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アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

ジャニー喜多川 氏(87歳)死去、この人物が創り出した数々の「you」たち


 9日、ジャニー喜多川 氏 がくも膜下出血で他界されました。享年87歳でありました。ジャニーズ事務所を創設し多数の男性アイドルを世に排出して、時代を彩った人物でありました。ここに氏が「you」と呼んで世に出したアイドルの面々をご紹介いたします。できるだけ多くの名前を載せましたが漏れがあることをご容赦ください。

ジャニー喜多川 死去のニュース


◇ 1962年 初代ジャニーズ

 真家ひろみ、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦(4名)

1962年 初代ジャニーズ


◇ 1967年 フォーリーブス

 北公次、江木俊夫、おりも政夫、青山孝(4名)

1967年 フォーリーブス

 
◇ 1970年 ジューク・ボックス

 円谷弘之、小谷典由、吉本暁弘、近藤昌、行田和彦(5名)

1970年 ジューク・ボックス


◇ 1971年 郷ひろみ

1971年 郷 ひろみ


◇ 1974年 JOHNNY'Sジュニア・スペシャル

 板野俊雄、林正明、畠山昌久(3名)

1974年 JOHNNYS ジュニア・スペシャル


◇ 1974年 井上純一

1974年 井上 純一


◇ 1974年 豊川誕

1974年 豊川誕


◇ 1975年 リトル・ギャング

 松原秀樹、曽我泰久(2名)

1975年 リトルギャング


◇ 1976年 川﨑麻世

1976年 川﨑 麻世


◇ 1978年 ジャPAニーズ

 細野謙治、吉野明男、乃生佳之、板野俊雄(4名)

1978年 ジャPAニーズ


◇ 1979年 たのきんトリオ

 田原俊彦、近藤真彦、野村義男(3名)

1979年 たのきんトリオ


◇ 1980年 ひかる一平

1980年 ひかる 一平


◇ 1982年 シブがき隊

 薬丸裕英、布川敏和、本木雅弘(3名)

1981年 シブがき隊


◇ 1982年 イーグルス

 中村繁之、大沢樹生、宇治正高、石川博文(4名)

1982年 イーグルス


◇ 1983年 THE GOOD-BYE

 野村義男、曽我泰久、加賀八郎、衛藤浩一(4名)

1983年 THE GOOD-BYE


◇ 1985年 少年隊

 錦織一清、植草克秀、東山紀之(3名)

1985年 少年隊


◇ 1985年 男闘呼組

 小竹正人、小関純匡、江口信夫、平山牧伸、田中厚(5名)

1985年 男闘呼組


◇ 1987年 光GENJI

 内海光司、大沢樹生、諸星和己、佐藤寛之、山本淳一、赤坂晃、佐藤敦啓(7名)

1987年 光GENJI


◇ 1988年 CHA-CHA

 勝俣州和、中村亘利、松原桃太郎、西尾拓美、木野正人(5名)

1988年 CHA-CHA


◇ 1988年 SMAP

 中居正広、木村拓哉、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾、森且行(6名)

1988年 SMAP


◇ 1990年 忍者

 柳沢超、正木慎也、遠藤直人、高木延秀、志賀泰伸、古川栄司(6名)

1990年 忍者


◇ 1990年 TOKIO

 城島茂、国分太一、松岡昌宏、長瀬智也、小島啓、山口達也(6名)

1990年 TOKIO


◇ 1993年 KinKi Kids

 堂本光一、堂本剛(2名)

1993年 KinKi Kids


◇ 1995年 V6

 坂本昌行、長野博、井ノ原快彦、森田剛、三宅健、岡田准一(6名)

1995年 V6


◇ 1999年 嵐

相葉雅紀、松本潤、二宮和也、大野智、櫻井翔(5名)

1999年 嵐


◇ 2001年 KAT-TUN

 亀梨和也、上田竜也、中丸雄一、赤西仁、田中聖、田口淳之介(6名)

2001年 KAT-TUN


◇ 2002年 タッキー&翼

 滝沢秀明、今井翼(2名)

2002年 タッキー翼


◇ 2002年 関ジャニ∞

 横山裕、村上信五、丸山隆平、安田章大、錦戸亮、大倉忠義、渋谷すばる、内博貴(8名)

2002年 関ジャニ∞


◇ 2003年 NEWS

 小山慶一郎、加藤シゲアキ、増田貴久、手越祐也、森内貴寛、内博貴、草野博紀、錦戸亮、山下智久(9名)

2003年 NEWS


◇ 2005年 Kis-My-Ft2

 北山宏光、千賀健永、宮田俊哉、横尾渉、藤ヶ谷太輔、玉森裕太、二階堂高嗣(7名)

2005年 Kis-My-Ft2


◇ 2007年 Hey! Say! JUMP

 山田涼介、知念侑李、中島裕翔、岡本圭人、有岡大貴、髙木雄也、伊野尾慧、八乙女光、薮宏太(9名)

Hey!Say!JUMP.jpg


◇ 2008年 A.B.C-Z

 橋本良亮、戸塚祥太、河合郁人、五関晃一、塚田僚一(5名)

2008年 ABCZ


◇ 2009年 中山優馬 w/B.I.Shadow

 中山優馬、中島健人、菊池風磨、松村北斗、髙地優吾(5名)

2009年 中山優馬 w:B I Shadow

◇ 2010年 NYC

 中山優馬、山田涼介、知念侑李(3名)

2010年 nyc


◇ 2011年 Sexy Zone

 中島健人、菊池風磨、佐藤勝利、松島聡、マリウス葉(5名)

2011年 Sexy Zone


◇ 2011年 ふぉ〜ゆ〜

 福田悠太、松崎祐介、辰巳雄大、越岡裕貴(4名)

2011年 ふぉ〜ゆ〜


◇ 2014年 ジャニーズWEST

 重岡大毅、桐山照史、中間淳太、神山智洋、藤井流星、濵田崇裕、小瀧望(7名)

2014年 ジャニーズWEST


◇ 2015年 King & Prince

 平野紫耀、永瀬廉、髙橋海人、岸優太、神宮寺勇太、岩橋玄樹(6名)

2015年 King Prince


 上にご紹介しただけで、57年の間に38組(1.5年に1組)、延べ165人(1年に2.9人)のアイドルを創造されたことがわかります。紛れもなく、昭和〜平成、そしてこれからの令和の時代に大きく影響した人物でありました。ご冥福をお祈りいたします。

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韓国 歴代大統領たちの末路


 先日12月5日、安倍 晋三 首相の在職日数が中曽根 康弘 元首相を抜いて戦後歴代4位(歴史上では6位)となりました。それに先立ち自民党総裁任期の「連続3期9年」への延長も了承されているため、首相が2年後の総裁選で三選し、平成33年9月までの任期を全うすれば在任3567日となって、歴代最長の桂 太郎氏(2886日)をはるかに超えることになります。もしそうなれば、自身が先送りした31年10月の消費税10%への引き上げ、32年夏の東京五輪、パラリンピックも在任中に迎える見通しです。

安倍晋三 写真

【歴代の首相在職日数ベスト10(2016年12月5日現在)】
 01.桂  太郎 2886日:1901〜06年、1908〜11年、1912〜13年
 02.佐藤 英作 2798日:1964〜72年
 03.伊藤 博文 2720日:1885〜88年、1892〜96年、1898年、1900年〜01年
 04.吉田  茂 2616日:1946年〜47年、1948〜54年
 05.小泉純一郎 1980日:2001〜06年
 06.安倍 晋三 1807日:2006〜07年、2012年〜
 07.中曽根康弘 1806日:1982〜87年 
 08.池田 勇人 1575日:1960〜64年
 09.西園寺公望 1400日:1906〜08年、1911〜12年
 10.岸  信介 1241日:1957〜60年

 長期安定政権の弊害あるいは危険性はあろうかと存じますが、一国の政治のリーダーに問題があって、政権がコロコロ変わる、政治的な空白が生まれることがあれば、それは国家にとってマイナスであることは言うまでもありません。今、お隣の大韓民国(以下、韓国)がまさにそう言う状況にあると言えます。ついに昨日、12月9日、韓国、朴 槿恵(パク・クネ)大統領に対する弾劾訴追案が国会本会議で可決されました。

パククネと崔順実 写真
朴 槿恵(パク・クネ)大統領(左)と 崔 順実(チェ・スンシル)氏(右)

 一連の、朴 大統領のスキャンダルは、彼女が大統領府の内部資料を長年の友人である 崔 順実(チェ・スンシル)氏に渡して、政権運営のアドバイスをもらっていたとの疑惑に始まり、国政への介入、大統領府が多数の大手企業に間接的に圧力をかけて資金を集め、チェ 氏のために財団を設立、その資金をチェ 氏が個人的に流用したなどの疑惑へと進展しております。さらには、2014年4月16日に発生した韓国旅客船セウォル号の沈没事件に際して、大統領が7時間に渡り事件を把握していなかった「空白の7時間」の疑惑が再浮上して物議を呼んでおります。
 韓国では「パク大統領退陣」を訴える、100万人を超えるとも言われるデモが発生しており、この政権がそう長くはないことは明白となって参りました。現大統領に起こった事の詳細は他に譲るとして、韓国の大統領と言えば、その任期の最後には、何がしかのトラブルや大統領自身の不正疑惑が起こっている印象があり、ここでは韓国 歴代大統領11名を簡単にご紹介し、その末路に注目いたします。


◇ 初〜第3代 李 承晩(イ・スンマン)大統領:1948〜60年

  黄海道平山出身で、日本の植民統治時代、米国を拠点に独立運動を展開、韓国民主党→自由党→無所属と渡り歩きました。「建国の父」と呼ばれる韓国発の大統領で、「反日政策」を最初に掲げた韓国のリーダーでもありました。己のポストを守るための憲法改正と不正選挙を繰り返した独裁体制を確立しましたが、最後には革命が起こり失脚、亡命しました。

李 承晩 大統領

○「建国の父」

 朝鮮の独立運動家で、1948年8月13日、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国が建国され、その初代大統領で「建国の父」と呼ばれております。

○ 反日と「李 承晩(りしょうばん)ライン」

 李 承晩 氏は、朝鮮の独立運動に日韓併合前後から関わっていた経歴から、日本を激しく嫌っていたとされます。初代大統領として基盤が弱かったこともあり、国民の矛先を日本に向けるべく反日政策を行いました。その代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李 承晩(りしょうばん)ライン」がありました。これは、日本の軍隊が解体された隙を突いて、国連海洋法条約や排他的経済水域が成立する以前に、竹島を含む豊富な水産資源の漁場の確保を目的として一方的にとられた措置でありました。

李承晩ライン 図

 李ラインの設定で韓国の実効支配下に置かれることとなった竹島の処遇は、現在に至るまで日韓の懸案問題になっており、また、今日でも日本と韓国間に横たわる問題の多くが 李 承晩 氏の民族主義的政策に端を発しているとされます。ただ、声を大に「反日」を唱えていた割には彼の時代には従軍慰安婦の問題は話題にも挙がりませんでした。

○ 憲法改正強行と不正選挙の後に革命

 李 氏は、大統領ポストを永続的に確保しようと、再三にわたり憲法改正を強行し、1960年3月の大統領選挙では極端な不正選挙を実施して四選を勝ち取りましたが、同年4月、その独裁的政治手法と大統領選挙の不正に憤慨した学生、市民を中心に糾弾運動が起こり、国会でも大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択されました。これを受けて、ラジオを通じて「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言して下野、12年間続いた独裁体制が崩壊しました(4月革命)。

○ 亡命と異国での死

 その後、アメリカ、ハワイに亡命し、5年後の 1965年、韓国の地に戻ることなく死亡しました。


◇ 第4代 尹 潽善(ユン・ボソン)大統領:1960〜61年

 忠清南道出身で李承晩政権の商工大臣などを歴任、韓国民主党結成に参加して、「4月革命」による李 大統領の失脚直後に大統領に就任しましたが、次期政権となった 朴 正煕(パク・チョンヒ)大統領の起こした軍事クーデターで失脚しました。下野した後は民主化運動を行いましたが実刑判決を受けるに至りました。

○ 軍事クーデター後に辞任

 李 承晩 大統領が失脚、亡命することとなった「4月革命」を経て、1960年8月に大統領に就任しましたが、翌1961年5月16日に「5・16軍事クーデター」が発生、軍の要請で大統領の座に留まるが、翌年3月に軍政が制定した政治活動浄化法に抗議して辞任しました。

○「民主救国宣言」で実刑判決

 下野した後は、民主化を訴えて第5〜9代 朴 正煕(パク・チョンヒ)大統領と政権を競いますが、1976年および1978年に「民主救国宣言」を発表したところ、政府から「憲法秩序を破壊しようとする非合法活動である」と厳しく非難され、実刑判決を受けました。


◇ 第5〜9代 朴 正煕(パク・チョンヒ)大統領:1963〜79年

 韓国の歴代では5期と、最も任期が長かった大統領です。慶尚北道出身、日本の陸軍士官学校や満州国陸軍中尉を経て、戦後は韓国陸軍で要職を務めておりました。軍事クーデターを起こして大統領に就任、民主化運動を弾圧した一方、日韓国交正常化を果たし、韓国の産業を復興させました。陸 英修 夫人が74年、自身は79年に射殺されました。私腹を肥やさなかったことは評価されています。

朴 正煕 写真

○「5・16軍事クーデター」から独裁体制

 尹 潽善 政権において、議会の混乱で戦後復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化している状態に対して、1961年5月16日、軍の将官、将校、士官らの改革派を率いてクーデターを決行し軍事政権(国家再建最高会議)を成立させました(5・16軍事クーデター)。形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成、1963年より第5代から第9代大韓民国大統領を務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めました。

○ 日韓国交正常化

 日本の 佐藤 栄作 内閣総理大臣と日韓基本条約を締結して日韓両国の国交を正常化しました。

○ ベトナム戦争への出兵

 1964年.アメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領の要請を受けてベトナム戦争に大韓民国国軍を出兵しました。

○「漢江の奇跡」

 日本から国交正常化の見返りとして、米国からはベトナム戦争への出兵の報酬として、日米から莫大な経済支援を受け、経済・産業の活性化に努め、1970年代にかけて「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成しました。

○ 民主化運動の徹底した弾圧と「金 大中 拉致事件」

 統制的な軍事政権下にて民主化の運動は徹底して弾圧され、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。1973年、大韓民国中央情報部(KCIA)が日本に滞在してた大韓民国の民主化運動家で、後の第15代 大統領である 金 大中(キム・デジュン)を拉致監禁しました(「金 大中 拉致事件」)。

○「文世光事件」で夫人射殺

 1974年、文 世光 容疑者による朴 大統領暗殺未遂事件が発生、陸 英修 夫人が射殺されました。

○ 暗殺

 1979年10月26日、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である 金 載圭 情報長官により暗殺されました(享年61歳)。


◇ 第10代 崔 圭夏(チェ・ギュハ)大統領:1979-80年

 江原道原州邑出身、無所属、韓国で最も在任期間の短い大統領で、朴 大統領暗殺で全国に広がった若者の民主化運動、労働者の労働運動、「ソウルの春」を鎮圧するために、新軍部による政権掌握のため戒厳司令部が1980年5月17日を期して断行され(5・17クーデター)、第11, 12代大統領の 全 斗煥(チョン・ドゥファン)氏、第13代大統領、盧 泰愚(ノ・テウ)氏らによる軍部政権の掌握で辞任しました。


◇ 第11, 12代 全 斗煥(チョン・ドゥファン)大統領:1980-88年

 慶尚南道出身、民主正義党所属の軍人で、「5・17クーデター」で実験を握り、朴 大統領と同様に民主化を弾圧しました。1984年には韓国大統領として初の来日、88年、不出馬で退任後、逮捕され死刑判決から減刑、無期懲役から特赦を受けました。

全斗煥大統領写真

○「ソウルの春」の鎮圧、金 大中 氏の逮捕、「光州事件」

 朴 大統領暗殺後、全国に、若者の民主化運動、労働者の労働運動が広がりました。この期間は「ソウルの春」と呼ばれますが、全 氏らは、これを1980年5月17日、戒厳司令部を断行して新軍部により鎮圧しました(5・17クーデター)。さらには、金 大中 氏ら有力政治家を逮捕、追放しました。これに反発していた光州での民主化要求デモを鎮圧するため陸軍の特殊部隊を送り、市民を多数虐殺し(光州事件)、その後、正式に大統領に就任しました。

○「ラングーン事件」

 1983年、ミャンマーのアウン・サン廟へ赴いた際、北朝鮮の工作員による全 大統領を狙ったラングーン爆弾テロ事件が発生しました。大統領自身は難を逃れたものの、外相ら21人の閣僚その他が死亡しました。

○ 日本からの経済援助

 1984年、戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど、日本と向き合う姿勢を強調しましたが、同時期に第一次教科書問題が発生、中国共産党に連携する形でこれを批判し日本からの経済援助を引き出しました。

○ 退任後 死刑判決

 1988年の退任後は、自ら財団を設置し院政を狙いましたが、利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至り、1988年11月23日には私財の国庫への献納と隠遁を表明しました。しかし、その後もクーデター、民主化弾圧や、光州事件での虐殺、不正蓄財への追及が止まず、死刑判決を受け、のちに無期懲役に減刑、さらには特赦を受けました。


◇ 第13代 盧 泰愚(ノ・テウ)大統領:1988-93年

 日本統治時代の大邱出身で、朝鮮戦争勃発に伴い入隊、陸軍士官学校で同期であった 全 斗煥 元大統領と、「5・17クーデター」、「光州事件」を首謀し、全 大統領の退任を受けて、16年ぶりに行われた民主的選挙で民主正義党から大統領に就任しました。退任後、政治資金隠匿が発覚、さらにクーデター、光州事件でも追及され軍刑法違反として懲役刑を受けますが、特赦されました。

盧泰愚 写真

○ 民主化宣言で大統領就任

 1987年、高まりつつある民主化要求に対し、次期大統領候補として「オリンピック終了後、然るべき手段で信を問う用意がある」と声明、「6・29民主化宣言」を発表し、金 泳三、金 大中 氏ら文民出身候補を抑えて大統領に選出されました。

○ 北方外交

 外交面で「北方外交」を提唱して共産圏との関係改善を目論み、1990年にソビエト連邦、1992年には中華人民共和国と国交を樹立しました。

○ 朝鮮統一問題

 1991年9月17日には朝鮮民主主義人民共和国との国際連合南北同時加盟を実現し、同1991年12月13日に南北基本合意書を締結しました。

○ 大統領退任後に懲役刑

 1993年の大統領退任後、1995年、政治資金の隠匿が発覚、さらに粛軍クーデター、光州事件でも追及され軍刑法違反として懲役刑を受け、1997年、特赦されました。


◇ 第14代 金 泳三(キム・ヨンサム)大統領:1993-98年

 慶尚南道出身、朴 正熙、全 斗煥 軍事政権を厳しく批判し、民主化を訴えて、反政府運動の指導者として弾圧を受けました。民主自由党、新韓国党、ハンナラ党と渡り歩き、1993年の大統領就任後、軍の改革と不正摘発を進め、盧、全 両大統領経験者を逮捕に導きました。外交面では、日韓が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題で強硬姿勢を取り、日本との関係が悪化しました。政権末期の1997年、「小統領」と呼ばれるほど権威を振り回した次男が業者から不正資金を受け取り逮捕、有罪判決を受けました。


◇ 第15代 金 大中(キム・デジュン)大統領:1998-2003年

 1950年代から故郷の南西部、全羅南道を地盤として政治活動を開始、軍事政権と対決し、激しい弾圧を受けながらも、民主化を訴えました。大統領就任後は北朝鮮に対する融和的な「太陽政策」を推進し、これが評価されノーベル平和賞を受賞しました。

○ 民主化運動で暗殺工作と拉致(金大中事件)

 運送業より政治家を志した当時より、李 承晩 大統領の独裁政治に反対する姿勢をとり、1971年、新民党からの大統領選挙では、現職の朴 正煕 氏に97万票差にまで迫り(朴 634万票、金 537万票)、以後、朴 大統領の政敵としてつけ狙われるようになりました。大統領選の直後には、交通事故を装った暗殺工作で股関節の障害を負い、。1973年8月8日、東京、ホテルグランドパレスで韓国中央情報部 (KCIA) の工作員に拉致され、神戸で殺害される寸前まで行きましたが、ソウルに返されて自宅で軟禁状態となりました。

○「民主救国宣言」で逮捕

 1976年、第4代大統領である尹 潽善 氏とともに「民主救国宣言」を発表するも逮捕され懲役刑を受けました。

○ 公民権回復後に再逮捕から死刑判決

 1979年、朴 正煕 大統領暗殺後の1980年、公民権を回復、政治活動を再開しましたが再逮捕となり、これが引き金となり光州で起きた民主化要求のデモが発生、軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となりました(光州事件)。金 氏は軍法会議にて一連の騒動の首謀者と認定され死刑判決を受け、1982年に無期懲役に減刑、同年12月、米国への出国(追放)を条件に刑の執行が停止されました。

○ 政治活動の再開と大統領就任

 1985年、米国より帰国、全 斗煥 大統領により政治活動が解禁され、1987年には再び公民権を回復しました。以後、2度の大統領選挙で敗北した後、1997年、民主党から出馬して大統領に選出されました。

○ アジア通貨危機を克服、日本文化の開放政策

 大統領就任直後、まずは、韓国を襲ったアジア通貨危機を克服し、日本に対して「未来志向的な関係発展」をうたう日韓共同宣言に 小渕 恵三 首相とともに署名、日本文化の開放政策も進めました。

○「太陽政策」でノーベル平和賞

 金 氏は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対しては「太陽政策」と称される緊張緩和政策を志向し、2000年6月、北朝鮮の首都 平壌で 金 正日 国防委員長との南北首脳会談が実現、「6.15南北共同宣言」を締結しました。南北首脳会談などが評価されて、ノーベル平和賞を受賞しました。これは2016年時点で韓国人唯一のノーベル賞受賞であります。

金 大中と金正日 写真

○ 対北送金疑惑

 「太陽政策」にはノーベル賞授与のための工作があったとの説があり、南北会談の実現のために 金 大中 大統領から現代グループを通じて4〜5億ドルが 金 正日国防委員長に渡していたとされます。これについては2004年、金 大中 氏自らが関与を認める発言をしており、2009年、氏の没後、金 大中 政権が発足当時からノーベル平和賞受賞のために組織的な「工作」を行っていたことや、北朝鮮に5億ドルを不法送金した内幕が暴露されております。


◇ 第16代 盧 武鉉(ノ・ムヒョン)大統領:2003〜08年

 南部の慶尚南道金海市出身の弁護士、歴代の韓国大統領で最初の日本統治時代を経験していない世代の大統領です。北朝鮮に対する融和政策を進めましたが、韓国経済の低下で支持を失い、レームダック状態に陥り、また日本とは竹島問題で険悪な関係となりました。大統領選挙の不正資金疑惑があり、弾劾訴追にまで発展、一旦はこれが可決され、のちに棄却されております。大統領退任後、不正献金疑惑が持ち上がり、2009年、飛び降り自殺で他界しました(享年62歳)。

盧 武鉉 大統領 写真


◇ 第17代 李 明博(イ・ミョンバク)大統領:2008~13年
 大阪府出身、現代建設の社長、ソウル市長から大統領に就任した人物です。任期中、法人減税やウォン安政策を推進したほか、米国や欧州連合(EU)との自由貿易協定(FTA)の締結など大企業優遇政策で輸出は伸びましたが、国民に恩恵は行き渡らず不満を残しました。強硬姿勢で臨んだ北朝鮮との関係は冷却し、竹島上陸で日韓関係も悪化しております。内政がうまくいかないと反日を煽って国民の目を日本に向けさせる傾向が強い大統領でありました。実兄が収賄の容疑で逮捕されており、李 氏も大統領退任後、土地の不正購入の疑惑を持たれております。


◇ 第18代 朴 槿恵(パク・クネ)大統領:2013年〜

 大邱出身で、父は 朴 正熙元 大統領、韓国史上初の女性大統領です。李 大統領から引き継ぐ形で、従軍慰安婦問題などでの反日姿勢、原則に基づいた対北朝鮮政策、アメリカや中国訪問の成果、国内における政治的な論争から一定の距離を置いたこと、などから国民の支持率が一時、63%にまで及びましたが、冒頭に申し上げた通り、12月9日、国会で弾劾訴追案が可決され、職務は停止となっております。


◇ まとめ:韓国歴代大統領の容疑/犯罪そして末路

 以下、韓国歴代大統領の容疑/犯罪そして末路をまとめました。特にコメントはありません。

韓国大統領の末路

歴史上最多の子孫を残したチンギス・カン(改訂版)


 人類に最も多くの子孫を残した人物がいたとされます。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、なかなか思い出せず、いろいろと調べて、やっと見つけました、モンゴルの建国の英雄として知られるチンギス・カン(1162年頃? - 1227年8月18日頃、在位:1206年 - 1227年、幼名はテムジン)です。

 世界人口の半数以上を統治する人類史上最大規模の世界帝国

 最終的には、当時の世界人口の半数以上を統治するに至る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げ、世界中でもっとも子孫を多く残した人物とされる、チンギス・カンを取り上げます。

チンギスカン


◇ チンギス・カンのモンゴル統一

1.出生から成人まで

 チンギス・カンは、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がった遊牧民、モンゴル族に生まれました。チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書「元朝秘史」には、チンギス・カンの遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立った夫婦であること、その11代後の子孫は早くに亡くなりますが、その未亡人が天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けたこと、そして、その末っ子が繁栄して、その家系にチンギス・カンが生まれたことが記されています。

 祖先の逸話が歴史書に伝えられる家系

 「元朝秘史」と、それとは別にモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録である「集史」によると、チンギス・カンが誕生した時、父親であるイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たとされます。このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられております。

 捕縛して連行した敵の名前を長男に命名

 モンゴル族の長である父イェスゲイは、かなりの有力者で勢力を拡大して行きましたが、テムジン(チンギス・カン)が10歳くらいの時、敵対するタタル族に毒殺されてしまい、その勢力は一挙に瓦解してしまいます。父の死後、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中、母親であるホエルンは女手一つでテムジンら子供たちを育てましたが、テムジンが成長したところで、イェスゲイの子が成長して脅威となることから、タイチウト族に囚われとなる絶体絶命の出来事もありましたが、タイチウトに隷属民として仕えていたソルカン・シラに助けられたとされます。


2.モンゴル族再興から部族統一まで

 成人したテムジンは、コンギラト族の長デイ・セチェンの娘で幼少期の許嫁でもあったボルテ・ウジンと結婚し、モンゴル族の民もテムジンの元に戻り再興を果たしました。しかし、モンゴル族再興の後、宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、妻であるボルテを奪われましたが、父の同盟者であったケレイト族長トグリルや、テムジンの幼馴染であるジャダラン族の長のジャムカらの協力で、メルキト族と戦闘し勝利、ボルテの奪還に成功しました。ただ、残念なことに、ボルテはその時、父親が分からない子供を身ごもっていたと伝えられます。

 妻ボルテを奪還したものの

 メルキト族に勝利したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となりました。彼の振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになりました。こうして勢力を拡大する彼と、メルキト族との戦闘で協力を受けたジャムカとの関係は冷え込んでいきました。
 ある時、部族間の家畜を巡る争いから、テムジンはジャムカと戦闘に及び敗れますが、勝利後のジャムカの残虐な振る舞いからジャダラン族の中からモンゴル族へ投降する人間が出てきました。かえって勢力を拡大したモンゴル族、テムジンは、ジャムカ率いるジャダラン族と、かつて妻ボルテを奪ったタイチウト族、そして父を毒殺したタタル族を破り、ここにモンゴル高原の中央部の覇権を確立しました。1195年頃、チンギス・カン(テムジン)が32、3歳ぐらいのこととされます。

 モンゴル高原の中央部の覇権を確立

 しかし、その頃、父親の同盟者であったケレイト族長トグリルの息子イルカ・サングンと対立し、ケレイト族に亡命したジャムカの讒言でモンゴル族は奇襲を受けてテムジンは北に逃れることとなりました。勢力を回復させたテムジンは再びケレイト族と争い、これを滅ぼし。その後はメルキト族とナイマン族も滅ぼして、オングト族を服従させてテムジンは高原の部族の統一を果たしました。この間、宿敵ジャムカを捉えて処刑しています。


3.モンゴル帝国大汗(だいハーン)

 1206年にテムジンは各部族の長を集めるクリルタイを開き、全部族の統治者である大汗(だいハーン、アジアにおける君主の呼称の一種)に即位しました。この時からチンギス・カンと名乗り、モンゴル帝国が創設されることとなりました。

チンギスカンの即位
1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによりチンギス・カンとして即位


◇ チンギス・カンの征服事業

1.西夏(中国北西部)・ウイグル王国を服属

 西夏(せいか)とは、1038年、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部に建国した王朝であります。上記クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていました。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立しましたが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させており、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせました。また、同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功しました。


2.金朝(中国)の征服

 帝国の建設を進めたチンギス・カンは、金朝(中国)に対する遠征の準備を進め、1211年に金と開戦しました。三軍に分かたれたモンゴル軍は、万里の長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らしたとされます。この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めましたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗しました。しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていきました。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となりました。なお、当時5000万人ほどいた中国の人口が、わずか30年後に行われた調査では約900万人になったされ、大量虐殺が行われたと考えられます。

 中国人の人口が1/5以下となるほどの大量虐殺

 こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服、併合しました。1215年には現在の北京をも包囲、陥落しております。


3.西遼・クチュルク(モンゴル高原東部)の征服

 このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していました。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧しており、、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂、そこにつけ込んで攻撃し撃破しました。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑され、西遼の旧領はモンゴルに併合されました。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は、西はバルハシ湖まで拡大し、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなりました。


4.ホラズム・シャー朝(中央アジア〜イラン高原)の征服

 1218年、チンギス・カンはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣しましたが、東部国境線にて殺されると言う事件がありました。その報復と言う名目で、チンギス・カン自らが20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にスィル川(シルダリア川)流域に到達しました。モンゴル軍は三手に分かれて中央アジアを進行し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服、ホラズム・シャー朝は1220年までにほぼ崩壊しました。

ホラズム・シャー朝
ホラズム・シャー朝の領土


5.西夏(中国北西部)への最後の遠征

 1225年、西征より帰国したチンギス・カンは広大になった領地を、子供達に分割譲渡を計画したが、これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝が、ホラズム遠征に対する援軍を拒否しており、その上、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいました。チンギス・カンは帰国1年で懲罰遠征を決意し、1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲しました。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ちましたが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅しました。


◇ チンギス・カンの死とその遺言

 1227年、チンギス・カンは西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否したものの、このとき彼は陣中にて危篤に陥りました。軍の本隊はモンゴルへの帰途に就きましたが、1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で死去しました。「元史」などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られたとされます。
 彼は死の床で、遺言として、西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したとされます。チンギス・カンは一代で膨張を続ける広大な帝国を作り、その死後には世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎を残したのでありました。

チンギスカン像(ウランバートル市内)
ウランんバートルのチンギス・カン像

1206年
1206年 モンゴル帝国領

1219年
1219年 モンゴル帝国領

1223年
1223年 モンゴル帝国領

1227年
1227年 モンゴル帝国領(この年、チンギス・カン死去)

1237年
1237年 モンゴル帝国領

1259年
1259年 モンゴル帝国領

1279年
1279年 モンゴル帝国領


◇ チンギス・カンのDNAを受け継ぐ1600万人

 2004年、オクスフォード大学の遺伝学研究チームはDNA解析に基づき、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表しました。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析から、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たとされます。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとのことです。逆算しますと、1人の人物が13世紀初頭、数百人から数千人の子どもをもうけた計算となり、当時、これだけの子どもをもうけることが可能だったのは、東欧からアジア大陸までをその勢力に治めた「モンゴル帝国」を築きあげた、チンギス・カン、ただ1人だったろうと言う考えであります。
 また、この研究を主導したひとりクリス・テイラーは、検出されたDNAがチンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザーラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげています。フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったといいます。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べています。

※チンギス・カンの子孫は食事無料!

 英・ロンドンにあるモンゴル料理店「シシ」では、限定した数日間の来店客に無料でDNA鑑定を行い、モンゴル帝国の始祖チンギス・カン(位1206~27年)の子孫と判明した客には食事を無料提供する試みを開始しました。父親から息子に受け継がれるY染色体を検査するため、鑑定を受けられるのは男性に限られます。このモンゴル料理店「シシ」によりますと、今回の企画は、モンゴルで再び姓を名乗ることができるようになったことをたたえるのが目的だそうです。モンゴルでは、過去70年間、国民の団結などを理由に、姓を名乗ることが禁止されていました。しかし1990年代に政府がこの政策を撤回し、国民に名字の登録を呼び掛けしましたが、国民の半分以上が、チンギス・ハンの家系が名乗っていた名字を登録したそうです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カン
http://dic.pixiv.net/a/チンギス・ハーン
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/124/news/

黒人解放を訴え続けたマーティン・ルーサー・キング牧師とその演説 “I Have A Dream!”(改訂版)


 私事で恐縮いたしますが、1996年の4月から1998年10月までの2年6ヶ月、米国のある街に肝移植の勉強で留学しました。その生活の始めの頃は、あらゆる所、デパートやモール、飛行場などで、黒人と白人はほぼ同等に生活しているように見えました。そもそも、人種差別は過去のものであり、現代の世の中には存在しない、そんな感覚で20年前の30代前半の私は米国生活を始めたように記憶しています。

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 しかし、米国における黒人に対する「人種差別の名残り」は確かに1990年代後半にもありました。そして、米国内旅行の途中でジョージア州、アトランタに行った際に、キング牧師の記念館に立ち寄り、彼の偉業に触れ、彼の演説を観て、胸が熱くなったのが思い出されます。
 ここでは、1990年代後半の米国における「人種差別の名残り」に触れ、故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師をご紹介すると同時に、1963年8月28日、ワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で行われた、有名な“I Have a Dream”を含む演説のビデオを供覧し、その全文が手に入りましたので、和文英訳を付けて、彼の人種差別撤廃に向けたスピリッツをご紹介いたします。


◇ 96–98年 米国生活で見た「人種差別の名残り」

1.公園によって遊んでいる黒人の子供の割合が異なる

 米国生活を始める時、長女が2歳半でしたのでよく公園(パーク)に連れて行きました。私が住んでいたアパートのすぐそばにあるメロンパークには黒人の子供が8割で、その次が日本人や中国人などの東洋人で、白人の子供は1割もいませんでした。居住区の関係なのか?、理由はよく解りませんでした。少し離れたところにシンリーパークがあって、こちらは白人の子供が多く、東洋人は2、3割いますが、黒人は1割以下でした。シンリーパークはその街のほぼ中心部にあり最も大きなパークでしたが、白人が優位でありました。私のラボのボスが住んでいた裕福な人々の区画にはフリックパークがあって、そこでは黒人の子供は見たことはありませんでした。
 これは「立ち入り禁止」と言った人種差別があったわけではありません。長い年月で子供の遊び場に棲み分けが起こっていたのかも知れません。もちろん、白人と黒人の子供が一緒に遊ぶ場所で問題が起こったことは聞きませんでした。しかしながら、我々、日本人は、黒人の子供が多くいるパークをちょっと危険な感覚で捉えましたし、白人の子供が多いパークは安全で高級なイメージを持ちました。これは残念ながら正直な感覚です。白人たちが同じ感覚を持っていたかどうかは解りません。

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シンリーパーク


2.スーパーマーケットの深夜のレジは黒人

 渡米当初は、警戒感から、深夜に出歩くことはありませんでしたが、慣れてくると夜中に買い物をすることもありました。とりわけ、車で国内旅行に行った際には、道に迷って深夜にモーテルに到達し、水や食料を買いにスーパーに行きました。ある時から気付いたのですが、スーパーにおける昼間のレジは白人が多かったですが、深夜に白人を見るとは無く、ほぼ100%黒人でありました。


3.夜間の手術 機械出しは黒人

 スーパーと似たような現象は病院でもありました。私は、留学1年が経ったところでラボが消滅してしまい、実験生活から臨床医に戻りました。肝移植は脳死者が出て成立するものですので、ドナー(臓器提供者)手術にしろレシピエント(移植を受ける患者)手術にしろ、不定期の緊急手術であります。よく夜間にポケベルで呼び出されて手術に入りました。手術の形態は日本も米国もあまり変わりはなく、術者に手術器具を渡すナースがいて、それを日本語では「機械出し」と呼びます。英語でなんて呼ぶか忘れました。日中の手術は白人の機械出しが多く、夜間になるとほぼ黒人が担います。偶然ではありません。私は米国留学の後半1年半で120のドナー手術に加わり、216の肝移植手術に関わりましたので、手術の機械出しが「昼は白人、夜は黒人」のシステムは明らかでした。

 この「昼は白人、夜は黒人」の、スーパーマーケットと大学病院手術室の機械出しにおける奇妙な一致は、つまり雇用体制なんだと思います。スーパーでも病院でも夜間出勤の危険性があり、勤務においては、スーパーなら強盗とか、手術では睡魔から針刺しなどの、やはり危険性があります。雇用の段階で、白人は昼間の仕事に就けて黒人は夜間と、明確な規定があるかどうかは知りませんが、明らかに暗黙の了解はありました。


4.いささかレベルの落ちる黒人のフェロー

 米国では医師免許取得後の研修医をレジデントと呼び、その上のもう少し専門的な、日本で言う後期研修医をフェローと呼びます。このフェローの中にはある一定の割合で黒人が含まれており、しかし残念ながら、その黒人はかなりの確率で技術も知識も落ちるドクターでありました。サボったり嘘を言うこともあり、これは一人ではなく、何人もの黒人フェローに見られ、年間数百もの肝移植を行う施設として残念に思いました。
 実は、フェローとして受け入れる段階で、何割かは黒人を雇用しなければならない法律があるそうです。つまり、その問題のフェローは成績が及ばないけれどその規定によって雇用された人材の可能性はありました。これは、スーパーや病院手術室の「昼は白人、夜は黒人」とは逆で、黒人にチャンスを与えるルールでありますが、黒人への「人種差別の名残り」であると言えると思います。

 公園によって遊ぶ子供の肌の色が違うとか、様々な雇用における黒人と白人の違いを紹介しましたが、過去における人種差別はそんな生易しいもので無かったことは明白であります。現代の米国は、大きな変革の後の、さらに改良される過程にまだあるように思います。


◇ 故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師

 1998年の8月、帰国を2月後に控えて、米国東海岸を南北に縦断する車の旅行に出ました。その途中で、ジョージア州アトランタに一泊して、ストーンマウンテンに登り、コカコーラ博物館に行きました。あまり興味は無かったのですが、キング牧師の記念館にも立ち寄りました。そこで、彼の黒人に対する人種差別撤廃運動を知り、$15(1500円)で演説のビデオを購入しました。故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師をウィキペディアの抜粋で供覧いたします。

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ジョージア州アトランタ ストーンマウンテン

キング牧師
史上最年少のノーベル平和賞受賞のキング牧師とキング牧師記念館内の写真

キング牧師墓
キング牧師夫婦の墓

 *****

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr., 1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。キング牧師の名で知られ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した。
 「I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名なスピーチを行った人物。1964年のノーベル平和賞受賞者。2004年の議会名誉黄金勲章受章者。アメリカの人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)の歴史を語る上で重要な人物の一人である。

初めての差別

 1929年、ジョージア州アトランタ市でバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれる。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは1935年にマーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・キング、ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング、シニア」と呼ばれる。
幼少の頃隣に白人の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「(黒人とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての差別体験であった。高校時代には討論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。

牧師として

 モアハウス大学卒業後、ペンシルベニア州のクローザー神学校を経て父親と同じくバプテスト派の牧師となる。その後1955年にボストン大学神学部で博士号を取得した。
 ボストン大学に在学中、コレッタ・スコット・キング(Coretta Scott King)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て、夫が亡くなった後もその意思を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は2005年8月16日に脳卒中で倒れて半身不随となり、2006年1月31日に78歳で死去した。
 なおキングがボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事を理由に白人の店員が注文を取りに来なかったが、同店の所在地がこの様な行為を州法で禁じているボストン北部であったため、店員は人種差別として即逮捕となった。南部出身で人種差別を受けることが多かったキングは、むしろこの出来事に驚いたという。

 1954年以来、アラバマ州モンゴメリーのバプテスト派教会の牧師をしていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件に抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を指導する。11ヶ月後に裁判所から呼び出しがあり運動中止命令かと思っていたが、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取る。これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。

非暴力主義

 キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。
 事実、1963年5月にアラバマ州バーミングハムでのバーミングハム運動の中で、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの警官による事件映像が映し出され、世論は次第にそれらの暴力に拒絶反応を示していった。
 公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比べれば人種差別の撤廃に肯定的であり、州政府ないしは州兵に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。
 キングも1963年4月12日にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、4月19日まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。

I Have A Dream!

 1963年8月28日に行われたワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で有名な“I Have a Dream”(私には夢がある)を含む演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ。
 当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるがその内容は高く評価され、1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説と並び20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。

勝利

 キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。
 ジョンソンは人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ政権時代のことであるが、議会内において強い政治的影響力を持たなかったケネディを後押しし続けたジョンソンが、キングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。
 公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった(受賞発表は10月14日で、授賞式は12月10日だった)。これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。ただし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がキングに同意していたわけではなく、一部の過激派はマルコムXを支持しキングの非暴力的で融和的な方針に反発した。

その後の黒人解放運動

 ワシントンDCへの20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。
 黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れたり(「ブラック・パワー運動」といわれる事もある)、ブラックパンサー党が結成されたり1967年夏にニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。

 キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。

 1. 公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。
 2. 深く根付いた差別意識は依然として教育や雇用の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。
 3. 差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の失業問題は、白人に比べ深刻である。
 4. ベトナム戦争により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。
 5. 大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。

 そして「ベトナム戦争反対」の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。

暗殺

 その後、キングは激化の一途をたどるベトナム戦争へのアメリカの関与に反対する、いわゆる「ベトナム反戦運動」への積極的な関与を始めるようになったが、その主張は一向になくならない人種差別に業を煮やし、暴力をも辞さない過激思想への理解すら示しつつあった「黒人社会」の主流のみならず、ベトナム戦争への関与をめぐり2つに割れつつあった「白人社会」の主流からさえ離れて行き、さらにキングを邪魔だと考える「敵」も増えていった。爆弾テロや刺殺未遂(犯人は精神障害のある黒人女性)もあったが、奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていた。
 1968年4月4日に遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “en:I've Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説。その後メンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーでその夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のならず者、ジェームズ・アール・レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。

 暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『申命記』32章のモーセを思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“en:I Have a Dream”と共に有名なものとなった。

  …前途に困難な日々が待っています。
  でも、もうどうでもよいのです。
  私は山の頂上に登ってきたのだから。

  皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
  長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
  神の意志を実現したいだけです。

  神は私が山に登るのを許され、
  私は頂上から約束の地を見たのです。
  私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
  ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。

  今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
  神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

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暗殺の前日に演説を行うキング牧師

 *****


 次に、キング牧師の1963年8月28日、ワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で行われた“I Have A Dream!”の演説をビデオと原文と和訳をご紹介します。彼の演説に大いなるスピリチュアルを感じる人は多いと思います。なぜなら、彼は、このブログでもご紹介した「引き寄せの法則」を実践した人物だと思われるからです。黒人の自由、平等、解放を訴えて、強い強い意志の波動を宇宙に送り続けたキング牧師は、暗殺されはしたものの、思いは実現しました。


◇ キング牧師“I Have A Dream!”演説

Martin Luther King's Speech I Have A Dream!
August 28, 1963

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I am happy to join with you today in what will go down in history as the greatest demonstration for freedom in the history of our nation.

我が国において、自由のために最も偉大なデモンストレーションとして歴史に残る集会に、今日、皆さんと共に参加できることを私はうれしく思います。

Five score years ago, a great American, in whose symbolic shadow we stand today, signed the Emancipation Proclamation.

今から100年前、今日、我々の目の前にいるその像の偉大なるアメリカ人(=リンカンー大統領)が、奴隷解放宣言に署名しました。

This momentous decree came as a great beacon light of hope to millions of Negro slaves who had been seared in the flames of withering injustice.

この偉大なる宣言は、燃えさかる不正義の炎に焼き焦がされてきた何百万もの黒人奴隷たちに希望を与える大きな光でした。

It came as a joyous daybreak to end the long night of their captivity.

それは奴隷制度の長い夜の終わりを告げる喜びの夜明けでした。

But one hundred years later, the Negro still is not free.

しかし、あれから100年たった今、黒人は、今だに自由ではありません。

One hundred years later, the life of the Negro is still sadly crippled by the manacles of segregation and the chains of discrimination.

100 年たった今、黒人たちの生活は、今なお人種隔離の手かせと人種差別の足かせに縛られています。

One hundred years later, the Negro lives on a lonely island of poverty in the midst of a vast ocean of material prosperity.

100 年たった今、黒人たちは物質的繁栄の広大な海に浮かぶ貧困という孤島に暮らしています。

One hundred years later, the Negro is still languished in the corners of American society and finds himself an exile in his own land.

100 年たった今、黒人たちは今だにアメリカ社会の片隅で苦しんでいて、自分たちの国の中で島流しの状態です。


So we have come here today to dramatize a shameful condition.

私たちが今日この場に集まったのは、この恥ずべき状態を広く世に訴えるためです。

In a sense we've come to our nation's capital to cash a check.

ある意味では、私たちは、小切手を現金に換えるために、私たちの国の首都に来たのです。

When the architects of our republic wrote the magnificent words of the Constitution and the Declaration of Independence, they were signing a promissory note to which every American was to fall heir.

私たちの共和国の創設者が、憲法と独立宣言の崇高なる言葉を書き記したとき、彼らはあらゆるアメリカ人が継承すべき約束手形に署名したのです。

This note was a promise that all men, yes, black men as well as white men, would be guaranteed the "unalienable Rights" of "Life, Liberty and the pursuit of Happiness."

この手形には「生命、自由および幸福追求」という「譲ることのできない権利」が、白人と同様に黒人も、すべての人に保証されるべきであるという約束でありました。

It is obvious today that America has defaulted on this promissory note, insofar as her citizens of color are concerned.

今日、有色人種の市民に関する限り、アメリカがこの約束手形の履行を怠っていることは明白です。

Instead of honoring this sacred obligation, America has given the Negro people a bad check, a check which has come back marked "insufficient funds."

この神聖な義務を守る代わりに、アメリカは黒人たちに、「残高不足」とマークされて戻った小切手である、不渡り小切手を与えているのです。

But we refuse to believe that the bank of justice is bankrupt.

しかし、私たちは、正義の銀行までもが破産していると思うことを拒否します。

We refuse to believe that there are insufficient funds in the great vaults of opportunity of this nation.

私たちは、この国の機会の偉大なる金庫が資金不足になっていると信じることを拒否します。

And so, we've come to cash this check, a check that will give us upon demand the riches of freedom and the security of justice.

従って、私たちはこの、我々の要求に応じて自由という富と正義の保証を与えてくれると言う小切手を換金するために来たのです。

We have also come to this hallowed spot to remind America of the fierce urgency of Now.

私たちは、また、アメリカに今の激しい緊急性を思い出させるために、この神聖な場所に来ているのです。


This is no time to engage in the luxury of cooling off or to take the tranquilizing drug of gradualism.

今は、クーリングオフの贅沢にふけったり、漸進主義という精神安定剤を飲むというような悠長な時ではないのです。

Now is the time to make real the promises of democracy.

今こそ、民主主義の約束が実現されるときです。

Now is the time to rise from the dark and desolate valley of segregation to the sunlit path of racial justice.

今こそ、隔離され暗く荒涼とした谷から人種平等の陽の当たる道に上ってゆく時です。

Now is the time to lift our nation from the quicksand of racial injustice to the solid rock of brotherhood.

今こそ、私たちの国を、人種差別の泥沼から、兄弟愛の揺るぎない岩へと引き上げる時なのです。

Now is the time to make justice a reality for all of God's children.

今こそ、全ての神の子が実際に正義を手にするときです。

It would be fatal for the nation to overlook the urgency of the moment.

現在の緊急な状態を見落とすことは国家として致命的と言えます。

This sweltering summer of the Negro's legitimate discontent will not pass until there is an invigorating autumn of freedom and equality.

黒人の正当な不満が渦巻く蒸し暑い夏は、自由と平等のさわやかな秋になるまで終わらないでしょう。


Nineteen sixty-three is not an end, but a beginning.

1963年は終わりではなく始まりです。

And those who hope that the Negro needed to blow off steam and will now be content will have a rude awakening if the nation returns to business as usual.

黒人にはうっぷん晴らしが必要だったがもう収まるだろうと期待している人々は、この国をこのままもとの状態に戻すつもりなら、嫌な現実をいきなり突きつけられることとなるでしょう。

And there will be neither rest nor tranquility in America until the Negro is granted his citizenship rights.

そして、黒人に公民権が与えられるまで、休息も平穏もアメリカにはあり得な いでしょう。

The whirlwinds of revolt will continue to shake the foundations of our nation until the bright day of justice emerges.

正義が行われる明るい日になるまで、反乱の嵐は我が国の土台を揺るがし続けることになるでしょう。


But there is something that I must say to my people, who stand on the warm threshold which leads into the palace of justice.

しかし、正義の殿堂にいたる情熱的な入り口に立つ仲間に言わなければならない事があります。

In the process of gaining our rightful place, we must not be guilty of wrongful deeds.

我々の公正を得る過程で、我々は不正な行為を犯してはなりません。

Let us not seek to satisfy our thirst for freedom by drinking from the cup of bitterness and hatred.

自由への乾きを、恨みと憎悪の杯を口にすることで満たそうととしてはなりません。

We must forever conduct our struggle on the high plane of dignity and discipline.

私たちは尊厳と規律の高い次元で我々の闘いを永遠に実行しなければなりません。

We must not allow our creative protest to degenerate into physical violence.

私たちの創造的な抗議が物理的な暴力に陥るのを許してはなりません。

Again and again, we must rise to the majestic heights of meeting physical force with soul force.

繰り返し、繰り返し申します、私たちは魂の力で物理的力に立ち向かい、荘厳な高みに上らなければなりません。


The marvelous new militancy which has engulfed the Negro community must not lead us to a distrust of all white people, for many of our white brothers, as evidenced by their presence here today, have come to realize that their destiny is tied up with our destiny.

黒人社会を包み込んでいる素晴らしい新しい闘志が、全ての白人の人々に対する不信に至る必要はなく、白人の兄弟の多くは、今日ここに彼らが存在することで明らかなように、彼らの運命が我々の運命に結びつけられると理解するようになりました。

And they have come to realize that their freedom is inextricably bound to our freedom.

そして、彼らの自由が我々の自由と分かちがたく結びついていると認識しています。

We cannot walk alone.

私たちは一人では歩けません。

And as we walk, we must make the pledge that we shall always march ahead.

そして、いざ歩きだしたら、私たちは前進し続けることを心に誓わなければなりません。

We cannot turn back.

私たちは引き返すことはできません。


There are those who are asking the devotees of civil rights, "When will you be satisfied?"

公民権運動に献身する人に「あなた方はいつになったら納得するのでしょうか?」と尋ねる人たちがいます。

We can never be satisfied as long as the Negro is the victim of the unspeakable horrors of police brutality.

私たちは、黒人が警察の残虐行為による言葉に表せない恐怖の犠牲者である限り、決して満足することはできません。

We can never be satisfied as long as our bodies, heavy with the fatigue of travel, cannot gain lodging in the motels of the highways and the hotels of the cities.

私たちは、旅の疲れで重くなった身体なのに、高速道路に(黒人の) 泊まれるモーテルが無く、街に(黒人の)泊まれるホテルがない限り、 決して満足することはできません。

We cannot be satisfied as long as the negro's basic mobility is from a smaller ghetto to a larger one.

私たちは、黒人の日常的な黄道範囲が、小さなゲットーから大きなゲットーになったにすぎないのである限り満足することはできません。

We can never be satisfied as long as our children are stripped of their self-hood and robbed of their dignity by a sign stating: "For Whites Only."

私たちの子どもが「白人専用」の標識によって彼らの個性をはぎ取られ、彼らの尊厳を奪われている限り、我々は決して満足することかはできません。

We cannot be satisfied as long as a Negro in Mississippi cannot vote and a Negro in New York believes he has nothing for which to vote.

ミシシッピー州の黒人が投票することができず、ニューヨーク州の黒人が投票しても無駄だと信じる状態が続く限り、私たちは決して満足することはできません。

No, no, we are not satisfied, and we will not be satisfied until "justice rolls down like waters, and righteousness like a mighty stream."

決して、決っして、我々は満足はしない、「正義が水のようにこぼれ落ち、公正さが強力な流れになる」まで満足することはないでしょう。


I am not unmindful that some of you have come here out of great trials and tribulations.

私は、あなた方の中には大変な試練と苦難をへてここに来た人々がいる事を忘れてはいません。

Some of you have come fresh from narrow jail cells.

あなた方の中には、刑務所の狭い独房から出てきたばかりの人もいるでしょう。

And some of you have come from areas where your quest -- quest for freedom left you battered by the storms of persecution and staggered by the winds of police brutality.

また、あなた方の中には、自由を求めたために迫害の嵐に見舞われ警察の残虐行為の暴風によろめくままにされている地域から来た人もいるでしょう。

You have been the veterans of creative suffering.

あなた方は苦しみを感じることにベテランでした。

Continue to work with the faith that unearned suffering is redemptive.

不当な苦しみはあがなわれると信じて闘い続けましょう。

Go back to Mississippi, go back to Alabama, go back to South Carolina, go back to Georgia, go back to Louisiana, go back to the slums and ghettos of our northern cities, knowing that somehow this situation can and will be changed.

ミシシッピー州へ帰りましょう、アラバマ州へ帰りましょう、サウスカロライナ州へ帰りましょう、ジョージア州へ帰りましょう、ルイジアナ州へ帰りましょう、北部の街のスラムやゲットーへ帰りましょう、この状況はなんとしても打開するし、 打開されるだろうということを信じて。

Let us not wallow in the valley of despair.

絶望の谷を彷徨うのはもうやめましょう。

I say to you today, my friends, so even though we face the difficulties of today and tomorrow, I still have a dream.

わが友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわれは今日も明日も困難に直面しているが、それでもなお私には夢があると。

It is a dream deeply rooted in the American dream.

それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢です。


I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."

私には夢がある、いつの日か、この国が立ち上がり、「我々は すべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」というこの国の信条を真の意味で実現させることだ。

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

私には夢がある。ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢だ。

I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.

私には夢がある。今、差別と抑圧の炎熱に焼かれるミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変われる日が来るという夢だ。

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.

私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住めるようになるという夢だ。

I have a dream today.

私には、今日、夢がある!

I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of "interposition" and "nullification" -- one day right there in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.

私には夢がある、いつの日かアラバマ州で、目下のところ悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られ、「(連邦政府の)干渉排除」や「(連邦法の実施の)無効化」を主張している州知事のいるアラバマ州においてさえ、将来いつの日か、幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちと兄弟姉妹として手に手を取ることができるようになるという夢だ。

I have a dream today.

私には、今日、夢がある!

I have a dream that one day every valley shall be exalted, and every hill and mountain shall be madelow, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight; "and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall seeit together."

私には夢がある、いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。そして神の栄光が現れ、すべての人々が共にその栄光を見るだろう。

This is our hope.

これは私達の希望なのだ。


This is the faith that I will go back to the South with.

この信念をもって、私は南部へ戻るつもりだ。

With this faith we will be able to hew out of the mountain of despair a stone of hope.

この信念をもってすれば、絶望の山からも希望の石を切り出すこができるのだ。

With this faith we will be able to transform the jangling discords of our nation into a beautiful symphony of brotherhood.

この信念をもってすれば、我々は祖国にうずまく不協和音を人類愛のすばらしいシンフォニーに昇華することができるのだ。

With this faith we will be able to work together, to pray together, to struggle together, to go to jail together, to stand up for freedom together, knowing that we will be free one day.

この信念をもってすれば、いつの日か自由が来るのだということを信じて、我々は共に働き、共に祈り、共に闘い、共に投獄され、共に自由のために立ちあがることができるのだ。

This will be the day...., this will be the day when all of God's children will be able to sing with new meaning "My country 'tis of thee, sweet land of liberty, of thee I sing. Land where my fathers died, land of the Pilgrim's pride, from every mountainside, let freedom ring!"


そしてその日が来れば、その日が来れば、神の子はみなおしなべて、新しい意味をこめて「我が祖国よ、美しい自由の国をたたえ私は歌う。父が骨を埋めた国、開拓者の誇りとする国。すべての山々から、自由よ鳴り響け」と歌えるのだ。

And if America is to be a great nation, this must become true.

そして、アメリカが偉大な国であるならば、このことを実現しなければならない。


So let freedom ring from the prodigious hilltops Hampshire.

だから、自由の鐘を鳴らそう、ニューハンプシャー州の偉大ないただきから。

Let freedom ring from the mighty mountains of New York.

自由の鐘を鳴らそう、ニューヨーク州の悠々しき山々からも。

Let freedom ring from the heightening Alleghenies of Pennsylvania.

自由の鐘を鳴らそう、ヘペンシルベニア州にそそり立つアレギニーの山からも。

Let freedom ring from the snow-capped Rockies of Colorado.

自由の鐘を鳴らそう、雪を頂くコロラド州のロッキー山脈からも。

Let freedom ring from the curvaceous slopes of California.

自由の鐘を鳴らそう、カリフォルニア州のなだらかな山々からも。

But not only that, let freedom, ring from StoneMountain of Georgia.

それだけではない、 自由の鐘を鳴らそう、ジョージア州のストーンマウンテンからも。

Let freedom ring from Lookout Mountain of Tennessee!

自由の鐘を鳴らそう、テネシー州のルックアウトマウンテンからも。

Let freedom ring from every hill and molehill of Mississippi.

自由の鐘を鳴らそう、ミシシッピー州のすべての丘やほんの小さな塚からも

From every mountainside, let freedom ring!

すべての山々から、自由の鐘を鳴らすのだ!

And when this happens, when we allow freedom to ring, when we let it ring from every village and every hamlet, from every state and every city, we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old Negro spiritual.

そうすれば、私たちが自由の鐘を鳴り響かせば、すべての村、すべての集落から、すべての州、すべての街から、自由の鐘を鳴らせば、 すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人(非ユダヤ人)も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取りあって、あの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。

"Free at last! free at last! Thank God Almighty, we are free at last!"

「ついに自由だ、ついに自由になれた。全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ!」と。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/ネルソン・マンデラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

戦後日本の代表的政治家の一人、石原 慎太郎 氏 その引退会見から

 いろんな意味で戦後の日本を代表する政治家、石原 慎太郎 氏が昨日、政界を引退することを正式表明しました。私は正直に尊敬していました。「この人に全てを任したら大変なことになる!」と思うこともしばしばでしたが、発想や発言にブレが無い、日本のあるべき姿に対して確固たる信念がある、そんなふうに思っております。会見での言葉を拾って来ましたので掲載いたします。演説としての掲載よりも「この人物」として掲載しておいて、後になって彼の行動言動を付け加えて更新させていただく、そんなご投稿にさせていただく所存です。

石原氏引退会見

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晴れ晴れとした気持ちで政界去れる

 皆さん、こんにちは。僭越(せんえつ)でございますが、大してニュースバリューもないこの私が個人の資格で皆さんにこうやって大がかりな記者会見を申し込んだ理由は、私も延べ50年以上政治に携わってきたが、結局、今度の選挙でああいう結果になって、私は引退を決心した。ただ、(衆院選の)開票日に、いってはいけないが、自宅にまで浅薄なメディアの先兵が押しかけて、歩く途中もマイクを突きつけて「一言、二言」と(コメントを求められた)。そこで、後にゆっくり話させてくれということで、日本記者クラブにご厚意いただいて、この機会を設けさせていただいた。私が申し上げたいことを端的に申し上げて、皆さんに批判をいただきたい。

 結論から言えば、かねがね私はこの解散が決まったときに、選挙をきっかけに引退をするつもりだった。私自身も肉体的にひびが入ったりもして、見回してみると国会議員の中の最高齢者になった。これ非常に皮肉な話だ。かつては奥野誠亮さんという尊敬していた大先輩が、90歳を過ぎるまでかくしゃくとして国会議員を務められたそうだが、とても私にはその自信も能力もないので、これをきっかけに引退ということを声明しようと思った。

 この選挙で引退を決意した

 限られた仲間が「今引退されると党、選挙の趨勢(すうせい)に悪い影響を与えるから思いとどまってほしい」ということだった。特に若い議員からは連判状などもいただいた。いろいろ勘案して、選挙の事前に私が引退を声明することは仲間のためにもよろしくない、と判断した。それならば皆さんと、とにかく戦うと決心した。
 いずれにしても私は引退を覚悟で戦いをするわけだから、討ち死にを覚悟の出陣ということで、東京比例のランキングは一番最後してほしいことを、党の方も受け入れてくれた。ある意味で結論が知れていることだったので、空いている時間に仲間の応援に駆け回った。残念ながら風邪をひいたりして肝心の名古屋の大きな大会には出席できなかったが、仲間に対する義理だけは最低限、果たせたな、と思っている。

 討ち死に覚悟の出陣
 東京比例のランキングは一番最後


 私の実家の石原家は、武田武士の残党だった。武田家は(織田)信長に滅ばされて雲散霧消した。武田の赤備えというのは戦国時代有名だったそうで、武田武士を争って3つの藩が抱えたそうだ。1つは毛利藩、1つは井伊藩、もう1つは伊予藩だった。私の先祖は甲州から追われて伊予藩に抱えられたそうだ。
 かつての時代に弓矢の武功で禄を食(は)んでおって、家の家紋は黄金分立のきかない「7つ矢」だ。珍しい家紋だ。正月に赤塗りのお膳で家族そろって雑煮を食べたりするときに、据えられたお膳に7つの紋が記されているな、と印象深く覚えている。
 母の方の略紋は三ツ矢サイダーに似た3つの紋だったが、7つの紋はなかなか日本に珍しい家紋で、私もいわれを聞かされて子供心にプライドを持っていた。石原家の弓で勝ち取ったわが家の家訓は、「明日の戦 己はむなしと心得べし」という。これは武士の家訓としてもなかなかいい家訓だなと思った。

 石原家の家訓「明日の戦 己はむなしと心得べし」

 それを受けて私は討ち死に覚悟というか、本当なら引退を声明して退くべきだと思ったが、やっぱり仲間の若い武士たちのために自分も一緒に戦って、恥ずかしいことだが落選という形の討ち死にすることは 自分の1つの宿命かな、と思って決心をした。私からこの選挙についてのかかわりについて申し上げることはそれだけだ。

 落選という形の討ち死には自分の1つの宿命

 振り返ってみると、参院の全国区から始まって、衆院を25年務め、インターバルをおいて、思うところあって都知事に就任した。できるだけのことはやったつもりだ。政治家として、どの国も物書きが政治に参画、コミットするのは例がないわけではない。ゲーテとか、(フランスの)ドゴール(大統領)の文化相を務めた(アンドレ)マルローの例もある。
 印象的だったのは激しい最初の、自民党からの優秀な人材が5、6人出た選挙で何とか都知事になったとき、縁があって日本に来られたときに2日ほどお会いして旅もした、マルローなんていう人は印象的な人物だったが、アンドレ・マルローの未亡人から私に「知事になって頑張れ」という手紙をもらったのを覚えている。

 今までのキャリアの中で歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは私にとって、政治家としても物書きとしてもありがたい、うれしい経験だったという気がする。それをもって、私が欣快(きんかい)として今、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるな、という気でいる。1つご理解いただきたい。


本当は「新党ヤマト」でいけばよかった

 --今回の選挙では石原氏が落選の“討ち死に”をしたほか、次世代の会のほとんども“討ち死に”をした。もともと地盤の強かったベテラン2人だけしか生き残らなかった。この結果について。

 「次世代の党」という党名そのものに私は異議を呈した。非常にわかりにくいというか、説明しなくてはなかなか意思が伝わらないネーミングだった気がする。私は小説家だから、自分としても自負しているが、小説の名前を付けるのは割とうまい方だ。政党の名前としてはどうも問題があるなと。
 いくつか他にも案があった。昔、私たちがつくった「黎明(れいめい)の会」とか。それとこれは(次世代の党党首の)平沼(赳夫)君が言い出したと思うが、富士山の名前をとって「新党富士」というのも良いじゃないかとね。でも、「ふじ」という名のリンゴがあるのでネーミングとしてバッティングすると。
 それから私が一番良いと思ったのはカタカナで「新党ヤマト」だ。これまた「宇宙戦艦ヤマト」というアニメがあって紛らわしい。私は本当は「新党ヤマト」でいけばよかったと思ったが、過ぎたことだから愚痴でしかない。ただ、やっぱり党名が浸透しにくい名前だった。(選挙戦の)時間がなかった。
 維新の会と一緒だったが、分党になった。分党するときに、橋下(徹)くんと肝胆相照らした。私の人生の中で、彼と知己を得たのは快事の一つだと思っているが、やっぱり大阪維新の会が発売元本舗だから、「維新」の名前を私たちがひねって使うのは失礼だと思うし、遠慮した。結局、党員全体で投票して「次世代の党」という名前を選んで、この結果になった。

 --次世代の党が選挙戦で前面に打ち出したのは自主憲法制定だった。それに対する世の中の評価については。

 憲法は良い意味でも悪い意味でも、これだけ日本社会に定着してしまうと、国民の関心はあまりない気がする。本当に憲法を変えなくてはいけないと考えている人は、残念ながら希少な存在でしかなくなったと思う。

 本当に憲法を変えなくてはと考える人は希少

 皆さんもメディアの方々だから文章について講釈するのはうるさいことだと思うが、あの醜い前文ひとつを見ても、間違いが非常に多い。私も最後の予算委員会で安倍(晋三)総理に話したが、言葉には助詞、動詞、形容詞、いろいろあり、助詞も非常に大事な要素だ。この助詞の間違いが前文にたくさんある。例えば「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という部分だが、人にお金を貸すとき、「あなたに信頼してお金を貸します」とは言わない。やっぱり「信義を信頼」だ。
 かつてシェークスピアを訳した福田恒存さんと前文の話をしているとき、「石原君、勘定してごらん。5つも6つも7つも8つも助詞の間違いがあるぞ」と言う。私も本当にその通りだと思う。9条を変えるとなると大事になるから、せめて「に」だけは国文学者を集めて、変えようじゃないかと総理に言った。それが蟻の一穴となって憲法を変えることができるんじゃないかと。安倍さんは残念ながら答えませんでしたな。

 憲法における助詞の間違いの多さ

 --石原氏はかつては300万票を得票したこともある。その石原氏が比例で出馬しながら、これだけ集票が落ちた。

 私に対する投票じゃなく。誰かが言っていたが、「比例の一番初めに石原さんの名前が挙がったらおそらく票数も違ったのではないか」と。でもそれはわからない。うぬぼれているわけじゃないから。選挙の結果はいいでしょう。もう勘弁してください。

 --今回の選挙で自公3分の2体制になったが、民意は何を示したと評価するか。

 それを逆に明かしているのは共産党の躍進だと思う。なんというか、今回、共産党に多くの支持が集まったのは、いま自分たちを囲んでいるもろもろの社会的な現実に対する、みんなが漠として感じている現況への不満の社会心理学的なリアクションだと思う。何が不満かというと、色んな格差が出てきた。

 共産党躍進は格差への社会心理学的リアクション

 例えば私たちがあえて「次世代」という言葉を使ったのも、これから日本を担っていく20代、30代の人にあまり希望がないからだ。結婚できない。しても子供をつくれない。なんていうかなあ、人生の黎明(れいめい)期にいる20代の人間が、自分の人生に対して大きな期待を持てない。そういう現象がある。

 人生の黎明期の20代が自分に人生に期待を持てない

 例えば経済一つにしても、私は新聞を読まずに主にテレビで情報を拾っているが、ニュースの度に、経済を評価する指標に株の値段があげられる。経済動向を測るメジャースティックに株の値段が真っ先に取り上げられる。私はあまり良いことじゃないと思う。ほとんどの人が株なんてやってない。
 確かに株価は2倍になった。でも株価が何を表しているかというと、経済界の上層部、つまり上場を果たしている企業の内容だ。それだけをもって、日本全体が良くなっている、国民の生活が向上しつつある、そういった判定を下すには確かな指標にはならないと思う。その不満や不安がこの結果になった気がする。

 株価を経済の第1の指標とする間違い

 それとメディアの怠慢だと思う。前から言ってきたが、なんで日本の会計制度を変えないのか。日本は単式簿記で大福帳の域を出ない。どんな国でも複式簿記ですよ。日本は国家の財政運営に財務諸表がない。バランスシートがない。そんな近代国家はないですよ。国家の体をなしている国で、日本と同じように大福帳の域を出ないのは、私の知る限り北朝鮮とフィリピンとパプアニューギニアぐらいですな。

 日本の会計制度の問題
 単式簿記より複式簿記
 財政運営に財務諸表、バランスシート


 メディアが頑張って、少し勉強して、声を起こして経済界が動いたらこの国は変わってくると思う。国の借金は1兆円近くあると言いながら、個人の持っている金融資本は1250兆くらいある。このギャップが埋められない。


橋下徹は若いときの田中角栄

 --橋下徹という政治家について、今後の彼の生き方も含め、どんな思いでみているか。

 彼は天才ですね。私は絶対、彼は(衆院選に)出るべきだったと思っている。前日まで私は何度も電話をして口説いた。彼は彼なりの言い分で、「自分はちょっと風呂敷を広げすぎたから、これを畳まなくちゃいかん」と。風呂敷って何か。大阪都構想ですよ。よくわかりにくい言葉だが、つまり東京に並ぶ大都市である大阪の復活ということだ。
 私は大阪が衰退するということは、日本の衰退だと思う。橋下君も感じていると思うし、安倍総理にしても自民党の政治家も、大阪というものをもう少し持ち上げないと、日本のバランスが取れないと痛感していると思う。
 橋下君はそれを念願するんだったら、国会に出てくるべきだ。安倍君とも(菅義偉)官房長官とも親しい仲らしいし、そういった人脈を通じて、とにかく国会で内閣を動かさないと大阪は持ち上がってこない。僕は絶対、彼は出るべきだったと思う。

 --しかし出なかった。

 出なかった。本当に残念だ。私は彼に「君は大阪の井戸の中にいて、なかなか大海が見えていない。一回、井戸から出て、国会議員になって、日本を全部眺めろよ」と言ったが、残念ながら忌避した。

 橋下くん、大阪の井戸から出て日本全部を眺めろよ!

 --橋下氏は総理になる器か。総理になる可能性はあるか。

 僕はあると思う。あんなに演説のうまい人をみたことない。言葉の調子は違うが、田中角栄だね。若いときの。それから例が良くないかもしれないけど、彼の演説のうまさ、迫力というのは若いときのヒトラーですよ。ヒトラーは後にバカなことをしたが。
 ドイツの外交官が「石原さん、ヒトラーは悪名を被っているが、若い時にやったことは間違っていなかった。ただ、ユダヤ人を偏見で虐殺したことは許せないが」と言っていた。私はその言葉を是とするし、橋下徹ってのは彼に該当する政治家だ。惜しいことをしたなあ。彼は必ずもう一回でてくるだろう。再登場すると思う。させなきゃいかんですよ。

 --石原氏は(前東京都知事の)猪瀬直樹氏に副知事を経験させ、後継に指名したが、(医療法人徳洲会グループから)5千万円の提供を受けて問題になった。誤算だったか。

 それはわからないが、私は彼を評価している。物書きのくせにあんなに数字に精通して、数字の虚構を見破ることできる男を私は知らなかった。それから役人が体裁の上でつく嘘を見破るのも非常にうまい。彼は日本でも一流のノンフィクション作家だったから、そういうリサーチ能力は非常にあった。非常に惜しい人を失ったと思う。東京のためにも大きな損失だった。

 --その5千万円をいただいた相手は(「徳洲会」前理事長の)徳田虎雄氏だった。徳田氏はもともと石原さんのファンであり支持者だったが、違和感はなかったか。

 むしろ私が徳田さんのファンだ。彼は本当に日本のシュバイツァーといっていいのか、見事な志を持った大事業家だと思う。日本の医師会が彼に反発し、自民党が彼をボイコットしたのは間違いだと思う。彼だけの自己犠牲を踏まえて病院の経営で人を助けた人がいますか。

 --猪瀬氏から石原氏に相談はなかったのか。

 ない。個人の金融の問題ですから。

 --数ある歴史の十字路の中で、忘れ得ない十字路は。

 私は日本の国会議員として初めてアメリカの戦略基地を訪れた。(元首相の)佐藤(栄作)さんが向こうの国務省にはかってくれたんだろうが。佐藤ってすごい人だと思う。沖縄返還交渉で非核三原則を唱えながら、アメリカの大統領のジョンソンに「日本は核を持ちたい、日本の核について協力してくれ」って言って断られている。それを諦めた後、沖縄返還の時にニクソン(元米大統領)と丁々発止やりながら、ドイツと一緒に核開発をしようと思って話をもちかけている。これだけの大きな二枚舌を使った政治家はいないと思う。

 佐藤栄作元首相の大きな二枚舌

 私はそれで「アメリカの核の抑止力はない、アメリカの核の傘というのは全く信用できない」ということを暴いた。そのおかげで私は核保有論者にされたが、あの体験は日本に覚醒をもたらしたと思うし、自分にとっても歴史的な十字路に立ったポイントだと思っている。


共産中国は嫌い 中国の若者は共産党独裁の壊滅を!

 --(中国人記者)中国人が石原先生にどういう質問があるかインターネットで集めた。3つの質問に絞って質問する。

 絞って3つ?

 --先生は本当に中国が嫌いか。また嫌いだとしたらどういう理由か。

 嫌い。共産主義も嫌い。共産中国嫌いだ。あなた方がチベットをなくしたんだ。

 --東京都が尖閣諸島を買おうという運動で日中関係は悪化した。今の結果は望んでいるか。日中関係はこれからどうすればいいか。

 もうちょっと頭冷やして、共産党の独裁というのを壊滅させることだ。それがあなたも含めて幸せなことではないか。

 --中国の若者に対してメッセージを。

 自分の人生を自由闊達に開いていくために共産党の独裁というのを壊滅させなければだめだ。

 --石原先生がかつて自民党にいる時は「変わった人」と思われていた。最近の自民党は、かつて石原先生がおっしゃってたことと同じようなことを言っている。これを見ていて自民党はよくなっているとお考えか。それとも悪くなっているとお考えか。

 僕と同じ事をどんな人が言っているのか。

 --自主憲法制定まではいかないが、憲法改正を唱えている方は今の自民党内では半数を…。

 当たり前じゃないですか。自民党の党是じゃないですか。

 --青嵐会をやっているころは、例えば河野洋平さんのような憲法改正反対の方が相当おられたような気がしませんか。

 さあ。河野君というのは全く例外的な人物で、私は大嫌いですけど。

 --「晴れ晴れした気分」とおっしゃったがそうは見えない。実際悔いはないか。正直なところを。

 悔いはありませんな。サバサバした気持ちだから。

 --本当にこれで終わりなのか。終わりなら次は何をするのか。今日は田中角栄元首相の命日だが、宿敵の田中角栄氏と、長期政権になるであろう安倍晋三首相に政治家として何を言い残すか。

 安倍さんには初志貫徹してもらいたい。しかし、角栄という人物は素晴らしかった。あんなおもしろい人はいなかった。私はかつて若い仲間と選挙権を18歳に下げようというキャンペーンをやった。選挙権を18歳に下げようという会合をやるために「自民党のホールを貸してくれ」と申し込みに行った。幹事長は田中角さん。角さんが「何に使うんだ」と言うから、「選挙権を18歳に下げるキャンペーン」と言ったら、「馬鹿なことを言うな。馬鹿なことを。何を馬鹿なことを言っているんだお前。選挙権は25歳でいいんだ。25歳で。頭冷やせ馬鹿」と言われて、私は後になってその通りだなと思った。成人式に親を連れてこなくちゃいけない連中が多い時代に18歳まで選挙権下げるのは間違いだ。絶対反対だ。25歳で十分だ。

 --ロッキード事件の背景に角福戦争があったのか。それともアメリカの謀略か。

 日本のエネルギー問題でウラニウムの取得というものをアメリカルートじゃなくて自分で開発しようと動きだした。これはアメリカの虎の尾を踏んだと思う。しかもロッキード裁判というのはめちゃくちゃな裁判だ。アメリカの刑法を日本に持ち込んできて、向こうでやった免責証言は日本の裁判で使われて、しかもそれに対する日本側の反対尋問を許さない。こんなでたらめな暗黒裁判はない。

 ロッキード裁判はめちゃくちゃな裁判

 --本当にやめるのか。やめるとしたら今後何をするのか

 何かやります。アラブや東南アジアの芸術家との交流をやろうと思う。内外の若い芸術家を育てる仕事をしていきたい。


尖閣の中国公船 私なら追っ払う

 --週刊誌で「シナと戦争して勝つこと」と発言。文学者としての発言なのか、政治家としての発言か。日本政府が尖閣諸島を国有化した後に海域の緊張が続いている。

 私が首相なら追っ払う。ある週刊誌のインタビューで「一番したいこと」を聞かれたので「シナと戦争して勝つこと」と。私は日本人として言った。

 --衝突が起きてもいいのか。

 衝突を仕掛けているのは中国だ。けんか仕掛けているのは向こうだ。日本の領海に入っているのはシナ人の方だ。頭を冷やした方がいいよ、シナの人は。

 --メディアには政治家をどう扱ってほしいか。

 お互い人間だから問われたことに対して簡潔に分かりやすく話したか話さなかったかはある。メディアも相手の言論に対する理解力が足りないと思う。

 --政界を引退したらヨットレースをするか。

 今でも暇な時は乗っている。今年の夏も2つほどレースで優勝した。来年もまだ生きてて元気だったらレースの試合をしたいと思う。

 --若い芸術家の育成以外にトライしてみたいことがあれば。

 新しくつくった財団で、アラブとか東南アジアとか、日本人と違った感性を持っている若い芸術家がいるから、そういう人たちに日本に来てもらい、刺激を受けて、新しい芸術を世界のために展開してもらいたい。その手伝いをできるだけするつもりだ。

 --政治生活で成し遂げたことは何か。心残りは何か。

 小さなことで都知事の立場でやれたことはいくつかあった。ただ、痛快だったのは日本の経済使節団が中国に行った。周恩来が「これからいかなる日本人も歓迎する」と言った。経済人が「青嵐会も歓迎するか」と聞いたら、周恩来が呵々大笑(かかたいしょう)して「私は彼らを非常に評価している。青嵐会の人たちは昔の日本人ですね」と発言したそうだ。心残りは憲法が一字も変わらなかったことだ。

 --都知事時代に東京五輪招致の道筋をつけた。

 都知事時代に招致運動で敗れはしたが、一回灯したたいまつだからもう一回火をつけようということで、在任中だったがもう一回チャレンジをすることを権限で決めた。皆が頑張って、世界の情勢もずいぶん変わったのだろうが、東京に決まったということで、たいまつの火を消さずにいてよかったなあと思っている。

 --憲法改正に対する国民へのメッセージは。

 もう一回前文だけでも読み直してもらいたい。あんな前文を持っている憲法は世界中にない。

 --今の心境は。

 いくつで死ぬか知らないが間もなく死ぬのだろう。死ぬまでは言いたいことを言って、やりたいことをやる。人から憎まれて死にたいと思う。

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