アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

記憶によるブロックからの解放、記憶の消去で未来は開ける!


 先日、内輪の会で、あるフリー・ジャーナリスト、高山さん(仮名)の講演を聞きました。内容は、マスメディアは本当のことを報道していず、ともすると民衆を洗脳する道具である、とする最近はやりのものでありましたが、その中で、「本題からは逸れますが、最近、私個人に起こった出来事で、是非とも聞いていただきたいことがあります」と切り出して、30分ほど両親、幼馴染の同級生との和解の話をされました。個人の事情ですし、100%正確な情報ではありませんので、個人の特定を避け、若干のフィクションを加えることを予め申し上げ、その話をご紹介します。


◇ これまでの人生は両親と幼馴染が原因

 フリー・ジャーナリストを自称する高山さん(仮名)と言う人物は、必ずしも順風満帆の人生ではなく、本人曰く「負け組」に含まれる、そんな道のりを歩いて来たとのです。高校受験も大学受験も、両親に反発して、あるいは力不足でありました。大学卒業後は、普通に就職したものの、うまく行かず退職してしまい、アルバイト生活に転じて、概ね人間関係が下手で、異性ともうまくいかない、50歳を過ぎて無職、独身とのことでした。

 うまく行かない人生、50歳を過ぎて無職、独身

 こうした己を振り返り、恵まれない人生は、自分の周りにいた3人の人間、父、母、幼馴染の同級生の男性のせいであると、ずっと頑なに信じてきたとのことです。当然の如く、この3人の人物を恨んでも恨みきれない心境が常にあったと言います。


◇ 学童時から青春時代にかけて

 高山さんは北陸地方の郡部に生まれ育ち、姉が2人いる3人姉弟の長男とのことです。彼の父は、不動産事業に成功して財を成したのですが、時には法に触れるスレスレの行為もあったようで、つい最近になって、高山さん自身が実の父親を脱税で告発したりもしました。その、高山さんの父は、高山さんに対して子供の頃からとても厳しく接したとのことです。とにかく、娯楽を否定して、テレビや漫画はもちろん、外で友達と遊ぶことすら許しません。二言目には学問を強要し、ほとんど毎日のように、夕方、テレビを見ていた高山さんは、父親が帰宅する玄関先の足音を聞いて、二階の自室へと逃げ上がったとのことです。おそらくは、1人しかいない息子をエリートに育て上げ、自分のような成功者にしたかったのかと思われますが、高山さんには、「親の心、子知らず」だったのかも知れません。
 高山さんの母親と言う人は、いわゆる昔の良妻賢母だったようで、高山さんの父、ご主人の教育方針に従順に従い、子供時代の高山さんが勝手に外出すること、友達と遊ぶことを厳しく禁じたと言います。厳しい父から守ってくれるとか、慰めてくれることはなく、高山さんにとっては父の手先となって、高山さんを苦しめる存在でありました。

 厳格な父、父の味方である母

 今から40年ほど前の北国の小さな村、同級生の男子は数人しかいない環境でした。そんな状況で、お金持ちの親が厳格で、友達同士でなかなか遊べない、そんな子供はいじめの対象となり、とりわけその村にいた在日朝鮮人の同級生から数え切れないほどの意地悪をされ、時には暴力も受けたそうです。それなりに上位の成績であった高山さんですが、その在日の同級生と離れたくて、また両親への反発もあって、両親が勧める受験校には進学せず、遠く離れた商業高校に入学しました。

 北国の小さな村で数少ない同級生からのいじめ

 学問に厳しかった両親に反発して、子供の頃からいじめられた在日の同級生が近くの受験校に通うのを尻目に、雪国で1時間も歩いて通う高校時代、高山さんは強いコンプレックスと対人関係の支障が植え付けられたと言います。それは、地元の国立大学に進むことは叶わず、関東の私大へ進学してからも変わりがなかったとのことでした。


◇ 社会人になって

 大学卒業後、都内の報道関係の会社に就職した高山さんは、そこで些細な理不尽なことに我慢がならなかったようです。現在のライフ・ワークとなっているようですが、報道の自由がない、大企業や、時には政府によって報道が規制されてしまう、そんな風潮に嫌気がさしたと言っております。元々、コンプレックスの塊から人間関係が上手ではなく、上司に従うことは両親に束縛された過去を惹起してしまい、安易に退職、脱サラしてしまいました。

 せっかく就職しても安易に退職、脱サラ

 ところが、自分に合った職業に有り付き、自分がやりたいことをやれるほど世の中は甘くはなく、もちろん故郷に帰る気持ちはなく、コンビニのアルバイトをしながら、コピー・ライターをやったりもしていたとのことです。そして、そんな彼の心には、常に父と母と在日の同級生が浮かんで来ては消え、この3人のせいで今の自分がある、自分の人生を狂わせた、父と、母と、同級生と、憎んでも憎みきれない存在と思い続けていました。

 今の自分があるのは父と母と在日の同級生のせい!
 自分の人生を狂わせた、父と、母と、在日の同級生を憎む心


 北国から上京してうまく行かなかった青年が、どこか心に傷を負っており、それが人生をも狂わす構図が伝わって来ました。人の道とは、かくも脆く壊れやすい、いかにも容易に曲がりやすいものであることを感じます。


◇ 少しずつ芽が出て来たつい最近、和解へ

 子供の頃から机に向かわされた高山さんには、様々な調査をしたり、文章を書く能力が備わっていたようです。コピー・ライターの仕事をしながら、ブログを執筆し、さらには単行本を出したりして、主として世のジャーナリズムに対して異論を唱えております。
 取り上げている題材や論評の内容はともかく、つい最近になって、少しずつ芽が出て来たところで、ある人に自分の人生について語る機会を得たそうです。様々なコンプレックスや打ちひしがれた感情、人間関係に上手ではない彼が、ほとんど初めて、苦しい気持ちを打ち明けたとのこと、、、。
 彼が身の上を話した相手は、親身になって彼の話を聞いてくれて、涙も流してくれたそうです。そして、その人が言ったのは「憎むのを止めるべきだ!、和解したらどうだろ?」とのことでした。高山さんは、そういうアドバイスを求めていたのかも知れませんが、とても戸惑い、迷いましたと言っております。

 「憎むのを止めるべきだ!、和解したらどうだろ?」との助言を受け

 果たして、彼は北陸の故郷に実に久しぶりに帰りました。そして、父と母に会って、これまでのトラウマやコンプレックス、人生にうまく行かなかったこと、自分の感情、そして今、少しずつ芽が出てきていることを告げて、まずは謝罪したそうです。そうしたら、父の方から「いや俺の方こそ悪かった!」と頭を下げ、また母も「私も貴方を苦しめてしまって!」と言って、3人で抱き合って泣きました。

 両親と抱き合って泣いて和解

 40年来の憎しみを持っていた両親との和解を果たした彼は、小中学校時代にいじめられた在日朝鮮人の同級生には、会うことはせず電話をしました。久しぶりに故郷に帰ったこと、両親と和解したこと、このまま東京に帰ることを告げて電話を切った彼のもとに、同級生から折り返しの電話が入り、是非とも送らせて欲しいと申し出がありました。30年ぶりに再会したところで、在日の同級生から「あの頃は悪かった」と、謝罪の言葉が出て、2人は高山さんが上京する駅のホームで抱き合って泣いたとのことです。

 いじめられた在日の同級生とも和解

 高山さんは、講演の中で、つい最近のこととして上のエピソードを紹介しましたが、実はある女性が独身である彼に接近しており、もしかしたら上手に交際が始まるかも知れないと言っていました。過去の辛い記憶を振り払うことによって、遅まきながら人生が開けてきているのを今、実感しているとのことでした。


◇ 子供の頃の記憶によるブロックの存在

 スピリチュアルズムの世界では、前世から引き継いだカルマ(業)を払拭するために今世があって、浄化し得なかったものは来世に引き継がれるように言われます。これは魂の継続性と言う考え方に立脚したものだと思います。
 これに対して、子供の頃に受けた記憶がその後の人生におけるある種のブロックとして作用するとの考え方があります。私はこれを「インナー・チャイルド」と言う言葉で表すことが多いのですが、これに対する異論反論はあるようです。何れにしても、人間形成において、最も大きな存在は、普通の場合は親であり、幼少時の家庭環境であります。必ずしも両親や家庭環境のみならず、子供の頃にインプットされた記憶が、その後の人生に生かされる場合とブロックとなって障害となる場合があります。ブロックとして障害となる場合とは、具体的には幼い頃のネガティブな体験が記憶の中からよみがえり、それを実生活で再度、実現してしまうことであります。

 こうした記憶に伴う実生活におけるブロックから解放されるための自己啓発の発想は、河合 政実 氏の「幸せを呼ぶ 自愛メソッド」にわかりやすく記載されておりますので、ここでご紹介いたします。

自愛メソッド表紙 図

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生き方が変わる!

幸せを呼ぶ 自愛メソッド

河合 政実


第四章.自分を愛する

記憶のCDを消去する

 わたしたちの持つ様々なデータが再生することが問題発生の原因となっていますが、わたしたちは言わば「パターン化した記憶のCD」のようなものを持っていると考えると、説明がよりわかりやすいかもしれません。
 子どもの時代のネガティブな体験を元にCDがプレスされて作成されたと考えてみてください。
 たとえば、子どもの時代に親からDVを経験したことがヘビメタ「鉄拳天国」と言うCDを作り、両親の不幸な結婚生活を見てきたことが演歌「悲しい恋の物語」というCDを作り、母親がいつもお金で苦労していたことがジャズ「貧乏人のブルース」というCDを作ったということにいたしましょう。
 これらのCDは、普段は海馬という脳のなかのハードディスクに保存されているのですが、何らかのきっかけで無意識のうちにプレイボタンを押してしまい、再生されるのです。
 ほとんどの場合は、CDの内容が連想されることが起きると、気づかぬうちに再生ボタンを押してしまうのですが、海馬のなかには膨大なデータが保存されているので、何が原因で再生ボタンが押されたのかまったく見当もつかないことも多々あります。
 再生ボタンが押されてしまうと、後は、自動的なメカニズムが働きます。
 たとえば、そこでヘビメタ「鉄拳天国」という曲が自動的に流れるのです。するとあなたはパートナーから怒鳴られ、殴られてしまうのです。
 あるいはそこで、演歌「悲しい恋の物語」という曲が流れるのです。するとあなたは結婚しているにもかかわらず、異性と恋に落ち、辛い思いを日々するのです。
 あるいはそこで、ジャズ「貧乏人のブルース」という曲が流れるのです。するとあなたは収入が激減し、日々の生活に困るようになり、借金に追われるようになるのです。
 ですから、原因は、あなたの暴力的な夫にあるのではありません。あるいは、優しくしてくれないパートナーのせいでもないのです。あるいは、世の中が不景気なせいでもありません。
 無意識のうちにそれらのCDの再生ボタンを押してしまうことに原因があるのです。あなたの “そと“ には原因は何もないのです。
 では、どうしたらいいのでしょう。
 答えは簡単です。
 その「記憶のCD」を消去してしまえばいいのです。
 「記憶のCD」に対して、心の中で「愛しています」と言うことで消去することができるのです。

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 この考え方の根底には、自分の周りに起きるすべてのことは、実は自分自身によって引き起こされているとする「引き寄せの法則」と、自分の中の「記憶」を消去することによって周囲の状況も未来も一変する「ホ・オポノポノ」の思想が流れております。



   Merry Christmas!
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「ある女子高生の事故死が東北大病院を変えた」とする記事から


 救命救急医療の現場を垣間見る、本日の、ある記事を見つけましたので、供覧、ご紹介し、私見を申したいと存じます。それは1999年6月23日の出来事から、、、。

救急救命の碑の記事

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女子高生の死 反省胸に

救命救急の碑(2004年)

 東北大病院の正門前にそびえる高さ約3メートルの救命救急の碑。元病院長の山田章吾(67)は碑を建てるきっかけになった16年前の事故を一日たりとも忘れたことはない。

 1999年6月23日午後6時35分頃、病院正門前の歩道で自転車に乗っていた宮城一女高(現・宮城一高)2年の女子生徒(当時16歳)がバランスを崩して車道に倒れ、後ろからきた市バスにひかれた。「痛いよ」。苦渋の表情を浮かべていた。
 居合わせた誰もが、目の前にある東北最大の医療機関に搬送されると思った。ところが、女子生徒を乗せた救急車が向かったのは、約3キロ離れた別の病院だった。当時、東北大病院に救急部はあったが、現在の高度救命救急センターのように常時患者を受け入れていなかった。診療は夜間や休日に限られていた。
 研究第一主義を掲げ、不測の患者に対応する救急医療は研究の妨げになる。そんな意識が大学側にあったのかもしれない。女子生徒は約3時間後、息を引き取った。

 「行ってきます」。朝、いつものように元気に家を出た娘がベッドで人工呼吸を受けていた。女子生徒の母(59)は搬送先の病院に駆けつけた瞬間、腰から崩れ落ちた。娘の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 新体操部の練習が終わり帰宅すると、リビングで片方の足を持ち上げて、クルクルと回った。「見て見て」。愛くるしい姿を父(61)は今も忘れられない。
 「目の前の大病院に運んでくれれば、娘は助かったのではないか」。そんな思いが、母の頭を行ったり来たりした。夫とともに精神科に通い、安定剤をのんだ。

 どん底にあった家族を救ってくれたのは、事故現場に供えられた花だった。

女子生徒が亡くなった現場の花
女子生徒が亡くなった現場には今も花が供えられている(8日)

 事故から4年後の2003年、両親は東北大病院に呼ばれた。病院長室で「助けてあげられず、申し訳ありませんでした」と頭を下げたのは、その前年に病院長に就任していた山田だった。山田を含めた3人の目から涙があふれ出た。
 山田が病院長になって最優先課題としたのは救急医療の充実だった。専門はがんの放射線治療で門外漢だったが、事故現場に絶えることなく手向けられる花を見て、碑を建てることに決めた。
 04年4月の除幕式で、山田は「救急医療に対する東北大病院の決意を示すものだ」と述べた。「目の前で倒れた人に手を差し伸べることができなかった。ここで医療に携わる者は、その反省をずっと胸にとどめてほしい」と願いを込めた。

救命救急の碑の前に立つ山田さん
救命救急の碑の前に立つ山田さん。「患者を第一に考える医療を続けてほしい」と後輩たちに注文した(8日、仙台市で)

 06年、院内に開設された高度救命救急センターには、東日本大震災の際、80人を超える患者がヘリで搬送されるなど、多くの命を救った。女子生徒が生きた年月と同じ16年が過ぎ、母は言う。「そのきっかけを作ったのは娘だった。今はこう自らを納得させているんです。娘は、このために生まれてくれたんだなって」             

 高度救命救急センター:救急患者を24時間体制で診療する。通常の救急救命センターでは治療が難しい、広範囲のやけどや指の切断、急性薬物中毒など重症患者にも対応する。専任医師は約30人。専用ベッドが20床以上あり、屋上にヘリポートを備える。

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 私は東北大学ではありませんが、1999年当時は、米国留学から大学病院に帰って来て間もない頃で、確かに日本の、とりわけ地方の大学病院で救命救急医療は激しく遅れておりました。私の大学も救急部はありましたが、そこの専任の医師は1人のみで、各科から交代で当直医を出しており、救急部の当直と言えば、まったく何も来ない「寝当直」でありました。救急部があることを知ってか知らずか?、救急隊は大学病院にはまったく目もくれない、と言う状況でした。それこそ、私のいた大学病院も、目の前で事故に遭われた患者が搬送されることは無かったと思います。
 記事の中に「研究第一主義を掲げ、不測の患者に対応する救急医療は研究の妨げになる」との文章がありますが、研究とかその妨げとか言う以前に、救急医療を専門とする医師が大学にはほとんどいなかったと言うのが本当のところです。救急をやる体制でもなかったと言うのも否めません。例えば緊急のCTを撮る場合にいちいち放射線科に頼診券でコンサルトを立てなければいけないとか、緊急内視鏡をするにしても光学診療部所属の医師、看護師でなければ内視鏡に触ることはできないなどと、大凡、緊急でなにかをするには向かない煩雑なシステムが大学にはありました。
 現在は、ほとんどの大学病院が救命救急医療に力を入れておりますし、そうした分野に身を投ずる医師が増加しております。事故や銃に伴う外傷が少ない本邦においても、遅まきながら、救命救急医療に対する学問が確立されつつあると思います。この傾向は東北大病院に限ったものではない、全国的な流れとなっております。

 1つ大きな問題をご紹介しますと、救命救急部を兼ね備えた大学病院や大病院以外の、中規模の病院で救急をうたっている施設が少なくありません。救急車をタクシー代わりに使う軽症なケースもありますが、多くの救急車はそのまま入院につながりますので、病院の収益になります。それゆえ、設備が整っていず、心臓血管外科や脳外科、救命救急などの専門医がいないにも関わらず、救急車は全例、受けるように厳しくしている病院があります。
 毎月、「救急車受け入れ率」と言うのが算出されて、限りなく100%に近づくよう心がけて、それでいて、その内情は受けた患者に適切な診療はできずに他所へ紹介したり、ひどい時は受け入れだけして、手に負えないからそのまま転送となったりします。そういうのを「救急隊のたらい回し」などと言って、現在でも大きな問題となっております。これもお恥ずかしい、医療の歪みであります。

◆ スピリチュアル株式投資:上場来最高の出来高にどこまで行くのか? 休火山銘柄、カイオム・バイオ [4583-TM]


 久しぶりに株式投資ネタですが、一つまさに今ホットな情報をご提供します。以前も取り上げたことがありますカイオム・バイオサイエンス(4583-TM)です。2011年11月の上場で、医薬品候補抗体導出と技術供与が収益源とする、独自の抗体作製技術を持つ理研発の創薬ベンチャー企業であります。未来に夢を託すバイオ銘柄ですので、上場来3度の、5000円どころにまで達する巨大噴火がありましたが、最近は業績不信に伴い、2014年の爆発以来、株価は長期低下傾向にありました。
 ところが、先週の12月10日より、出来高を伴う突然の急騰、4日連続の上げで、本日は終値903円と今回の爆発では2度目のストップ高となりました。

カイオム日足チャート

 今回の急騰は、カイオム・バイオサアイエンス社より12月9日引け後、同社が開発を進めるTrop-2抗体に関する特許について、日本における特許付与の通知決定通知を受領したとの発表があって始まりました。この抗体は、疾患モデル動物を用いた試験により顕著な抗がん活性を示すことが確認されており、国内外の製薬企業などに対して導出活動を行っていて、すでに米国、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアで特許が成立しています。
 非常に潜在能力のあるバイオ企業ですので、これまでも何か報道がある度にピョンピョンと短期的に吹き上げることはありました。で速やかな利益確定の売りで急騰は終息に終わっておりました。今回もその可能性は十分にあるので警戒が必要ではあります。

 しかしながら、以下に示します過去5年間の月足チャートを見ると解りますが、今回の上げは、上場来最高の月間出来高を伴っております。まだ今月は月の半ばですので、たった半月で、今までで最も出来高が膨らんだかたちになっております。これは、2013年の2回と2014年初頭の過去3回の大爆発、5000円どころに到達したどの月よりも多い、空前絶後の賑わいであります。

カイオム月足チャート

 株式投資はあくまでも自己責任でお願いしますが、とんでもないことが起こるそんな予感がするこの銘柄の昨今でありました。

日本プロ野球 40歳代 投手 先発対決


 アスリートのスピリッツ、連続投稿となります。私は、毎日、必ず横浜DeNAベイスターズの記事をチェックするのですが、昨日は三浦 大輔 投手の意気込みが記事となっておりました。

三浦40歳代先発対決に意欲の記事

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三浦“マサ道”引き継ぐ 広島・黒田と40歳代対決にも意欲

 DeNAの三浦大輔投手(41)が、50歳で現役を引退した中日・山本昌投手の道を引き継ぐ決意を示した。この日、横浜市内のホテルでクリスマスパーティーを開き、ファンと交流した三浦は「工藤さん、昌さんの2人が野球は年齢ではないという道をつくってくれた。一年一年、その道を太くしたいと思っている」と語った。

Xmasの三浦自撮り

 来季は現役最年長選手となる右腕は25日に42歳になるが「2桁勝てると思うし、自信もある」と09年以来の大台を見据える。さらに、来年2月に41歳となる広島・黒田との先発対決についても「巡り合わせはあるけど、頑張っていればね」と語った。実現すれば07年7月7日(広島)以来で、40歳代投手の先発対決は過去4度しかない。

 今永(駒大)、熊原(仙台大)と即戦力投手の加入で競争は激化するが「高いレベルで競って優勝したい」と25年目となるシーズンを見据えた。

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 この中で、「40歳代投手の先発対決は過去4度」とされております。今回は、横浜DeNAや三浦 大輔 投手とは別に、これまでの「40歳代投手の先発対決」を調べましたのでご紹介いたします。


◇ 1950年11月05日 西宮球場 浜崎 真二(48歳10ヶ月、阪急)vs 湯浅 禎夫(48歳1ヶ月、毎日)

 「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」、本邦における第1例目は、1950年110月5日、西宮球場における阪急ブレーブス 対 毎日オリオンズ20回戦のペナント・レース公式戦において実現しました。浜崎 真二(48歳10ヶ月、阪急、写真左)vs 湯浅 禎夫(48歳1ヶ月、毎日、写真右)の対戦であります。ただ、これはシーズン最後の公式戦で、阪急、毎日ともに監督がファンサービスで先発登板したものでありました。試合は故 浜崎 氏が2回8安打3失点で負け投手となりました。対戦相手の、故 湯浅 氏は2安打2失点で4回で降板しましたが、実は、アマチュア選手としての経験は豊富なものの、この年、1950年、毎日オリオンズのパ・リーグ参加、球団結成に際して、総監督兼任投手として就任し、この試合がプロ野球における唯一の出場機会でありました。

浜崎選手と湯浅選手 写真

 もう少し付け加えますと、故 浜崎 真二 氏(1901年12月10日-1981年05月06日、享年79歳)は、広島県出身で阪急ブレーブスに在籍した投手兼任監督でありました。1950年05月07日の登板で、48歳4ヶ月で勝利投手となり、タイトルにあります1950年11月05日の48歳10ヶ月に最終登板を果たしました。この日本プロ野球史上最年長勝利記録と日本プロ野球史上最年長出場記録は、いずれも昨年、2014年09月05日、中日の山本 昌 投手(49歳0ヶ月)が先発登板して勝利をあげるまで、64年間にわたり破られることがなかった記録でありました。


◇ 2005年09月09日 東京ドーム 工藤 公康(42歳4ヶ月、巨人)vs山本 昌(40歳、中日)

 55年ぶりに実現した「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」は、最多勝を狙う巨人、工藤 公康 投手(写真左)が6回3安打無四球無失点で11勝目をあげたのに対し、中日、山本 昌 投手(写真右)は1回3分の0、28球でのノックアウト降板となりました。

工藤左と0山本1


◇ 2006年06月24日 ナゴヤドーム 山本 昌(41歳8ヶ月、中日)vs工藤 公康(43歳1ヶ月、巨人)

 プロ野球史上、3度目の「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」は2年連続で同じ対決が2006年06月24日、ナゴヤドームにて実現しました。工藤投手が好投して、山本投手がノックアウトされた前回とは逆に、今回は、巨人、工藤投手は2回、満塁弾を浴びるなど5失点KO、山本投手は巨人打線を3回までノーヒット、5回4失点とまあまあ試合を作りました。

山本昌と工藤公康 写真


◇ 2010年08月07日 ナゴヤドーム 山本 昌(44歳11ヶ月、中日)vs 下柳 剛(42歳2ヶ月、阪神)

 「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」に3度も顔を出すのは山本 昌 投手(中日)ですが、もちろんそれは相手があってのことであり、2010年08月07日の対戦相手は阪神の下柳 剛 投手でありました。下柳 投手が4回4失点で降板したのに対し、山本 投手は6回1失点で勝利投手となっております。

山本と下柳 写真


◇ あとがき

 上で申した通り、「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」は相手投手がいることなので、狙ってできる記録、出来事ではありません。一方で、1950年の試合のように、意図的なファンサービスでも実現するものであります。
 ただ、投手ではありませんが、王 貞治 氏は30本塁打を打ちながら40歳でバットを置きました。村田 兆治 投手は10勝をあげた40歳で引退しております。400勝をあげた金田 正一 投手は40歳までは現役を続けられませんでした(36歳引退)。歴代2位の350勝をあげた米田 哲也 投手は39歳で引退しております。人生の、どの年齢をターニング・ポイントにするかは、業種により、職業により異なるところですが、プロ野球投手、とりわけ先発投手に限って考えた時、40歳という年齢は大きな節目であり、これを超えて先発マウンドを務めることは至難の技と言わざるを得ません。
 そういう年齢に達した投手が、同じように40歳代で頑張っている投手に対して意識しないはずはなく、来年のプロ野球においては、ついに、現役選手の最年長となった横浜DeNA、三浦 大輔 投手と、広島の黒田 博樹 投手の間で可能性があります。歴史の1ページ、その実現に期待する次第です。

三浦投手と黒田投手

浅田 真央 選手、技術的復活と上の段階に向かう苦しい階段を楽しめるようになれば道は開ける!


 フィギュアスケート男子、20歳の 羽生 結弦 選手が2週間前のNHK杯にに引き続き、さらなる史上最高得点(330.43)で、男子としては初の3連覇を達成し、日本の 宇野 昌磨 選手(17歳)はシニアのグランプリファイナルは初出場でいきなりの3位でありました。女子はこれまたグランプリ・ファイナル初出場のロシア、エフゲーニャ・メドベージェワ 選手(16歳)が優勝、2位には日本の 宮原 知子 選手(17歳)、3位はロシアのエレーナ・ラジオノワ選手(16歳)と、若手の台頭が目立ちました。これに対して25歳の 浅田 真央 選手 は最下位の6位、胃腸炎でエキシビジョンには出場せずに帰国となりました。さぞ、がっかりしていることと思います。

浅田真央、GPファイナルから帰国のニュース

 ともすると、世代交代を肌で感じ、自分の時代は終わったのではないか?、もう復活は難しいのでは?、次のオリンピックを目指すのは無理なのでは?、などとの感情が湧き出てきて、演技の前の緊張感が集中力に変えられず、不安感が募り、失敗をすることが頭をよぎって、その失敗を引き寄せてしまっている、そんな状況ではないことを祈るばかりです。

 世代交代?、時代の終わり?、限界?など様々な不安
 失敗が頭をよぎり失敗を引き寄せて


 本人が気付いているかどうか?、1年間の充電期間をおいて、現役復帰を決めて練習に取り組むようになってからまだ半年かそこらだと思います。元の勘を取り戻すのみならず、以前よりも難しいプログラムに挑戦していて、それ簡単に成功してしまう方がおかしいと言えます。そんなにアスリートの道は簡単ではないと言うことです。たぶん本人も分かっていると思います。

 まだ復帰を決めてから半年ちょっと!
 そんなに簡単なことではないことを本人も知っているはず


 現代のフィギュアスケートの選手としては年長の方だとしても、あらゆるスポーツのアスリートからすれば、そもそも、浅田 真央 さんの25歳と言う年齢はまだまだ若いと言えます。また、人生に目を転じた時、25歳と言う年齢は平均寿命の3分の1にも満たない年齢です。

 技術的な復活と、さらなる上の段階に向かうにあたり、苦しい階段を登っているのは間違いないところですが、そこをむしろ楽しんめるようになれば必ず道は開けると思います。そして、それを成し得た時、アスリートとして、人間としてさらなる成長があるでしょう。

外科医が「お祓(はら)い」をする時


 変なタイトルで恐縮しますが、「外科医がお祓(はら)いをする時」、読んで字のごとくです。私は、日常の診療から、しばしば「お祓い」をしたい心境になります。
 先日、女子アナウンサーの故 黒木 奈々 さん著、「未来のことは未来の私にまかせよう」をご紹介しましたが、彼女は本文の中でステージIIIと告白しています。5年生存率は50%くらいです。ですから生命予後としては五分五分だったわけですが、まさか手術から1年で他界するとは、本人は当然として、主治医も夢にも思っていなかった、すなわち悪夢だと思います。
 熟練したドクターであればあるほど、そうした症例に出会った時、「お祓い」が脳裏をかすめるのであると今、思います。この「お祓い」について、折に触れ、風水のカテゴリーで取り上げて行きたいと思います。


◇「祓(はらえ、はらい)」とは?

 「祓(はらえ、はらい)」は、神道における宗教行為であり、天津罪、国津罪などの罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くための神事、呪術とされます。一般に、神前での祈祷を、災厄除けの祈祷(本来の意味の「祓」)以外のものも含めて「お祓い」と言います。また、神社が頒布する災厄除けの神札も「お祓い」と呼ばれます。
 「祓」の意義は、神をお迎えして交流するための準備として、罪穢れのない清浄な空間を作りあげるとされます。そして、罪穢れについては、神事に臨む個人のものだけではなく、この世界のあらゆる罪穢れを徹底的に祓い浄め、「明(あか)き浄(きよ)き正しき直き」境地を求める、神道の根本思想に関わる姿勢とされます。


◇ 外科医が「お祓(はら)い」をする動機

 話を戻して、外科医がどんな時に「お祓い」をするか?、少なくともどんな時にそういう気分になるか?、と言いますと、それは医者としての年月によって違ってくると思います。

1.外科医として10年目くらいまで

 若い頃は、己の技術に自信がなく、術後の経過に影響を及ぼす因子のうち、自分の未熟さこそが最も大きな悪い要素に感じることはしばしばです。そういう感覚があるから、自分が執刀した症例は特別に思えるし、心配ですし、そして過剰な診療をしがちです。これは若い外科医であれば当然の発想であり、行動です。そういう年代においては、うまく行かない症例が続くと、まずは自分の未熟さに対する「お祓い」になります。ジンクスなんかも大切にする時期でもありますね。朝ごはんに特定のものを食べると良い手術ができる!、とかです。
 
2.少し熟練してくると

 ある程度、熟練してきて、逆を言えば成長が止まった時に、起こった出来事を「運、不運」で考えることがあります。これはあらゆる職種の人に共通しているかと存じますが、「最近、ついてないな〜!」って発想です。己の運気の低迷を感じてしまう発想で、患者に思わぬ合併症が起ったり、予期せぬがんの再発や転機を取った場合など、これは外科医にだってあります。
 こうした時、他の職種の人と同じように、外科医は自分の身に降りかかってくる不運を「祓う」気持ちになるのです。患者に降りかかった不幸なのに、自分の不運のように感じてしまうんですね。

3.歳をとって客観的な視点に立った時

 外科医は、ある時から、自分の技術も、その結果として起こる患者の状態も、客観的な目で見るようになります。いつも同じ技術を提供しており、その結果として起こることは、自分の運、不運ではなく、患者に備わった運気に寄るように思えてくるのです。あらゆる外科医がそうだとは言えませんが、私はそうでした。
 こうした年代になると、「外科医がお祓(はら)いをする時」は、当然のごとく、患者の経過がうまく行かない時ではありますが、それは自分の技術や運、不運ではなく、患者の運気を憂う気持ちが主な動機となるわけです。


◇ 外科医として「お祓(はら)い」をしてきて

 実は結構な回数、診療に基づいた「お祓い」をしてきました。その時、その時で「お祓い」をする動機が変わって来たことは上で申し上げた通りです。発見された時には切除不能で、緩和ケアしかしてあげられず、涙に暮れながら死を迎える患者、、、。若くしてがんに罹り、根治手術を行ったのに早く再発して、再手術では切除不能、、、。たまにお会いするこうした患者に対して、自分のことよりも、その患者の運気を念頭に「お祓い」をするのが正しいあり方と思う今日この頃です。