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アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

母と娘の再出発 ~ 摂食障害 乗り越えて(4・完)「父親不在」の育児、女同士疲弊


 第4話は、ここまで取り上げてきた母と娘の関係に基づく摂食障害の総括、発症のメカニズムと、治療の方法論を解説しております。必ずしも女性だけの病気ではなく、男性でも女性の約4、5分の1くらいの頻度で発症するようですし、母娘の関係だけがこの疾患の発生機序ではありません。しかしながら、母と娘の関係にのみ焦点を絞ることで、自分たちの「母娘関係」を振り返るきかっけとなる、そんな母娘もいるかと存じます。

静岡新聞 こち女ニュース

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 過食嘔吐(おうと)をやめられない娘は母に不安やいら立ちをぶつけ、母は娘の言いなりになる。「家庭という密室で、私たちは共依存の悪循環に陥っていた」。摂食障害者の親の自助グループぬくもり(静岡市)の水谷澄子代表(64、仮名)は、約10年前までの三女(35)との関係をそう振り返る。

 母との関係や母の生き方にわだかまりを抱え、摂食障害を発症したと語る娘たちと、自責の念にさいなまれ「私が何とかしなければ」と奔走する母たち。一昔前まで、摂食障害は母子関係のゆがみが原因とされたが、現在は否定されつつある。
 住吉病院(甲府市)の大河原昌夫副院長によると、本人の性格、学校や職場のストレス、家族関係のもつれなど、さまざまな要因が重なった時、苦しさを表現する手段の一つとして発症する。その9割以上が女性。食糧が不足する地域で発症は見られないため“やせ”をたたえる社会的価値観が大きく影響しているとされる。
 それでもなお、この病気の背後に“母娘”の葛藤が浮かび上がるのはなぜか。日本摂食障害学会評議員の中村このゆ追手門学院大教授(臨床心理士)は「母娘問題の本質は、母個人だけでなく母を取り巻く社会構造にもある」と指摘する。高度経済成長期以降、家族は“女は子育て、男は仕事”という役割に縛られてきた。女性は家庭を優先するよう求められ、結婚や出産時には仕事の継続などあらゆる選択を迫られる。母の不満は、同性である娘に伝わりやすい傾向がある。娘は母から「女性はどうあるべきか」を学び、そこに共感や息苦しさといったさまざまな感情を抱く。
 娘の治癒を求めて医師のもとを訪れるのも自助グループに参加するのも、大半が母親。「医療者には母の心理的な問題が目につきやすい。カウンセリングをすると母自身に、夫や両親、義父母との葛藤が潜んでいることが多い」と中村教授。まず母親が落ち着き、娘との密着関係を解くことが回復への一歩という。その上で「父親の治療参加が回復を早める」と話す。
 病の背景を問わず当事者に共通することとして、中村教授は「複数の要因が掛け合わさって発症する代わりに、一つでも要因をゼロに近づければ症状は治まる」と説く。当事者の根底にあるのは「私なんてだめだ」と自己を否定する怒りの感情。怒りが暴力などの形で外へ向かわなければ、拒食や過食の方法で自らの体を攻撃する。怒りを解きほぐすと、大抵は“悲しみ”にたどり着くという。「本人の悲しみやつらさを受け止め、共感する誰かが必要」。家族だけでなく、医師やカウンセラー、自助グループの仲間といった第三者が支えになる場合もあれば、信頼できるパートナーとの出会いが転機になることもある。

 三女の発症から10年余り。水谷代表は「このままでは一家心中してしまう」と1人で専門病院に駆け込んだ。「お母さんも鬱(うつ)の手前」。医師に告げられ、娘ばかりを治そうとしていた“ベクトル”を初めて自分に向けたことが、親子が快方に向かう一つのきっかけとなった。水谷代表は、かつての自分のように疲弊していく母親を何人も見てきた。しかし家族が疲弊するほど回復は遠のく。

 家族一人ひとりが“生きづらさ”を語り合い、ありのままを受け入れ、それぞれが新しい生き方をつかんで“楽”になる。「回復とは、その過程だと知ってほしい」と訴える。

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母と娘の再出発 ~ 摂食障害 乗り越えて(3)厳しい家庭、“生きづらさ”連鎖


 第3話は、またも母親の厳しさが娘に影響したケースです。ただ、育児に疲れた第1話の母親とは異なり、このケースの母親は離婚したことで、子供を育てることに強い責任感を持っていたようです。

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 静岡市の保育士由香(32、仮名)が摂食障害を発症した引き金は「自信を持つために始めたダイエット」。当時中学2年。同級生から「デブ」とからかわれていた。拒食はエスカレートし数カ月後、過食嘔吐(おうと)に移った。高校1年のころ、“食べ吐き”が「心の中にある空洞を埋める作業」にすり替わっていることに気付いた。その“空洞”は何か。精神科に通ったり文献を読みあさったりするうちに「人に褒められたい、認められたい」という欲求が満たされていないことが原因と考え始めた。

 家庭の中で、父の存在感は薄かった。高校1年の時に両親は離婚。順調に人生を歩む兄には劣等感を抱いていた。母の陽子(62、仮名)はこの世で最も「自分の存在価値を認めてほしい人」だった。その母は、風邪をひいても学校を休ませない。テストで90点を取っても褒めてくれないのに、平均点以下だと怒鳴られた。由香の誕生日プレゼントは、母の好みで選ばれた。「大人の都合で我慢させられるか、よその子と比較されるか。どちらかの記憶しかない」母に対しても友人に対しても「どうすれば好かれるのか」と、相手の顔色や声音ばかり気にするようになった。「自分を押し殺した生活がたぶん、摂食障害という形で爆発した」と、由香は語る。

厳しい母親 写真

 一方、陽子は過食嘔吐をする娘の「悪魔のような姿」に途方に暮れ、その「無意味」な行動に腹を立てていた。やめさせようとすれば、由香は自傷に走った。「摂食障害は不安定な心の現れ」と受け止められるようになったのはここ数年だ。
 陽子自身も厳しい家庭で育ち「遊ぶことや楽しむことに罪悪感がつきまとう人生」を歩んできた。由香を「人前に出しても恥ずかしくない子」にしつけようとした。娘の心に積み重なる不満に気付かず、結果として自分が親から押しつけられた“生きづらさ”を、娘にも引き継がせてしまった―。そんな自責の念がぬぐえない。

 離れて気付いた親の愛

 由香は母との暮らしに行き詰まった29歳の時、ワーキングホリデーでカナダへ飛び、保育士資格を生かしてベビーシッターをした。勤務先で、がんを患いながらも我が子を一番に気遣う母親の姿を見て、ふと「母にもこんな時があったのかな」との思いがよぎった。短大を出ても安定した職に就けなかった由香に、母は経済的に援助をしてくれた。感謝の気持ちが芽生えた。
 帰国後の2014年4月、保育園に就職した。過食嘔吐は20歳の頃から辛うじて抑えられている。しかし今も胃腸が弱く、固形物を控えるなど、食事の内容や時間に気を使う。それでも摂食障害になったことで、陽子とは深い心の内を見せ合い、生き方について本気で意見を交わす仲になった。陽子は最近「もっと楽しんで生きることが私にも必要」と口にする。週1回、喫茶店で会う父は、家庭にいた頃とは別人のようによく笑い、よくしゃべる。そんな両親の変化は、由香に「緊張し続けていた心を解きほぐすような安心感」を与えた。

 過食嘔吐に代わって心の“空洞”を満たすすべは、いまだに見つからない。人から物をプレゼントされるなど、目に見える形で与えられることでしか満足できない。ただ、いらつきや悲しみといった感情は一定のところで抑えられるようになった。「まだまだうまくは生きられないけど、人生の乗り越え方が見えてきた」と感じる。

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 「風邪をひいても学校を休ませない。テストで90点を取っても褒めてくれないのに、平均点以下だと怒鳴る」、そんな親に対して、“食べ吐き”が「心の中にある空洞を埋める作業」にすり替わっていった様子が描写されております。ここでも、ヒルデ・ブルック氏が言う、学童時からの底知れぬ自尊心の欠如を抱えて、親の極めて侵入的な介入を受け続けた様子が伺われます。


母と娘の再出発 ~ 摂食障害 乗り越えて(2)家事育児…理想の姿追いかけ


 第2話は、普通の家庭のように見えますが、ある意味で完璧な母親を見て育った娘の摂食障害であります。その発病のきっかけは、ちょっとした胃腸炎に端を発したものだったようです。


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 両親は惜しみない愛情を注いでくれる。望み通りの進学校に入学した。友人にも恵まれ、私の人生は順風満帆―。そう信じて疑わなかった高校2年の夏。静岡県中部の自営業香苗(51、仮名)は摂食障害になった。

 その夏、香苗は下痢に見舞われた。数日間食べられずにいたら、体重が減った。うれしかった。「もっと食べなければもっと痩せる」。体重が戻る恐怖から、体調が回復しても、食べる量を抑え続けた。次第に何を、いつ、どれだけ食べればいいのか分からなくなった。
 身の異変に戸惑いながら、1年後には過食と拒食を繰り返すようになった。家族が寝静まって台所にあるおかずや菓子を食べ始めると、腹が膨れて苦しくなるまで止まらない。我に返ると自己嫌悪にさいなまれ、その後数日間は食事を控える。そんな生活が大学に入ってからも続いた。
 大学を卒業後、念願の教職に就き、結婚。2人目を出産後、仕事と育児の両立に限界を感じて退職した。そのとき頭をよぎったのは母の姿。祝い事など人が集う時、母は懐石料理のようなごちそうを並べた。香苗が中学生になるまで、洋服も全て手作り。保護者会や町内会の活動も手を抜かない。不平不満は口にせず、いつも誰かのために夜中まで作業をした。だから香苗も、家事や育児をおろそかにしたくなかった。

母親の家事

 3人目を産んで数年後、義母が入院し、義父が同居した。1番上の長女瑠衣(24、仮名)は小学校に上がったばかり。育児に介護に手いっぱいでも、香苗は付き合いで「行事の幹事をやって」と頼まれれば断れず、夜中までパソコンに向かった。子育てに忙しくなってから自然と、摂食障害の症状は治まった。ただ、なぜ食事をコントロールできない事態が起きたのか、分からないままだった。

 憧れ、苦しみ 心にひずみ

 疑問が解けたのは40代前半。きっかけは70歳を過ぎた母の死だ。「お母さんは100年分の人生を生きた」。葬儀に集った母の親族や友人が口々にそう涙した。香苗は母に問うた。「いつも笑っていたけど、本当はつらい時もあったんじゃない?」「もっと自分のために人生を楽しむ方法があったのでは?」
 香苗は、母という女性を理想とし、母と同じ道をたどってきたことに気付く。周りの期待に応えようと動く自分に逆らえず、「いつも元気ね」と言われながら気を張って生きてきた。「心は悲鳴を上げているのに頑張りすぎたひずみが、摂食障害となって現れた」。そんな気がした。
 母の死からしばらくして、大学生だった長女瑠衣が拒食になり、過食嘔吐(おうと)に移った。几帳面だった瑠衣は、発症前から急にだらしなくなった。まるで香苗に「こんな風に適当でも生活できるんだよ」と訴え掛けるかのように。
 「母と私。私と娘。程度の違いはあれど、似ている気がする」。摂食障害が何らかのひずみを現すサインなら、瑠衣にとって必要。そう捉える半面、通院や本人の意思で治る病気ではないと知る香苗にとって、先の見えない不安な日々だ。

 香苗は摂食障害になってから、別の部屋で寝ていた両親が「川の字」に寄り添ってくれたことを思い出す。「両親がしてくれたように、娘がつらいときにはいつでも支える。安心できる家庭でありたい」。そう心に誓いながら「誰かに倣うのでなく、娘にとって心地のいい生き方を見つけ、楽になってほしい」と願う。

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 必要以上に(?)完璧に家事をこなす母親を見て、気後れをする娘が摂食障害になって、その娘が大人になって、やはり母親のような仕事ぶりをするようになったら、その娘にも摂食障害が発生したケースのようです。でも、この女性は、カウンセリングなどなしに、自分の母親から始まって、自分とその娘に及ぶ悪循環に気がついたようです。

母と娘の再出発 ~ 摂食障害 乗り越えて(1)「私を見て。気遣って」心の叫び


 ネットを観ていて、思わぬ心を動かされる記事に出会いました。「静岡新聞 SBS」の「こち女ニュース」と言う欄で、摂食障害を乗り越えた母娘のお話です。4家族、4話に渡る連載ですが、いずれのケースも母親と娘の関係が摂食障害の原因となっております。全文で供覧いたします。第1話は、子供の頃に母親から言われた言葉が発端となったお話です。

静岡新聞 こち女ニュース


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 女性が発症者の9割以上を占める摂食障害。その原因は複雑でさまざまだが、中でも母との関係や母の生き方にわだかまりを募らせた結果、摂食障害になった―と受け止める娘が後を絶たない。生きづらさを抱えた娘と母たちの「生き直し」ともいえる回復の道のりをたどり、家族の在り方を考える。

 食パン1斤にカツ丼、ラーメン、ポテトチップス、アイスクリーム1リットル、コーラ2リットル…。日々メニューは違うが、自室で食べては吐いてを繰り返し、およそ3人前を平らげる。静岡県西部の事務職聡美(51、仮名)は15年ぐらい前まで毎晩、その作業に4時間を費やしていた。
 発端は24歳で始めたダイエット。食事制限に加えて、毎日立ち仕事の後にプールで2キロ泳ぎ、休日は町内を5キロ以上走った。美しくなりたかったわけではない。周りから「きれいになったね」と褒められたかった。「あと1キロやせよう」。浮き浮きした気分で続けると、体重は8カ月で12キロ落ち、42キロに。生理は止まった。30キロを切ると動けなくなった。入院して体重を戻すうちに、拒食から過食嘔吐(おうと)に切り替わった。1、2年たったころ、摂食障害の体験談を読みながら、なぜ発症したのか自問する中で確信を持った。「母親のせいだ!」。怒りがこみ上げた。

母親の「嫌い」発言

 3歳の夏だった。レースのカーテンが揺れ、陽光が差し込むリビング。隣には1歳の妹がいた。いら立った様子の母が、聡美に向かって言い放った。「おまえなんか大嫌い」―。聡美にとって「時計が止まった」瞬間。幼心に「母に見捨てられたら生きていけない。“いい子”で生きよう」と決意した。

 「いい子」演じ続け限界

 以来、母に甘えた記憶はない。家庭では、仲の悪い両親の間を取り持つ「ピエロ」や、妹を守る役に徹した。友人の前でも嫌われたくない一心から、相手の顔色をうかがいながら発言を変える「カメレオン」だった。
 40歳を過ぎたころ、相性の合うカウンセラーに巡り会い、3歳の出来事を初めて人に打ち明けた。「それはあなたが悪かったからじゃない」と言われてようやく、深い傷が癒える思いがした。母にぶつけられなかった怒りを、2年間にわたってカウンセラーに吐き出し、「もういい」と許せた。「母には初めての子だった。ヒステリーになったのも仕方ない」。わだかまりは解けていった。
 カウンセリングを終えるまで「カメレオン」のように人に合わせる生き方が息苦しいことにさえ、気付いていなかった。「“いい子”を演じるなんてもうできないと、自分自身が叫び声を上げたのが24歳の時」。聡美はそう考えている。
 やせ細る娘を、母は心配した。聡美はうれしかった。甘えられなかった時間を取り戻すかのように、拒食や過食嘔吐を通して「私を見て。私を気遣って」と母に訴えていたのだった。聡美は「もし摂食障害にならなければ、自死を選んでいたかもしれない」という。摂食障害は、自身を守る手段だった。

 独身で、両親と一緒に暮らしている。「母が望むような人でいなければ」。長年、聡美が自らの心を縛り続けた鎖はほどけ、母の意見を過度に真に受けたり反発したりすることはなくなった。「母は母、私は私」。聡美は自分がようやく自立できたのだと思う。発症から27年。今も月に1回程度、食べ過ぎて吐くことがある。摂食障害の症状を引きずってはいるが、もう「障害」ではない。

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 摂食障害の心理学的研究に取り組み、その病態と治療に大きく貢献したのが、ドイツ生まれの米国の精神科医、ヒルデ・ブルック(1904年3月11日 - 1984年12月15日)であります。ブルック氏の報告によりますと、摂食障害の中核群である拒食症患者は、学童時からの底知れぬ自尊心の欠如を抱えており、両親の極めて侵入的な介入を受け続けたとされます。患者のほとんどは両親を喜ばせることと両親の期待に応えることを命題として生きてきた人々であり、その体験の蓄積からくる葛藤が症状となって患者を支配すると言います。
 この第1話の聡美は、「おまえなんか大嫌い」と言われた母親の言葉が発端でありました。恐らくは、育児に追われた母親が、その1回だけではない、多くの機会に彼女を追い詰める言動があったかと思います。その瞬間、瞬間がブルック氏が言う「侵入的な介入」であり、その繰り返しが「底知れぬ自尊心の欠如」を生み出して来たのでだと思います。