アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

歴史上最多の子孫を残したチンギス・カン

 先日の「人類の起源とその進化・分岐の過程」と題した記事の中で、化石人骨から抽出したミトコンドリアDNAの解析で、旧人であるデニソワ人とネアンデルタール人が現生人類(新人)、クロマニヨン人と異種交配をしていたことが証明されていると述べました。現代の遺伝子解析の進歩は、先祖と子孫の繋がりを明らかにすることが可能であり、そのことを認識した時、ふと、人類に最も多くの子孫を残した人物がいたと言う話しを思い出しました。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、なかなか思い出せず、いろいろと調べて、やっと見つけました、モンゴルの建国の英雄として知られるチンギス・カン(1162年頃? - 1227年8月18日頃、在位:1206年 - 1227年、幼名はテムジン)です。

 世界人口の半数以上を統治する人類史上最大規模の世界帝国

 最終的には、当時の世界人口の半数以上を統治するに至る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げ、世界中でもっとも子孫を多く残した人物とされる、チンギス・カンをスピリチュアルの周辺記事として取り上げます。

チンギスカン


◇ チンギス・カンのモンゴル統一

1.出生から成人まで

 チンギス・カンは、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がった遊牧民、モンゴル族に生まれました。チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書「元朝秘史」には、チンギス・カンの遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立った夫婦であること、その11代後の子孫は早くに亡くなりますが、その未亡人が天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けたこと、そして、その末っ子が繁栄して、その家系にチンギス・カンが生まれたことが記されています。

 祖先の逸話が歴史書に伝えられる家系

 「元朝秘史」と、それとは別にモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録である「集史」によると、チンギス・カンが誕生した時、父親であるイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たとされます。このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられております。

 捕縛して連行した敵の名前を長男に命名

 モンゴル族の長である父イェスゲイは、かなりの有力者で勢力を拡大して行きましたが、テムジン(チンギス・カン)が10歳くらいの時、敵対するタタル族に毒殺されてしまい、その勢力は一挙に瓦解してしまいます。父の死後、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中、母親であるホエルンは女手一つでテムジンら子供たちを育てましたが、テムジンが成長したところで、イェスゲイの子が成長して脅威となることから、タイチウト族に囚われとなる絶体絶命の出来事もありましたが、タイチウトに隷属民として仕えていたソルカン・シラに助けられたとされます。


2.モンゴル族再興から部族統一まで

 成人したテムジンは、コンギラト族の長デイ・セチェンの娘で幼少期の許嫁でもあったボルテ・ウジンと結婚し、モンゴル族の民もテムジンの元に戻り再興を果たしました。しかし、モンゴル族再興の後、宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、妻であるボルテを奪われましたが、父の同盟者であったケレイト族長トグリルや、テムジンの幼馴染であるジャダラン族の長のジャムカらの協力で、メルキト族と戦闘し勝利、ボルテの奪還に成功しました。ただ、残念なことに、ボルテはその時、父親が分からない子供を身ごもっていたと伝えられます。

 妻ボルテを奪還したものの

 メルキト族に勝利したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となりました。彼の振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになりました。こうして勢力を拡大する彼と、メルキト族との戦闘で協力を受けたジャムカとの関係は冷え込んでいきました。
 ある時、部族間の家畜を巡る争いから、テムジンはジャムカと戦闘に及び敗れますが、勝利後のジャムカの残虐な振る舞いからジャダラン族の中からモンゴル族へ投降する人間が出てきました。かえって勢力を拡大したモンゴル族、テムジンは、ジャムカ率いるジャダラン族と、かつて妻ボルテを奪ったタイチウト族、そして父を毒殺したタタル族を破り、ここにモンゴル高原の中央部の覇権を確立しました。1195年頃、チンギス・カン(テムジン)が32、3歳ぐらいのこととされます。

 モンゴル高原の中央部の覇権を確立

 しかし、その頃、父親の同盟者であったケレイト族長トグリルの息子イルカ・サングンと対立し、ケレイト族に亡命したジャムカの讒言でモンゴル族は奇襲を受けてテムジンは北に逃れることとなりました。勢力を回復させたテムジンは再びケレイト族と争い、これを滅ぼし。その後はメルキト族とナイマン族も滅ぼして、オングト族を服従させてテムジンは高原の部族の統一を果たしました。この間、宿敵ジャムカを捉えて処刑しています。


3.モンゴル帝国大汗(だいハーン)

 1206年にテムジンは各部族の長を集めるクリルタイを開き、全部族の統治者である大汗(だいハーン、アジアにおける君主の呼称の一種)に即位しました。この時からチンギス・カンと名乗り、モンゴル帝国が創設されることとなりました。

チンギスカンの即位
1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによりチンギス・カンとして即位


◇ チンギス・カンの征服事業

1.西夏(中国北西部)・ウイグル王国を服属

 西夏(せいか)とは、1038年、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部に建国した王朝であります。上記クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていました。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立しましたが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させており、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせました。また、同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功しました。


2.金朝(中国)の征服

 帝国の建設を進めたチンギス・カンは、金朝(中国)に対する遠征の準備を進め、1211年に金と開戦しました。三軍に分かたれたモンゴル軍は、万里の長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らしたとされます。この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めましたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗しました。しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていきました。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となりました。なお、当時5000万人ほどいた中国の人口が、わずか30年後に行われた調査では約900万人になったされ、大量虐殺が行われたと考えられます。

 中国人の人口が1/5以下となるほどの大量虐殺

 こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服、併合しました。1215年には現在の北京をも包囲、陥落しております。


3.西遼・クチュルク(モンゴル高原東部)の征服

 このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していました。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧しており、、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂、そこにつけ込んで攻撃し撃破しました。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑され、西遼の旧領はモンゴルに併合されました。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は、西はバルハシ湖まで拡大し、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなりました。


4.ホラズム・シャー朝(中央アジア〜イラン高原)の征服

 1218年、チンギス・カンはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣しましたが、東部国境線にて殺されると言う事件がありました。その報復と言う名目で、チンギス・カン自らが20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達しました。モンゴル軍は三手に分かれて中央アジアを進行し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服、ホラズム・シャー朝は1220年までにほぼ崩壊しました。

ホラズム・シャー朝
ホラズム・シャー朝の領土


5.西夏(中国北西部)への最後の遠征

 1225年、西征より帰国したチンギス・カンは広大になった領地を、子供達に分割譲渡を計画したが、これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝が、ホラズム遠征に対する援軍を拒否しており、その上、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいました。チンギス・カンは帰国1年で懲罰遠征を決意し、1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲しました。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ちましたが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅しました。


◇ チンギス・カンの死とその遺言

 1227年、チンギス・カンは西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否したものの、このとき彼は陣中にて危篤に陥りました。軍の本隊はモンゴルへの帰途に就きましたが、1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で死去しました。「元史」などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られたとされます。
 彼は死の床で、遺言として、西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したとされます。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その死後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎を残したのでありました。

チンギスカン像(ウランバートル市内)
ウランんバートルのチンギス・カン像

1206年
1206年 モンゴル帝国領

1219年
1219年 モンゴル帝国領

1223年
1223年 モンゴル帝国領

1227年
1227年 モンゴル帝国領(この年、チンギス・カン死去)

1237年
1237年 モンゴル帝国領

1259年
1259年 モンゴル帝国領

1279年
1279年 モンゴル帝国領


◇ チンギス・カンのDNAを受け継ぐ1600万人

 2004年、オクスフォード大学の遺伝学研究チームはDNA解析に基づき、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表しました。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析から、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たとされます。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとのことです。逆算しますと、1人の人物が13世紀初頭、数百人から数千人の子どもをもうけた計算となり、当時、これだけの子どもをもうけることが可能だったのは、東欧からアジア大陸までをその勢力に治めた「モンゴル帝国」を築きあげた、チンギス・カン、ただ1人だったろうと言う考えであります。
 また、この研究を主導したひとりクリス・テイラーは、検出されたDNAがチンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザーラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげています。フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったといいます。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べています。

※チンギス・カンの子孫は食事無料!

 英・ロンドンにあるモンゴル料理店「シシ」では、限定した数日間の来店客に無料でDNA鑑定を行い、モンゴル帝国の始祖チンギス・カン(位1206~27年)の子孫と判明した客には食事を無料提供する試みを開始しました。父親から息子に受け継がれるY染色体を検査するため、鑑定を受けられるのは男性に限られます。このモンゴル料理店「シシ」によりますと、今回の企画は、モンゴルで再び姓を名乗ることができるようになったことをたたえるのが目的だそうです。モンゴルでは、過去70年間、国民の団結などを理由に、姓を名乗ることが禁止されていました。しかし1990年代に政府がこの政策を撤回し、国民に名字の登録を呼び掛けしましたが、国民の半分以上が、チンギス・ハンの家系が名乗っていた名字を登録したそうです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カン
http://dic.pixiv.net/a/チンギス・ハーン
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/124/news/
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米国における脳死全肝移植で見た生命の平等性

 猪瀬東京都知事が辞任しましたが、徳州会の献金や選挙違反については、まだまだいろんな話が出て来そうです。徳田虎雄氏の著書で「生命(いのち)だけは平等だ」と言うものがあり、全国の徳州会系の病院にはこの文を載せたポスターが貼られているようです。

徳田さん著書

 本当の意味での生命(いのち)の平等さが徳州会系の病院で実現されたのかどうかは知りませんが、先日の記事で米国生活の話に触れ、生命の平等性に関して一つ思い出したことがあります。肝移植の現場での話です。


◇ ドナーが誰か知らされない脳死者からの臓器移植

 脳死者より、身体の上の方から角膜、肺、心臓、肝臓、膵臓、小腸、腎臓を摘出して、それぞれの臓器を必要とする患者がいる病院に搬送して移植する、それが脳死ドナー(donor、臓器提供者)からの臓器移植であります。主に肝臓や腎臓で行われる生体移植が親子、兄弟、夫婦間のように、ドナーと、その臓器を受けるレシピエント(recipient)が協議の上、治療を希望されるのに対して、脳死ドナーからの臓器移植では、臓器を受けるレシピエントはドナーが誰であるかは知らされません。
 脳死者が出たところで、その家族より臓器提供に合意が得られればその患者をドナーとした移植医療が始まり、上で挙げた各臓器をどの病院のどの待機患者に移植するかの決定は、血液型やHLA(Human Leukocyte Antigen、ヒト白血球抗原)のタイプ、体型、ドナーの発生地、タイミングなどの要素に基づいて医療サイドに委ねられることになります。


◇ ある心停止後ドナーからの臓器摘出手術

 1997年5月のある夜、米国留学中の私は大学のER(Emergency Room、救急救命室)の入り口にいました。ポケベルで呼び出されたグァーバーと言う米国人フェローと待ち合わせです。夜の11時前、私が到着してほどなくグァーバーも現れ、既に停まっていたフォード社製のミニバンに乗り込みました。別の黒人の運転、夜中の2時間ほどのドライブで着いたところは隣の州のある病院でした。電話連絡を受けていた我々は車が停車するなり走って院内に駆け込みました。その先にはオペ室(手術室)、脳死ドナーがICU(Intensive Care Unit、集中治療部)より入室したものの、先ほど心停止を来したとのことでした。脳死ドナーからの臓器摘出手術です。
 患者は血液型A型、42歳と若い女性でしたが、身長165cm、90kgと肥満体で、頭部外傷で2日前に救急搬送され、脳死(蘇生不能)が確認されておりました。循環動態(血圧、脈拍など)が不安定で昇圧剤が多量に投与されておりました(ドーパミン量にして28γ)。我々が到着する30分ほど前に心停止を来たし、心臓マッサージをされながらオペ室に搬入、我々が到着、手洗いしている間も心臓マッサージは続いています。脳死者であっても人工呼吸器で血液の酸素化が行われていて、心臓が動いておれば身体中の臓器は生きており、摘出して臓器移植に利用できますが、心臓が停まってしまうと、臓器の細胞は酸素を与えられず急速に傷ついていきます。グァーバーと私は型の如く開腹、大動脈にチューブを挿入して保存液を注入、腹腔内に破砕した氷と冷水を入れて、腹部臓器を冷却および還流しました。
 手術そのものは問題なく、肝臓と腎臓が別々に摘出、保存液の入った洗面器に移されましたが、問題が2つありました。まず、循環動態が極めて不安定で、血圧低下が続いた後の、心停止から臓器への冷却還流までに34分が経過しておりました。こういうのを心停止後ドナーと言います。いま1つの問題は、患者は肥満体であり、肝臓は大きく、辺縁が丸まっており、脂肪肝であることは明白でありました。30分を超える心停止後で脂肪肝、年齢が若いと言う以外は、良いグラフト(移植片;移植する臓器のこと)とは言えない状況でありました。


◇ 肝移植を受けたのは29歳男性

 大学に戻る車内にて、ICUにいた劇症肝炎の患者が、確か血液型A型で同じなので、この摘出した肝臓はその患者に移植されるのだろう、とグァーバーと話しておりました。しかし、そうはなりませんでした。確かに劇症肝炎から肝不全に陥った血液型A型の患者はおり、肝移植の優先順位が上位にランキングされておりましたが、我々が摘出して持ち帰った肝臓は別の患者に移植されることとなりました。劇症肝炎の患者には、その後に発生したドナーからの肝臓が移植されました。
 グァーバーと私で持ち帰った肝臓を移植されることとなった患者は、29歳、男性、C型肝炎肝硬変で、下記の如く検査データ上は異常値が目立ちますが、全身状態は良く、肝移植の待機となっており、病院より連絡を受けて至急、入院して来ました。もちろん歩いての来院です。

【検査成績】
 Alb 2.2 T-Bil 5.2 AST 69 ALT 60 NH3 31 BUN 14 Cr 0.7 Plt 51000


◇ 血流再開に困難を極めた術中所見

 肝移植手術は我々が行ったドナー手術の翌日朝より開始され、まずは肝硬変に陥った肝臓を全摘し、昼過ぎに肝グラフト(移植片)が患者の術野に移動、血管吻合が行われて、13:33血流が再開されました。通常だと、速やかにグラフトに血液が行き渡り、あっという間に肝臓は赤褐色の本来の色調に戻るのですが、この日はそうは行きませんでした。血圧が低下して、出血が顕著となり、移植肝の色調にはムラがあって、いかにも血流の再開に障害を来した状態、紛れも無く心停止後ドナーで、脂肪肝であったことが、原因していると思われました。手術は13時間にも及び出血量は1万ccを越えました。

手術
臓器移植の手術が行われている手術室

 少し語弊の無いよう補足いたしますが、心停止後ドナーであったことも、肝移植片が脂肪肝気味であることも、肝移植手術を行うスタッフは全て知ったうえで了承したものでありました。つまり、肝移植片として使用可能と判断され、このグラフト(移植片)を受けた患者は手術に耐え得ると考えられたわけです。ただ、上述の如く、ドナーのことは患者に知らされないので、循環動態が不良で臓器摘出前に心停止を来したことや、脂肪肝の可能性は、医療スタッフのみが知るところでありました。


◇ 術後14日目で再移植

 術後経過は極めて不良でありました。下図の如く、黄疸の指標である血液中の総ビリルビン(T-Bil)濃度は増加の一途を辿り、下がることはなく、術後14日目で32.0 mg/dlを記録、同日、49歳男性の脳死ドナーからの肝移植片を受ける手術が行われ、グァーバーと私で摘出、持ち帰った肝臓は破棄されることとなりました。尚、本症例における移植肝不全は、移植直後より全く臓器が機能しないPrimary Graft Non-Function(PGNF)ではなく、Preservation Injury(PI、保存障害)と評価されました。

T-Bil.jpg
術後の総ビリルビン(T-Bil)値


◇ レシピエントが差し替えられた可能性

 私は、上述の如く米国で臨床に従事する前は実験室(ラボ)で動物実験をやっておりました。もちろん肝移植関連の研究ですが、そのラボのボスが日本のある大学の教授として招聘されて帰国したため、ラボは消滅してしまったのでありました。心停止後ドナーからの肝移植がなされ、術後の不良な経過から再移植となった翌月、何かの用事で日本からラボのボスが渡米して来ました。早速、ご挨拶に伺い、そのついでに心停止後ドナーからの肝移植の経験、残念な結果に終わったことを伝えたところ、それはドナーの状態が報告されたところで、ICUの劇症肝炎の患者から、C型肝炎肝硬変の若い男性、自宅待機の患者にレシピエント(移植臓器を受ける患者)が差し替えられたのだろうと言われました。
 そのラボのボスは動物実験をやっていましたが、臨床医としても実力者であり、その彼が言うのは以下の通りです。30分を超える心停止後のドナーから摘出された肝臓が移植後に障害を起こすことは想像に難くなく、そのように不良なグラフトを移植に使用するのであれば、全身状態が悪いICUにいる劇症肝炎の患者は避けて、自宅待機の若くて状態の良い患者に使用すべきであるとのことです。言い換えれば、状態の悪い患者に良いグラフトを移植してあげ、状態の良い患者は悪いグラフトを受けると言う操作が加わっているとのこと、、、。

 全身状態不良の患者 → より良い状態のグラフトを移植
 全身状態良好の患者 → 不良なグラフトを移植



◇ 移植医療で示された生命の平等性

 歩いて来院した患者に対して、ドナーに関する情報は告げずに、状態が不良と思われるグラフトを移植してしまう、その事に、どうにもやりきれない気持ちでおりましたところ、ボスは言いました、16年前のことですが、「それが移植医療における真の平等だよ」と、、、。

 移植医療における(生命の)真の平等

 患者のレシピエントとしての登録順序、全身状態の良し悪しのみならず、ドナーの状態、グラフトの良否が移植手術を受ける順番に考慮されるとのこと、すなわち、不足する脳死ドナーを有効利用してより多くの肝不全患者を救い、なによりも全ての肝不全患者に対して均等な術後成績を提供するために、移植センターとして、公共機関として、そして社会として、厳しい決断を下すことが実践されていたのです。これが米国の、ある移植センターで示す一つの「生命の平等性」なんだろうと思います。現状、日本の移植医療においてまだここまでの厳しい精神は伴っていないと思いますし、あるいは異なる考え方があって、日本では実現しないものかも知れません。

マーティン・ルーサー・キング牧師の演説 “I Have A Dream!”、マンデラ元大統領追悼式に添えて

 12月5日、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領(享年95歳、1918年7月18日 - 2013年12月5日)が永眠され、12月10日に開かれた追悼式は、雨天の中、世界中の要人が集まる壮大なものでありました。改めて、反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年、「国家反逆罪」として終身刑の判決、27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年、釈放され、アパルトヘイト撤廃に尽力した、ノーベル平和賞(1993年)の偉人は、歴史に名を残し、世界の多くの人民の記憶に残る人物であると痛感いたしました。

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 慎んでご冥福をお祈りすると同時に、死後の世界において、ある人物と面会していることを想像します。それは、同じくノーベル平和賞(1964年)を受賞した故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏(1929年1月15日 - 1968年4月4日)であります。皮肉な事に、こうして年号を入れて行くと、キング牧師がノーベル賞を取った年にマンデラ元大統領は投獄されました。二人に接点があったかどうか知りませんが、共にお互いの労をねぎらう仲であろうと思います。

 私事で恐縮いたしますが、1996年の4月から1998年10月までの2年6ヶ月、米国のある街に肝移植の勉強で留学しました。その生活の始めの頃は、あらゆる所、デパートやモール、飛行場などで、黒人と白人はほぼ同等に生活しているように見えました。そもそも、人種差別は過去のものであり、現代の世の中には存在しない、そんな感覚で17年前の30代前半の私は米国生活を始めたように記憶しています。

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 しかし、米国における黒人に対する「人種差別の名残り」は確かに1990年代後半にもありました。そして、米国内旅行の途中でジョージア州、アトランタに行った際に、キング牧師の記念館に立ち寄り、彼の偉業に触れ、彼の演説を観て、胸が熱くなったのが思い出されます。
 今回は、マンデラ元大統領死去と言うきっかけを利用して、もしかしたら今でも変わらない、1990年代後半の米国における「人種差別の名残り」に触れ、故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の、1963年8月28日、ワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で行われた、有名な“I Have a Dream”を含む演説のビデオを供覧し、その全文が手に入りましたので、和文英訳を付けて、彼の人種差別撤廃に向けたスピリッツをご紹介いたします。



◇ 96–98年 米国生活で見た「人種差別の名残り」

1.公園によって遊んでいる黒人の子供の割合が異なる

 米国生活を始める時、長女が2歳半でしたのでよく公園(パーク)に連れて行きました。私が住んでいたアパートのすぐそばにあるメロンパークには黒人の子供が8割で、その次が日本人や中国人などの東洋人で、白人の子供は1割もいませんでした。居住区の関係なのか?、理由はよく解りませんでした。少し離れたところにシンリーパークがあって、こちらは白人の子供が多く、東洋人は2、3割いますが、黒人は1割以下でした。シンリーパークはその街のほぼ中心部にあり最も大きなパークでしたが、白人が優位でありました。私のラボのボスが住んでいた裕福な人々の区画にはフリックパークがあって、そこでは黒人の子供は見たことはありませんでした。
 これは「立ち入り禁止」と言った人種差別があったわけではありません。長い年月で子供の遊び場に棲み分けが起こっていたのかも知れません。もちろん、白人と黒人の子供が一緒に遊ぶ場所で問題が起こったことは聞きませんでした。しかしながら、我々、日本人は、黒人の子供が多くいるパークをちょっと危険な感覚で捉えましたし、白人の子供が多いパークは安全で高級なイメージを持ちました。これは残念ながら正直な感覚です。白人たちが同じ感覚を持っていたかどうかは解りません。

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シンリーパーク


2.スーパーマーケットの深夜のレジは黒人

 渡米当初は、警戒感から、深夜に出歩くことはありませんでしたが、慣れてくると夜中に買い物をすることもありました。とりわけ、車で国内旅行に行った際には、道に迷って深夜にモーテルに到達し、水や食料を買いにスーパーに行きました。ある時から気付いたのですが、スーパーにおける昼間のレジは白人が多かったですが、深夜に白人を見るとは無く、ほぼ100%黒人でありました。


3.夜間の手術 機械出しは黒人

 スーパーと似たような現象は病院でもありました。私は、留学1年が経ったところでラボが消滅してしまい、実験生活から臨床医に戻りました。肝移植は脳死者が出て成立するものですので、ドナー(臓器提供者)手術にしろレシピエント(移植を受ける患者)手術にしろ、不定期の緊急手術であります。よく夜間にポケベルで呼び出されて手術に入りました。手術の形態は日本も米国もあまり変わりはなく、術者に手術器具を渡すナースがいて、それを日本語では「機械出し」と呼びます。英語でなんて呼ぶか忘れました。日中の手術は白人の機械出しが多く、夜間になるとほぼ黒人が担います。偶然ではありません。私は米国留学の後半1年半で120のドナー手術に加わり、216の肝移植手術に関わりましたので、手術の機械出しが「昼は白人、夜は黒人」のシステムは明らかでした。

 この「昼は白人、夜は黒人」の、スーパーマーケットと大学病院手術室の機械出しにおける奇妙な一致は、つまり雇用体制なんだと思います。スーパーでも病院でも夜間出勤の危険性があり、勤務においては、スーパーなら強盗とか、手術では睡魔から針刺しなどの、やはり危険性があります。雇用の段階で、白人は昼間の仕事に就けて黒人は夜間と、明確な規定があるかどうかは知りませんが、明らかに暗黙の了解はありました。


4.いささかレベルの落ちる黒人のフェロー

 米国では医師免許取得後の研修医をレジデントと呼び、その上のもう少し専門的な、日本で言う後期研修医をフェローと呼びます。このフェローの中にはある一定の割合で黒人が含まれており、しかし残念ながら、その黒人はかなりの確率で技術も知識も落ちるドクターでありました。サボったり嘘を言うこともあり、これは一人ではなく、何人もの黒人フェローに見られ、年間数百もの肝移植を行う施設として残念に思いました。
 実は、フェローとして受け入れる段階で、何割かは黒人を雇用しなければならない法律があるそうです。つまり、その問題のフェローは成績が及ばないけれどその規定によって雇用された人材の可能性はありました。これは、スーパーや病院手術室の「昼は白人、夜は黒人」とは逆で、黒人にチャンスを与えるルールでありますが、黒人への「人種差別の名残り」であると言えると思います。

 公園によって遊ぶ子供の肌の色が違うとか、様々な雇用における黒人と白人の違いを紹介しましたが、過去における人種差別はそんな生易しいもので無かったことは明白であります。現代の米国は、大きな変革の後の、さらに改良される過程にまだあるように思います。


◇ 故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師

 1998年の8月、帰国を2月後に控えて、米国東海岸を南北に縦断する車の旅行に出ました。その途中で、ジョージア州アトランタに一泊して、ストーンマウンテンに登り、コカコーラ博物館に行きました。あまり興味は無かったのですが、キング牧師の記念館にも立ち寄りました。そこで、彼の黒人に対する人種差別撤廃運動を知り、$15(1500円)で演説のビデオを購入しました。故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師をウィキペディアの抜粋で供覧いたします。

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ジョージア州アトランタ ストーンマウンテン

キング牧師
史上最年少のノーベル平和賞受賞のキング牧師とキング牧師記念館内の写真

キング牧師墓
キング牧師夫婦の墓

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 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr., 1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。キング牧師の名で知られ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した。
 「I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名なスピーチを行った人物。1964年のノーベル平和賞受賞者。2004年の議会名誉黄金勲章受章者。アメリカの人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)の歴史を語る上で重要な人物の一人である。

初めての差別

 1929年、ジョージア州アトランタ市でバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれる。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは1935年にマーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・キング、ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング、シニア」と呼ばれる。
幼少の頃隣に白人の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「(黒人とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての差別体験であった。高校時代には討論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。

牧師として

 モアハウス大学卒業後、ペンシルベニア州のクローザー神学校を経て父親と同じくバプテスト派の牧師となる。その後1955年にボストン大学神学部で博士号を取得した。
 ボストン大学に在学中、コレッタ・スコット・キング(Coretta Scott King)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て、夫が亡くなった後もその意思を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は2005年8月16日に脳卒中で倒れて半身不随となり、2006年1月31日に78歳で死去した。
 なおキングがボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事を理由に白人の店員が注文を取りに来なかったが、同店の所在地がこの様な行為を州法で禁じているボストン北部であったため、店員は人種差別として即逮捕となった。南部出身で人種差別を受けることが多かったキングは、むしろこの出来事に驚いたという。

 1954年以来、アラバマ州モンゴメリーのバプテスト派教会の牧師をしていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件に抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を指導する。11ヶ月後に裁判所から呼び出しがあり運動中止命令かと思っていたが、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取る。これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。

非暴力主義

 キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。
 事実、1963年5月にアラバマ州バーミングハムでのバーミングハム運動の中で、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの警官による事件映像が映し出され、世論は次第にそれらの暴力に拒絶反応を示していった。
 公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比べれば人種差別の撤廃に肯定的であり、州政府ないしは州兵に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。
 キングも1963年4月12日にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、4月19日まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。

I Have A Dream!

 1963年8月28日に行われたワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で有名な“I Have a Dream”(私には夢がある)を含む演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ。
 当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるがその内容は高く評価され、1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説と並び20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。

勝利

 キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。
 ジョンソンは人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ政権時代のことであるが、議会内において強い政治的影響力を持たなかったケネディを後押しし続けたジョンソンが、キングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。
 公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった(受賞発表は10月14日で、授賞式は12月10日だった)。これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。ただし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がキングに同意していたわけではなく、一部の過激派はマルコムXを支持しキングの非暴力的で融和的な方針に反発した。

その後の黒人解放運動

 ワシントンDCへの20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。
 黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れたり(「ブラック・パワー運動」といわれる事もある)、ブラックパンサー党が結成されたり1967年夏にニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。

 キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。

 1. 公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。
 2. 深く根付いた差別意識は依然として教育や雇用の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。
 3. 差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の失業問題は、白人に比べ深刻である。
 4. ベトナム戦争により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。
 5. 大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。

 そして「ベトナム戦争反対」の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。

暗殺

 その後、キングは激化の一途をたどるベトナム戦争へのアメリカの関与に反対する、いわゆる「ベトナム反戦運動」への積極的な関与を始めるようになったが、その主張は一向になくならない人種差別に業を煮やし、暴力をも辞さない過激思想への理解すら示しつつあった「黒人社会」の主流のみならず、ベトナム戦争への関与をめぐり2つに割れつつあった「白人社会」の主流からさえ離れて行き、さらにキングを邪魔だと考える「敵」も増えていった。爆弾テロや刺殺未遂(犯人は精神障害のある黒人女性)もあったが、奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていた。
 1968年4月4日に遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “en:I've Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説。その後メンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーでその夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のならず者、ジェームズ・アール・レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。

 暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『申命記』32章のモーセを思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“en:I Have a Dream”と共に有名なものとなった。

  …前途に困難な日々が待っています。
  でも、もうどうでもよいのです。
  私は山の頂上に登ってきたのだから。

  皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
  長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
  神の意志を実現したいだけです。

  神は私が山に登るのを許され、
  私は頂上から約束の地を見たのです。
  私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
  ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。

  今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
  神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

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暗殺の前日に演説を行うキング牧師

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 次に、キング牧師の1963年8月28日、ワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で行われた“I Have A Dream!”の演説をビデオと原文と和訳をご紹介します。彼の演説に大いなるスピリチュアルを感じる人は多いと思います。なぜなら、彼は、このブログでもご紹介した「引き寄せの法則」を実践した人物だと思われるからです。黒人の自由、平等、解放を訴えて、強い強い意志の波動を宇宙に送り続けたキング牧師は、暗殺されはしたものの、思いは実現しました。


◇ キング牧師“I Have A Dream!”演説

Martin Luther King's Speech I Have A Dream!
August 28, 1963

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I am happy to join with you today in what will go down in history as the greatest demonstration for freedom in the history of our nation.

我が国において、自由のために最も偉大なデモンストレーションとして歴史に残る集会に、今日、皆さんと共に参加できることを私はうれしく思います。

Five score years ago, a great American, in whose symbolic shadow we stand today, signed the Emancipation Proclamation.

今から100年前、今日、我々の目の前にいるその像の偉大なるアメリカ人(=リンカンー大統領)が、奴隷解放宣言に署名しました。

This momentous decree came as a great beacon light of hope to millions of Negro slaves who had been seared in the flames of withering injustice.

この偉大なる宣言は、燃えさかる不正義の炎に焼き焦がされてきた何百万もの黒人奴隷たちに希望を与える大きな光でした。

It came as a joyous daybreak to end the long night of their captivity.

それは奴隷制度の長い夜の終わりを告げる喜びの夜明けでした。

But one hundred years later, the Negro still is not free.

しかし、あれから100年たった今、黒人は、今だに自由ではありません。

One hundred years later, the life of the Negro is still sadly crippled by the manacles of segregation and the chains of discrimination.

100 年たった今、黒人たちの生活は、今なお人種隔離の手かせと人種差別の足かせに縛られています。

One hundred years later, the Negro lives on a lonely island of poverty in the midst of a vast ocean of material prosperity.

100 年たった今、黒人たちは物質的繁栄の広大な海に浮かぶ貧困という孤島に暮らしています。

One hundred years later, the Negro is still languished in the corners of American society and finds himself an exile in his own land.

100 年たった今、黒人たちは今だにアメリカ社会の片隅で苦しんでいて、自分たちの国の中で島流しの状態です。


So we have come here today to dramatize a shameful condition.

私たちが今日この場に集まったのは、この恥ずべき状態を広く世に訴えるためです。

In a sense we've come to our nation's capital to cash a check.

ある意味では、私たちは、小切手を現金に換えるために、私たちの国の首都に来たのです。

When the architects of our republic wrote the magnificent words of the Constitution and the Declaration of Independence, they were signing a promissory note to which every American was to fall heir.

私たちの共和国の創設者が、憲法と独立宣言の崇高なる言葉を書き記したとき、彼らはあらゆるアメリカ人が継承すべき約束手形に署名したのです。

This note was a promise that all men, yes, black men as well as white men, would be guaranteed the "unalienable Rights" of "Life, Liberty and the pursuit of Happiness."

この手形には「生命、自由および幸福追求」という「譲ることのできない権利」が、白人と同様に黒人も、すべての人に保証されるべきであるという約束でありました。

It is obvious today that America has defaulted on this promissory note, insofar as her citizens of color are concerned.

今日、有色人種の市民に関する限り、アメリカがこの約束手形の履行を怠っていることは明白です。

Instead of honoring this sacred obligation, America has given the Negro people a bad check, a check which has come back marked "insufficient funds."

この神聖な義務を守る代わりに、アメリカは黒人たちに、「残高不足」とマークされて戻った小切手である、不渡り小切手を与えているのです。

But we refuse to believe that the bank of justice is bankrupt.

しかし、私たちは、正義の銀行までもが破産していると思うことを拒否します。

We refuse to believe that there are insufficient funds in the great vaults of opportunity of this nation.

私たちは、この国の機会の偉大なる金庫が資金不足になっていると信じることを拒否します。

And so, we've come to cash this check, a check that will give us upon demand the riches of freedom and the security of justice.

従って、私たちはこの、我々の要求に応じて自由という富と正義の保証を与えてくれると言う小切手を換金するために来たのです。

We have also come to this hallowed spot to remind America of the fierce urgency of Now.

私たちは、また、アメリカに今の激しい緊急性を思い出させるために、この神聖な場所に来ているのです。


This is no time to engage in the luxury of cooling off or to take the tranquilizing drug of gradualism.

今は、クーリングオフの贅沢にふけったり、漸進主義という精神安定剤を飲むというような悠長な時ではないのです。

Now is the time to make real the promises of democracy.

今こそ、民主主義の約束が実現されるときです。

Now is the time to rise from the dark and desolate valley of segregation to the sunlit path of racial justice.

今こそ、隔離され暗く荒涼とした谷から人種平等の陽の当たる道に上ってゆく時です。

Now is the time to lift our nation from the quicksand of racial injustice to the solid rock of brotherhood.

今こそ、私たちの国を、人種差別の泥沼から、兄弟愛の揺るぎない岩へと引き上げる時なのです。

Now is the time to make justice a reality for all of God's children.

今こそ、全ての神の子が実際に正義を手にするときです。

It would be fatal for the nation to overlook the urgency of the moment.

現在の緊急な状態を見落とすことは国家として致命的と言えます。

This sweltering summer of the Negro's legitimate discontent will not pass until there is an invigorating autumn of freedom and equality.

黒人の正当な不満が渦巻く蒸し暑い夏は、自由と平等のさわやかな秋になるまで終わらないでしょう。


Nineteen sixty-three is not an end, but a beginning.

1963年は終わりではなく始まりです。

And those who hope that the Negro needed to blow off steam and will now be content will have a rude awakening if the nation returns to business as usual.

黒人にはうっぷん晴らしが必要だったがもう収まるだろうと期待している人々は、この国をこのままもとの状態に戻すつもりなら、嫌な現実をいきなり突きつけられることとなるでしょう。

And there will be neither rest nor tranquility in America until the Negro is granted his citizenship rights.

そして、黒人に公民権が与えられるまで、休息も平穏もアメリカにはあり得な いでしょう。

The whirlwinds of revolt will continue to shake the foundations of our nation until the bright day of justice emerges.

正義が行われる明るい日になるまで、反乱の嵐は我が国の土台を揺るがし続けることになるでしょう。


But there is something that I must say to my people, who stand on the warm threshold which leads into the palace of justice.

しかし、正義の殿堂にいたる情熱的な入り口に立つ仲間に言わなければならない事があります。

In the process of gaining our rightful place, we must not be guilty of wrongful deeds.

我々の公正を得る過程で、我々は不正な行為を犯してはなりません。

Let us not seek to satisfy our thirst for freedom by drinking from the cup of bitterness and hatred.

自由への乾きを、恨みと憎悪の杯を口にすることで満たそうととしてはなりません。

We must forever conduct our struggle on the high plane of dignity and discipline.

私たちは尊厳と規律の高い次元で我々の闘いを永遠に実行しなければなりません。

We must not allow our creative protest to degenerate into physical violence.

私たちの創造的な抗議が物理的な暴力に陥るのを許してはなりません。

Again and again, we must rise to the majestic heights of meeting physical force with soul force.

繰り返し、繰り返し申します、私たちは魂の力で物理的力に立ち向かい、荘厳な高みに上らなければなりません。


The marvelous new militancy which has engulfed the Negro community must not lead us to a distrust of all white people, for many of our white brothers, as evidenced by their presence here today, have come to realize that their destiny is tied up with our destiny.

黒人社会を包み込んでいる素晴らしい新しい闘志が、全ての白人の人々に対する不信に至る必要はなく、白人の兄弟の多くは、今日ここに彼らが存在することで明らかなように、彼らの運命が我々の運命に結びつけられると理解するようになりました。

And they have come to realize that their freedom is inextricably bound to our freedom.

そして、彼らの自由が我々の自由と分かちがたく結びついていると認識しています。

We cannot walk alone.

私たちは一人では歩けません。

And as we walk, we must make the pledge that we shall always march ahead.

そして、いざ歩きだしたら、私たちは前進し続けることを心に誓わなければなりません。

We cannot turn back.

私たちは引き返すことはできません。


There are those who are asking the devotees of civil rights, "When will you be satisfied?"

公民権運動に献身する人に「あなた方はいつになったら納得するのでしょうか?」と尋ねる人たちがいます。

We can never be satisfied as long as the Negro is the victim of the unspeakable horrors of police brutality.

私たちは、黒人が警察の残虐行為による言葉に表せない恐怖の犠牲者である限り、決して満足することはできません。

We can never be satisfied as long as our bodies, heavy with the fatigue of travel, cannot gain lodging in the motels of the highways and the hotels of the cities.

私たちは、旅の疲れで重くなった身体なのに、高速道路に(黒人の) 泊まれるモーテルが無く、街に(黒人の)泊まれるホテルがない限り、 決して満足することはできません。

We cannot be satisfied as long as the negro's basic mobility is from a smaller ghetto to a larger one.

私たちは、黒人の日常的な黄道範囲が、小さなゲットーから大きなゲットーになったにすぎないのである限り満足することはできません。

We can never be satisfied as long as our children are stripped of their self-hood and robbed of their dignity by a sign stating: "For Whites Only."

私たちの子どもが「白人専用」の標識によって彼らの個性をはぎ取られ、彼らの尊厳を奪われている限り、我々は決して満足することかはできません。

We cannot be satisfied as long as a Negro in Mississippi cannot vote and a Negro in New York believes he has nothing for which to vote.

ミシシッピー州の黒人が投票することができず、ニューヨーク州の黒人が投票しても無駄だと信じる状態が続く限り、私たちは決して満足することはできません。

No, no, we are not satisfied, and we will not be satisfied until "justice rolls down like waters, and righteousness like a mighty stream."

決して、決っして、我々は満足はしない、「正義が水のようにこぼれ落ち、公正さが強力な流れになる」まで満足することはないでしょう。


I am not unmindful that some of you have come here out of great trials and tribulations.

私は、あなた方の中には大変な試練と苦難をへてここに来た人々がいる事を忘れてはいません。

Some of you have come fresh from narrow jail cells.

あなた方の中には、刑務所の狭い独房から出てきたばかりの人もいるでしょう。

And some of you have come from areas where your quest -- quest for freedom left you battered by the storms of persecution and staggered by the winds of police brutality.

また、あなた方の中には、自由を求めたために迫害の嵐に見舞われ警察の残虐行為の暴風によろめくままにされている地域から来た人もいるでしょう。

You have been the veterans of creative suffering.

あなた方は苦しみを感じることにベテランでした。

Continue to work with the faith that unearned suffering is redemptive.

不当な苦しみはあがなわれると信じて闘い続けましょう。

Go back to Mississippi, go back to Alabama, go back to South Carolina, go back to Georgia, go back to Louisiana, go back to the slums and ghettos of our northern cities, knowing that somehow this situation can and will be changed.

ミシシッピー州へ帰りましょう、アラバマ州へ帰りましょう、サウスカロライナ州へ帰りましょう、ジョージア州へ帰りましょう、ルイジアナ州へ帰りましょう、北部の街のスラムやゲットーへ帰りましょう、この状況はなんとしても打開するし、 打開されるだろうということを信じて。

Let us not wallow in the valley of despair.

絶望の谷を彷徨うのはもうやめましょう。

I say to you today, my friends, so even though we face the difficulties of today and tomorrow, I still have a dream.

わが友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわれは今日も明日も困難に直面しているが、それでもなお私には夢があると。

It is a dream deeply rooted in the American dream.

それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢です。


I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."

私には夢がある、いつの日か、この国が立ち上がり、「我々は すべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」というこの国の信条を真の意味で実現させることだ。

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

私には夢がある。ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢だ。

I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.

私には夢がある。今、差別と抑圧の炎熱に焼かれるミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変われる日が来るという夢だ。

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.

私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住めるようになるという夢だ。

I have a dream today.

私には、今日、夢がある!

I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of "interposition" and "nullification" -- one day right there in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.

私には夢がある、いつの日かアラバマ州で、目下のところ悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られ、「(連邦政府の)干渉排除」や「(連邦法の実施の)無効化」を主張している州知事のいるアラバマ州においてさえ、将来いつの日か、幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちと兄弟姉妹として手に手を取ることができるようになるという夢だ。

I have a dream today.

私には、今日、夢がある!

I have a dream that one day every valley shall be exalted, and every hill and mountain shall be madelow, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight; "and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall seeit together."

私には夢がある、いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。そして神の栄光が現れ、すべての人々が共にその栄光を見るだろう。

This is our hope.

これは私達の希望なのだ。


This is the faith that I will go back to the South with.

この信念をもって、私は南部へ戻るつもりだ。

With this faith we will be able to hew out of the mountain of despair a stone of hope.

この信念をもってすれば、絶望の山からも希望の石を切り出すこができるのだ。

With this faith we will be able to transform the jangling discords of our nation into a beautiful symphony of brotherhood.

この信念をもってすれば、我々は祖国にうずまく不協和音を人類愛のすばらしいシンフォニーに昇華することができるのだ。

With this faith we will be able to work together, to pray together, to struggle together, to go to jail together, to stand up for freedom together, knowing that we will be free one day.

この信念をもってすれば、いつの日か自由が来るのだということを信じて、我々は共に働き、共に祈り、共に闘い、共に投獄され、共に自由のために立ちあがることができるのだ。

This will be the day...., this will be the day when all of God's children will be able to sing with new meaning "My country 'tis of thee, sweet land of liberty, of thee I sing. Land where my fathers died, land of the Pilgrim's pride, from every mountainside, let freedom ring!"


そしてその日が来れば、その日が来れば、神の子はみなおしなべて、新しい意味をこめて「我が祖国よ、美しい自由の国をたたえ私は歌う。父が骨を埋めた国、開拓者の誇りとする国。すべての山々から、自由よ鳴り響け」と歌えるのだ。

And if America is to be a great nation, this must become true.

そして、アメリカが偉大な国であるならば、このことを実現しなければならない。


So let freedom ring from the prodigious hilltops Hampshire.

だから、自由の鐘を鳴らそう、ニューハンプシャー州の偉大ないただきから。

Let freedom ring from the mighty mountains of New York.

自由の鐘を鳴らそう、ニューヨーク州の悠々しき山々からも。

Let freedom ring from the heightening Alleghenies of Pennsylvania.

自由の鐘を鳴らそう、ヘペンシルベニア州にそそり立つアレギニーの山からも。

Let freedom ring from the snow-capped Rockies of Colorado.

自由の鐘を鳴らそう、雪を頂くコロラド州のロッキー山脈からも。

Let freedom ring from the curvaceous slopes of California.

自由の鐘を鳴らそう、カリフォルニア州のなだらかな山々からも。

But not only that, let freedom, ring from StoneMountain of Georgia.

それだけではない、 自由の鐘を鳴らそう、ジョージア州のストーンマウンテンからも。

Let freedom ring from Lookout Mountain of Tennessee!

自由の鐘を鳴らそう、テネシー州のルックアウトマウンテンからも。

Let freedom ring from every hill and molehill of Mississippi.

自由の鐘を鳴らそう、ミシシッピー州のすべての丘やほんの小さな塚からも

From every mountainside, let freedom ring!

すべての山々から、自由の鐘を鳴らすのだ!

And when this happens, when we allow freedom to ring, when we let it ring from every village and every hamlet, from every state and every city, we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old Negro spiritual.

そうすれば、私たちが自由の鐘を鳴り響かせば、すべての村、すべての集落から、すべての州、すべての街から、自由の鐘を鳴らせば、 すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人(非ユダヤ人)も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取りあって、あの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。

"Free at last! free at last! Thank God Almighty, we are free at last!"

「ついに自由だ、ついに自由になれた。全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ!」と。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/ネルソン・マンデラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

人類の起源とその進化・分岐の過程

 木曜日の新聞記事、スペイン北部の洞窟で発見された古い人骨からDNAの解析に成功したとのことでした。ロシアのデニソワ洞窟で「第3の人類」が発見されたのはつい5年前のことですし、こうした科学の発達、考古学調査が進むにつれ、人類の進化の過程を探る手がかりが明らかとなりつつあります。今回は「人類の起源」についてこれまでに解っていることを勉強してまとめてみました。なお、以前、取り上げました、地球に飛来して人間との交配でDNAを組み込んだ異星人の存在はこれまでのところ確認されてはいないようです。まずは新聞記事のご紹介から、、、。


◇ ハイデルベルグ人 DNA解析の記事

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人類最古のDNA記事

 スペイン北部の洞窟で発見された古い人骨からDNAを取り出し、遺伝情報を解読することに成功したと、独マックスプランク研究所などのチームが5日の英科学誌ネイチャー電子版に発表する。分析の結果、約40万年前の人類とわかった。DNA分析はこれまで、猿人から原人、旧人、現代人へという進化段階のうち、旧人の段階にとどまっていたが、今回は原人の時代(200万~30万年前)までさかのぼり、最古の例になるという。洞窟からは28体分の骨が見つかった。欧州最古の人類で原人と旧人の中間にあたるハイデルベルク人とみられる。研究チームは、保存状態のよい大腿(だいたい)骨から、細胞内の小器官「ミトコンドリア」のDNAを取り出して解読した。これを、旧人である欧州のネアンデルタール人(20万~3万年前)とシベリアのデニソワ人(5万~3万年前)のDNAと比較。長い年月の間に生じた変化の量などから、洞窟の人類は約40万年前のものと断定した。この人類が、デニソワ人の祖先と70万年前に枝分かれしたこともわかった。

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 今回の記事で取り上げられたのは「欧州最古の人類で原人と旧人の中間にあたるハイデルベルク人」とされるもので、その発見は1907年、ドイツのハイデルベルク近郊のマウエル村とのことです。記事の中でも触れられ、冒頭でご紹介しましたデニソワ人の発見がつい5年前ですので、こうした古人類学は長いスパンで進歩するものであることが伺われます。これまでに解っている化石人類をまとめて参ります。

※古人類学

 形質人類学(自然人類学)から派生した学問領域で、特に霊長目内からヒト(ホモ・サピエンス)への進化の系譜の過程の解明を中心に、その過程にあったと思われるヒト科の生態を研究する学問です。広い意味では古生物学に属しますが、古生物学と考古学の隙間を埋める学問とも言えましょう。

※化石人類

 現在ではすでに化石化してその人骨が発見される過去の人類を言います。人類の進化を考察していくうえで重要な化石資料となり、資料そのものは化石人骨と称されます。主に第四紀更新世(洪積世)の地層で発見されるので更新世人類ないし洪積世人類とも呼ばれます。化石人類(化石人骨)は、人類学とくに古人類学(化石人類学)においてきわめて重要な資料であり、その形質的な研究によって、人類の進化過程が徐々に明らかにされつつあります。大きく、猿人、原人、旧人、新人に大別されます。

人類の進化 画
左から猿人、原人、旧人、新人、そして現代人


◇ アルディピテクス属(猿人)

学名:genus Ardipithecus
時期:約580〜440万年前
地域:エチオピア
発見:1992年(公表は2009年)
体型:身長 120 cm、体重 50 kg、脳容積 300〜370 ml
特徴:直立二足歩行

 エチオピアで発見され、長らく最古の人類とされてきたアウストラロピテクス属より、いっそう古い時代の化石人類です。 哺乳綱- 霊長目- ヒト科- ヒト亜科に分類され、ヒト族- ヒト亜族中の1属であり、アルディピテクス・ラミドゥスとアルディピテクス・カダッバの2種からなります。体型はチンパンジーとほとんど変わりませんが、骨格から直立二足歩行をしており、この点が、脳の発達を助け、霊長類と大きな違いとされます。

アルディピテクス
アルディピテクスの頭骨(左)と二足歩行の模式図(右)


◇ アウストラロピテクス(猿人)

学名:Australopithecus
時期:約400〜200万年前
地域:中東アフリカ
発見:1924年
体型:身長 120〜140 cm、脳容積 500 ml(現生人類の35%)
特徴:当初は道具使用なく最後期で石器使用

 哺乳類霊長目(サル目)ヒト科の絶滅した属で、アフリカで生まれた初期の人類とされます。アルディピテクス属と同様に直立二足歩行していたとされます。アフリカ大陸の東部、南部のサバンナ、疎林や灌木のある草原の環境に適し、食料は植物質を中心に、小動物の狩猟、肉食獣の食べ残しのあさり(スカベンジング)をしていたようです。

アウストラロピテクス
アウストラロピテクスの頭骨(左)とイメージ(右)


◇ パラントロプス(猿人)

学名:Paranthropus
時期:約200〜120万年前
地域:東アフリカ、南アフリカ
体型:身長 130〜140 cm、顎と側頭筋が発達
特徴:堅い食物を摂取する方向に進化

 アウストラロピテクスよりも体型、脳容積ともに大きくなりましたが、形態的には、むしろアウストラロピテクスよりヒト的な特徴が減少しました。硬い植物性の食物、根などを常食としていたと考えられ、咀嚼のための高く厚い下顎と太い側頭筋、それを通すために張り出した頬骨弓および大型の臼歯など頑丈な咀嚼器を有してます。以前は、アウストラロピテクス属に含められた時期もありました。


◇ ハビリス原人

学名:Homo habilis
時期:約230〜140万年前
地域:タンザニア
発見:1964年
体型:身長 130 cm、脳容積 700 ml(現生人類の50%)
特徴:石器使用

 現在分かっている限り最も初期のヒト属であり、類人猿でも現代人でもない進化の過程とされる原人の出現です。容姿はヒト属の中では現生人類から最もかけ離れており、ヒト科の猿人、アウストラロピテクスから枝分かれしたと考えられています。


◇ ジャワ原人

学名:Homo erectus erectus
時期:約180〜50?万年前
地域:インドネシア ジャワ島
発見:1891年
体型:身長 160~180 cm、大腿骨がまっすぐ長く現代人に近い、
   脳容積 900〜1100 ml

 発見当初はピテカントロプス・エレクトス(直立猿人)と命名され、猿人の一種と考えられましたが、その後、ヒト属に変更され、原人としてホモ・エレクトス・エレクトスと呼称が変わりました。

原人
ジャワ原人の頭骨(左)と原人の生活イメージ(右)


◇ 北京原人

学名:Homo erectus pekinensis
時期:約50万年前
地域:中国 北京市
発見:1929年
特徴:火の使用、食人の週間?

 アフリカ大陸に起源を持つ原人の一種でありますが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられています。石器や炉の跡が同時に発見されていることから、石器や火を利用していたされており、また、動物の骨が近くに見つかったことから、それらを焼いて食べていたと考えられます。さらに、原人の骨自体が粉々にされていたので、北京原人の間では食人の風習もあったという説もまた有力であります。


◇ ハイデルベルグ人(原人〜旧人の移行期?)

学名:Homo heidelbergensis
時期:約60〜12.5万年前
地域:ドイツ ハイデルベルグ近郊、スペイン、アフリカ
発見:1907年
体型:身長 180 cm、脳容積 1100〜1400 ml
特徴:人間的な行動

 原人(ホモ・エレクトス)と旧人の間に位置して考えられており、スペイン、アフリカでも同様な化石人骨が発見され、アフリカのものはホモ・ローデシエンシスと呼ばれることもありますが、ハイデルベルグ人とほぼ同等と考えられております。

ホモ・ハイデルベルグ人
ハイデルベルグ人頭骨(左)と生活イメージ(右)


◇ ネアンデルタール人(旧人)

学名:Homo neanderthalensis
時期:約20万年前〜2万数千年前
地域:ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジア
発見:1830年
体型:身長 165 cm、脳容積 1600 ml(現生人類は1450 ml)、
   遠目には現生人類とほぼ変わらない外見
特徴:現生人類と同等な知能の可能性、旧石器時代の石器作製、ムステリア文化、
   住居、埋葬、芸術、食人、火使用、

 ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアに幅広く分布して、約20万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種、旧人とされます。我々現生人類であるホモ・サピエンスの最も近い近縁種であります。後述んぼデニソワ人、インドネシアのフローレス島で発見された身長1mで脳の小さいフローレス人も旧人であり、ネアンデルタール人の兄弟種の可能性が高いです。
 かつて、ネアンデルタール人を我々ホモ・サピエンスの祖先とする説がありましたが、遺骨から得られたミトコンドリアDNAの解析結果では、ネアンデルタール人は我々の直系先祖ではなく別系統の人類であることが明らかとなりましたが、一方、現生人類ホモ・サピエンスのDNAに分岐後ネアンデルタール人の遺伝子が再混入している、すなわち交配が行われた可能性があることが指摘されております。
 各地に広く分布して多数の良好な化石が出土しておりますので、ネアンデールタール人はその生活様式が深く理解されております。彼らの文化はムステリアン文化と呼ばれ、旧石器時代に属しております。以下、ネアンデルタール人の文化を列挙いたします。

 ・ルヴァロワ式技術で石器を制作、木棒にアスファルトで接着して使用
 ・洞窟を住居とし、海藻などをベッドに用い、火を積極的に使用
 ・死者を悼む心あり、副葬品(花など)を遺体に添えて埋葬(屈葬)した
 ・動物の皮をなめして防寒用のコートを作るなどの服飾文化
 ・後期には芸術活動が行われた可能性
 ・調理痕のある化石が発見から共食いの風習があった可能性
 
 ネアンデルタール人が絶滅したのは2万数千年前とされますが、その原因はよくわかっていません。クロマニョン人(新人)との暴力的衝突により絶滅したとする説、獲物が競合したことにより段階的に絶滅へ追いやられたとする説、ホモ・サピエンスと混血し急速にホモ・サピエンスに吸収されてしまったとする説など諸説あります。

ネアンデルタール人
ネアンデルタール人の頭骨(左)とイメージ(右)


◇ デニソワ人(旧人)

学名:Denisova hominin
時期:約100?, 64?, 35?万年前〜4万年前?
地域:ロシア 西シベリアアルタイ山脈 デニソワ洞窟
発見:2008年
体型:ネアンデルタール人と同等かやや大きい

 2008年、ロシア西シベリアアルタイ山脈のデニソワ洞窟で子どもの骨の断片が発見され、放射性炭素年代測定により約41,000年前のものと推定されました。2010年、骨のミトコンドリアDNAの解析結果から、100万年ほど前に現生人類から分岐した未知の新系統の人類と報告されました。また同年、細胞核DNAの解析の結果、ネアンデルタール人と近縁なグループで、80万4千年前に現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であることが推定されました。その後、メラネシア人のゲノムの4-6%がデニソワ人固有のものと一致すること、現在のメラネシア人にデニソワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いことが判明し、また、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソワ人由来という研究発表も出され、ネアンデルタール人との分岐も35万年前との説も浮上しております。
 現在のところ、40万-30万年前にアフリカを出て、中東を経てヨーロッパに拡がった集団がネアンデルタール人に、中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人になった、それに遅れて6万 - 5万年前にアフリカを出た我々現生人類の祖先は、中東やアジア内陸部で先住者のネアンデルタール人やデニソワ人と交雑しながら全世界に拡がり、現在に至った、そのように考えられております。

デニソワ人の歯とデニソワ洞窟
デニソワ人の歯(左)とデニソワ洞窟(右)


◇ フローレス人(旧人)

学名:Homo floresiensis
時期:約84万年前〜現代?
地域:インドネシア フローレス島
発見:2003年
体型:身長 1 m、脳容積 380 ml、ただし、背内側前前頭皮質(自意識に関与)
   の脳重量比では現代人と変わらず
特徴:二足歩行は苦手だったと思われるが、火を使い、知能は高かった

 インドネシアのフローレス島で発見された、約1万2千年前まで生息していた小型のヒト属の新種の可能性が取りざたされている生物です。身長は1mあまりで、それに比例して脳も小さいが、火や精巧な石器を使っており、知能は高かったと考えられております。身体が小さいですが、脳の発達が考えられ、原人よりも旧人の範疇に入れられており、直接の祖先ホモ・エレクトスが矮小化したもの、より原始的な祖先に起源を持つ可能性、ホモ・ハビリスから進化したという説などがあります。
 フローレス島には、3万5千年から5万5千年前頃より人類が住んでいたと考えられており、その場合、ホモ・サピエンス(現生人類)とフローレス人が同地域に共存していたことになります。また地域は違いますが、このフローレ人、デニソワ人、ネアンデルタール人、そして現生人類の4人類が同じ時代に存在していたことになります。
 フローレス人は、1万2千年前に起こったインドネシア火山の爆発で、ステゴドン等と共に滅んだと考えられておりますが、現地にエブ・ゴゴ (Ebu Gogo) という小さい毛深い洞窟人の伝説があり、16世紀にオランダ人が到着した際もその伝説を聞いており、19世紀ごろまで小人族を目撃したという話がありました。近くのスマトラ島にも、オラン・ペンデク (Orang Pendek) という同様の種族の伝説があり、現代での目撃例もあります。従って、この付近の島々にホモ・フローレシエンシスが生き残っている可能性は否定できません。

ホモ・フローレンス
フローレス人の頭骨(左)とイメージ(右)


◇ クロマニョン人(新人、現生人類)

学名:Homo sapiens sapiens, Cro-Magnon man
時期:約20万年前〜現代
地域:フランス、ヨーロッパ
発見:1868年
体型:現代人(とりわけヨーロッパ人)とほぼ同等
特徴:優れた洞窟壁画や彫刻、死者を丁重に埋葬、呪術など、進んだ文化

 新人、現生人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられています。旧人類もこの時代にまだ生き残っていたのですが、次第に新人に取って代わられたようです。代表としてクロマニョン人と上洞人が挙げられます。
 精密な石器・骨器などの道具を製作し、優れた洞窟壁画(スペイン アルタミラやフランス ラスコー など)や彫刻を残しました。また、死者を丁重に埋葬し、呪術を行なった証拠もあるなど、進んだ文化を持っていたと考えられております。主流派の学説ではクロマニョン人はそのまま現代人へと遺伝的に繋がっているとされます。高い文化のわりには、狩猟採集生活をし、イヌ以外の家畜を持たず、農耕はまだ知らなかったとされます。


クロマニヨン人とアルタミラ洞窟壁画
クロマニヨン人頭骨(左)とスペイン アルタミラ洞窟壁画(右)


◇ 人類の起源と進化・分岐のまとめ

 以上、解る範囲内で化石人類を列挙、要約して参りました。発見の年代が古く、多くの学説が生まれては消え、研究が進んでいるものもあれば、つい最近になって発見された種もあります。昨今のDNA解析の進歩はめざましく、今後も多くの真実が明らかになることと思います。こうした、「人類はどこから来たのか?」と言う人類の起源を知ることは、現在までの文化や思想、文明の起源にも繋がるものであり、それは「人類はどこへ行くのか?」と言う未来への発想にも繋がるものであります。スピリチュアル周辺記事として本記事を記録させていただきます。以下に、人類の起源と進化・分岐の過程を模式図にして見ました。参考になれば幸いです。

真の最新 人類の進化 図
人類の起源と進化・分岐の過程


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131204-00001610-yom-sci
http://nationalgeographic.jp/nng/article/20130619/354943/
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルディ_(アルディピテクス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/アウストラロピテクス
http://ja.wikipedia.org/wiki/パラントロプス
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホモ・ハビリス
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャワ原人
http://ja.wikipedia.org/wiki/北京原人
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホモ・ハイデルベルゲンシス
http://ja.wikipedia.org/wiki/ネアンデルタール人
http://ja.wikipedia.org/wiki/デニソワ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホモ・フローレシエンシス
http://ja.wikipedia.org/wiki/クロマニョン人