アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

真珠湾慰霊における日米両首脳の演説


 本日、日本時間、平成28年(2016年)12月28日朝、安倍 晋三 首相は日本国の総理大臣として初めて、米国ハワイの真珠湾に訪問し、バラク・オバマ 米大統領と最後の首脳会談を行った後、アリゾナ記念館を訪れて献花、演説を行いました。これに対して、ニューヨーク・タイムズ紙は 安倍 晋三 首相が「真珠湾攻撃への後悔を表明したが、謝罪はなかった」と伝え、米CBSテレビは現地からの中継で「両首脳は共に、詩的で感動的なスピーチで和解を強調した」などと報じております。歴史的意義、外交上の意味合い、そして両国政治の事情など、様々な見方はあろうかと思いますが、一つの歴史上の出来事として両首脳の演説を記録しておきます。これに対する、肯定も否定も、個人的見解は控えさせていただきます。

ハワイにて安倍、オバマ


◇ 日本国 安倍 晋三 首相

 オバマ大統領、ハリス司令官、ご列席のみなさま、そして全てのアメリカ国民の皆様、パールハーバー、真珠湾に今、私は日本国総理大臣として立っています。

 耳を澄ますと、寄せては返す波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の柔らかな光に照らされた、青い、静かな入り江。私の後ろ海の上の白いアリゾナ・メモリアル。あの慰霊の場を、オバマ大統領とともに訪れました。そこは私に沈黙を促す場所でした。亡くなった軍人たちの名が記されています。祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、さまざまな地から来て乗り組んでいた兵士たちがあの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いた時、紅蓮の炎の中で死んでいった。

 75年がたった今も、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。

 あの日、日曜の朝の明るく寛いだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語る若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。生まれてくる子の幸せを祈る声。一人ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や恋人がいた。成長を楽しみにしている子どもたちがいたでしょう。それら全ての思いが絶たれてしまった。その厳粛な事実を噛みしめる時、思う時、私は言葉を失います。その御霊よ安らかなれ。思いを込め、私は日本国民を代表して兵士が眠る海に花を投じました。

 オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、世界の、さまざまな国の皆さま。私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々の御霊に、ここから始まった戦いが奪った、すべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった、数知れぬ無辜の民の魂に、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 戦争の惨禍は、二度と繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は静かな誇りを感じながら、この不動の方針をこれからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固いその決意を、日本国総理大臣として表明いたします。

 昨日、私はカネオへの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し母艦に帰るのをあきらめ引き返し戦死した戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けた側にいた米軍の人々です。死者の勇気を称え、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のため命を捧げた軍人への敬意を込め「日本帝国海軍大尉」と、当時の階級を刻んであります。

 “The brave respect the brave“、「勇者は、勇者を敬う」。アンブローズ・ビアスの詩は言います。戦い合った敵であっても敬意を表する。憎しみ合った敵であっても理解しようとする。そこにあるのは、アメリカ国民の寛容の心です。

 戦争が終わり、日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は未来へと命をつなぐことができました。そして米国は、日本が戦後再び国際社会へと復帰する道を拓いてくれた。米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは平和と繁栄を享受することができました。

 敵として熾烈に戦った私たち日本人に差しのべられた、こうした皆さんの善意と支援の手、その大いなる寛容の心は、祖父たち、母たちの胸に深く刻まれています。私たちも覚えています。子や孫たちも語り継ぎ、決して忘れることはないでしょう。

 オバマ大統領とともに訪れた、ワシントンのリンカーン・メモリアル。その壁に刻まれた言葉が、私の心に去来します。

 「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」「永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務を、やりとげる」。エイブラハム・リンカーン大統領の言葉です。私は日本国民を代表し、米国が、世界が日本に示してくれた寛容に改めてここに心からの感謝を申し上げます。

 あの「パールハーバー」から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く強く結ばれた同盟国となりました。それは今までにも増して世界を覆う幾多の困難に共に立ち向かう同盟です。明日を拓く希望の同盟です。

 私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、“The Power of reconciliation“、「和解の力」です。私がここパールハーバーで、オバマ大統領とともに、世界の人々に対して訴えたいもの。それは、この和解の力です。

 戦争の惨禍は、未だに世界から消えない。憎悪が憎悪を招く連鎖は無くなろうとしない。寛容の心、和解の力を、世界は今こそ必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値の下、友情と信頼を育てた日米は、今こそ寛容の大切さと、和解の力を、世界に向かって訴え続けていく任務を帯びています。日本と米国の同盟は、だからこそ希望の同盟なのです。

 私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー、真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子どもたちが、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれる事を私は願います。そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに、固く、誓います。

 ありがとうございました。


◇ 米国 バラク・オバマ 大統領(和訳)

 安倍総理大臣、本日の総理のご出席と心のこもったステートメントは和解の力を証明する歴史的な行為であり、米国民を代表して感謝申し上げます。
 また、米国と日本の人々の同盟関係は、戦争による最も深い傷でさえも友情と恒久平和に取って代わられることを私たちに想起させるものであり、謝意を表します。ご列席の皆様、米軍関係者、そしてそのなによりも真珠湾攻撃の生存者の方々及びその大切な人へ。アロハ!

 米国人、特にハワイを郷里とする者にとって、この真珠湾は神聖な場所です。未だ嘆き悲しむこの湾に献花し、また花びらを投げ入れるとき、私たちは2400名を超える米国の愛国者たち、天の帆桁で永遠の敬礼をする父や夫、妻や娘を思います。
毎年12月7日になるといつもより少し背筋を正すオアフの守護者に敬礼し、そしてここで75年前に示された勇姿に思いを馳せるのです。

 12月のその日、夜が明けると、楽園はこれまでにないほど魅力的でした。水は温かく。そして現実と思えないほどに青く。水兵たちは食堂で食事をしたり、教会に行く準備をしたり、自由を胸にこぎれいな白い半ズボンとTシャツを身につけたりしていました。
湾では、船舶がきちんと列をなして停泊していました。カリフォルニア号、メリーランド号、オクラホマ号、テネシー号、ウエストバージニア号、ネバダ号、そしてアリゾナ号のデッキでは海軍の音楽隊がチューニングをしていました。

 その朝、兵士の肩に記された階級は、彼らの胸に宿る勇気ほどに意味をなしませんでした。彼らはこの海において、あらゆる手を尽くして自己を防衛しました。

 あるアフリカ系アメリカ人の食堂の給仕係は、普段であれば清掃の役割しか与えられていなかったが、この日、司令官を安全な場所に運び、そして弾薬がなくなるまで地対空砲を打ち続けました。

 私たちは、ウエストバージニア号の1級砲撃手であったジム・ダウニングのようなアフリカ人を誇りに思います。真珠湾に急行する前、彼の新妻は彼の手に聖書の言葉の一節を握らせました。「永遠なる神は女の拠り所、その永遠なる胸に抱かれて」というものです。
ジムが戦艦を守ろうと戦っている最中、彼は同時に倒れた者たちの名前を記録しました。家族にその事実を伝えることができるようにするためです。彼は言いました「人がする当然のことです」と。

 私たちはハリー・バンのようなアメリカ人を記憶しています。彼はホノルル出身の消防士で、荒れ狂う火を前にし、最後の命を取り綴り、燃える戦闘機の鎮火に取り組みました。彼はパーブル・ハート勲章(名誉負傷)を民間人の消防士として唯一受賞した人です。
 私たちは、2時間以上もの間、50口径のマシンガンを撃ち続け、20回以上も負傷し、最も高位の軍人の勲章である名誉勲章を受章したジョン・フリン上等兵層のようなアメリカ人に敬意を表します。

 私たちは、戦争のもっとも永続的な価値に対し如何に挑戦するかについて思いを馳せます。日系アメリカ人が如何にして戦争期間中、自由を奪われたのでしょうか。米国史上最も勲章を受章した部隊は、日系アメリカ人2世の舞台である第100歩兵大隊と442連隊でした。私の友達でハワイ出身の上院議員、ダニエル・イノウエさんも所属していました。彼はずっとここに住んでいます。そして私は上院議員になったとき、彼の友人であることを誇りに思いました。彼は名誉勲章、そして自由勲章を授与されました。そして彼の世代で最も偉大な政治家の一人です。

 第二次世界大戦における米国の最初の戦場である、ここ真珠湾で、私たちの国は奮起しました。多くの点で、この場所でアメリカ人は成熟したのです。私の祖父母を含め、多くの世代のアメリカ人は戦争を求めたりしませんでした。しかしながら、彼らは戦争から身を背けることを拒否し、経営の場や工場においてその役割を果たしました。そして75年後、誇り高い真珠湾攻撃の生存者の層は、時間の経過とともに薄くなってきています。この場で私たちが思い出す勇者は、私たちの国の心に永遠に生き続けます。真珠湾、そして第二次大戦の退役軍人の皆さん、立ち上がるか手を挙げていただけますでしょうか。感謝の心に富むこの国は、皆さんに御礼申し上げます。

 国の本質は、戦時において試されますが、平時において定義されます。人類史上最も恐ろしい期間の一つ、太平洋を渡り悲惨な戦闘により、何百万もの命が奪われた時期の後、米国と日本は何十年もの間、友好と平和を示しています。私たちの同盟は、両国をより繁栄させています。同盟は、新たな世界大戦を予防し、何十億もの人々とを貧困から救った国際秩序の強化に貢献しています。そして本日、米国と日本の同盟は、共通の利益によって結ばれ、共通の価値に基づき、アジア太平洋の平和と安定の礎となっており、世界の進歩を推進する力となっています、実際、私たちの同盟はこれまでにないほど強固なものとなっています。

 よい時も悪い時も、私たちはお互いを助けるためにいます。5年前、津波が日本と原子炉を襲い掛かり、福島の原子炉が融解したとき、米軍人は私たちの日本の友人を助けました。世界の中で米日はアジア太平洋地域と世界における安全を強化するために協力しています。たとえば、海賊を後退させ、疾病と戦い、核兵器の拡散を遅らせ、戦時の領土において平和を維持しています。

 そして本年前半には、真珠湾の近郊で日米両国の人々は、24か国とともに世界で最大の海上軍事訓練を実施しました。この訓練にはハリー・ハリス司令官が率いる米太平洋軍も参加しました。
ハリス司令官は、米国人の海軍兵を父に、日本人を母に持っています。ハリーは横須賀で生まれましたが、それは彼のテネシーなまりからわからないでしょう。ハリー、あなたの誇りあるリーダーシップに感謝します。

 このような観点から、本日私たちがここにいること、安倍総理がここにいることは、国と国、そして人と人との間に何が可能であるかということを気づかせてくれます。戦争は終わります。もっとも厳しい敵対関係にあったものが、最も強い同盟関係を結ぶことができます。平和という果実は、戦争による略奪をはるかに上回るものです。これが真珠湾のゆるぎない事実です。

 この場所で、憎しみの炎が最も強く燃え盛る時も、部族間の争いがあるときも、私たちは内向きになったり、私たちとは異なる者とを悪のように扱うといった欲求に抗わなければならないということを想起します。ここで払われた犠牲や戦争による怒りは、私たちの皆の中にある共通項を探すことで思い出させてくれます。これは、日本の友人の言葉を借りれば「オタガイノタメニ」、つまり「相手とともにあって、相手のために尽くす」よう努力することを求めています。これがミズーリ号に乗船していたウィリアム・キラハン船長による教訓です。彼は、彼の船が日本人のパイロットによって攻撃を受けた後も、同パイロットの遺体を米国兵が縫製した日本の国旗で包み、軍葬儀の礼を行うよう指示しました。そしてこれは何年もあとになって真珠湾を再訪し、米国海軍のラッパ手と友人となり、同ラッパ手に軍葬の際に流される曲を演奏してもらうように依頼し、毎月2本のバラの花(1本は米国の犠牲者に、もう一本は日本の犠牲者に)をこの記念館に飾ることとなった。日本人パイロットによる教訓でもあります。

 これは、2人の人がいかにもっとも平凡な方法で学ぶことができるかという点についての教訓です。多くの米国人が東京で勉強し、日本の若者も全米で勉強しています。日米の科学者はともに、がんに取り組み、気候変動と闘い、星を探査しています。またこれはマイアミのスタジアムを明るくし、米国人と日本人が共有する誇りによってともに元気づけられている。野球のイチロー選手についてもいえることです。米国人と日本人は平和と友情で結ばれています。

 それぞれ国として、そして人として、私たちは私たちが引き継ぐ歴史を選ぶことはできません。しかし、そこからどのような教訓を学び、そして歴史を使ってどのように私たちの未来の計画を立てるかということは選ぶことができます。

 安倍総理、私は友情の精神に基づき、あなたをここに歓迎します。それは日本人の人々が常に私を歓迎してくれたことと同様です。私たちが協働することによって、世界に対して、前に進むにあたっては戦争よりも平和によって多くのことを勝ち得ることができる。そして報復よりも若いがより多くの報償をもたらすというメッセージを送ることができることを期待します。

 この静かな港で、私たちは亡くなられた方々に対して敬意を表し、我々両国が友人として勝ち得たすべてに対して感謝を表明します。神が戦没者をとこしえの胸に抱え、海が退役軍人を見守り、皆が私たちのために番をしてくださいますように私たちに神の御恵みを。

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今シーズンは事実上の終了、浅田 真央 選手に関する記事一覧


 昨夜閉幕した第85回 全日本フィギュアスケート選手権は、男子が 宇野 昌磨 選手(19歳、写真左)の初優勝、女子は 宮原 知子 選手(18歳、写真右)の三連覇と言う結果に終わりました。

宇野と宮原 写真

 この結果を受けて、来年3-4月にフィンランド、ヘルシンキで行われる世界選手権の出場者が決まり、男女6人中4人、女子は3人ともに十代選手となりました。

【フィギュアスケート世界選手権出場予定の選手】
 男子:羽生 結弦(22歳)  女子:宮原 知子(18歳)
    宇野 昌磨(19歳)     樋口 新葉(15歳)
    田中 刑事(22歳)     三原 舞依(17歳)

 浅田 真央 選手(26歳)は14度目の全日本で自己ワーストの12位、13年ぶりに表彰台を逃し、世界選手権の代表入りにはなりませんでした。明らかな世代交代を痛感する流れでありますが、浅田 選手に関する記事が様々な視点から掲載されております。来季も現役続行を明言している彼女がどのような選手生活最後の年を過ごすのか、厳しい状況を乗り越えて最後の一花を咲かせてくれるのか、ここに、いくつかの記事を記録しておこうと思います。


◇ 真央、自己最悪12位…13年ぶり表彰台外 平昌五輪へ試練

 スポニチです。「自己最悪」、「試練」と言うタイトルで始まり、「かつてない逆風」と言う言葉で締めくくる、極めて悲観的な記事であります。

16:12:26 スポニチ記事

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 女子フリーが行われ、浅田真央(26=中京大)はトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)で転倒するなどジャンプでミスを連発し、合計174・42点で14度目の全日本で自己ワーストの12位に終わった。13年ぶりに表彰台を逃し、世界選手権(来年3~4月、フィンランド・ヘルシンキ)の代表入りはならず。最大目標の18年平昌五輪へ、厳しい状況に立たされた。宮原知子(18=関大)が214・87点で3連覇を達成し、世界選手権代表に決まった。

応援に駆けつけた姉の舞とリラックスムードで話し、気分を入れ替えてフリーを迎えた。冒頭にトリプルアクセルにアタック。SPは1回転半の失敗で、この日は「何があっても回ろう」と気合を入れていたが、回転不足の上に転倒。今季初挑戦の3-3回転も回転不足で、演技後半の3回転サルコーで転倒し、3-2-2回転は単発の1回転に。情熱的に「リチュアルダンス」を舞ったが、得点が伸びる要素はなかった。

 昨季から抱える左膝の不安により、調整が遅れたシーズン前半。トリプルアクセルを3戦続けて回避したが、全日本でようやく挑めた。「そういう状態まで来たことは満足している」と懸命に前を向いたが、結果がついてこない。一人のアスリートとして、許せない現実が目の前にはある。演技を終えると、自身の最終順位が確定する前に会場を後にした。

 今季は事実上終了し、平昌五輪に向けて厳しい状況に立たされた。世界選手権代表を逃したことで、来季のGPシリーズに2戦エントリーできるか不透明。世界ランクのポイントも稼げない。全日本12位で17年大会のシード権はなく、全日本出場のために国内大会から出直しを迫られる可能性がある。「最高のレベルをそろえることができなくて、悔いが残っている」。いつかまた、最高の難度で最高の演技を。かつてない逆風に、浅田が立ち向かう。

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◇ 浅田真央【一問一答】「チャレンジできたことはうれしく思う」

 デイリー、浅田 選手へのインタビューの一問一答を紹介し、三回転半(トリプル・アクセル)にチャレンジできたことの喜びと来季に向けた前向きな言葉を客観的に拾った記事です。

16:12:26 デイリー記事02

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 女子フリーが行われ、SP8位からの巻き返しを狙う浅田真央(中京大)は冒頭でトリプルアクセルに挑み転倒した。その後の3回転ジャンプでも転倒が出て、フリー114・10点、SPとの合計は174・42点で12位に終わった。自身の演技に納得がいかない様子で表情も暗めだったが、トリプルアクセルを冒頭に配置する本来の構成に挑めたことについては前向きにとらえていた。以下、一問一答の要旨。

 -3回転半の負担は大きいのか。
 「どうなんですかね…。この試合では取りあえず自分の最高のレベルで歩みたいと思っていたので、シーズン前半はそこまで自分の力がなくて、そのレベルですら臨むことができなかったんですけど、自分のもともとのレベルまで戻ってきたので、チャレンジできたことにはうれしく思います」

 -スピードがないようにも見えた。緊張感があったか。
 「うーん。今はちょっとよく分からないです」

 -シーズン後半は。
 「まだ終わったばかりなのでもうちょっとゆっくり考えたいと思います」

 -難しいジャンプと芸術性の両立は、どこまで進んでいるか。
 「競技なのでもちろん挑戦もしていかないといけないですし、自分の最高のレベルで臨まないといけないと思います」

 -フランス杯の後は自信喪失とも話していた。
 「GPシリーズが終わってからこの試合へ一日一日積み重ねてきたので、不安とかはなかったです」

 -後半戦はできる限り試合に出ようと思っているのか。小さい大会にも出るつもりか。
 「この結果なので、結果が出てみないと分からないです。今終わったばかりなのでここで何とも言えないです」

 -今年の全日本選手権はどうとらえているか。
 「特にはなくて、どの試合も緊張しましたし、私自身はすべて同じ気持ちで臨みました」

 -来季もまた挑戦は続けるか。
 「そうですね、はい」

 -トリプルアクセルとは、飛びたいと思うものでもあり、飛ばなければいけないと思うものでもあるのか。
 「選手である以上は現状維持ではなく、自分ができる最高のレベルで臨まないといけないと思いますし、この調子まで戻ってきて試合でチャレンジできたことは私自身、満足しています」

 -終わった後の表情が暗かったように見えた。
 「自分自身の演技に納得していないというのもありますし、たくさんの声援がすごくパワーになったんですけど、パワーに変えて演技として恩返しできなかったことに悔しい気持ちです」

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◇ 【岡崎真の目】浅田真央 平昌五輪まだ間に合う 年齢的な衰えではない

 またもスポニチですが別の視点から、浅田 選手の演技に対して、技術的、体力的な部分についての分析を紹介し、来季に向けて肯定的な記事となっております。

16:12:26 スポニチ記事02

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 SPでは高く跳ぼうとして回転動作が緩慢になってしまった浅田のトリプルアクセルだが、この日は回転動作に意識がいき、踏み切りで伸び上がる力が不足した。結果的に左右のバランスを崩し、滞空時間が足りなくなった。

 故障の影響もあるのだろうが、気になるのは全体的にシャープさを欠いているところだ。ジャンプやスピンの回転が遅く見えるのは、筋肉や神経の反応速度が遅くなっているから。ただし、これは年齢的な衰えではないと思う。なぜなら、ステップでは一転してシャープな動きを見せているからだ。直前の6分間練習もそうだが、練習の中でスピーディーに動く内容が足りないのかも知れない。得点、順位ともに浅田にとっては最悪かもしれないが、来季の五輪を考えると間に合う可能性は十分ある。5項目の演技点では宮原に次ぐ得点をマークしており、存在感はまだまだ一線級だからだ。

 SPでは圧巻の演技だった宮原だが、ジャンプに細かいミスがあったように、フリーはさすがに緊張感があった。それでも140点に近く、得点の下限は高まっている印象だ。こういう「勝って当然」の試合を何度も経験することで、さらに女王の貫禄がついてくると思う。 (ISUテクニカルスペシャリスト、プロコーチ)

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◇ 浅田真央、転倒でフリーも伸ばせず12位…04年からの連続表彰台途切れる

 報知です。ショートプログラムと同様にフリーでも三回転半(トリプル・アクセル)ジャンプを組み込んだことについて「チャレンジできたことを嬉しく思う」との本人のコメントを紹介して、かなり前向きな記事となっております。

16:12:25 報知記事

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 女子フリーが行われ、ショートプログラム(SP)8位の浅田真央(26)=中京大=は114・10点、合計174・42点で大会ワーストの12位に終わった。14年の休養をはさみ、2004年から続けてきた連続表彰台は途切れた。

 SPに続いて挑んだ3回転半ジャンプ(トリプルアクセル)は転倒したが、今季初めて連続3回転ジャンプに臨み「この試合は自分の最高のレベルでやりたくて。チャレンジしたことに関してはうれしく思うけど、2つそろえられなかったことは悔しい」。

 トリプルアクセルに挑み続ける理由については「やはり競技者として、選手である以上は現状維持ではなく、自分が出来る最高のレベルで臨まなきゃいけない」と口にした。

 平昌五輪イヤーとなる来季も続けるかという質問に「そうですね。はい」とはっきりと答えた。

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◇ 浅田真央やめない!即答 3ヶ月残し今季終了でも

 日刊スポーツ、トリプル・アクセルに加えて、3回転-3回転の連続ジャンプなど、怪我や不調のため、今季ここまでできなかった技に挑めたこと自体に、 「ここまで戻してこられたのはうれしい」と言う本人の喜びの声を紹介し、今回の大会を「大きな前進」とする記事です。ただ、最後に平昌五輪への出場に関しては必ずしも楽観視はできない現状も紹介しております。

16:12:26 日刊

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 浅田真央(26=中京大)が来季の現役続行を宣言した。SP8位で臨んだフリーでトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に挑戦したが転倒。ミスも重なり114・10点、合計174・42点で自己ワーストの12位に終わった。今大会の表彰台を逃すのはソチ五輪後に休養した14~15年シーズンを除き、03年以来。競技終了後に発表された世界選手権の女子代表入りは逃した。今季残りの試合予定は白紙だが、集大成と捉える18年平昌五輪を目指し、来季も現役を続けると明かした。

 浅田が思い描く「最高の演技」はできなかった。「残念」の気持ちと同時に湧いてくるのは「ここまで戻してこられたのはうれしい」という喜び。トリプルアクセル、3回転-3回転の連続ジャンプ。不調のため、今季ここまでできなかった技に挑めたこと自体が大きな前進だった。10度目の世界選手権を含む、今季終盤の大会切符は何もつかめなかった。今季残りの予定は白紙。それでも、来季もやるかとの報道陣の問いに、即座に「そうですね。はい」と答えた。浅田はまだ滑り続ける。

 前日のSPで回り損ねた冒頭のトリプルアクセル。「ゆがんでも、何があっても回ろう」と勇気を出して跳び上がったが、転倒した。この日の練習では4本試し1度成功。失敗するリスクは高いまま。それでも「競技者として、現状維持ではなくて、最高レベルのものを目指したい」。意志を貫いた。

 出場30選手中最年長の26歳。12歳で初出場した02年から数え今回で出場14度目を誇る。「天才少女」と呼ばれ、元気いっぱい軽やかに跳んでいた10代の頃とは違う。20代後半に入り、浅田は体の衰えと向き合う。練習は、体力や体の故障の影響で量が積めない。その分、いろいろ試し「1回の密度は濃い」と胸をはる。無心で臨んでいた海外遠征も、今は時差が体にこたえる。試合から逆算し、機内で睡眠時間をコントロールしている。

 それでも氷上に居続ける理由は「好きで戻ってきたから」。今季落ち込む度に、言い聞かせるように何度も繰り返してきた。今大会は今季初めて練習を積んで臨んだ。「不安はなかった」。自信を取り戻し、求めるものが見えてきたところで、辞めるわけにはいかない。

 ただ、目標とする平昌五輪へは厳しい道のりが待つ。来季、国際主要大会で結果を残せなければ、1年後の全日本で優勝することが求められる。また、ジュニアからシニアに上がる選手も多く、本田ら強力なライバルたちに勝たねばならない。まずは、フィギュア人生で初めて訪れた白紙の数カ月をどう過ごすのか。滑り続けることを決めた浅田の挑戦がここから始まる。【高場泉穂】

 ◆浅田の平昌五輪への道 14年ソチ五輪は全日本選手権優勝者や全日本2、3位の選手とGPファイナルの日本人表彰台最上位者などから代表が選出された。平昌五輪も前回と同様の選考方法ならば、まずは来年のGPシリーズに出場し、ポイント上位6人に入り、GPファイナルに出場することが必要になる。現時点で国際大会の成績が振るわない浅田は、来年のGPシリーズの出場が確約されておらず、その場合、残された道は年末の全日本選手権で優勝すること。平昌五輪の選考方法は来年夏に決まる予定。日本の出場枠は来年3月の世界選手権で決まる。

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◇ 真央「選手である以上、挑戦が必要」 競技者として貫くプライド

 スポーツナビ、浅田 選手の強いメンタル面に触れた記事がありましたので、こちらもご紹介します。まだまだ高い技術を維持しているものの、トリプル・アクセルに対する強い思い入れを貫いているとの解説です。

16:12:26 スポーツナビ記事

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トリプルアクセルは2本ともミス

 浅田真央(中京大)にとって14回目となる全日本選手権は、過去最低の12位に終わった。合計得点は174.42点。優勝した宮原知子(関西大)には、実に40点もの差をつけられ、世界選手権の出場も逃した。

「この全日本では自分の滑りや、目標としていたことを全部やりたかったんですけど、それができなくて残念です」

 ショートプログラム(SP)後には、8位スタートながら笑顔も見せていた。だが、フリースケーティング(FS)後は悔しさをかみしめつつ、何か達観しているような表情を浮かべていた。浅田は言う。

「まだ終わったばかりなので、次という気持ちにはなれないんですけど、今回は自分が今までやってきた最高のレベルで臨みたかったので、その状態にまで戻せたことは良かったと思います」

 その言葉どおり、この全日本ではSP、FS共に自身の代名詞であるトリプルアクセルに挑んだ。同時にプログラムの難易度も上げており、それをこなせる状態にまで調子が戻っていたことを裏付ける。トリプルアクセルは2本とも失敗し、その他のジャンプにもミスがあったものの、演技構成点は宮原に次ぐ2位。地力はしっかりと見せた。

 ジャンプさえ跳べれば点数はおのずと上がってくるのだが、今季はそれがうまくいかない。左ひざ負傷の影響もあるのか、スピード、高さ共にこれまでのシーズンと比べて劣っているように見える。

高得点なだけに失敗すると……

 休養明けから復帰2年目のグランプリ(GP)シリーズは、スケートアメリカで6位、フランス杯で9位と不本意な順位に甘んじた。ジャンプは跳ぶのが精いっぱい。フランス杯では演技後に、「すべてが失われた。スケーティングもジャンプも、全部がしっくり来ていない」と、涙に暮れた。

 それを考えれば、全日本までの1カ月ちょっとの間で、トリプルアクセルをプログラムに組み込む状態にまで調子を取り戻すことができたのは、彼女のたゆまぬ努力に他ならない。満足いく練習を積み重ねてきたようで、その手応えもあったのだろう。大会前日には「今季の中では最も調子が良い」と、口調も滑らかだった。SP当日の公式練習では、トリプルアクセルを成功させ、復活への機運は高まっていた。

 しかし、練習と本番は違う。緊張感が高まる中では、まだ跳べる状態ではなかった。SPはシングルアクセルになり、FSでは両足着氷から転倒した。トリプルアクセルはリスクの高い大技だ。跳べれば高得点(基礎点は8.5点)が付き、勢いにも乗れるが、失敗すれば点数にも体力にも影響する。

 女子のSPではダブルアクセル以上を跳ばなければいけないため、シングルでは0点になる。浅田はSPでジャンプ1つ分の点数を失ってしまった。FSでも回転不足と転倒により、GOE(出来栄え点)でマイナス評価を受け、1.80点しか得られなかった。全神経を集中させなければ跳べない大技。それに失敗すると、その後の演技に影響が出るのは当然とも言える。

 事実、浅田がFSで跳んだ他の6つのジャンプで加点が付いたのは、3回転ルッツと3回転ループの2つだけ。あとの4つは回転不足を取られたり、転倒したりとミスが出た。そうした中でも、スピンやステップでレベル4を取るのはさすがだが、それだけにジャンプの失敗が悔やまれる。

 多くの選手が、トリプルアクセルをプログラムに組み込めないのも、習得していないこともあるが、こうしたリスクを回避する目的もある。勝負が懸かる以上、確実に点数を取りにいくことが求められる。しかし、浅田はあえてそのリスクを冒す。それは競技者としての彼女のプライドでもある。

「選手であるからには、現状維持ではなく、自分ができる最高のレベルで臨まなければいけないし、常に挑戦をしていく必要があると思っています」

 トリプルアクセルについての考えを聞かれると、浅田はそう答えた。もちろん今季のGPシリーズのように、コンディションが悪いときに回避する柔軟さは持っている。それでも跳べる状態のときは、たとえ勝負が懸かっていても、積極的に挑んでいくのが浅田という選手のスタイルなのだ。だからこそ多くの選手が彼女に憧れ、ファンの支持も得られる。

 以前、浅田を指導する佐藤信夫コーチはこう言っていた。
「トリプルアクセルは彼女にとっての“夢”なんです。それを誰が取りあげられるのでしょうか。僕にはできない」

 浅田が今大会に臨むにあたり、佐藤コーチは「自分の思い通りにやりなさい」と伝えたという。そして浅田はトリプルアクセルに挑み、失敗した。しかし、浅田に後悔はない。SP後には「トリプルアクセルがない状態で終えたときよりも、挑戦できた今回の方が気持ちよかった」とさえ言ったぐらいだ。

演技全体をまとめる方法はあるが

 3連覇を飾った宮原を筆頭に、今大会の表彰台を飾った3選手はすべて10代。伸び盛りの若手に対して、26歳の浅田は岐路を迎えている。12位に終わったことで、シーズン後半に行われる国際大会の出場は逃した。浅田自身も今後の試合については「終わったばかりなので、もう少しゆっくり考えたい」と話している。現役続行は明言しているが、後半戦のスケジュールは未定だ。

 2018年の2月に行われる平昌五輪を考えれば、小さな大会に出場して、試合勘を養っておく必要はあるかもしれない。その一方でケガを完治させ、来季の準備をいち早く進める選択肢もある。いずれにせよ、日本代表からの落選をポジティブに受け止め、時間を有効に使っていくべきだろう。

 浅田自身も「選手としてやるからには五輪を目指したい」と目標に掲げており、来季はそれに向けた戦いとなる。出場権を得るためには、各大会で確実に結果を残していくしかない。果たしてどうするのか。

 演技構成点はきちんと取れているだけに、アクセルをトリプルからダブルにして、全体をまとめる方法はある。そうすれば点数自体ももう少し上がるかもしれない。だが、彼女はきっとそれをよしとはしないだろう。むしろトリプルアクセルを決めるためにはどうすべきかを考えるはずだ。

 競技者としてのプライドはあくまで貫き通す。それが浅田真央という選手なのだから。

(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)

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◇ 雑 感

 フリー当日である昨日の朝、野球評論家の 張本 勲 氏がTBSの「サンデーモーニング」で、ショート・プログラムで8位発進となった浅田 選手について、「やっぱりどうでしょう、厳しいけどスポーツ選手の宿命だよね。力がなくなったら。若い子が出てきているからね」とコメントしていました。最近話題の、口の悪い年配の厳しい発言ともとれますが、言っていることは至極まともな正しい意見だと思います。
 浅田 選手、膝の故障で思うように練習ができず、体にキレがない、との記事が散見されますが、アスリートのにとって、古傷があったり、運動神経の低下が新たな怪我につながり、故障の回復が遅いのも十分に年齢的要素であります。故障により練習が不足すれば体の動きは悪化し、スタミナも低下します。そうしたかたちで衰えつつあるベテランに対して、容赦なく、無傷で元気な若者が勝ちをもぎ取って行くのはあらゆるスポーツに共通して起こる現象でしょう。
 ネットで見つけた記事は、悲観的な観測から、まだ大丈夫とする意見、彼女を讃える内容まで、様々でありましたが、共通して報じていることは、浅田 選手は自分の競技人生をまだ諦めてはいないと言うことであって、本人は来年のオリンピック出場の可能性がゼロとは思っていないことであります。もう一度、故障を治して、体を作って、心を奮い立たせる決意でいるのです。
 気持ちが切れていないことがアスリートとして最も大切なことです。浅田 選手が現役を続けるつもりでいる以上、「スポーツ選手の宿命」として論ずるのはもう少し先でも良いと思う次第、少なくとも復活するための彼女の努力に、応援する声、称賛する心、そして期待する気持ちは少なくありませんが、異論を唱える人は皆無でしょう。もう一度、メダルを手にした浅田 選手の笑顔を見たいものです。

浅田 メダル 写真


予期せぬイップスを経験した藤岡ゴルフ・クラブ(群馬)


 「イップス」と言う言葉をご存知でしょうか? まさにそれ!、と言う出来事が己の身に降りかかりましたので、これを記録して、少しの勉強と、心当たりを申し上げます。タイトルにあります通り、ゴルフでの話です。
 この2年ばかり、関東一円、千葉、茨城、栃木、群馬、埼玉、そして南は神奈川の小田原あたりまでゴルフのラウンドをしてきましたが(東京都はまだ経験なし)、同伴者の多少に伴い、千葉と茨城はよく行きますが、群馬は回数が少なく、しかも山間(やまあい)で難しい印象を持っておりました。今回、約2年ぶりに群馬県でのラウンド、藤岡ゴルフ・クラブへ行きましたので、まずはその成績から、、、。


◇ 藤岡ゴルフ・クラブ ラウンド成績

 藤岡ゴルフクラブ 9:45 西OUT スタート 天気:曇り、風、寒

 期間限定特典! 昼食付、4人乗りカート セルフ 総額 10,800円
 (税抜料金 9,445円+消費税 755円+ゴルフ場利用税 600円)
 2サム保証割増 お一人様につき別途 +1,620円

 この日、持参したクラブのラインナップは以下の通りでした。ウェッジ系にウェートを置いたのは、群馬の山間は、左右どちらかが山でどちらかが崖と言うような、山の斜面に作ったフェアウェイの狭いホールが多く、しかも気温が低いことも考慮して、大きな番手は避けて、緻密なゴルフを考えたからです。具体的には、3W, UT3, UT4を外して、ドライバーの次に、スプーンは避けてクリークを挟み、ユーティリティを外して、私にとって方向性の良い4番、5番アイアンを持ってくる構成としました。

【使用クラブおよびボール】
 1W:ORLIMAR ORM-500 Hi LOFT 10.5
 5W:Daiwa BLADE FW5 LOFT 18
 4I:SPALDING HIGH BALL III-4 LOFT 21
 5I:SPALDING HIGH BALL III-5 LOFT 24
 6I:SPALDING HIGH BALL III-6 LOFT 27
 7I:SPALDING HIGH BALL III-7 LOFT 30
 8I:SPALDING HIGH BALL III-8 LOFT 34
 9I:SPALDING HIGH BALL III-9 LOFT 39
 PW:KASCO DOLPHIN WEDGE DW-113 N.S.PRO 950GH LOFT 44
 AW:CallaWay MACK DADDY3 48S LOFT 48
 SW:CallaWay MACK DADDY3 56W LOFT 56
 LW:CallaWay MACK DADDY3 60W LOFT 60
 CHIPPER:ODYSSEY ODYSSEY X-ACT TANK LOFT 37
 PUTTER:ODYSSEY 2BALL FANG Works LOFT 3
 計14本

 ボール:XXIO Aero Spin


西OUT 01番:374YD, PAR4, HDCP3

 ティーショットは登り、二打目が降りの比較的にフェアウェイが広いミドルですが、「さすがは群馬!」、と思わせるアップダウンを実感するホールです。

西OUT 01

 願いを込めて打った一打目のドライバー・ティーショットは、いとも簡単に右、林の中へと消えていきOB、早速、帰らぬボールとなりました。特設ティーからの前身4打はショート、グリーンオンには5打を要しました。

藤岡GC 西OUT 01

図の説明 図


西OUT 02番:274YD, PAR4, HDCP17

 距離のないミドルですが、ここもかなりの傾斜を有する登りで始まります。ティーショットでは、フェアウェイ中央にあるはずの木が右からせり出す林に隣接しているようで極めて落とし所が狭く見えます。

西OUT 02

 ドライバーによるティーショットはまたも右、林に捕まりました。OBではなく、なんとか打てる場所でしたので、6Iで上手に前進することができました。それにしても、ORLIMAR ORM-500 Hiのドライバー、嫌な予感のするスタートでありました。

藤岡GC OUT02


西OUT 03番:337YD, PAR4, HDCP15

 またも、距離はないものの、勾配がきつい登りで始まるミドルです。景観として、フェアウェイが広く感じられますが、アップダウンがその行く手を阻む、そんなホールでありました。

西OUT 03

 ドライバー、ティショットはまたも右、予定では230YDで残りが100YD切り、ウェッジでの2オンでありましたが、二打目はCHIPPERでフェアウェイに戻すのが精一杯で、三打目もグリーンに届きませんでした。

藤岡GC OUT 03


西OUT 04番:341YD, PAR4, HDCP9

 またも打ち上げのミドル、しかも狭い、要するに、OUTの初っ端から打ち上げで始まるミドルを4つも続けて、「群馬のゴルフ場はこうだ!」と言わんばかりの構成です。

西OUT 04

 ノイローゼ気味のティーショット、ドライバーはまたも右へのOBで、特設ティーからの前進4打、5オン2パットは7と、西OUTの1〜4ホール、すべてミドルは7, 6, 6, 7と厳しいスタートを余儀なくされました。

藤岡GC OUT 04


西OUT 05番:165YD, PAR3, HDCP7

 やっと狭い打ち上げミドル地獄から解放されたショート、大きな谷があって、165YDと決して短くはない厳しいホールですが、ドライバーを使わないですむ安心感はありました。

西OUT 05

 やや登りなので番手を上げた4番アイアンは見事に1オン、2パットでまとめてこの日初のパーでした。

藤岡GC OUT 05


西OUT 06番:511YD, PAR5, HDCP5

 恐ろしくフェアウェイが狭いロングにやって来ました。右から林がせり出し、左は崖と、両側とのOBで、右ドッグレッグの曲がり角、正面190YD地点にバンカーが待っております。

西OUT 06

 ティーショット、180YDを目論んだ5番ウッドはまたも右でOB、特設ティーに向かいながら「何やってんだろう?」って追い込まれる自分がいました。

藤岡GC OUT 06


西OUT 07番:418YD, PAR4, HDCP1

 このホールの、ティーグラウンドからの景観は安心させるものがありました。あまり、狭くはなく、登りでもありませんので、見通しは良好でありました。

西OUT 07

 ゆっくりとアドレスして、体重移動に気を配ったティーショット、ドライバーはちょっとボールが上がりすぎでしたが、この日、初めてのフェアウェイキープとなりました。二打目の4番アイアンも、ロブウェッジのアプローチもナイスショットで、3オンできました。

藤岡GC OUT 07


西OUT 08番:153YD, PAR3, HDCP13

 谷の向こうにグリーンがある、キャリーでグリーンを狙う5番ホールと似たようなショートです。

西OUT 08

 ここでは6番アイアンを選択して、少しひっかけ気味でしたが1オンとしました。

藤岡GC OUT 08


西OUT 09番:477YD, PAR5, HDCP11

 午前最後のホールはロングです。左ドッグレッグなのに、70YD付近に右からせり出す林があって、景観としてはS字のように見えて、登りではありませんが、フェアウェイはすごく狭く感じます。

西OUT 09

 またもやってしまいました。ティーショット、ドライバーは右へ、この日4つ目のOBです。前進4打の特設ティーからも3打を要して6オンに2パットで8打も叩きました。

藤岡GC OUT 09


西IN 10番:466YD, PAR5, HDCP16

 昼食後の午後一はロングホールでしたが、ここもまた登りのロングで右ドッグ、一打目、180YD付近から急に狭くなっております。

西IN 10

 前半のドライバーが右へ右へと行ってましたので、右手をかぶせることを意識して臨みましたところ、今度は左へ、5つ目のOBです。完全に平常心が失われたティーショットであります。

藤岡GC IN 10


西IN 11番:354YD, PAR4, HDCP8

 この日初めての打ち下ろしはミドルです。二打目は登りのようですが、グリーンまで見渡せるティーグラウンドの景観は誠に安心感を産みました。これまで苦しめられていたのが嘘のようです。

西IN 11

 ここでのティーショット、ドライバーはその日1番、230YD、フェアウェイキープとなりました。二打目はピッチングを用いて2オンでありました。

藤岡GC IN 11


西IN 12番:351YD, PAR4, HDCP14

 ここも登りではなく、見晴らしは良いミドルですが、フェアウェイは極めて狭く、またも不安がよぎります。

西IN 12

 不安を持って臨んだティーショット、ドライバーは、またも右手をかぶせる意識をしたところ、左にひっかける形で、なんと6つ目のOBでありました。

藤岡GC IN 12


西IN 13番:187YD, PAR3, HDCP6

 187YDと距離のあるショートですが打ち下ろしなので10YDほど短く見積もれます。

西IN 13

 この日好調の4番アイアンで臨んだところ、距離はぴったりでしたが、やや左に飛んでのバンカーでした。上手にナイスアウトで1パット、パーでまとめました。

藤岡GC IN 13


西IN 14番:341YD, PAR4, HDCP2

 まっすぐなミドル、ここもさすがは群馬の山間を感じる、両側に山と森、すり鉢のように狭いフェアウェイでありました。

西IN 14

 この日のドライバーがまともに打てるはずもなく、またも右にチョロ、OBにはなりませんでしたが、グリーンオンまで7打を要した大叩きとなりました。

藤岡GC IN 14


西IN 15番:147YD, PAR3, HDCP12

 打ち上げですが距離がそれほどでもないショートです。ピンも見えていますし、比較的やさしいホールに見えました。

西IN 15

 5番アイアンのティーショットは左のバンカーに飲み込まれ、1度はバンカーショットに失敗しましたが、1パットで沈めてボギーに収まりました。

藤岡GC IN 15


西IN 16番:299YD, PAR4, HDPC18

 300YDに満たないものの、またも激しい登りのミドルです。左右の林はOBとなっており、これも群馬を感じさせるホールでありました。

西IN 16

 もうこれまでの流れから、ドライバーへの気持ちは完全になく、ティーショットは5番ウッド、高く上がりましたが(てんぷら)、まっすぐ飛んでフェアウェイ、二打目も5番ウッドでグリーン周りへ、3オン2パットでまとめました。

藤岡GC IN 16


西IN 17番:465YD, Par5, HDCP10

 登って、降って、登って、降って、最後にもう一度登る、恐るべきロングです。フェアウェイは狭く、左右のOBは極めて近い、名物ホールとなっておりました。

西IN 17

 直前のミドルで5番ウッドがまあまあでしたし、ロングホールですので距離を稼ぎたい一心から、ついつい手を出してしまったドライバーは左、なんと7個目!、18ホール中7ホール目のOBとなりました。幸い前進の4打目4番アイアンがナイスショットで7打、ダブルボギーですみました。

藤岡GC IN 17


西IN 18番:405YD, PAR4, HDCP4

 打ち下ろしで見晴らしの良い、右ドッグレッグ、405YDと距離はありません。

西IN 18

 もう完全に自信喪失のドライバーには見向きもせず、ティーショットは4番アイアンで臨み、170YDのフェアウェイキープとなりました。以後のストロークはあまりよろしくなく、ここもダボでホールアウトしました。

藤岡GC IN 18


成 績

藤岡GCスコア


◇「イップス」とは?

 18ホールともなると、ずいぶん長くなってしまいましたが、己に起こった現象を「イップス」と呼ばせていただきました。藤岡グルフクラブでの出来事を振り返る前に、このイップスについて解説をはさみます。

 イップス(Yips)とは、精神的な原因でスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる運動障害のことであります。
 この用語は、1930年前後に活躍したプロゴルファーのトミー・アーマー氏が、この症状によってトーナメントからの引退を余儀なくされたことで知られるようになりました。アーマー氏は1967年出版の自著「ABCゴルフ」の中で、ある日突然、緊張のあまり、カップのはるか手前のところで止まるようなパットしか打てなかったり、カップをはるかにオーバーするようなパットを打ったりするようになる病気に「イップス, Yips」(うめき病)と名付けております。現在では、スポーツにおいて広くで使われるようになった言葉であります。


◇ 藤岡ゴルフクラブで己に起こったイップスを振り返る

 今回の経験は、ティーショット、ドライバーに起こりました。「登りで狭い」フェアウェイに、最初でつまづいてしまってからは、どうにも這い上がれず、OBを重ねに重ねて、フェアウェイキープ率は30%に及ばない、厳しいラウンドとなりました。
 言うまでもなく、ゴルフの練習で、本番のラウンドに一番近いのがティーショットであります。二打目以降は、どうしても芝の状態、傾斜があって、練習場の人工芝では作り出せない違いがありますが、ティーショットは平坦で、高さを調節できるティーのボールを打つのですから、練習場のパフォーマンスをラウンドにおいてもそのまま出せる技術だと思います。ラウンドの翌日、アコーディア・ガーデンの90分、打ち放題で250球全てをドライバーで打って来ましたが、高い頻度でまっすぐ正面に打つことができました。
 練習でできることが本番ではできない、これはスポーツで当たり前にあることですが、この日の藤岡、ドライバー以外はまあまあでありました。再三登場しました4番アイアンは購入してまだ日が浅いものの、見事に期待に応えてくれました。これに対して、ドライバーは飛距離が出る分、ミスショットで大怪我するものでありますが、それにしても、ノイローゼのように、あるいは、何かに取り憑かれたようにミスを重ねてしまいました。

オリマー宣伝

 素人でも打ちやすい大型ヘッドで、高反発、短尺シャフトを歌っており、練習場ではいい当たりを連発するORLIMAR ORM-500 Hiですが、「登りで狭い」と言うティーグラウンドでの景観がメンタルに影響した、まさにイップスであったと考えます。


◇ イップスと思われるプレーのご紹介

 日々、生でもデレビでも、スポーツ観戦をしており、今の季節はフィギュアスケートをよく見ますが、このブログでも再三取り上げた 浅田 真央 さんのトリプルアクセルも、練習では成功するものが、本番ではうまくいかない、これも小さなイップスであるかも知れませんん。ここでは、心に残る思わぬプレーをご紹介します、いずれも野球のシーンです。

1.甲子園のピンチを脱した投手に起こったこと

 いつだったか忘れましたが、2, 30年前の全国高校野球、甲子園大会での1シーンです。千葉県出身の私ですから千葉からの出場校の応援でテレビ画面に目を向けていたと思います。
 試合の後半になって、先発投手が崩れ、同点でノーアウト満塁のピンチを招き、ここでベンチはワンポイントのリリーフを繰り出すこととしました。右バッターが続くところで右のサイドスローを投入して、内野フライなどで2アウトまでこぎ着け、次の左バッターに左のサイドスローをリリーフさせたところ、ストライクが入りません。3ボールから真ん中のストライク2つでカウント2-3(今なら3ボール2ストライク)となり、ファールが続いた8球目くらいの打球はピッチャーゴロでありました。
 ところが、1バウンドのゴロをさばいたマウンドの左投手、1塁に送球したくても、ボールが上手く握れません。投げる動作はするのですが、肩も腕も手も強張って、もう一度、持ち替えても、やはり送球できずに、ついには1塁はセーフ、満塁ですので3塁ランナーは勝ち越しのホームインとなりました。
 ピッチャーゴロを1塁でアウトにするなんて、日々の練習でしている、子供の頃からやってきた、単純な作業ですが、これをし損なうところに甲子園の魔物、地元の期待を背負う重圧がのしかかった結果のイップスが起こったものと思います。

2。 故 小林 繁 投手(阪神)の開幕戦、敬遠サヨナラ暴投

 1982年4月3日、横浜大洋 vs 阪神の開幕戦、阪神先発の 故 小林 繁 投手は9回裏ツーアウトから、0-2が2-2と同点にされたところで1、3塁のピンチ、打者 高木 嘉一 選手に対してベンチの指示は敬遠でありました。ここで 小林 投手の3球目はとんでもない3塁方向への暴投となり、3塁ランナーの 大久保弘司 選手が生還、サヨナラゲームとなりました。

小林繁 敬遠 サヨナラ暴投

 当時、サイドハンドスローの 小林 投手が、短い距離の軽いキャッチボールを苦手にしていた、と言う分析が報道されましたが、9回裏ツーアウトでの満塁策で、心の動きがプレーに影響した可能性は否定できません。これもイップスであったのではないか?、と考える次第です。

韓国 歴代大統領たちの末路


 先日12月5日、安倍 晋三 首相の在職日数が中曽根 康弘 元首相を抜いて戦後歴代4位(歴史上では6位)となりました。それに先立ち自民党総裁任期の「連続3期9年」への延長も了承されているため、首相が2年後の総裁選で三選し、平成33年9月までの任期を全うすれば在任3567日となって、歴代最長の桂 太郎氏(2886日)をはるかに超えることになります。もしそうなれば、自身が先送りした31年10月の消費税10%への引き上げ、32年夏の東京五輪、パラリンピックも在任中に迎える見通しです。

安倍晋三 写真

【歴代の首相在職日数ベスト10(2016年12月5日現在)】
 01.桂  太郎 2886日:1901〜06年、1908〜11年、1912〜13年
 02.佐藤 英作 2798日:1964〜72年
 03.伊藤 博文 2720日:1885〜88年、1892〜96年、1898年、1900年〜01年
 04.吉田  茂 2616日:1946年〜47年、1948〜54年
 05.小泉純一郎 1980日:2001〜06年
 06.安倍 晋三 1807日:2006〜07年、2012年〜
 07.中曽根康弘 1806日:1982〜87年 
 08.池田 勇人 1575日:1960〜64年
 09.西園寺公望 1400日:1906〜08年、1911〜12年
 10.岸  信介 1241日:1957〜60年

 長期安定政権の弊害あるいは危険性はあろうかと存じますが、一国の政治のリーダーに問題があって、政権がコロコロ変わる、政治的な空白が生まれることがあれば、それは国家にとってマイナスであることは言うまでもありません。今、お隣の大韓民国(以下、韓国)がまさにそう言う状況にあると言えます。ついに昨日、12月9日、韓国、朴 槿恵(パク・クネ)大統領に対する弾劾訴追案が国会本会議で可決されました。

パククネと崔順実 写真
朴 槿恵(パク・クネ)大統領(左)と 崔 順実(チェ・スンシル)氏(右)

 一連の、朴 大統領のスキャンダルは、彼女が大統領府の内部資料を長年の友人である 崔 順実(チェ・スンシル)氏に渡して、政権運営のアドバイスをもらっていたとの疑惑に始まり、国政への介入、大統領府が多数の大手企業に間接的に圧力をかけて資金を集め、チェ 氏のために財団を設立、その資金をチェ 氏が個人的に流用したなどの疑惑へと進展しております。さらには、2014年4月16日に発生した韓国旅客船セウォル号の沈没事件に際して、大統領が7時間に渡り事件を把握していなかった「空白の7時間」の疑惑が再浮上して物議を呼んでおります。
 韓国では「パク大統領退陣」を訴える、100万人を超えるとも言われるデモが発生しており、この政権がそう長くはないことは明白となって参りました。現大統領に起こった事の詳細は他に譲るとして、韓国の大統領と言えば、その任期の最後には、何がしかのトラブルや大統領自身の不正疑惑が起こっている印象があり、ここでは韓国 歴代大統領11名を簡単にご紹介し、その末路に注目いたします。


◇ 初〜第3代 李 承晩(イ・スンマン)大統領:1948〜60年

  黄海道平山出身で、日本の植民統治時代、米国を拠点に独立運動を展開、韓国民主党→自由党→無所属と渡り歩きました。「建国の父」と呼ばれる韓国発の大統領で、「反日政策」を最初に掲げた韓国のリーダーでもありました。己のポストを守るための憲法改正と不正選挙を繰り返した独裁体制を確立しましたが、最後には革命が起こり失脚、亡命しました。

李 承晩 大統領

○「建国の父」

 朝鮮の独立運動家で、1948年8月13日、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国が建国され、その初代大統領で「建国の父」と呼ばれております。

○ 反日と「李 承晩(りしょうばん)ライン」

 李 承晩 氏は、朝鮮の独立運動に日韓併合前後から関わっていた経歴から、日本を激しく嫌っていたとされます。初代大統領として基盤が弱かったこともあり、国民の矛先を日本に向けるべく反日政策を行いました。その代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李 承晩(りしょうばん)ライン」がありました。これは、日本の軍隊が解体された隙を突いて、国連海洋法条約や排他的経済水域が成立する以前に、竹島を含む豊富な水産資源の漁場の確保を目的として一方的にとられた措置でありました。

李承晩ライン 図

 李ラインの設定で韓国の実効支配下に置かれることとなった竹島の処遇は、現在に至るまで日韓の懸案問題になっており、また、今日でも日本と韓国間に横たわる問題の多くが 李 承晩 氏の民族主義的政策に端を発しているとされます。ただ、声を大に「反日」を唱えていた割には彼の時代には従軍慰安婦の問題は話題にも挙がりませんでした。

○ 憲法改正強行と不正選挙の後に革命

 李 氏は、大統領ポストを永続的に確保しようと、再三にわたり憲法改正を強行し、1960年3月の大統領選挙では極端な不正選挙を実施して四選を勝ち取りましたが、同年4月、その独裁的政治手法と大統領選挙の不正に憤慨した学生、市民を中心に糾弾運動が起こり、国会でも大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択されました。これを受けて、ラジオを通じて「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言して下野、12年間続いた独裁体制が崩壊しました(4月革命)。

○ 亡命と異国での死

 その後、アメリカ、ハワイに亡命し、5年後の 1965年、韓国の地に戻ることなく死亡しました。


◇ 第4代 尹 潽善(ユン・ボソン)大統領:1960〜61年

 忠清南道出身で李承晩政権の商工大臣などを歴任、韓国民主党結成に参加して、「4月革命」による李 大統領の失脚直後に大統領に就任しましたが、次期政権となった 朴 正煕(パク・チョンヒ)大統領の起こした軍事クーデターで失脚しました。下野した後は民主化運動を行いましたが実刑判決を受けるに至りました。

○ 軍事クーデター後に辞任

 李 承晩 大統領が失脚、亡命することとなった「4月革命」を経て、1960年8月に大統領に就任しましたが、翌1961年5月16日に「5・16軍事クーデター」が発生、軍の要請で大統領の座に留まるが、翌年3月に軍政が制定した政治活動浄化法に抗議して辞任しました。

○「民主救国宣言」で実刑判決

 下野した後は、民主化を訴えて第5〜9代 朴 正煕(パク・チョンヒ)大統領と政権を競いますが、1976年および1978年に「民主救国宣言」を発表したところ、政府から「憲法秩序を破壊しようとする非合法活動である」と厳しく非難され、実刑判決を受けました。


◇ 第5〜9代 朴 正煕(パク・チョンヒ)大統領:1963〜79年

 韓国の歴代では5期と、最も任期が長かった大統領です。慶尚北道出身、日本の陸軍士官学校や満州国陸軍中尉を経て、戦後は韓国陸軍で要職を務めておりました。軍事クーデターを起こして大統領に就任、民主化運動を弾圧した一方、日韓国交正常化を果たし、韓国の産業を復興させました。陸 英修 夫人が74年、自身は79年に射殺されました。私腹を肥やさなかったことは評価されています。

朴 正煕 写真

○「5・16軍事クーデター」から独裁体制

 尹 潽善 政権において、議会の混乱で戦後復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化している状態に対して、1961年5月16日、軍の将官、将校、士官らの改革派を率いてクーデターを決行し軍事政権(国家再建最高会議)を成立させました(5・16軍事クーデター)。形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成、1963年より第5代から第9代大韓民国大統領を務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めました。

○ 日韓国交正常化

 日本の 佐藤 栄作 内閣総理大臣と日韓基本条約を締結して日韓両国の国交を正常化しました。

○ ベトナム戦争への出兵

 1964年.アメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領の要請を受けてベトナム戦争に大韓民国国軍を出兵しました。

○「漢江の奇跡」

 日本から国交正常化の見返りとして、米国からはベトナム戦争への出兵の報酬として、日米から莫大な経済支援を受け、経済・産業の活性化に努め、1970年代にかけて「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成しました。

○ 民主化運動の徹底した弾圧と「金 大中 拉致事件」

 統制的な軍事政権下にて民主化の運動は徹底して弾圧され、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。1973年、大韓民国中央情報部(KCIA)が日本に滞在してた大韓民国の民主化運動家で、後の第15代 大統領である 金 大中(キム・デジュン)を拉致監禁しました(「金 大中 拉致事件」)。

○「文世光事件」で夫人射殺

 1974年、文 世光 容疑者による朴 大統領暗殺未遂事件が発生、陸 英修 夫人が射殺されました。

○ 暗殺

 1979年10月26日、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である 金 載圭 情報長官により暗殺されました(享年61歳)。


◇ 第10代 崔 圭夏(チェ・ギュハ)大統領:1979-80年

 江原道原州邑出身、無所属、韓国で最も在任期間の短い大統領で、朴 大統領暗殺で全国に広がった若者の民主化運動、労働者の労働運動、「ソウルの春」を鎮圧するために、新軍部による政権掌握のため戒厳司令部が1980年5月17日を期して断行され(5・17クーデター)、第11, 12代大統領の 全 斗煥(チョン・ドゥファン)氏、第13代大統領、盧 泰愚(ノ・テウ)氏らによる軍部政権の掌握で辞任しました。


◇ 第11, 12代 全 斗煥(チョン・ドゥファン)大統領:1980-88年

 慶尚南道出身、民主正義党所属の軍人で、「5・17クーデター」で実験を握り、朴 大統領と同様に民主化を弾圧しました。1984年には韓国大統領として初の来日、88年、不出馬で退任後、逮捕され死刑判決から減刑、無期懲役から特赦を受けました。

全斗煥大統領写真

○「ソウルの春」の鎮圧、金 大中 氏の逮捕、「光州事件」

 朴 大統領暗殺後、全国に、若者の民主化運動、労働者の労働運動が広がりました。この期間は「ソウルの春」と呼ばれますが、全 氏らは、これを1980年5月17日、戒厳司令部を断行して新軍部により鎮圧しました(5・17クーデター)。さらには、金 大中 氏ら有力政治家を逮捕、追放しました。これに反発していた光州での民主化要求デモを鎮圧するため陸軍の特殊部隊を送り、市民を多数虐殺し(光州事件)、その後、正式に大統領に就任しました。

○「ラングーン事件」

 1983年、ミャンマーのアウン・サン廟へ赴いた際、北朝鮮の工作員による全 大統領を狙ったラングーン爆弾テロ事件が発生しました。大統領自身は難を逃れたものの、外相ら21人の閣僚その他が死亡しました。

○ 日本からの経済援助

 1984年、戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど、日本と向き合う姿勢を強調しましたが、同時期に第一次教科書問題が発生、中国共産党に連携する形でこれを批判し日本からの経済援助を引き出しました。

○ 退任後 死刑判決

 1988年の退任後は、自ら財団を設置し院政を狙いましたが、利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至り、1988年11月23日には私財の国庫への献納と隠遁を表明しました。しかし、その後もクーデター、民主化弾圧や、光州事件での虐殺、不正蓄財への追及が止まず、死刑判決を受け、のちに無期懲役に減刑、さらには特赦を受けました。


◇ 第13代 盧 泰愚(ノ・テウ)大統領:1988-93年

 日本統治時代の大邱出身で、朝鮮戦争勃発に伴い入隊、陸軍士官学校で同期であった 全 斗煥 元大統領と、「5・17クーデター」、「光州事件」を首謀し、全 大統領の退任を受けて、16年ぶりに行われた民主的選挙で民主正義党から大統領に就任しました。退任後、政治資金隠匿が発覚、さらにクーデター、光州事件でも追及され軍刑法違反として懲役刑を受けますが、特赦されました。

盧泰愚 写真

○ 民主化宣言で大統領就任

 1987年、高まりつつある民主化要求に対し、次期大統領候補として「オリンピック終了後、然るべき手段で信を問う用意がある」と声明、「6・29民主化宣言」を発表し、金 泳三、金 大中 氏ら文民出身候補を抑えて大統領に選出されました。

○ 北方外交

 外交面で「北方外交」を提唱して共産圏との関係改善を目論み、1990年にソビエト連邦、1992年には中華人民共和国と国交を樹立しました。

○ 朝鮮統一問題

 1991年9月17日には朝鮮民主主義人民共和国との国際連合南北同時加盟を実現し、同1991年12月13日に南北基本合意書を締結しました。

○ 大統領退任後に懲役刑

 1993年の大統領退任後、1995年、政治資金の隠匿が発覚、さらに粛軍クーデター、光州事件でも追及され軍刑法違反として懲役刑を受け、1997年、特赦されました。


◇ 第14代 金 泳三(キム・ヨンサム)大統領:1993-98年

 慶尚南道出身、朴 正熙、全 斗煥 軍事政権を厳しく批判し、民主化を訴えて、反政府運動の指導者として弾圧を受けました。民主自由党、新韓国党、ハンナラ党と渡り歩き、1993年の大統領就任後、軍の改革と不正摘発を進め、盧、全 両大統領経験者を逮捕に導きました。外交面では、日韓が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題で強硬姿勢を取り、日本との関係が悪化しました。政権末期の1997年、「小統領」と呼ばれるほど権威を振り回した次男が業者から不正資金を受け取り逮捕、有罪判決を受けました。


◇ 第15代 金 大中(キム・デジュン)大統領:1998-2003年

 1950年代から故郷の南西部、全羅南道を地盤として政治活動を開始、軍事政権と対決し、激しい弾圧を受けながらも、民主化を訴えました。大統領就任後は北朝鮮に対する融和的な「太陽政策」を推進し、これが評価されノーベル平和賞を受賞しました。

○ 民主化運動で暗殺工作と拉致(金大中事件)

 運送業より政治家を志した当時より、李 承晩 大統領の独裁政治に反対する姿勢をとり、1971年、新民党からの大統領選挙では、現職の朴 正煕 氏に97万票差にまで迫り(朴 634万票、金 537万票)、以後、朴 大統領の政敵としてつけ狙われるようになりました。大統領選の直後には、交通事故を装った暗殺工作で股関節の障害を負い、。1973年8月8日、東京、ホテルグランドパレスで韓国中央情報部 (KCIA) の工作員に拉致され、神戸で殺害される寸前まで行きましたが、ソウルに返されて自宅で軟禁状態となりました。

○「民主救国宣言」で逮捕

 1976年、第4代大統領である尹 潽善 氏とともに「民主救国宣言」を発表するも逮捕され懲役刑を受けました。

○ 公民権回復後に再逮捕から死刑判決

 1979年、朴 正煕 大統領暗殺後の1980年、公民権を回復、政治活動を再開しましたが再逮捕となり、これが引き金となり光州で起きた民主化要求のデモが発生、軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となりました(光州事件)。金 氏は軍法会議にて一連の騒動の首謀者と認定され死刑判決を受け、1982年に無期懲役に減刑、同年12月、米国への出国(追放)を条件に刑の執行が停止されました。

○ 政治活動の再開と大統領就任

 1985年、米国より帰国、全 斗煥 大統領により政治活動が解禁され、1987年には再び公民権を回復しました。以後、2度の大統領選挙で敗北した後、1997年、民主党から出馬して大統領に選出されました。

○ アジア通貨危機を克服、日本文化の開放政策

 大統領就任直後、まずは、韓国を襲ったアジア通貨危機を克服し、日本に対して「未来志向的な関係発展」をうたう日韓共同宣言に 小渕 恵三 首相とともに署名、日本文化の開放政策も進めました。

○「太陽政策」でノーベル平和賞

 金 氏は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対しては「太陽政策」と称される緊張緩和政策を志向し、2000年6月、北朝鮮の首都 平壌で 金 正日 国防委員長との南北首脳会談が実現、「6.15南北共同宣言」を締結しました。南北首脳会談などが評価されて、ノーベル平和賞を受賞しました。これは2016年時点で韓国人唯一のノーベル賞受賞であります。

金 大中と金正日 写真

○ 対北送金疑惑

 「太陽政策」にはノーベル賞授与のための工作があったとの説があり、南北会談の実現のために 金 大中 大統領から現代グループを通じて4〜5億ドルが 金 正日国防委員長に渡していたとされます。これについては2004年、金 大中 氏自らが関与を認める発言をしており、2009年、氏の没後、金 大中 政権が発足当時からノーベル平和賞受賞のために組織的な「工作」を行っていたことや、北朝鮮に5億ドルを不法送金した内幕が暴露されております。


◇ 第16代 盧 武鉉(ノ・ムヒョン)大統領:2003〜08年

 南部の慶尚南道金海市出身の弁護士、歴代の韓国大統領で最初の日本統治時代を経験していない世代の大統領です。北朝鮮に対する融和政策を進めましたが、韓国経済の低下で支持を失い、レームダック状態に陥り、また日本とは竹島問題で険悪な関係となりました。大統領選挙の不正資金疑惑があり、弾劾訴追にまで発展、一旦はこれが可決され、のちに棄却されております。大統領退任後、不正献金疑惑が持ち上がり、2009年、飛び降り自殺で他界しました(享年62歳)。

盧 武鉉 大統領 写真


◇ 第17代 李 明博(イ・ミョンバク)大統領:2008~13年
 大阪府出身、現代建設の社長、ソウル市長から大統領に就任した人物です。任期中、法人減税やウォン安政策を推進したほか、米国や欧州連合(EU)との自由貿易協定(FTA)の締結など大企業優遇政策で輸出は伸びましたが、国民に恩恵は行き渡らず不満を残しました。強硬姿勢で臨んだ北朝鮮との関係は冷却し、竹島上陸で日韓関係も悪化しております。内政がうまくいかないと反日を煽って国民の目を日本に向けさせる傾向が強い大統領でありました。実兄が収賄の容疑で逮捕されており、李 氏も大統領退任後、土地の不正購入の疑惑を持たれております。


◇ 第18代 朴 槿恵(パク・クネ)大統領:2013年〜

 大邱出身で、父は 朴 正熙元 大統領、韓国史上初の女性大統領です。李 大統領から引き継ぐ形で、従軍慰安婦問題などでの反日姿勢、原則に基づいた対北朝鮮政策、アメリカや中国訪問の成果、国内における政治的な論争から一定の距離を置いたこと、などから国民の支持率が一時、63%にまで及びましたが、冒頭に申し上げた通り、12月9日、国会で弾劾訴追案が可決され、職務は停止となっております。


◇ まとめ:韓国歴代大統領の容疑/犯罪そして末路

 以下、韓国歴代大統領の容疑/犯罪そして末路をまとめました。特にコメントはありません。

韓国大統領の末路