悪化します。結婚、就職、転職など、生活環境の変化に伴って増悪することもあります。

4.緊張型頭痛の検査と診断

 片頭痛と同様、器質的疾患を除外することが重要です。一般に、内科的・神経学的診察ではとくに異常を認めず、肩・項筋・後頭筋・側頭筋の硬結、圧痛を確認することが診断の根拠になります。硬結と圧痛の間には一般に相関関係がありますが、時に硬いのに圧痛を訴えないこともあり、まれに、硬くなっていないのに圧痛を訴えることもあります。圧痛があれば現在筋肉痛があると考えられ、硬結は長い間の筋緊張の持続を示す所見と考えられます。

5.緊張型頭痛の治療

 緊張性頭痛の治療の第一選択は非ステロイド系消炎鎮痛剤NSAID、次いで筋弛緩薬(ミオナール など)、予防的投与として抗うつ薬(トリプタノール など)、抗不安薬(デパス など)が有用です。


◇ 群発頭痛

1.群発頭痛 概要

 原因不明。片側の眼窩部、眼窩上部または側頭部の激しい疼痛と同時に、同じ側の眼球の結膜充血、涙、鼻閉・鼻汁などがみられ、同じ側の瞳孔の縮瞳や眼瞼下垂などを伴う頭痛です。有病率は0.1%以下と極めて稀な疾患ですが症状は激烈です。

2.群発頭痛の症状

 ある一定の期間(多くの場合1-2ヶ月間)に、連日しかも夜間、明け方のほぼ一定の時間に起こる激しい頭痛で、その起こり方は群発性(1回起こると連日のように起こる)であります。激しい頭痛は1-2時間続き、その後自然に軽快しますが、主に睡眠中に発症するために眠ることに恐怖に感じる患者が多いです。

3.群発頭痛の治療

 トリプタン製剤(錠剤、点鼻薬)の他、100%酸素吸入も有効で、予防としてCa拮抗剤、ステロイドも使われます。特異な病態で夜間に激烈に発症するため脳外科、神経内科へのコンサルとも重要とされます。


◇ 薬物濫用頭痛

 急性期頭痛治療薬(エルゴタミン、トリプタン、鎮痛薬、オピオイド)の乱用による頭痛の頻度は高く、頭痛患者の約8%とされます。片頭痛や緊張型頭痛に対して薬物乱用中に新しいタイプの頭痛が出現したり、頭痛が著明に悪化した場合はこれを疑います。治療は薬剤中止、変更。


◇ 頭痛の診療

 同じ一次性(機能性)頭痛でも病態によって治療法が異なることが見て取れます。最後にもう一度、まとめとして、一次性(機能性)頭痛の鑑別とフローチャートをお示しします。

1.一次性(機能性)頭痛の鑑別

一次性頭痛鑑別


2.頭痛鑑別のフローチャート

・頭痛患者 → 二次性(症候性)頭痛の否定
・日常生活への支障度
  小さい → 反復性緊張型頭痛、軽度〜中等度の偏頭痛
  大きい → 偏頭痛
・1月に何日頭痛があるか
  15日以下 → 偏頭痛
  15日以上 → 慢性連日性頭痛
・鎮痛剤服用頻度
  週3日未満 → 薬物乱用頭痛なし
  週3日以上 → 薬物乱用頭痛疑い
・夜間の頭痛 → 群発頭痛


ついに実現した代打 投手ウィーランド

 
 季節柄、野球ネタが続くことをお許しください。本日の横浜スタジアム、広島戦、同点で延長11回、2アウト1,2塁、横浜の野手はキャッチャー伊藤選手のみが残っておりましたが、バッター嶺井選手のところでラミレス監督は代打、ピッチャーのウィーランドを送りました。投手の打席で投手を代打に出してバントと言うのは観たことがありますが、ヒットが求められる場面で野手の打順で投手の代打は初めてみました。太古の昔、金田さんや堀内さん、あるいはもっと以前の故 川上 哲治 氏ではあったかも知れませんが、前日に先発登板した投手が翌日もベンチ入りして代打で出てくるなんて、プロ野球ファン40年にして初めて見ました。

20180803 広島戦スコア

IMG_2125.jpeg

IMG_2126.jpeg

IMG_2129.jpeg


 結果は、ウィーランドがファーボールを選んで満塁、倉本のサヨナラヒットとなりましたが、それにしてもサヨナラの場面で投手の代打、心を動かされました。