アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

現代において行われた!? 族誅(ぞくちゅう)

 昨日、処刑された北朝鮮の張 成沢氏(チャン・ソンテク、1946年2月6日 - 2013年12月12日)に関連する記事が目に入り、親族をも処刑したとのこと、あり得る話と思いつつも、現代においても、「族誅(ぞくちゅう)」と呼ばれることが行われたことに、背筋が寒くなる感覚を持ちました。まずは、その記事の引用から入ります。

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張氏家族処刑の記事タイトル

 【ソウル聯合ニュース】北朝鮮が、張 成沢(チャン・ソンテク)元国防副委員長の粛清後、張氏の親族の大半を処刑したことが分かった。複数の北朝鮮消息筋が26日、明らかにした。
 消息筋によると、張氏の親族に対する処刑は金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の指示により大々的に行われ、処刑の対象者には幼い子どもも含まれた。
 張氏の姉と夫の全英鎮(チョン・ヨンジン)駐キューバ大使、おいの張勇哲(チャン・ヨンチョル)駐マレーシア大使と張大使の20代の息子2人は昨年12月初めに平壌で処刑された。全大使夫妻と張大使夫妻はいずれも銃殺された。このほか、張氏の2人の兄(いずれも故人)の息子や娘、孫に至るまで直系親族は全員処刑された。親族らの処刑の時期は確認されていないが、張氏が処刑された昨年12月12日以降と推定される。
 消息筋は、張氏の親族が処刑されたのは張氏の勢力を残さないためだとした上で、張氏の勢力の粛清は広範囲にわたって行われていると説明した。

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◇ 張 成沢 氏 処刑の経緯

 ここで、昨年12月の北朝鮮 張 成沢 元国防副委員長の処刑について簡単に解説いたします。ごく表面的な報道に基づくものであり、その裏にある根深い部分があるとしても、それは他に譲りますし、今後、明らかになる事実もあろうかと存じます。

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 張 成沢(チャンソンテク)氏は、現北朝鮮第1書記、金 正恩(キムジョンウン)氏の父で第2代最高指導者である金 正日(キム・ジョンイル、1941年2月16日 - 2011年12月17日)の妹、金 慶喜(敬姫、キム・ギョンヒ、1946年5月30日 - )の夫で、北朝鮮を建国した金 日成(キム・イルソン、1912年4月15日 - 1994年7月8日)の義理の息子にあたる、現政権におけるNo.2と目された人物でありました。

金日正、金正日、金慶喜
左から金日成、金正日、金慶喜

金第1書記家系図

 北朝鮮の朝鮮中央通信は昨年12月13日、金 正恩(キムジョンウン)第1書記の叔父、張 成沢(チャンソンテク)元国防委員会副委員長が国家転覆をはかった罪で裁判にかけられ、処刑されたと伝えました。朝鮮中央通信によりますと、張氏は「あらゆる策謀と卑劣な手段を用いて国家転覆をはかった反逆者」として12月12日に特別軍事裁判にかけられ、本人が起訴内容をすべて認め、直ちに死刑が執行されたとのことでした。
 同通信は張氏について、党と指導者を裏切った「卑劣な人間のくず」であり、「犬よりひどい」人物と描写していました。また、張氏の処刑について、北朝鮮情勢に詳しい米ピーターソン国際経済研究所のマーカス・ノランド氏は「驚くべき展開だ」と指摘し、「20年にわたって北朝鮮を見てきたが、私が覚えている限り、上層部の処刑が公に発表されたことはなかった。噂はあったが、今回のような大々的な逮捕や処刑は前代未聞だ」と話しており、張氏の、言うなれば「クーデター」が北朝鮮政府にとって、極めて衝撃的かつ驚異的な事件であることが伺われます。


◇ 族誅(ぞくちゅう)

 さて今回、話題にしたいのは、たとえ政府にとって衝撃的で驚異的なクーデターの首謀者であろうとしても、幼い子供も含む張氏の親族の大半を処刑したと言う事です。こうした、権力闘争に敗れた一族全員を虐殺することを、族誅(ぞくちゅう)と言い、その起源は中国、殷の時代に始まり、秦の時代になって拡張され、清の時代までみられたとされます。また、属国の朝鮮、ベトナムでも行われ、日本では、江戸時代まで敵対者の一族郎党を全員処刑する例があったとのことです。処刑される範囲で三親等=「三族皆殺し」、九親等=「九族皆殺し」とも呼ばれます。中国では、古来から「罪は九族に及ぶ」とされており、族誅には親族にまで連帯責任を負わせることによる犯罪抑止、そして遺族の遺恨を根こそぎ断つ目的があったと言われます。

 「犯罪抑止」と言うと正当性を感じますが、実は、非合法的な処刑に対する一族の怨恨が将来において国家あるいは特定の権力者に災いを起こすことを防ぐ、「一族(郎党)皆殺し」であったことは間違いないと思います。


◇ 源 頼朝を処刑し得なかった平 清盛

 日本においても歴史上、族誅(ぞくちゅう)は一般的に行われて来たことでしたが、逆に、これをせずに将来、自分の首を絞める結果となった権力者もおりました。平 清盛(1118年 – 1181年3月20日)もその人物だと思います。

 詳しい歴史の内容は他に譲るとして、武家が公家に代わって政権を担う戦乱が平安時代末期ありました。皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し武力衝突に至った保元の乱(1156年)の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感が高まっておりました。平 清盛の5歳年下である源 義朝(1123年 – 1160年2月11日)は、後白河上皇の近臣である藤原 信頼が首謀者となった平治の乱(1159 - 60年)に加わり三条殿焼き討ちを決行、二条天皇側近らの画策で天皇は六波羅の平清盛邸へと移り、官軍となった平氏が賊軍となった信頼らのいる大内裏を攻撃、義朝軍は敗れ、一門は官職を剥奪され京を落ちました。
 義朝に従う13歳の三男、源 頼朝(1147年5月9日 – 1199年2月9日)らは、本拠の東国を目指すが頼朝が途中で一行とはぐれてしまい、平 頼盛の家人・平宗清に捕らえられました。父、義朝は尾張国にて長田 忠致に謀殺され、長兄、義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑、次兄、朝長は逃亡中の負傷が元で命を落としたとされます。
 1160年2月9日、京、六波羅へ送られた頼朝の処罰は死刑が当然とされていましたが、清盛の継母、池禅尼の嘆願により死一等を減ぜられて伊豆に流刑となったとされます。共に武家の世を願った平 清盛が42歳当時、同世代ながら対立することとなった源 義朝にどのような感情を持ったのかは想像の域を出ませんが、政変に加わった13歳の三男を死刑としない決断を下したのでした。

平清盛と源頼朝
平 清盛(左)と源 頼朝(右)

 その後の、頼朝挙兵(1980年、33歳時)、壇ノ浦の戦いにおける平氏滅亡(1185年3 月24日)、征夷大将軍として鎌倉幕府成立(1192年)と、時代が大きく流れた、その原因として、平 清盛が平治の乱で敗れた源 義朝の一族に対する族誅(ぞくちゅう)をなし得なかったことが大きかったと思います。この出来事が後の世の教訓となったか?、「一族郎党打ち首」と言う形の族誅(ぞくちゅう)は、鎌倉〜室町〜戦国時代に引き継がれたものと思われます。


◇ 現代において族誅(ぞくちゅう)?

 言うまでもないことですが、過去の歴史において行われたことであっても、21世紀の現代で、法治国家において、ある犯罪者を処刑するのみならず、幼い子供を含むその親族をも処刑する行為が許されるはずはありません。今回の北朝鮮での出来事は「特別軍事裁判」において罪が確定し刑が執行されたと報道されており、そこまでは、どんな国であろうと、法に基づいた判断とされますが、その親族については、裁判がなされたとは考えずらく、また族誅(ぞくちゅう)あるいは、三親等=「三族皆殺し」、九親等=「九族皆殺し」と言う法律があるとも思えず、法には基づかない為政者の命令であり幼い子供は紛れも無く無実、つまり親族については殺人に他なりません。

 張 成沢元国防委員会副委員長の国家転覆罪とそれに対する処刑の是非とは別に、親族への処刑は、これが事実ならば糾弾されるべき北朝鮮指導者の犯罪と考える次第です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140126-00000002-yonh-kr
http://ja.wikipedia.org/wiki/族誅
http://ja.wikipedia.org/wiki/平清盛
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科学?/非科学? 今、密かなブーム「糖質制限食」の是非

 正月にマクロビオティックについてご紹介いたしました。科学的根拠は薄いものの「身土不二」、「一物全体」、「陰陽調和」の三大理念を掲げる、ある意味、スピリチュアルな食生活法でありました。今回は、もう少し科学的根拠があって、しかし今、現在、賛否両論別れるところの「糖質制限食」を取り上げます。


◇ 糖質制限食の概念

 京都、高雄病院理事長の江部 康二(えべ こうじ)医師が考案した、ご飯やパン、麺類、ジャガイモなど炭水化物(糖質)の多い食品を食べない、食事療法であります。元々、東洋医学(漢方、鍼灸)を中心に、西洋医学、絶食療法、食養生、心理療法を取り入れ、1984年頃から食事療法に積極的に取り組んで来た江部氏が2001年に自らが糖尿病であることを知り、糖尿病の研究に積極的に取り組み、これまでの糖尿病治療と全く異なる、新しい糖尿病治療食「糖質制限食」を提案、高雄病院での糖尿病医療に「糖質制限食」を取り入れております。

高雄病院

江部康二先生

 血糖値を上昇させる唯一の栄養素が糖質である、そこに着目して、できるだけ糖質の摂取を低く抑えて、食後高血糖を防ぐのが糖質制限食の考え方です。簡単に言えば、主食を抜いておかずばかり食べるというイメージで、抜く必要がある主食とは、米飯・めん類・パンなどの米・麦製品や芋類など糖質が主成分のものです。
 江部氏は、動脈硬化の原因は食後高血糖「グルコーススパイク」であるとして、糖質制限食は、糖尿病のみならず肥満・メタボリックシンドローム、動脈硬化などの現代病にベストの食事療法と推奨しています。

 動脈硬化の原因 = 食後高血糖「グルコーススパイク」

著書


◇ 糖質制限食の理論的根拠

1.血糖値を上昇させるのは糖質である。
2.糖質を摂取しなければ血糖値は上昇しない。
3.糖質制限食を実践すれば血糖値は上昇せず糖尿病は改善する。

白米、焼き肉摂取後の血糖値
白米と焼き肉摂取後の血糖値の変動


◇ 糖質制限食十箇条

01.魚貝・肉・豆腐・チーズなど蛋白質や脂質が主成分の食品を中心に食べる
02.パン・白米・麺類、菓子・白砂糖など糖質の摂取は極力控える
03.主食としては玄米、全粒粉のパンなど未精製の穀物が好ましい
04.牛乳・果汁は飲まず、成分未調整豆乳、番茶、麦茶、ほうじ茶はOK
05.糖質含有量の少ない野菜・海草・茸類は適量OK。果物は少量に留める
06.オリーブオイルや魚油(EPA、DHA)は積極的に摂り、リノール酸を減らす
07.マヨネーズ(砂糖無しのもの)やバターもOK
08.蒸留酒(焼酎、ウィスキーなど)は糖質は含まれないのでOK
09.醸造酒(ビール、日本酒、など)は糖質が豊富であり控える
10.間食やおつまみはチーズ類やナッツ類を中心に適量摂る
11.菓子類、ドライフルーツは不可
10.できる限り化学合成添加物の入っていない安全な食品を選ぶ


◇ スーパー糖質制限食のイヌイット

 古代から、生肉と生魚が主食という完全無欠の糖質制限食を4000年以上続けてきた民族がいます。イヌイット (Inuit) は、カナダ北部などの氷雪地帯に住む先住民族のエスキモー系諸民族の1つで、人種的には日本人と同じモンゴロイドで、エスキモー最大の民族とされます。以下、「ドクター江部の糖尿病徒然日記」からの引用です。

イヌイット

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 ダイアベルグ博士の研究によると、同民族には心筋梗塞や脳梗塞が極めて少なかったことが報告されています。同時期、同じくらいの高脂肪食を食べていたデンマーク人においては、心筋梗塞や脳梗塞が多発していたので、その差が注目されました。このときダイアベルグ先生は、イヌイットの血液中にはデンマーク人に比べてはるかに多くのEPAが多く含まれていて、それがイヌイットに心筋梗塞や脳梗塞が少ない理由であると結論しました。そして極寒地に住む動物(アザラシ、北極イワナ、シロイルカなど)の脂肪には、EPAが沢山含まれているのです。これはこれで重要な発見であり、EPAはのちに薬(エパデールなど)となり、保険薬として日本でも販売されています。
 しかしながら、血中EPAが高値というだけで心筋梗塞や脳梗塞が予防できるなら、糖尿病の人も肥満の人も、何でも好き放題食べてエパデールさえ内服しておけば、それでOKということになりますが、さすがにそんな都合のいいことはありません。
 スーパー糖質制限食により、常に血流・代謝が常にスムースであり、血糖変動もほとんどなく酸化ストレスもないことの方が、大きな要因であったと思われます。

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◇ 糖質制限食に対する学会の反論

 2013年3月、日本糖尿病学会が 江部 康二 医師の糖質制限食に反論する見解を出しました。糖質を制限すること自体よりも、脂質の摂り過ぎなど、間違った食事摂取に及ぶ危険性が主張されております。

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糖質制限食に懸念

提唱者の医師「根拠ない」と反発

 日本糖尿病学会が先月、ご飯やパンなど炭水化物を控えて糖質を制限する「糖質制限食」について、「勧められない」とする提言を出した。糖尿病患者だけでなくダイエットしたい人にも人気のこの食事療法、何が問題なのか。(平沢裕子)

脂質は悪者?

 同学会が糖質制限食を勧められないとしたのは、糖質制限によってタンパク質と脂質の摂取量が増えることを問題としたためだ。提言では、タンパク質の取り過ぎが腎機能を悪化させたり、脂質の取り過ぎが動脈硬化を促進させて心筋梗塞や脳卒中のリスクを高めたりする恐れがあると指摘している。
 これに対し、糖質制限食の提唱者である高雄病院(京都市右京区)の江部康二理事長は「脂質は長年悪者にされてきたが、最近は食事の脂質を減らした人とそうでない人で最終的な死亡率は変わらないという研究が、海外の一流医学誌に次々と発表されている。タンパク質の取り過ぎは腎障害のある患者には悪影響があり、私も糖質制限食は勧めていないが、腎障害がない場合に腎機能を悪化させるというエビデンス(科学的根拠)はない」と反論する。
 確かに提言でも腎障害がない場合、タンパク質の過剰摂取が腎症発症のリスクとなる「明確なエビデンスはない」としており、腎機能悪化の科学的根拠があるわけではない。

糖質50%未満も許容

 東京都内在住の男性会社員(45歳)は7年前、糖質制限ダイエットをした。開始前は身長175センチ、体重75キロ、BMI(体格指数=体重「キロ」を身長「メートル」の2乗で割った数値)は24.5で標準体重範囲内だったが、学生時代から約20キロ増えた体重が気になっていたという。普段の食事から主食を抜き、おかずはそれまでと同じ量を食べたところ、4日目ぐらいから体重が減り始め、8カ月後には62キロと13キロの減量に成功した。男性は「体重がどんどん減っていくのが楽しかった」と振り返るが、「やせたことでダイエットする意味がなくなった」とダイエットはやめ、現在はダイエット前と同じ体重に戻っている。
 この男性のように糖質制限食で減量効果を実感しても、ご飯はもちろん、ラーメン、パスタ、菓子が食べられない糖質制限食を1年以上続けるのは難しそうだ。提言では脱落者が多く、継続しないことも問題とした。しかし、「今はこんにゃくパスタやふすまパンなど低糖質でおいしい代替品がいろいろある。継続が難しいのはむしろカロリー計算が必要なカロリー制限食の方」と江部理事長。
 提言では「日本人の病態と嗜好(しこう)性にふさわしい食事療法について継続的な検討が必要」としている。同学会の門脇孝理事長は「提言は、食生活の好みによっては糖質50%未満も許容するという従来の食事療法の規制緩和の意味もあった。糖質を少なく取るときは、タンパク質が20%超なら腎機能が低下していないか注意し、脂質が25%超の場合は不飽和脂肪酸を多く取るように心掛けてほしい」と話している。

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◇ 糖質制限食の通販サイト

低糖工房


◇ 糖質制限食に関する私見

 ご存知の人は多いと思いますが、動物には血糖値を上げるホルモンは複数存在し、人間も同じです。グルカゴン、アドレナリン、成長ホルモンなどですが、これらは、野生の動物が敵に襲われる、あるいは獲物を追う時など、咄嗟に血糖値を上げて行動することが求められる際に対応した機構だと考えられております。これに対して血糖値を下げるホルモンはインスリンしかありません。野生動物の食生活ではそれほどダイナミックに血糖が上がらないからであろうと考えられます。何故かと言うと野生動物には農耕文化が無く、主食と言う概念もないからです。
 さて、人間には血糖コントロールのメカニズムとして野生動物と同等なものしか備わっておりません。しかし、約15000年前に農耕が始まり、現代に至っては古今東西、ごはんにしろ、麺類、パンなどが主食として食卓に並ぶのが当たり前となっております。しかしながら、以前の記事「人類の起源とその進化・分岐の過程」(昨年12月9日)でご紹介しましたアルディピテクス属(猿人)が人類の始まりだとして、約580万年前ですので、人類の歴史で、農耕が始まってから現在までは0.25%に過ぎず、糖質を主食として食べるようになったのも、人類としてはごくごく最近のことと言えます。そして、糖尿病や動脈硬化の罹患が始まるのも、この農耕、糖質の主食とほぼ同じ歴史である可能性はあると思います。
 そうして考えた時、塩分や脂質を摂り過ぎないように注意して、「糖質制限食」私は一つの食事療法として支持する立場であります。


http://diamond.jp/articles/-/14958
http://www.canadainternational.gc.ca/japan-japon/about-a_propos/faq-inuit.aspx?lang=jpn
http://koujiebe.blog95.fc2.com/blog-category-87.html
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130412/bdy13041207180001-n1.htm

死生観 「計画的心停止後ドナー」と「おくりびと」

 年末に米国における脳死全肝移植の実際を少しご紹介いたしました。医療の話は、デリケートであり、とりわけ人の死に関わる事柄となりますと、誤解の無いよう、ありのまま客観的にお伝えすることが求められるでしょう。私の専門分野ではあるものの、全くそちらの方面に触れないのも一案ですが、「死生観」のようなスピリチュアルに関わるものであれば、逆に経験に基づいた私ならではの議論ができるかも知れないと考える次第です。
 今回、取り上げる内容は、私が経験したcontrolled(計画的)心停止後ドナーと、日本における遺体に対する対応に日米の「死生観」を探るヒントになるかもしれないと考えたものであります。もちろん、「死生観」、この分野が一介の1外科医が簡単に論ずることができるほど簡単な問題ではなく、太古の昔から多くの人が探求して来た、人間にとって永遠のテーマであることは言うまでもありません。的外れかも知れない、また重箱の隅をつつくだけの小さな事かも知れない、今回の内容を、己が死生観を考える最初の一歩として「スピリチュアル」のカテゴリーとして取り上げます。

 さて、年末に話題としたのは心停止後ドナーからのダメージを受けた肝臓の移植を受けた状態の良いレシピエントの話でしたが、この「心停止後ドナー」には二通りあって、年末申し上げた症例、uncontrolled(偶発的)に対して、controlled(計画的)と言うのがあります。以下の論文は、私がおりました米国の大学移植外科で行われた8例の心停止後ドナーからの肝移植をまとめたもので、uncontrolled(偶発的)4例とcontrolled(計画的)4例が含まれます。

NHBD論文

 実は、このcontrolled(計画的)心停止後ドナー、すなわち生命維持装置を外すことにより心停止を誘発した後にドナーとして臓器摘出を行う方法は、15年前の学会発表に際して、諸家よりずいぶんと厳しい言葉をいただきました。米国での医療をご紹介したに過ぎず、私が計画して執刀したわけではもちろんないのですが、「安楽死」、あるいは「死の誘発」、はっきり「殺人では?」と言う意見もありました。詳しいマニュアル、適応については文献を引用いたしますので、そちらを参考にしていただくとして、簡単な概要、手順を示します。


◇ Controlled(計画的)心停止後ドナー

 私は、4例のControlled(計画的)心停止後ドナーの手術に参加しましたが、とても鮮烈な印象を受けた初めてのケースを取り上げます。

 1998年初頭、患者は31歳男性、頭部外傷で蘇生不能と診断されました。頭頸部の挫滅が著しく、恐らくは鼓膜も破損しているため、聴性脳幹反射など、日本の厳密な脳死の診断基準を満たしていない可能性はありましたが、詳細は不明です。年齢が若く、出血がコントロールされているためか、循環動態は安定しておりました。


1.患者および麻酔科医の入室

 救急救命室の病床より患者が手術室に入室しました。バックを押して気管チューブに酸素を送り込むドクターがついて来ましたが、そのまま麻酔器の装着、麻酔管理を続けたため、救急のドクターではなく麻酔科医だと思われました。心電図と血圧のモニターが装着され、外回りの看護師は一人でした。


2.手術室の外部からの遮断

 私たち、ドナー手術を行う(ドナー)チームは手術室に入ることは許されず、手洗い後、術着を着て、隣の部屋で待機していました。手術室は、カーテンで窓が閉ざされ、扉の窓も暗幕で遮断、外からは覗けない状態でした。私はカーテンの隙間から中の状況をこっそり観察しておりました。私の「のぞき」を、ドナーチームのメンバーや看護師、移植コーディネーターまでも解っていましたが、誰も私に注意、制止する者はいませんでした。


3.患者家族および牧師の入室
 
 牧師と思しき人物を先頭に、患者の家族、白人の大人の男女5人ばかりが沈痛な面持ちで手術室に入室して来ました。ご老人は祖父、中年の男女は両親、他は兄妹と思われ、患者の手や顔に触れて、涙を流している者もおりました。風貌および患者の氏名からはユダヤ人ではなく、一般的な米国人だと思われました。なお、マニュアルによると、この段階で既に抗凝固剤であるヘパリンが投与されているはずです。


4.聖書の朗読とお祈り

 牧師が聖書と思われる書物を開いて何かを朗読しましたが、これは手術室の外には聞こえません。家族は黙って聞いていました。それほど長い朗読ではなく、牧師はほどなく右腕で十字を切って、礼をしました。家族も十字を切っていたように記憶しています。


5.気管チューブの抜管

 家族、一人一人が患者にお別れのような仕草をしたところで、牧師が家族に確認、麻酔科医に合図をしました。麻酔科医は一礼した後、気管内に留置したチューブを抜きました。家族は黙ってそれを見ており、特に動揺する様子はありませんでした。マニュアルによるとこの段階でも抗凝固剤、ヘパリンが投与されます。


6.低下する血圧と脈拍

 気管チューブを抜去し、人工呼吸器を停止しますと、患者は脳死あるいは脳死に準ずる状態であるため呼吸はしておりません。心臓の働きを示す心電図と血圧(動脈圧)のモニターは作動しており、気管チューブ抜管後も心臓は拍動しておりました。15分くらいの間で、血圧は徐々に低下し、脈拍の間隔が延長して来ました。この15分間に、手術室にいる、患者はもちろん、麻酔科医と看護師各1名、牧師とご家族5人、誰も一言も口をきかなかったと記憶しております。


7.心停止

 ついに心電図モニターがフラット、アラームが鳴り、麻酔科医が何かを告げました。心停止の宣告だろうと思われます。家族に大きな動揺はありませんでしたが、母親と思しきご夫人は声をあげて泣き、全員が牧師の先導で手術室より退室されました。完全に扉が閉じられたところで、麻酔科医の合図で我々、ドナーチームが入室し、速やかにドナー手術が始まりました。

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 以上が、生命維持装置を外すことにより誘発した心停止、Controlled(計画的)心停止後に行われたドナーの手術であります。脳死が確定していないものの、蘇生不能として臓器移植のドナーとなる場合や、家族より心停止後の臓器提供の希望があった場合などが適応となるようです。

 果たして、Controlled(計画的)心停止後ドナーの紹介が、タイトルの如く死生観の話題に繋げることに適切かどうかは正直に申して解りません。ただ、日本において上で申し上げたような手術が成立するかと言うと、法律や規制の面はともかくとしても、心情的に日本人には難しいような印象を持ちます。家族のみんなの意志で、患者の心停止を誘発し、死が確定したところで手術を受けて、胸腹部から臓器の摘出がなされる、そうしたことを多くの日本人が良しとすると思えないところです。
 一方、私が知る限りのキリスト教文化においては、死は命の終わりではなく、神のもとに帰る入り口、キリスト教における葬儀は、死者への供養ではなく、神への崇める信仰であり、故人を礼拝の対象とはしませんので、日本人のように遺体に向かって手を合わせたり拝んだりするようなことはないようです。つまり、牧師により聖書が朗読され、別れを告げた故人との最後の儀式の直後に身体にメスを入れることをキリスト教文化では抵抗が無いと言えるかも知れません。


◇ 欧米より後れる脳死ドナーからの臓器移植

日本の脳死ドナー
本邦における脳死ドナー件数

 そもそも、Controlled(計画的)心停止後ドナーどころか、診断基準に合致する脳死者からの臓器移植からして、日本は大きく欧米諸国に立ち後れております。私が米国の移植医療を日本への紹介を始めたのが1998年でありますが、その前年の1997年(平成9年)に「臓器の移植に関する法律」が制定されたものの、法律制定後初の脳死ドナーは1999年まで発生しませんでした。年間10件程度しか発生しない脳死ドナーに対して、2009年(平成21年)、法律の改正がなされ、翌年より脳死ドナーは著増、現在は年間40件を越えて参りました。それにしても国全体として年間40-50件、まだまだ欧米、とりわけ米国に比べたら未発達であるであると言わざるを得ません。

臓器移植の国際比較
国別の臓器移植の件数

 脳死ドナーは、法律改定後に増えはしましたものの、欧米諸国に比べるとその絶対数は大きく劣ります。その理由に、今なお、ドナーカードなどシステムの不備、医療や保険制度の違い、医療経済の問題、不十分な救急救命医療、銃が無い社会によるドナー不足などが挙げられておりますが、身内が脳死あるいはそれに準ずる状態になった時に、ドナーとして臓器を提供することに賛同できるか?、身内の死をどのように捉えるか?、そこに、日本人固有の死生観があるように思える次第です。


◇ 火葬と土葬に見る死生観に疑問

 いわゆる「日本人の死生観」について、多くの文献やサイトに出会いましたが、まだ、勉強は途上であります。そんな最中、埋葬方法、具体的には火葬と土葬に見る日本人とキリスト教徒を比較する文章を見つけましたので、一部を引用供覧いたします。しかし、ここでの記述については極めて懐疑的な感覚でおります。

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日本人の死生観と他界感

 死者をどのように埋葬するかは、民族の死生観や他界観にかかわることであり、その民族の文化の根本をなすものである。肉の復活の思想を根底に置くキリスト教文化においては、遺体は丁寧に飾られて、来るべき復活に備える。遺体を損傷するなど許されざるタブーである。一方、輪廻転生のなかで魂の実体を信ずるインド文化においては、遺体そのものは重大な関心事にならない。

 肉体の復活の思想を根底に置くキリスト教文化では
 遺体は丁寧に飾られて遺体を損傷は許されざるタブー


 遺体の扱いという点では、土葬と火葬は両極端に位置する。したがって、この両者が同一の文化の中で共存することは、通常は考えがたいことである。しかし、日本においては何故か矛盾、対立を伴わずに共存してきた。先稿で述べたように、日本の長い歴史の中では、土葬が主流であったといえるのだが、それでも、火葬が忌むべきものとして、排除されたことはなかったのである。

 これには、日本人が古来抱いてきた死生観や、その背後にある霊魂と肉体との関係についての見方が、背景にあったものと思われる。

 日本人本来の宗教意識の中では、魂というものは、肉体とは別の、それ自体が実体をともなったものであった。魂は、肉体を仮の宿りとして、この、あるいは、あの、具体の人として現れるが、肉体が朽ち果てた後でも、なお実体として生き続け、時にはこの世にある人々に対して、守り神にもなり、また、厄病神にもなった。しかして究極においては、ご先祖様として、神々の座に列することともなるのであった。

 日本人にとって魂は肉体とは別の実体であり
 肉体を仮の宿とし、肉体が朽ち果てた後も生き続ける


 古来、日本人にとっては、人の死とは、霊魂が仮の宿りたる肉体を離れて、二度と戻らない状態を意味した。霊魂はまた、一時的に肉体を離れることもある。であるから、人が失神したときには、必死になって霊魂を呼び戻そうとした。近年まで各地で広範囲に行われていた、魂よばいといわれる一連の儀式は、日本の葬式文化の特徴をなすものであったが、それはこのような霊魂観に裏付けられていたのである。皇室において、「もがりの宮」という儀式が伝統的に催されてきたが、これも、魂よばいの洗練された形態と考えられるのである。

 霊魂がなかなか戻らず、遺体が形を崩し始めると、人々はいよいよ死というものを受け入れざるをえなくなった。こうなると、残された亡骸は、生きていたときのその人の、今の姿なのであるとは感じられず、たんなる魂の抜け殻に過ぎなくなる。抜け殻になってしまった遺体は、一刻も早く埋葬する必要がある。そうでないと、悪霊が乗り移って、災厄をもたらさないとも限らないのである。

 日本人にとって死体はたんなる魂の抜け殻

 日本人は、どうも死者の遺体に無頓着なところがあるといわれ、それがまた火葬が普及したひとつの背景ともなっているのだが、その理由の大半は、以上のような霊魂観にある。

 日本人は死者の遺体に無頓着(?)

 (以下、略)

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 確かに、日本人には輪廻の発想が伝わっており、霊魂が生まれ代わり死に代わり、肉体は一時の宿であり、死によって霊魂が離れると言う考え方はあると思います。しかし、だから日本人が遺体に対して雑な扱いをするか?、逆に、キリスト教では復活があり得るので日本人よりも遺体を大切に扱うか?、と言うことについては疑問に思います。

 キリスト教では日本人よりも遺体を大切に扱う?

 いずれの文化においても遺体に対して丁寧な扱いをするとは思いますが、日本人は遺体に対して傷を付けることを嫌がる特性を感じます。私が申すところの脳死ドナーのみならず、剖検(病理医により遺体を解剖して病態を調べること)の件数は日本より欧米の方が圧倒的に多いです。日本における日常の医療において、亡くなられた患者に対する病理解剖の話をしても、「死んでまでも痛い思いをさせたくない」、「これ以上、身体に傷を付けたくない」と言われるご家族は少なからずいます。
 脳死ドナーにしろ剖検にしろ、遺体に傷を付けると言う意味では、日本よりも欧米諸国、キリスト教文化の方が寛容であり、肉体を仮の宿、死体をたんなる魂の抜け殻とする日本人が遺体を傷つけることに無頓着で、肉体の復活の思想を根底に置くキリスト教文化では遺体を損傷することはダブーである、こういう考え方には限界を感じます。

 剖検や脳死ドナーで日本人には遺体に傷を付けることに抵抗

 脳死ドナーが日本に少ないこと、ましてやControlled(計画的)心停止後ドナーが日本の医療に定着しないであろうことを、一概に「死生観」だけで考えることはできないと思いますが、「死生観」と言えるかどうか?、一方で一つの考えるヒントとなるかどうか?、遺体に対する日本人の対応について、過去の作品を二つばかりご紹介します。昭和の時代の小説とつい最近の映画であります。


◇ 渡辺 淳一 氏の「死化粧」

 私が医学生であった30年前の医学部の学生の多くは渡辺淳一さんの小説を読んでいたと思います。私も当時のものは概ね読みました。その中に短編ではありますが、昭和40年(第54回)芥川賞候補となった「死化粧」(しにげしょう)と言うものがありました。

死化粧小説

 青年医師が自らの母の、切除不能である小脳橋角腫瘍の手術に参加して、現代医療の限界と手術所見から、母の死を確信するに至りますが、彼以外の家族全てが母親の回復を信じていました。彼は、自分と他の家族たちとの心の隔たりを感じながら、ついに母の命の終わりに接して、さらなる衝撃を受けました。以下、本文からの引用です。

 *****

 「死化粧するから化粧品を持ってこい」と叔父が姉に言ったが、私はそれがどういう事なのか私にはわからなかった。

 (中略)

 「たった一度の死出の旅だからきれいにしてやらねばならない、奇麗になって極楽往生して呉れよ」自分に言いきかせるように言いながら、叔父は無骨な手で乳液を母の顔へ撫でつけた。父と兄は一心に手足を湯タオルで拭き清めていた。残った人達は母の屍体を囲んで輪になり、美しくなっていく母の顔を見上げては、南無阿弥陀仏を幾度も唱え続けた。

 (中略)

 一体此処にいる人達は何のために屍体に群がっているのだろうか、母を生きかえらせようとしているのだろうか、今、どう施しても死者は死者に変わりない筈だ。彼等は今、何か目にみえぬ物の怪にでも憑かれているのではないだろうか。彼等は正気なのだろうか、ひょっとして私は狂人の輪の中にいるのではないだろうか。死者と私だけが彼等とかけ離れていると思った。

 *****


 医者である主人公が母親の死を常に医学的見地から客観的に見て来た現実と、残された家族、日本人の死に対する「死出の旅」との認識に大きな違いが浮き彫りとなって、日本人の死生観を垣間見る小説であったと思います。


◇ 映画「おくりびと」

 2009年(平成21年)の、米国のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した日本映画「おくりびと」で、日本における死者の弔い方を世界に紹介し、日本人の死生観として、「人間の生と死はつながっている」、「死は死後の世界への門であり死出の旅立ちの出発点」であることを示しています。以下、同映画について極めて的確な描写がされているページを見つけましたので、少し長いですが引用します。
 最後に、同映画の中の主人公で、屍体に手を加える仕事に抵抗を持っていた、元プロのチェロ奏者 小林大悟(本木雅弘)が、実際の納棺師の作業を見て、心を打たれる、日本固有の儀式に己の身を投ずる決意につながるシーンを動画で供覧いたします。


おくりびと

おくりびとポスター

 監   督   滝田洋二郎
 脚   本   小山 薫堂
 製   作   中沢 敏明、渡井 敏久
 製作総指揮   間瀬 泰宏
 出   演   本木 雅弘、広末 涼子、峰岸  徹、余貴 美子、
         吉行 和子、笹野 高史、山崎  努
 音   楽   久石  譲
 撮   影   浜田  毅
 編   集   川島 章正
 配   給   松竹

 *****

おくりびと紹介ページ

 2月22日、米国のアカデミー賞外国語映画賞の発表が行われ、日本映画「おくりびと」が受賞しました。日本独特の葬式の習慣を描いたこの映画が、アメリカ人にも認められ、アカデミー賞外国語映画賞を受賞したことは、死者の弔い方についての日本の習慣がある程度普遍的な共感と理解を得ることができたのではないかということで、日本でも大変大きなニュースとして報道されました。私もこの映画を見たので、この映画を紹介しながら、日本人の死生観について論じたいと思います。


1.映画「おくりびと」について

 「おくりびと」というのは、「死んだ人を『あの世』(死後の世界)に送るひと」という意味です。必ずしも一般的に使われる日本語ではなく、この映画によって知られるようになった表現です。この映画の英語名は「Departures」となっています。この映画(滝田洋二郎監督。2008年完成)は、日本で遺体を棺に収める仕事をする男性(「納棺師」とよばれます)を描いたもので、日本でも異色の映画といえます。2008年9月に日本で公開されてから、12月までで興行収入が30億円とヒットとなっているそうです。(お葬式関連では、伊丹十三監督の「お葬式」(1984年)という大変面白い映画もありました。)
 米国アカデミー賞の外国語映画賞が独立部門として創設されたのは1956年ですが、それ以後、日本の映画がこの賞を受賞するのは今回が初めてです。(有名な中国人監督アン・リー氏は、2000年「グリーン・デスティニー」で外国語映画賞を受賞しています。)「おくりびと」は、日本の映画の賞である「日本アカデミー賞」でも10部門で受賞しており、またモントリオール世界映画祭でもグランプリを受賞しています。米アカデミー賞を受賞する前から、既に、米国、カナダ、フランス、オーストラリアなど36カ国での劇場公開が決まっていたそうです(2月24日付日本経済新聞報道)。

 邦画としては初の米国アカデミー賞外国語映画賞

 映画の主人公は元チェロ奏者で、オーケストラが解散したため、ふるさとの山形県に帰り、遺体を棺に収める仕事に就きます。いろいろ戸惑いながら仕事をしながら、だんだんと尊敬の念をもって死者を送り出すことを覚え、この仕事の意義を理解していく様子が映画では描かれています。主人公を演じた俳優の本木雅弘氏は、15年前にインドのガンジス川で死体が流れているのを見てから死生観について深く考えるようになったということです。そして、納棺師の青木新門氏が書いた本「納棺夫日記」を読んで、納棺を題材に、日本人にとっての死について正面から取り上げた映画を作りたいと考えたそうです。

 主人公を演じた本木雅弘氏の依頼で映画が作製された

 米国の映画業界紙『ハリウッド・リポーター』は、この映画を「死に対する畏敬の念を通して生を称える感動作」と評したそうです。日本の映画評論家の品田雄吉氏は、「日本のしきたりや日本人の気持ちを描いた作品が、世界に認められたのは意義深い。」と述べています(2月23日付朝日新聞報道)。米ロサンゼルス在住のアニメーション作家のラウル・ガルシア氏は、「ここ何年かの間に私が見た中で最高の映画だ。日本にこんな儀式があるとは全く知らなかったが、愛する者を送る気持ちは普遍的でよくわかった」と述べています(2月24日付毎日新聞報道)。米国人がこの映画を高く評価した背景には、「9.11」以降の状況も関係あるとの評論も出ています。


2.「納棺師」とは何か?

 日本では普通は人が死ぬと、遺族は葬儀屋にお通夜、葬式、火葬場の手配などの準備を依頼します。葬儀屋は多種多様な仕事をこなしますが、仕事の一つは、遺体を清め、「旅立ち」の衣装を着せ、男性は髭を剃り、女性は化粧を施して生前のまなざしをよみがえらせることもあります。この仕事を特に取り出して専門に行うのが「納棺師」の仕事です。納棺の前に一時間ほどかけて遺族とともに儀式を行うそうです。日本で「納棺師」とよばれる専門家は必ずしも多くはないようです。札幌市に本社があり、全国展開している納棺専門業者の方が日本の新聞のインタビューで以下を答えています。(2月25日付東京新聞)

 納棺師の仕事
  :遺体を清め、「旅立ち」の衣装を着せ、男性は髭を剃り、
   女性は化粧を施して生前のまなざしをよみがえらせる


 ―納棺の専門の会社をつくったのは1969年。きっかけとなったのは、1954年に青森と函館を結ぶ連絡船が台風のために沈み、1400人以上が亡くなった際、損傷のはげしい遺体を清めて遺族に引き渡すのを手伝ったのがきっかけとなった。
 ―同社は、日本でおそらく唯一全国展開している会社である。約130名の納棺師がいる。一人当たり年間数百人の遺体に向かう。


3.日本人の死生観

 この映画の原作を書いた青木新門氏は、「『生と死はつながっている』という死生観と命の尊さや人とのつながりが描かれた作品自体のおもしろさが絶妙なバランスを生んだ」と述べています。そして完成したこの映画では、「単に死体の処理ではなく、亡き人を送り出す厳粛で重みのある姿勢」が示されたと評価されています(2月24日付日本経済新聞)。

 この映画から感じられるメッセージは、まず生きている人はいずれ死ぬ、ということです。また遺体を扱う仕事に対する偏見に対しては、死者を敬意をもって送り出すことの意味を対峙させています。また死に対して、家族のつながりを対峙させています。「もともと遺体を生前の姿に修復する技術エンバーミングは、アメリカで発達したものだ」(2月25日付東京新聞)ということですが、日本では特に遺体を丁寧に扱い、死者への敬意を表します。日本では、日本語では「死体」といえば物体を指す表現ですが、「ご遺体」に対しては、いわば人格を有しているものとして、敬意と配慮をもって扱わないといけないとされます。

 遺体を扱う仕事に対する偏見に対して死者を敬意をもって送り出すことの意味を対峙させている
 死者を敬意をもって送り出す、「ご遺体」に対して人格を有しているものとした配慮をもって扱う姿勢


 青木新門氏は、『生と死はつながっている』と述べています。映画の中でも、死を通過する「門」としてとらえている表現が出てきます。日本人の死生観の特徴は、死後の世界(あの世)があると信じる人が多いことです。中国でも死者のために紙銭を焼いたりすることは聞いています。中国人の友人に聞くと、中国人は死後の世界を信じていないと言われます。現代の中国人が死後の世界の存在を信じているのかいないのか、私にはよく分からないので、調査などがあれば是非教えて頂きたいと思います。

 生と死はつながっている
 死を通過する「門」


 日本人に対して行われたあるアンケート調査で、「死後の世界(あの世)があると思いますか?」という問いに対して、「あると思う」と「ないと思う」と答えた人がともに29.5%、「あると思いたい」と答えた人が40%もあったそうです。しかも死後の世界の存在を信じるのは、年輩者には少なく、むしろ若い人に多いという傾向が見られたそうです。また、「死者の霊(魂)(の存在)を信じますか?」という問いに対しては、「信じる」と答えた人は54.0%、「信じない」は13.4%、「どちらとも言えない」は32.0%でした。「生と死の世界は断絶か、それとも連環していると思いますか?」という問いに対しては、「断絶している」が17.4%なのに対して、「どこかで連環している」は64.6%、「わからない」が18.0%だったそうです。(以上、立川昭二著『日本人の死生観』1998年、筑摩書房。以下の記述も同書より引用)。

 哲学者の梅原猛氏は、仏教移入以前から持っていたと思われる原「あの世」観について、次のような説をたてているということです(『日本人の「あの世」観』)。

(1) あの世はこの世と全くアベコベの世界であるが、この世とあまり変わりない。
(2) 死ぬと魂は肉体を離れてあの世に行って神になり、先祖と一緒に暮らす。
(3) すべての生きるものには魂があり、死ねば魂は肉体を離れてあの世に行ける。

(以下略)

 立川氏は、以下のように述べています。「(日本人にとっては、)生と死の世界ははっきり断絶しているのではなく、どこかで連環しているという考えに通ずる。」、「じつは『死生観』という語も、日本語独自のものである。生死という時、それは生と死をはっきり切り離すのではなく、生から死へ、死から生への連続的なつながりを考え、生と死の間にはっきりとした断絶を考えない。」

 日本人にとって生と死の世界ははっきり断絶しているのではなく、どこかで連環している

 日本人の葬式のやり方、また死後、死者を弔うやり方はいろいろなものがあります。死んでから一週間後、四十九日、百ケ日、1年後、2年後(三回忌)(ここまでは中国の習慣です。それより後の法要は日本で追加されたそうです)、6年後(七回忌)、12年後(十三回忌)、16年後(十七回忌)、22年後(二十三回忌)、32年後(三十三回忌)、49年後(五十回忌)と遺族らが集まって弔います。お墓参りも、一年の間に何度も行きます(なくなった命日、お彼岸、お盆など。)これらの習慣は中国といろいろ異なると思いますが、それを理解するためには、日本人の死生観を理解する必要があると思います。日本では大災害で被害を受け、身近な人を喪った人に対して、「心のケア」「癒し」ということが言われます。これは日本人の死生観を暗黙のうちに前提として行われるものであるのかもしれません。

 「おくりびと」が米国のアカデミー賞外国映画賞を受賞したということは、死者を弔うための日本人の習慣や感性が、米国人から一定の共感を得たということだと思います。四川大地震の際に日本の救助隊が中国人のご遺体に敬礼をした写真が中国国内で配信され、中国人から大きな共感と反響を得たことも思い出されます。この映画を見た在日中国人の友人は、感想として、以下を私に述べてくれました。

 ―納棺の儀式については、最初はすこし違和感があったが、亡くなった人に対する敬意を示すものとして美しいとも感じた。
 ―映画で共感できるところは、家族への愛を描いているところ。
 ―日本人の死生観に関してあまりよく知らなかったが、このような死者とお別れする納棺の儀式は必要ではないかと感じた。将来、同じような儀式をするビジネスが、中国でも誕生するかもしれない。
 (井出敬二 前在中国日本大使館広報文化センター所長)

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映画「おくりびと」ワンシーン

【主人公(本木 雅弘)の言葉】
 冷たくなった人間を甦らせ永遠の美を授ける。
 それは冷静であり、正確であり、そしてなにより優しい愛情に満ちている。
 別れの場に立ち会い故人を送る、静謐(せいひつ)で、
 すべての行いがとても美しいものに思えた。


◇ まとめ

 死生観とは、死あるいは生死に対する考え方、それに基づいた人生観と言えるかと存じます。生死観(しょうじかん)とも言うことがあるようですが、具体的な型には以下の要素が含まれます。

 1.人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか?
 2.死後や死者をどう捉えるか?
 3.生についての人々の考え方や理解の仕方
 3.生きることとは何か?死ぬこととは何か?

 個人の考え方でありますから、国家、宗教や文化によって大きく影響を受け、又はその人の人生における経験や、人生そのものが成功だったか失敗だったかによっても異なってきます。

 今回、米国の大学病院、移植外科にて行われたControlled(計画的)心停止後ドナーと言う、極めて希であり、世界的に一般的ではない医療を取り上げ、これが日本に導入可能かどうかを思い起こした時、脳死ドナーさえもなかなか出現しない本邦において、遺体に傷をつけることを日本人は良しとしない民族である可能性に行き当たりました。
 これに反して、キリスト教文化では死後の肉体の復活を思想の根底におくために遺体を傷つけることはタブーであり、土葬の習慣もこれに基づくものとし、一方、日本人にとって魂と肉体は別の実体であり、遺体に傷をつけることに抵抗はなく、火葬も容易に普及したとする考え方に出会いました。死後の世界の捉え方が日本人とキリスト教文化で異なることに異論はありませんが、遺体に対する扱い方がどうであるか?、と考えた時に、日本人が遺体に対して無頓着とは言えない事例が思い当たりました。それが「死化粧」であり納棺師による遺体への仕事であります。
 キリスト教文化との違いを明確にするにはまだまだ勉強が必要でありますが、少なくとも渡辺淳一氏の小説や映画「おくりびと」の中で描かれている日本人の死の捉え方は、生と死と死後は連続しており、死は死後の世界への旅立ちの出発点、門であるとしており、その旅立ちに向けて遺体を清め、衣装を着せ、化粧をし、生前のまなざしをよみがえらせることに大きな意義、使命感を持っていることがうかがわれます。

 まだまだ、死生観については奥が深く、様々な説、考え方があります。若干、稚拙ではありましたが、遺体に対する日本人の考え方、死生観を考えて行く最初の一歩と考えております。



http://www6.plala.or.jp/brainx/beating_NHBD.htm
http://jme.bmj.com/content/29/3/182.full
http://japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial03.death.html
http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/shukyo/christ.html
http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ6/kudo.pdf#search='死生観+脳死ドナー+欧米+日本'
http://ja.wikipedia.org/wiki/おくりびと

西田 敏行 氏の 口笛に込められた情感

 正月、HDDに録画してあった「ドクターX ~外科医・大門未知子~ 第2シリーズ」の最終回(昨年12月19日放送)を見直したところ、西田敏行氏が演ずる蛭間 外科統括部長が一人、教授室で口笛を吹く場面がありました。たった数秒でありますが、そのシーンを観て西田さんの情感に触れた人がいたのではないかと思います。

ドクターX画像
「ドクターX ~外科医・大門未知子~ 第2シリーズ」

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「ドクターX」の1シーン、西田敏行氏の口笛

 口笛は「もしもピアノが弾けたなら」(1981年、作詞:阿久悠、作曲・編曲:坂田晃一)でありますが、これは西田氏が1981年のNHK紅白歌合戦に出場して歌ったヒット曲ですので、30年以上の年月を経て、ドラマの中で西田氏が演ずる配役が口ずさんだとしても、これはちょっとした演出、ユーモア、若しくはアクセントと考えられます。それはそれで良いと思いますが、私はちょっと考え過ぎでしょうか?、あの口笛は西田氏が自ら進言してやらせてもらったのではないか?、と思います。あまり、理屈っぽい話にするつもりはないのですが、西田敏行氏の略歴からご説明いたします。


◇ 俳優 西田敏行 氏

 西田敏行氏(1947年 – 、現在66歳)は福島県郡山市の出身で、明治大学付属中野高等学校卒業、明治大学農学部中退、身長166cm、体重80kg超、主演の映画「釣りバカ日誌」は1988年から2009年まで22作続いた代表作であります。以下、2014年1月までの主な芸能活動を列挙いたします。

西田敏行

・1967年(20歳) ドラマ「渥美清の泣いてたまるか」(TBS)でテレビ俳優としてデビューするも、しばらくは役者として不遇の日々
・1976年(29歳) レギュラー出演した「いごこち満点」、「三男三女婿一匹」(共にTBS)で注目を集め、個性的な演技、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得
・1977年(30歳) NHK大河ドラマ「花神」に出演(山縣有朋 役)
・1977年(30歳) ドラマ「特捜最前線」(テレビ朝日)に出演
・1978年(31歳) ドラマ「西遊記」(日本テレビ)に出演(猪八戒 役)
・1980年(33歳) ドラマ「池中玄太80キロ」(日本テレビ)で主演
・1981年(34歳) NHK大河ドラマ「おんな太閤記」に出演(豊臣秀吉 役)
・1981年(34歳) ドラマ「池中玄太80キロ」第2シリーズ主演、この時の挿入歌「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒット、年末にはNHK紅白歌合戦に出場
・1984年(37歳) NHK大河ドラマ「山河燃ゆ」に出演(天羽忠 役)
・1986年(39歳) ドラマ「泣いてたまるか」(TBS)リメイクの主役
・1986年(39歳) 映画「植村直己物語」に主演、モンブラン(フランス)、エベレスト(ネパール)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行
・1988年(41歳) NHK大河ドラマ「武田信玄」に出演(山本勘助 役)
・1988年(41歳) 映画「敦煌」主演
・1988年(41歳) 映画「釣りバカ日誌」1作目に主演、以後、89, 90, 91, 92, 93, 94, 94, 96, 97, 98, 98, 00, 01, 02, 03, 04, 05, 06, 07, 08, 09年の計22作
・1990年(43歳) NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」で主演(西郷隆盛 役)
・1993年(46歳) 映画「学校」で主演
・1993年(46歳) 映画「男はつらいよ 寅次郎の縁談」に出演
・1994年(47歳) 東宝ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢、その後7年にわたり出演
・1995年(48歳) NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」で主演
・1996年(49歳) 映画「学校II」で主演
・1996年(49歳) 映画「虹をつかむ男」で主演
・1997年(50歳) 映画「虹をつかむ男 南国奮斗篇」で主演
・2000年(53歳) NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」に出演(徳川秀忠 役)
・2001年(54歳) 頸椎性脊髄症を患い入院、神経圧迫部位を除去する手術施行
・2002年(55歳) 映画「陽はまた昇る」に主演
・2003年(56歳) NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」に出演(内山半兵衛 役)
・2003年(56歳) 映画「ゲロッパ」に主演
・2003年(56歳) 自宅にて心筋梗塞を発症、吉永小百合の手紙に従い禁煙
・2006年(59歳) NHK大河ドラマ「功名が辻」に出演(徳川家康 役)
・2006年(59歳) 映画「椿山課長の七日間」に主演
・2008年(61歳) 長年にわたる演劇界での業績が認められ、紫綬褒章を受章
・2009年(62歳) 日本俳優連合理事長に就任
・2010年(63歳) 「釣りバカ日誌」シリーズの22年間の功績が讃えられ三國連太郎氏と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞
・2012年(65歳) 社団法人日本喜劇人協会主催の喜劇人大賞を受賞
・2013年(66歳) NHK大河ドラマ「八重の桜」に出演(西郷頼母 役)
・2013年(66歳) ドラマ「ドクターX〜外科医・大門未知子〜 第2シリーズ」(テレビ朝日)に出演

 その他、多数の映画、ドラマに出演され、ご紹介しませんでしたが、テレビのバラエティー番組、ラジオにまでも活動範囲を拡げております。ご紹介に取りこぼしがあればご容赦ください。
 さて、ご紹介した西田敏行氏の芸能生活序盤に目を向けますと、NHK大河ドラマ「花神」に出演した山縣有朋 役は、明治維新政府における、長州出身の個性ある軍人、政治家として強いインパクトがありました。「特捜最前線」に出演した後、堺正章(孫悟空 役)故夏目雅子(三蔵法師 役)、岸部シロー(沙悟浄 役)と共演した(猪八戒 役)、「西遊記」のオープニングはゴダイゴの「Monkey Magic」、エンディングでは同「ガンダーラ」がヒットして、同ドラマは人気番組となりました。

西遊記
1978年 ドラマ「西遊記」(日本テレビ) 左から西田敏行、堺正章、岸部シロー、夏目雅子

 こうして、10年以上の下積み時代を経た30代の青年は俳優として徐々に成長を遂げ、ついに西田敏行氏に、(ほとんど)初めての主演の連続ドラマのチャンスが巡ってきたのが1980年(33歳時)、ドラマ「池中玄太80キロ」(日本テレビ)でありました。1980年4月5日より6月28日まで13話を数えたドラマは1話を除く12話で視聴率20%超えとなり、翌年には第2シリーズが作られ、その挿入歌「もしもピアノが弾けたなら」を西田敏行氏が自ら歌い、これが大ヒット、ドラマも大成功に終わりました。西田氏が、「今、自分があるのはあのドラマのおかげ」と思っているかも知れない、ドラマ「池中玄太80キロ」のとりわけ出演者に目を向けてご説明します。

池中玄太スナップ


◇ 「池中玄太80キロ」(1980年〜)
 〜 西田氏を一人前にするために揃った豪華キャスト 〜

 池中玄太(西田敏行;以下、玄太)は通信会社(大京通信)で、楠 編集長(長門裕之)の下、カメラマンとして報道撮影の仕事に従事しており、副業で鳥類、特に丹頂鶴の写真を撮影することをライフワークとしていました。そんな玄太は、3人の子持ちの未亡人、鶴子(丘みつ子)と知り合い、結婚することになりましたが、結婚式の直後に鶴子はくも膜下出血で他界してしまいます。周囲より、他人である玄太が残された子供達を育てるのは無理とされ、鶴子の3人の娘、絵里(中学生、杉田かおる)、未来(小学生、有馬加奈子)、弥子(小学生、安孫子里香)は別々の親戚の家に引き取られて行きます。しかし玄太は、鶴子との約束だと言って、3人を立派に育てて見せると宣言して、娘達を連れ戻し、玄太と血のつながらない3人の娘の共同生活が始まります。
 最初のうちはギクシャクとした関係が続き、玄太と3人の娘は本音で格闘し合ったりもしましたが、玄太の涙ぐましい努力と、周囲の温かい応援で、いつしか、本当の家族以上に理解しあえる関係になっていく、そんなストーリーでありました。
 第2シリーズでも家族の結束を固める出来事が続く池中家でありますが、玄太は同僚である鳴山暁子(アッコ、坂口良子)とお互いに心が惹かれ合うようになります。アッコが別の男性と婚約までしたところで、どんでん返し、二人が結ばれるところでシリーズが完結します。

 *****

【スタッフ(第1、2シリーズ)】

 原案・脚本:松木ひろし
 脚本   :松原 敏春、林  秀彦、清水 邦夫、金子 成人、
       桃井  章
 音楽   :坂田 晃一
 製作   :溝口  至、中島 忠史、安念 正一、成田美津留
 演出   :石橋  冠、宮崎  洋、中山 史郎、宮崎  洋、
       松永 好訓、剣政  博
 製作著作 :日本テレビ
 主題歌  :第1シリーズ 
       「風に抱かれて」
       作詞:喜多 條忠 作曲:芳野 藤丸 編曲:木森 敏之
       歌 :西田 敏行
       「娘たちよ」
       作詞:東海 林良 作曲:木村  昇 編曲:木森 敏之
       歌 :西田 敏行
       第2シリーズ
       「もしもピアノが弾けたなら」
       作詞:阿久  悠 作曲・編曲:坂田 晃一
       歌 :西田 敏行
       「いい夢見ろよ」
       作詞:阿久  悠 作曲・編曲:坂田 晃一
       歌 :西田 敏行
       「鳥の詩」
       作詞:阿久  悠 作曲・編曲:坂田 晃一
        歌 :杉田かおる


【キャスト(第1、2シリーズ、年齢は開始時)】

 池中家
 池中 玄太(玄太)          :西田 敏行 (33歳)
 池中 絵里(えり)  長女      :杉田かおる (16歳)
 池中 未来(みく)  次女      :有馬加奈子
 池中 弥子(やこ)  三女      :安孫子里香 (07歳)
 池中 鶴子      妻       :丘 みつ子 (32歳)

 大京通信社
 楠  英政(楠公)  大京通信社上司 :長門 裕之 (46歳)
 鳴山 暁子(アッコ) 大京通信社同僚 :坂口 良子 (25歳)
 前川 秀也(ヒデ)  大京通信社同僚 :三浦 洋一 (26歳)
 杉野  透(半ペラ) 大京通信社同僚 :井上 純一 (22歳)

 その他
 飯島 歌子(ママ)  喫茶店ママ   :松尾 和子 (45歳)
 秋田 チエ(チエ)  喫茶店店員   :藤谷美和子 (17歳)
 鳴山 春江      アッコの母親  :丹阿弥谷津子(56歳)
 本城理三郎(本城)  鳥類研究家   :宇野 重吉 (66歳)

 *****

 こうしてドラマ「池中玄太80キロ」のキャストを振り返りますと、日本テレビが西田敏行氏を一人前にするために、まさに旬で演技派の男優、女優をとり揃えて、ストーリーと同様、共演者全員で西田氏を応援した構図が伺われます。
 第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優、宇野重吉氏が鳥類研究家として玄太(西田)の指南役であり、同じく職場の上司には、長門裕之氏、第二次大戦前より名子役としてデビューしており、1956年には22歳時「太陽の季節」(原作 石原慎太郎、石原裕次郎氏のデビュー作)に主演した、こちらも日本を代表する俳優でありました。松尾和子さんもレギュラー出演されましたが、元々は「誰よりも君を愛す」で1960年、日本レコード大賞を受賞した、「ムード歌謡の女王」と称されるスター歌手でしたが、ドラマ出演の経験も豊富で、たいへん味のある演技だったと思います。

宇野、長門、松尾

 その他、若い出演者たちも、長女を演じた杉田かおるは7歳にして天才子役と言われ、1979年「3年B組金八先生」にも出演しておりましたし、藤谷美和子さんも12歳でカルビーポテトチップスのCMで芸能界入り、1978年、井上純一と共に「ゆうひが丘の総理大臣」に出演して人気を集めておりました。

杉田、藤谷、井上

西田氏より7歳年下の三浦洋一氏は、20歳の時に演出家つかこうへい氏と出会い、1975年には「熱海殺人事件」の主演の舞台を踏んでおり、1978年「七人の刑事」で人気を得ておりました。坂口良子さんは16歳でミス・セブンティーンコンテストで優勝、芸能界入りし、1972年(17歳時)、フジテレビのドラマ「アイちゃんが行く!」で主演デビュー、その後もドラマ「たんぽぽ」(1973年)、ドラマ「前略おふくろ様」(1975年)、映画「犬神家の一族」(1976年)など、多数のドラマ、映画に出演して人気女優の地位を確立しておりました。

坂口、三浦

 本ドラマの共演者は、ベテランはもちろんのこと、若者においても、主演の西田氏よりも既に成功を納めている、人気を博している方が多かった、今でこそ日本を代表的する俳優である西田敏行さんが、ドラマ「池中玄太80キロ」の中では、共演者たちに励まされ、持ち上げられて役を演じたであろうことが想像されます。


◇ 共演者のその後

 たいへん悲しいことですが、ドラマ「池中玄太80キロ」が始まった年から34年が経過して、あのドラマにおける多くの共演者に不幸がありました。西田敏行さんの心中察して余りあるものがあります。

 宇野重吉氏は、ドラマ「池中玄太80キロ」出演後の1985年、宇野重吉一座を立ち上げ地方公演を始めましたが、晩年は癌との戦いであり、胃切除術、肺部分切除術を受け、1988年1月9日、死去、73歳でありました。

 1991年、松尾和子さんの息子が覚せい剤取締法違反で逮捕され、この事に思い悩み、睡眠薬を多量服用し、自殺未遂を起こしたこともありました。1992年9月25日、自宅の階段から転落して頭部を強打し、数時間後に急変、帰らぬ人となりました。享年57歳の若さでした。

 1999年6月、三浦洋一氏は食べ物のつかえ感を訴え検査したところ末期状態の食道癌が見つかりました。11月、新宿コマ劇場での人生最後の舞台は点滴を打ちながら千秋楽まで勤めた後に入院、2000年5月14日、46歳の若さでなくなりました。

 長門裕之氏は、2004年頃より認知症の症状が出始めた妻、南田洋子さんの介護で晩年を過ごし、2009年、南田氏がクモ膜下出血で死去した1年半後の2011年5月21日、脳出血で77歳にて他界しました。

 昨年、2013年3月27日、坂口良子さんが横行結腸癌のため死去、享年57歳でありました。その2日後の3月29日、西田敏行氏は以下の談話を発表しております。

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 早過ぎるよアッコ、これから沢山楽しい事が待ってるのによ~
 池中玄太はこう言って天を仰いで号泣しています。

 坂口良子さん早過ぎます、順番が違います、
 西田敏行はこう言って悔しさに唇を噛んでいます。

 ただ、今は現実を受け止めようと必死にもがいています。

 言えるのは、玄太を愛したアッコをあんなにステキに演じてくれて
 ありがとうございました。

 おかげで玄太を日々楽しく生きる事が出来ました。
 ホントにホントありがとうございました。

 合掌

 西田敏行拝

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 冒頭に話しを戻して、ドラマ「ドクターX」の1シーン、西田敏行氏の口笛、「もしもピアノが弾けたなら」は、ドラマ「池中玄太80キロ」にて自分を支え、励まし、育ててくれた共演者たちへの、西田氏のさりげない呼びかけ、ねぎらいの言葉、そんな情感が込められているように思える次第です。


◇ ドラマ「池中玄太80キロ」のシーンから

 最後に少しだけ、ドラマ「池中玄太80キロ」から、出演者たちの肉声が入った動画を供覧いたし、最後に第2シーズンの主題歌「もしもピアノが弾けたなら」をご紹介いたします。まだ一周忌に達していない坂口良子さん他、故人の方々には謹んでご冥福をお祈りいたします。

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第1シリーズ 第3話 「やったぜ!特ダネ」から
 ちょうど玄太(西田)が仕事で失敗した際に、娘が犯人逮捕の手柄を挙げ、本城(宇野)のところで愚痴を言う玄太でした。

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第1シリーズ 第8話 「給料日の約束」から
 アッコ(坂口)がにわかに恋した相手(三橋美智也)は犯罪者でありました。心配してアパートで待っていた玄太(西田)のところに帰って来たアッコは涙にくれるのでした。

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第1シリーズ 最終話 「娘たちよ、大きく翔べ!」から
 タイとカンボジアの取材の話があって玄太(西田)は内心では行きたいのだが、娘たちのことを考えて躊躇している。そんな時、3人の娘が楠部長(長門)を訪れ海外出張の命令をお願いしました。

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第2シリーズ 第20話 「欲しいものはとれ!」から
 玄太(西田)に惹かれながら別の男性と婚約するアッコ(坂口)の気持ちを思い、ヒデ(三浦)が玄太に対して行動に出るよう促し、ついには殴り合いとなります。

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第2シリーズ 最終話 から
 玄太(西田)と結婚することとなったアッコ(坂口)が玄太の優しさを語り、そのまま最後のシーン、「もしもピアノが弾けたなら」のエンディングテーマに続きます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/西田敏行
http://ja.wikipedia.org/wiki/池中玄太80キロ
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130329/ent13032913170019-n1.htm

年が明けて五輪の話題は浅田よりも高梨!?

 いよいよ、年が明けてソチにおける冬季オリンピックの話題が盛り上がって参りました。本日はスキー、ジャンプの出場選手が決まりました。ちょっとした雑感ですが、ソチ五輪の話題が、フィギュアスケートの浅田真央から女子スキージャンプの高梨沙羅に移りつつあるような気がしています。単純にメダリストとの期待の高さだけでしょうか? これは、日本のマスコミの浅田真央に対する、思いやり、高い期待、強く応援する気持ちの現れではないかと思います。もちろん、高梨沙羅選手に対する期待感に変わりはありませんが、、、。

高梨沙羅

 浅田はグランプリシリーズを2戦ともに優勝でファイナルに進み、ここでも優勝しました。でも、このグランプリファイナルの行われた日に韓国のキムヨナが別の大会で優勝して、復活をアピールしました。浅田の耳に入っていないはずはなく、インタビュ—で聞かれることは少なく、ですから口には出しませんが、キムヨナを意識しないはずはないです。バンクーバーで己を二位(銀メダル)に押しやった人物ですから、、、。
 浅田の全日本選手権はダメでした。ショートもフリーもトリプルアクセルに失敗し、鈴木明子に負けました。浅田は鈴木に負けたのでしょうか? やはりここでもキムヨナの存在が浅田の脳裏に影を落としてきたと思います。案の定、キムヨナは年明けの韓国内の大会で自己最高に迫る成績を出しました。いよいよ、一騎打ちの様相です。

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キムヨナ記事

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 五輪でキムヨナに負けたことを思い返したネガティブな発想から、不本意な演技を引き寄せてしまうか、それとも、対抗する選手を考えずに高いレベルを目指して、納得する演技を引き寄せるかは、これから1月あまりの浅田真央に人間性が試されるところだと思います。「人間性」と言うと厳格な響きですが、浅田のキムヨナに対する拘りや苦手意識、劣等感から解放された自由な気持ちを取り戻すことだと思います。

 浅田には無我の境地で最高の演技をしてもらいたい!

 昨今のマスコミ、ソチ五輪を控えて、浅田よりも高梨に注目を集めています。これは浅田にとって良いことです、放っておいて欲しい時は、必ずアスリートにはあります。日本人は高梨へと同じ、それ以上に浅田の金メダルを願っています。この時間を大切に過ごして欲しいと思う次第です。

真央

マクロビオティックのスピリッツ

 新春の軽い話題として、以前から興味がありましたある種の食生活法、「マクロビオティック(Macrobiotic)」を取り上げます。通称「マクロビ」は、第二次世界大戦前後に考案された食生活法、食事療法、長寿法でありますが、現代においてもその食材を扱うウェブストア、レシピや概念を学ぶ各種講座などがあります。単純な「菜食主義」、「玄米食」ではなく、その概念にはある種のスピリッツが隠されており、そのあたりを中心にご紹介いたします。


◇ マクロビオティックの起源と海外展開

 マクロビオティックは、第二次世界大戦前後に食文化研究家の桜沢如一(1893-1966年)が考案した食生活法、食事療法、長寿法であります。桜沢氏は、明治時代の軍医、薬剤師で、医食同源としての食素を提唱した石塚左玄氏(1851-1909年)の「食物養生法」の考え方と、東洋思想のベースとなる中国の「易」の陰陽を組み合わせて、「玄米菜食」という自然に則した食事法を確立しました。

石塚、桜沢、マクロビ本
石塚左玄氏(左)、桜沢如一(中)とその著書

 その後、1950年以降、桜沢氏の弟子である久司道夫氏(1926年-)によりマクロビオティックは体系化され、欧米への普及が始まりました。しかし、1950年当初、久司氏の活動は栄養学から矛盾していることから大きな反発を受け、1967年、 JAMAは、抑圧的なマクロビオティック食養法に固執することによって引き起こされる壊血病と栄養失調に関する詳細な報告書を刊行、1971年にも、米国医師会の食品栄養委員会により、食養法の実践者、特に厳格な実践を行っている者は、栄養失調の重大な危機に直面しているとしているとの指摘も受けました。その後、久司氏により、風土を考慮して再構築したマクロビオティックを広めていったことで1970年代以降に政府や栄養学会に受け入れられるようになったとされます。

くじ氏とその記事
久司道夫氏(左)と氏を紹介する記事

 久司氏のマクロビオティックが大きく受け入れられた象徴的なイベントとして、ハーバード大学が主催しWHO(世界保健機関)がバックアップした国際栄養学会の晩餐に食事ををマクロビオティックを主体として作ることが要請されたとされます。また、1999年には久司道夫が日本人として初めてアメリカ国立歴史博物館であるスミソニアン博物館に殿堂入りを果たしました。一方、長年マクロビオティックを実践していた夫人は癌によって死亡しましたが、発見時は余命3か月と診断されたものの、久司氏のアドバイスにのっとった食事をはじめ、そのために8年を生き延びたとされます。


◇ マクロビオティックの語源

 「マクロビオティック」は、「マクロ = 大きな」、「ビオ = 生命」、「ティック = 術、学」の3つの言葉から成る合成語であります。語源は古代ギリシャ語「マクロビオス」であり、「健康による長寿」「偉大な生命」、「自然に即した命のあり方」などと言った意味があります。

 マクロビオティック
  :「マクロ = 大きな」
   「ビオ = 生命」
   「ティック = 術、学」


 マクロビオティックは、「玄米菜食」「穀物菜食」「自然食」「食養」「正食」「マクロビ」「マクロ」「マクロビオティックス」「マクロバイオティック」「マクロバイオティックス」とも呼ばれ、また、マクロビオティックを実践している人のことを、マクロビアン、「穀菜人(こくさいじん)」と呼ぶこともあります。


◇ マクロビオティックの特徴

 玄米を主食、野菜や漬物や乾物などを副食とすることを基本とし、独自の陰陽論を元に食材や調理法のバランスを考える食事法であります。但し、科学的な裏付けが明確でない、あるいは一切ないものや、ものによっては現在の医学、栄養学とは相反するものも含まれております。根拠に基づいた医療という概念が当てはまらない点には留意する必要があります。マクロビオティックに規定された食生活を以下に列挙いたします。

・玄米や雑穀、全粒粉の小麦製品などを主食とする
・野菜、穀物、豆類などの農産物、海草類を食べる
・有機農産物や自然農法による食品が望ましい
・なるべく近隣の地域で収穫された旬の食べ物を食べる
・砂糖を使用せず甘味は米飴・甘酒・甜菜糖・メープルシロップで代用
・鰹節や煮干しなど魚の出汁、うま味調味料は使用しない
・出汁としては、主に昆布や椎茸を用いる
・なるべく天然由来の食品添加物を用い塩はにがりを含む自然塩を使用
・肉類や卵、乳製品は用いないが、卵は病気回復に使用する場合もある
・白身の魚、人の手で捕れる程度の小魚は少量は食べてもよい
・皮や根も捨てずに用い、一つの食品は丸ごと摂取することが望ましい
・食品のアクも取り除かない
・コーヒーは身体を冷やすので避ける
・「身土不二」、「一物全体」、「陰陽調和」の三大理念(後述)


◇ 二大原則:身土不二・一物全体

 マクロビオティックでは、身土不二(しんどふじ):「暮らす土地の旬のものを食べること」と、一物全体(いちぶつぜんたい):「自然の恵を残さず丸ごといただくこと」という2つの原則があります。

1.身土不二(しんどふじ)

 アクロビオティックでは暮らす土地の旬のものを食べることを原則としています。これは人間も植物も生まれた環境と一体という意味です。例えば、熱帯地域でとれるフルーツには体内の熱を下げる働きがあるため、高い気温に対して身体を順応させる作用があります。同様に、寒い地域でとれる野菜には体内を温める働きがあるため、寒冷に対する食生活として有効であります。四季のある日本では、季節ごとの旬の食材を摂ることで、身体のバランスがとれるという考え方です。

 暮らしている土地の旬の食材を摂る


2.一物全体(いちぶつぜんたい)

 自然の恵を残さず丸ごといただくと言う原則で、一つの食材を丸ごと食べる、という意味です。食材そのものは、丸ごとでバランスが取れており、穀物なら精白していない玄米、野菜なら皮や葉にも栄養があり、全てを摂ることで身体のバランスが取れるという考え方です。

 一つの食材を丸ごと食べる

 「身土不二」も「一物全体」も、自然環境とのバランスを考慮した発想に基づいています。暮らす土地でとれた季節の野菜を積極的に摂取することは、その野菜が新鮮で身体に良いだけでなく、野菜の物流に伴い排出されるCO2の削減にもつながります。また、いままで捨てていた皮や葉などもおいしく食べられることは、キッチンからでるゴミの減少にもつながります。自然環境をそのまま食事として摂取し、自然環境を守る食生活に繋がると言う発想であります。


◇ 陰陽のバランス

 マクロビオティックでは、すべてのものに「陰」と「陽」がある、という考え方があります。陰性とは遠心力・静かなもの・冷たいもの・水分の多いものなどを指します。陽性とは求心力・動きのあるもの・熱いもの・水分の少ないものなどを指します。マクロビオティックではこの陰性と陽性のバランスがとれた状態(中庸)を大切としています。

1.食材の陰陽

 陰性の食材とは上に向かってのび、からだを冷やす作用があり、陽性の食材とは地中に向かってのび、からだを温める作用があると考えられています。旬の食材を例にすると、夏のキュウリ(陰性)は、ほてったからだから熱をとり、冬のゴボウ(陽性)は、冷えたからだを温め、わたしたちのからだのバランスをとる手助けをしてくれます。マクロビオティックでは陰陽どちらにも極端に傾きすぎないほうが良いとされているので、穀物や根菜、豆類などを食材の中心とします。

陽が強すぎる食品群
陽性が強すぎる食品群

陰が強すぎる食品群
陰性が強すぎる食品群

中庸の食品群
中庸の食品群


2.調理法における陰陽

 調理法も陰と陽に分けることができます。サラダなど冷たいもの火をあまり通さないものは陰性、それに対してシチューのように、温かいもの、じっくり煮込むものは陽性と考えられます。下表は調理法における陰陽であります。

調理法の陰陽
調理の陰陽

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 日本で生まれ世界に認知された食生活法、食事療法、長寿法であるマクロビオティックをご紹介しました。今回は触れませんでしたが批判的な言葉があることは言うまでもなく、外科医として個人的意見もございますが、ここでは個人の判断に委ねることといたします。少なくとも、その土地の旬の食材を食べると言う発想には、自然界と共存するスピリチュアルを感じる次第です。


◇ ネットにおけるマクロビオティック

 健康法や食事に関わる概念ですので、当然の如く、レシピや食材の通販、講座などがネットに散見されます。ここにご紹介いたしますが、たまたま取り上げたホームページの経営者とは一切の関係がございませんことを申し上げます。


1.食材の通販サイト

マクロビ通販
マクロビオティック食材の通販サイト

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2.レシピを紹介するサイト


マクロビレシピのページ
マクロビオティックのレシピを紹介するサイト

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3.通信講座

マクロビ講座
マクロビオティックを教える講座


http://ja.wikipedia.org/wiki/マクロビオティック
http://www.m-biotics.com/macrobiotic-q/riron/2-2shokumotu.html
http://www.daichi.or.jp/ad/macrobiotic-t/index.html?xadid=lis_ys_0004786
https://ssl.gardening.or.jp/study/a/nf/d15/index.html?mame=r1054

新年ご挨拶 謹賀新年

 2014年、本年、最初の記事です。本ブログは、3月21日にご挨拶の文章を載せていただいた当初、アセンションと言う概念を知り、ヘミシンクを用いた瞑想を始めたので、スピリチュアルへの探求と併せて日記をつける感覚で始めたつもりでしたが、日々の感情の動きからずいぶんと本筋から外れた内容も多くなってしまいました。9ヶ月と半月、100件を越えて参り、いい加減、ネタが尽きる時も来るかと思っておりましたが、己の無知無教養のおかげで、勉強する分野は無限にあります。本年も、自身のアセンションを目指したヘミシンクの記録、スピリチュアルとその周辺について調査、勉強した内容の覚え書き、そしてちょっとした私見、雑感、独り言を述べる場として続けて行く所存であります。

ウィキペディア(Wikipedia)の利用について

 何か疑問に思ったこと、調べたいことがあってネット検索すると、多くの場合にウィキペディア(Wikipedia)のページが目に入ります。似たようなものでYahoo1知恵袋、goo辞典、教えて! Goo、ニコニコ大百科、ことばんく(Kotobank.jp)などがありますが、ウィキペディアの、文章としてのボリュームは他を圧倒しております。内容的にも思想的に大きな偏りや不自然に断定する記述は少なく、情報源として利用価値はあると考えております。
 しかしながら、Wiki方式と言って、同サイトの基本方針に賛同できる人なら誰でも規則の範囲内で自由に記事を執筆したり、すでにある記述を書き換えたりすることができる形態をとっております。このため、投稿者、編集者によっては著しく信頼性を欠く場合は否定できません。このあたり、研究者、科学者による厳しい査読を経て採否が決定され、その雑誌の個別の引用件数により年単位で順位(Inpact Factor)が決まる学術論文とは比較にならないところではあります。
 それでは、単行本として販売されているものはいかがでしょうか? 査読者は出版社の編集に携わる人物だと思われますが、真実とは異なると思われる内容であっても、販売部数、売り上げ、会社の利益に繋がるものであれば出版されることはよくあることと思います。そういう意味ではネットの方が利害がない分、真実を追求しているかも知れません。

 ウィキペディアをはじめネット検索の信憑性に「?」
 単行本には内容よりも販売部数を考慮する可能性
 査読者がいる学術論文の優位性


 以上から、可能であれば学術論文、原著、原本を参考にするとして、単行本やウィキペディアを含むネットをソースとする場合には、異なる立場の複数のサイトを閲覧して、少しでも信憑性の高い知識を取り入れて行きたいと考えております。

 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。