アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

食人(カニバリズム cannibalism)


 正月早々の記事としては不適切かも知れませんが、ちょっと気になったことを勉強して文章にするスタンスですので、季節やタイミングは関係ないことがあることをご容赦いただければ幸いです。また、いささか気持ちの悪い題材ですが、その点も知識欲に免じてご理解いただければと思います。
 さて、きっかけは、1月4日のYahooニュースが目に止まり、「旧人類が共食い 遺跡から証拠」と言う内容でありました。昔から「人食い人種」と言う言葉があって、現生人類である新人、ホモ・サピエンス(=クロマニヨン人)以前の、絶滅したとされる旧人の一種、ネアンデルタール人が食人をしていたとしても、そんなに大きな問題ではないような気がして、ちょっとこの「食人」について勉強してみました。まずはYahooの記事から、、、。


◇「ネアンデルタール人が食人」の記事

ネアンデルタール人の食人記事

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 【AFP=時事】ネアンデルタール人がウマやトナカイを食べるだけでなく、共食いもしていたことを示す証拠が、ベルギーのゴイエ(Goyet)洞窟群の奥深くで発見された。

 発見した研究チームによると、約4万年前に生きていた成人または若者4人と子ども1人、新生児1人の人骨には、内部の骨髄を取り出すために切断、粉砕された明確な痕跡があるという。
 ベルギー人考古学者のクリスティアン・カセイヤス(Christian Casseyas)氏は、アルデンヌ(Ardennes)の森にあるこの遺跡内の渓谷の中腹に位置する洞窟をのぞき込みながら「ここで食人が行われていたことは、反論の余地がない」と話す。

 ゴイエ洞窟の人骨は、ネアンデルタール人が現生人類ホモ・サピエンス(Homo sapiens)に取って代わられ、地球上で絶滅を迎えつつあった頃の年代を示している。またネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスとも交配していた。
 利口な現生人類によって絶滅に追いやられた原始的な穴居人と以前はみなされていたネアンデルタール人が実際には、死者の遺体を丁重に扱い、埋葬の儀式を行う洗練された人々だったことが、これまでの研究で明らかになっている。

 だが、ネアンデルタール人が死者を食べていたことを示す証拠も増えている。

 ネアンデルタール人による食人の事例はこれまで、スペインとフランスに存在した南欧のネアンデルタール人個体群でしか見つかっていなかった。
 ゴイエ洞窟群は、旧石器時代より住居として使われていた。全長250メートルに及ぶ洞窟の回廊部は、数メートル下を今も流れる小川のサムソン(Samson)川が石灰岩に穴を開けて形成した。

■ 骨髄を取り出す

 米カリフォルニア州立大学ノースリッジ校(California State University Northridge)の人類学者、エレーヌ・ルジェ(Helene Rougier)氏率いる国際研究チームは今回、ゴイエ洞窟で発見された人骨から、そこに居住していたネアンデルタール人が食人種だったことを証明した。
 人骨は「解体して肉を取り去るために」切断された痕跡を示していると、カセイヤス氏は指摘。ネアンデルタール人は「洞窟の入り口で見つかったトナカイやウマの骨を砕くのと同じ方法で、これらの人骨を粉砕していた。その目的は間違いなく、骨髄を取り出すためだ」と同氏は続けた。
 ルジェ氏はAFPの取材に、「実際に、ここで何人かのネアンデルタール人が死んで食べられたという結論を下すことができる」と語った。北欧でこのような証拠が見つかったのは初めて。同氏は2016年7月、ベルギーの洞窟に関する研究を英科学誌ネイチャー(Nature)系オンライン科学誌「サイエンティフィック・リポーツ(Scientific Reports)」に発表している。

 「これらの人骨の一部は、フリント石器の刃を研ぎ直して切れ味を良くするための道具を作るのにも使われた」と、ルジェ氏は述べた。

 だが、食人行為が行われていた理由と、どの程度の規模で行われていたかについては、謎のままだ。「組織的に行われていたのか。何らかの特別な時だけだったのか」とルジェ氏は問いかける。「この食人行為の背景にある理由をどのように解釈すべきか分からない。純粋に食べるための可能性もあるが、象徴的な行為だった可能性もある。理由は不明のままだ」と、ルジェ氏は話している。【翻訳編集】 AFPBB News

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◇「食人」の概要

 「食人(カニバリズム、cannibalism)」とは、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣を言います。食人俗、人肉嗜食、アントロポファジー、anthropophagyなどとも言います。文化人類学における「食人」は、該当する社会において制度的に認められた慣習や風習を指し、一時的な飢餓による緊急避難的な食人や、精神異常者による食人行為は含みません。別の言い方をすれば、、、

 非文化人類学的 = 非社会的行為 
 文化人類学的  = 社会的行為
  

 、、、と説明されております。ここでは、まずは非文化人類学的 = 非社会的行為 としての食人をご紹介し、次いで文化人類学的 = 社会的行為 としての食人をまとめてみました。なお、「文化的」、「社会的」と言えば、「正当な」、「正しい」、「道徳的」行為のように聞こえますが、そうではなく、あくまでも分類上の呼び名であります。


◇ 非文化人類学的、非社会的 食人

1.飢餓による緊急避難的な食人

 食料が得られず、生命維持のための緊急避難的な食人は世界各地で報告があります。近年の著名な例としては1972年のウルグアイ空軍機571便遭難事故が挙げられ、遭難した乗客らは、死亡した乗客の死体の肉を食べることで、救助されるまでの72日間を生き延びたとされます。1846年のアメリカにおいて、シエラ・ネバダ山脈山中トラッキー湖畔における西部開拓者のキャラバン・ドナー隊の遭難事故では、発覚までに既に隊の中で死亡者を食べるという緊急避難措置が行われました。

【緊急避難的な食人の例】
・1816年 フランス メデューズ号の遭難事故で生き延びた15名による死亡者の食人行為
・1845年 イギリス ジョン・フランクリン北極探検隊の遭難事故
・1846年 アメリカ東部の西部開拓者のキャラバン・ドナー隊の遭難事故(上述)
・1918年 アメリカの貨物船デュマル 落雷による沈没で救助漂流中の死亡者の食人行為
・1943年 日本陸軍の御用船が知床岬沖で遭難した「ひかりごけ事件」、有罪判決
・1972年 ウルグアイ空軍機571便遭難事故(上述)

2.人肉嗜食

 もう一つの非文化人類学的、非社会的 食人として挙げられるのが「人肉嗜食」であり、特殊な心理状態での殺人に時折見られる食人のことで、緊急性がなく、かつ文化や社会的な裏づけのない行為であります。多くは猟奇的殺人に伴う死体損壊として、また、しばしば性的な幻想、性倒錯、変態性欲(フェティシズム fetishism)の一環として現れる行為であります。倫理的に容認されない行為、タブーとされるがゆえに、それを扱った文学、芸術は多く見られます。

 犯罪者であるため敬称を略して、簡単に例を挙げますと、アメリカの連続殺人犯、アルバート・フィッシュは1910年〜34年の間に主として400人の児童を殺害して食人も行いました。逮捕後の裁判で精神異常との弁護もありましたが死刑が執行されました。
 同じくアメリカで、1990年代初頭の全米を震撼させたのはジェフリー・ライオネル・ダーマーと言う30代のホモセクシャルの青年で、17人の青少年を性的な物体として殺害し、食人行為も行いました。逮捕後、死刑を希望するもウィスコンシン州の法律により終身刑となりましたが、享年34歳、刑務所内にて別の囚人に撲殺されました。
 日本人の殺人者で「パリ人肉事件」で有名なのは佐川一政です。1981年6月、フランスのパリに留学していた佐川(当時32歳)は友人のオランダ人女性留学生(当時25歳)を自宅に呼び出し、背後から射殺、衣服を脱がせ屍姦した後、遺体の一部を生のまま食べ、また遺体を解体して写真を撮影、一部をフライパンなどで調理して食べたとされます。逮捕されるも心神喪失状態と判断、不起訴処分となり精神病院に入院、帰国後も都内の精神病院に入院しましたが、退院後はマスコミに有名人として扱われ、講演や雑誌への執筆も行いましたが、今は生活保護で生活しており、幼少の頃から食人の欲求が芽生えたと語っているそうです。

【人肉嗜食の例】
・1910〜34年 米国犯罪史で史上最悪の殺人鬼、400人を殺害、食人したフィッシュ(上述)
・1919〜24年 独 フリッツ・ハールマン 24人の男性を男色行為中に殺害、食人
・1950年代 米国 エド・ゲインによる連続殺人、食人および墓場からの死体遺棄、物品の作製
・1978〜90年 露 アンドレイ・チカチーロ 52人の女子供を暴行殺人、食人
・1981年 仏 日本人、佐川一政による「パリ人肉事件」(上述)
・1990年代初頭 米国 青少年ばかり17人を殺害、食人したダーマー(上述)
・2001年 独 アルミン・マイヴェス 希望者をインターネットで募り、応じた男性を殺害、食人

佐川一政と被害者
佐川一政(左)とその被害者

【人肉嗜食を題材とした作品】
・「雨月物語 青頭巾」(上田秋成):江戸時代後期の読本 東北の食人鬼と化した僧侶が改心する話
・「我が子を食らうサトゥルヌス」(フランシスコ・デ・ゴヤ):スペインの絵画
・スウィーニー・トッド:19世紀英国の様々な怪奇小説に登場する食人する殺人鬼
・「羊たちの沈黙」(トマス・ハリス):米国の小説、映画 人肉嗜好のハンニバル・レクター博士

フランシスコ・デ・ゴヤ我が子を食らうサトゥルヌス]
フランシスコ・デ・ゴヤ の「我が子を食らうサトゥルヌス」

レクター博士の写真
映画「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)


◇ 文化人類学的食人の概念

 主としてある集団で行われる飢餓に対する緊急避難的な食人や、単発で発生する精神障害に伴う人肉嗜食とは異なり、ある地域社会、部族、民族、国家で文化的な行為として行われた食人であります。その精神として、特定の社会において、同種である人間の体(肉体や内臓、脳など)を摂取することにより、自らに特別な効果や力、または栄誉が得られるとの観念が挙げられます。また、しばしばその社会の宗教観、自然の動植物との関連を崇拝する思想(トーテミズム)と密接に関係しているとされます。ここでは、族内外に対する食人の形態と、薬用としての食人を紹介します。

1.族内食人

 自分の仲間を食べることを「族内食人」と言います。死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いがあるされ、親族や知人たちが死者を食べることにより、魂や肉体を分割して受け継ぐことができるという考えであります。後述のニューギニア島の部族にはこの習慣が原因するプリオン感染が指摘されております。

2.族外食人

 自分達の敵を食べることは「族外食人」と分類されます。復讐など憎悪の感情が込められると言う指摘と、被食者の力を自身に取り込もうとする意図が考えられております。歴史上、各地の戦場で食人は行われており、これは必ずしも兵糧の補給のためでは無かったとされております。

3.薬用としての食人

 古くから死者の血肉が強壮剤や媚薬になるとする考えは欧州はじめ世界中に見られました。人間のミイラには一種の漢方薬として不老不死の薬効があると信じられていて、主に粉末としたものが薬として服用されました。また中国や日本で、肝臓や脳などを薬にして服用した時代もありました。現在でも、胎盤(プラセンタ)が美容と健康に有効とされており、馬、豚、羊に加えて人由来のものが食されましたが、これも広義には食人と考えられます。平成15年の薬事法改正で、人由来のものは医療用注射製剤以外は使用できなくなりました。


◇ 各地の文化人類学的食人

 以下、世界各地の文化人類学的食人を古い順にご紹介いたします。飢饉、食料不足に伴う非文化人類学的食人と薬用としての食人は省略いたします。

1.スペイン北部 アタプエルカ遺跡

 スペイン北部のアタプエルカ遺跡で発掘される「最初のヨーロッパ人」の遺骨は35万年前に遡り、20万年前以降のホモ・サピエンス・サピエンスに至るまで幅広い人類の生活の痕跡が発見されております。この先史人類たちが人肉を食べており、しかも、とりわけ子どもの肉を好んでいたことが明らかになっており。遺骨の分析によると、食人は、儀式としてではなく食用で行われていました。当時、食料や水は豊富にあり、イノシシやウマ、シカの狩猟も可能であり、食料不足で食人が行われたのではなく、敵対する相手を殺し、その肉を食べたと考えられております。

アタプエルカ遺跡 写真
スペイン北部 アタプエルカ遺跡

2.古代ギリシャ時代の遊牧民 アンドロゴバイ

 紀元前6世紀ころの古代ギリシャ時代に黒海の北(現在のウクライナ北部)に住んでいた遊牧民で、古代ギリシャの歴史家、ヘロドトスの記録中、「周辺のタウロイ,アガテュルソイ,ネウロイ,メランクライノイ,ゲロノイ,ブディノイ,サウロマタイら諸族の中では唯一、人肉を食す。」と紹介されており、「アンドロゴバイ」とは「食人族」の意味であります。

アンドロゴバイ 地図
紀元前6世紀の黒海周辺の民族

3.古代から近世の中国

 中国では古代から近世にかけて食人の習慣が非常に盛んでありました。紀元前500年頃、春秋時代では、「孔子は人肉を好んでいた」、「当時の食人は中国社会ではごく自然な行為であった」との説がありますし、宋の時代(960-1279年)の武装集団ほど頻繁に食人肉を行なったとされます。中国が他文化の食人と比べ特徴的なのは、食人が精神異常行為、宗教的行為、緊急避難行為などではなく、恒常的な食文化として根づいていたとされます。

4.アメリカ アステカ文明

 1428年頃から1521年まで北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明、アステカ帝国は、国家レベルで食人を制度化していた稀有な国家であり、各所で発生する戦争や反乱で得た捕虜を首都に送り、食糧として消費していました。生きた状態の生贄から黒曜石のナイフで心臓を抉り取り、神に捧げ、体の部分は投げ落として切り刻み、トウモロコシとともに煮込んで食べられたとされます。ただし、人肉を食すことが許されたのは上流階級のみだったとのことです。

アステカの絵文字 写真
アステカの絵文書;土鍋の中の人体と人肉を食べる人々

5.パプアニューギニア少数民族 フォレ族

 パプアニューギニアにフォレ族と言う少数民族がいて、この民族に特異的な風土病に、クロイツフェルツ・ヤコブ病に類似した病態の、クールー病と言う治療不能な神経の変性をもたらす伝達性海綿状脳症があります。この病原体に人プリオンが証明されており、その感染源として、同民族が葬儀に際して遺体を食する習慣があるための経口感染とされております。

6.チベット 宗教団体シャムバラ

 チベットでは、1930年代にシャンバラを標榜する宗教団体が信徒を御供にして人肉食儀式を行っていたという報告があります。

7.インド シヴァ教一派 アゴーリの行者

 インドではシヴァ教の一派であるアゴーリの行者が食人を行うとされます。彼らは神通力を得るためにガンジス川から水葬遺体を引き上げ、その肉を食するとされます。


◇ あとがき

 人の体(筋肉、内臓、脳)を食べるなど、考えたくもない気持ちの悪いことではありますが、飢餓や食物の不足とは別の理由で、社会習慣として、あるいは宗教の一環として、行われた歴史がありました。これは、好むと好まざるとに関わらず、また善悪の区別は問わず、人間の精神領域に起こった出来事と考えます。ネアンデルタール人は、次に現れる新人、ホモ・サピエンス(現生人類)により絶滅に追い込まれたとされますが、死者の遺体を丁重に扱い、埋葬の儀式を行う、現生人類に近い精神を持っていたと考えられ、それならば現生人類で行われてきた食人もネアンデルタール人がしていたとしても不思議はないと思う次第であります。
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フランス、特定の個人を糾弾してまで主張する「表現の自由」???


 「年別『出来事』のページ」のカテゴリーを、とりあえず2011年から2014年まで「第二版」として掲載しました。このカテゴリーは、私自身が歴史を勉強、記録する場として、新たに分かった真実を加えたり、さらに過去に遡り、未来に積み上げて、更新して参りたいと考えております。客観的な箇条書きの羅列でありますが、なんとなく世界情勢が見えて来るような気がします。

 さて、昨年より世界の「出来事」、主役の座に君臨しているのは「イスラム国」だと思います。イスラム教の創始者で預言者であるムハンマドに関する風刺画を掲載していたフランス、パリの新聞社「シャルリ・エブド」が武装した2人組のイスラム教男性に襲撃され、イスラム教徒である警察官が射殺されるなどの事件がありました。


◇「表現の自由」、風刺画掲載への賛否

 テロの標的となった新聞社は、事件から1週間後に発行した最新号にイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載し、イスラム教徒の間から批判や反発が強まっていて、世界各地で連日抗議デモが行われる事態となっています。こうした中、フランスの日曜紙は18日、今回の風刺画の掲載についてどう思うか、16日からの2日間、およそ1000人の市民に尋ねた世論調査の結果を発表しました。それによりますと、「イスラム教徒の反発にかかわらず、風刺画は掲載すべきだ」と答えた人が57%だったのに対し、「風刺画の掲載は控えるべきだ」と答えた人も42%に上り、賛否が分かれていることが明らかになりました。

 イスラム教徒の反発にかかわらず風刺画は掲載すべき 57%
 風刺画の掲載は控えるべきだ            42%


 フランスでは「表現の自由」が重んじられ、オランド大統領もシャルリ・エブドを擁護する立場を示していますが、今回の結果を受けて、今後「表現の自由」の在り方を巡る議論が一層活発になることも予想されると、NHKニュースWEBは伝えています。


◇ 仏新聞社 シャルリ・エブド のムハンマド風刺画

 私はフランス語を読めませんので、内容は解りませんが、意図を推し量れるいくつかを抜粋、掲載します。解説は省略いたします。

ムハンマド 風刺画04

ムハンマド 風刺画 01

ムハンマド 風刺画03

ムハンマド 風刺画02

 解説は省略いたしましたが、おおよそ特定の人物を貶めている内容であることは言うまでもありません。


◇ 特定の個人を糾弾する「表現の自由」?

 まず、はじめに大前提を申しますと、テロ行為、殺人に及ぶものは絶対に反対する立場であります。いかなる理由であろうとも、暴力に出てしまえば、新たな暴力を生むだけであります。別の平和的抗議活動を行使せずにテロに及ぶのは、抗議が目的ではなく、テロ行為そのものが目的で、抗議行動と言うのはただの言い訳のように思えます。

 基本的にテロ行為には絶対に反対

 しかしながら、多くのイスラム教徒は風刺画を見て、どう思っているのでしょうか? あるいは宗教からは離れた見地で、ムハンマドの子孫がいるとして、その個人が自分の先祖の特定の人物に対する風刺画を見たらどう感じるでしょう?

 多くのイスラム教徒の感情は?
 ムハンマドの子孫の感情は?


 良識ある大多数のイスラム教徒はテロを起こしていません。ムハンマドの子孫も同じです。でも、彼らが風刺画を見て心穏やかでいるでしょうか? 不快に感じることはあっても、心から面白い、愉快と思う人は少ないと思います。そういう、特定の個人を糾弾すること、特定の人々に不快感を及ぼすことに「表現の自由」が適応されるならば、それは日本人とは異なるフランスの考え方のように思います。


◇ そもそも最近のイスラム社会とムハンマドを同一視する大いなる間違い

 「イスラム国」をはじめ、「イスラム原理主義」、「イスラム過激派」などと、「イスラム」と頭に付いた、悪の集団のような観念が欧米諸国、日本にもあります。これらはイスラム教とは全く関係がないでしょう。平和を唱えるイスラム教の教理とは懸け離れた行動をとる組織であります。

 平和を唱えるイスラム教の教理とは懸け離れた組織

 つまり、最近のイスラム社会とイスラム教祖である預言者ムハンマドを同一視するところに大きな問題があって、今のイスラム問題を糾弾する目的でムハンマドの風刺画を載せること自体、社会と歴史に対する大いなる間違った認識だと思います。

 新聞社が「表現の自由」を主張するのは当然だと思いますが、今回のフランス、パリの新聞社「シャルリ・エブド」の風刺画は、自分たちは社会にも歴史にも認識が甘く、また罪なきイスラム教徒、ムハンマドと言う個人、その子孫に対して、名誉毀損ともなり得る、間違った表現、不適切な表現、もっと言えば自分たちはそういう低いレベルの存在であるという表現に過ぎないように思います。


 テロを肯定するわけでは絶対になく、テロが起こりうるから風刺画をやめろというわけでもなく、風刺画そのもののモラルを考え、この掲載、表現(の自由)に異論を申す立場であります。

死刑制度をめぐる国際社会の現状

「死刑執行という未知のものに対するはてしない恐怖が、私の心を
たとえようもなく冷たくする時がある」


 元プロボクサーで、死刑囚として約48年もの間、身柄を拘束された 袴田 巌(はかまだ いわお)さん(78歳)が昭和48年、獄中から兄に宛てた手紙の一文とされます。死刑に対する言いようのない恐怖がつづられております。この、昭和41年に起きた「袴田事件」が検察および警察の捜査手法に問題があったのか、証拠が捏造されたものなのか、いわゆる冤罪であったのかは、今後の動向に注目したいと思います。なお、1949年に第二次世界大戦以前の刑事訴訟法に代わって現行の刑事訴訟法が施行されて以後、死刑判決を受けて死刑囚になったものの、再審で無罪判決を受けて釈放された事例に、免田事件、松山事件、島田事件、財田川事件がありました。
 似たような推移を取ったケースで「飯塚事件」というのがありました。平成4年に2人の女児が殺害された事件で逮捕、起訴された男性に死刑判決が下り、平成18年には刑が確定したものの、再審請求が出される動きの最中、平成20年に刑が執行されてしまいました。今なお再審の請求中であるこの事件も、実は冤罪かも知れず、しかし刑の執行と言う形で被疑者の生命は奪われてしまいました。
 こうした事例に接するにつけ、いわゆる「誤判の可能性」から死刑制度の廃止論がしばしば言われるところです。人間には間違いや「気の迷い」はつきものであり、誤認による逮捕・起訴・死刑判決・死刑執行がなされてしまう可能性があり、死刑執行後に冤罪が判明した場合には、その被害は重大であり、被害の回復は不可能とする意見であります。

 死刑制度の是非については別の機会を設けたいと存じます。ここでは、最近、発表されたものを含む、世界の死刑制度の現状をまとめてみました。


◇ エジプトにおける1度に529人もの死刑判決

 つい最近の、3月24日のロイターが伝えた記事では、エジプトの暫定政権がテロ組織として認定した、モルシ前大統領の出身母体であるイスラム組織ムスリム同胞団のメンバー529人に対して、裁判所より死刑判決が言い渡されたとのことです。2011年に始まった「エジプトの春」から2度の政権崩壊を経て、不安定な時期であるとは言え、1度に529人もの死刑判決は、「見せしめ」のような要素も推察され、もしかしたら人道的な見地からは離れた判断のように思われます。後述します、昨年の世界の死刑執行数が778件であったことから考えても常軌を逸しています。

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エジプトの記事

 [カイロ 24日 ロイター] -エジプトの裁判所は24日、殺人罪などに問われていたムスリム同胞団のメンバー529人に対し、死刑判決を言い渡した。被告側の弁護人が明らかにした。
 弁護人によると被告のうち529人に死刑、16人に無罪が言い渡された。同胞団に対する当局側の締め付けが強まっていることを示している。被告は上訴することができるという。

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 全く、投稿内容と合致しませんが、最近のエジプトの出来事を年表にしたものを見つけたので添付いたします。

エジプトのイスラムの春

【「エジプトの春」からモルシ政権崩壊まで】


◇ 中国における死刑と臓器移植

 1998年、留学しておりました米国の大学、移植外科の、あるスタッフドクター(日本で言う准教授)が、肝移植の実践、指導を依頼され、1週間の期間、北京の大学病院に招かれて行きました。中国はB型肝炎肝硬変が多く、レシピエント(移植臓器を受け取る患者)はいくらでもいるでしょうが、たった1週間の滞在で、「そんな短い期間に都合よく脳死ドナーは出るのかな?」と疑問を言っていたところ、台湾からの留学生が教えてくれました、「死刑囚の臓器を利用している」とのことです。すなわち、中国では、臓器移植のドナーと認定された死刑囚は、全身麻酔下に開胸、開腹手術が行われ、保存液の還流がなされた瞬間が死刑執行とのことです。
 日本で主に行われている生体肝移植はドナーとレシピエントの手術が平行して行われ、臓器摘出から移植までの時間が短く、臓器の保存状態が良いのですが、移植する肝臓の容量が問題となることがあります。欧米諸国で多い脳死全肝移植は肝臓の容量は十分ですが、ドナーの状態、特に循環動態が不安定であることが多く、また臓器を輸送するため臓器摘出から移植まで時間がかかり、しばしば保存状態が不良なことがあります。
 もちろん観たことはありませんが、中国において、死刑囚をドナーとした生体全肝移植がなされているとしたら、臓器摘出から移植までの時間が短く、保存状態が良好であり、かつ肝容量が十分な移植が行われているものと推察いたします。

 さて、中国における死刑執行は世界で最も多いとされ、その数は公表されておりませんが、年間4000人とも8000人超えとも言われています。その原因として、中国の刑法における死刑の適用範囲が日本と比べると非常に広範なものとなっているのが挙げられます。

【中国において死刑が適用される犯罪】
・故意の殺人による生命を侵害する犯罪
・国家機密の漏洩などスパイ行為による政治的犯罪
・故意の傷害や放火、電力設備等破壊などの悪質な暴力・破壊行為
・麻薬密輸・販売等の薬物犯罪
・賄賂授受や業務上横領などの汚職行為
・金融詐欺や通貨偽造などの経済犯罪
・人身売買
・売春や性犯罪
・文化財密輸
・武器、弾薬や毒性物質等危険物の窃盗

 似たような国として北朝鮮が挙げられます。中国同様、死刑執行の数を公表しておりませんが、公開処刑の報道はありましたし、以前、「族誅(ぞくちゅう)」を取り上げた(昨年10月27日)張 成沢氏(チャン・ソンテク)氏の死刑は120匹の猟犬による残忍な殺害であったとの噂もあります。想像したくもないことです。


◇ 最新の死刑統計から

 概して、エジプトや中国、北朝鮮のような発展途上国で死刑が多い印象があり、地球規模で文明が進化すれば死刑は減少するのではないか?、などと甘い発想を持っておりましたが、つい3日前の記事で、昨年2013年における全世界の死刑執行は22ヶ国で前年を96人上回る778人であったとの報道がありました。

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全世界死刑数の報道

 【ロンドン時事】国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は27日、2013年の死刑執行に関する報告書を発表した。それによると、13年には世界22カ国で、前年を96人上回る計778人が死刑に処された。
 国別の執行数は多い順にイランが369人、イラク169人、サウジアラビア79人。主要8カ国(G8)の中で執行したのは米国(39人)と日本(8人)のみ。イランと北朝鮮、サウジとソマリアでは公開処刑が行われた。
 一方、中国政府はデータを公表しておらず、これを加えた場合の執行人数は大幅に増加する見込み。中国では「数千人」が処刑されたと見積もられている。
 アムネスティは、一部の国々が停止していた死刑執行を再開するなど「(死刑廃止運動で)幾つかの克服すべき後退があった」と指摘。ただ「執行国は少数に限られている」とし、廃止に向けて国際的な連帯を強める必要性を訴えた。 

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2013年国別死刑執行数
2013年 死刑執行国(非公開の中国、北朝鮮以外)

 中国、北朝鮮を除くと、上位3ヶ国がイラン、イラク、サウジアラビアのイスラム圏でありますが、それに続くのが米国で、日本も8番目とのことでした。過去5年間に毎年死刑を執行した国はわずか9ヶ国、バングラデシュ、中国、イラン、イラク、北朝鮮、サウジ アラビア、スーダン、米国、イエメンだけ、とのことでした。


◇ 死刑制度に対する各国の姿勢

 下図の如く、世界各国の死刑制度に対する姿勢、立場はかなり明確であります。世界の197ヶ国で、「あらゆる犯罪に対する死刑を廃止」(96ヶ国、48.7%)、戦時の逃走、反逆罪などの犯罪は死刑あり。それ以外は死刑を廃止(9ヶ国、4.6%)、法律上は死刑制度を維持。ただし、死刑を過去10年以上実施していない死刑執行モラトリアム国。もしくは、死刑を執行しないという公約をしている(34ヶ国、17.3%)、過去10年の間に死刑の執行を行ったことのある国(58ヶ国、29.4%)と、日本や米国のように死刑を執行している国は三割にも満たないことが解ります。

世界の死刑実施状況
死刑制度の世界地図


◇ 死刑制度についての私見

 テレビのディベート番組などで死刑制度の是非を議論したものを何度か観たことがありますが、全くの平行線であり、意見は噛み合わず、落としどころの無い、下手すると不毛な会話とも思えることがあります。死刑執行が多ければ、発展途上の慈悲の心が無い国、モラルに欠けた国民とは言えません。同様に、死刑を認めない国は人道的に優れた国、優れた国民性、そんな簡単には分けられないと思います。

 死刑執行件数で国民性は計れない

 冒頭で触れました、冤罪における死刑判決とその執行は、絶対にあってはならないものであります。確固たる証拠があって100%罪が明らかな場合にのみ死刑判決は有効とするべきだと思います。また、現代の病める社会、ストーカー事件の増加やネットを介した闇の世界の拡大は、猟奇的犯罪、凶悪事件の増加を予見させますが、一方で、防犯カメラの設置拡大やDNA鑑定の進歩、犯罪心理学の研究など、罪が拡大する前の早期に犯罪者を的確に逮捕、起訴することは、死刑に値する犯罪を減少させ得るものであります。これは死刑の是非を問う以前の解決策でしょう。
 過去の凶悪犯罪において、殺された被害者の痛み、遺族の苦しみを観るにつけ、尊い命を奪った罪に対して死をもって償うべきとする考え方は、正にもっともなこと、現在の日本の立場であり、否定できないものであります。しかしながら、犯罪者に死刑の判決を行いそれを執行することは、これも1つの殺人であり、幸せに暮らしている罪なき人を殺すことは許されない犯罪ですが、それに対する罰として司法の側から、同じように人命を絶つことが正統かどうかは議論の余地があると思います。人命に「尊さ」があるとして、普通の生活をする人間と犯罪を犯してしまった人間とで、その「尊さ」に差があるかどうかはスピリチュアルな問題でもあります。
 例えば、「附属池田小事件」の 宅間 守 死刑囚のように、たまに見かける「死刑になりたかった」と言う理由で無差別に殺人を行った犯人に、希望通りに死刑を執行するよりも、厳密な無期懲役、例えば「懲役200年」を課して労働を義務付けるのも一案だと思います。更正のための刑務所生活ではなく、犯した罪を残された天寿をまっとうするまで「労働」で償う発想です。

 死刑よりも大きく償う方法

 もう一つ、極端な意見を言わせてもらえば、己の命を断つ権利は人間が個人に与えられたものかも知れません。死刑に値する罪を犯した人間に対して、死刑ではなく無期懲役刑を言い渡し、自ら命を断つ道も与える、昔の腹切のような苦痛を伴う方法ではなく、自殺を容認するのも一つの道だと思います。自殺であれば、司法の側も原告側、検察側も、殺人者にはなりません。自殺を選択した犯罪者に対して、ある一定の人間の命に対する尊厳は保たれます。もちろん、自らの命を断つことができないのであれば、上述の如く、残された天寿をまっとうするまで「労働」で償うことになります。

 自殺と無期懲役を選択させる極端な案

 死刑制度の是非については簡単には結論がでないところであります。国家によって考え方が違うのは、宗教、民族の考え方の違いでもあり、ここにも死生観や生命についての考え方があろうかと存じます。また機会があれば勉強したいと存じます。今回は世界における死刑の現状、日本の立場、位置づけをまとめてみました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140329-00000109-san-soci
http://ja.wikipedia.org/wiki/飯塚事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/免田事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/松山事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/島田事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/財田川事件
http://www.epochtimes.jp/jp/2006/04/html/d19932.html
http://jacklog.doorblog.jp/archives/35676190.html

歴史上最多の子孫を残したチンギス・カン

 先日の「人類の起源とその進化・分岐の過程」と題した記事の中で、化石人骨から抽出したミトコンドリアDNAの解析で、旧人であるデニソワ人とネアンデルタール人が現生人類(新人)、クロマニヨン人と異種交配をしていたことが証明されていると述べました。現代の遺伝子解析の進歩は、先祖と子孫の繋がりを明らかにすることが可能であり、そのことを認識した時、ふと、人類に最も多くの子孫を残した人物がいたと言う話しを思い出しました。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、なかなか思い出せず、いろいろと調べて、やっと見つけました、モンゴルの建国の英雄として知られるチンギス・カン(1162年頃? - 1227年8月18日頃、在位:1206年 - 1227年、幼名はテムジン)です。

 世界人口の半数以上を統治する人類史上最大規模の世界帝国

 最終的には、当時の世界人口の半数以上を統治するに至る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げ、世界中でもっとも子孫を多く残した人物とされる、チンギス・カンをスピリチュアルの周辺記事として取り上げます。

チンギスカン


◇ チンギス・カンのモンゴル統一

1.出生から成人まで

 チンギス・カンは、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がった遊牧民、モンゴル族に生まれました。チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書「元朝秘史」には、チンギス・カンの遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立った夫婦であること、その11代後の子孫は早くに亡くなりますが、その未亡人が天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けたこと、そして、その末っ子が繁栄して、その家系にチンギス・カンが生まれたことが記されています。

 祖先の逸話が歴史書に伝えられる家系

 「元朝秘史」と、それとは別にモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録である「集史」によると、チンギス・カンが誕生した時、父親であるイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たとされます。このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられております。

 捕縛して連行した敵の名前を長男に命名

 モンゴル族の長である父イェスゲイは、かなりの有力者で勢力を拡大して行きましたが、テムジン(チンギス・カン)が10歳くらいの時、敵対するタタル族に毒殺されてしまい、その勢力は一挙に瓦解してしまいます。父の死後、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中、母親であるホエルンは女手一つでテムジンら子供たちを育てましたが、テムジンが成長したところで、イェスゲイの子が成長して脅威となることから、タイチウト族に囚われとなる絶体絶命の出来事もありましたが、タイチウトに隷属民として仕えていたソルカン・シラに助けられたとされます。


2.モンゴル族再興から部族統一まで

 成人したテムジンは、コンギラト族の長デイ・セチェンの娘で幼少期の許嫁でもあったボルテ・ウジンと結婚し、モンゴル族の民もテムジンの元に戻り再興を果たしました。しかし、モンゴル族再興の後、宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、妻であるボルテを奪われましたが、父の同盟者であったケレイト族長トグリルや、テムジンの幼馴染であるジャダラン族の長のジャムカらの協力で、メルキト族と戦闘し勝利、ボルテの奪還に成功しました。ただ、残念なことに、ボルテはその時、父親が分からない子供を身ごもっていたと伝えられます。

 妻ボルテを奪還したものの

 メルキト族に勝利したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となりました。彼の振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになりました。こうして勢力を拡大する彼と、メルキト族との戦闘で協力を受けたジャムカとの関係は冷え込んでいきました。
 ある時、部族間の家畜を巡る争いから、テムジンはジャムカと戦闘に及び敗れますが、勝利後のジャムカの残虐な振る舞いからジャダラン族の中からモンゴル族へ投降する人間が出てきました。かえって勢力を拡大したモンゴル族、テムジンは、ジャムカ率いるジャダラン族と、かつて妻ボルテを奪ったタイチウト族、そして父を毒殺したタタル族を破り、ここにモンゴル高原の中央部の覇権を確立しました。1195年頃、チンギス・カン(テムジン)が32、3歳ぐらいのこととされます。

 モンゴル高原の中央部の覇権を確立

 しかし、その頃、父親の同盟者であったケレイト族長トグリルの息子イルカ・サングンと対立し、ケレイト族に亡命したジャムカの讒言でモンゴル族は奇襲を受けてテムジンは北に逃れることとなりました。勢力を回復させたテムジンは再びケレイト族と争い、これを滅ぼし。その後はメルキト族とナイマン族も滅ぼして、オングト族を服従させてテムジンは高原の部族の統一を果たしました。この間、宿敵ジャムカを捉えて処刑しています。


3.モンゴル帝国大汗(だいハーン)

 1206年にテムジンは各部族の長を集めるクリルタイを開き、全部族の統治者である大汗(だいハーン、アジアにおける君主の呼称の一種)に即位しました。この時からチンギス・カンと名乗り、モンゴル帝国が創設されることとなりました。

チンギスカンの即位
1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによりチンギス・カンとして即位


◇ チンギス・カンの征服事業

1.西夏(中国北西部)・ウイグル王国を服属

 西夏(せいか)とは、1038年、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部に建国した王朝であります。上記クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていました。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立しましたが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させており、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせました。また、同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功しました。


2.金朝(中国)の征服

 帝国の建設を進めたチンギス・カンは、金朝(中国)に対する遠征の準備を進め、1211年に金と開戦しました。三軍に分かたれたモンゴル軍は、万里の長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らしたとされます。この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めましたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗しました。しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていきました。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となりました。なお、当時5000万人ほどいた中国の人口が、わずか30年後に行われた調査では約900万人になったされ、大量虐殺が行われたと考えられます。

 中国人の人口が1/5以下となるほどの大量虐殺

 こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服、併合しました。1215年には現在の北京をも包囲、陥落しております。


3.西遼・クチュルク(モンゴル高原東部)の征服

 このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していました。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧しており、、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂、そこにつけ込んで攻撃し撃破しました。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑され、西遼の旧領はモンゴルに併合されました。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は、西はバルハシ湖まで拡大し、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなりました。


4.ホラズム・シャー朝(中央アジア〜イラン高原)の征服

 1218年、チンギス・カンはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣しましたが、東部国境線にて殺されると言う事件がありました。その報復と言う名目で、チンギス・カン自らが20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達しました。モンゴル軍は三手に分かれて中央アジアを進行し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服、ホラズム・シャー朝は1220年までにほぼ崩壊しました。

ホラズム・シャー朝
ホラズム・シャー朝の領土


5.西夏(中国北西部)への最後の遠征

 1225年、西征より帰国したチンギス・カンは広大になった領地を、子供達に分割譲渡を計画したが、これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝が、ホラズム遠征に対する援軍を拒否しており、その上、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいました。チンギス・カンは帰国1年で懲罰遠征を決意し、1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲しました。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ちましたが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅しました。


◇ チンギス・カンの死とその遺言

 1227年、チンギス・カンは西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否したものの、このとき彼は陣中にて危篤に陥りました。軍の本隊はモンゴルへの帰途に就きましたが、1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で死去しました。「元史」などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られたとされます。
 彼は死の床で、遺言として、西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したとされます。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その死後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎を残したのでありました。

チンギスカン像(ウランバートル市内)
ウランんバートルのチンギス・カン像

1206年
1206年 モンゴル帝国領

1219年
1219年 モンゴル帝国領

1223年
1223年 モンゴル帝国領

1227年
1227年 モンゴル帝国領(この年、チンギス・カン死去)

1237年
1237年 モンゴル帝国領

1259年
1259年 モンゴル帝国領

1279年
1279年 モンゴル帝国領


◇ チンギス・カンのDNAを受け継ぐ1600万人

 2004年、オクスフォード大学の遺伝学研究チームはDNA解析に基づき、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表しました。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析から、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たとされます。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとのことです。逆算しますと、1人の人物が13世紀初頭、数百人から数千人の子どもをもうけた計算となり、当時、これだけの子どもをもうけることが可能だったのは、東欧からアジア大陸までをその勢力に治めた「モンゴル帝国」を築きあげた、チンギス・カン、ただ1人だったろうと言う考えであります。
 また、この研究を主導したひとりクリス・テイラーは、検出されたDNAがチンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザーラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげています。フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったといいます。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べています。

※チンギス・カンの子孫は食事無料!

 英・ロンドンにあるモンゴル料理店「シシ」では、限定した数日間の来店客に無料でDNA鑑定を行い、モンゴル帝国の始祖チンギス・カン(位1206~27年)の子孫と判明した客には食事を無料提供する試みを開始しました。父親から息子に受け継がれるY染色体を検査するため、鑑定を受けられるのは男性に限られます。このモンゴル料理店「シシ」によりますと、今回の企画は、モンゴルで再び姓を名乗ることができるようになったことをたたえるのが目的だそうです。モンゴルでは、過去70年間、国民の団結などを理由に、姓を名乗ることが禁止されていました。しかし1990年代に政府がこの政策を撤回し、国民に名字の登録を呼び掛けしましたが、国民の半分以上が、チンギス・ハンの家系が名乗っていた名字を登録したそうです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カン
http://dic.pixiv.net/a/チンギス・ハーン
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/124/news/

人類の起源とその進化・分岐の過程

 木曜日の新聞記事、スペイン北部の洞窟で発見された古い人骨からDNAの解析に成功したとのことでした。ロシアのデニソワ洞窟で「第3の人類」が発見されたのはつい5年前のことですし、こうした科学の発達、考古学調査が進むにつれ、人類の進化の過程を探る手がかりが明らかとなりつつあります。今回は「人類の起源」についてこれまでに解っていることを勉強してまとめてみました。なお、以前、取り上げました、地球に飛来して人間との交配でDNAを組み込んだ異星人の存在はこれまでのところ確認されてはいないようです。まずは新聞記事のご紹介から、、、。


◇ ハイデルベルグ人 DNA解析の記事

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人類最古のDNA記事

 スペイン北部の洞窟で発見された古い人骨からDNAを取り出し、遺伝情報を解読することに成功したと、独マックスプランク研究所などのチームが5日の英科学誌ネイチャー電子版に発表する。分析の結果、約40万年前の人類とわかった。DNA分析はこれまで、猿人から原人、旧人、現代人へという進化段階のうち、旧人の段階にとどまっていたが、今回は原人の時代(200万~30万年前)までさかのぼり、最古の例になるという。洞窟からは28体分の骨が見つかった。欧州最古の人類で原人と旧人の中間にあたるハイデルベルク人とみられる。研究チームは、保存状態のよい大腿(だいたい)骨から、細胞内の小器官「ミトコンドリア」のDNAを取り出して解読した。これを、旧人である欧州のネアンデルタール人(20万~3万年前)とシベリアのデニソワ人(5万~3万年前)のDNAと比較。長い年月の間に生じた変化の量などから、洞窟の人類は約40万年前のものと断定した。この人類が、デニソワ人の祖先と70万年前に枝分かれしたこともわかった。

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 今回の記事で取り上げられたのは「欧州最古の人類で原人と旧人の中間にあたるハイデルベルク人」とされるもので、その発見は1907年、ドイツのハイデルベルク近郊のマウエル村とのことです。記事の中でも触れられ、冒頭でご紹介しましたデニソワ人の発見がつい5年前ですので、こうした古人類学は長いスパンで進歩するものであることが伺われます。これまでに解っている化石人類をまとめて参ります。

※古人類学

 形質人類学(自然人類学)から派生した学問領域で、特に霊長目内からヒト(ホモ・サピエンス)への進化の系譜の過程の解明を中心に、その過程にあったと思われるヒト科の生態を研究する学問です。広い意味では古生物学に属しますが、古生物学と考古学の隙間を埋める学問とも言えましょう。

※化石人類

 現在ではすでに化石化してその人骨が発見される過去の人類を言います。人類の進化を考察していくうえで重要な化石資料となり、資料そのものは化石人骨と称されます。主に第四紀更新世(洪積世)の地層で発見されるので更新世人類ないし洪積世人類とも呼ばれます。化石人類(化石人骨)は、人類学とくに古人類学(化石人類学)においてきわめて重要な資料であり、その形質的な研究によって、人類の進化過程が徐々に明らかにされつつあります。大きく、猿人、原人、旧人、新人に大別されます。

人類の進化 画
左から猿人、原人、旧人、新人、そして現代人


◇ アルディピテクス属(猿人)

学名:genus Ardipithecus
時期:約580〜440万年前
地域:エチオピア
発見:1992年(公表は2009年)
体型:身長 120 cm、体重 50 kg、脳容積 300〜370 ml
特徴:直立二足歩行

 エチオピアで発見され、長らく最古の人類とされてきたアウストラロピテクス属より、いっそう古い時代の化石人類です。 哺乳綱- 霊長目- ヒト科- ヒト亜科に分類され、ヒト族- ヒト亜族中の1属であり、アルディピテクス・ラミドゥスとアルディピテクス・カダッバの2種からなります。体型はチンパンジーとほとんど変わりませんが、骨格から直立二足歩行をしており、この点が、脳の発達を助け、霊長類と大きな違いとされます。

アルディピテクス
アルディピテクスの頭骨(左)と二足歩行の模式図(右)


◇ アウストラロピテクス(猿人)

学名:Australopithecus
時期:約400〜200万年前
地域:中東アフリカ
発見:1924年
体型:身長 120〜140 cm、脳容積 500 ml(現生人類の35%)
特徴:当初は道具使用なく最後期で石器使用

 哺乳類霊長目(サル目)ヒト科の絶滅した属で、アフリカで生まれた初期の人類とされます。アルディピテクス属と同様に直立二足歩行していたとされます。アフリカ大陸の東部、南部のサバンナ、疎林や灌木のある草原の環境に適し、食料は植物質を中心に、小動物の狩猟、肉食獣の食べ残しのあさり(スカベンジング)をしていたようです。

アウストラロピテクス
アウストラロピテクスの頭骨(左)とイメージ(右)


◇ パラントロプス(猿人)

学名:Paranthropus
時期:約200〜120万年前
地域:東アフリカ、南アフリカ
体型:身長 130〜140 cm、顎と側頭筋が発達
特徴:堅い食物を摂取する方向に進化

 アウストラロピテクスよりも体型、脳容積ともに大きくなりましたが、形態的には、むしろアウストラロピテクスよりヒト的な特徴が減少しました。硬い植物性の食物、根などを常食としていたと考えられ、咀嚼のための高く厚い下顎と太い側頭筋、それを通すために張り出した頬骨弓および大型の臼歯など頑丈な咀嚼器を有してます。以前は、アウストラロピテクス属に含められた時期もありました。


◇ ハビリス原人

学名:Homo habilis
時期:約230〜140万年前
地域:タンザニア
発見:1964年
体型:身長 130 cm、脳容積 700 ml(現生人類の50%)
特徴:石器使用

 現在分かっている限り最も初期のヒト属であり、類人猿でも現代人でもない進化の過程とされる原人の出現です。容姿はヒト属の中では現生人類から最もかけ離れており、ヒト科の猿人、アウストラロピテクスから枝分かれしたと考えられています。


◇ ジャワ原人

学名:Homo erectus erectus
時期:約180〜50?万年前
地域:インドネシア ジャワ島
発見:1891年
体型:身長 160~180 cm、大腿骨がまっすぐ長く現代人に近い、
   脳容積 900〜1100 ml

 発見当初はピテカントロプス・エレクトス(直立猿人)と命名され、猿人の一種と考えられましたが、その後、ヒト属に変更され、原人としてホモ・エレクトス・エレクトスと呼称が変わりました。

原人
ジャワ原人の頭骨(左)と原人の生活イメージ(右)


◇ 北京原人

学名:Homo erectus pekinensis
時期:約50万年前
地域:中国 北京市
発見:1929年
特徴:火の使用、食人の週間?

 アフリカ大陸に起源を持つ原人の一種でありますが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられています。石器や炉の跡が同時に発見されていることから、石器や火を利用していたされており、また、動物の骨が近くに見つかったことから、それらを焼いて食べていたと考えられます。さらに、原人の骨自体が粉々にされていたので、北京原人の間では食人の風習もあったという説もまた有力であります。


◇ ハイデルベルグ人(原人〜旧人の移行期?)

学名:Homo heidelbergensis
時期:約60〜12.5万年前
地域:ドイツ ハイデルベルグ近郊、スペイン、アフリカ
発見:1907年
体型:身長 180 cm、脳容積 1100〜1400 ml
特徴:人間的な行動

 原人(ホモ・エレクトス)と旧人の間に位置して考えられており、スペイン、アフリカでも同様な化石人骨が発見され、アフリカのものはホモ・ローデシエンシスと呼ばれることもありますが、ハイデルベルグ人とほぼ同等と考えられております。

ホモ・ハイデルベルグ人
ハイデルベルグ人頭骨(左)と生活イメージ(右)


◇ ネアンデルタール人(旧人)

学名:Homo neanderthalensis
時期:約20万年前〜2万数千年前
地域:ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジア
発見:1830年
体型:身長 165 cm、脳容積 1600 ml(現生人類は1450 ml)、
   遠目には現生人類とほぼ変わらない外見
特徴:現生人類と同等な知能の可能性、旧石器時代の石器作製、ムステリア文化、
   住居、埋葬、芸術、食人、火使用、

 ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアに幅広く分布して、約20万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種、旧人とされます。我々現生人類であるホモ・サピエンスの最も近い近縁種であります。後述んぼデニソワ人、インドネシアのフローレス島で発見された身長1mで脳の小さいフローレス人も旧人であり、ネアンデルタール人の兄弟種の可能性が高いです。
 かつて、ネアンデルタール人を我々ホモ・サピエンスの祖先とする説がありましたが、遺骨から得られたミトコンドリアDNAの解析結果では、ネアンデルタール人は我々の直系先祖ではなく別系統の人類であることが明らかとなりましたが、一方、現生人類ホモ・サピエンスのDNAに分岐後ネアンデルタール人の遺伝子が再混入している、すなわち交配が行われた可能性があることが指摘されております。
 各地に広く分布して多数の良好な化石が出土しておりますので、ネアンデールタール人はその生活様式が深く理解されております。彼らの文化はムステリアン文化と呼ばれ、旧石器時代に属しております。以下、ネアンデルタール人の文化を列挙いたします。

 ・ルヴァロワ式技術で石器を制作、木棒にアスファルトで接着して使用
 ・洞窟を住居とし、海藻などをベッドに用い、火を積極的に使用
 ・死者を悼む心あり、副葬品(花など)を遺体に添えて埋葬(屈葬)した
 ・動物の皮をなめして防寒用のコートを作るなどの服飾文化
 ・後期には芸術活動が行われた可能性
 ・調理痕のある化石が発見から共食いの風習があった可能性
 
 ネアンデルタール人が絶滅したのは2万数千年前とされますが、その原因はよくわかっていません。クロマニョン人(新人)との暴力的衝突により絶滅したとする説、獲物が競合したことにより段階的に絶滅へ追いやられたとする説、ホモ・サピエンスと混血し急速にホモ・サピエンスに吸収されてしまったとする説など諸説あります。

ネアンデルタール人
ネアンデルタール人の頭骨(左)とイメージ(右)


◇ デニソワ人(旧人)

学名:Denisova hominin
時期:約100?, 64?, 35?万年前〜4万年前?
地域:ロシア 西シベリアアルタイ山脈 デニソワ洞窟
発見:2008年
体型:ネアンデルタール人と同等かやや大きい

 2008年、ロシア西シベリアアルタイ山脈のデニソワ洞窟で子どもの骨の断片が発見され、放射性炭素年代測定により約41,000年前のものと推定されました。2010年、骨のミトコンドリアDNAの解析結果から、100万年ほど前に現生人類から分岐した未知の新系統の人類と報告されました。また同年、細胞核DNAの解析の結果、ネアンデルタール人と近縁なグループで、80万4千年前に現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であることが推定されました。その後、メラネシア人のゲノムの4-6%がデニソワ人固有のものと一致すること、現在のメラネシア人にデニソワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いことが判明し、また、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソワ人由来という研究発表も出され、ネアンデルタール人との分岐も35万年前との説も浮上しております。
 現在のところ、40万-30万年前にアフリカを出て、中東を経てヨーロッパに拡がった集団がネアンデルタール人に、中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人になった、それに遅れて6万 - 5万年前にアフリカを出た我々現生人類の祖先は、中東やアジア内陸部で先住者のネアンデルタール人やデニソワ人と交雑しながら全世界に拡がり、現在に至った、そのように考えられております。

デニソワ人の歯とデニソワ洞窟
デニソワ人の歯(左)とデニソワ洞窟(右)


◇ フローレス人(旧人)

学名:Homo floresiensis
時期:約84万年前〜現代?
地域:インドネシア フローレス島
発見:2003年
体型:身長 1 m、脳容積 380 ml、ただし、背内側前前頭皮質(自意識に関与)
   の脳重量比では現代人と変わらず
特徴:二足歩行は苦手だったと思われるが、火を使い、知能は高かった

 インドネシアのフローレス島で発見された、約1万2千年前まで生息していた小型のヒト属の新種の可能性が取りざたされている生物です。身長は1mあまりで、それに比例して脳も小さいが、火や精巧な石器を使っており、知能は高かったと考えられております。身体が小さいですが、脳の発達が考えられ、原人よりも旧人の範疇に入れられており、直接の祖先ホモ・エレクトスが矮小化したもの、より原始的な祖先に起源を持つ可能性、ホモ・ハビリスから進化したという説などがあります。
 フローレス島には、3万5千年から5万5千年前頃より人類が住んでいたと考えられており、その場合、ホモ・サピエンス(現生人類)とフローレス人が同地域に共存していたことになります。また地域は違いますが、このフローレ人、デニソワ人、ネアンデルタール人、そして現生人類の4人類が同じ時代に存在していたことになります。
 フローレス人は、1万2千年前に起こったインドネシア火山の爆発で、ステゴドン等と共に滅んだと考えられておりますが、現地にエブ・ゴゴ (Ebu Gogo) という小さい毛深い洞窟人の伝説があり、16世紀にオランダ人が到着した際もその伝説を聞いており、19世紀ごろまで小人族を目撃したという話がありました。近くのスマトラ島にも、オラン・ペンデク (Orang Pendek) という同様の種族の伝説があり、現代での目撃例もあります。従って、この付近の島々にホモ・フローレシエンシスが生き残っている可能性は否定できません。

ホモ・フローレンス
フローレス人の頭骨(左)とイメージ(右)


◇ クロマニョン人(新人、現生人類)

学名:Homo sapiens sapiens, Cro-Magnon man
時期:約20万年前〜現代
地域:フランス、ヨーロッパ
発見:1868年
体型:現代人(とりわけヨーロッパ人)とほぼ同等
特徴:優れた洞窟壁画や彫刻、死者を丁重に埋葬、呪術など、進んだ文化

 新人、現生人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられています。旧人類もこの時代にまだ生き残っていたのですが、次第に新人に取って代わられたようです。代表としてクロマニョン人と上洞人が挙げられます。
 精密な石器・骨器などの道具を製作し、優れた洞窟壁画(スペイン アルタミラやフランス ラスコー など)や彫刻を残しました。また、死者を丁重に埋葬し、呪術を行なった証拠もあるなど、進んだ文化を持っていたと考えられております。主流派の学説ではクロマニョン人はそのまま現代人へと遺伝的に繋がっているとされます。高い文化のわりには、狩猟採集生活をし、イヌ以外の家畜を持たず、農耕はまだ知らなかったとされます。


クロマニヨン人とアルタミラ洞窟壁画
クロマニヨン人頭骨(左)とスペイン アルタミラ洞窟壁画(右)


◇ 人類の起源と進化・分岐のまとめ

 以上、解る範囲内で化石人類を列挙、要約して参りました。発見の年代が古く、多くの学説が生まれては消え、研究が進んでいるものもあれば、つい最近になって発見された種もあります。昨今のDNA解析の進歩はめざましく、今後も多くの真実が明らかになることと思います。こうした、「人類はどこから来たのか?」と言う人類の起源を知ることは、現在までの文化や思想、文明の起源にも繋がるものであり、それは「人類はどこへ行くのか?」と言う未来への発想にも繋がるものであります。スピリチュアル周辺記事として本記事を記録させていただきます。以下に、人類の起源と進化・分岐の過程を模式図にして見ました。参考になれば幸いです。

真の最新 人類の進化 図
人類の起源と進化・分岐の過程


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131204-00001610-yom-sci
http://nationalgeographic.jp/nng/article/20130619/354943/
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルディ_(アルディピテクス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/アウストラロピテクス
http://ja.wikipedia.org/wiki/パラントロプス
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホモ・ハビリス
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャワ原人
http://ja.wikipedia.org/wiki/北京原人
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホモ・ハイデルベルゲンシス
http://ja.wikipedia.org/wiki/ネアンデルタール人
http://ja.wikipedia.org/wiki/デニソワ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホモ・フローレシエンシス
http://ja.wikipedia.org/wiki/クロマニョン人

科学?/非科学? 赤道と30°の角度をなす同一線上の古代文明群

 今回は久しぶりに考古学ネタを考えました。古代の遺跡群が赤道と30°の角度をなす同一線上に並ぶとする説についてです。これを取り上げるきっかけとして、最近の彗星の話題から入ります。


◇ アイソン彗星と地球接近が予想される小惑星

 最近、地球の付近を通過しつつあるアイソン彗星が話題に登っております。今週末の日本ならば、日の出の約1時間前に北東方向の空を眺めると見られるとされます。国際宇宙ステーションに滞在中の宇宙飛行士、若田光一さんは、このアイソン彗星の撮影に成功し、「美しい光景に驚かされた。息をのむほど素晴らしい光景を、今後も皆さんに届けたい」とコメントしております。これからも、宇宙からの観察が進むにつれ、こうした彗星の存在、地球を取り巻く外部環境への知識と理解が進むものと思われます。

comet-ison3.jpg
アイソン彗星

 事実、2032年に地球の近傍を通過する直径410 mの小惑星(隕石)がクリミア天文台で確認されており、地球への衝突が懸念され、2013 TV135と命名されております。こうした情報に基づいて考えますと、以前も取り上げた(6月24日)「惑星X ニビル」は、未だに未確認であり、やはり想像上の物体だったのだろうか?、と思われますが、それとは別に、過去から現在、未来において、地球に接近する彗星、小惑星は相当な数であったろうと考えられます。

地球に衝突する隕石
2013 TV135

 ある大きさ以上の彗星、小惑星の衝突は、地球の環境を瞬時に変えてしまい、多くの動植物を滅亡に導き、大洪水は有史以前の超古代文明を海に飲み込んでしまうことが可能性としてあります。


◇ 有史以前の超古代文明存在の可能性

 以前、「科学?/非科学? マヤ(暦)の紀元は?」(8月11日)と題して記事を載せた際に、マヤの天文学や暦の知識が史以前の超古代文明からの伝承であるの可能性に触れました。多くの古代文明には、極めて類似した言い伝えや知識と技術が存在し、例えば、農耕や治水、ピラミッドの建造とその建築技術、地球に対する測量、地球の歳差運動を含む高いレベルの天文学、そしてそれらの知識をもたらした伝説、神話の世界の人物がいる点です。
 マヤ文明の、チチェン・イッツァのカスティーヨには「マヤの最高神ククルカン = ケツァルコアトル」が祭られており、このケツァルコアトル(ナワトル語: Quetzalcōātl ; スペイン語: Quetzalcóatl ; 英語: Quetzalcoatl)は、アステカ神話の文化神・農耕神であります。このケツァルコアトルのような存在はエジプトにおいてはオシリス、南米アンデスにはビラコチャ伝説として残っており、いずれも背の高いあご髭をたくわえた白人として描写されているそうです。

ククルカン、オシリス、ビラコ
左からマヤ文明チチェン・イッツァの春分または秋分に見られるククルカン、エジプツのオシリス、南米アンデスのビラコチャ

 この失われた有史以前の超古代文明は、突然の天変地異による滅亡であったため、上述の農耕や建築技術の伝承のみならず、天文学を通じて後世になにがしかのメッセージを伝えようとしているとの考え方があります。

 今回、取り上げる「古代の遺跡群が同一線上に並ぶとする説」は有史以前の超古代文明が、その滅亡後の文明を計画的に配置したとする、有史以前の超古代文明の存在の根拠としての位置づけです。この手の説を強く唱えている代表者はグラハム・ハンコック氏とパトリス・プーヤール氏です。

グラハムとDVD
グラハム・ハンコック氏と「神々の指紋 失われた文明」

ピラミッド秘密
パトリス・プーヤール氏と「ピラミッド 5000年の嘘」


◇ 同一線上に並ぶ古代文明群

 さっそく指摘されている古代文明を世界地図にプロットしてみました。手作りですので見づらいかも知れませんが、2本の赤い曲線の間に密集しており、その列は地球儀で見てみますと、赤道から30°傾いた円周上に並んでいるのが解ります。

改改正同一線上の遺跡
同一線上に並ぶ古代文明群

並ぶ遺跡群
地球儀上でみた同一線上の古代文明

 図に示した古代文明群はイースター島から始まり、アンデス〜インカ帝国、エジプト文明、シュメール、インダス文明、アンコールを経て、イースター島に戻る同一線上に配置しております。個々の文明について簡単に要約して参ります。


1.イースター島

 有名なモアイ像の建つ島で、ポリネシア・トライアングルの東端に当たります。周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島です。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」(大きな端とも)という意味とのこと、、、。4-5世紀頃にポリネシア人がこの地にたどり着いたとされ、モアイ像は10-16世紀頃に造られ続けたとされているが、その目的や方法は全く解っていず、最後は造りかけで投げ出す形で建造が途絶えた跡があるとのことです。インダス文明のモヘンジョダロに類似した文字を使用していたとされます。

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2.アンデス文明

 紀元前10000年の頃、ベーリング海を渡ってアジアからアメリカ大陸に移動して来た古モンゴロイド(黄色人種)により造られた、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に存在した文明です。文字を持たず、鉄は製造せずに青銅器までであり、金・銀の鋳造が発達、家畜は行われたが車輪の原理は知らなかったとされます。紀元前3000-2500年頃より各地に遺跡が造られ、紀元前1800年頃になると、土器の利用が始まり、紀元前800年頃より各地にパラカスやナスカに文化が広がり、インカ帝国へと繋がって行ったものとされます。

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3.パラカスの地上絵

 紀元前800-100年l頃、ペルー南部に発生した文明とされ、パラカス湾のなだらかな砂丘に、世界の大きな謎の1つ「三叉の大燭台」が描かれています。この地上絵の歴史はパラカスの農民たちの時代にさかのぼることができると言われています。農民たちは、漁を終えて岸に戻る方向を知るために燭台を使ったと考えられています。また、燭台がもう1つのペルーの大きな謎であるナスカの地上絵の方向をちょうど指していることから、宇宙人が描いたとする説もあります。地元の人たちの間では、旅の際の方向を知る目印とするためにナスカの天文学者がこの地上絵を描いたと言われています。

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4.ナスカの地上絵

 パラカス文化が終わる紀元前200年頃から紀元後800年くらいの間のナスカ文化と呼ばれます。ペルー南海岸地方の北から南へ走る丘陵と東方のアンデス山脈の麓との間にあるパンパ=コロラダ、パンパ=インヘニオと呼ばれる細長い盆地に、地上からは全体を見る事はできず、航空機からでしか確認できない、宇宙飛行士、クモ、ハチドリ、サル、リャマ、シャチ、魚、爬虫類、海鳥類などの巨大な地上絵が描かれています。もちろん、その目的は全く解っていません。

ナスカはちどり


5.インカ帝国

 南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国であります。前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで続きました。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がったとされます。代表的な遺跡、都市にクスコ(首都)、オリャンタイタンボ、サクサイワマン、マチュ・ピチュがあります。

サクサイワマンとオリャンタイタンボ
サクサイワマン(左)とオリャンタイタンボ(右)


6.ドゴン族

 マリ共和国のニジェール川流域に面したバンディアガラの断崖(バンディアガラ山)に現在に至るまで居住する民族で人口25万人とされます。シリウスに関するものなど、天文学の知識に富み、多数の神話が伝えられております。

ドゴン族


7.タッシリ・ナジェール

 アルジェリア南東部、サハラ砂漠にある台地状の山脈に多数の岩絵が残されており、紀元前6000年頃とされております。中にはマルスと呼ばれ宇宙服を着た人間にそっくりの巨人を描いた壁画もあります。

タッシリ壁画


8.シワ・オアシス

 エジプトの西部砂漠(リビア砂漠)のカッターラ低地とエジプト砂海の間にあり、リビア国境から約50km、カイロから560kmに位置するオアシスで、紀元前10世紀に居住があったとされ、古代エジプトの第26王朝でネクロポリスが建設されました。

300px-Siwaoasis.jpg


9.古代エジプト文明

 紀元前3000年に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が滅亡しローマ帝国の支配下に入るまでの時代を指します。文明の初期より砂漠が広がっていたため、ナイル川流域分の面積だけが居住に適しており、主な活動はその中で行われておりました。ナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっていて、最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展し、後に統一されたとされます。ビールやワインを生産し、貨幣制度があり、初期王朝までにはヒエログリフと呼ばれる文字が確立され、文学も発生しました。有名なギザの三大ピラミッドは古王国時代(第3-6王朝)の紀元前2550年からのクフ王、カフラー王、メンカウラー王により建造され、カルナック神殿は、新王国時代(紀元前1550-1069年頃)に繁栄した古代の首都テーベ(現在のルクソールとその近辺)に建てられました。

エジプト


10.ペトラ遺跡

 ヨルダン、死海から約80km南、アカバ湾との間の渓谷にある遺跡で、紀元前1200年頃から、エドム人たちが居住しており、西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地であったとされます。

ペトラ遺跡 王家の墓


11.シュメール文明

 現在のところ世界最古の文明はシュメール文明とされています。現在のイラク・クウェート南部を占めるバビロニアの南半分の地域、初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川に囲まれた「肥沃な三日月地帯」に栄えました。10,000年以上前の中石器時代から人々が住み着いたようで、その後のどの段階から文明とするかは諸説あるようですが、一般的にはウバイド期をウバイド文化と呼び、ウルク期からをシュメール文明と呼ばれています。

シュメール石碑


12.ペルセポリス

 現在のイランのファールス州(当時の地名はパールサ地方)にあるアケメネス朝ペルシア帝国の都で、、紀元前520年より、ダレイオス1世が建設した宮殿群であります。

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13.モヘンジョダロ

 インダス文明の最大の都市遺跡で、紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測されます。まだ解読されていないインダス文字が使用されていました。しかし、その後の衰退は急速であり、近年の研究では大規模な洪水によると考えられておりますが、発掘された遺跡からは、溶けてくっついたレンガや、ねじ曲がったり気泡が混じってガラス化した壺の破片などの遺物が見つかっており、遺跡で発見された白骨遺体46体は突如、死がやってきたような状態であり、そのうちの9体には高温で加熱された痕がありました。以上から、古代の核戦争を主張する学者もいるとのことです。

275px-Mohenjodaro_Sindh.jpg


14.カジュラーホー

 インドのマディヤ・プラデーシュ州にある、10世紀初頭から12世紀末ごろのチャンデーラ朝時代に、85ヶ所に及ぶ寺院が建設された、芸術的価値の高い彫刻を伴うヒンドゥー教及びジャイナ教の寺院群です。

270px-Khajuraho_tempel_india.jpg


15.スコータイ王朝

 13世紀にタイ族による最初の王朝で、仏教思想が花開いたタイの仏教の黄金期と見なされています。


16.アンコール遺跡

 現在のカンボジア王国の淵源となったクメール王朝時代の遺跡群です。9世紀頃から数々の王建設が行われた、カンボジアの北西部、トンレサップ湖北岸のシェムリアップの北側に位置します。スーリヤヴァルマン2世がアンコール・ワットの建設を行い、その死後30年ほど後に王に就いたとされるジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムの大部分を築いたとされます。

アンコールワット


 以上、同一線上に並ぶ古代遺跡群を列挙いたしましたが、パトリス・プーヤール氏の「ピラミッド 5000年の嘘」の中から、理解しやすい動画をご用意しまいたのでご供覧下さい。細かい理論については原作を参照いただけば幸いです。

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同一線上に並ぶ古代文明群(「ピラミッド 5000年の嘘」より)


◇ 遺跡群の位置関係についての仮説

 上でご紹介した研究者たちは、古代文明が一直線上に並んでいるのみならず、配置には何がしかの法則があると主張しています。以下、過剰書きでお示ししますが、更に、グラハム・ハンコック氏は、本論で取り上げている同一線上とは若干離れて位置する、西太平洋、カロリン諸島にあるポンペイ島周辺に海底都市があるとの伝説を重視して、遺跡群の中でも重要な位置を占める扱いとしております。また、ハンコック氏は地球の歳差運動で星の位置が1°変わるのに72年かかることに着目し、この「72」とその3/4にあたる「54」と言う数字を重要視しています。

1.ナスカ—ギザ間とテオティワカン—ギザ間は等距離
  (プーヤール氏)


テオティワカン&ナスカとギザ間

2.アンコール—ナスカ間とモヘンジョダロ—イースター島間は
  等距離(プーヤール氏)


アンコールワット、ナスカ間とモヘンジョダロイースター島間

3.イースター島からギザまでの距離は黄金数(1.618)の1万倍
  (プーヤール氏)


4.イースター島はアンコールの144°東、ギザの144°西に位置する
  (ハンコック氏)


アンコール、イースター、ギザ

5.アンコールとギザは緯度で72°離れている(ハンコック氏)

アンコールとギザ

6.ポンペイ島はアンコールの54°東に位置する(ハンコック氏)

アコールポナペ間


◇ 肯定的な私見と否定的な私見

 プーヤール氏もハンコック氏も、ドキュメンタリー映画として観た時、正直、引き込まれるような説得力を感じました。部分的に「それはちょっと!」と疑問視するところはあっても、完全に否定はできない、現代の科学では証明されていない、まさに「科学?/非科学?」の狭間に揺れる存在、それが有史以前の超古代文明だと思います。
 冒頭に述べましたククルカン、オシリス、ビラコチャの伝説は、極めて類似した人物を、時空を越えた各地で描写しております。時代が異なる文明同士であって、交流を証明するものは何もないのに、同じようなものを崇拝し、建造物が類似しており、ほぼ同一の、天文学の知識を有している点など、起源が同じであることを考えさせられます。また、現在のところ最古の文明とされているシュメール文明では、農耕、建築、文字、天文学などの知識が突然、発生して、その後はなんら進歩なく滅亡に向ったとされております。こうした見方は古代エジプト文明にもできるものであり、起源となる超古代文明が存在したならば説明ができることだと思います。

 ククルカン、オシリス、ビラコチャ伝説は極めて類似
 時空を越えて類似した崇拝、建造物、天文学の知識
 古代文明にて農耕、建築、文字、天文学などの知識が突然に発生


 一方、今回の記事である「古代の遺跡群が同一線上に並ぶとする説」については、いくらか反論する部分があります。古代文明の立地にある種の意志が反映されたとして、そのわりには違い過ぎる文化が散見されます。最も重視すべきはアンデス文明〜ナスカ文明〜インカ帝国に文字が無かった点だと思います。ペルーに近接したイースター島にはモヘンジョダロのインダス文字に類似した文字があったとされます。古代文学を有する古代エジプトやシュメールと文字を持たないアンデス文明が意図的に同一線上に並んだとはとても思えないところです。

 文字を持たないアンデス文明に近接する
 イースター島には文字がある


 今ひとつ釈然としないのは、同一線上に並んでいない古代文明の存在です。プーヤール氏は、同一線上に並んでいないメキシコのテオティワカンを取り上げて「ナスカ—ギザ間とテオティワカン—ギザ間は等距離」としていますが、それこそ、テオティワカンのみならず、メキシコにはマヤ文明もあります。以下の図に、今回の記事で取り上げた古代文明が並ぶとされる同一線上から外れた古代文明を示してみました。メソアメリカ文明、英国やフランスの巨石文化、中国文明であります。また、ハンコック氏は別の報告で与那国沿岸の海底建造物を超古代文明の謎を解く鍵としていますが、これも同一線上からは外れています。

最新同一線外の文明
赤道から30°の同一線から外れる文明

 有史以前の古代文明については今後も議論が繰り返されると思います。そして、地球の歳差運動に絡めて水瓶座の時代に突入する現代に、遠い過去の文明がメッセージを残している可能性は否定できません。最悪は地球環境の劣化と人類滅亡であり、夢のある話しとして次元上昇(アセンション)があると思います。私にとって考古学はやはり「スピリチュアルの周辺」記事であります。

 ブログ開始100件目の記事でありました。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131127-00000031-mai-soci
http://japanese.ruvr.ru/2013_10_17/122999598/
http://ja.wikipedia.org/wiki/グラハム・ハンコック
ピラミッド5000年の嘘(パトリス・プーヤール監督)2012年 仏
http://ja.wikipedia.org/wiki/イースター島
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンデス文明
http://en.wikipedia.org/wiki/Paracas_culture
http://ja.wikipedia.org/wiki/ナスカの地上絵
http://ja.wikipedia.org/wiki/インカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドゴン族の神話
http://ja.wikipedia.org/wiki/タッシリ・ナジェール
http://ja.wikipedia.org/wiki/シワ・オアシス
http://ja.wikipedia.org/wiki/古代エジプト
http://ja.wikipedia.org/wiki/ペトラ
http://hemitotsy.blog.fc2.com/blog-entry-65.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/ペルセポリス
http://ja.wikipedia.org/wiki/モヘンジョダロ
http://ja.wikipedia.org/wiki/カジュラーホー
http://ja.wikipedia.org/wiki/スコータイ王朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンコール遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/ポンペイ島


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ロマ、現代まで続くその迫害と差別の歴史

 つい数日前のネットで、ギリシャにおける、(かつてはジプシーと呼ばれた)ロマに関する記事が掲載されておりました。この中東欧に居住する移動型民族、ロマについてその起源から過酷な歴史、現代に至るまでをまとめてみました。あまり日本ではおなじみではない民族、単純に移動して人々、ジプシーとしてしか認知されていなかった、ロマと言う民族が今なお欧州では国家的問題となっていることに正直、驚きました。まずは、ネット記事のご紹介から、、、。

 *****

謎の「金髪の天使」に照会8千件
ロマへの偏見強まる懸念


ダンスを踊る少女

 ギリシャ中部ファルサラの少数民族ロマ居住キャンプで16日に保護された金髪の少女に、米国、スウェーデン、フランス、カナダ、ポーランドなど世界中から8000件を超える問い合わせが殺到している。少女はマリアちゃんと名付けられており、身長1メートル、体重17キロ、肌は白く、ブロンドの長髪、瞳の色はブルー。2009年生まれの4歳とみられている。

ロマ少女記事写真

 地元メディアは事件について「謎の金髪の天使」と書き立てている。マリアちゃんと一緒に暮らしていたロマ夫婦は、Hristos Salis容疑者(39)と妻のEleftheria Dimopoulou容疑者(40)。DNA鑑定の結果、血のつながりがないことがわかり、未成年者略取・誘拐容疑で2人は逮捕された。夫婦の自宅からはピストルと頭から肩の一部まですっぽり入る軍隊用のバラクラヴァ帽などが押収された。夫婦の親族が地元メディアに提供したビデオなどによると、マリアちゃんは夫婦と一緒に野外の会場でダンスを踊らされていた。マリアちゃんのベッドにはクマのぬいぐるみが並べられ、床のじゅうたんの上にはお絵かき用のマーカーや描きかけのスケッチブックがそのまま残されていた。

月110万円超の社会保障費

 地元警察が16日、麻薬密売容疑でロマ居住キャンプを捜索したところ、夫婦とは外見がまったく異なるマリアちゃんを発見、保護した。
 英大衆紙デーリー・メールによると、妻は10カ月の間に6人の子供を出産したと届けるなど、夫婦は14人の子供がいると偽って、月に7000ポンド以上(約110万9千円)の社会保障費を受給していた。妻は2つの身分証明書と名前を使い分けていた。マリアちゃんは幼いころ、ブロンドの髪を茶色に染められていたという。
 夫婦は警察の調べに対して「スーパーの外に置き去りにされていた」「ブルガリア人の母親から引き取った」と供述を二転三転させており、21日に法廷に出廷、マリアちゃんを養育するようになった経緯について釈明する。弁護士は「ロマの夫婦と4歳の少女の間には愛情以外には存在していない」と主張している。また、夫婦の親族は「マリアちゃんはダンスが好きで、無理矢理に踊らせていたわけではない」「2人はマリアちゃんの面倒をきちんと見ていた」と反論している。

ロマの乳児売買組織

 児童支援の慈善団体ザ・スマイル・オブ・ザ・チャイルドの責任者はデーリー・メール紙に「少女が私たちのところに来たときはおびえて一言も口を聞かなかったが、今は他の子供たちと遊んでいる」「少女は悪い環境に置かれていた」と指摘。その上で「少女は誘拐された疑いが濃厚だ。スカンジナビア半島の出身だろう」「オカネのために踊らされていたと確信している」と話した。この責任者によると、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャから英国に乳児を売り渡すロマの組織があることがよく知られているという。

ロマとは

 かつて「ジプシー」と呼ばれたロマは欧州全体で1千万~1500万人いるといわれる。10世紀ごろインド北西部から西方に移動し、トルコなどを経て14世紀ごろ欧州に流入した。言語、文化、生活習慣の違いから迫害され、ナチス・ドイツにより少なくとも20万人が虐殺されたとされる。東欧の共産体制下では強制的な同化や人口調整のため不妊手術が行われた。冷戦終結後も差別は残っている。今回の「金髪の天使」誘拐事件がロマに対する偏見と差別を増幅させる恐れがある。
 ギリシャでは債務危機をきっかけに社会保障費が大幅に削減されており、月に110万円超の社会保障費を不正受給していたロマ夫婦への批判が強まるのは必至だ。ギリシャの経済規模は縮小し、社会不安が増幅。排外主義をあおる極右政党「黄金の夜明け」が台頭し、移民排斥に反対するヒップホップ・アーティストが「黄金の夜明け」の崇拝者に殺害された。
 昨年の大晦日には、ハンガリーのペシュト県で、17歳のロマ系ハンガリー人が口論になった若者2人をナイフで殺傷する事件が起きた。ハンガリーの民主化を進めた民主化組織「フィデス(青年民主連盟)」の創設メンバーの1人は全国紙へ投稿し、「ツィガーニ(ロマのこと)の大半は私たちの社会と共存するのにふさわしくない。彼らは動物だ。動物のようにふるまっている。こうした動物の存在を許してはならない」とロマ排斥を公然と訴えた。
 ルーマニアのロマ人口は2002年国勢調査で53万5千人とされたが、欧州委員会は180万~250万人と推定する。ロマの多くが差別を避けるためロマであることを隠して生きていかなければならないのだ。
 40万人超のロマが暮らすフランスでは10年7月、中北部サン・テニャンでロマの若者が警官に射殺された事件をきっかけに暴動が発生した。
 当時のサルコジ政権は違法キャンプの撤去と送還を強化した。フランスだけでなく、イタリアやデンマークもロマの違法キャンプを撤去したり送還したりしていた。
 これに対して、ロマの社会参加を促す欧州連合(EU)の支援策は十分とはいえないのが実情だ。ロマであることを公表しているハンガリー選出のヤロカ欧州議会議員は「ロマの問題は政治に翻弄されてきた。失業、教育など共通した社会問題として取り組むべきだ」と強調している。

 マリアちゃんの本当の家族はどこにいるのだろうか。一刻も早くマリアちゃんが家族のもとに戻れることを祈っている。今回の事件が刑事・司法手続きにのっとって適正に処理されなければならないのはもちろんだ。しかし、社会全体が安易にロマ排斥や排外主義に走らないよう、「人権」を旗印に掲げるEUにはロマを取り巻く問題に本腰を入れて取り組む政治的リーダーシップを望みたい。

 *****



◇ ロマとジプシーの定義

 記事の中でロマについての概念から各国における現状まで端的に説明されておりますが、あらためて細かい概要からご説明申し上げます。ロマは西暦1000年頃に、北インド、ラージャスターン地方のロマニ系民族が放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着いた移動型民族とされます。旅に出た理由は定かではありませんが、西方に理想郷を求めたなどの説があります。いわゆるジプシーの一種としての扱いになりあますが、彼らがヨーロッパにおいて史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなります。

ロマ001

 一方、ジプシー(Gypsy)と言う言葉について、これは一般にはヨーロッパで生活している移動型民族を指す総称であり、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっています。もっと起源を辿ると、「西暦1100年にアトスに現れた」とする記録が最古のものであり、1427年にパリに現れた彼らが「自分たちは低地エジプトの出身である」と名乗ったことから「エジプトから来た者」という意味の「エジプシャン」の頭音が消失した「ジプシー」(Gypsy) の名称になったとされます。

 ジプシー:ヨーロッパに生活する移動型民族
 エジプシャン「エジプトから来た者」→ ジプシー (Gypsy)


【主なジプシー民族】
 ・ロマ Roma:北インド起源、欧州におけるジプシーの最大勢力
 ・アッシュカリー Ashkali
 ・ドム Dom people:インド、アーリア人のジプシー
 ・リューリ Lyuli:中央アジア出身のドムの別集団
 ・ロム Lom people:東アナトリア半島およびアルメニア出身のジプシー
 ・バンジャラ Banjara:インド出身のジプシー
 ・アイルランド人の旅人 Irish Travellers
 ・スコットランド人の旅人 Scottish Travellers
 ・イェニシェ Yeniche:もともと欧州にいたロマ以外のジプシー
 ・スリランカ・ジプシー Sri Lankan Gypsy people

ジプシー写真01
左からジプシードレス、ジプシーファッション、ジプシー舞踊、
そしてジプシー・クイーン


 ロマは欧州におけるジプシー最大勢力

 近年の日本においては、「ジプシー」は差別用語、放送禁止用語とされており、代わりに「ロマ」と呼称されることがありますが、厳密には「ジプシー」には「ロマ」以外の民族も含まれていますので、これは他のジプシー民族を無視することになります。「ジプシー」と言う呼び名の是非はともかく、ロマ民族に対する正しい知識は残すべきと考えます。


◇ ロマの人種および起源

 ロマの人種的分類は現在まで定説がなく、厳密にどの人種に分類されるのか今だに判明していないようですが、最新の遺伝子研究ではインド先住民のドラヴィダ人との類似性が示唆されております。人種と同様に、欧州への移動以前の元々のロマの起源についても以下の如く諸説あります。

1.5世紀ササン朝ペルシア時代に起源とする説

 ロマ出身のロマ研究家で、1人権活動家のグラタン・パクソンによると、ロマの起源は、ササン朝ペルシアのバフラム5世(在位420年-438年)が、ムルタン(当時はインド、現在のパキスタン)から、当時ルリーと呼ばれたロマの祖先1万人をペルシアに連れて行ったとしています。その後、8世紀にはムルタンの近くのシルマン山に、ヤットという名称のロマの集団が住んでおり、彼らはインドの支配から独立を望み、アラブによるインドへの侵攻時にアラブと手を組んだが、アラブがインドに敗北してしまったため、714年、退却するアラブの軍勢とともに西へ移動した、これがロマの起源であるとパクソンは言っております。

2.インド ラージャスターン州より故郷を捨てた説

 ロマ出身のロマ語学者シャイプ・ユスフォフスキーによると、ロマの祖先はインドのラージャスターン州に住んでいたが、タタール人に追われたのと食料不足とで5世紀に1万2000人が故郷を捨てて旅に出て、10世紀にはさらに西に集団移動し、バルカン半島に入ったとの説を述べております。

3.紀元前300年以前にイラン後圏に入ったとの説

 言語学の観点から、ロマの祖先は紀元前300年以前にイラン語地域に入ったと分析する説もあります。これにリンクして、紀元前327年のアレクサンダー大王の北西インド侵入に伴ってロマの移動が始まったと唱える向きもあります。

4.現代ロマは10世紀以降インドを出発したとする説

 ある言語学者によると、現代のヨーロッパのロマはインドを10世紀以降に出発したと説もあります。

 このように、ロマの起源は一様ではなく、長期間にわたり複数の集団が何度もインドを出発したとも考えられております。ロマ民族の中に文章としての記録や言い伝え、逸話すらも残されていず、これがこの民族の難しいところかと存じます。


◇ 欧州移動後から大戦後までのロマ

1.欧州全土への拡散

 11世紀にセルジュクトルコが勢いを伸ばすと小アジアのロマがバルカン半島に移り住み、ビザンチン帝国の支配下に入り、14世紀にはクレタ島などギリシアの島々でロマの集落が確認されております。1416年 ハンガリーに到達し、1418年にはスイスに到達とされます。
 1422年にイタリアのボローニャに到達したロマの集団は100名ばかりで、アンドレア公爵を詐称する首領が「我々はキリスト教を捨てたため、所有地をハンガリー王に没収されたが、キリスト教徒に復帰するため4000人の仲間とともに洗礼を受けました。ハンガリー王からの命令でローマ法王のもとへ懺悔に行くところであります。今はそのために巡礼の旅をしていますが、旅の期間は盗みをしても罪に問わないとハンガリー王からお許しが出ております」などと虚偽の申し立てをしております。
 1427年8月17日にフランスのパリに到達したロマの集団は12名でしたが、100人以上の仲間を郊外に待たせ、やはり貴族を自称し「我々は低地エジプト出身の善良なキリスト教徒ですが、サラセン人の侵攻で一度キリスト教を捨て、懺悔してローマ法王の許しを得ました。しかし法王のご命令で7年間の巡礼の旅をしております。我々に食事を世話し、巡礼の資金を恵むことはキリスト教徒の義務であるとの法王のお達しです」と、ここでも虚偽の申し立てをしたとされます。

 虚偽の申し立てで各国に侵入

 1447年にはスペインのバルセロナに到達、1505年にはイギリスへのロマの到達が記録されております。


2.皇帝ジギスムントの特許状とその無効

 初期のロマは、神聖ローマ皇帝ジギスムントにより巡礼者として帝国全土の自由な通行を許可されたと称し、いわゆる「皇帝ジギスムントの特許状」を保証として各地を放浪しておりました。しかし15世紀中頃には彼らに対する蔑視が始まり、特にユダヤ人と彼らを同類とする風説が現れました。1500年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世によって「皇帝ジギスムントの特許状」は無効とされ、ロマを殺しても基本的には罪に問われないこととなり、ロマが放浪する犯罪者の温床と考えられ、都市では彼らが現れたら教会の鐘を鳴らして街から除外するようになったとされます。

 ロマとユダヤ人は同類とする風説
 皇帝ジギスムントの特許状の無効
 始まった各国でのロマへの弾圧


 1499年、スペインはロマの入国を禁止、国内のロマは4日以内に退去するか、60日以内に定住して主人に仕えなければ鞭打の刑にして追放するとの勅令が出ました。16世紀半ばにはイギリス各地の地方自治体もロマに退去命令を出しております。1561年にはフランスのシャルル6世がロマを2ヶ月以内に領土から追放するよう命令を出し、この命令に従わないロマは頭髪を剃り落とされ、罪人として晒し者にされ、ガレー船の漕手として3年間の重労働に服すこととしました。1596年にはイギリスで放浪中のロマ196人が捕縛され、うち106人が死刑の宣告を受け、このうち9人が実際に死刑となり、残りは出身地に連れ戻されました。1714年にはドイツでマインツの大司教がロマに対して裁判抜きの処刑・鞭打・追放・重労働を命じております。


3.領邦権力による定住化政策の失敗

 1761年、有名なフランス王妃、マリー・アントワネットの実母であるオーストリア女大公マリア・テレジアと、その息子(つまりアントワネットの兄)でオーストリア大公であるヨーゼフ2世による「近代化政策」の一環として、ロマの定住化が図られました。すなわち、ロマの青年に対して徴兵や職業訓練を行うとともに、領主への従属や納税の義務を課し、ロマ同士の結婚を禁じ、ロマの子はロマではない家庭に入れて育てることとしました。これらは啓蒙主義に影響された、ある意味でロマへの差別をなくすことを目的とした人道的な同化策でありました。しかし、これは、ロマの本来のあり方である移動型民族を否定した定住や、ヨーロッパ人の考えるところの文化的な生活の押し付けとなり、ロマからの激しい抵抗にあいました。1773年には、プロイセンのフリードリヒ大王がロマを隔離して定住させようとしましたがそれも失敗に終わりました。

 マリア・テレジアによる人道的同化策は失敗

マリアテレジア等
マリア・テレジア(左)とヨーゼフ2世(右)

 一方、ポルトガルは1647年にはアフリカの植民地に、1686年には南米の植民地ブラジルにロマの開拓団を送っております。また、イギリスも植民地のアメリカやジャマイカにロマの開拓団を送っております。

欧州各地におけるロマの呼び名
欧州各地における自称名の概略


4.ナチスドイツ等による絶滅政策 ポライモス Porajmos

 ポライモス(Porajmos)とは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツやクロアチア独立国、ハンガリー王国など枢軸国が実行した、ロマ絶滅政策のことを指し、ロマ語の複数の方言で「絶滅」ないしは「破壊」の意味です。
 ドイツを例に挙げますと、ナチス党が自由選挙で国民の支持を受けて政権を獲得した後の1935年、ニュルンベルク法が制定され、ロマおよびユダヤ人は何れも「人種に基づく国家の敵」と定義され、ナチス占領下の国家においても同様の絶滅政策が採られました。ロマに対しては、選挙権を剥奪、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などの措置がとられました。その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われました。

 ニュルンベルク法:ロマ・ユダヤ人 = 人種に基づく国家の敵

 ただ、ユダヤ人に対する政策は、インド・ヨーロッパ語を使用するアーリアン(アーリア人)こそが最も優れた民族であるというアーリアン学説に基づくものでありましたが、同じアーリア人であるロマに対しては、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、「アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚される」、と言う理由でロマ撲滅を図ったとされます。

 ユダヤ人はアーリア人ではないので弾圧
 ロマは「アーリア人の面汚し」なので撲滅


 第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ドイツは再び多数のロマを抱えこむことになり、これに対して当時のドイツ政府が「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされました。これが上述のポライモスであり、大戦中に約50万人のロマが殺害されたとされます。大戦後、ドイツ政府による被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けています。

 ポライモスでは約50万人のロマを虐殺
 戦後補償はユダヤ人よりも不利な扱い


アウシュビッツのロマ
アウシュビッツのロマの子ども達


5.戦後のロマ

 第二次世界大戦までの多くのヨーロッパ諸国で、ロマは固定した店舗で開業することは禁止されていたため、伝統的に鍛冶屋、金属加工、工芸品、旅芸人、占い師、薬草販売等に従事していました。現在も基本的に移動生活を続けているロマは多く、移動手段として自動車を用い、これに伴って職業も以前の馬の売買から、自動車の解体・中古車の斡旋などに変化してきています。

 現在も移動生活をするロマ

 第二次世界大戦前から1945年までのドイツ政府による虐殺で、ロマの人口は減少、社会主義体制となった東欧と旧ソビエト連邦圏では、ロマに定住を求める同化政策をとり、ロマの労働者化を進めるために移動禁止令が制定されました(ソ連1956年~ポーランド1964年)。

 東欧と旧ソビエト連邦圏では同化政策

 一方、西欧諸国ではロマへの同化政策は採用されず、また、国内のロマを少数民族と認めて権利を与えることすらもありませんでした。例外的に社会主義国のユーゴスラヴィア(1974年)とハンガリー(1979年)が、ロマを少数民族と認定しております。
 スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりしています。ドイツでは1995年に、ドイツ国籍をもつロマを少数民族と認定しています。

 スイスではロマの子どもを救済する動き
 ドイツではロマを少数民族として認定


 1990年代の一連のユーゴスラビア紛争では、ロマが迫害の対象となることも少なくありませんでした。1999年のコソボ紛争では、ロマはセルビア人、アルバニア人の双方から迫害を受け、紛争終結後は連邦軍がコソボから撤退し、難民・避難民として域外に逃れていたアルバニア人が帰還して、ロマはここでも迫害の対象となり、今なおロマのコソボからの脱出は続いております。

 コソボ紛争前後におけるロマの迫害

 現在、戦後の経済変動のなかでロマの生業は成立しなくなり、ロマの経済的な困窮は一段と進んでおり、伝統的な生活を放棄する者も多いとされます。


◇ 現在の各国におけるロマ

 現在、欧州に暮らすロマの人口は推定1000万~1200万人とされ、欧州評議会の各国別推計によると以下の通りです。

  ルーマニア 185万人
  ブルガリア  75万人
  スペイン   72万5000人
  ハンガリー  70万人
  スロバキア  49万人
  フランス   40万人
  ギリシャ   26万5000人
  チェコ    22万5000人
  イタリア   14万人

 旧ユーゴスラビアには推定100万人、マケドニアだけで20万人のロマがいたとされますが、ロマには乞食が多いため、みずからの出自を恥じてトルコ人やセルビア人、マケドニア人などと詐称するケースが多く、統計上は旧ユーゴスラビアのロマの数は10万人にとどまっております。ロマの人口が最も多いルーマニアと3番目のスペインについて現在のロマの状況を紹介します。

1.ルーマニアにおけるロマ

 ルーマニアにおけるロマに対しての差別は根深く、結婚、就職、就学、転居などありとあらゆる方面にて行われています。その原因として、ルーマニア国内のロマ支援組織の多くは19世紀半ばまで約600年間続いた奴隷時代にあると主張しています。真偽は確かではありませんが、奴隷時代の言い伝えには、「1800年代の法典はロマを『生まれながらの奴隷』と規定し、ルーマニアの一般市民との結婚を認めなかった。奴隷解放後も根深い差別の下で、ロマの土地所有や教育は進まず、都市周辺部に追いやられたロマは独自の文化や慣習を固守する閉鎖的な社会を築き、差別を増幅させる悪循環につながった」、とされています。

 ロマは「生まれながらの奴隷」

 21世紀に入った現在、ルーマニアでのロマ問題は拡大の一途をたどっております。EU諸国からのロマの強制送還により、ロマ人口は増加しており、ルーマニアにおいて、ロマは自己申告に基づく国勢調査では50万人ですが、出自を隠している人も含めると150万人に達すると言われます。

 ルーマニアのロマ問題は拡大の一途

 教育においてもロマの差別は顕著であり、2002年の調査では、下記の如くロマの進学率が極度に低いことが明らかになっております。

 高卒以上のロマ   6.3% (ルーマニア全体 46.8%)
 全く無教育のロマ 34.3% (同        5.6%)

 これらの問題に対してルーマニア政府は、「国内にロマは存在しないため、ロマに対する差別問題はない」としてロマの存在自体を否定しています。

 政府:「国内にロマは存在せず差別問題もない」

 つまり、ルーマニア国内では、ロマ差別はあくまでも架空の存在でしかない、というのが政府の見解となっており、国内におけるロマ問題への対策をルーマニア政府は何一つ行っていず、国内外からのロマ対策を要求する声に対しても何の反応も示していません。
 1991年にはブカレスト近郊のボランタン村でロマの家100軒が数百名の暴徒に襲われ、焼き討ちに遭う事件が起きました。


2.スペインにおけるロマ

 スペイン各地にロマの部落があり、マドリードの郊外ロスフォスコスにもロマの集住地域となっており、38家族、約200人のロマのバラックが立ち並んでいます。このロスフォスコスは麻薬の売人や泥棒の巣窟と目されており、このバラックを、別の地区への移転が計画されたこともありますが、移転先からの猛反対で計画は頓挫しているとのことです。政府の発表によると、麻薬密売の70%はロマによるものであり、スペイン国民の26%がロマに悪感情を持っているとの統計もあります。
 1991年にはアンダルシア地方のマンチャレアルでロマによる殺人事件をきっかけにロマ追放運動が発生、暴徒化したデモ隊がロマの家7軒を襲撃し、家財道具を通りに投げ出して家を破壊する事件が起きました。このとき、マンチャレアルでは「自分の子をロマの子と一緒に勉強させない運動」「ロマの子を登校させない運動」が起きています。


◇ ロマの特異性と迫害される理由

 ここまで整理して参りますと、ユダヤ人以上にロマが嫌われ、迫害される明らかな理由、歴史がそうさせたのか?、それとも民族固有のものなのか?、特異性が5つほど挙げられます。

 ・民族の起源がはっきりせず統一した歴史がない
 ・移動型民族、いわゆる「流れ者」で文化が異なる
 ・ほとんどが無宗教でキリスト教徒ではない
 ・はっきりとしたコーカソイド(白人系)ではなく分類困難
 ・個人主義であり協調性を欠き地域に同化しようとしない

 欧州において、ロマという民族は得体の知れない、異端であり、協調性がなく同化しようとしない、地域の秩序を乱すものと捉えられて来て、動物を引き連れて一カ所に定住せず、身なりは汚く、言葉が通じない、犯罪が後を絶たない、こうした民族に対して、現代人として迫害は容認できないものの、生活や社会を異にする発想は否定できないところでしょう。ロマの問題は今後、ますます重大となっていくものと思われます。

ロマの集落
ロマの集落


◇ ロマ音楽 ツィゴイネルワイゼンなど

 過去から今に至まで激しい迫害、差別を受けているロマでありますが、ロマ音楽は、現地の文化と相関関係にあり、歴史的に大きな貢献をしております。ルーマニア・ハンガリー文化圏、スペインなどの文化が際立って有名であり、リストの「ハンガリー狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」などに盛り込まれております。
 また、ロマの呼称は各国の言語に基づき異なり、ルーマニア語 Tigani(ツィガニ)、チェコ語 Cikáni(ツィカーニ)、であり、ドイツ語では Zigeuner(ツィゴイナー)と言います。スペイン生まれのヴァイオリニストであるサラサーテが、1878年に作曲した管弦楽伴奏付きのヴァイオリン曲 ツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)はZigeuner(ツィゴイナー、「ロマの」)Weisen(ヴァイゼン、「旋律」)=「ロマの旋律(音楽)」と言う意味で、ロマ音楽の影響を受けたいくつかのハンガリー民謡・大衆音楽の旋律を組み合わせて作曲されております。

サラサーテ
サラサーテ

 最後に、祖国を持たず、迫害と差別の歴史は今なお続く民族の悲哀と、思わぬ情熱をも感じますでしょうか?、葉加瀬太郎氏演奏のチィゴイネルワイゼンをお聴き下さい。

葉加瀬太郎 ツィゴイネルワイゼン
(↑クリックするとyoutubeで実際の楽曲を聴けます)

http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20131021-00029093/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ツィゴイネルワイゼン
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=DKRE59DWsxw

地球内部でアガルタを形成?、クラリオン星人??

 地球空洞説と地底人、アガルタを調べてみて、どうしても避けては通れないちょっとした話題があり、少しだけ触れます、イタリアのマオリッツオ・カヴァーロ氏、1981年に初めて、内部地球の王国アガルタに文明を形成するクラリオン星人とコンタクトを取り、実際に地球内部の世界を訪れたとして、数々の本を出版しています。私もつい買ってしまいました。

地球「超」アンダーワールド 
「内部次元」への侵入


クラリオン星人がガイドする
〈次元壁ブレークスルー〉のからくり


マオリッツオ・カヴァーロ・ヒーロス
やよしけいこ 訳

クラリオン星人本


◇ 「スピリチュアルの周辺」記事とした理由

 ブログ記事を投稿するにあたり、そのカテゴリーを決める際、「スピリチュアル」と「スピリチュアルの周辺」とで悩むことがあります。どうでもいいことでありますが、、、。当ブログの主旨から、なるべくなら前者を選択したいところですが、全く信じる余地もないもの、少なくとも自分自身で激しくうさん臭く思うものを、「可能性あり!」としてスピリチュアルに分類するのには抵抗があります。例えば、過去において、自分ではあんまり信じてはいないもので、幸福の科学の大川 隆法氏や、臨死体験で過去の世界にテレポートした木村 鶴彦氏を「スピリチュアル」記事として取り上げたことがあります。あんまり信じてはいないとは申したものの、激しく反論する根拠がなく、己の立ち位置をニュートラルとして勉強させていただいた方々であります。
 しかしながら、マオリッツオ・カヴァーロ・ヒーロスさん、あまりにもつっこみどころ満載で、ついうっかり1900円なりのお金を支払って本を買ってしまった口惜しさもあり、「スピリチュアルの周辺」の扱いとさせていただき、もう少し様子を見ようと思います。

 ちなみに、マオリッツオ氏のクラリオン星人がインチキだとしても、地球空洞説と地底人の可能性は否定しない所存であり、スノーデン氏の米国機密の暴露も今後、目を離せない内容だと思います。

 本書は、ざっとは読みましたので、若干の要旨をご紹介しますが、自分なりの解説を加える気力、意気込みは湧いて来ず、マオリッツオ氏の著書について、崇拝している文章と、厳しく非難する文章を、いくつかご紹介いたします。


◇ マオリッツオ・カヴァーロ氏の主張

1.クラリオン星について

 1-1. 第3銀河のわし座にあり、地球から15億光年に位置する
 1-2. 恒星を回る軌道の関係で昼がとても長く夜は短い
 1-3. クラリオン星—地球間は時間を折りたたむ航海で約72日
 1-4. 宇宙の多くの惑星が参加する連合に加盟している

2.クラリオン星人とは?

 2-1. 炭素でなくケイ素を主成分とした生命体で光を吸収する
 2-2. 平均寿命は1500歳、2300歳に及ぶ個体もあった
 2-3. 五次元を自由に行き来する次元上昇した存在である
 2-4. 過去や未来、多次元空間を自在に移動する

クラリオン星人の皆様
クラリオン星人

3.地球への関与

 3-1. 1億8千万年前に地球に渡来
 3-2. 25万年前に自分達の遺伝子を爬虫類に移植して人類創造
 3-3. 地球内部に都市を築きいわゆるアガルタを形成
 3-4. 現在では多数、地球人の間で日常生活を送っている
 3-5. 地球人との混血の子供も生まれている

4.地球で起こるアセンションについて

 4-1. 地球人に起こるアセンションはDNAの変化である
 4-2. 生きたまま次元上昇が起こる
 4-3. 迫る次元上昇に多くの地球人は準備が出来ていない
 4-4. 無になる、他の惑星に行く、宇宙船に乗る人がいる
 4-5. アセンションできなかった人は木星に行く

5.太陽系/宇宙について

 5-1. 約25万年前、木星は恒星として輝いていた
 5-2. 太陽系には二つの太陽があった
 5-3. 木星の力は衰え輝きが落ちて現在の木星になった
 5-4. 来たるべき2012年は宇宙の大きな変わり目となる年

maurizioCavallo.jpg
マオリッツオ・カヴァーロ氏


◇ マオリッツオ氏を崇拝する記事

マオリッツオ崇拝

 以下、コピーの供覧で恐縮します。

 *****

 これは、、、すごい本ですね。私が今、一番知りたいことが書かれた本を見つけました。ヒューマノイド型 ET の写真を載せていることでご紹介した、クラリオン星人のコンタクティー、マオリッツォ・カヴァーロ・ヒーロス氏の 2/29 発売の最新刊です。最近は、本はアマゾンで買うので、滅多に本屋へ行かなくなった私ですが、何ヶ月ぶりかで吸い寄せられるように入った本屋で見つけました。呼ばれたんですね。

 私が、何を知りたいと最近強く思っていたかというと、「内部地球王国・アガルタ」の話です。よくシェルダン・ナイドルによる銀河連邦メッセージに、出てきますよね、Disclosure に続いて、内部地球のアガルタ人たちが地上に出てきます、という話。今も、彼らが、銀河連邦と地球同盟者たちと一緒に、新しい政治・経済の制度作りの作業を行ってくれているんですよね。近々、私たち地球表面の文明と、内部地球の文明は合流する。彼らの世界は5次元、スピリチュアル的にもテクノロジー的にも、私たちよりもずっと進んでいるので、表面人類がアセンドするこの時まで、彼らは待っていた、と。。

 この「地球内部の世界」、その場所に住むアセンデッド・マスターたちからのチャネリング・メッセージはよく見かけますが、実際に、3次元の人間として、その地を訪れた人の詳細な話は読んだことがありませんでした。
 さかのぼれば、アメリカ海軍のバード少将、南極大陸の知られざるUFO戦争:バード大将の謎の経験の話、ノルウェー人漁夫親子の話などがあり、これらはいずれも本当だと言われていますが、なにぶん、だいぶ古い話なので。

 そして、ようやく、このクラリオン星人のコンタクティーかつ芸術家である、カヴァーロ氏の最新刊!です。私は、彼の以前の本は大体読んでいますが、私の波長は、彼の話と共鳴します。すなわち、私は、彼は真実を語っている、と思っています。
 スペース・ファミリーの語る地球や太陽系の歴史は、シリウス、プレアデス、あるいはアンドロメダ、そしてこのクラリオン等の間で、大筋では一致するものの、細かい点まで同じというわけではありません。やはり、それぞれ異なる文明で、別々に地球との関わりを持ってきていますから、独自の見方があってもおかしくはありません。また、多次元宇宙においては、未来と同様に過去だってパラレルに無数に存在するわけですから、どのタイムラインを見るかによっても、違ってくるのではないかと、私は、勝手に想像しています。
 また、この本に書かれている体験を、カヴァーロ氏が実際にいつの時点で持ったのかわかりませんが、この本で、カヴァーロ氏の予想する、アセンションへ向けての地球人類へのタイムラインは、少々現実と違ってきているようにも思います。最近のチャネリング・メッセージはいずれも、「(破滅に向かう)タイムライン2は完全に無くなり、平和のうちにアセンションへ進むタイムライン1のみになった。」と、伝えてきていますから。

 *****



◇ マオリッツオ氏をインチキとする記事

クラリオンに突っ込み

 これもコピーの供覧をお許し下さい。

 *****

 UFOネタは、久々でしょうか。やや停滞気味だった日本の宇宙人業界で、ここ2・3年でのしあがってきた新興勢力。それが「クラリオン星人」の皆様です!!
 イタリア人のマウリツィオ・カヴァロと言うおじさんにコンタクトしてきたのが1981年と言いますから、それから足掛け30年に渡って、マウリツィオさんを通して「神の叡智」を地球上に広めようとして下さっている有り難いながらも、少々うざったい宇宙人様です。クラリオン星人の皆様。実際には「光り輝いている」そうですが、写真がみんな暗いのは、「彼らは光を吸収するため」…だそうです。…そこはかとなくウザイ方々ですね。

 彼らは、地球から15億光年(資料によっては、15万光年と言う記述もあります。まあ、どっちでもいいですが。)離れた「第3銀河のわし座」にあるクラリオン星から、何かヘンなトンネルみたいのをくぐって72~3日と言う中途半端な日数をかけて地球までやってくるそうです。
 彼らの平均寿命は1500歳で、2300歳まで長生きした人も居るとか。(クラリオン星の泉重千代ですな。)イタリアのジェノバ近くの海底に基地があるらしく、手っ取り早く近場に住むマウリツィオさんをコンタクティーに選んだのだと思われます。

 マウリツィオさんによると、クラリオン星人は「来るべき2012年は、宇宙の大きな変わり目となる年である」と、あまり新鮮味のない、今更ながらの予言をのたまい、「地球の次元上昇が迫っているが、多くの地球人はまだそれに対する準備が出来ていない」と余計な心配をしてくれているそうです。

 それはそれで、信じたい人だけ信じていれば良い事なのですが、弱った事にクラリオン星の人達はあまり天文学や地球史に詳しくないらしく、トンチンカンな事ばっかり言うので困ってしまいます。―試しにちょっと、ツッコンでみましょう。

○クラリオン星人は1億8000万前に地球にやってきて、25万年前に自分たちの遺伝子をトカゲの様な生物に移植して人類を創造した。
→1億8000万前と言うと、中生代の三畳紀からジュラ紀にかけての年代で、恐竜がウロウロしていた頃。そして、人類を創造したのが約25万年前。その間の1億7975万年間は、地球で一体全体何をしていたのですか?クラリオン星人さん?

○ついでに言うと、人類を創造するなら、ホモ・エレクトスとかを遺伝子操作した方が簡単そうに思えますが、何で選りによってトカゲなのでしょうか?クラリオン星人さん?

○クラリオン星人が、地球人類を創造した頃(約25万年前)は、木星も恒星として輝いていており、太陽系には二つの太陽があった。そして木星の力が衰え、輝きが落ちて現在の木星になった。
→木星程度の質量では軽すぎて自己重力による収縮が進まず、恒星にはなれない。天体の中心で核融合反応が起こって恒星となるには、少なく見積もっても木星の70倍程度の質量が必要…な筈なのですが、そこの所は如何なのでしょうか?また、木星がたった25万年前まで恒星だったのなら、その痕跡が太陽系のどこを調べても全く残っていないのはどう言う訳なんですか?クラリオン星人さん?

○クラリオン星は、恒星を回る軌道の関係で、昼がとても長く夕暮れの時間は短い。
→昼夜の長さを決めるのは軌道ではなく自転速度ではないかと思うのですが?クラリオン星人さん?

○クラリオン星は、第3銀河のわし座にある。
→「第3銀河」って何ですか?クラリオン星人さん?ちなみに、銀河系内のわし座は、例えば主星のアルタイルと地球との距離が17光年位で、15億光年も離れておりませんが…?クラリオン星人さん?

○今では多数のクラリオン星人が地球人の間で日常生活を送っており、地球人との混血の子供も生まれている。
→1500歳まで生きる人が何人も居たら、相当目立つと思うのですが、何故ニュースにならないのですか?現在1500才のクラリオン人がいるとしたら、生まれたのは日本で言うと古墳時代なのですが…。何だか間尺に合わない様な気がしてなりませんのですが、クラリオン星人さん?また、地球にクラリオン星人さんが大勢居るのだったら、マウリツィオさん一人に丸投げせずに、ご自分達で「神の叡智」を啓蒙した方がよっぽど早いと思うのですが?クラリオン星人さん?


 他にもツッコミ処が満載なのですが、きりがないのでやめときます。しかし、こんな基礎的な科学知識も無い様な宇宙人風情に、「次元上昇がどうのこうの」と言われてもなぁ。素直に信じられないんだよなぁ。こいつらのヘッポコ発言のどの辺が「神の叡智」なんだよ?―などと、ヒネくれた私なんかは思ってしまいます。

 また、クラリオン星人に負けず劣らず、マウリツィオさんご自身もアンポンタンな発言をブチかましてくれております。例えば…

○「科学者は火星は生命のない暑い砂漠だと考えているが、私が見た火星には文明があり、建造物や街があった」(クラリオン星人に火星に連れてって貰ったマウリツィオさんの言葉。)
→火星の大気は希薄な為に熱を保持する作用が弱く、その結果火星の温度は低い。気温は昼間でも氷点下9度位。夜には氷点下77度にまで下がる…って事は全世界の科学者が知っており、火星が暑い砂漠だと思ってる科学者はたぶん一人も居ません。


 宇宙人も宇宙人なら、コンタクティーもコンタクティーですね。まさに「割れ鍋に綴じ蓋」と言った所でしょうか。蛇足ですが、マウリツィオさんの本を訳したのは、日本のオカルト業界では名の知れたAさん。マウリツィオさんが来日して講演会をする時も、この方との対談形式が多いと聞きます。

 何となく、ちょっとアレなイタリアのおじさんが、ネタ不足に喘ぐ日本のUFO業界に担がれて…と、感じるのは私だけでしょうか???

 しかし、クラリオン星人も他の2012ネタと同じく、賞味期限切れが間近に迫っておりますが、その後はどうするんでしょうか?どうせ、1999ネタの時みたいに、ケツを捲くってほっかむりしてなかった事にした上で、またぞろ新ネタが出てくるのでしょうね~。クラリオン星人の次は、パイオニア星人か、パナソニック星人かな?

(オチもついたし、続けるほどのネタでもないので、おわります。)

 *****



◇ クラリオン星人の顔写真を捏造とする記事

写真捏造

 こちらは写真だけ供覧しますが、要するにマウリツィオ氏が描くクラリオン星人にはモデルがいたようです。

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オーストラリアのファッションモデルのジェマ・ワード氏

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ジェマ・ワード氏の画像とクラリオン星人の画像を重ねたもの

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オーストラリアのファッションモデルのジェマ・ワード氏

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クラリオン星人の画像

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ジェマ・ワード氏とクラリオン星人の画像の大きさを合わせて重ね右に傾けたものに、更に歪みを加えた写真


◇ マオリッツオ氏の絵画およびCDの販売

 マオリッツオ氏は自身の描いた絵画や作曲した瞑想音楽CDを販売してもいます。一つだけ私見を申しますと、生活のため、富を得るためと、理解しますが、マヤ暦に始まった2012年、アセンション、スピリチュアルのブームに乗っ取った大きなハッタリ、ビジネスのように思えます。

 これを「スピリチュアル」記事として扱っては、本当のアセンションを迎えた人々に失礼でしょう!、これが私の本音です。こういうケースが実は凄く多いと思いますね。

光るランド

ヒーロズ

http://blog.goo.ne.jp/narudekon/e/1626251d896166ce671988666765192f
http://blogs.yahoo.co.jp/to7002/33054954.html
http://gropire.seesaa.net/article/234368383.html
http://www.hikaruland.co.jp/201202/shop01.html


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科学?/非科学? 地球空洞説と地底人の存在?

 最近の話題から、米国 中央情報局(CIA)及び国家安全保障局(NSA)の局員で、亡命を希望してロシアに滞在中のエドワード・スノーデン氏、自殺の噂(誤報?)もありましたが、優れた文明を持つ地底人の存在を証言しているとの情報が流れて来ました。
 随分と昔から地球空洞説があって、私が子供の頃にも聞いたことがありました。また、本年8月23日掲載の記事「木村鶴彦氏 臨死体験で観た超古代文明とその最後」(スピリチュアル)の中で、木村鶴彦氏が自身の臨死体験において、15000年前の地球に超古代文明が地価都市を建造したのを見て来たことを紹介いたしました。
 地球空洞説がそのまま地底人説につながるものではありませんし、スピリチュアルとはあまり関係ない話題でありますが、もしかしたら人類の文明論を塗り替える話しに繋がるかも知れませんので、少し情報を収集してみました。


◇ エドワード・スノーデン氏

1.経歴と暴露内容

 まずは今回の話題の出所であるスノーデン氏(1983年6月21日〜)ですが、アメリカ合衆国の情報工学者、中央情報局(CIA)及び国家安全保障局(NSA)の局員として、アメリカ政府による情報収集活動に関わりました。
 2013年6月に香港での新聞社の取材やインタビューを受け、アメリカ国家安全保障局(NSA)による個人情報収集の手口を告発したことで知られます。2013年6月22日、米司法当局により逮捕命令が出され、エクアドルなど第三国への亡命を検討しているとされていたが、同年8月1日にロシア移民局から一年間の滞在許可証が発給されロシアに滞在中であります。

スノーデン経歴

 彼は英紙ガーディアンにNSAの極秘ツールであるバウンドレス・インフォーマントの画面を示し、クラッパー国家情報長官が否定した3月に合衆国内で30億件/月、全世界で970億件/月のインターネットと電話回線の傍受が行なわれていたことを明らかにしました。電話傍受にはベライゾン・ワイヤレスなどの大手通信事業者が協力しており、NSAは加入者の通話情報を収集していたとのことです。またインターネット傍受は、電子メールやチャット、動画、写真、ファイル転送、ビデオ会議、登録情報などが標的になったそうです。

2.スノーデン氏の地底人情報

 上記個人情報に関する暴露以上に米国が神経質になっているのが、インターネットのニュースサイト「インターネット・クロニクル」に掲載された、「地球の地下に、人類よりさらに『知的な現生人類』が存在することを記した文書」すなわち地底人に関する情報だそうです。以下、スノーデン氏の証言とされるもの(日本語訳)です。

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スノーデン地底人告白

 政府の最高首脳陣たちは UFO が何であるのかを知りません。公式の話として UFO が単なる気象用バルーンや自然現象であるという可能性については否定されています。どちらかというと、これらは、私たち自身を超えた知性によって導かれているかのように UFO について述べているように感じる文書です。

 結局、最も信頼性がある不可解な目撃例は、熱水噴出孔(海底で地熱で熱せられた水が噴出する亀裂)から海底を出た後に、直接太陽の軌道に入っていくことが目撃された車両です。

 海底の熱水噴出孔より脱出するUFOの存在

 弾道ミサイル追跡システムと深海のソナーは国家機密として保持されているために、科学者たちはそのデータにアクセスすることはできません。しかし、 DARPA (アメリカ国防高等研究計画局)の契約人たちのほとんどは、地球のマントルに、ホモ・サピエンス(現生人類)の生命よりもさらに知的な人類種が存在していることを確信しています。

 地球のマントルの知的人類種の存在

 このことについては、その場所(マントル)が、数十億年の期間、多かれ少なかれ安定し続けていた地球での唯一の場所であるということを考えることがわかりやすいかと思います。長く安定している場所に住むということは理にかなっています。それらの種は特殊環境生物として、私たちとは異なる気温の下で生きているのかもしれないですが、加速度的に知性を繁栄し、発展することができたのです。

 数十億年間のマントルの安定が文明の進化を助長

 大統領は、彼らの活動について毎日ブリーフィングを受けています。彼らの遙かに進んだテクノロジーは、どんな戦争であっても私たち人間にはほとんど生き残る可能性はないとアナリストは信じています。

 地底人のテクノロジーで現代文明は滅ぼされる

 彼らの視点から私たち(人間)への一般的な感情は蟻(アリ)ですので、彼らが私たちに共感したり、あるいは、私たちとコミュニケーションをしようとする可能性はありません。現在の非常事態計画は、さらなる攻撃を阻むという望みの中で、希望のない敵を「あざむく」ために深い洞窟で核兵器を爆発させることです。

 コミュニケーション不能の地底人に核兵器の使用

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◇ 地球空洞説の歴史

 さて、地球空洞説の歴史は極めて古く、古代の神話から近代の仮説、近現代における目撃情報まであります。地球空洞説の歴史を列挙いたします。

1.古代における地球空洞説

・ギリシア神話における冥府(ハーデース)
・ユダヤ教における冥土
・キリスト教における地獄

2.エドモンド・ハレーの世界初の地球空洞説 1692年

 イギリスの天文学者、地球物理学者、数学者、気象学者、物理学者、ハレー彗星の軌道計算を初め、多くの科学的業績で知られるエドモンド・ハレー(1656年10月29日〜1742年1月14日)は、極地方の変則的な磁気変動を説明するために地球空洞説を考案、イギリス学士院で、世界で最初の「地球空洞説」を発表しています。
 水星と同じ直径の中心核と、金星および火星と同じ直径で厚さ500マイルの同心球状の二つの内核とからなる空洞地球という説であり、これらの殻同士は空気の層で切り離され、各々の殻はそれぞれ磁極を有しており、さらに異なる速度で自転しているとされます。地球内部は明るく、おそらくは居住可能であること、さらにそこから発生する発光性ガスによって、揺らめくオーロラが生じるとも論じています。

ハレーとその空洞説
ハレー(左)と多重球殻の地球空洞モデル(右)
:地球内部にはひとつの中心核と二層の中空の球核があり、それらが空気を挟んで隔てられて浮かんでいるとした。

3.レオンハルト・オイラー 1770年頃

 スイスのレオンハルト・オイラー(1707年4月15日〜1783年9月18日)は、「オイラーの公式」や「オイラーの多面体定理」で知られる数学者・物理学者であり、天文学者(天体物理学者)であります。こちらはハレーの「多重球殻」を採用せず、「地球内部の高度な文明を照らす、一個の内部太陽」を仮定しました。

オイラーとその空洞説
オイラー(左)と彼の地球空洞モデル(右)
:地球の中心には直径1000kmほどの輝く星があるとした。

4.ジョン・クリーブス・シムズ 1818年

 アメリカ陸軍の大尉、「同心円と極地の空洞帯」という本で、地球空洞説を唱えました。これによると、地球は厚さ800マイル (1,300km)、各々の両極に直径1400マイル (2,300km) の開口部を持つ五層の同心球であるとされ、地表の海はそのまま裏側にまでつづいているとされ、このシムズの説は、初期の地球空洞説のなかでも最も有名なものとのことです。

5.ヤンセン親子の証言 1829年

 1829年4月、スウェーデンの漁師ヤンセン親子は、漁に出た際、北極圏で暴風雨に数日間見まわれ、気づいた時には、四方海に囲まれたトンネルのようなところを航行していたそうです。そこを抜けると地球内部と思われる海におり、身長が4メートル以上もある巨人に救助され、「我々の国に来なさい」と云われたとのこと、、、。言語は聞き慣れないものであったが、サンスクリット語に似ていて、多少、理解は出来、「イェフ」と云う彼等の町に連れていかれ2年間生活したとされます。巨人たちの寿命は長く800歳くらい。高度な文明を持ち、全てのものが巨大だったらしい。2年後、その地下世界から脱出するが、戻った海は、迷った北極ではなく反対側の南極だったと証言しました。

 北極海から地球内部に侵入、巨大な地底人に救助され、
 2年間生活した後に南極から地上に生還


 この話しはとんでもない逸話のようにも思えますが、実は同様の体験をした人が何人もおり、このヤンセン親子の体験は後述の「煙の神、ザ・スモーキー・ゴッド(The Smoky God)」という本にまとめられております。

5.ウイリアム・リード 1906年

 アメリカのウイリアム・リードが、内部の太陽を持たない、単層の空洞地球のアイデアを述べた「極地の幻影」を発表しました。

極点の幻影
リードの「極地の幻影」図

6.リチャード・バード 1947年

 極地探検で有名なリチャード・バード少将(1888年10月25日〜1957年3月11日)は、1947年の南極探検飛行の最中に大穴の中へ迷いこみ、氷原のあるはずの場所に緑あふれる谷間を発見した、と報告しています。

リチャードバード
リチャード・バード少将

7.米気象衛星に撮影された北極と南極の穴 1967,8年

 1967年1月6日、アメリカの気象衛星「ESSA-3」が、北極と南極に穴らしきものを初めて撮影し、1968年11月23日には気象衛星「ESSA-7」が鮮明な「北極の穴」を撮影したとされ、世界中が大騒ぎになりました。

えっさ号の写真
ESSA号の撮影した写真

8.レイモンド・バーナード 1969年

 アメリカのレイモンド・バーナードは、上記6のリチャード・バード少将の体験を掲載した「空洞地球――史上最大の地埋学的発見(The Hollow Earth - The Greatest Geographic Discovery in History)」を出版しております。

地球空洞説


◇ アガルタ Agartha

 地球空洞論の根底に流れる一つの伝説的考え方に「アガルタ Agartha」と言う概念があるようです。これは、地球(世界)の中心にあるという、理想世界またはその都市の名称でああります。諸説ありますが、太陽に準じる光源と過酷な自然環境、それと共存する高度な科学文明と精神社会、超能力を含む超人的な特異能力を持つきわめて長寿な人類や動植物が描かれるようです。
 上でご紹介した地球空洞説とリンクして、あるいはセットで論じられることが多く、神智学や神秘主義の世界ではよく知られたテーマで、実際に東西の多くの科学者や権力者、探検家が捜し求めたとされます。
 自然(地球)崇拝や密教のなど理想郷を示すシャンバラ Shamballa(シャングリラとも言う)は、アガルタへの入り口(またはその首都の一部)であると言われています。

 ヤンセン親子の見た文明 = アガルタ?

 1908年、ウィリス・ジョージ・エマーソンの、地下の文明があるという発想の源泉となった「煙の神、ザ・スモーキー・ゴッド(The Smoky God)」の中に上述のヤンセン親子が紹介されており、その世界は「煙がかった(smoky)」中心太陽に照らされていたとしています。エマーソンはその街(文明)を本来のエデンの園であると主張し、アガルタという名を用いませんでしたが、“Agartha - Secrets of the Subterranean Cities ”など、後の作品では、ヤンセンが出会ったと主張される文明とアガルタを同一視し、その住人をアガルタ人と呼んでおります。


◇ 地球空洞説への反論

 こうして過去を振り返りますと、古代に神話とされたものが1600年代より急速に仮説として議論が発展し、いくつかの状況証拠が加わって、一つの学問にまで登り詰めている印象です。しかも、この地球空洞論における球殻の内側の凹面は人間などの居住が可能だというアイデアを含んでいます。この一連の学説(?)について、これまでのところ、科学者たちは一様にこれを疑似科学であるとして退けているようです。
 アイザック・ニュートンの万有引力の法則に従えば、球状に対称な凹面の殻内部では、殻の厚さに関わり無く、全ての地点で無重力となってしまい(地球の自転から生じる遠心力は“外”方向へ人を引きつけるが、回転半径が最も大きい赤道地域でさえ、この力は通常の地球の重力の0.3%にすぎない)、従って、空洞内の地表に人や建物が存在するような世界は物理的にあり得ず、地球空洞説は成り立たないとされます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード・スノーデン
http://news.nicovideo.jp/watch/nw791431?news_ref=top_latest_pol
http://ja.wikipedia.org/wiki/地球空洞説
http://ja.wikipedia.org/wiki/アガルタ

古代におけるユダヤ人最初の迫害から中東問題まで

 せっかく「中東/アラブ/イスラムの歴史的背景」として中東、アラブ、イスラムについてそれぞれの定義や分布、イスラム教の起源などに触れたので、似たような地域で起こったユダヤ人迫害から近現代の中東問題まで話を延長してみます。
 ちなみに、ユダヤ人の定義ですが、「ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々」という定義は古代・中世にはあてはまりますけれど、近世以降ではキリスト教に改宗したユダヤ人(フェリックス・メンデルスゾーン、グスタフ・マーラー等)も無神論者のユダヤ人(ジークムント・フロイト)も「ユダヤ人」と呼ばれることが多いです。なお、イスラエル国内においてユダヤ教を信仰していない者はイスラエル人とも言われます。


◇ 古代ユダヤ人の迫害と隆盛の歴史

 旧約聖書によりますと、ユダヤ民族の始祖アブラハムがメソポタミアのウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされます。彼らは「移住民」という意味の「ヘブライ人」と呼ばれ、この付近で遊牧生活を始めました。紀元前17世紀頃、ヤコブの子のヨセフの時代にヘブライ人はエジプトに移住し、紀元前1730年頃から紀元前1580年の第15-16王朝、ヒクソス(よその土地の王の意)の時代にはエジプト王の厚遇を得て栄えましたが、第18王朝アハメス一世から紀元前13世紀の第19王朝ラムセス二世(在位前1279-1213)の時代では激しい迫害を受けたとされます。

 始祖アブラハムが部族を引き連れウルからカナンに移住
 「移住民」=「ヘブライ人」
 紀元前17年、カナンから古代エジプトに移住
 古代エジプトの王朝による厚遇と迫害


【古代エジプト年表】
 チニス時代(BC3000 - BC2778)
  第01王朝 ナルメル、アハ
  第02王朝 ペリプセン、カセケムイ
 古王国時代(BC2778 - BC2263)
  第03王朝 サナクト、ジョセル(BC2778 - BC2723)
  第04王朝 スネフル、クフ、カフラー、メンカウラ、ダドフラ
        (BC2723 - BC2563)
  第05王朝 サフラ、カカイ、ウナス(BC2563 - BC2423)
  第06王朝 テチ、ペピー一世、同二世(BC2423 - BC2263)
 第1中間期(BC2263 - BC2070)
  第07王朝 不明
  第08王朝 不明
  第09王朝 ケティ一世、同二世
  第10王朝 ネフェルカラ、ウワカラ、メリカラ
 中王国時代(BC2160 - BC1580)
  第11王朝 メウツ―ホテプ一世〜五世
  第12王朝 アメンエムハト一世〜四世、センウスレト一世〜三世
  第13 - 14王朝 ジェンジェル、セベクホテプ
 第2中間期(BC1730 - BC1580)
  第15 - 16王朝(ヒクソス時代) キアン、アポピ
  第17王朝 ラホテブ、セベクマサフ、セクエンエンラ
 新王国時代(BC1580 - BC1085)
  第18王朝 アハメス、アメンホテプ一世〜四世、
        トトメス一世〜四世、ツタンカーメン、ホルエンヘプ
  第19王朝 ラムセス一世、同二世、セティ一世、同二世
  第20王朝 ラムセス三世〜十一世
 末期(BC1085 - BC332)
  第21王朝 スメンデス、ヘリホル、ピネジェム
  第22王朝 シェションタ一世、同二世、オソルコン一世、同二世
  第23王朝 シェションタ五世、オソルコン三世
  第24王朝 ラフナクト、ボコリス
  第25王朝 (ヌビア人王朝)ビアンキ、シャバカ、タハルカ
  第26王朝 (サイス王朝)プサメチク一世〜三世、ネカオ
  第27王朝 (ペルシャ人王朝)カンビセス、グレイオス一世、
        同二世
  第28王朝 アミルテ
  第29王朝 プサメチク、アコリス
  第30王朝 ネクタネボ一世、同二世
  第31王朝 (ペルシャ人王朝)アルタクセルクセス三世
 プトレマイオス王朝(BC332 - BC30)
  BC332  マケドニア王アレキサンダー大王により征服
  BC305  アレキサンダー大王死後プトレマイオス一世即位
  BC30    クレオパトラ7世自殺、古代エジプト滅亡

 紀元前13世紀の第19王朝ラムセス二世の時代、旧約聖書に「出エジプト記」と記される事件が起こりました。それは、指導者モーセにより約60万人のエジプト在住ヘブライ人がエジプトからシナイ半島に脱出を果たしたものです。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着しました。紀元前1207年のエジプトの石碑に記された碑文がイスラエルという部族についての最古の文献でります。

チャールトンとユル
映画「十戒」におけるモーセ(左、チャールトン・ヘストン)と
ラムセス二世(右、ユル・ブリンナー)


イスラエル
紀元前1207年イスラエルと書かれたエジプトの碑文

 エジプトを脱出した際に、聖なるシナイ山の頂上で神ヤハウェとの契約をさずけられ、これがのちのユダヤ教へとつながります。この出来事は、ユダヤ人にとって、とりわけ重要な意味をもっており、なぜなら、これが歴史上ユダヤ人への最初の迫害であり、ユダヤ教の起源となったからです。
 モーセの死後、後継者ヨシュアにひきいられたユダヤ人は、ヨルダン川をわたり、イェリコの町とその地域を征服します。その後、紀元前11世紀頃には、サウル王のもとで建国を成し遂げ、後継者ダビデ王およびその子ソロモン王の治世で、最盛期を迎えます。

ダビデとソロモンシバ
ダビデ王(左)とシバの女王と会談するソロモン王(右)

 ところがソロモン王の死後、王国は北方の北イスラエル王国と南方のユダ王国に分裂し、紀元前8世紀には北イスラエル王国はアッシリア帝国に、紀元前6世紀、ユダ王国は新バビロニア王国にそれぞれ征服さます。このとき、ユダ王国の人々はバビロンに強制移住させられたのが有名な「バビロンの捕囚」であり、彼らはユダ王国の遺民という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。この捕囚において多数のユダヤ人が虐殺され歴史上第二のユダヤ人迫害と言われます。

 「バビロンの捕囚」
  :多数のユダヤ人が虐殺 = 第二のユダヤ人迫害


 新バビロニアはアケメネス朝ペルシャに滅ぼされてしまいますが、そのペルシャの寛大さはユダヤ人に平和をもたらしました。紀元前538年、ペルシア王キュロス二世の命令によって、ユダヤ人たち(42,462人)は解放され、エルサレムに帰還することが許されました。彼らは帰還後、エルサレム神殿(第二神殿)を再建し、その後、唯一神ヤハウェを信じるユダヤ教、ユダヤ王国が成立しました。


◇ ユダヤ王国の滅亡と中世におけるユダヤ人迫害

 その後、イエス・キリストの出現とキリスト教の起源が起こりますが、ユダヤ王国は紀元66年よりローマ帝国に対し反乱を起こし(ユダヤ戦争)、逆に滅ぼされてしまいます。ユダヤ人による自治は完全に廃止され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する「パレスチナ」という地名が復活しました。

 ローマ帝国に反乱したユダヤ王国は滅亡
 以後2000年近くユダヤ人の世界各地への離散が始まった


 以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散しました。すでにキリスト教世界となったヨーロッパにおいて、ユダヤ人は「イエス・キリストを十字架にかけた者の子孫」として差別されるようになります。このためユダヤ人は、当時のヨーロッパでは卑しい職業とされていた金貸し業にしか就けませんでした。一所懸命働いて成功し、お金持ちになると、ますます嫌われ、差別がひどくなっていきました。


◇ ユダヤ人女性には子宮頸癌が無い!?

 ちょっと余談になりますが、ZARDの坂井泉水が若くして患った子宮頸癌は、私が医者になった四半世紀前頃には、「複数の男性と複数回の性交渉を持った女性が罹る疾患」とされておりました。ヒトパピローマウイルスが発見される以前ですが、なんとなく発生機序に感染症が考えられておりました。高い頻度で不潔な性交から感染、発症するとの発想です。これを後押しする疫学としてユダヤ人女性には子宮頸癌が無いことが明らかとなっており、その理由としてユダヤ人男性が割礼と言って陰茎の包皮を切除する手術を受ける風習があり、亀頭部が清潔を保たれるからと考えられていました(アフリカ女性に行われた陰部の切除とは違います)。
 ところが、この20年ばかりで、子宮頸癌の原因がヒトパピローマウイルスによることが明らかとなって、確かに性行為感染症であるには違いありませんが、割礼により亀頭が清潔であることは意味は無く、単にユダヤ人にはヒトパピローマウイルスが無く、ユダヤ人はユダヤ人としか結婚、性交渉をしないため、この民族には永らく同ウイルスが感染する機会が無かったことを裏付けています。

 ユダヤ人女性に子宮頸癌が無い理由
  X 割礼により清潔なユダヤ人男性の亀頭
  ○ ユダヤ民族にはヒトパピローマウイルスがなかった


 これが何を意味するかと言えば、ユダヤ人は他民族と結婚はおろか性交渉も許されない異端の扱いが中世の世界で長く続いたのであろうと言うことです。


◇ ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺

 以前の文章を引用しますが、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺は選民思想が最も大きく世界の歴史の悲劇として名を残したものでありました。彼らはアーリア民族こそが優等であると考え、より「劣等」である全ての人種を絶滅することが自らの任務だと信じていました。しかし、この紀元はヒトラーに始まったものではなく、1859年、マックス・ミュラー(ドイツ)が、インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言語を話した住民は共通した民族意識を持ったとし、インド・ヨーロッパ語族を使用する人々をアーリアン(アーリア人)と呼ぶべきだと主張したことにあります。

ヒトラー
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)

 この理論はイギリスとドイツで特に盛んに主張されましたが、イギリスの場合はインドの植民地支配を正当化するために利用されたようです。ドイツでは、作曲家であるワーグナーなどが、アーリアン学説を肯定した上でドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると主張し、自民族の権威付けに用いました。この発想が後にナチスドイツに受け継がれたと考えられております。ユダヤ人の弾圧、大虐殺(ホロコースト)は600万人とも1000万人とも言われています。

【ナチスドイツの反ユダヤ政策】
 19年    ヒトラー「ユダヤ人全体を断固除去することが最終目標」との書簡
        以後、しばしばこれに類した演説を行う。
 33年03月 「反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令」
        :ユダヤ人商店に対する大規模なボイコット命令
        →私服ナチ党員によるユダヤ人店舗の破壊、暴行、殺害
 33年04月 「職業官吏団再建法」
        :公務員からユダヤ人を含む非アーリア人を追放
        →その後も弁護士や大学教授、医師、徴兵対象者も対象へ
        ※この頃からユダヤ人のドイツ国外脱出が始まった
 35年09月 「ニュルンベルク法」
        :ドイツ国民のユダヤ人は「国籍を保持するがライヒ市民ではない」
        →ドイツ人および類縁の血を持つ者との婚姻や性交渉を禁止
 37年12月 ユダヤ人資本の経営を解散、譲渡
 38年08月 ユダヤ人らしくない姓に変更することの禁止
 38年11月 武器を持ったユダヤ人を拘束、ユダヤ人の武器保有禁止
 39年04月 ユダヤ人が持つ旅券(パスポート)はすべて無効
        「J」の字が刻印された旅券が新たに交付
        ドイツ国籍および無国籍のユダヤ人より全財産の20%を没収
        損害を申請して保険金を受け取る権利を剥奪
        ユダヤ人の文化・娯楽施設への入場を禁止
 39年09月 ユダヤ人の独立経営、責任者になることの禁止
        (ポラーンド侵攻、第二次世界大戦勃発)
        占領地域におけるユダヤ人の隔離を開始
 39年11月 「すべてのユダヤ人は今後一切の慈悲無しに取り扱われる」との宣言
        以後、ユダヤ人の大虐殺が加熱

【ナチスドイツ 絶滅収容所と犠牲者数】
 ・アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 約1,100,000人
 ・トレブリンカ強制収容所 少なくとも700,000人
 ・ベウゼツ強制収容所 約434,500人
 ・ソビボル強制収容所 約167,000人
 ・ヘウムノ強制収容所 約152,000人
 ・ルブリン強制収容所 約78,000人
 ・Maly Trostenets 少なくとも65,000人

ヘスとアウシュビッツ
ルドルフ・ヘス所長とアウシュヴィッツ第一強制収容所


◇ 中東(パレスチナ)問題

 上述の如く、激しい迫害を受けたユダヤ人の間でシオニズム運動と呼ばれるものが発生します。すなわち、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動であります。
 第一次大戦中の1917年にイギリス外相が「パレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設とその支援」を約束したバルフォア宣言が出されており、第二次大戦後、1947年に国連によるパレスチナ分割決議を経て、1948年にイスラエルが建国され、ユダヤ国家が誕生しました。
 この際、パレスチナに住んでいたアラブ人たちは土地を失い、「パレスチナ難民」が発生しました。彼らはイスラム教を信じるアラブ人ですが、「パレスチナ難民」と呼ばれることで、「パレスチナ人」という民族意識を抱くようになります。「パレスチナ人の土地を取り戻す」との考えが強くなり衝突が起きるようになりました。これがいわゆる中東戦争で、大きなものだけでこれまでに4回起きています。しかし現在もこの地域はイスラエルが支配していて、その中にあるガザ地区とヨルダン川西岸地区という2カ所がパレスチナ自治区になっています。
 イスラエルとパレスチナの衝突は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の宗教対立のように見えますが、実は古代からの長い土地をめぐる争いなのです。

 中東(パレスチナ)問題
 :古代からのパレスチナをめぐるユダヤとアラブの争い



◇ 中東アラブ世界を複雑にした英国三枚舌外交

 上で第一次大戦中の1917年にイギリス外相が「パレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設とその支援」を約束、と申しましたが、実はこの頃、英国は別々に三つの約束をします。これは英国の「三枚舌外交」と呼ばれるもので、パレスチナをめぐるユダヤ人とアラブ人の争い以上に中東のアラブ世界を更に複雑にするものでありました。

【英国 三枚舌外交】
 1915年10月 フサイン=マクマホン協定(中東のアラブ独立 公開)
 1916年05月 サイクス・ピコ協定(英仏による中東分割 秘密協定)
 1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設 公開)

 第一次世界大戦中に英国が用いた「三枚舌外交」とは、中東地域を支配していたオスマン帝国を切り崩すためのものでした。アラブ人には「オスマン帝国が崩壊したら、ここをアラブ人の土地にしてあげる」と約束します(1915年、フサイン=マクマホン協定)。約束をエサに、オスマン帝国の中でアラブ人の反乱を引き起こそうと考えたのです。フランスとの間でもオスマン帝国崩壊後、領土を山分けしようという約束、1916年、サイクス・ピコ協定を結びます。そして、ユダヤ人には「戦争が終わったら、ここにユダヤ人のNational Home(ナショナルホーム)をつくることを認める」と約束します(1917年、バルフォア宣言)。ユダヤ人の資金が欲しかったのです。

 オスマン帝国崩壊後の土地領有に関する空手形

 フランスとの密約であるサイクス・ピコ協定によって、オスマン帝国崩壊後、現在のシリアやレバノンのあたりはフランスの支配下におかれました。しかし、その地域で独立運動の気運が高まり、フランスは人工的に国境線を引いてレバノンという国をつくります。いろいろな宗派が入ったモザイク状の国にすることで、住民が一致団結して独立運動を起こせないようにしたのです。この勝手な線引きはその後のレバノン紛争(1975年)の原因となりました。

 フランスの政策がレバノン紛争の原因

 また、イギリスは、支配下においたオスマン帝国の一部をクウェートとして独立させます。イラクにしてみれば、同じオスマン帝国だった州の1つを、勝手にイギリスがクウェートという国にしたことに不服を唱えクウェートに攻め込みます。これが湾岸戦争となっていきます。

 イギリスによるクウェート独立 → 湾岸戦争へ

 ユダヤ国家の建国のみならず、こうしたイギリスとフランスの支配をめぐる勝手な振る舞いが、さらに今の中東アラブ世界の紛争につながっているというわけです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/古代イスラエル
http://ja.wikipedia.org/wiki/出エジプト記
http://ja.wikipedia.org/wiki/バビロン捕囚
http://home.e06.itscom.net/life/web/gan/sikyugan/
http://ja.wikipedia.org/wiki/絶滅収容所
http://ja.wikipedia.org/wiki/パレスチナ問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/三枚舌外交


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中東/アラブ/イスラムの歴史的背景

◇ シリア内戦への米国軍事介入に触れ

 2011年、チュニジアとエジプトに端を発したアラブ世界の大規模反政府(民主化要求)運動、通称「アラブの春」(Arab Spring)の流れで、シリアは内戦状態となってから約2年、これまでに8万人以上が死亡、国外に逃れた難民は130万人を超えたとされております。

シリア内戦死者
シリア内戦における死者

 いよいよ、アサド政権が化学兵器を使用したとの見解から、米国が軍事介入に踏み切ることを表明し、人道的見地から化学兵器など大量破壊兵器を「越えてはならない一線」とコメントしたオバマ大統領の意図はよく解ります。

 シリアの化学兵器使用に米国、軍事介入

 しかし、中東、アラブ世界あるいはイスラム社会は歴史が古く、考え方や価値観が複雑であり、我々が普段、接している資本主義、民主主義を単純に当てはめるわけには行かない印象はあります。今後のニュースの展開を観て行く材料になりますでしょうか?、中東/アラブ/イスラムの歴史的背景に関する知識をまとめてみました。


◇ 中東 ≠ アラブ ≠ イスラム

 まずはじめに、つい同じような範疇で考えがちな「中東」と「アラブ」と「イスラム」ですが、よく考えれば同じものではないことは明白です。インドネシアのようにアラブ諸国でも中東でもない国にイスラム教徒が多数いる国はありますし、中東にはユダヤ教を信じるユダヤ人の国家、イスラエルが存在します。レバノンにはキリスト教マロン派の住民がが大勢おります。少し言葉の定義をまとめておきます。


1.言葉の定義、「中東」から

 元々、中東(Middle East)と言う言葉は、インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカを植民地にしていたイギリスが19世紀以降にインド以西の地域を植民地化するに当たって考え出された概念です。イギリスにとって東はインド、ここが基準になり、日中のようにインドより極端に東は「極東」、中くらいの東が「中東」ということのようです。

 イギリスにとって東はインド
 日中のように極端に東は「極東」
 中くらいの東が「中東」


 現在のところ、インド以西の西アジアとアフリカ北東部の国々を指す概念であり、これには伝統的な中東と拡大中東があります。

【伝統的中東】
アラブ首長国連邦、イエメン、イスラエル、イラク、イラン、エジプト、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、トルコ、バーレーン、パレスチナ、ヨルダン、レバノン

【拡大中東】
 アフガニスタン、アルジェリア、キプロス、北キプロス、スーダン、チュニジア、
 西サハラ、パキスタン、モロッコ、モーリタニア、リビア

中東
伝統的中東(深緑色)と拡大中東(薄緑色、G8で提案)


2.アラブ世界とアラブ人

 重箱の隅のような話しですので端的に申します。アラブ世界とは「アラビア語を話している人たちがいる地域」のことです。ですからアラビア半島のみならず北アフリカもアラブ世界です。一方、イランはペルシア語ですのでアラブ世界には含まれません。アラブ人とは「アラビア語を母国語とする人」のことです。下記に示す通り、アラブ人は中東のみならずそれ以外の地域にもたくさんいます。また、「アラブ人はみんなイスラム教徒か?」と言うとそうではありません。アラブ人にもキリスト教徒が大勢います。
 日本において、「アラブ人は中東に住み、イスラム教を信仰する民族」として捉えられ、「アラブ人=イスラム教徒」との認識が広まっていますがそれは間違いです。

【主なアラブ人国家】
 アラブ首長国連邦、アルジェリア、イエメン、イラク、エジプト、オマーン、
 カタール、クウェート、サウジアラビア、サハラ・アラブ民主共和国、シリア、
 スーダン、チュニジア、バーレーン、パレスチナ、モロッコ、モーリタニア、
 ヨルダン、リビア、レバノン


3.実は非常に広いイスラム世界

 世界で最もイスラム教徒がいる国はインドネシアで、インドにも1億人近いイスラム教徒がいます。イスラム世界あるいはイスラム教国の定義は以下の通りとされており、イスラム世界は、北アフリカから中東、そして東南アジアまで、非常に広い世界となります。

【イスラム世界(教国)】
○ 国教がイスラム教である国、シャリーア(イスラーム法)を法として実際に運用している国。この場合はイスラム国家と呼ばれることが多い。この定義ではトルコやアルバニアのような、人口の大多数がイスラム教徒であっても世俗主義を標榜する国家は入らない。
○ イスラム教徒が人口の比較的多数を占め、国家の指導的立場、ヘゲモニーをイスラム教徒が握る国。ほぼすべてがイスラム諸国会議機構 (OIC) に加わっている。「ムスリム国家」とほぼ同義であり、「キリスト教国」「仏教国」などの言葉に対応する。

世界各国のイスラム教徒の割合
世界各国のイスラム教徒の割合


◇ イスラム教の母体はユダヤ教・キリスト教

 後述しますが、イスラム教は紀元610年頃、サウジアラビアのメッカというところでムハンマドという商人が大天使ジブリール(ガブリエル)から啓示を受けたことが始まりとされております。すでにその時代にはユダヤ教とそこから派生したキリスト教が広まっておりましたので、イスラム教の神はユダヤ教、キリスト教と同一の神として発展して行きます。ユダヤ教やキリスト教と同様に唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる共通点があります。まずはユダヤ教とキリスト教の関係に触れます。

 唯一神教
 偶像崇拝の排除
 神への奉仕
 信徒同士の相互扶助関係や一体感



1.キリスト教はユダヤ教の改革版

 ユダヤ教は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェ(エホバ)を神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教であります。「タナハ」と呼ばれる聖典はキリスト教で言う「旧約聖書」と同一の書物であり、「ヤハウェが6日間でこの世界を造り7日目に休まれた」という天地創造のことが書かれています。ダビデの星は、ユダヤ教、あるいはユダヤ民族を象徴する印であり、二つの正三角形を逆に重ねた六芒星(ヘキサグラム)といわれる形をしています。

ダビデの星
ダビデの星

 イエス・キリストの出現とその後のキリスト教発展についてはここで詳述するまでもないと思います。簡単に言うとキリストはユダヤ教の改革運動を行っており、それに不信感を持ったユダヤ人により、「イエスは自らをユダヤ人の王であると名乗り、また『神の子』あるいはメシア(救世主)であると自称している」との罪を着せられ、ユダヤの裁判にかけられた後、ローマ政府に引き渡され十字架にかけられました。処刑後、十字架から降ろされ墓に埋葬された3日後に復活し、大勢の弟子たちの前に現れたため、「イエスはただの人間ではない」となり、「イエスこそが救世主ではないか」との発想から信者たちによりキリスト教の布教活動を始まりました。

 イエス・キリストはユダヤ教の改革運動を行った
 キリスト教はイエスではなくその信者によって始まった


イエスキリスト十字架
十字架にかけられたイエス・キリスト

 キリスト教は元々、ユダヤ教ですので、ユダヤ教の聖書はキリスト教にとっても聖書であり、これをイエス以前の神との契約として「旧約聖書」と呼び、イエスの言行録は新しい神との契約として「新約聖書」としました。

 イエス以前のユダヤ教における神との契約=旧約聖書
 イエスの言行録等イエス以後の新しい契約=新約聖書


 但し、旧約聖書という言い方はあくまでもキリスト教徒の見方ですので、ユダヤ教徒にとっては「旧約聖書」という言い方は不本意とのことです。


2.イスラム教の起源

 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフと、「アブドゥラと言えばブッチャーでは?(笑)」と言う名の人物がイスラム教の開祖であります。紀元610年頃、商人であった彼、ムハンマドは悩みを抱いてサウジアラビアのメッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていました。そこに大天使ジブリール(ガブリエル)が現れ唯一神(アッラーフ)の啓示が始まったとされます。ジブリールはアラビア語ですが英語ではガブリエルです。キリスト教でマリアに処女懐胎を告げたのが大天使ガブリエルであり、ユダヤ教あるいはキリスト教で信じられている大天使がそのままムハンマドのもとに現れたのです。

 瞑想するムハンマドへの大天使ジブリールの啓示が始まり

 その後も啓示は次々とムハンマドに下され、預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、近親の者たちに彼に下った啓示の教え、すなわちイスラーム教を説き始めました。最初に入信したのは妻のハディージャで、従兄弟のアリーや友人のアブー・バクルがそれに続いたとされます。
 ちなみに、神様は人間に言葉を直接は話しません。必ず仲介役のような、通訳のような役割の者が入ります。これはユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通しており、ムハンマドは「神様の言葉を預かった人」という意味で「預言者」と呼ばれます。言葉を“預かる”から預言者であって、未来を“予言する”「予言者」ではありません。

 「預言者」≠「予言者」

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天使ジブリールから啓示を受けるムハンマド

 預言者ムハンマドが天使ジブリールの言葉を人々に伝え、人々はひたすら神に帰依(きえ、神仏や高僧などのすぐれた者を信じそれによりすがること)します。「イスラム」という言葉には帰依するという意味があります。イスラム教は「神様にすべてを委ねて、心の安寧を得る」という宗教なのです。

 「イスラム」=「帰依(きえ)する」

 ムハンマド没後、信者たちが暗誦していた言葉をまとめたものが「コーラン」(Quran, クルアーン)で、これは「最後の」啓典とされております。なぜ「最後」なのかと言うと、「これまで神はユダヤ人に神の言葉を伝えたが、ユダヤ教徒は教えを守らなかった。そこでイエスに改めて神様の言葉を伝えた。しかしキリスト教徒も教えを守らなかった。そこでムハンマドを最後の預言者として言葉を伝えた」、とそんな理由とのことです。

 コーランは「最後の啓典」

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ナスフ体によるコーラン(クルアーン)

 イスラム教徒にとっては旧約聖書も新約聖書もコーランも、いずれも神様からの言葉でありますが、神が最後に与えたコーランが一番大事な啓典となっています。イスラム教の詳しい内容については他に譲ることといたします。


◇ イスラム教 シーア派 vs スンニ派

 イスラム教には派があって、「シーア派とスンニ派の対立」というニュースをよく聞きます。唯一神教でありコーランと言う旧約聖書も新約聖書も超えると自分たちで考えている「最後の啓典」があるのに神の教えに対する理解やイデオロギーに差があるとは考えづらいことです。
 簡単に言うとイスラム教伝承者の指導者を誰にするか?、ムハンマドの子孫とするか?、コーランの教えを正しく伝える人物にすべきか?、と言う立場の違いのようです。すなわち、ムハンマドが亡くなった後、ムハンマドの血筋を引く者こそが「預言者の代理人(カリフ)に相応しいとして従弟で娘婿のアリーに従う「アリーのシーア(党派の意味)」が発生して「アリー」の部分が無くなって「シーア」と呼ばれるようになり、日本では「シーア派」と呼んでいます。一方、「血筋に関係なくコーランに書いてあることやイスラムの慣習(スンナ)を守ることが大事」とする考え方が「スンナ派」であり、日本では「スンニ派」と呼んでいます。以上、「シーア派」と「スンニ派」の違いは、宗派としての教えではなく、世襲かそうでないかくらいの違いのようです。

 シーア派:ムハンマドの血筋を預言者の代理人(カリフ)
 スンニ派:コーランやイスラムの慣習(スンナ)を厳守


 アラブ世界はスンニ派が多いのですが、不思議なことにアラブ人ではなくペルシア人のイランは、アラブ人であるムハンマドの血筋に従う立場のシーア派が主流です。民族が違ってもシーア派は広がったため、イラクの東半分もシーア派が主流で、サウジアラビアの南の一部やバーレーンにもシーア派が多数いるそうです。実はシーア派のいる土地は石油資源が豊富であることが多く、これをシーア派の人たちは「神が我々に石油を恵んでいる」と言っており、この石油のためにシーア派とスンニ派の対立が生まれているとのことです。

 「シーア派 vs スンニ派」は石油の争い

800px-Muslim_distribution.jpg
シーア派(緑)とスンニ派(黄緑)の分布

 *****

 以上、中東/アラブ/イスラムの定義、歴史的背景について触れて参りました。理解しきれていない部分も多々ありますので、細かい間違いについてはご容赦いただきたく存じます。ネットや雑誌からの情報収集ですが、自分が誤解していたこと、日本人が元々考えていたものとの相違に驚く部分もございました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/アラブの春
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130830-00010002-wordleaf-int
http://ja.wikipedia.org/wiki/中東
http://ja.wikipedia.org/wiki/アラブ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/イスラム世界
http://ja.wikipedia.org/wiki/イスラム教
http://ja.wikipedia.org/wiki/ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ教
http://ja.wikipedia.org/wiki/イエス・キリスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/スンナ派
http://ja.wikipedia.org/wiki/シーア派


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科学?/非科学? 有史以前の超古代文明はどこまで解明?

 つい一昨日の新聞に、米国内の干上がった湖の湖底に見つかった岩石線画の制作年代が、北米最古の約10,500年から14,800年前と判明したとの記事が載りました(下記)。文章中に「1万年以上前の先住民は原始的だと考えられていたが、この線画の芸術表現や技術は、それがまったく違うことを示している」とありますが、10,000年以上前の有史以前に超古代文明があった可能性を示唆する事例は世界中に散見されております。このあたり、先日のマヤ(暦)の紀元についての記述でも触れましたが、いくつか調査したものをご紹介いたします。

 *****

ネバダ州湖底の線画は北米最古 米コロラド大など発表

 米コロラド大などの考古学者らは14日までに、西部ネバダ州ピラミッド湖の干上がった湖底の巨石に見つかった岩石線画の制作年代が、北米最古の約1万500年から1万4800年前と判明したと発表した。AP通信が伝えた。
 これまではオレゴン州の湖で見つかった約7600年前に制作されたと推定される線画が北米最古とみられていた。線画は石灰岩に彫られた抽象的な絵柄。複数のダイヤモンドを組み合わせたような幾何学模様や、樹木や葉脈のように見えるものがあるという。
 共同研究者の1人、ネバダ州立美術館のユージン・ハットリ学芸員は「1万年以上前の先住民は原始的だと考えられていたが、この線画の芸術表現や技術は、それがまったく違うことを示している」と発見の意義を強調した。約2万年前から氷結したベーリング海峡を渡りアジア大陸から南北アメリカに広がった、モンゴロイド系先住民の一部が描いたとみられるが、詳しいことは分かっていない。(共同)

ネバタ州湖底の線画
ネバダ州ピラミッド湖底の巨石に描かれた線画

* ****



◇ 文明の定義

 まず、はじめに「超古代文明」と言うからには「文明」である必要があります。例えば、上の記事にある通り「この線画の芸術表現や技術は原始的ではない」とするだけではこの線画を描いた文化が文明であったとは言えません。別に例を挙げるなら、例えば、有名なラスコー(仏)の洞窟壁画は15,000年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれたとされており、現在、知られるもので最古と言われるショーヴェ洞窟(仏)に至っては32,000年前のネアンデルタール人によるものとされます。これらの古い人類になにがしかの文化はあったと思われますが文明とまでは言えません。

 原始人の洞窟壁画は文明ではない

300px-Lascaux_painting.jpg
ラスコー(仏)洞窟壁画

32000年前ショーヴェ洞窟壁画
ショーヴェ洞窟(仏)洞窟壁画

 辞典には「文明(civilization)とは人間が創り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す」とあります。この“civilization”の語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味する“civitas”に由来し、ローマ時代の文明とは語意の通り都市化や都市生活のことであったようです。文明についての現代の明確な定義は、20世紀になってから、マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド氏が、文明と非文明の区別をする指標を挙げています。

【文明と非文明を区別する指標】
 (ゴードン・チャイルド氏による)
 ・効果的な食料生産
 ・大きな人口
 ・職業と階級の分化
 ・都市
 ・冶金術
 ・文字
 ・記念碑的公共建造物(ピラミッドなど)
 ・合理科学の発達
 ・支配的な芸術様式

 もちろん上記指標の全てを網羅しなければ文明と言えないわけではないようです。地域差があって、アンデス文明やインダス文明では文字はあまり重要ではなく、メソアメリカの諸文明では冶金術(やきんじゅつ;鉱石その他の原料から有用な金属を採取・精製・加工して金属製品・合金を製造する技術)はなかったとされます。


◇ シュメール文明

 現在のところ世界最古の文明はシュメール文明とされています。現在のイラク・クウェート南部を占めるバビロニアの南半分の地域、初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川に囲まれた「肥沃な三日月地帯」に栄えました。10,000年以上前の中石器時代から人々が住み着いたようで、その後のどの段階から文明とするかは諸説あるようですが、一般的にはウバイド期をウバイド文化と呼び、ウルク期からをシュメール文明と呼ばれています。

【シュメールの年表】
 紀元前-10000年 中石器時代:テル・アブ・フレイラで人類最古の農業
 10000 - 7000年 新石器時代:牛羊の牧畜と麦の農耕を主体とした生活
  6000 - 5300年 ハラフ文化:ハラフ式の陶器(土器)
  5000 - 3800年 ウバイド期:社会階層形成、灌漑農法開始、車輪の導入、銅器
  3500 – 3100年 ウルク期:都市文明の開始、支配階級、専門職人、商人、文字
  3100 – 2900年 ジェムデト・ナスル期:青銅製の発見、都市国家間の戦乱時代
  2900 – 2350年 初期王朝時代:ウル、ラガシュなど多くの新興都市国家
  2350 – 2113年 アッカド帝国:アッカド人サルゴンによるメソポタミア統一
  2113 – 2006年 ウル第三王朝:シュメール人により再建された最後の王朝

シュメール文明地図変遷
シュメール文明の変遷

シュメール2750-2600BC
シュメール礼拝者の像


◇ エジプト以前のスフィンクス建造の文明?

 ここからはまだ学説として確立されていない、広く認められてはいない考え方ですが、有史以前の超古代文明としての可能性を否定できない事例だと考えております。

スフィンクス
ギザ大スフィンクス

 以前、地球の歳差運動との関連でスフィンクスを取り上げました。スフィンクスが真東を向いた獅子の彫刻であることから、春分点に獅子座が来る「獅子座の時代」、すなわち、スフィンクスの正面から獅子座が昇った紀元前10,500年頃をスフィンクス建造の時期とグラハム・ハンコック、ロバート・ヴォーバル両氏は唱えております。これを後押しする学説として、ジョン・アンソニー・ウエスト、ロバート・ショック両氏がスフィンクスの岩肌には雨による浸食が見られることから、エジプトに最後の大規模な雨期が訪れたのは紀元前5000年であり、スフィンクスに水による侵食痕が認められると言うことはこの建造物が紀元前5000年より以前の時代に造られたと主張しています。

 水による侵食痕は紀元前5000年以前の建造を示唆?

スフィンクスの壁と浸食形式
スフィンクスの岩肌と雨による浸食形式

 ただ、グラハム・ハンコック、ロバート・ヴォーバル両氏はギザの大ピラミッドもスフィンクスと同じく紀元前10,500年前に建造されたと言わんばかりの勢いです。ギザのピラミッドにスフィンクスに観られるような水による侵食痕は聞いたことがありませんし、スフィンクスとピラミッドでは建造方法がまるで違います。スフィンクスだけがもっと超古代文明の産物として良いのでは?、と思えます。

 ギザのピラミッドまでも紀元前5000年以前とするのはどうか?

 それに加えて、スフィンクスの風化は、塩化すなわち地下水が上昇し蒸発するとき塩分が結晶化する際に起こる表面の破壊、が主な要因になっていること、および塩化による風化は急速に起こっておりその程度は年代的にも「通説」の年代と矛盾しないこと、という説もあります。エジプト文明はいつまでも科学と非科学の狭間に揺れ動く存在かと存じます。


◇ ストーンヘンジ、カルナック列石に文明の意志?

 ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)をストーンヘンジと言います。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在しており、その建造者、歴史はまったくなにも解っていません。イギリス本土であるブリテン島周辺には、ストーンヘンジと同等の多数の巨石文化が残されており、同一の文化圏と考えられております。

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ストーンヘンジ(英)

 円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡であります。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えており、しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るといいます。しかし、最近になって新たな発見があり、現代の観光客用駐車場の下から、紀元前8000年頃に遡る4つの中石器時代の大きな柱穴が発見されました。柱のうち3本(あるいは4本)は東西方向に並んでおり、儀礼場としての重要性を持っていたとも言われています。

 ストーンヘンジ建造が紀元前8000年頃の可能性

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カルナック列石(仏)

 ストーンヘンジに酷似した文化がフランスのブルターニュ南部にあります。カルナック列石と言われ、巨大なメンヒルが総延長およそ4kmにわたり数列に並んでいる三つの列石群からなります。紀元前5000年あるいは、紀元前3000年から紀元前2000年頃に造られたとされますが、その目的は精霊や巨人が建てたとする伝説、戦士の墓、種族の記念碑、天文学上の目的等、あるいは生命の起源と関連付けたようなオカルト系学説など諸説があり、全く不明です。

 建造の技術と意図に文明の足跡?

 ストーンヘンジ(英)とカルナック列石(仏)に共通して言えること、壁画や岩石線画と異なり、ある意図をもって岩を切り出して移動、設置している点であり、その採石および輸送方法に文明の技術を感じざるを得ないことです。また、その岩を設置する意図として、ストーンヘンジには天文学的な意味、カルナック列石には地球上の「地表には意味のある流れ」(レイライン)があったとの説があります。そうなると、有史以前とか石器時代と言うよりもある種の発達した文明を考えさせられます。


◇ 日本近海の海底遺跡は10000年以上前?

 和歌山県の串本町の鬼が島の伝説と、実際に海底には自然の力で出来たとは思えない構造物が発見されております。もっと有名なのは与那国島海底遺跡でしょう。海底のものなのでなかなか調査が進まないのが現状で、与那国島のものに関しては、これを10000年以上前の古代文明の遺跡であるとする木村政昭教授らの意見と、モアイ像で有名なイースター島と共に12,000年前に太平洋にあったとされるムー大陸の一部との考え方もあります。これに対して「岩が侵食されてできた自然地形」であるとする説もあります。

 人為的な物だとすれば10000年以上前

 ダイバー達の多数の写真がyahooを通じて観ることができます。現時点では科学的根拠がありませんので、個人の感覚に委ねるものとなります。

よなくに海底遺跡01

yonaguni44large_2.jpg
与那国海底地形


◇ バミューダトライアングル海底に巨大都市の跡?

 有史以前の超古代文明として、太古の昔から噂されていたのがアトランティス大陸です。古代ギリシアの哲学者プラトンが著書「ティマイオス」および「クリティアス」の中で記述し、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことであります。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされております。もしも、超古代文明としてアトランティス大陸が存在し、神話の如く短期間で水没したのだとすれば、歳差運動を重要視するエジプト文明や正確な暦を作り出したマヤ文明の紀元として議論の的となったところです。
 しかしながら、現代の構造地質学が示すところによれば大陸規模の土地が短時間で消失することはまずあり得ないため、実在説の多くは島などの消失がモデルになったものとされおり、また、アトランティスの直接的モデルとなるような事件そのものが存在しないという説が有力であります。

 大陸規模の短時間の水没はあり得ない
 アトランティスの直接的モデルとなった事件の欠落


 こうした背景を覆す大発表が昨年10月ペルーでなされました。かなり前から、それこそ半世紀前くらいから話題になっていた、空を飛んでいた飛行機や海上を進んでいた船が突然消えてしまう「伝説の三角地帯」、通称「バミューダトライアングル」は有名でした。なぜ消えてしまうのかは、ブラックホール説や宇宙人による誘拐説、時空が歪んでいるための「タイムスリップ説」など、諸説ささやかれていました。

 飛行機や船の消滅が噂されたバミューダトライアングル

 そんな海域について、カナダの科学者夫妻がロボット潜水艇を使いバミューダトライアングルの海底を調査していたところ、キューバの海岸近くの海底にて古代の巨大都市と思われる遺跡を発見したとのことです。水深700メートルに眠っていたものは、ピラミッドにスフィンクス、文字の刻まれた建物などなど、、、。この歴史的ニュースを伝えたペルーのサイト「Peru punto com」には、衝撃的な海底都市の画像が公開されています。

バミューダピラミッド
バミューダトライアングル海底に発見されたピラミッド

 超古代文明の調査もついにここまで来たか!、と思わせる出来事ですが、もしも可能ではなくとも科学的に証明され得るものか?、あるいは非科学的なただの迷信や個人の思い込みのレベルであるのか?、判定は未来に委ねられるものばかりです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/シュメール
オリオン・ミステリー(ロバート・ボーヴァル、エイドリアン・ギルバート 共著、吉村作治 監修、近藤隆文 訳)1995年 NHK出版
天空の蛇―禁じられたエジプト学(ジョン・アンソニー・ウェスト 著、大地 舜 訳) 1997年 翔泳社
http://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンヘンジ
http://ja.wikipedia.org/wiki/カルナック_(フランス)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200904060064.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/与那国島海底地形
http://ja.wikipedia.org/wiki/木村政昭
http://www.perupuntocom.com/modules.php?name=News&file=article&sid=19334
http://ja.wikipedia.org/wiki/ムー大陸
http://ja.wikipedia.org/wiki/アトランティス


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科学?/非科学? マヤ(暦)の紀元は?

 マヤ暦について7月30日より連載して来て、もちろん私は専門家ではありませんので、いろんなサイトや文献に基づき、時にはそのコピー&ペーストを駆使いたしました。そうした机上の調査を重ねた最後に「マヤ暦とはどこから来たものなのだろう?」、と素朴な疑問に突き当たります。

 天文学の知識、0(ゼロ)の発見、マヤ文字

 マヤ暦は、13と20の組み合わせで暦を作っており、短期のものから長期に至るものまで、時間の流れを、天文学の知識と0(ゼロ)の発見で、その体型を作りました。メキシコから中米に散在し、15世紀のスペイン人の来襲で崩壊するまで2000年にも及んだ文明は謎と神秘に満ちております。ちょっとした編集後記のようなかたちになりますが、マヤ(暦)の紀元がどこにあるのか?、を検討してみます。ここで(暦)を括弧()でくくったのは暦のみならず、建築技術や天文学などと言ったマヤ文明の技術を含めた紀元を考えたい、と言う意味です。

◇ マヤ暦、天文学の象徴? チチェン・イッツァ

 チチェン・イッツァは多くの方が知っている、マヤ文明の代表的な遺跡でありますが、実はマヤ文明の歴史の中ではだいぶ近年に近い、言うなれば文明としては最後の時期に当てはまるものです。遺跡の破損が少なく、大量の絵文字が残っており、その解読が進んで来たのがマヤ暦の解明に繋がったのであります。

Chichen-Itza-Castillo-Seen-From-East.jpg
Chichen-Itza Castillo(チチェン・イッツァ カスティーヨ)

 写真のカスティーヨはマヤの最高神ククルカン(羽毛の生えたヘビ)を祀るピラミッドとされ、「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」とも呼ばれます。なおククルカンとはケツァルコアトルのマヤ語名であります。

 マヤの最高神ククルカン = ケツァルコアトル
 (羽毛の生えたヘビ)


 大きな9段の階層からなり、4面に各91段の階段が配されていて、最上段には真四角な神殿があり、階段は4面の91段の合計364段と最上段の神殿の1段で365段であります。また1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ暦の1年(18ヶ月365日)を表すとされ、このことから「暦のピラミッド」とも呼ばれます。北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分と秋分に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせた姿)が現れ、ククルカンの降臨と呼ばれています。

 春分と秋分におけるククルカンの降臨

 こうした太陽暦に基づく建造物に春分と秋分に起こる現象は、マヤ文明の天文学、暦の象徴的存在と思われがちであります。なお余談ですが、カスティーヨ内部にはジャガーをかたどった玉座や生贄の心臓を太陽へ捧げたチャクモル像が置かれていて、この像の目にはめこまれた翡翠は中国製である事が判明しており古代史の謎となっているそうです。

300px-Chichen_Itza_Observatory_2_1.jpg
旧チチェン区域にある天文台

 チチェン・イッツァの代表的な建造物にこのカタツムリ型の天文台がありますが、この屋上の階には様々な方向に穴があいており、そこから天体を(肉眼で)観察していたようです。太陽暦の1年をマヤ人は365.2420日と計算しており、現代天文学がコンピュータで計算した1年は365.2422日と、天体望遠鏡もないマヤ人はほとんど誤差なく暦を知っていました。

 太陽暦の1年をほぼ正確に把握
 
太陽だけではなく、宇宙のかなたに存在する星を毎夜観察し、月や惑星の運行を記録するとともに、起こるべき天体現象を予測していました。現存するマヤの古文書の一つ「ドレスデン・コデックス」には、日食と月食の表や金星の運行周期などが書かれているそうです。いかにもマヤ文明の天文学や暦の技術がチチェン・イッツァにおいて花開いたかのように思われがちです。

◇ マヤ文明以前に発見されたツォルキン暦

 マヤ文明の天文学や暦の技術をチチェン・イッツァの遺跡で知ることが可能であると申し上げましたが、果たしてチチェン・イッツァになって初めてマヤ暦が完成したのかと言うと、それは否定的であります。ツォルキン暦の起源は、オアハカ州のモンテ=アルバンI期(BC500年頃)の石碑で既に確認されており、マヤ以前からメソアメリカの広い範囲にいきわたっていた暦であると考えられます。

 マヤ文明以前からツォルキン暦はあった?

 マヤ文明の暦や天文学の技術がチチェン・イッツァにおいて花開いたのではないとすると、どこにその紀元があるのか?、マヤ文明が発生した古代メソアメリカ文明に目を向ける必要があります。

◇ 古代メソアメリカ文明

 マヤ文明は、メキシコ及び中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明が繁栄した文化領域、メソアメリカ(Mesoamerica)の一つの文明として定義されます。これらの文化の特徴として、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸と無関係に、孤立した環境で発展し、鉄器文化を全く知らず、宗教においても独自な体系が成立したようです。 神殿文化は紀元前二千年紀の末に起こりましたが、それから約2500年の間、外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展したとされます。

メソアメリカ年表
アステカ文明以前の古代メソアメリカ文明
(BC, 紀元前、AD, 紀元後、C, 世紀)

テオティワカン
テオティワカン

 アステカ文明(1428年頃〜1521年)以前のメソアメリカの古代文明を年表形式で作ってみました。これを見ますと、メソアメリカの文明群は、マヤ文明と非マヤ文明に分けられ、エジプトやインド、中国など、他の古代文明と異なり、中央集権とはならず、小さな文明が同時期に多中心性に発生して、時には融合したり離れたり、を繰り返していたようです。

 小さな文明群が同時期に多中心性に発生

 こうしたメソアメリカの文明群のあり方は、暦や天文学と言った技術の紀元を探るのを非常に困難にさせていると思われます。マヤの碑文には、Tikal(ティカル)、Calakmul(カラクムル)に代表される大小の王国が細かい戦いを繰り広げた歴史が残されており、なかなか統一した集権国家とはなっていなかったようです。そんな状態で、優れた暦や天文学が発達したのであろうか?、と疑問を持つのがむしろ当然であります。すると、そうした学問はマヤ文明が発生する前からあって、それが伝承されたのではないか?、とそんな学問も起こってきているのが現実です。

◇ 有史以前の超古代文明からの伝承?

 上述の如く、メソアメリカの文明とその一部であるマヤ文明は約2500年の間、外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展したのは確かのようです。中央集権とはならず、小さな文明が同時期に多中心性に発生する形態など、エジプトやインド、中国など、他の古代文明と異なる性質もあります。
 しかしながら、他の古代文明と極めて類似した部分も少なからずあります。例えば、地球の歳差運動を理解していた可能性を含む天文学の知識、ピラミッドの建造、そして、農業や建築業、天文学などに知識をもたらした伝説、神話の世界の人物がいる点です。
 上で、チチェン・イッツァのカスティーヨについての解説の中で「マヤの最高神ククルカン = ケツァルコアトル」と申しましたが、このケツァルコアトル(ナワトル語: Quetzalcōātl ; スペイン語: Quetzalcóatl ; 英語: Quetzalcoatl)は、アステカ神話の文化神・農耕神であります。

Cabeza_de_Quetzalcoatl.jpg
ケツァルコアトル

 このケツァルコアトルのような存在はエジプトにおいてはオシリス、南米アンデスにはビラコチャ伝説として残っており、いずれも背の高いあご髭をたくわえた白人として描写されているそうです。

 ○ 古代エジプト:Osiris(オシリス)
 ○ 南米アンデス:Viracocha(ビラコチャ)
 ○ マヤ:Kukulcan(ククルカン)
      = Quetzalcoatl(ケツァルコアトル)


オシリスとビラコチャ
オシリス(左)とビラコチャ(右)

 背の高いあご髭をたくわえた白人の伝承者?

 マヤ(暦)の紀元は実はマヤ文明が発生する以前のメソアメリカに伝承されたものである可能性は大いにあります。そして、エジプトのオシリスや南米アンデスのビラコチャと同様に、マヤ文明にも「ククルカン = ケツァルコアトル」と言う農業や建築業、天文学などに知識をもたらした伝説、神話の世界の人物がいるとされます。もしかしたら、それは有史以前の同一の超古代文明からの伝承かも知れない、そんな説が今世紀に入って盛んに囁かれております。有史以前の超古代文明の存在については別の機会にまた検討したいと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/メソアメリカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/マヤ文明
http://ja.wikipedia.org/wiki/チチェン・イッツァ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ツォルキン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ケツァルコアトル
http://ja.wikipedia.org/wiki/オシリス
http://ja.wikipedia.org/wiki/ビラコチャ


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大川 隆法 氏 の経歴に見るスピリチュアル?

 先日、参議院選挙の折、ある方から紹介された幸福実現党についてちょっと調べてみました。同党は2009年5月、宗教法人「幸福の科学」を母体として発足し、同宗教法人の総裁である大川隆法氏の著書『幸福実現党宣言』を立党の指針書としているとのことで、まだ党員として国会議員であったのは旧改革クラブから入党した大江康弘氏1名だけのようですので(?)、これからの政党と言うところでしょうか?。

 幸福実現党 = 幸福の科学 = 大川 隆法
 
 私は、支持政党はありませんし、特定の宗教を持ってはおりませんので、この政党および宗教法人について、客観的な立場であり、宣伝するわけでも支持も非難もしませんが、総裁である大川隆法氏と言う方の経歴を見ますと、その思想を持つきっかけに心霊世界を感じさせます。(真面目に)スピリチュアルを題材に討論している(つもりの)当ブログにて取り上げても良い存在かな?、と考え、ご紹介いたします。「そんなのとっくに知っている」、「全然、的外れで見当違い」、などと言った誹りがあるとしたら、甘んじてお受けする覚悟でございます。以下、幸福の科学HPに掲載されている大川隆法氏のプロフィールです。

 *****

大川 隆法 総裁プロフィール

大川、幸福
大川 隆法 氏と幸福の科学 東京正心館

 大川隆法総裁は、小学校2年生のときに担任の先生から「20歳の知能(IQ200以上)である」と言われるほどの天賦の才に恵まれながらも、おごることなく地道な精進の姿勢を貫かれる大変な努力家でした。現在でも、その偉大な霊能力のみに頼ることなく、自助努力の精神を大切にされ、その精進のお姿で数多くの人々を導かれています。

◇ 幼少時~青春期 精進を重ねる日々

 大川隆法総裁は、1956年7月7日、朝7時ごろに、徳島県麻植郡川島町(現・吉野川市)にご生誕されました。精進に精進を重ね、小・中・高と一貫して全国トップクラスの成績を修められます。さらに、生徒会長、テニス部部長、報道委員長などのリーダーも務め、その懐の深さや高潔な人格によって、ご両親をはじめ、同級生や教師から絶大な信頼を得られました。「彼は約束を必ず守る」、「人が見ていないところでは、いっそうきちんとしている」、「彼がいると、不思議とクラスがよくまとまる」などと評される青春時代を過ごされました。

◇ 大学時代 霊的覚醒が始まる

 努力の結果、東京大学法学部へ進学された大川隆法総裁は、授業に関係することのみならず、広く学問の世界を渉猟(しょうりょう)すべく、夜を日に継いで勉学に打ち込まれました。法学、政治学のみならず、社会学、歴史学、哲学、社会思想史、経済学、経営学、自然科学、国際関係論、さらに英語・ドイツ語の原書講読も重ねられ、20歳のころには1,000冊以上の書籍を読破されます。さまざまな領野を納得いくまで学び、人類の叡智として光を放つものを徹底的に探究されました。そうした日々のなかで、1980年12月頃から霊的覚醒の予感を抱かれます。

◇ 大悟の瞬間 大いなる使命に目覚める

 瞑想的な日々のなかで、至福の感覚を何度も体験した大川隆法総裁に、ついに大悟の瞬間が訪れます。1981年3月23日、午後2時過ぎ、「イイシラセ、イイシラセ」と、福音を告げる自動書記が始まりました。大川隆法総裁が、霊界と同通し、悟りを開かれた瞬間です。さらに同年7月には、自らがエル・カンターレ(下記)という存在であり、 全人類を幸福へ導く使命を持っていることを自覚されます。24歳のときのことでした。その後、大手総合商社に入社し6年間の社会経験を積まれるなど、来たるべき日に向け、雌伏(しふく)の時を送られたのです。

 大悟(目醒め?)「イイシラセ」と福音を告げる自動書記

◇ 社会人時代 初の霊言書籍を刊行

 商社では東京本社の外国為替部に配属、翌年にはニューヨーク本社の研修生に抜擢。世界貿易センタービル40階の事務所にてアメリカ人の女性秘書を部下に、国際金融の仕事に従事しました。また、そのかたわらで、ニューヨーク市立大学大学院で国際金融論を学ばれました。エリートコースを歩む一方で、天上界との霊的交流は続いていました。27歳のとき、社内報に寄稿した「愛の発展段階説」が大反響を呼び、当時の「日刊工業新聞」に転載されます。1984年には、社内の幹部養成コースの通例として、名古屋支社へと異動。このころから霊言刊行の話が進み、1985年8月、初めての書籍『日蓮の霊言』が発刊されました。

 エリートコースを歩みながら天上界との霊的交流を続け

◇ 退社独立 すべてを捨てて空手にして立つ

 1986年6月17・18日に、大川隆法総裁のもとに、神々が次々とあらわれ、救世主として世に立つべき時が来たことを知らせます。これまで積み上げてきた地位や名声を捨て、空手にして立つことを決意され、7月15日に商社を退社。30歳にして全人類救済のためにその身を投げ出されたのです。その後、8月20日~9月8日にかけて、当会の根本経典『正心法語』と、当会の基本法となる『太陽の法』を、9月22日~10月にかけて、『黄金の法』を自動書記にて記述。さらに、初の口述にて『永遠の法』が語り下ろされます。そして、1986年10月6日、幸福の科学を設立され、同年11月23日には初めての法話・講演を行われました。

 神々が次々とあらわれ救世主として世に立つべきと・・・

◇ エル・カンターレ

 「全世界に散らばりし光の末裔たちよ、今こそ目覚めよ。地球的仏法真理が説かれる時代が来たのだ。あなたがたは国籍を超えて地球人として、地球的ユートピアを建設しなくてはならない。過去にあなたがたが仏の子であり、光の仲間であったように、今も、そして未来も、あなたがたは仏の子であり、光の仲間であるのだ。憎しみを捨て、愛をとれ。違いを嘆かずに、仏性相等しきを喜べ。希望の二十一世紀が近づいている」

 これがエル・カンターレからのメッセージです(『黄金の法』まえがきより)。幸福の科学の信仰の対象は、主エル・カンターレです。エル・カンターレとは、「うるわしき光の国、地球」や「地球の光」という意味で、その名の通り、地球の最高神です。全人類の魂の親である主エル・カンターレへの信仰、地球神信仰によって、地球はひとつになることができます。
 宗教は、その時代時代で、人類の進むべき北極星を示してきました。しかし、キリスト教やイスラム教など、現在の世界宗教だけでは、その役割を果たせなくなりつつあります。実際に世界情勢を見ると、様々な信仰や価値観が対立し、お互いを理解できずに混乱しています。人類には新しい北極星が必要とされているのです。
 主エル・カンターレは、地球のすべての神々を導く存在であり、キリスト教的にはイエス・キリストが「わが父」と呼んだ方、イスラム教的にはアッラーです。そして、主エル・カンターレは、現代の日本に大川隆法総裁として生まれられ、西洋文明と東洋文明を日本という地で融合し、全人類を導く教えを説かれています。大川隆法総裁は、あらゆる宗教対立を終わらせ、希望の未来を拓くために、いままさに不惜身命の救世活動をされているのです。

◇ エル・カンターレの地上下生の歴史

 天上界においても神秘のベールに包まれていた存在、地球の最高神主エル・カンターレ。主エル・カンターレは、その魂の分身を地上に幾度も送り、過去のさまざまな文明を創造されました。ゴータマ・シッダールタ(お釈迦さま・仏陀)、ヘルメス、オフェアリス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムーは、主エル・カンターレの魂の一部、分身です。

 主エル・カンターレは現代の日本に大川隆法として生まれた

エルカンターレ
エル・カンターレ(左)と地上下生したゴータマ・シッダールタ(右)

 *****


 「思わぬものを見てしまった!」と言うのが正直な気持ちです。本当に、「間違っていたらすいません」、「見当違いならごめんなさい」なのですが、この大川隆法氏が経験された「大悟」とは、スピリチュアルの世界で言うところの「目醒め」、「アセンション(精神世界への次元上昇)」であり、氏は日々の瞑想でガイドとの交信を行って教えを確立して来ているのかも知れません。

 大川 隆法 氏に起こったのはアセンションではないか?

 そうなると、現時点ではまだ大多数の支持を受けてはいないものの、もしかしたら新しい時代の指導者たる人物なのかも知れまないと思います。

オウムのような存在でないことも併せて祈る次第です。

http://happy-science.jp/ryuho-okawa


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緊急速報:ロン・バード氏による日本の自然災害予告

 緊急速報です。世界的に有名な超能力者であるロン・バード氏のツイッターに、この2、3ヶ月中の日本における自然災害の予告が掲載されました。取り急ぎ、ロン・バード氏のご紹介とツイートされた内容です。

 *****

◇ ロン・バード氏(Ronald H. Bard、1959年10月22日生まれ)

 米国カリフォルニア州ロサンゼルス在住、全米最強の超能力者。世界でただ一人著名な「フォーブス」誌に掲載された超能力者である。ハリウッドスターから日本の財界人まで幅広くリーディングを行い、サイキックアドバイザーとして、度々各種メディアに登場して話題になっている。彼の予言(サイキック)能力を決定づけたのが、9.11テロに言及したリモートビューイング実験だ。プリンストン大学のブライアント・オレリー教授が行った、物質の「残留意思」からさまざまな事象を読み取る実験で、彼はニューヨークにおけるテロ事件を予言。数年後、細部まで予言どおりに事件が起こり、彼の能力は完全に証明されたのだ。これまで3.11やビンラディンの死など数々の予言を的中させてきた。

ロンバード氏


◇ ロン・バード氏ツイート(日本時間2013年7月14日21:00頃)

1)日本の皆さん、改めて、こんにちは。今日は、いくつか重要なメッセージを日本語でお伝えします。(翻訳責任:藤本庸子)

2)昨晩、私は日本の将来について見えました。その見えたことをお知らせします。

3)今後、2~3ヵ月くらいに、日本で自然災害が起こります。

4)私のメッセージはとても重要です。皆さん、リツイートをして、日本に住む多くの人に知らせて下さい。特に、皆さんのご家族やご友人、愛する方々へ知らせて下さい。私のツイートを多くの人へフォローするようにお伝え下さい。

5)私のこのメッセージは冗談ではありません。もし、あなたが私のツイートを信じられず、冗談にしか聞こえないようでしたら、どうぞ、ここで読むのを止めて下さい。

6)もしあなたが愛する人、多くの人の安全を願っているのならば、私のメッセージをできるだけ多くの人に伝えて下さい。または、多くの人に私のツイートをフォローするように、伝えて下さい。

7)これからの数ヵ月、私のツイートを注意して読んで下さい。自然災害が起こる日に近くなったら、日本のどの地域が一番危険なのかをお知らせできます。

8)皆さんがご存知のように、私は日本の311を予測しましたが、この311について、2010年夏頃から、少しずつ、見えていました。この予測は、東京スポーツ新聞に掲載されましたが、あまり多くの人は気にかけなかったようです。ですから、今回の私のメッセージを重視してほしいのです。

9)あなたのご家族、ご友人、あなたの周りにいる人たちを守りたいのならば、ぜひ私のツイートを真剣に読んで下さい。そして、周りの人に、私のツイートをフォローすることを伝えて下さい。そうすることによって、多くの人の命を助けることができるのです。

10)2~3ヵ月という時間は振り返ると、あっと言う間に過ぎた感じがしても、2~3ヵ月先という時間は、ずっと先のように感じます。時間は大切です。今から、緊急事態になることを想定して、心の準備、物資の準備などをしておくことが大切です。

11)私はキリスト教とユダヤ教で育ちましたが、日本は全ての宗教の源だと信じています。皆さん、私と一緒に、皆さんの安全を祈って下さい。もし、一緒に祈れば、皆さんのご家族、ご友人、愛する周りの人を救うことができます。

ロンバード氏ツイート

 *****


http://fs-astrology.com/fs-prophecy
https://twitter.com/ronniebard

科学?/非科学? スフィンクスの3W?、歳差に関連?

 歳差運動が地球環境にどの程度影響するものなのかは解りませんが、古代人が天文学の高い知識を獲得して生活に応用し、また未来への予見に利用していたと思われる足跡が、イギリスのストーンヘンジやマヤ文明、アンコールワットなど、世界中のいくつかの遺跡に見られます。スピリチュアルとしての「水瓶座時代の到来」から歳差運動の地球環境に及ぼす影響に言及したところで、1つの学説としてエジプト、ギザの大スフィンクスの建造時期と地球の歳差運動との関連について触れてみたいと思います。
 ちなみに、タイトルの3W?はよく言う5W, 1Hに含まれる when?、who?、why? の意味です。これにHow? も時々は使えると思います。スフィンクスの場合は世界一巨大な彫刻とされますが、石灰岩を石器で削って作製するのは比較的容易とされているようです。WhatとWhereを使うことはあまりないかと存じます。

 When?=「いつ?」 
 Who? =「誰が?」 
 Why? =「なぜ?、なんの目的で?」
 How? =「どうやって?、いかにして?」


Great_Sphinx_of_Giza_-_20080716a.jpg

◇ 古代エジプト王朝

 本題はスフィンクスが造られた時期を特定する話に及びますので、まずは紀元前(BC)3000年に発生して同30年で滅亡を迎えたとされるエジプト王朝を年表形式で示します。

 チニス時代(BC3000 - BC2778)
  第01王朝 ナルメル、アハ
  第02王朝 ペリプセン、カセケムイ
 古王国時代(BC2778 - BC2263)
  第03王朝 サナクト、ジョセル(BC2778 - BC2723)
  第04王朝 スネフル、クフカフラーメンカウラ、ダドフラ
        (BC2723 - BC2563)
  第05王朝 サフラ、カカイ、ウナス(BC2563 - BC2423)
  第06王朝 テチ、ペピー一世、同二世(BC2423 - BC2263)
 第1中間期(BC2263 - BC2070)
  第07王朝 不明
  第08王朝 不明
  第09王朝 ケティ一世、同二世
  第10王朝 ネフェルカラ、ウワカラ、メリカラ
 中王国時代(BC2160 - BC1580)
  第11王朝 メウツ―ホテプ一世〜五世
  第12王朝 アメンエムハト一世〜四世、センウスレト一世〜三世
  第13 - 14王朝 ジェンジェル、セベクホテプ
 第2中間期(BC1730 - BC1580)
  第15 - 16王朝(ヒクソス時代) キアン、アポピ
  第17王朝 ラホテブ、セベクマサフ、セクエンエンラ
 新王国時代(BC1580 - BC1085)
  第18王朝 アハメス、アメンホテプ一世〜三世、
        アメンホテプ四世(アクエンアテン)
        トトメス一世〜四世ツタンカーメン、ホルエンヘプ
  第19王朝 ラムセス一世、同二世、セティ一世、同二世
  第20王朝 ラムセス三世〜十一世
 末期(BC1085 - BC332)
  第21王朝 スメンデス、ヘリホル、ピネジェム
  第22王朝 シェションタ一世、同二世、オソルコン一世、同二世
  第23王朝 シェションタ五世、オソルコン三世
  第24王朝 ラフナクト、ボコリス
  第25王朝 (ヌビア人王朝)ビアンキ、シャバカ、タハルカ
  第26王朝 (サイス王朝)プサメチク一世〜三世、ネカオ
  第27王朝 (ペルシャ人王朝)カンビセス、グレイオス一世、
        同二世
  第28王朝 アミルテ
  第29王朝 プサメチク、アコリス
  第30王朝 ネクタネボ一世、同二世
  第31王朝 (ペルシャ人王朝)アルタクセルクセス三世
 プトレマイオス王朝(BC332 - BC30)
  BC332  マケドニア王アレキサンダー大王により征服
  BC305  アレキサンダー大王死後プトレマイオス一世即位
  BC30    クレオパトラ7世自殺、古代エジプト滅亡

◇ これまでのスフィンクスに関する定説

 ギザの大スフィンクスは、カイロ郊外、ギザのギザ台地の三大ピラミッドに隣接しており、全長73.5m、全高20m、全幅6m、石灰岩一枚岩からの彫り出した世界最大の彫刻です。ただ、頭の部分は、別の場所から運ばれてきた硬質石灰岩で造られており、従って全体としては完全な一枚岩ではありません。鼻が欠けているのはナポレオンの砲弾が当たって砕けたとの説もあります。また、大スフィンクスは建造以来現在に至るまで、崩壊し続けており、修復が繰り返されております。

 スフィンクス建造は紀元前2500年頃、第4王朝カフラー王

 定説では、紀元前2500年ごろ、第04王朝カフラーの命により、第2ピラミッドと共に作られたとされており、その根拠は以下の通り、、、。

 ・前足の間から発掘された碑文の最後に「Khaf」の文字
 ・顔がカフラーに似ている(実は全く似てはいない)
 ・ギザ台地の遺構は一体として設計されている
 ・スフィンクス周囲から第04王朝時代の遺物が発掘される

 スフィンクスの建造時期、建造者、その目的はいずれも不確かであり、クフ王によって建造されたという説、また、年代測定結果によりカフラー王の時代よりもさらに数百年過去(クフ王のピラミッド建設以前)に遡る可能性が指摘されています。

◇ さらに数千年以前に造られたとする説

 エジプト学者のジョン・アンソニー・ウエスト氏は、以前よりスフィンクスの岩肌には雨による浸食が見られると考えていました。そこで、オックスフォード大学のある地質学の教授に、先入観を持たれないためスフィンクスの研究とは告げずに、ある岩の風化の原因を調べたいとしてスフィンクス胴体部分の写真を見せたそうです。教授は写真を一目見て水による浸食であると断言しましたが、これがスフィンクスであると知った後は調査への協力を辞退したそうです。以後、ウエスト氏の説はなかなか受け入れられずに来ましたが、ボストン大学のロバート・ショック博士がウエスト氏の説に耳を傾け、共同調査が始まりました。

ウエスト、ショック
ウエスト、ショック両博士とウエスト氏著書「天空の蛇」

 1992年 ウエスト氏とショック博士らは地質学や気象学の専門家と調査、分析したところ、スフィンクスの南側の壁に上からの雨による侵食の痕跡(スフィンクスの石灰岩主部の侵食パターン)を確認したと発表しました。
 砂漠が国土の大部分を占めるエジプトに最後の大規模な雨期が訪れたのは紀元前5000年であり、スフィンクスに水による侵食痕が認められると言うことはこの建造物が紀元前5000年より以前の時代に造られたことを示しています。

 雨による浸食は雨期であった紀元前5000年以前の建造を示唆

 ショック博士らは科学論文を米国地質学会やエジプト考古学会等で研究成果を発表し熱心な議論と科学者による厳しい吟味・検討を実施し 信頼性と客観性に優れているとの高い評価を受けました。

◇ 建造が歳差運動の始まりに遡るとの説

 さらに、ロバート・ヴォーバルとグラハム・ハンコック両氏は、スフィンクスが真東を向いて建造されていること、ギザの三大ピラミッドがオリオン座のベルトの部分の星の配列に酷似しており、その配置が天空のオリオン座と一致する時期は、春分点に獅子座が来る「獅子座の時代」、すなわち、スフィンクスの正面から獅子座が昇った紀元前10,500年であることをつきとめ、スフィンクス建造をこの時代との説を唱えています。

ハンコックとオリオンミステリー
グラハム・ハンコック氏とロバート・ヴォーバル氏著書「オリオンミステリー」

 歳差運動を知る有史以前の超古代文明による建造?

 つまり、スフィンクスの建造は古代エジプトの有史以前であり、その目的は地球の歳差運動の出発点を示唆する、ギザの三大ピラミッドと併せて天空を地上に映し出す天文盤であったと、そこまで仮説は進んでいました。科学と非科学のどちらの範疇に入れたものか?、古代遺跡にはスピリチュアルも絡めてまだまだ注目する余地はあると思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンヘンジ
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンコール・ワット
http://ja.wikipedia.org/wiki/マヤ文明
ピラミッド99の謎 史上最大最古の「不思議」に挑戦!(酒井 傳六 著) 1991年 PHP研究所
天空の蛇―禁じられたエジプト学(ジョン・アンソニー・ウェスト 著、大地 舜 訳) 1997年 翔泳社
http://ja.wikipedia.org/wiki/ギザの大スフィンクス
オリオン・ミステリー(ロバート・ボーヴァル、エイドリアン・ギルバート 共著、吉村作治 監修、近藤隆文 訳)1995年 NHK出版


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歳差運動が地球環境に及ぼす影響

 春分点に来る星座により「××座の時代」と言う定義があることをご紹介しましたが、その星座の性格が地球および太陽系の環境や文明の盛衰、人間社会にまで影響するとの考え方には無理があるのではないかと言うのが本音です。しかし、地球の歳差運動が自らの地球環境に影響するのではないか?、とする学問はあります。もしかしたら、歳差運動による環境の変化を予測するサインとして春分点の星座は有用であった可能性はあります。ここでは歳差や春分点と言うものをおさらいし、歳差運動が地球環境に及ぼす影響についての記述を調査いたしました。

◇ 物理現象としての歳差

 歳差運動とか回転する物体の軸が移動する現象で、最も身近に見るものとして、典型的なのは回転するコマの首振り運動であります。このような現象の物理的根拠は、ジャイロ効果、即ち、コマの自転の角運動量ベクトルに対してコマに働く重力によるトルクが軸を倒す方向に継続的に加わる結果、自転の角運動量ベクトルが大きさを変えずに向きだけ回転するため、などと説明されていますが、詳しくは清書をご参考ください。

コマの歳差運動

◇ 地球の歳差運動

 ご存知の通り、地球は太陽の周りを1年周期で公転していると同時に、地球自身もクルクルと24時間で回転(自転)していますが、その自転の回転軸もゆっくりと円を描いて動いているとされています。これが上で述べたコマと同じ歳差運動であります。地球の自転軸がコマの首振り運動のような回転をしていることは、春分点・秋分点が黄道に沿って少しずつ西向きに移動することを示し、この地球の歳差運動の周期は約25,800年とされます。

地球の歳差運動

 地球の歳差運動の原因は地球の形状が赤道部分の膨らんだ回転楕円体(扁球)であるため、太陽や月の重力による潮汐力によって赤道部分の膨らみを黄道面と一致させようとする方向にトルクを受けているためであり、これを日月歳差と言います。日月歳差によって天の北極や赤道が動きます。
 また地球の公転運動に対しては、惑星の引力がわずかではあるが影響を及ぼしており、これによって、地球の軌道つまり黄道が動き、この変化は春分点の移動と、黄道の傾斜角度の変化となって現れます。これを惑星歳差と言いますが、惑星歳差は日月歳差に比べてきわめて小さいとされます。
この歳差のために、天の北極は天球上で黄道北極を中心とする円を描きます。21世紀現在の北極星はこぐま座α星(ポラリス)ですが、紀元前2000年頃には天の北極はりゅう座α星(トゥバン)の近くに位置しており、また西暦14000年頃には天の北極はこと座のベガ近くとのことです。

◇ 歳差による春分点の移動

 地球から見た太陽が東から昇って南を通り西に沈む、その太陽が通る大円が黄道と言い、地上の赤道を天空に移した大円を天の赤道と言いますが、この黄道と天の赤道は約23度26分の傾斜をなしています。黄道と天の赤道との二つの交点を分点と言い、黄道が南から北へ交わる方を春分点、もう一つの交点を秋分点と言います。

黄道と赤道

 天の赤道は歳差や章動(惑星の自転軸に見られる微小な運動)のために変動し,一方,黄道も惑星の摂動(他の惑星の重力作用で軌道が乱されること)により変化している。したがって,その交点である春分点も空間に対して変動しています。上述の如く、歳差運動の周期は約25,800年ですので、春分点に一致する黄道十二星座も25,800年で一周することとなり、つまり25800/12=2150年毎に黄道十二星座が入れ替わる計算となります。

◇ 歳差運動や軌道要素による氷河期の変動

 歳差運動や地球軌道要素は長期にわたる氷河期では大きな原因とはなりませんが、現在の氷河期の中で交互に起こっている凍結と溶解の繰り返しのパターンを支配しているとの説があります。最近の40万年は氷期/間氷期が繰り返されており、地軸の歳差運動、地軸の傾き(傾斜角)、太陽からの距離の変化(軌道離心率)が複合して、地球が受ける日射量の変化に影響を与えていると言われます。つまり、歳差運動が地球環境に影響する可能性があると言うわけです。

45万年の気温
過去45万年の気温

◇ 歳差運動の学問が未来の予言に繋がる可能性

 歳差運動が地球環境に影響する可能性があるとなると、古代から春分点に一致する黄道十二星座によって「××座の時代」と呼称された意味が理解できる気がして参ります。特に氷期には食料不足が起こるでしょうし、間氷期は氷が溶けることによる海抜の上昇、洪水が起こります。

 古代人が歳差運動に注目した本当の理由

 こうした気候変化、天災、天変地異が歳差運動によるとするならば、天文学の知識を高めて多くの遺跡を作った古代人の意図が数千年の時を経て伝わってくる気がいたします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/歳差
http://ja.wikipedia.org/wiki/春分点
http://ja.wikipedia.org/wiki/氷河期

科学?/非科学? ニビル、密かなブームは密かに去るか?

 知るヒトぞ知る「惑星X」“ニビル”

 太陽系の第10番目の惑星として、大きな楕円形の軌道で太陽の周りを3600年の周期で回っている惑星が実はNASAでは確認されており、2012年12月21日、(聞いたことがある)マヤ暦が切り替わるとされた日、あるいは2013年2月14日、地球への大接近を迎えて、これが人類の滅亡の危機である、と言う事が密かに話題となっております。しかも、その情報をNASAは隠匿しており、存在の解明に近づいた天文学者が多数、謎の死を遂げたとのこと、、、。人類滅亡論の直近の話題として、昨年の夏頃から今年にかけて密かなブームとなっている、「惑星X」“ニビル”、を取り上げます。なお、この惑星は昨年8月23日、フジテレビ系列、アンビリバボーにて「未知の惑星ニビルの謎」として紹介されましたが、その「地球最接近」とされた期日を過ぎ、ブームは密かに去ろうとしています。

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◇ ことの発端は木星、冥王星、天王星に見られた摂動

 今から30年前、1982年、ワシントンDCにあるアメリカ海軍天文台にて、ロバート・ハリントン博士らは、太陽の周りを回る惑星のうち、木星、冥王星、天王星の軌道に微妙なムラが生じていることに気づき、これらの惑星の近くを別の天体が通過して、お互いの引力によって軌道を乱される「摂動(せつどう)」と呼ばれる現象が起こっていると考え、太陽系のすぐ外側に「もう一つの惑星が存在する」と結論づけました。博士らはその星に「惑星X」と名付け、6年後の1988年にはこの惑星に関する詳細な仮説を発表しました。

◇ 1988年ロバート博士が発表したニビルの仮説

 大きさ:地球の4-5倍
 質 量:同20-25倍
 密 度:同100倍
 公 転:約3600年(極端な楕円)
 起 源:褐色矮星=太陽のような恒星に、なりきれなかった星
 観 測:輝かないため天体望遠鏡でその姿を捉えることは困難

太陽系

◇ 相次ぐ研究者の変死

 ロバート博士は、1997年、ニビルは地球の南側から接近するとの考えに基づき、ニビルの撮影を行うために南半球のニュージーランドに向うこととなりましたが、その出発の直前、まさに明日にもニュージーランドに出張しようという時にロバート博士は「背中の癌」で突如、謎の死を遂げたとされています。
 さらに不幸は続き、1999年7月、フランスの惑星X探査チームのスタッフが、チリのラスカンパナス天文台へ、ロープウェイで向かっていた際中、突然、滑車がワイヤーから外れ、転落、乗っていた21名のスタッフ全員が死亡するという事件が起きました。
 また、数多くの彗星を発見、アポロ計画にも参加した、アメリカの天文学者、ユージン・マール・シューメーカー氏は1997年、クレーター調査のため訪れていたオーストラリアで交通事故で死亡、、、。日本でも広く観測された大彗星、「ヘールボップ彗星」の研究を行っていた天体観測家、チャック・シュラメック氏が、49歳の若さで「背中の癌」で死亡したとされています。
 これら一連の謎の死について、NASAが意図的にニビルの存在を隠匿するための仕業でないかとまことしやかに話がされております。

◇ ニビル存在の根拠にシュメール文明の粘土版

 ニビルの存在は、4000年以上前にチグリス・ユーフラテス川の流域とその周辺に誕生したメソポタミアの最古の文明、シュメール文明の遺跡から発掘された粘土版に記されているとのこと、、、。以下に示す粘土版には太陽の周りに星(惑星)が11個描かれており、その左上に刻まれた惑星をシュメール人は「ニビル」と呼称していたとのことです。

シュメール人石盤

 シュメール文明については、極めて興味深い存在にて別の機会に触れたいと存じますが、端的に言えば世界最古の文明で、サイエンス、天文学、文学、思想の面で非常に高度に優れた文明とされており、下記のような粘土版に記載された文章の解読から「天王星と海王星は青く美しく輝き水にあふれる星」との記載があるそうで、これはボイジャー2号が1986年に天王星、海王星に接近するまで解らなかった事実として驚かれています。

◇ ニビルの接近が地球に及ぼす影響

 2009年に出版された「惑星X(ニビル)が戻ってくる」の中でニビルが最も地球に接近する距離は約3億kmとされ、こうした場合に以下の天災が想定できると説明されています。

ニビルは戻ってくる

1.太陽フレア

 太陽の活動が活発化し表面にフレアと呼ばれる大爆発を起こし、大量の電磁波が地球に暴露、これにより通信衛星の機能が破壊され、全ての情報網が遮断されると言われます。

2.地球の「摂動」

 巨大惑星が地球に接近すると、引力による「摂動」が起こり、地球は本来の軌道を乱され、惑星の引き連れる隕石群に突入、世界中の都市に隕石が降り注ぐことが考えられます。

3.地球への宇宙線暴露
 
 太陽活動が衰えると、宇宙線が内部に侵入しやすくなるという。地球を守るバリアの役目を果てしている太陽が発する磁場が弱まり、地球は大量の宇宙線の暴露を受けるとされます。地球に降り注ぐ宇宙線によって、マグマに気泡が発生、炭酸が吹き出すように、火山の噴火を引き起こし、イエローストーンや富士山をはじめ、世界中の活火山が次々に噴火することが想定されます。火山灰は大気を覆い、太陽光を遮断すれば、その先には氷河期が訪れる可能性も考えられます。

4.ポールシフト(Pole shift)

 ニビルの接近とそれに伴う摂動をはじめ複数の影響は、地球の自転に伴う極(自転軸や磁極など)を移動させる可能性があり、ポールシフト・地軸が90度ほど傾いた後には、下図のような世界になるそうです。北極は南アメリカのブラジル、南極はインドの南側、なんと、南極大陸が赤道上に来るのです。もちろんこうした地殻変動に伴う大地震の連続で地球上の都市は壊滅的な被害を受けることになります。

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◇ 映画 “2012” に酷似した展開

 以上に示した展開は映画 “2012”(2009年、米国)に酷似した展開かと存じます。マヤ暦に端を発した人類滅亡説を裏付ける大きな理論の一つ、それがニビルであることは疑いのないところであります。あくまでも理論の一つではありますが、、、。

2012.jpg

◇ で?、ニビルは実在するのか?

 木星、冥王星、天王星の軌道に観測された微妙なムラから、引力によって軌道を乱される「摂動(せつどう)」が疑われ、そこから新たな惑星の存在、シュメール人の粘土版の後押しもあり、研究者の謎の死はよくあるサスペンスもののストーリーにスパイスを与えて来ました。
 しかしながら、一番、重要かつ基本的なことは、ニビルは本当に存在するのかどうか?、と言うことです。これまでのところ、以上のような人類滅亡に繋がる地球へ接近する惑星は発見されていません。そもそも、地球への最接近とされた2012年12月21日も本年の2月14日も過ぎてしまいました。

 実際には発見されてはいず、最接近の期日も過ぎてしまった

 恐らくはニビルについて修正された説が出て来ると思いますが、現時点においてはニビルは密かなブームとなったものの、密かに去り行く理論のように思われます。こういうところにも科学と非科学の狭間が見え隠れするところであります。

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/120823_1.html
http://www.jp-spiritual.com/nibiru1.htm
惑星X ニビルが戻ってくる 2009年徳間書店
http://www.jp-spiritual.com/poleshift1.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/惑星X

選民思想はスピリチュアルとは別次元

 ドロレス・キャノン氏と松尾みどり氏のアセンションについての解釈をご紹介したところで、いずれのお話にも「選民思想」が感じられると申しました。その他のアセンションについての解釈をご紹介する前に、ここではスピリチュアルの話から少し外れて、この「選民思想」について触れてみます。

 選民とは特定の集団が選ばれるとする発想

 選民とは、特定の集団(民族、宗教の信者)が、神や血統などの独自性に着目して選ばれた特別な存在となる(と信じられる)ことであり、これは宗教のみならず国家としての考え方にも及ぶ発想であります。
 例を挙げれば、キリスト教やイスラム教のいくつかの宗派では、彼らの説く道こそが救済への唯一の道であると教えています。以前ご紹介した崇教真光(すうきょうまひかり)は自然科学を否定して、自分たちの教理こそが正しいとする、やはり自分たちの側の信仰を持つ者は救われるとの発想です。政治的な分野においても奴隷制廃止論者(アボリショニスト)は、自分たちは奴隷に自由と権利の平等をもたらすために神に選ばれたと考えていたそうですが、一方で、奴隷所有者の多くも自分たちこそ神から奴隷を所有し売買する権利を与えられていると信じていたようです。

 ナチス以前よりあったアーリア人に対する選民思想

 選民思想が最も大きく世界の歴史の悲劇として名を残すのがナチスドイツで、彼らはアーリア民族こそが優等であると考え、より「劣等」である全ての人種を絶滅することが自らの任務だと信じていました。しかし、この紀元は、別にヒトラーに始まったものではなく、1859年、マックス・ミュラー(ドイツ)が、インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言語を話した住民は共通した民族意識を持ったとし、インド・ヨーロッパ語族を使用する人々をアーリアン(アーリア人)と呼ぶべきだと主張したことにあります。

 ナチスの選民思想が最悪の結末へ

 この理論はイギリスとドイツで特に盛んに主張されましたが、イギリスの場合はインドの植民地支配を正当化するために利用されたようです。ドイツでは、作曲家であるワーグナーなどが、アーリアン学説を肯定した上でドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると主張し、自民族の権威付けに用いました。この発想は後にナチスに受け継がれ、ユダヤ人弾圧(600万人の大虐殺、ホロコースト)という最悪の結末に繋がってしまいました。

 ユダヤ教における選民は民族を対象としたもの

 ユダヤ人への弾圧と言えばナチスドイツの固有名詞のように扱われますが、ユダヤ人に対する言われのない恐怖心や、「ユダヤ人による世界征服計画」という強迫的観念は、その優れた民族性のみならず、もとより、ユダヤ教にある民族固有の選民思想に基づくところが大きいと思われます。
 イエス以前の全ユダヤ人は神の子であり、メシア(救世主)により救われるのは、以前から神との契約をした全ユダヤ人のみであり(旧約)、その他の異邦人はすべて滅ぼされるとの、強い選民思想でありました。これに対して、ユダヤ人として生まれたイエス・キリストは神の子とされ、神との新しい契約を結び(新約)、特定の民族が救われるという考えはとらず、宇宙の唯一絶対神に帰依し、その教えに従って正しく生きるなら、だれでも神の大いなる救済を受けられると唱えました。
 起源は同じでも、キリスト教徒がユダヤ人を弾圧した原因に、ユダヤ人側の強い選民思想があったのは言うまでもなく、それに基づいてイエス・キリストを迫害し、最後には十字架にかけるまでに至ったのです。

 選民思想はイデオロギー運動の原動力?

 歴史を顧みますと、選民思想とは、しばしば特定のイデオロギー運動と関連していて、人々を目的の達成へとより激しく駆り立てる根拠、同胞意識、自分が重要な存在であると認識する感覚のようであります。
 話しを戻して、アセンションが宇宙の意思、あるいはもしかしたら自然科学の法則として起こるものであるならば、アセンション発生の有無で個人が住み分けられるような選民思想が入り込む余地があるとは考えづらい気持ちはあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/選民
http://ja.wikipedia.org/wiki/アーリアン学説
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホロコースト