アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち 〜 日米野球の優劣について 〜 03


 ゆっくりとしたペースで論じておりますが、日米野球の優劣を考える題材として、米大リーグでの活躍は無かったものの日本野球で成功を修めた外国人野手を何人かご紹介しました。取り上げたランディー・バース、アレックス・ラミレス、タフィ・ローズ、そしてロバート・ローズと言った選手たちが、もし来日せずに米大リーグに残留していたならば、そのままレギュラーにはなれずに活躍することはなかったかどうか、それは解らない、ちょうどプレーヤーとして最高の時期が日本滞在期間であった可能性を申し上げました。
 さて今度は、同じ来日外国人野手でも、米国での成績が異なるタイプの選手をご紹介して、やはり、日米野球の優劣を考えたいと存じます。「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」でありますが、ここで1つだけ、はっきりと申し上げなければならないことがあります。
 日本人が米大リーグに挑戦する場合は、全てではありませんが、多くの選手が脂の乗り切った、まさに人生で最も「旬」な時期に渡米します。その最たる例がイチロー選手で、プロ入り9年目の2000年、日本プロ野球記録である通算7度目の首位打者、7年連続通算7度目となるベストナイン、ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得して、10年目となる01年、28歳のシーズンにシアトル・マリナーズにポスティング・システムでの移籍となりました。
 これに対して、米大リーグからの助っ人外国人で「メジャーで活躍してから来日した」と言えども、その活躍は直近のものではありません。「かつて活躍した」と言うものであり、メジャーにおいて今まさに活躍している、野球人生で最高の成績を挙げているまさに「旬」な選手の来日は皆無であります。

 日本人のメジャー挑戦の多くは脂の乗り切ったまさに人生で最も「旬」のことが多い
 今、まさにメジャーで活躍していて、人生で最高の成績を挙げている選手の来日は皆無


 これは、ある意味、当然であり、日本人は米大リーグに憧れるけれど、米大リーグの選手は日本プロ野球にそうした意識はなく、もちろん契約金や年俸面で日米に大きな違いがあります。日米野球の優劣を考えるにあたり、日本から米国へ、米国から日本へと移籍した選手を取り上げるのは、ごく自然の発想ではありますが、実は個々の選手の野球人生における浮き沈みについては、「日本から米国」、「米国から日本」に大きな違いがあると言えます。

 さて、前置きが長くなりましたが、「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」として、ちょっと古いですが、典型的な選手をご紹介します。横浜スタジアムに移転となった横浜大洋ホエールズに来日したフェリックス・ミヤーンと言う選手です。


◇ フェリックス・ミヤーン Felix Millan

 フェリックス・ミヤーン(Felix Bernardo Millan Martinez, 1943年8月21日〜)選手、上で「典型的な選手」と申しましたのは、「助っ人外国人」として典型的と言う意味ではなく、「メジャーで活躍して、衰えあるいは故障してからの来日」と言う意味であります。この選手は、パワー・ヒッターではなく、長打が少ない、安打製造機である点では、外国人として異色の存在でありました。

ミヤーン記事

 68年、25歳のシーズン、アトランタ・ブレーブスでレギュラーとなった彼は、米大リーグ実働12年で、70年、自己最高のシーズン打率 .310を記録、74年にはニューヨーク・メッツの一員として日米野球で来日、「キャット」の愛称が日本でも知られることに、翌75年は全162試合出場で、自己最高のシーズン191安打を記録しました。その翌年は139試合の出場にとどまり、150本安打と成績を下げ、77年のシーズン中、セカンドの守備でランナーと交錯、右鎖骨を骨折するアクシデントに見舞われました。同オフ、横浜大洋ホエールズからのオファを受けて、35歳となる78年の来日となりました。
 バットを水平に寝かせて構える独特のバッティング・フォームでしたが、来日1年目は鎖骨骨折の後遺症があって、肩が思わしくなく、あくまで私の記憶ですが、ある横浜大洋 vs 巨人の試合で、1アウト ランナー1, 3塁、打者 王貞治選手、斎藤明夫投手の投球に対してショートゴロでありましたが、ショート 山下大輔選手から転送されたボールを2塁ベースのミヤーン選手はジャンピング・スローしましたが、力無い送球は1塁に届かずセーフ、3塁ランナーがホームインでこれが巨人の決勝点と言うことがありました。
 ただ、バッティングは、さすがは大リーガーと思わせる能力があり、来日本塁打は78年5月23日の巨人戦、故 小林繁投手からの満塁アーチでありました。パワーはありませんけれども、当時の米国ではほとんど対戦がないタイプである故 小林投手の球をレフトに強振できるところに非凡な力を感じました(75年にメジャー・デビューしたエカーズリー投手はアメリカン・リーグのクリーブランド・インディアンスで、ミヤーン選手はナショナルリーグのニューヨーク・メッツ)。

 ミヤーン選手が年齢詐称とする松原氏のインタビューと故 小林繁投手からの本塁打シーン YouTube

 来日2年目となる79年、横浜大洋球団は二塁手の基満男選手を西武ライオンズからトレードで獲得しました。これはミヤーン選手の年齢的衰えを考慮しての方策と思われますが、この年の彼は、怪我と称して上手に休みながらもギリギリ規定打席に到達、打率 .346をマークして、球団史上初の首位打者に輝き、ベストナインにも選ばれました。36歳での首位打者獲得は、それまでの故 川上哲治氏、長嶋茂雄氏が持っていた日本プロ野球での最高齢記録を塗り替えるもので現在も破られていません。

【フェリックス・ミヤーン選手 年度別打撃成績】
フェリックス・ミヤーン年度別成績

 ミヤーン選手にとって何よりも幸いだったのは、鎖骨骨折と加齢に衰えを迎えた34歳の、ちょうど良いタイミングで日本からのオファーが来たことでした。そして、来日初年度は127安打2本塁打で打率 .287と平凡に物足りない成績であったのに、現役大リーガーに期待したのか?、横浜大洋は契約の延長をしてくれました。79年の史上最高齢の首位打者は、98試合の出場で、試合数が多く、広い国土を移動しながらダブルヘッダーも多い、米大リーグ時代とは雲泥の、随分と楽なシーズンを送ったものと思われます。言葉は悪いですが、昔の日本プロ野球は米大リーグの選手たちが故障や加齢に伴う衰えに際しての再就職先でありました。


◇ ラリー・パリッシュ Larry Parrish

 似たような選手をもう1人ご紹介します。ラリー・アルトン・パリッシュ(Larry Alton Parrish, 1953年11月10日〜)選手は、モントリーオル・エキスポズ、テキサス・レンジャース、ボストン・レッドソックスを経て、89年、ヤクルト・スワローズで来日したホームラン・バッターでありました。この選手は、米大リーグにおいて、2度の大活躍がありました。1度目は、79年のエキスポズ時代に167安打、30本塁打で打率 .307であり、2度目はレンジャーズでの84年、175安打22本塁打、101打点、打率 .285を記録しました。デビューから6年目の26歳時と脂がのりきった31歳時の成績であります。87年にも32本塁打、100打点を記録しましたが、この年は152試合に対して154三振と肉体的衰えを大振りすることでカバーしたと思われる記録が残っております。35歳となる88年、ついに全く打てなくなり、打率1割台でシーズン途中にレンジャースからレッドソックスへと移籍、シーズン通じて88安打、14本塁打、打率 .217と低迷しました。

パリッシュ活躍の記事

 89年、37歳、メジャー 256本塁打の記録をひっさげてヤクルトに入団、「ワニを食べる男」として話題となり、この年、42本塁打、103打点をマーク、本塁打王のタイトルを獲得し、ベストナインに選ばれました。しかし、三振も多く、池山隆寛、広沢克己 両選手と、3人揃って「100三振トリオ」と呼ばれ、同年オフに就任した野村克也 監督の評価は低く、ヤクルトを自由契約となりました。現役最後の年は、阪神タイガースにて95安打、28本塁打、80打点、.249の成績で終わりました。

【ラリー・パリッシュ選手 年度別打撃成績】
パリッシュ年度別成績

 パリッシュ選手は、年齢的限界から、米大リーグで通用しなくなった選手が、日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた典型だと思います。自身シーズン最高となる42本塁打は米大リーグでも経験のないリーグ本塁打王ですし、メジャーでは経験のないベストナインに選出されました。こうしたケースを見ると、米大リーグの方が日本プロ野球よりも厳しい世界であると思わされます。


◇ アンドリュー・ジョーンズ Andruw Jones

 もう1件、日米の野球レベルが拮抗して来たと言われるごく最近の選手をさらりとご紹介します。アンドリュー・ルドルフ・ジョーンズ(Andruw Rudolf Jones, 1977年4月23日〜)はオランダ出身の米大リーグにおけるスター・プレーヤーでありましたが、晩年を日本プロ野球、楽天・ゴールデン・イーグルスで過ごしました。

ジョーンズ画像

 「こんなすごいプレーヤーが日本に来たんだ!?」って思わせるほどの年度別打撃成績を以下に示しますが、上で紹介しましたラリー・パリッシュ選手と似たような経過を辿っております。この選手の「旬」は20代前半から後半にあったように思われます。00年、23歳のシーズンは3割、30本(36本塁打)、199安打で104打点、しかも21盗塁でありました。外野手として、98年から07年までの10年間、ゴールド・グラブ賞に輝き、今で言うならばヤクルトの山田哲人 選手のような三拍子そろった選手でありました。05年にはリーグ最多の51本塁打と打点王128打点で2冠を達成、プレイヤーズ・チョイス・アワーズ(Players Choice Awards)と言う、メジャーの選手会で選ばれるナショナル・リーグ優秀選手および両リーグ年間最優秀選手に選出されました。ちなみに、その前年のアメリカン・リーグの優秀選手はイチロー選手であります。米大リーグにおいて、シーズン30本塁打以上が7回、100打点以上が5回に及んでおります。

【アンドリュー・ジョーンズ選手 年度別打撃成績】
ジョーンズ年度別成績

 こうした優れた選手であっても、故障や年齢的な衰えは訪れます。07年のシーズンは肘を痛めて鎮痛剤の注射を打ちながらの出場であったとされます。同年オフにはフリー・エージェントとなり、ロサンゼルス・ドジャースと、日本円にして約36億円で2年契約を結びましたが、08年のシーズンは極度の不振で1年で解雇となりました。実はこの年以降、米大リーグでは規定打席に達することはありませんでした。ドジャースを解雇となった彼は、レンジャース、ホワイトソックス、ヤンキースと渡り歩きましたが、年間40〜60安打で10数本の本塁打、12年にはヤンキースで打率1割台にまで低迷しました。
 彼もパリッシュ選手同様、晩年に日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた選手でした。13年のシーズンは、チーム144試合中143試合に4番で出場、26本塁打で94打点、オールスターに出場し、楽天の日本一にも貢献しました。米大リーグのままであったらこれほどの活躍はなかったと思います。


◇「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」を見て

 もちろん、メジャーで活躍して来日したものの、全く日本プロ野球で満足いく仕事ができなかった選手は数多くいます。そうした選手たちは、大きく峠を過ぎており、米大リーグと同様に日本プロ野球でも通用しないレベルにまで落ち込んでいた、あるいは、日本プロ野球を舐めてかかり、老後の小遣い稼ぎのような感覚で来日した選手もいたと思われます。
 一方、今回、取り上げて選手たちは「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」でありかつ、日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた選手たちであります。彼らは、米国大リーグに残留したとしても、日本で残したような活躍はできなかったように思えます。彼らの努力、心機一転の巻き返しや、日本プロ野球への順応と言った、そうした要素は否定しませんが、こうした選手の存在を考えるにつけ、日本プロ野球よりも上を行く、米大リーグの選手層の厚さや、生き残りの厳しさを感じざるを得ません。

スポンサーサイト

来日してから成功を修めた外国人野手たち 〜 日米野球の優劣について 〜 02


 日米野球の優劣を主張するピート・ローズ氏が言うところの、「(元近鉄の)タフィー・ローズはメジャーではさっぱりだったが…」来日してから成功を修めた選手は多数おります。むしろ、日本で活躍した外国人選手のかなりの部分をこうした選手が占めると言えます。「プロ野球」、「外国人」で検索すると、ある記事が目に入ってまいりました。

No1 助っ人

 「歴代最強助っ人外国人、週刊ベースボール社が球界人200人に聞いたベスト10」と題して、プロ野球の優れた外国人選手として紹介されているのは以下の10人であります。

 第01位 ランディー・バース(阪神)
 第02位 アレックス・ラミレス(ヤクルト、巨人、横浜DeNA)
 第03位 アレックス・カブレラ(西武、オリックス、ソフトバンク)
 第04位 タフィ・ローズ(近鉄、巨人、オリックス)
 第05位 ロバート・ローズ(横浜)
 第06位 ロベルト・ペタジーニ(ヤクルト、巨人、ソフトバンク)
 第07位 同率 ブーマー・ウェルズ(阪急、福岡ダイエー)
 第07位 同率 オレステス・デストラーデ(西武)
 第07位 同率 ウィリー・モー・ペーニャ(ソフトバンク、オリックス、東北楽天)
 第10位 ラルフ・ブライアント(中日、近鉄)


 この10人中、ペーニャ以外の9人に共通しているのは、来日前にほとんど米大リーグでの実績がないと言うことです。ペーニャにしても大リーグ生活8年間で5球団を渡り歩き、規定打席到達は1度もなく、メジャー通算425安打程度でありました。米大リーグでの実績がないのに、来日してから成功を修めた選手たちを何例か取り上げて簡単に解説いたします。


◇ ランディ・バース Randy Bass

 阪神で活躍したランディ・バース(Randy William Bass、1954年03月13日〜)選手は、米大リーグ時代に、すでに長打力は高く評価されていたそうですが、全力疾走ができないため守備にはつけられず、また速球には弱い弱点もあったとのことです。1983年に来日、1985年には打率 .350、54本塁打、134打点で三冠王に輝き、阪神、21年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献、シーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成しました。翌1986年も打ちまくり、2年連続の三冠王に、シーズン打率 .389は今なお日本記録であります。
 バース選手の日本での活躍にはいくつか要素があります。現代との大きな違いとして、球場の広さがあります。阪神の本拠地、甲子園球場は1991年まで左中間と右中間にラッキー・ゾーンがありました。バース選手は高い飛球を打つ傾向にありましたので、広い球場では外野手に捕球されてしまうような打球でもスタンド・インと言うケースがあったと思われ、これは打率、本塁打の向上に有利でありました。
 投手の質も米大リーグや現在の日本とは少し違ったと思われます。今から30年も前、当時の日本の投手は球速にして140 km/h前後がせいぜいで、これを超える球威がある投手は各チームに1人、2人であったと思われます。1985年の巨人には江川(11勝7敗)、斎藤雅(12勝8敗)、槇原(4勝7敗)各投手がいて、これほどの速球投手が揃っているチームは珍しく、多くのチームがエース投手や抑えの切り札のみが140 kg/hを超える速球を投げるものの、控え投手の球威の無さは米大リーグの比ではなく、速球に弱かったバース選手にはもってこいの環境でありました。
 優良外国人選手に共通の要素として、野球に対して極めて真面目であったことも言われています。バース選手は来日当初、アウトローの落ちる球に空振りを繰り返していました。低迷する阪神が第3の外国人としてリチャード・オルセン投手を獲得した際、日本の野球に適合していると評価されたスティーブ・ストローター選手を残してバース選手を解雇するプランがあったそうです。結局、球団がストローター選手を解雇してバース選手を残留させたのは、彼の態度、努力、人格を評価したと言われております。

ランディ・バース写真

【ランディ・バース選手 年度別打撃成績】
バース年度別成績


◇ アレックス・ラミレス Alexander Ramirez

 アレックス・ラミレス(Alexander Ramon Ramirez、1974年10月03日〜)選手は、ベネズエラ出身でヤクルト、巨人、横浜DeNAに所属、歴代外国人野手で唯一、2000本安打を達成、名球会選手であります。2016年現在、横浜DeNAの監督であり、これは同球団史上初の外国人監督であり、日本プロ野球では初のアメリカ人以外の外国人監督であります。
 米大リーグ時代はピッツバーグ・パイレーツにてスタメン起用されていたものの、極度のスランプに陥りチャンスをものにできなかったようですが、先述のバース選手同様、守備力は乏しく、果たして長期に渡り大リーグで活躍できたかは疑問でした。
 主としてヤクルト、巨人での活躍は記憶に新しいところですので解説の必要はないと思いますが、彼の偉業の中で、この選手を語る上で忘れてはならないのが2007年の成績であります。122打点、204安打、打率 .343、すなわち「100打点、200安打、打率3.00割」以上であり、これは、松井選手、イチロー選手も記録したことがない、日本プロ野球史上唯一の記録であります。
 ラミレス選手の打撃は、癖がない至ってオーソドックスな印象でありましたが、好打者に共通する、引っ張り専門ではない、右方向に追っ付ける柔軟なものでありました。彼の最大の特徴は、バッテリーの配給、とりわけ捕手のリードに対する研究でありました。「試合を支配する要素の70%はメンタリティー、残り30%がフィジカル」との考え方から、捕手が配球の主導権を握る日本野球のスタイルに合わせて、「捕手を中心に研究する」ようになったとされます。このあたりは、米大リーグには無い日本の野球にアジャストした結果と言えるかも知れません。

ラミレス2000本安打

【アレックス・ラミレス選手 年度別打撃成績】
ラミレス年度別成績


◇ タフィー・ローズ Tuggy Rhodes

 本名、カール・デリック・ローズ(Karl Derrick Rhodes、1968年08月21日〜)選手は28歳での来日で41歳まで現役でありました。日本プロ野球では唯一の400本以上の本塁打を記録した外国人選手であります。
 米国においては、1988年の1Aで65盗塁を記録するなど、俊足の中堅手として期待された選手でしたが、本人は長距離打者を目指しており、これが大リーグに残れなかった理由とされます。1994年のシカゴ・カブス時代、ニューヨーク・メッツとの開幕戦に先発出場して、ドワイド・グッデン投手から3打席連続本塁打を記録しました。この経験がさらに彼に、俊足を生かす選手よりもパワー・ヒッターをビジョンさせたのかも知れません。
 さて、ローズ選手の年度別で目を見張るのは、何と言っても三振の多さだと思います。近鉄入団から、規定打席に到達しなかった、オリックスでの選手生活最終年の2009年に途絶えるまで、日本プロ野球在籍の13年中、12年間に100三振以上を記録、130三振以上は7回に及び、合計では1655三振を数えました。1度もシーズン100三振を経験しなかったバース選手やこの後に紹介するロバート・ローズ選手とは雲泥の差であり、また年を重ねるにつれて三振数が減ったラミレス選手とも違う、むしろ三振数は歳と共に増加しております。
 そんな、昔の言い方で「大型扇風機」と揶揄されるような選手でありましたが、シーズンの打率は3割超えが3回あり、通算では .286とまずまずでありました。三振が多いのに打率を稼げて長打力がある、と言うのは、この選手が類い稀なる身体能力に恵まれているからと思います。スウィング・スピードの速さ、ボールを遠くに飛ばすパワーであります。つまり、引っ張り専門の荒い打者なので、空振りは多いものの、バットに当たりさえすれば詰まってでもヒット・ゾーンに打球が落ちる、そんな打撃スタイルであった、日本で成功した最大の理由はその優れた身体能力を上手に活用したため考えます。

タフィーローズ写真

【タフィー・ローズ選手 年度別打撃成績】
タフィローズ年度別成績


◇ ロバート・ローズ Robert Rose

 ロバート・ローズ(Robert Richard "Bobby" Rose, 1967年3月15日〜)選手は、ブログにていずれは必ず取り上げたい大洋〜横浜の歴史上最高の外国人選手であります。同時に申し上げたいのは、本年4月9日に他界した 故 牛込 惟浩(うしごめ ただひろ、享年79歳)氏の、大洋〜横浜、外国人スカウトとしての集大成であり、最高の仕事であったと言うことです。

牛込氏とその著書
故 牛込 惟浩 氏 と 著書「サムライ野球と助っ人たち 横浜球団スカウトの奮闘記」

 ロバート・ローズ選手は、1985年の米大リーグ、ドラフト5巡目指名選手であり、1989年、カリフォルニア・エンゼルスでメジャー昇格した際には、将来を嘱望される野手であったそうです。故牛込氏の記述では、1989年、別の選手の視察でエンゼルスのキャンプを訪れた際に、知り合いから「とても有望な選手がいるよ!」と紹介されたのがロバート・ローズ選手であり、それ以来、注目していたとのことでした。1992年5月、ニューヨークからボルチモアへ移動中だったバスが交通事故を起こして足を故障したためマイナーへ降格となり、そのオフ、横浜大洋ホエールズ球団(直後に「横浜ベイスターズ」に改称)との契約となりました。 彼は、この、日本のプロ野球チームへの入団を心から喜んで、契約書を胸に抱いて寝た、との逸話が残っております。今から24年前の1992年11月、ローズと言う名の選手の入団を知った私は、ふと「ピート・ローズくらいに働いてくれればなぁ!」と思ったものの、年俸3500万と知りちょっとがっかりしたのが想い出されます。スナップ・スローでダブルプレーが採れる「守備の人」との振れ込みでありました。

ロバートローズ守備写真

 ロバート・ローズ選手にとって幸いであったのは、ミルウォーキー・ブリュワーズやシンシナティ・レッズで活躍し、知名度が高く、大リーグの大先輩であるグレン・ブラッグス選手が同時に入団したことだったと思います。各球団のマークが分散したと言うことはあります。それ以上に、大変、優しいタイプの人間ですが、元々の真面目な性格に、ブラッグス選手の熱さ、ガッツや不屈の精神のようなものを教わったように思います。ブラッグス選手と一緒にいた3年間がその後の5年間に大きく影響したように考える次第です。

ブラッグスとローズ写真

 ロバート・ローズ選手の打撃は、多くの種類のバッド・スウィングを繰り出し、広角打法であり、軽打あり、強振あり、押っ付けた打撃ありで、極めてバラエティに富んでいたと思います。巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかく単打を打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とされるほど恐れられており、鹿取義隆コーチは「投手から見ると、どこに投げても打たれそうな雰囲気のあるバッターでした」と語っています。横浜時代同僚だった駒田徳広氏は、「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットにしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間に打球が飛んでいく。その技術は凄かったですね」と語っております。
 他の選手同様、打撃成績を下に供覧しますが、取得したタイトルは、首位打者 1回 (1999年)、打点王 2回 (1993年、1999年)、最多安打 2回 (1999年、2000年)、最高出塁率 1回 (1997年)、最多勝利打点 1回 (1994年)でありました。「お祭り男」のような要素もあって、史上唯一のサイクル安打3回(1995年05月02日 中日戦、1997年04月29日 ヤクルト戦、1999年06月30日 広島戦)を記録、4回出場したオールスター・ゲームのうち、1999年第2戦目には1試合最多タイの6打点をたたき出しました。1998年、大洋〜横浜球団として38年ぶりのリーグ優勝、日本一に輝いた「マシンガン打線」の4番バッターでありました。
 日本プロ野球における通算打率 .325は、生涯通算打率ランキングの条件である4000打数に71足りないものの、ランキング1位のレロン・リー選手の .320を上回っており、横浜時代に記録した1275安打は、外国人選手が一球団で放った安打数としてはロッテのレロン・リー選手に次いで史上2位であります。

 レロン・リー(11年)  1315試合 5485打席 4934打数 1579安打 283本 33盗塁 690三振 .320
 ロバート・ローズ(08年)1039試合 4525打席 3929打数 1275安打 167本 16盗塁 566三振 .325


 彼が日本で成功した理由、彼の研究心は、日本の投手やバッテリーの配球よりも、自身の打撃、身体能力に向けられていたように思います。打撃フォームがシーズンによって少しずつ変化して、例えば、来日時にはしっかりとしたクラウチング・スタイルでしたが年を経て徐々に起きて来たように記憶しています。スタンスも大きくオープンだったことも、スクエアだったこともあります。
 8年間で体型も随分変わりました。筋肉トレーニングを趣味のように重ねていましたので、年を追う毎にマッチョマンへと変身してまいりました。1996年、大矢監督の下、三塁にコンバートされた際に打撃不振となり、最終的には三割( .304)に到達したものの、16本塁打は助っ人外国人としてどうか?、と球団側がパワー面を物足りなく思っていたことがありましたが、弛まぬ努力の結果、パワー・ヒッターとしても開花し、1999年には37本塁打を記録するまでになりました。

ロバートローズ写真

 ロバート・ローズ選手 日本球界復帰のニュース YouTube

【ロバート・ローズ選手 年度別打撃成績】
ロバートローズ年度別成績


◇ 来日してから成功を修めた外国人野手たちを振り返って

  「歴代最強助っ人外国人、週刊ベースボール社が球界人200人に聞いたベスト10」の中の、第01位 ランディー・バース、第02位 アレックス・ラミレス、第04位 タフィ・ローズ、第05位 ロバート・ローズ 各選手について簡単に触れてまいりました。この4人の外国人選手に関して言えば、米国では、レギュラー選手にはなれず、成績を残せなかったものの、日本では水を得た魚のように活躍することができました。これをもって、日本の野球が米大リーグよりもレベルが低いとするのは早計かも知れません。新天地で真剣に野球に取り組んで、球団は「助っ人」としてチャンスを与えて、同時にプレーヤーとして最も脂が乗り切った「旬」な時期を日本で過ごしたと言えます。もし、この外国人たちが活躍した同じ時期に米大リーグにいたとしたら、やはり同じように活躍したかも知れない、それくらいハイレベルの選手たちでありました。
 また同時に、これらの選手と同様に、米大リーグでは活躍できなかった、あるいはそこそこの成績であった選手で、助っ人として来日したものの、日本でもいい仕事ができなかった外国人は無数におります。来日する助っ人外国人が日本で活躍するかどうかは、必ずしも日米野球の優劣では決められない、ピート・ローズ氏が言うところの、「(元近鉄の)タフィー・ローズはメジャーではさっぱりだったが、日本では55本塁打を放った、これが真実だ。」と、「来日してから成功を修めた外国人野手たち」という、ある一面だけを見て米大リーグの優位性を言うことは難しいと思います。

 もう一つ、心情的なことを言わせていただきますと、上で挙げたような外国人たちは日本のプロ野球において多くの夢を与えてくれた存在であります。異国から来た選手とは言え、彼らの熱意と努力を垣間見た時、日本の野球のレベルが低いから活躍できたのだ!、とは簡単に言えない気持ちはありますね。