アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

死にゆく患者の家族にしてあげられること


 友人と外科医になってまもない頃の話しをしていて、ふと忘れていた、偶然にも、患者家族の心に働きかけていたある行為を思い出しました。

 事故や、今回の熊本地震のような災害で肉親と死に別れることがあると、残された家族にとっては、突然の出来事でなかなか受け入れられない、後々まで尾を引く、ともすると後悔や自責の念にかられる場合もあろうかと存じます。それに比べて、病死、とりわけ悪性腫瘍による死は、発病、手術、化学療法、再発や終末期と言う過程を踏み、患者の弱りゆく姿を見ていますので、ある程度は心の準備ができると言うものです。
 しかしながら、その癌死であっても、家族にとって受け入れられない場合は時としてあります。西洋医学の外側にある様々な「代替統合医療」を希望される場合や、自宅で看取りたいとの希望が叶わぬ場合、私ども医療機関の人間に直接は言ってくることはなくとも、治療を受けた病院に対する不満がある場合もあるでしょうし、がんセンターなどのもっと高次の医療機関で治療を受けさせればよかった、重粒子やサイバーナイフのような先進医療があったはずだ、と言ったは考え方はあろうかと存じます。患者が亡くなり、家族はそのことで後悔したり、医療に疑問を持ったり、そういう感情では誰もが不幸のどん底であり、救われません。
 数え切れないほどの癌で亡くなる患者を診てきて、医学の無力を感じざるを得ないと同時に、亡くなられる患者に対して時として医療は何もしてあげられないことはありますが、残された家族には何かしてあげられることがあるかも知れないと思うようになります。


◇ 大学院を修了した直後

 私が医者となった約30年前は、その昔にあったインターン制度は終わりを告げ、初期研修医制度は始っていず、医局制度の全盛期でありました。大学卒業後、外科の教室に入局と同時に大学院に進学して4年で博士号を修得したところで、医局の命に従いローテードで関連病院に出ました。学位論文が成功したこともあって、症例の多い大きな病院に出させていただきました。

病院 写真0001

 20代後半、それまでの2年間は動物実験と論文書きで、臨床はたまにある外の病院の当直のバイトくらいでしたので、極めて医療、とりわけ外科手技に飢えておりました。なんとしても手術を覚えたい、上手になりたい、少しでも早く一人前になりたい、そういう気持ちが強い時期でありました。そして、そうなるためにどうすればいいかも十分、解っておりました。
 多くの「手に職を持つ」仕事ががそうだと思いますが、技術の向上には、机上での勉強や、少しでも先輩の術を盗み見て技術を学ぶのと同時に、先輩から手とり足とり教えてもらう、患者にデメリットが生じない範囲で手術をやさせていただくと言うことも不可欠であります。では、そうなるためにどうしたらいいか?、簡単なことです。先輩に可愛がられることが何より大事なんです。
 では、先輩に可愛がられるためにはどうしたら良いか? 「尊敬します!」、「ついて行きます!」、「頑張ります!」、「お願いします!」などと、お世辞や意欲、お願いを簡単に言う若者はいますが、そんな表面的な言葉では騙せない、態度で示すのが何よりも説得力があります。酒の付き合いが良いとか、絶対服従と言うのも一つの方法ですが、私は、出来る限り病院にいる、そのついでに受け持ち患者の死はすべてを看取ろうと決めました。

 手術手技を磨くために
  → 先輩に可愛がられるために

  ・出来る限り病院にいる
  ・受け持ち患者の死をすべて看取る


 それ相応な決意であったと思い出されます。


◇「患者の死をすべて看取る」を始めたものの

 私が勤めた病院は、外科は2班に分かれており、各々3,4人のドクターで構成され、患者はそのどちらかの班に振り分けられ、各班毎にグループで診療に当たる体制でありました。当然のごとく私はその班の中では一番若い下っ端でありました。
 外科の病棟の入院患者は、主として消化器の、周術期(手術前後の時期)の患者がほとんどで、胃癌だけで年間約200件に及びました。時には切除不能の進行癌で科学療法を行う人もいました。大学病院やがんセンターのように他院にお願いしませんし、緩和ケア病棟はありませんので、不幸にして再発した症例の終末期の医療も行っておりました。そうした病棟ですので、亡くなる患者のほとんどは癌死でありました。
 平日の日中であれば、患者が心肺停止しますと、手術中や外来に出ている以外の、手が空いている受け持ちのドクターが呼ばれて看取りますが、夜間休日には特別な決まりありませんでした。当直医にお願いする場合や、電話でコールしてもらう場合など様々で、自分が執刀したケースや、若い人など、患者に対する思い入れで左右される部分がありました。

 大学院を終えてローテードの病院に来たばかりの私には、自分が執刀した症例などあるはずもなく、死にゆく症例はすべて知らない患者でありました。でも、グループ診療で受け持ちとなり、しかも一番の下っ端ですので、亡くなる患者を看取る義務はなくとも権利はありました。「患者の死をすべて看取る」と決めた以上は、そろそろ血圧が下がり、尿量が減ってきた患者がいると、夜勤の看護師に「いつでも電話をください」とお願いしておりました。ポケベルも携帯電話のない時代ですので、自宅の枕元に電話機を置いて寝る毎日でありました。
 ところが、いくつかの取りこぼしがあって、「すべて看取る」とまではいかないケースがありました。看護師の方でうっかり当直医をコールしてしまったり、私の方で、熟睡しているなど、電話に出られない場合もありました。朝、ハタと目が覚めて、病院に電話したり急いで出勤すると、「明け方、当直の先生に看取っていただきました」と看護師から平然とした返事、、、。

 自宅待機では幾らかの取りこぼしがあり

 特に誰が悪いわけでもない普通の日常がそこにありましたが、研究生活で臨床から遠ざかっていて、手術手技に飢えていた私はそれでは我慢がなりませんでした。


◇ 看取りを予期して病院泊まり込みを開始

 「こんなことではいけない!」、「普通のことをしていてはいけない!」などと思った私は、癌の末期の患者がいよいよ最期か?、となると病院泊まり込みを図るようになりました。自分の机がある小さな医局とソファーがあって仮眠をとる全体医局の電話番号を伝えて、「病院に泊まっていますから」と看護師に伝えて待機しました。あらためて申し上げますが、あくまでも先輩に可愛がってもらって手術手技を向上させるのが目的でありました。逆を言えば、そういう目的が叶わぬのであれば、「病院泊まり込み」なんて絶対にしなかったと断言できます。

 あくまでも先輩に可愛がってもらって手術手技を向上させるのが目的

 さて、「病院泊まり込み」は非常に効果的で、当直医は必ずしも外科のドクターではありませんでしたし、非常勤の場合もありましたので、終末期の患者以外の件でも、私の受け持ちではない患者の件でも電話で相談をされ、よく診察にも行きました。日常だけでは得られない経験はありましたし、多くの看護師から頼りにされ信頼に繋がり、ちょっとした良い噂にもなって、外科医5年目の自分には快く感じられました。もちろん、先輩に可愛がってもらい手術症例が与えられる、と言う目的も、徐々にではありますが、叶いつつありました。
 
 看護師から頼りにされ信頼に繋がり、手術症例にも恵まれ

 ところが、ここでも問題が生じました。単純に言えば「己の身がもたない」と言う現実です。先輩から手術症例を与えていただき、日中はほとんど毎日が手術であり、その夜は看取りの患者のための「病院泊まり込み」では、毎日、心身ともにボロボロでありました。このあたり、少し込み入った話になりますが、手術と言うものは、助手と執刀ではその消耗度が随分と違いまして、例えば、胃切除術の助手が何日続いてもそれほど大変ではないのですが、胃切除術の執刀(オペレーター)が3日も続き、しかも1日に2件の日もあったりすると、心身ともに疲労は限界を超えました。もちろん、手術が上手ではないので時間もかかりましたし、自分が執刀した症例こそ自身がなくて心配にもなりました。

 手術の執刀と「病院泊まり込み」で己の身がもたない

 そんな日々を送っていますと、当然のごとく、心に浮かんで来るのは、患者が逝かない夜はなるべくなら自宅へ帰りたいと言う気持ちでありました。これまた臨床医としての未熟さ故なのですが、末期癌には違いなくとも、その患者が今日逝くのか明日なのか、その次なのか、その判定ができないために、今日も明日もその次も「病院泊まり込み」が必要となっておりました。どうにかならないものかと思案したりもしました。

 患者が逝かない夜はなるべくなら自宅へ帰りたい

 そうした日々を送っていた私が取った行動は、至極、当然の行為でありました。看取ると決めた患者を診に行くのです。夜の0時に診察して、2時にも診て、あまり違いが無いようなら帰宅しても大丈夫かと判定しました。自信がなければ4時の診察でも考えましたし、そのまま6時に診てもう朝を迎える事もしばしばでした。もちろん、患者が生き延びれば翌日も「深夜の2時、4時、6時診察」となりました。


◇「深夜の2時、4時、6時診察」が始まって

 この「深夜の2時、4時、6時診察」は素晴らしい経験でありました。あまり言葉は良くありませんが、末期の患者が死にゆく状態の変化を刻々と観ることで、臨床医としての客観的な眼を養うことができました。全く失敗なく、0時と2時で違いが無ければ帰宅できるようになりました。その翌日の0時と2時の状態から、この明け方に間違いなく逝かれるであろう、などと言う予測ができるようになりました。

 0時と2時で違いが無ければ帰宅できるように
 明け方に間違いなく逝かれるであろうと言う予測が可能に


 手術手技を習得したいし、そのためには受け持ち患者の死をすべて看取る、と決めて、でも自分の身も大切にしなければならない、苦肉の策ではありましたが、思うように機能して、継続することができました。


◇ 患者家族の心をつかむ

 「手術手技向上」などと、邪(よこしま)な思惑で始まった「患者の死をすべて看取る」であり、「病院泊まり込み」、ひいては「深夜の2時、4時、6時診察」でありましたが、それを始めた早い段階から患者家族の心境が痛いほど伝わって来ました。

 *****

 深夜2時、末期癌の患者が待つ個室に小さなノックをして扉を開きますと、床にざこ寝状態の家族が、ある者は光に目を歪め、ある者はむくと起き上がり、「なぜこんな時間に?」と怪訝そうな目を私に向けてきて、患者の脈を取り、体温を感じ、胸の音を聴取する一挙手一投足に注目が集まります。0時の段階と2時とでいくらか違いがあるかどうかを、ナースステーションのモニターのみならず自らの五感で感じる作業でありますが、何も言葉を残さずに一礼して去って行く私の行為は、家族にとっては、もう死期が近いことを無言に伝える儀式でもありました。
 4時の診察、2時の時よりも起き上がって目を向ける家族が増えています。「先生が来たよ!」と寝ている家族を起こす声も聞こえます。2時と同じように患者の脈を取り、体温を感じ、胸の音を聴取して、皆に一礼して部屋を出る私に「どうでしょう?」と尋ねてくる家族はいません。深夜のこの時間に私が診察に来ること事態が患者の死が近いこと、おそらくはこの明け方であろうことを無言のままに伝えておりました。
 5時半、看護師からの電話を受けて、ナースステーションのモニターはフラット、ゆっくりと病室に向かう私の手には対光反射を見るペンライト、首には聴診器がかけてあり、死亡時刻を確認するための腕時計もして参ります。看護師とともに部屋に入った私を見た家族の表情は、驚くようでも、激しい悲しみに包まれるようでもない、「ついにこの時が来た」、患者の死を受け入れている患者家族がそこにいました。悲しみと、涙はありますが、不満や疑念、後悔の念などは取り去られた、安らかな感情が流れておりました。

 *****


 後日、このような最期を迎えた多くの患者の家族から言われたこと、それは、、、

 「深夜の最期まで看取っていただきありがとうございました」
 「こんな良い先生に看取ってもらってうちの人は幸せです」
 「あの世で感謝していると思います」
 「この病院にお願いして本当に良かったと思っています」


、、、と言う言葉がほとんどでありました。患者の家族は、もしかしたら、あの一晩で気持ちの整理がついて、患者の死を受け入れ、それを美化する形での納得の心境に達したようでした。私は、医学の限界を知りつつ、「深夜の2時、4時、6時診察」が始まった理由も知っていましたが、ただただ、「そうですね!」と申し上げて、患者家族の心をつかんだ実感と、そのままの状態であるように肯定的な相づちを打つのみでありました。


◇ あとがき

 正直に、本当に、手術手技を学びたい、先輩に可愛がられたい、その一心で始めた「患者の死をすべて看取る」から「深夜の2時、4時、6時診察」でありましたが、患者家族には、肉親の死を現実のものとして受け止める、そのきっかけを与えるものとなりました。そうしなければ大きく変わっていたかと言うとそうでもないと思いますが、死にゆく患者には何もしてあげられないのに、「うちの人は幸せです」、「あの世で感謝していると思います」と、家族は自らを慰める発想に行き着きます。そのことで、肉親の死による悲しみが和らぐような、「死にゆく患者の家族にしてあげられること」があったように思いました。

 多数の手術症例に恵まれ、多くの手術手技を習得した私がその病院を去る時が来た、その前日まで「深夜の2時、4時、6時診察」が続けられたことは言うまでもありません。もう、その時の目的は別のところにありました。


 *****

 今、あの時の「受け持ち患者の死をすべて看取る」も、「看取りを予期して病院泊まり」も、もちろん「深夜の2時、4時、6時診察」も、個人的には原則的にはやっていません。もう肉体的には困難ですし、臨床初期研修医制度を経たドクターが増えて来て、私の育った環境とは違う若者が私の下に複数いるのが現状です。あの「深夜の2時、4時、6時診察」、心身ともに辛かったですが、そうした医療で「死にゆく患者の家族にしてあげられること」が可能であるならば、若者にある一定期間、経験させたいと思う次第です。




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恋愛上手な女性だけが知っている、失敗しないための「7つのツボ」


 身近の、お年頃の女性で、恋愛に悩むヒトがいて、当然、私なんかが問題解決に役立つわけはありませんが、そんなところで、思わぬ恋愛に関する自己啓発の記事を見つけましたので、つたないコメントを添えてご紹介いたします。このところ重い内容の記事が続きましたし、九州で大きな地震があった夜ではありますが、今回は軽い内容です。

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 あなたの「理想の人」という、勝手な幻影で「運命の人」という虚像を恋人に押し付ければ、その枠からはみ出すことを許さない窮屈な恋愛になってしまいます。
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 上記01、02の繰り返しです。「好み」や「理想」に沿った恋愛には限界があるとの考え方です。「理想は想像の範疇の中にあるもの、運命は想像の範疇の外にあるもの」との言葉は、恋愛のみならず、様々な分野に通用する発想と思います。


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 結論を言うと、ただモテることだけを目的にするのなら、上っ面だけ小綺麗にして「寂しいアピール」をしていれば、わりと簡単なんですよ。

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お一人さま

 恋人がいないのを寂しいと思わないくらいに充実した生活を送っている人(男性も女性も)の方が魅力的な人間であることはあります。一つの恋が終わりを告げた時に、「寂しさ」で次の人を求める前に、一歩、踏み止まるのは一案です。


「原因と結果の法則」(ジェームズ・アレン著)の概要


 先週の、ブログのページが「リダイレクトされる現象」で途切れてしまいましたが、先日、「思い」が周囲を変えられること、職場を転々と変える原因にある種の「思い」があることを取り上げました。人間は主観的な存在であり、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、やれることやれないことがあり、時として運/不運が降りかかってきて、周囲の環境が自分に影響を及ぼしている、とそう考えがちです。視点を変えて、客観的に自分を見る目を持つと、自分の内面に秘める「思い」こそが好き嫌いを感じさせ、行動の原点となり、幸も不幸をも引き寄せて、周囲の環境にも影響することに気づきます。この考え方は、これまで、以下の如く何度か取り上げてきた「引き寄せの法則」に基づくものであります。

 引き寄せの法則: 理想や願望の実現(2013/10/30)

 「引き寄せの法則」の起源:ヘルメス文書 〜 Kybalion 〜 The Meta Secret / 宇宙の「7つの法則」のご紹介(2014/02/10)

 今回は、ヘルメス文章ほどには古くなく、恐らくは、現代のマイケル・ロオジエ氏、エスター・ヒックス氏、ロンダ・バーン氏らが、自分たちの主張の礎(いしずえ)としている哲学書、1世紀以上にわたるロング・セラー、ジェームズ・アレン(James Allen)著、坂本貫一 訳「原因と結果の法則(As a Man Thineth)」をご紹介します。


◇ ジェームズ・アレン James Allen 氏とその著書

 ジェームズ・アレン(James Allen、1864年11月28日-1912年)氏は、自己啓発書で有名なイギリスの作家、哲学者であります。イングランド中央のレスターと言う町に生まれ、生家は小さな事業をしていたが破産し、父親は米国にて事業を再開するが強盗に襲われ死亡、当時は学生であったアレン氏は退学してイギリスの製造工場で働き家族を支えたとされます。その後、大企業の秘書となりましたが、38歳より著作を始め、9年間で19冊の本を書き、同時に雑誌The Light of Reasonを発行しました。

ジェームズアレン写真

 2冊目の著書で代表作であるAs a Man Thinketh(『「原因」と「結果」の法則』)は自己啓発書の原点であり、デール・カーネギー、アール・ナイチンゲールなどに大きな影響を与えたとされます。同書は約1世紀前の1902年に書かれたものですが、現在も世界中で売れ続けており、聖書に次ぐロングセラーの一つと言われ、日本でも50万部を超えるベストセラーであります。

「原因と結果の法則」写真

 同書の推薦の言葉として「何かあって落ち込んだりしたときに読んでごらんなさい。人生なんて、とても単純なものなのよね」があります。なお、アレン氏は、より多くの人に読んでもらいたいとの願いからイギリス以外での著作権を放棄しております。

 以下、各章を原文和訳の題名に沿って解説して参りますが、まずは本書の冒頭に記されたアレン氏の文章をご紹介します。

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 私たちの人生は、ある確かな法則に従って創られています。私たちがどんなに策略を用いようと、その法則を変えることはできません。「原因と結果の法則」は、目に見える物質の世界においても、目に見えない心の世界においても、つねに絶対であり、ゆらぐことはないのです。

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◇ 思いと人格

 「人格(personality)」とは、個人の心理面での特性、人柄、または人間の人としての主体をなすものとされ、「人格形成」と言う言葉がある通り、一般的には、幼少時から成人にかけて長い年月で創り上げられるものと考えられております。「優れた人格者」、「人格を疑う」と言った言葉があるように、人間の善悪を例える言葉として使われることが多く、なかなか変えられない普遍のものと捉えがちであります。これに対して、アレン氏は、「人格」は「思い」によって創り出されていると述べております。

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 「人は誰も、内面で考えているとおりの人間である」という古来からの金言は、私たちの人格のみならず、人生全般にあてはまる言葉です。人格は、私たちがめぐらしているあらゆる思いの、完璧な総和です。

 私たちの誰もが内心では手にしたいと考えている、気高い神のような人格は、神からの贈り物でもなければ、偶然の産物でもありません。それは、繰り返しめぐらせれつづけた、気高く、正しい思いの、自然な結果です。そして、卑しい獣のような人格は、卑しく、誤った思いの、やはり自然な結果です。

 私たちは、自分自身の思いによって、自分をすばらしい人間に創りあげることもできれば、破壊してしまうこともできます。

 正しい思いをめぐらしつづけることで、私たちは気高い、崇高な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んでめぐらしつづけることで、獣のような人間へと落下することもできるのです。そして、その両極端のあいだにはさまざまなレベルの人格があり、人間はまた、それらの創り手でもあり、主人でもあります。

 *****


 アレン氏が、「人格」を人間の善悪を計るものとして捉えているのは一般論と同様と存じますが、その「人格」が、生い立ち、育ち、周囲の環境、経験や教えに基づくと思われがちであるのに対して、個人の「思い」こそが「人格」を創り上げているとしています。
 なかなか人には表の顔と裏の顔があって、「優れた人格者」として思いつく人物が本当にそうかは不明なことも多いのですし、逆に「人格を疑う」人物が常に人格がおかしいかと言うと、そうでもないように思います。よほど極悪非道な犯罪者でない限り、一般の人間には、いろんな場におけるいろんな顔がありますので、「人格は移りゆく」と言うのが正しいように思います。すると、その時その時の「思い」によって「人格」が変わるのは頷けることです。

 「優れた人格者」は常にそうではない
 「人格を疑う」人物もいつもそうではない
 「人格は移りゆく」= その時その時の「思い」によって「人格」が変わる


人格の図

 確かに、自分に当てはめて思い返してみますと、高い志を持って目標に向かって邁進した時、豊かな気持ちで愛情に溢れる「思い」で人に接した時、逆に、自暴自棄になったり、目標を失っている時、意地悪な気持ちが心を占めている時など、いろんな心の状態が思い出されます。「思い」と「人格」の結びつきを意識することは、常に自分の「思い」に目を向けることに繋がります。


◇ 思いと環境

 世の中には、災害や戦争、悪政などによる過酷な状況に置かれて苦しむ人はいます。ごく稀に、強い「思い」から高い志を持って、そういう「環境」から成功の道を歩む人はいますが、個人の「思い」ではどうにもならない「環境」は確かにあります。しかし、そうした、どうにもならない厳しい「環境」にいなくとも、自分の幸不幸の原因に「環境」を挙げる人は少なくありません。人は、両親や兄弟姉妹と貧富と言った「家庭環境」、上司や同僚、部下がいて、仕事内容と待遇がある「職場環境」、あるいは自分の置かれた「社会環境」に大きく影響を受けていると考えてしまいます。

自分を取り巻く環境図

 先日、「ある破滅的な職場でのこと」(3月24日)、「職場を転々と変える、あるいは ひとところに落ち着く」(3月31日)と題して「職場環境」に対する考え方を述べました。上司や部下に恵まれない、人間関係や待遇に我慢ができないと言った個人の「思い」が自らの行動を左右していると言う結論に至りました。
 アレン氏は、「環境」は「思い」から生まれる、と言う概念を基本として、「環境」に屈するのではなく、「環境」の改善を望むのでもなく、自分自身の「思い」を変えることで「環境」を変えることを説いています。そして、「環境」を変えるためには自分の「思い」を変えなければならず、それは時として自己犠牲を払うことにもなるとしております。

 *****

 思いと人格はひとつです。そして、人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。よって、私たちの環境は、私たちの内側の状態とつねに調和しています。

 自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれ出るものである」ということを熟知しています。なぜならば、すでにかれらは、環境の変化と心の状態の変化が、つねに連動していることに気づいているからです。
 
 心は、それ自身が密かに抱いているものを引き寄せます。それは、それ自身が本当に愛しているもの、あるいは恐れているものを引き寄せるのです。心は、清らかな熱望の高みにいたりもすれば、けがれた欲望の底にまで落ちもします。そして環境は、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体です。

 私たちは、自分を環境の産物だと信じているかぎり、環境によって打ちのめされる運命にあります。しかし、「自分は想像のパワーそのものであり、環境を育むための土壌と種(心と思い)を自由に管理できる」ということを認識したときから、自分自身の賢い主人として生きられるようになります。

 人々の多くは、環境を改善することには、とても意欲的ですが、自分自身を改善することには、ひどく消極的です。かれらがいつになっても環境を改善できないでいる理由が、ここにあります。

 自分自身を改善するということは、真の意味での自己犠牲を払うということにほかなりません。真の自己犠牲とは、心の中からあらゆる悪いものを取り払い、そこを良いものだけで満たそうとする作業です。

 私たちに苦悩をもたらす環境は、私たち自身の精神的混乱の結果です。私たちに喜びをもたらす環境は、私たち自身の精神的調和の結果です。喜びは正しい思いの結果であり、苦悩は誤った思いの結果なのです。

 *****


 冒頭に申した通り、人は環境に左右される存在との認識が強いです。口では「自分が悪いんです」と心にもないことを言うことはあっても、結局は「この環境では苦しいね」、「今の状況が変わることを祈るよ」と、環境に責任転嫁する発想が浮かんで来ます。環境が自分に影響を及ぼすことに目が行きがちで、自らの「思い」で環境を変えると言うことに、気付いていない、あるいは実践できないでいるのが現実でしょう。

 人は環境に左右される存在との認識が強い
 環境が自分に影響を及ぼすことに目が行きがち


 一方、昨今の「引き寄せの法則」では、「思い」が現実になることを説いてはいるものの、「望みが叶う」、「大きな富を得る」と言った成功を勝ち得た体験ばかりが語られており、上手くいかないこと、劣悪な環境、失敗、害悪、そして犯罪と言った良からぬもににはあまり触れない傾向にあります。

 昨今の「引き寄せの法則」は成功体験に目を向けたものが多い

 アレン氏は「原因と結果の法則」の中で、「環境」は「思い」の産物であることを述べて、「思い」によって「環境」が劣悪にも良好にもなり得ることを、ほぼ同等な重きを持って解いており、環境を改善するための、自分の「思い」を変える自己犠牲の必要性にまで言及しております。

 良くも悪くも「思い」が「環境」を創る

 ここで、アレン氏が例として挙げた、悪い「思い」が悪い「環境」を創りあげている場合と、良い「思い」が良い「環境」を創りあげている場合を箇条書きで列挙いたします。

【悪い「思い」が悪い「環境」を創りあげる例】

 ・(理性の効かない)動物的な「思い」
   → 自制のない肉体的生き方、活力の欠いた、混乱した生き方
   → 苦難に満ちた、不愉快な「環境」

 ・(社会や他人に対する)恐怖や疑いに満ちた「思い」
   → 優柔不断で臆病な生き方、他人を信用できない人間関係
   → 失敗や困難、信頼感のない孤独な「環境」

 ・ 敵意に満ちた意地悪で利己的な「思い」
   → 常に他人を非難して、身勝手な生活
   → 不安と恐怖に満ちた、敵ばかりに囲まれた「環境」

【良い「思い」が良い「環境」を創りあげる例】

・ 気高い、清らかな「思い」
   → 自制の利いた穏やかで、慈愛と思いやりに満ちた生き方
   → 平和に溢れ、明るい快適な「環境」

 ・ 勇気と信念に満ちて、活気に溢れる「思い」
   → 速やかな決断と行動、前向きで積極的な生き方
   → 自由と成功と豊かさ、喜びに溢れた「環境」

 ・ 好意的で寛容、愛に満ちた「思い」
   → 優しさに溢れた、他人への奉仕を厭わぬ生き方
   → 安全と安心、永続的な繁栄と真の富に満ちた「環境」

 自分の「環境」に目を向けて、それが自分にとって良くないものだと思えた時、あるいは自分にとって素晴らしい「環境」を実感した時、その「結果」に対する「原因」として、どのような悪いまたは良い「思い」が自分の中に巡らされているか?、それを考える習慣を持つのは一案かも知れません。


◇ 思いと健康

 昔から「病(やまい)は気から」と言う言葉はありますし、「笑う門に福きたる」などと、「笑い」の「健康」への有効性は科学的にも証明されており、「思い」の「健康」への影響は否定できないところであります。
 しかしながら、健全で高い志を持った人物でも病気になりますし、邪悪な「思い」を巡らす人間がいつまでも元気に世にのさばっていることもしばしばです。疾病に対する予防、診断、治療が、本書が出版された100年前と今とで大きく異なって来て平均寿命の延長が著しく、一方で、食品添加物や環境の劣化などの悪い要素もあって、現代における「健康」に影響を及ぼす「思い」の占める割合は少なくなっているかも知れません。
 それにしても、豊かな「思い」が「健康」を創りあげるとの発想は、規則正しい生活、バランスの良い食生活、健康への関心、不健康や肉体の酷使の排除、優れた精神衛生に繋がるものであることはな違いありません。

思いと健康 図

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 人間は、けがれた思いをめぐらしつづけているかぎり、けがれた血液を手にしつづけることになります。きれいな心からは、きれいな人生ときれいな肉体が創られ、けがれた心からは、けがれた人生とけがれた肉体が創られます。

 もしあなたが自分の肉体を完璧な状態にしたいのなら、自分の心を守ることです。肉体を再生したいのなら、心を美しくすることです。悪意、羨望、怒り、不安、失望は、肉体から健康と美しさを奪い去ります。憂鬱な顔は偶然の産物ではありません。それは憂鬱な心によって創られます。醜い皺は、愚かな思い、理性を欠いた思い、高慢な思いによって刻まれます。

 あなたの家を明るく快適な住処とするには、そこを空気と日の光で満たさなければなりません。同様に、強い肉体と明るく穏やかで幸せな顔つきは、喜びと善意と穏やかさによって、心が十分に満たされることによってのみ創られます。

 楽しい思いは、どんな医師よりも上手に、肉体から病気を一掃します。善意は、どんな癒し人よりも速やかに、嘆きと悲しみの影を霧散させます。

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◇ 思いと目標

 「思い」が「人格」、「環境」、「健康」を創り出すと説いて来て、ここでは、「原因と結果の法則」に基づく「引き寄せ」の方法論が解説されております。大切なこと、まず最初の第一歩は「目標」を持つことであり、それを達成できると言う信念の重要性を彼は強調しております。

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 目標をもたないために人生の海原を漂流している人たちが、驚くほどたくさんいます。目標をもたないことの弊害は、あまりにも大きいと言わざるをえません。人生のなかでの漂流は、誰にとっても、もしそのなかで遭難したくないならば、絶対にやめなければならないことです。

 人間は、理にかなった人生の目標を心に抱き、その達成をめざすべきです。その目標に、自分の思いを集中して向けつづけるべきです。

 その目標の達成にくり返し失敗したとしても(弱さが克服されるまでは、それが必然です)、それを通じて身につけることのできる心の強さは、真の成功の確かな礎として機能することになります。個々の失敗は、それぞれが輝かしい未来に向けた新しい出発点にほかならないのです。

 人生の漂流者であることをやめ、目標の達成に思いを集中しはじめることは、失敗を成功にいたる通過点だと信じる人たち、あらゆる状況を自分のために機能させる人たち、力強く考え、果敢に挑み、価値ある物事をみごとに達成する人たちの仲間に加わることです。

 人間を目標に向かわせるパワーは、「自分はそれを達成できる」という信念から生まれます。疑いや恐れは、その信念にとって最大の敵です。

 疑いや恐れは、いかなる達成にも役立ちません。それらは、私たちをつねに失敗へと導こうとします。目標、活力、行動力、およびあらゆる種類の力強い思いが、疑いや恐れの侵入とともに、本来の機能を停止します。

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 ここでも、「思い」がなんでも希望するものを引き寄せるとする、昨今の「引き寄せの法則」とは異なる、厳しい中立の立場としての「原因と結果の法則」が語られております。要約しますと、、、

 目標をもたない人生の漂流者が実に多い
 人生において目標を持つことの重要性
 失敗は未来に向けた新しい出発点
 人間が目標に向かうパワーは「それを達成できる」という信念
 疑いや恐れは達成への信念の敵


 「思い」が「環境」を創りあげるとした項では、環境を改善するための、自分の「思い」を変える自己犠牲の必要性が紹介されておりました。「目標」を達成するために、失敗があろうとも疑いや恐れを心にもたない、強い「思い」の重要性がここでも語られております。

目標 図

 余談ですが、「疑いや恐れは、いかなる達成にも役立ちません。それらは、私たちをつねに失敗へと導こうとします。」との言葉は、とりわけアスリートにはまさに当てはまることのように思えます。練習では何度も成功させていたトリプル・アクセルを本番では失敗してしまう浅田真央選手が、来季は(自分が達成することへの)「疑い」や(失敗への)「恐れ」を是非とも払拭させて欲しいと思います。


◇ 思いと成功

 一般的に、「目標達成」、「成功」をつかむためには、多くのものを「犠牲」にすることは言うまでもないことです。貧困に耐えるとか、厳しい鍛錬を継続するとか、苦しい労働もあるでしょう。「思い」と言う観点から考えた時、そこで犠牲となるのは、「目標」に向かうのに必要のない「欲望」であります。「目標」を持つこと、達成への「信念」を持つこと、「疑いや恐れ」を思いから消し去ることに加えて、「犠牲」の精神です。

成功 図

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 私たちは、自分の心を高めることによってのみ上昇し、克服し、達成します。そしてその努力を怠ることによってのみ、弱さ、絶望、苦悩の中に留まりつづけるのです。

 人間は、価値ある物事を達成するためには、たとえそれが、どんなに世俗的な物事の達成であっても、身勝手な欲望のなかから抜け出さなくてはなりません。人間は、もし成功をめざすのならば、自分の欲望の(すべては無理でも)かなりの部分を犠牲にしなくてはならないのです。

 私たちは、犠牲を払うことなくしては、いかなる進歩も成功も望めません。私たちの成功は、私たちがその達成をどれだけ強く決意し、その計画の上にいかに心を固定するかに加えて、自分の欲望をどれだけ犠牲にできるかにかかっています。

 宇宙は、たとえ表面的にはどのように見えようと、貪欲な人間、不正直な人間、不道徳な人間を、決して援助することがありません。宇宙は慎み深い人間、正直な人間、清らかな人間のみを支え、援助するのです。

 精神的達成は、神聖な熱望の果実です。身勝手な欲望を放棄し、けがれのない美しい思いのみをめぐらそうと努めつづける人間は、太陽が天に昇り、月が満ちるのと全く変わらぬ確かさで気高い人格を手にし、人々に大きな影響をおよぼすとともに、かれらからの大きな敬意を手にしうる地位へと上昇することになります。

 人間は、この世界におけるすばらしい成功へ、さらには、精神世界内の気高い地位へとさえ上昇したあとで、身勝手な思い、けがれた思いなどにふたたび身を任せることで、弱さと卑しさのなかにふたたび降下することもできます。成功を維持するためには、警戒が不可欠です。

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◇ ビジョン

 ここでアレン氏は、歴史上の理想家たちに感謝の気持ちと敬意を払って、人間が「思い」のなかに「ビジョン」、「理想」を抱くことの重要性を説いております。彼は、「ビジョン」を達成させたことにより人類に光をもたらした例えとして以下を挙げております。

 ・釈迦:汚れのない美しさと完璧に平和な精神世界のビジョンを抱いてその中に侵入
 ・コロンブス:道の世界へのビジョンを抱いて米国大陸を発見
 ・コペルニクス:無数の世界とより広い宇宙へのビジョンを抱いて地動説を証明


ビジョン図

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 理想を抱くことです。ビジョンを見つづけることです。あなたの心を最高にワクワクさせるもの、あなたの心に美しく響くもの、あなたが心から愛することのできるものを、しっかりと胸に抱くことです。そのなかから、あらゆる喜びに満ちた状況、あらゆる天国のような環境が生まれてきます。もしあなたがそのビジョンを見つづけたならば、あなたの世界は、やがてその上に築かれることになります。

 人間は誰しも、願望を抱き、その達成をめざします。しかし、身勝手な願望を達成したとき、人間は真の喜びを手にできるでしょうか。また、清らかな願望の達成をめざしている人が、生活に困ったりすることがあるでしょうか。いや、そんなことは絶対にありえません。

 あなたが心の中で賛美するビジョン・・・あなたが心の中の王座につけるあなたの理想・・・それにしたがって、あなたの人生は作られます。それこそが、あなたがやがてなるものなのです。

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 高い「ビジョン」を持って長年の努力でそれを達成した人物に対して、「幸運」とか「恵まれている」と言う人は少なからずいます。そういう人間であればあるほど、自分に「ビジョン」を持っていないのだろうと思います。文章中でアレンしは「人間が達成するあらゆる成功が努力の結果です」とも述べております。高い「ビジョン」を持ち、達成への強い「信念」と身勝手な欲望を「思い」の中から排除して、弛まぬ努力の末に成功を導く、そこには「幸運」も「恵まれている」もない、との立場です。確たる「原因」があるから「結果」が生じているとの法則だけなのです。


◇ 穏やかな心

 最後の項です。「目標」、「ビジョン」と「成功」とは少し離れたところで、「思い」の持ちよう、「穏やかな心」に触れて本は完結しております。この項は、成功哲学と言うよりも、精神状態のあり方が述べられております。

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 (世の中には)自分の人生を苦悩で満たしている人たちが、なんと多いことでしょう。感情を高ぶらせることで、美しいものは愛すべきもののすべてをだいなしにしている人たち、身勝手な思いによって自分の人格的バランスを壊してしまっている人たちの、なんて多いことでしょう。

 穏やかな心は、この上なく美しい知恵の宝石です。人間は穏やかになればなるほど、より大きな成功、より大きな影響力、より大きな権威を手にできます。

 人間は、自分が思いによって創られた存在であることを理解すればするほど、より穏やかになります。なぜならば、その知識は、自分以外のすべての人たちも同じようにして創られた存在であるという認識を、自然にうながすことになるからです。思いと人格ひいては人生との関係を理解し、原因と結果の観点から、あらゆる現象ををより正しく眺められるようになることで、人間は、不平を言い、苛立ち、悩み、悲しむことをやめ、より落ち着いた、より安定した、より穏やかな心の状態を保てるようになります。

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 精神が不安定な人はいます。自分だって心当たりはあります。怒りっぽくて、イライラいしたり、悩んだり、不安がつのったり、弱気になったり、やる気が起きない、そういうことは誰にでもあることだと思います。そうした精神状態はすなわち「思い」でありますので、それが「人格」にも、「環境」にも、「健康」にも、そして「成功」にも影響してくるのですから、「穏やかな心」は豊かな生活には不可欠であ流と言えるでしょう。「原因と結果の法則」は日常における慢性的な「思い」のあり方にもアドバイスを与えてくれているのですね。

穏やかな心 図


◇ あとがき

 イギリスで生まれた本書が、100年以上もの間、印刷、発刊され続け、今なお着実に売れ続けている驚異的なロングセラーである理由を考えました。
 まず第一に、「言われてみればその通りだ!」と言うような、誰もが納得する普遍の法則であるのに、誰もが忘れている教えだからだと思います。個々の人間の「思い」が、個々の人間の「人格」、「環境」、「健康」、そして「成功」を創り上げる、至って単純な発想に、本書の文章に反論の余地はなく、高い説得力がありますが、そのことを理解して生活している人は極めて少ないと思われます。

 誰もが納得する普遍の法則を誰もが忘れている

 第二に、上でも何度か触れました、昨今の「引き寄せの法則」と違って、あくまでも起こっている「結果」に対する「原因と結果の法則」ですので、良いこと悪いことも同等に扱っているところです。いわゆる一般的な「自己啓発」、「成功哲学」の教えでは、「自分を変えることは簡単だ!」、「成功はすぐにも手に入る!」、と言った安易な方法論を語るものが多いです。こうしたものには、楽観主義とコマーシャリズムもあると思います。現実はそんなに甘くはないことを本書は語っており、人生がうまく回っていない人に対して、「原因と結果の法則」は「思い」を修正する教えを説いています。

 「原因と結果の法則」では良いこと悪いことも同等に扱っている
 人生に失敗している人に「思い」を修正する教え


 「原因と結果の法則」、一度は読んでおいて、何かの折りに、いつでもチラとでも、開いて読める、それくらい手元に置きたい、そんな本です。


お知らせ;復旧しました!!


 先日、お知らせしました、当ページから妙なサイトへの移動、専門的には「リダイレクトされる現象」と言うそうですが、これについてFC2ブログに問い合わせる前後に、その現象は起こらなくなりました。FC2ブログより「プラグインが原因のことがあります」とのアドバイスを受け、念のため、ページの左に列挙した「オセロゲーム」や「ブロック崩し」などの、お遊びのプラグインを削除して3日が経過しました。その現象が起こった原因も、その現象が起こらなくなった原因も解りませんが、とりあえず復旧したと考えております。

 たいへんご迷惑、ご心配をおかけしました。お引越しにはならなそうです。



お知らせとお詫び;ブログ画面の切り替わりについて


 先週の金曜日、4月1日より、当ブログに以下の異変が生じております。

 Safariから当ブログを開くと “ Marriage-book.com ” に切り替わる
 Yahooなどで「外科医 アセンション」と検索して開いても同様な現象

 
 Google Chromeで開いた場合は切り替わりは起こりません


 Safariの画面でブックマークから当ページを開きますと約7〜8秒で “ Marriage-book.com ”と言う画面に切り替わります。これは、Yahoo検索画面から「外科医 アセンション」で検索し、筆頭に出てくる当ブログを開いた場合も同じでありました。「元に戻す」操作でブログ画面に戻りますと、今度は3〜4秒と言う速さで“ Marriage-book.com ”に逆戻りです。
 これに対してブラウザをGoogle Chromeに切り替えて登録したブックマークから閲覧しますと、画面の切り替わりは起きませんでした。これは、Google検索画面から「外科医 アセンション」で検索し、筆頭に出てくる当ブログを開いた場合も切り替わりは起きませんでした。

 現在、その原因と対策を究明中で、FC2ブログにも問い合わせている次第です。久高島のレポートが神の怒りに触れたのか?、嫌がらせをされる覚えはありませんし、これで誰が得するのか解りませんが、可能な限り対応して参ります。文章、写真等は全て保管されておりますので、場合によっては、ブログサービスサイトを変更、引っ越しすることも視野に入れます。

 以下の切り替わった画面は当ブログとは一切、関係はありません。こちらのサイトでボタンをクリックするなどの行為は行わないで下さい。

切り替わる画面

 誠にご迷惑をおかけしております。心当たり、対処法などご存知の方はブログの左下にMAIL FORMがございますのでご連絡いただければ幸いです。