アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のヘミシンク体験とスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

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堪える悔し涙にたくましい将来を観た 濵口 遥大 投手(横浜DeNA)


 一昨々日の16日、テレビの野球観戦で少し心を動かされるシーンがありした。広島東洋カープ 対 横浜DeNAベイスターズ戦のこと、横浜の選手についてですので「大洋〜横浜」のカテゴリでも良いのですが、内容から「アスリート」といたしました。


◇ 試合展開

 簡単に昨日の試合を振り返りますと、広島先発はエース 野村、横浜はドラフト1位の新人 濵口でありました。4回まで、野村は横浜打線に3安打1四球を許すも要所を締める投球で無失点、濵口は持ち前の全力投球とチェンジアップが冴え渡り、無安打2四球で5三振を奪う好投でありました。試合が動いたのは5回表、横浜の攻撃、キャッチャー高城がエラーで出塁し、バントで二塁に送ったところで、9番ショートで出場の倉本のライト前ヒットで、横浜が1点を先制しました。

【濱口 4回までの投球】
   広 島   1 回 2 回 3 回 4 回
 (遊)田中広  四 球     四 球
 (二)菊 池  二ゴロ         三ゴロ
 (中) 丸   左 飛         左 飛
 (右)鈴 木  空三振         右 飛
 (左)エルド      空三振
 (一)新 井      空三振
 (三)ペニャ      空三振
 (捕)石 原          空三振
 (投)野 村          右邪飛

 その裏の広島の攻撃、大きな落とし穴が待っておりました。先頭のエルドレッドに対して濱口、力が入ったのか初球のチェンジアップが外に外れたところで3球続けて速球が上ずりストレートのファーボールとなりました。次の新井に対しては、チェンジアップ2球で空振りとボール、フォークで空振り、フォークがボール、チェンジアップもボールと、一転して変化球の連投に続いてストレートが外に外れて連続ファーボール。続くペーニャに対しては気を取り直して2ストライクナッシングと追い込みながら、2ボール2ストライクまで粘られ、7球目の高めのストレートをセンター前にこの日初めてのヒットを許してしまいました。あっという間にノーアウト満塁です。打順は下位打線、8番キャッチャー石原となって、1ボール1ストライクからチェンジアップが高めに浮いたところをレフトに犠牲フライ、同点に追いつかれました。でも、1アウトを取ってランナーは1, 2塁、バッターはピッチャーの野村ですから、なんとか同点止まりにできる期待はありました。
 ところが、ここからさらなる悪夢が待っておりました。当然のごとくバントの構えをするピッチャーの野村に対してストライクが入りません。ストレートのファーボールで再度の満塁、1アウトです。続く田中広輔にライト前に運ばれ勝ち越し、なおも満塁、続く菊池はレフト前ヒットでさらに追加点で満塁、3番丸には3ボール1ストライクからファーボール、押し出し、ここでノックアウトとなりました。

【濱口 5回の投球】
   広 島   5 回
 (遊)田中広  右 安
 (二)菊 池  左 安
 (中) 丸   四 球
 (右)鈴 木  
 (左)エルド  四 球
 (一)新 井  四 球
 (三)ペニャ  中 安
 (捕)石 原  左犠飛
 (投)野 村  四 球

 新人・若手投手が、リードをもらって勝ち投手の権利を得る5回にファーボールから自滅して、同点から投手まで歩かせてタイムリーと押し出し、よくあるシーン、取り立てて解説するまでもありませんが、ラミレス監督が投手交代を告げて、マウンドを降り、ベンチに戻って、タオルで顔を拭う濱口投手の姿に少し心を動かされた、とただそれだけの話です。


◇ 濵口 遥大 投手

 ごくごく、簡単にこの投手をご紹介いたします。

 1995年3月16日、佐賀県の生まれで、左投げ左打ち、佐賀県立三養基高等学校入学後より投手に専念し、3年春にはエースとして県のベスト8に貢献、夏の予選では全試合に完投(2完封)で27イニングで31三振、6失点の力投を見せるも甲子園出場は叶いませんでした。神奈川大学進学後、2年時には急速150 km/hをマークし、全日本大学野球選手権で2年時に準優勝、3年生の時にはベスト4にチームを導きました。
 2016年10月20日に行われた2016年のプロ野球ドラフト会議で、柳 裕也(明治大学)、佐々木千隼(桜美林大学)の抽選を外した横浜DeNAベイスターズから外れ1位で指名され、契約金9000万円、年俸1500万円(金額は推定)で入団、背番号は26です。

濱口投球フォーム00

濱口 投球フォーム01

濱口投球フォーム02

濱口投球フォーム03

 写真を何枚か供覧しましたが、力感溢れる力投型で急速150 km/hを超える速球と120 km/h台のチェンジアップがほぼ同じ極めて速い腕の振りで繰り出され、その他、カーブ、スライダー、フォークと多彩な変化球が荒れ球気味に投球される、そんな投手であります。


◇ ノックアウトのシーン

 上述の試合で広島の丸選手に押し出しのファーボールを出して降板、ノックアウトとなるシーンの動画を供覧します。なんてことのないよく観るシーンのようですが、心に伝わるものがありました。

濱口投手がノックアウトで降板するシーン

濱口 涙01

濱口 涙02

濱口 涙03


◇ あとがき

 ある時、悔し涙を見せるある選手を見て、テレビ解説をしていた、元横浜、大魔神こと、佐々木主浩 氏が、「嬉し泣きするやつは大成しないけど悔し泣きする選手は有望です」と言ってました。彼が誰のことを言っているのか、その時すぐにピンと来ましたが、それはいいとして、私も同じ感覚でいます。加えて、ただ涙を見せれば良いと言うものではなく、己の弱みを見せたくない、とする姿勢にもさらに期待感を持ちます。
 先発投手として4回1/3ノックアウトとなった濱口 投手が、潤む眼から涙をこぼすことなく、顔を拭く動作でそれを抑えるその姿に、心からの悔しさと、でも人前で涙は流すまいとする負けず嫌いが感じられ、我がベイスターズの選手として贔屓目ながら、このアスリートの将来に大きく期待するものであります。

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【速報】 フィギュアスケート 浅田 真央 さん 引退!


◇ 引退表明のブログ

 本日の浅田 真央 さんのブログの文章です。

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 「突然ですが、私、浅田真央は、フィギュアスケート選手として終える決断を致しました。今まで、長くスケートが出来たのも、たくさんの事を乗り越えてこれたのも、多くの方からの支えや応援があったからだと思います。ソチオリンピックシーズンの世界選手権は最高の演技と結果で終える事ができました。その時に選手生活を終えていたら、今も選手として復帰することを望んでいたかもしれません。実際に選手としてやってみなければ分からない事もたくさんありました。復帰してからは、自分が望む演技や結果を出す事が出来ず、悩む事が多くなりました。そして、去年の全日本選手権を終えた後、それまでの自分を支えてきた目標が消え、選手として続ける自分の気力もなくなりました。このような決断になりましたが、私のフィギュアスケート人生に悔いはありません。これは、自分にとって大きな決断でしたが、人生の中の1つの通過点だと思っています。この先も新たな夢や目標を見つけて、笑顔を忘れずに、前進していきたいと思っています。皆様、今までたくさんの応援、本当にありがとうございました」

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◇ 引退の記者会見

浅田真央 引退会見

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浅田真央選手からのあいさつ

司会:お待たせいたしました。ただ今より浅田真央現役引退記者会見を始めさせていただきます。本日は直前の案内にもかかわらず、多くのメディアの方々にお越しいただき、本当にありがとうございます。すでに本人が自分のブログで発表されておりますが、本日は、本人の口から皆さまにあらためまして引退の報告をすると同時に、引退の決断に至った経緯や今後の活動予定等に関しても、皆さまから時間の許す限り質問をお受けしたいと思っております。では、浅田真央さんにご登壇いただきたいと思います。浅田さん、お願いします。

浅田:皆さん、こんにちは。浅田真央です。本日はお忙しい中、このような場にお集まりいただき、本当にありがとうございます。2日前にホームページで発表しましたが、またあらためてご報告いたします。私、浅田真央は、選手生活終える決断をいたしました。長い選手生活だったんですけど、たくさん山がありました。でも、そのたくさんの山を乗り越えられたのも支えてくださった方々や、たくさんのファンの方々の応援があったからだと思っています。今日は感謝の気持ちを皆さんにお伝えできればと思い、このような場を設けさせていただきました。本日はよろしくお願いいたします。

司会:ありがとうございます。ご着席ください。それでは、これより皆さま方からの質問をお受けいたします。係の者がマイクをお持ちしますので、ご質問のある方は挙手をお願いします。なお、ご質問の際、会社名とお名前をおっしゃっていただきたいと思います。このあと囲み取材、個別等の取材はありませんので、ご質問のある方はこの時間内でお願いいたします。それでは最初に分科会を代表いたしまして、フジテレビさまにご質問をお願いいたします。フジテレビさん、お願いします。


親しい人への報告はどのようにされたのか?

フジテレビ:はい。代表質問、幹事社フジテレビ西岡です。よろしくお願いします。

浅田:よろしくお願いします。

フジテレビ:まずはお疲れさまでした。

浅田:ありがとうございます。

フジテレビ:2日前、ブログで引退を発表されて、あらためて今、どんな心境でしょうか。

浅田:いや、まず本当に今日、この場に立ったときに、入ってきたときに、本当にこれだけのたくさんの方がいらしてくださっていたので、私自身ちょっとびっくりしたんですけど、今ちょっと落ち着いています。

フジテレビ:いろんな人から引退のあとに言葉を掛けられたと思います。何か印象に残った言葉というのはありましたか。

浅田:そうですね。発表してからは本当にたくさんの方が連絡をくださったんですけど、皆さん、本当にお疲れさまっていう言葉を掛けてくださったので、私自身も、ああ、なんか、選手生活終わるんだなっていう気持ちになりました。

フジテレビ:親しい人への報告というのは、どのような形でされましたか。

浅田:そうですね。少し前ですけど、家族だったり友達に報告しました。

フジテレビ:何か印象に残る言葉とかありましたか。

浅田:いやもうみんな、お疲れさまって、よく頑張ったねって言ってくれました。

フジテレビ:引退を決めたきっかけについて伺います。具体的にどのぐらいの時期から引退ということを考えたのでしょうか。

浅田:そうですね。私は復帰してからいい形でスタートできたんですけど、やはりそこから練習をするにつれて、試合に出るにつれて、やっぱり今のスケート界の時代はすごいので、私自身も付いていけるのかなっていう思いが強くなったり、あとはやっぱり気持ちであったり体の部分で、やっぱり復帰前よりも少しつらいことのほうが多くなりました。で、なんとか1シーズンは乗り切れたんですけど、2シーズン目からは、なんとかなんとか頑張ろうっていう思いだけでやってきました。でも、やっぱり最後の全日本選手権で、あ、もう、なんだろう。もういいんじゃないかなっていうふうに思いました。

フジテレビ:その全日本選手権から今まで3カ月近くありましたけれども、その間はどんな思いだったんですか。迷いも含めていかがですか。

浅田:そうですね。やはり自分が復帰してから、ずっと掲げてきた、やっぱり平昌オリンピックに出るっていう目標があったので、私自身、すごくそこで自分で言ってしまったこと、自分が目標をやり遂げなきゃいけないと思っていたので、その自分の言ってしまったこととの葛藤はずっとありました。


引退は具体的にいつ決めたのか?

フジテレビ:全日本選手権がきっかけになったということですけれども、具体的には、時期的にはいつごろ決心したんでしょうか。

浅田:本当に全日本終わって全て結果が出たときに、ああ、もう終わったんだなっていうふうには思いました。でも日がたつにつれて、やっぱり自分が言ってしまったことっていうのは、やっぱり今まで最後までやり通してきたので、やらなきゃいけないんじゃないかなっていう思いのほうが強くて、やはりここまで延びてしまいました。

フジテレビ:平昌オリンピックへの思いもあったと思いますが、それを上回るぐらいの達成感があったということでしょうか。

浅田:そうですね。私はソチオリンピックが終わってから、最高の形で終えることができたんですけど、やはり自分の体もまだまだできますし、自分の気持ちとしてもまだまだやれるという思いがあったので復帰しました。でも、自分が実際挑戦してみて、もう気持ちも体も、自分の気力ももう全部出し切ったので、今は挑戦して何も悔いはないです。

フジテレビ:最後の大会になった全日本選手権でトリプルアクセルに挑みましたよね。その全日本選手権の最後、挑んだ気持ちも含めて振り返っていかがですか。

浅田:そうですね。最後になるのかなという気持ちは、ソチオリンピックの世界選手権ほどではなかったですけど、でも、最後トリプルアクセルを挑戦して終えれたことは、自分らしかったかなというふうには思います。

フジテレビ:それでは現役生活を振り返っていただきます。初めてスケート靴を履いた日のことって覚えてらっしゃいますか。

浅田:私は覚えてないんですけど、5歳だったので。でも、ヘルメットをかぶってスキーウエアを着て、肘当て膝当てをしてたのは写真に残っているので、覚えています。

フジテレビ:どうですか、それから二十数年間、スケートやってきて一番楽しかったことってどういうことでしたか。

浅田:やっぱり小さいころにフィギュアスケートっていくつも技があると思うんですけど、その技ができるようになったときっていうのは本当に楽しい気持ちで、じゃあ次、2回転飛びたい、次、3回転飛びたいっていう、そういう思いがすごく楽しかったですね。

フジテレビ:逆にプレッシャーも背負って、つらかったこともあると思いますけれども、つらかった部分っていうのは今、どう受け止めていますか。

浅田:いや、つらかったことはそんなになくて、やっぱりこの道を選んできたのも自分ですし、自分がやりたいって思って望んでやってきた道なので、つらいと思ったことはありません。


オリンピックを振り返って

フジテレビ:2回のオリンピックを振り返っていただきます。まずはバンクーバーオリンピックでは銀メダルを手にしました。まずはバンクーバーの思い出、今、振り返っていかがですか。

浅田:はい。バンクーバーは19歳だったんですけど、すごく10代で、若くて、本当に気が強くて、本当にその強い気持ちだけで乗り越えてきたなという感じがします。

フジテレビ:そして4年後のソチオリンピックでは素晴らしいフリーで国民に感動を与えてくれました。ソチオリンピックを振り返って、今、どんな思いでいらっしゃいますか。

浅田:ソチオリンピックは、やはりショートが残念な結果だったので、本当に気持ち的にはすごくつらい試合ではあったんですけど、フリーでああいう形で最高の演技で終えることができて、あの気持ちの状態からバンクーバーからソチのその4年間の思いを全て4分間に注ぎ込めたと思っています。

フジテレビ:二度のオリンピック経験というのは、浅田さんにとってどんな経験になりましたか。

浅田:私の今後の人生においてもすごくいい経験だったり、いい思い出だったのかなというふうに思います。

フジテレビ:そして3回の世界選手権優勝、これは日本人最多です。印象に残っている大会、ことっていうのは何かありますか。

浅田:はい、そうですね。2回世界選手権で金メダル取ったときは、全てオリンピックのあとの世界選手権だったので、なんか、オリンピックの悔しさっていうのをその世界選手権で晴らせた大会だったかなというふうには思うんですけど、私、最後の世界選手権は一応、自分の気持ちの中では最後と思って望んだ試合だったので、すごく、今までのスケート人生を全てそのプログラムにぶつけた試合だったので、やっぱり最後の世界選手権が、一番思い入れは強い試合でした。

フジテレビ:現役生活を振り返っていただいてどうでしょうか。最も印象に残っている演技、今、1つ選べと言われたらどれになりますか。

浅田:難しいですね、やっぱり。1つっていうのは難しくて、うーん。でもやっぱり、ソチのフリーかなというふうには思います。

フジテレビ:やっぱりあの時間に込めた思いというのは大きかったですか。

浅田:そうですね、やはり気持ちがすごい、今までの試合以上にちょっと落ち込んでたり、つらかったりした部分もあったんですけど、それでもあれだけの、挽回の演技ができたことに関してすごく、そしてそれがオリンピックだったっていうことが一番良かったのかなというふうに思いますけど。


長く指導を受けた2人のコーチについて

フジテレビ:長く指導を受けた2人のコーチについて伺いたいと思います。まずは、山田コーチにご報告もされたと思いますけど、どんな思いがありますか。

浅田:はい。満知子先生は小さいころに指導を受けてたんですけど、本当にスケートの楽しさだったり、挑戦する楽しさを教えてくれました。その一方でスケートだけではなく、いろんなことを教えてくれた先生です。

フジテレビ:そして佐藤コーチ、佐藤コーチへの思いはいかがでしょうか。

浅田:佐藤コーチは大人になってから指導を受けたんですけど、やはり自分の意思もすごく強いほうというか強いので、先生といろいろ話し合いをしたりする機会も多かったんですけど、自分の意見もしっかり聞いてくださって、それを静かに見守っていてくれていた先生でした。

フジテレビ:特に休業があってから、戻ってきてからの2シーズン間は佐藤コーチとのやり取りもいろいろあったと思います。振り返ってみてこの2年間の意味、復帰してからの意味というのはご自分の中でどう捉えていますか。

浅田:意味。そうですね。ソチオリンピックのシーズンで世界選手権を終えて、自分が選手を終えていたら、本当に今もまだできたんじゃないかなっていうふうに思っていたと思います。でも、自分が望んで復帰をしてチャレンジして出した結果なので、本当に今は何もやり残したことはないので、そういった意味で、もう一度自分でチャレンジすることができて良かったなというふうに思っています。

フジテレビ:それでは今後のことについて伺います。まずは今後、浅田さんがどんな仕事をしていくのか注目されると思うんですが、まずは自分の中でどんなプランがありますか。

浅田:はい。まず本当にもうすぐ夏にあるのがTHE ICEのアイスショーなので、そこでまた選手生活を終えて初めて皆さんの前で滑るので、いい演技を目指して頑張りたいなというふうに思っています。

フジテレビ:フィギュアスケートにどういう形で携わっていくんだろうとわれわれは考えるんですけれども、その辺りはいかがですか。

浅田:やはり私は5歳からスケートを始めて、今までスケートにお世話になりました。なので、これからどんな形であっても、フィギュアスケートに恩返しができるような活動はしていきたいなというふうに思っています。

フジテレビ:具体的なプランはこれからという感じですかね。

浅田:そうですね、はい。


実際に引退の日を迎えて、イメージ通りだったのか?

司会:ありがとうございました。それでは、これから皆さまのご質問を受けたいと思います。質問のある方は挙手願います。

日本テレビ:日本テレビのラルフ鈴木と申します。選手生活、本当にお疲れさまでした。

浅田:ありがとうございます。

日本テレビ:少しどうですか、今、緊張というか、先ほどちょっと喉を潤してましたけど。

浅田:すごいもう、熱気も結構すごいですし、たくさんしゃべるんで喉、渇いちゃいました。

日本テレビ:良ければどうぞ、一口、大丈夫ですか。

浅田:今、はい、飲みました。

日本テレビ:大丈夫ですか。アスリートならば誰もが迎えるこの引退という日なんですけれども、どうでしょう、自分が思い描いていたイメージしていた形と、今、実際この日を迎えられていかがでしょうか。

浅田:いや、本当に発表するまであまり自分の中ですごい実感というのはなかったんですけど、またこうしてあらためてここに座って、今までのことを振り返りながら話していると少しずつ、ああ、引退するんだなという気持ちは、やっぱり湧いてきますね。

日本テレビ:気持ち的には寂しいのか、少しほっとしているのか、あるいはすがすがしいのか、いかがでしょう。

浅田:本当に気持ちは、すごく晴れやかな気持ちです。

日本テレビ:これからスケート靴をあまり履かない生活、リンクから離れて少し暖かい生活が待っていますけれども、その辺りいかがでしょうか。

浅田:そうですね。私は1月から3月までは、今、4月。1月から4月まではスケート靴を持たず、滑らずにずっといました。でも7月にショーがあるので、もう滑り始めます。

日本テレビ:最後に1つだけ、今すがすがしいという気持ちがありましたけれども、何か1つ現役生活でやり残したこと、何か悔やむことっていうのはありますでしょうか。

浅田:本当に決断をするに当たって、本当にたくさん悩みました。でも、そういったやり残したことはなんだろうって思うことがなかったので、それだけ本当に自分は全てやり尽くしたんじゃないかなっていうふうに思います。

日本テレビ:ありがとうございました。

浅田:ありがとうございました。

司会:はい、ほかにございませんでしょうか。じゃあ、女性の方。


トリプルアクセルとはどんなものだったか?

テレビ朝日:テレビ朝日の小川と申します。本当にお疲れさまでした。そしてありがとうございましたとまずはお伝えしたいです。

浅田:ありがとうございます。

テレビ朝日:今日は白いブラウスに白いジャケットというお召し物ですけれども、その真白のお洋服というのに込められた思いというのはあるんですか。

浅田:はい、そうですね。黒のスーツか白、どちらにしようかいろいろ悩んだんですけど、でも自分の気持ちとしては本当に晴れやかな気持ちなので、この服を今、着ています。

テレビ朝日:すがすがしい思いというのが伝わってくるようでもありますけれども、これまでの真央さんの競技人生の中で、何度も出てきた言葉というのがノーミスだったと思うんですが、ここまで完璧、パーフェクトというのにこだわり続けたのは、どういう思いがあるんですか。

浅田:やっぱり失敗はしたくないですし、これだけ試合に向けて練習してきてるからこそ、やっぱり誰もがミスしたくないと思うと思うんですけど、自分はでも、試合にそんな強いタイプではなかったので、あえて自分で言っていたんじゃないかなというふうにも思っています。

テレビ朝日:それからもう1つ、やはり真央さんといえばトリプルアクセルだと思いますが、このトリプルアクセルというのは真央さんにとってどんなものでしたか。

浅田:私は伊藤みどりさんのようなトリプルアクセルが飛びたいと思って、ずっとその夢を追ってやっぱりやってきたので、本当に飛べたときはすごくうれしかったですし、自分の強さでもあったとは思うんですけど、その反面、やっぱり悩まされることも多かったです。

テレビ朝日:もう1つだけ。真央さんは5歳のときにスケートを始められましたけれども、今、もしタイムスリップして5歳のときの自分に会うことができたら、どんな言葉を掛けますか。

浅田:難しいな。そうですね。頑張ってって、はい。

テレビ朝日:頑張ってって。

浅田:はい。

テレビ朝日:どういう思いを込めて、それは。

浅田:やっぱり私は、これだけフィギュアスケートをやってて、やっぱりたくさんの方に応援してもらえて、本当に幸せだなというふうに思いました。なので、大変なこともあったんですけど、自分に対してエールをたぶん送ると思います。

テレビ朝日:どうもありがとうございます。

司会:はい。ほかにございませんでしょうか。じゃあそちらの。


日本や世界の子供たちへのアドバイスは?

朝日新聞:朝日新聞のゴトウです。どうもお疲れさまです。

浅田:ありがとうございます。

朝日新聞:以前、浅田選手が子供さんたちと接してる様子っていうのが、すごく印象に残ってるんですけれども、浅田選手の経験から日本、世界の子供たちに何かアドバイスというか、声を掛けられることがあるとしたら、どんなことでしょうか。

浅田:そうですね。私は本当にちっちゃいころから本当にスケートが大好きで、ただただスケートが大好きでやってきました。なので、今から始める子だったり、今、頑張ってる子には、やっぱりスケートを大好きな気持ちを忘れないでねって言いたいかなというふうに思います。

朝日新聞:何か子供さんと関わる活動をやったり。

浅田:そうですね。私は本当に子供が大好きなので以前にもスケート教室とかはやっていたんですけど、また機会があれば、ぜひやりたいなというふうに思っています。

司会:はい。ありがとうございました。じゃあ、そちらの紺のスーツの。


続けて来られた、その支えとなったものは?

NHK:NHKニュース7の高井と申します。浅田さん、お疲れさまでした。

浅田:ありがとうございます。

NHK:浅田さんに伺いたいのは、やはりトリプルアクセルのお話なんですけれども、先ほど自分の強さでもあり、悩まされる存在でもあったということなんですが、あえてトリプルアクセルに声を掛けられるとしたら、どんな言葉を掛けたいですか。

浅田:難しい(笑)。トリプルアクセルに声を掛けたい。トリプルアクセルに声を掛けるんですよね。どうしよう。

NHK:そういう存在だとして。

浅田:存在だとして。

NHK:もう、困っちゃったよっていう感じなのか、それともありがとうっていう感じなのか、どういう感じでしょう。

浅田:いや、うーん。なんでもっと簡単に跳ばせてくれないのって感じです(笑)。

NHK:もう1つ。先ほど、よくここまで続けてこられたとご自身に声を掛けたいという話がありましたが、その続けてこられた、その支えとなったものはなんだったんでしょうか。

浅田:1つはやっぱり自分の目標ですね。それだけではないですけど、たくさんの方に支えられて、そしてたくさんの方の応援があったからだと思っています。

NHK:1つは応援。

浅田:はい?

NHK:ほかにもありますか。

浅田:あ、今、思い付くのは、そんな感じですね。

NHK:ありがとうございます。

司会:ありがとうございます。じゃあ、そちらの黒い。お願いします。


世界選手権で五輪の枠が3から2になったことをどう受け止めているのか?

共同通信:共同通信のヨシダと申します。引退の決断まで時間がかかったかと思うんですけど、まず今年の世界選手権で五輪の枠が3から2になることが決まりましたけど、それをどう受け止めていらっしゃったかというのと、それが何か引退の決断に影響したのかどうか。そこら辺、お伺いできますでしょうか。

浅田:はい。そうですね。私はさっき自分で言ってた平昌オリンピックに出る、その目標をやめてしまう自分が許せるのかな、許せないのかなって思いながらずっと過ごしてきて。でも、最終的に最後、話し合いをして決めたのが2月だったので、世界選手権が影響したというわけではなくて、自分自身が最後、決めることですし、そんな感じで、はい。決めました。で、2枠になってしまったことに関しては、残念なことではあるとは思うんですけど、やはりその2枠を、やっぱり大勢の、たくさんの選手の子たちが争うわけなので、本当にハイレベルな試合になるんじゃないかなと思っています。

司会:はい。よろしいでしょうか。

共同通信:すいません。もう1点だけよろしいですか。すいません。

司会:はい。お願いします。

共同通信:2月に決断して、この4月に発表になったっていうのは、その2カ月間ぐらいっていうのは、どういう流れっていうか思いがあったんでしょうか。

浅田:そうですね。いろいろと自分の気持ちの準備だったりもあり、今日に至りました。

司会:はい。よろしいでしょうか。じゃあそちら、一番後ろのグレーの方。女性で。

決断を後押し、心を軽くしてくれたのは誰?

TBS:TBSの宇内と申します。本当にたくさんの感動をありがとうございました。

浅田:ありがとうございます。

TBS:引退を決意するまでに、本当に目標を掲げたのに、ここでやめていいのかなと悩んでいたとおっしゃっていましたけれども、この全日本選手権が終わってからの3カ月間、いったいどなたかが一番その決断を後押ししてくれたのか、心を軽くしてくれたのか、教えてください。

浅田:家族だったり、お友達だったり、知ってる方に相談はしました。本当に皆さん、それぞれいろんなアドバイスはくれたんですけど、最終的に決めたのは自分自身なので。その中でも旅行に行ったり、いろいろ今まで行けなかったところに行ったりして、その中でも考えながら、ずっと日々を過ごしてきて決断をしました。

TBS:最終的にはご自身の中で決断できたということなんですね。

浅田:はい。

TBS:21年間という非常に長い競技人生。本当に続けてくること自体が大変だったと思うんですけれども、何か、どなたかに掛けられた一番印象に残ってる言葉であったり、ご自身が一番大切にしてる言葉、何かありましたら教えてください。

浅田:そうですね。でも本当に、この決断をしてからは本当にたくさんの方に温かい言葉を、メッセージを贈ってくださったので、私自身、本当に晴れやかな気持ちで今、この場にいます。なので、やっぱり感謝という気持ちは、これからも忘れずに進んでいきたいなというふうに思っています。

TBS:はい。ありがとうございます。

司会:ありがとうございます。黒の女性の。


これからの日本スケート界にどう貢献していきたいか?

日本経済新聞:日経新聞のハラですけれども、浅田選手が試合に出始めた21世紀の初めのころって言ったら変ですけども、こうやって今、こんな多くの人が来て、ショーも行われてたくさんの人がフィギュアという競技に興味を持つようになってきたと思うんですけれども、こうやってスケートが日本でブームになって、世界でも強い国になったっていうことに、浅田さんとして自分はどういうふうに貢献っていうか、力になったのかなと思うかっていうことと、やっぱり自分がやった、〓こうして00:37:06〓きたことがこれからも日本のスケート界で続くために、どういうふうにしていきたいなとかいうことを教えてください。

浅田:私がちっちゃいころっていうのは、伊藤みどり選手をはじめ本当にたくさんのトップの素晴らしいスケーターがいました。私はそのスケーターの方々を見て、私もこうなりたいと思って、ずっとそれを目指してやってきました。そしてジュニアだったりシニアに上がってからは本当にスケーター、みんなそれぞれ強くて魅力のある選手ばっかりが集まって、それぞれがいい刺激をし合いながら切磋琢磨して頑張ってきました。そしてそれを応援してくださるメディアの方だったり、ファンの方だったりがいたから、やはりここまでフィギュアスケートもたくさん注目されるスポーツになったんじゃないかなというふうに思っています。なので、これからのスケーターの子たちには、みんなでそれぞれ高め合って、刺激をし合いながら頑張っていってほしいなというふうに思っています。

司会:よろしいですか。はい。


ソチのショートからフリーまでの間、立ち直るきっかけとなったのは?

ニコニコ動画:ニコニコ動画の七尾の申します。お疲れさまでした。そしてどうもありがとうございました。

浅田:ありがとうございます。

ニコニコ動画:選手人生におきまして、たくさんの山があったと、冒頭おっしゃいました。あの伝説のソチ大会についてお伺いしたいんですけれども、ショートプログラムから二十数時間の間に、どのようなきっかけで立ち直って、世界中が感動したフリーの演技につなげることができたのか。各種報道はあるんですけれども、立ち直ることができたきっかけにつきまして、あらためてお聞かせください。

浅田:はい。ショートが終わってからは、本当に、ああ、日本に帰れないと思って、すごくつらい思いもしたんですけど。そのフリーの当日の朝もまだ気持ちが切り替わっていなくて、このままで大丈夫なのかなという形で練習、公式練習を終えました。でも、試合が近づくにつれて、メイクをして、アップをしてリンクのドアを出た瞬間に、なんか、すごい会場で、じゃあこれはもうやるしかないなっていう思いが出てきて、ようやくそのときに、やるしかないって思いました。

ニコニコ動画:競技は終わった瞬間はどうでしたか。満面の笑みだったんですけれども、どういう気持ちだったんですか。

浅田:最後のポーズ、上を向いてたんですけど、終わったって思いましたね。それと同時にやっぱり良かったって思いはすごく込み上げてきて、ちょっと涙してしまったんですけど。バンクーバーのときにも悔し涙を流していたので、ああ、泣いてちゃ駄目だなって思って、頑張って笑顔にしました。

ニコニコ動画:ありがとうございました。

浅田:はい。

司会:はい、ありがとうございます。じゃあそちらの女性の方、はい。


違う世界に進むにあたって考えていることなどについて

ワールド・フィギュアスケート:新書館の『ワールド・フィギュアスケート』のスズキです。お疲れさまでした。

浅田:ありがとうございます。

ワールド・フィギュアスケート:今日はある意味、浅田選手の競技選手としての卒業式かと思うんですけれども、と同時に新しい道に進む入社式といいますか、セレモニーかと思うんですが、あえて今の時期は新入社員の方も多い時期なんだと思うんですけれども、そういう1人として、浅田選手がこれから不安に思ってることとか、心配なこととか、何かそういう違う世界に進むということで考えていることがありましたら教えてください。

浅田:私が。私も本当に、また新たな一歩だと思っています。でも不安とかは何もなくて、ただただ前にある道を進んでいくだけだと思っているので、これからも新たな経験をして、元気に前を向いて進んでいきたいなというふうに思っています。

ワールド・フィギュアスケート:あともう1つ。プルシェンコ選手も先日、競技引退を発表しましたけれども、長く同じ競技の世界で戦ってきた仲間として、この偶然といいますか、そういう時期とか何か思うことはありますか。

浅田:プルシェンコ選手も引退されたということで、本当に私よりも長い選手生活、そして本当にたくさんの記録を残してきて、本当にたくさんの人を魅了してきた選手だと思います。なので、心からお疲れさまでしたと言いたいです。

ワールド・フィギュアスケート:ありがとうございました。

司会:はい、よろしいでしょうか。じゃあそちらの白いドレスの人、はい。


前を向く中で大事にしてきたこと、信念というのはどんなこと?

フジテレビ:フジテレビ、内田嶺衣奈です。本当にお疲れさまでした。

浅田:ありがとうございます。

フジテレビ:ありがとうございました。浅田真央さんの前を向く姿、いつも戦い続ける姿というのが本当に印象的だったんですが、前を向く中で大事にしてきたこと、信念というのはどんなことですか。

浅田:本当にちっちゃいころからこれは変わらないんですけど、1日1日もそうですけど、何かこれがしたいっていう目標を持ってずっとやってきました。なので、その目標を達成するっていう強い気持ちを持ってずっとやってきたつもりです。

フジテレビ:今、すごく忙しかった選手生活を終えて時間が少しできたとは思うんですが、一番やりたいこと、どんなことですか。

浅田:はい、私、1月2月3月と時間があったので、旅行に行ったり、おいしいものを食べたりすることができました。

フジテレビ:ありがとうございます。

司会:はい、よろしいでしょうか。じゃあそちらの、ボーダーのシャツの。


キム・ヨナ選手への思い

新聞赤旗:すいません、新聞の赤旗のカツマタといいます。お疲れさまです。

浅田:ありがとうございます。

新聞赤旗:先ほど競い合うこと、その大切さ、若手におっしゃってました。ご自身もキム・ヨナ選手とも競い合ってきました。その彼女への思いっていうのは、あらためて今の時点でいかがでしょうか。

浅田:はい。私たちは15歳、16歳ぐらいから一緒にジュニアの試合であったり、シニアの試合だったり、一緒に試合に出てきました。本当にお互いにいい刺激を与えながら、もらいながら、ずっとスケート界を盛り上げてきたんじゃないかなというふうには思っています。

しんぶん赤旗:ありがとうございます。


全日本に向けてどんな気持ちで臨み、滑り終わった後、何がもういいんじゃないかなと思ったのか?

司会:はい、よろしいでしょうか。じゃあそちらで、はい。スーツ着てる、黒いスーツ。

NHK:NHKの一橋と申します。浅田さん、お疲れさまでした。

浅田:ありがとうございました。

NHK:まず最後の全日本選手権、滑ったときに、もういいんじゃないかなと思ったとおっしゃっていましたけれども、あの全日本に向けてはどんな気持ちで臨んで、そして滑り終わって、何がもういいんじゃないかなと思えたんでしょうか。

浅田:試合に向かう気持ちというのは、1つ1つの試合変わらないんですけど、常にノーミス、さっきも自分で言ったんですけど、ノーミスをする、完璧な演技をする、そして自信を持って滑るっていうのを考えていました。で、演技が終わったときに、やはり完璧ではなかったですし、自分の現役生活の最高の演技ではなかったので、少したぶん悔しい気持ちもあったんじゃないかなというふうには思うんですけども、そのあとキス・アンド・クライに座って、得点が出て、順位が出たときに、あ、うん、もういいのかもしれないっていうふうに思いました。

NHK:もういいのかもしれないというのは、どういうことですか。

浅田:やはり全日本選手権を今まで12歳から出場しているんですけど、一番、残念な結果で終わってしまって、その結果も1つ大きな、この決断に至るに当たって大きな出来事だったんじゃないかなというふうには思っています。

NHK:あともう1つ。もしも一度だけ過去に戻れるとしたら、いつの自分にどんな言葉を掛けてあげたい、アドバイスができるとしたら、いつに戻ってどういうことを言ってあげたいですか。

浅田:いや、26年間ですもんね。ああ、難しい(笑)。いや、でも本当に戻ることはないと思うので、あんまり今、ぱって答えは出てこないですね。

NHK:ありがとうございます。

司会:じゃあちょっと遠いですけども、一番後ろの方ですね。女性の方で。

今、オリンピックについてどう思うか

テレビ東京:テレビ東京の鷲見と申します。21年間、本当にお疲れさまでした。

浅田:ありがとうございました。

テレビ東京:平昌までやりたいというふうにおっしゃっていたことが引退を悩ませていたという話をされていましたけれども、今、オリンピックについて、どういうふうに思われますか。

浅田:はい。もう本当に、あと1年でソチの、ソチじゃない。あと1年で平昌オリンピックということで、たぶん選手の方々は、みんなそれぞれいろんな思いを持って今、日々、生活してると思います。なので、私はエールを送りたいです。

テレビ東京:これまでオリンピックの舞台も経験されていますが、真央さんにとってオリンピックの舞台というのは、どういう場所だったでしょうか。

浅田:やはり4年に一度ですし、選手である以上は、それを目指して私もちっちゃいころからやってきたので、そこに出れた。そしてメダルを取れたということは本当に良かったなと思いますし、オリンピックは本当に素晴らしい舞台だなというふうに思います。

テレビ東京:最後に1つだけ。もし生まれ変わるとしたら、もう一度フィギュアスケーターになりたいですか。それともまた別のものになりたいですか。

浅田:今、こうして26歳までスケートをやって、全てやりきって、もう何も悔いはないので、もしもう一度人生があるなら、スケートの道は行かないと思います。

テレビ東京:例えば何になりたいなっていうのはありますか。

浅田:いや、本当にいろいろありますね、やっぱり。なんだろう。

テレビ東京:思い浮かぶものは、なんでしょう。

浅田:なんだろう。私、でも食べることが大好きなので、ケーキ屋さんとかカフェとか、そういうレストランだったり、そういうのをやっていたのかなというふうにも思ったりもします。

テレビ東京:ありがとうございます。

司会:ありがとうございます。まだまだちょっと尽きませんが、あと2つにさせていただきたいと思います。じゃあそちら。前の男性の方。

有言実行のポリシーは誰から授かった教えなのか

文化放送:文化放送の斉藤と申します。どうもお疲れさまでした。

浅田:ありがとうございました。

文化放送:真央さんは、自分が言ったことは必ずやり遂げるというポリシーがあるとおっしゃっていました。このポリシーは、どなたから授かった教えなのでしょうか。教えてください。

浅田:やはり母かなというふうに思います。あとはこういう性格なので、すごく、頑固っていうんですかね。普段はそんなことないんですけど、自分が決めたことに関しては、一応、頑固なつもりです。

文化放送:その自分の言ったことを必ずやり遂げるというポリシーを貫いた最初の体験。いつだったか覚えてらっしゃいますか。

浅田:しっかり覚えてるのは小さいころに、毎年、野辺山合宿という新人発掘合宿が長野県であるんですけど、そこで絶対トリプルアクセルを跳ぶって決めて、合宿に行って、初めて〓下りた 00:52:14〓のが一番、記憶にあります。

文化放送:そこが現在の浅田真央という素晴らしいアスリートの原点と考えてよろしいのでしょうか。

浅田:そう、え、自分で言うのもちょっとあれですけど、そのときに目標を達成すると、こんなにうれしいんだなって、また頑張りたいなって思えたときでした。

文化放送:分かりました。ありがとうございました。

浅田:はい。ありがとうございました。


結婚の予定は?

司会:じゃあ最後にしたいと思います。最後に本人を送り出せるような質問をしてもらえる方、いらっしゃいますか。じゃあ、そこの真ん中で手を挙げられてる方。

サカイ:フリーランスのサカイユウトと申します。よろしくお願いします。

浅田:よろしくお願いします。

サカイ:浅田真央さんにお聞きしたいんですけど、ご結婚のご予定はありますか。

浅田:いや(笑)。ご結婚のご予定ですか。

サカイ:はい。

浅田:ないです。

サカイ:分かりました。ありがとうございます。

浅田:(笑)

司会:よろしいですか。はい。じゃあ最後にもう1つにしてください(笑)。送り出してもらえると、はい、どうぞ。

浅田:でも、お相手がいれば、その方と一緒に帰れたんですけどね。


台湾人との結婚や台湾に旅行に行く予定はあるのか?

中央通訊社:台湾の中央通訊社の記者です。お相手がいれば、例えば愛ちゃん。

浅田:あー、愛ちゃん。

中央通訊社:愛ちゃんみたいに台湾の人と結婚なさったりとか、そういうこと可能でしょうか。あと、ずっと寒いリンクにいらっしゃったので、暖かいところ、例えば台湾でのんびりしたりとかそういうことはあるんでしょうか、はい。

浅田:そうですね、私、愛ちゃんとお友達なので、もし台湾の方でいい方がいればご紹介してもらいたいなというふうに思います。で、私、本当に1つ行ってみたい国が台湾なので、うん、愛ちゃんに案内してもらいます。

司会:ありがとうございます。最後は台湾の話になっちゃいました。

浅田:(笑)。

司会:じゃあもう1ついきましょうか。はい。

複数:(笑)。

司会:誰か締めてください。いきます、自信のある方。質問に自信のある方。はい。じゃあ、はい、手前の女性の方。手前の、はい。


今後、プロスケーターとしてどのようなスケートを見せていきたいか?

フィギュアスケートLife:扶桑社のフィギュアスケートLifeのハセガワです。お疲れさまでした。

浅田:ありがとうございました。

フィギュアスケートLife:今後、THE ICEを含めて、プロスケーターとしても活躍されていくご予定だと思いますが、プロスケーターとしてどういうスケートを今後、見せていきたいと思いますか。

浅田:一番近くにあるのはTHE ICEなので、まだプログラムも作ってないんですけど、エキシビジョンナンバーを作ります。そのエキシビジョンナンバーで、今までのスケート人生全てをそのプログラムに注ぎ込めるように、そういうプログラムを作っていきたいと思います。

司会:よろしいですか、ありがとうございます。では、以上で本日の会見を終了させていただきたいと思います。最後に、浅田真央のほうから皆さまにもう一度ごあいさつをさせていただきます。


浅田選手から最後のあいさつ

浅田:皆さん、今日は本当にどうもありがとうございました。発表してからは本当にこの2日間、温かいお言葉をいただいて、私も本当に晴れやかな気持ちで引退を迎えることができました。

 スケート人生で経験したことを忘れずに、これから新たな目標を見つけて、笑顔で、前に進んでいきたいと思っています。はい。皆さん応援どうもありがとうございました。

司会:皆さん、どうもありがとうございました。

浅田真央 後ろを向いて涙をこらえ
後ろを向いて涙をこらえ、、、

浅田真央 前を向いて笑顔
真央らしく、前を向いたら笑顔!

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 日本を代表するアスリートの大きなターニングポイントです。感動をありがとう、お疲れ様でした。

浅田真央 五輪シーズン


今シーズンは事実上の終了、浅田 真央 選手に関する記事一覧


 昨夜閉幕した第85回 全日本フィギュアスケート選手権は、男子が 宇野 昌磨 選手(19歳、写真左)の初優勝、女子は 宮原 知子 選手(18歳、写真右)の三連覇と言う結果に終わりました。

宇野と宮原 写真

 この結果を受けて、来年3-4月にフィンランド、ヘルシンキで行われる世界選手権の出場者が決まり、男女6人中4人、女子は3人ともに十代選手となりました。

【フィギュアスケート世界選手権出場予定の選手】
 男子:羽生 結弦(22歳)  女子:宮原 知子(18歳)
    宇野 昌磨(19歳)     樋口 新葉(15歳)
    田中 刑事(22歳)     三原 舞依(17歳)

 浅田 真央 選手(26歳)は14度目の全日本で自己ワーストの12位、13年ぶりに表彰台を逃し、世界選手権の代表入りにはなりませんでした。明らかな世代交代を痛感する流れでありますが、浅田 選手に関する記事が様々な視点から掲載されております。来季も現役続行を明言している彼女がどのような選手生活最後の年を過ごすのか、厳しい状況を乗り越えて最後の一花を咲かせてくれるのか、ここに、いくつかの記事を記録しておこうと思います。


◇ 真央、自己最悪12位…13年ぶり表彰台外 平昌五輪へ試練

 スポニチです。「自己最悪」、「試練」と言うタイトルで始まり、「かつてない逆風」と言う言葉で締めくくる、極めて悲観的な記事であります。

16:12:26 スポニチ記事

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 女子フリーが行われ、浅田真央(26=中京大)はトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)で転倒するなどジャンプでミスを連発し、合計174・42点で14度目の全日本で自己ワーストの12位に終わった。13年ぶりに表彰台を逃し、世界選手権(来年3~4月、フィンランド・ヘルシンキ)の代表入りはならず。最大目標の18年平昌五輪へ、厳しい状況に立たされた。宮原知子(18=関大)が214・87点で3連覇を達成し、世界選手権代表に決まった。

応援に駆けつけた姉の舞とリラックスムードで話し、気分を入れ替えてフリーを迎えた。冒頭にトリプルアクセルにアタック。SPは1回転半の失敗で、この日は「何があっても回ろう」と気合を入れていたが、回転不足の上に転倒。今季初挑戦の3-3回転も回転不足で、演技後半の3回転サルコーで転倒し、3-2-2回転は単発の1回転に。情熱的に「リチュアルダンス」を舞ったが、得点が伸びる要素はなかった。

 昨季から抱える左膝の不安により、調整が遅れたシーズン前半。トリプルアクセルを3戦続けて回避したが、全日本でようやく挑めた。「そういう状態まで来たことは満足している」と懸命に前を向いたが、結果がついてこない。一人のアスリートとして、許せない現実が目の前にはある。演技を終えると、自身の最終順位が確定する前に会場を後にした。

 今季は事実上終了し、平昌五輪に向けて厳しい状況に立たされた。世界選手権代表を逃したことで、来季のGPシリーズに2戦エントリーできるか不透明。世界ランクのポイントも稼げない。全日本12位で17年大会のシード権はなく、全日本出場のために国内大会から出直しを迫られる可能性がある。「最高のレベルをそろえることができなくて、悔いが残っている」。いつかまた、最高の難度で最高の演技を。かつてない逆風に、浅田が立ち向かう。

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◇ 浅田真央【一問一答】「チャレンジできたことはうれしく思う」

 デイリー、浅田 選手へのインタビューの一問一答を紹介し、三回転半(トリプル・アクセル)にチャレンジできたことの喜びと来季に向けた前向きな言葉を客観的に拾った記事です。

16:12:26 デイリー記事02

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 女子フリーが行われ、SP8位からの巻き返しを狙う浅田真央(中京大)は冒頭でトリプルアクセルに挑み転倒した。その後の3回転ジャンプでも転倒が出て、フリー114・10点、SPとの合計は174・42点で12位に終わった。自身の演技に納得がいかない様子で表情も暗めだったが、トリプルアクセルを冒頭に配置する本来の構成に挑めたことについては前向きにとらえていた。以下、一問一答の要旨。

 -3回転半の負担は大きいのか。
 「どうなんですかね…。この試合では取りあえず自分の最高のレベルで歩みたいと思っていたので、シーズン前半はそこまで自分の力がなくて、そのレベルですら臨むことができなかったんですけど、自分のもともとのレベルまで戻ってきたので、チャレンジできたことにはうれしく思います」

 -スピードがないようにも見えた。緊張感があったか。
 「うーん。今はちょっとよく分からないです」

 -シーズン後半は。
 「まだ終わったばかりなのでもうちょっとゆっくり考えたいと思います」

 -難しいジャンプと芸術性の両立は、どこまで進んでいるか。
 「競技なのでもちろん挑戦もしていかないといけないですし、自分の最高のレベルで臨まないといけないと思います」

 -フランス杯の後は自信喪失とも話していた。
 「GPシリーズが終わってからこの試合へ一日一日積み重ねてきたので、不安とかはなかったです」

 -後半戦はできる限り試合に出ようと思っているのか。小さい大会にも出るつもりか。
 「この結果なので、結果が出てみないと分からないです。今終わったばかりなのでここで何とも言えないです」

 -今年の全日本選手権はどうとらえているか。
 「特にはなくて、どの試合も緊張しましたし、私自身はすべて同じ気持ちで臨みました」

 -来季もまた挑戦は続けるか。
 「そうですね、はい」

 -トリプルアクセルとは、飛びたいと思うものでもあり、飛ばなければいけないと思うものでもあるのか。
 「選手である以上は現状維持ではなく、自分ができる最高のレベルで臨まないといけないと思いますし、この調子まで戻ってきて試合でチャレンジできたことは私自身、満足しています」

 -終わった後の表情が暗かったように見えた。
 「自分自身の演技に納得していないというのもありますし、たくさんの声援がすごくパワーになったんですけど、パワーに変えて演技として恩返しできなかったことに悔しい気持ちです」

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◇ 【岡崎真の目】浅田真央 平昌五輪まだ間に合う 年齢的な衰えではない

 またもスポニチですが別の視点から、浅田 選手の演技に対して、技術的、体力的な部分についての分析を紹介し、来季に向けて肯定的な記事となっております。

16:12:26 スポニチ記事02

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 SPでは高く跳ぼうとして回転動作が緩慢になってしまった浅田のトリプルアクセルだが、この日は回転動作に意識がいき、踏み切りで伸び上がる力が不足した。結果的に左右のバランスを崩し、滞空時間が足りなくなった。

 故障の影響もあるのだろうが、気になるのは全体的にシャープさを欠いているところだ。ジャンプやスピンの回転が遅く見えるのは、筋肉や神経の反応速度が遅くなっているから。ただし、これは年齢的な衰えではないと思う。なぜなら、ステップでは一転してシャープな動きを見せているからだ。直前の6分間練習もそうだが、練習の中でスピーディーに動く内容が足りないのかも知れない。得点、順位ともに浅田にとっては最悪かもしれないが、来季の五輪を考えると間に合う可能性は十分ある。5項目の演技点では宮原に次ぐ得点をマークしており、存在感はまだまだ一線級だからだ。

 SPでは圧巻の演技だった宮原だが、ジャンプに細かいミスがあったように、フリーはさすがに緊張感があった。それでも140点に近く、得点の下限は高まっている印象だ。こういう「勝って当然」の試合を何度も経験することで、さらに女王の貫禄がついてくると思う。 (ISUテクニカルスペシャリスト、プロコーチ)

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◇ 浅田真央、転倒でフリーも伸ばせず12位…04年からの連続表彰台途切れる

 報知です。ショートプログラムと同様にフリーでも三回転半(トリプル・アクセル)ジャンプを組み込んだことについて「チャレンジできたことを嬉しく思う」との本人のコメントを紹介して、かなり前向きな記事となっております。

16:12:25 報知記事

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 女子フリーが行われ、ショートプログラム(SP)8位の浅田真央(26)=中京大=は114・10点、合計174・42点で大会ワーストの12位に終わった。14年の休養をはさみ、2004年から続けてきた連続表彰台は途切れた。

 SPに続いて挑んだ3回転半ジャンプ(トリプルアクセル)は転倒したが、今季初めて連続3回転ジャンプに臨み「この試合は自分の最高のレベルでやりたくて。チャレンジしたことに関してはうれしく思うけど、2つそろえられなかったことは悔しい」。

 トリプルアクセルに挑み続ける理由については「やはり競技者として、選手である以上は現状維持ではなく、自分が出来る最高のレベルで臨まなきゃいけない」と口にした。

 平昌五輪イヤーとなる来季も続けるかという質問に「そうですね。はい」とはっきりと答えた。

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◇ 浅田真央やめない!即答 3ヶ月残し今季終了でも

 日刊スポーツ、トリプル・アクセルに加えて、3回転-3回転の連続ジャンプなど、怪我や不調のため、今季ここまでできなかった技に挑めたこと自体に、 「ここまで戻してこられたのはうれしい」と言う本人の喜びの声を紹介し、今回の大会を「大きな前進」とする記事です。ただ、最後に平昌五輪への出場に関しては必ずしも楽観視はできない現状も紹介しております。

16:12:26 日刊

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 浅田真央(26=中京大)が来季の現役続行を宣言した。SP8位で臨んだフリーでトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に挑戦したが転倒。ミスも重なり114・10点、合計174・42点で自己ワーストの12位に終わった。今大会の表彰台を逃すのはソチ五輪後に休養した14~15年シーズンを除き、03年以来。競技終了後に発表された世界選手権の女子代表入りは逃した。今季残りの試合予定は白紙だが、集大成と捉える18年平昌五輪を目指し、来季も現役を続けると明かした。

 浅田が思い描く「最高の演技」はできなかった。「残念」の気持ちと同時に湧いてくるのは「ここまで戻してこられたのはうれしい」という喜び。トリプルアクセル、3回転-3回転の連続ジャンプ。不調のため、今季ここまでできなかった技に挑めたこと自体が大きな前進だった。10度目の世界選手権を含む、今季終盤の大会切符は何もつかめなかった。今季残りの予定は白紙。それでも、来季もやるかとの報道陣の問いに、即座に「そうですね。はい」と答えた。浅田はまだ滑り続ける。

 前日のSPで回り損ねた冒頭のトリプルアクセル。「ゆがんでも、何があっても回ろう」と勇気を出して跳び上がったが、転倒した。この日の練習では4本試し1度成功。失敗するリスクは高いまま。それでも「競技者として、現状維持ではなくて、最高レベルのものを目指したい」。意志を貫いた。

 出場30選手中最年長の26歳。12歳で初出場した02年から数え今回で出場14度目を誇る。「天才少女」と呼ばれ、元気いっぱい軽やかに跳んでいた10代の頃とは違う。20代後半に入り、浅田は体の衰えと向き合う。練習は、体力や体の故障の影響で量が積めない。その分、いろいろ試し「1回の密度は濃い」と胸をはる。無心で臨んでいた海外遠征も、今は時差が体にこたえる。試合から逆算し、機内で睡眠時間をコントロールしている。

 それでも氷上に居続ける理由は「好きで戻ってきたから」。今季落ち込む度に、言い聞かせるように何度も繰り返してきた。今大会は今季初めて練習を積んで臨んだ。「不安はなかった」。自信を取り戻し、求めるものが見えてきたところで、辞めるわけにはいかない。

 ただ、目標とする平昌五輪へは厳しい道のりが待つ。来季、国際主要大会で結果を残せなければ、1年後の全日本で優勝することが求められる。また、ジュニアからシニアに上がる選手も多く、本田ら強力なライバルたちに勝たねばならない。まずは、フィギュア人生で初めて訪れた白紙の数カ月をどう過ごすのか。滑り続けることを決めた浅田の挑戦がここから始まる。【高場泉穂】

 ◆浅田の平昌五輪への道 14年ソチ五輪は全日本選手権優勝者や全日本2、3位の選手とGPファイナルの日本人表彰台最上位者などから代表が選出された。平昌五輪も前回と同様の選考方法ならば、まずは来年のGPシリーズに出場し、ポイント上位6人に入り、GPファイナルに出場することが必要になる。現時点で国際大会の成績が振るわない浅田は、来年のGPシリーズの出場が確約されておらず、その場合、残された道は年末の全日本選手権で優勝すること。平昌五輪の選考方法は来年夏に決まる予定。日本の出場枠は来年3月の世界選手権で決まる。

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◇ 真央「選手である以上、挑戦が必要」 競技者として貫くプライド

 スポーツナビ、浅田 選手の強いメンタル面に触れた記事がありましたので、こちらもご紹介します。まだまだ高い技術を維持しているものの、トリプル・アクセルに対する強い思い入れを貫いているとの解説です。

16:12:26 スポーツナビ記事

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トリプルアクセルは2本ともミス

 浅田真央(中京大)にとって14回目となる全日本選手権は、過去最低の12位に終わった。合計得点は174.42点。優勝した宮原知子(関西大)には、実に40点もの差をつけられ、世界選手権の出場も逃した。

「この全日本では自分の滑りや、目標としていたことを全部やりたかったんですけど、それができなくて残念です」

 ショートプログラム(SP)後には、8位スタートながら笑顔も見せていた。だが、フリースケーティング(FS)後は悔しさをかみしめつつ、何か達観しているような表情を浮かべていた。浅田は言う。

「まだ終わったばかりなので、次という気持ちにはなれないんですけど、今回は自分が今までやってきた最高のレベルで臨みたかったので、その状態にまで戻せたことは良かったと思います」

 その言葉どおり、この全日本ではSP、FS共に自身の代名詞であるトリプルアクセルに挑んだ。同時にプログラムの難易度も上げており、それをこなせる状態にまで調子が戻っていたことを裏付ける。トリプルアクセルは2本とも失敗し、その他のジャンプにもミスがあったものの、演技構成点は宮原に次ぐ2位。地力はしっかりと見せた。

 ジャンプさえ跳べれば点数はおのずと上がってくるのだが、今季はそれがうまくいかない。左ひざ負傷の影響もあるのか、スピード、高さ共にこれまでのシーズンと比べて劣っているように見える。

高得点なだけに失敗すると……

 休養明けから復帰2年目のグランプリ(GP)シリーズは、スケートアメリカで6位、フランス杯で9位と不本意な順位に甘んじた。ジャンプは跳ぶのが精いっぱい。フランス杯では演技後に、「すべてが失われた。スケーティングもジャンプも、全部がしっくり来ていない」と、涙に暮れた。

 それを考えれば、全日本までの1カ月ちょっとの間で、トリプルアクセルをプログラムに組み込む状態にまで調子を取り戻すことができたのは、彼女のたゆまぬ努力に他ならない。満足いく練習を積み重ねてきたようで、その手応えもあったのだろう。大会前日には「今季の中では最も調子が良い」と、口調も滑らかだった。SP当日の公式練習では、トリプルアクセルを成功させ、復活への機運は高まっていた。

 しかし、練習と本番は違う。緊張感が高まる中では、まだ跳べる状態ではなかった。SPはシングルアクセルになり、FSでは両足着氷から転倒した。トリプルアクセルはリスクの高い大技だ。跳べれば高得点(基礎点は8.5点)が付き、勢いにも乗れるが、失敗すれば点数にも体力にも影響する。

 女子のSPではダブルアクセル以上を跳ばなければいけないため、シングルでは0点になる。浅田はSPでジャンプ1つ分の点数を失ってしまった。FSでも回転不足と転倒により、GOE(出来栄え点)でマイナス評価を受け、1.80点しか得られなかった。全神経を集中させなければ跳べない大技。それに失敗すると、その後の演技に影響が出るのは当然とも言える。

 事実、浅田がFSで跳んだ他の6つのジャンプで加点が付いたのは、3回転ルッツと3回転ループの2つだけ。あとの4つは回転不足を取られたり、転倒したりとミスが出た。そうした中でも、スピンやステップでレベル4を取るのはさすがだが、それだけにジャンプの失敗が悔やまれる。

 多くの選手が、トリプルアクセルをプログラムに組み込めないのも、習得していないこともあるが、こうしたリスクを回避する目的もある。勝負が懸かる以上、確実に点数を取りにいくことが求められる。しかし、浅田はあえてそのリスクを冒す。それは競技者としての彼女のプライドでもある。

「選手であるからには、現状維持ではなく、自分ができる最高のレベルで臨まなければいけないし、常に挑戦をしていく必要があると思っています」

 トリプルアクセルについての考えを聞かれると、浅田はそう答えた。もちろん今季のGPシリーズのように、コンディションが悪いときに回避する柔軟さは持っている。それでも跳べる状態のときは、たとえ勝負が懸かっていても、積極的に挑んでいくのが浅田という選手のスタイルなのだ。だからこそ多くの選手が彼女に憧れ、ファンの支持も得られる。

 以前、浅田を指導する佐藤信夫コーチはこう言っていた。
「トリプルアクセルは彼女にとっての“夢”なんです。それを誰が取りあげられるのでしょうか。僕にはできない」

 浅田が今大会に臨むにあたり、佐藤コーチは「自分の思い通りにやりなさい」と伝えたという。そして浅田はトリプルアクセルに挑み、失敗した。しかし、浅田に後悔はない。SP後には「トリプルアクセルがない状態で終えたときよりも、挑戦できた今回の方が気持ちよかった」とさえ言ったぐらいだ。

演技全体をまとめる方法はあるが

 3連覇を飾った宮原を筆頭に、今大会の表彰台を飾った3選手はすべて10代。伸び盛りの若手に対して、26歳の浅田は岐路を迎えている。12位に終わったことで、シーズン後半に行われる国際大会の出場は逃した。浅田自身も今後の試合については「終わったばかりなので、もう少しゆっくり考えたい」と話している。現役続行は明言しているが、後半戦のスケジュールは未定だ。

 2018年の2月に行われる平昌五輪を考えれば、小さな大会に出場して、試合勘を養っておく必要はあるかもしれない。その一方でケガを完治させ、来季の準備をいち早く進める選択肢もある。いずれにせよ、日本代表からの落選をポジティブに受け止め、時間を有効に使っていくべきだろう。

 浅田自身も「選手としてやるからには五輪を目指したい」と目標に掲げており、来季はそれに向けた戦いとなる。出場権を得るためには、各大会で確実に結果を残していくしかない。果たしてどうするのか。

 演技構成点はきちんと取れているだけに、アクセルをトリプルからダブルにして、全体をまとめる方法はある。そうすれば点数自体ももう少し上がるかもしれない。だが、彼女はきっとそれをよしとはしないだろう。むしろトリプルアクセルを決めるためにはどうすべきかを考えるはずだ。

 競技者としてのプライドはあくまで貫き通す。それが浅田真央という選手なのだから。

(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)

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◇ 雑 感

 フリー当日である昨日の朝、野球評論家の 張本 勲 氏がTBSの「サンデーモーニング」で、ショート・プログラムで8位発進となった浅田 選手について、「やっぱりどうでしょう、厳しいけどスポーツ選手の宿命だよね。力がなくなったら。若い子が出てきているからね」とコメントしていました。最近話題の、口の悪い年配の厳しい発言ともとれますが、言っていることは至極まともな正しい意見だと思います。
 浅田 選手、膝の故障で思うように練習ができず、体にキレがない、との記事が散見されますが、アスリートのにとって、古傷があったり、運動神経の低下が新たな怪我につながり、故障の回復が遅いのも十分に年齢的要素であります。故障により練習が不足すれば体の動きは悪化し、スタミナも低下します。そうしたかたちで衰えつつあるベテランに対して、容赦なく、無傷で元気な若者が勝ちをもぎ取って行くのはあらゆるスポーツに共通して起こる現象でしょう。
 ネットで見つけた記事は、悲観的な観測から、まだ大丈夫とする意見、彼女を讃える内容まで、様々でありましたが、共通して報じていることは、浅田 選手は自分の競技人生をまだ諦めてはいないと言うことであって、本人は来年のオリンピック出場の可能性がゼロとは思っていないことであります。もう一度、故障を治して、体を作って、心を奮い立たせる決意でいるのです。
 気持ちが切れていないことがアスリートとして最も大切なことです。浅田 選手が現役を続けるつもりでいる以上、「スポーツ選手の宿命」として論ずるのはもう少し先でも良いと思う次第、少なくとも復活するための彼女の努力に、応援する声、称賛する心、そして期待する気持ちは少なくありませんが、異論を唱える人は皆無でしょう。もう一度、メダルを手にした浅田 選手の笑顔を見たいものです。

浅田 メダル 写真


予期せぬイップスを経験した藤岡ゴルフ・クラブ(群馬)


 「イップス」と言う言葉をご存知でしょうか? まさにそれ!、と言う出来事が己の身に降りかかりましたので、これを記録して、少しの勉強と、心当たりを申し上げます。タイトルにあります通り、ゴルフでの話です。
 この2年ばかり、関東一円、千葉、茨城、栃木、群馬、埼玉、そして南は神奈川の小田原あたりまでゴルフのラウンドをしてきましたが(東京都はまだ経験なし)、同伴者の多少に伴い、千葉と茨城はよく行きますが、群馬は回数が少なく、しかも山間(やまあい)で難しい印象を持っておりました。今回、約2年ぶりに群馬県でのラウンド、藤岡ゴルフ・クラブへ行きましたので、まずはその成績から、、、。


◇ 藤岡ゴルフ・クラブ ラウンド成績

 藤岡ゴルフクラブ 9:45 西OUT スタート 天気:曇り、風、寒

 期間限定特典! 昼食付、4人乗りカート セルフ 総額 10,800円
 (税抜料金 9,445円+消費税 755円+ゴルフ場利用税 600円)
 2サム保証割増 お一人様につき別途 +1,620円

 この日、持参したクラブのラインナップは以下の通りでした。ウェッジ系にウェートを置いたのは、群馬の山間は、左右どちらかが山でどちらかが崖と言うような、山の斜面に作ったフェアウェイの狭いホールが多く、しかも気温が低いことも考慮して、大きな番手は避けて、緻密なゴルフを考えたからです。具体的には、3W, UT3, UT4を外して、ドライバーの次に、スプーンは避けてクリークを挟み、ユーティリティを外して、私にとって方向性の良い4番、5番アイアンを持ってくる構成としました。

【使用クラブおよびボール】
 1W:ORLIMAR ORM-500 Hi LOFT 10.5
 5W:Daiwa BLADE FW5 LOFT 18
 4I:SPALDING HIGH BALL III-4 LOFT 21
 5I:SPALDING HIGH BALL III-5 LOFT 24
 6I:SPALDING HIGH BALL III-6 LOFT 27
 7I:SPALDING HIGH BALL III-7 LOFT 30
 8I:SPALDING HIGH BALL III-8 LOFT 34
 9I:SPALDING HIGH BALL III-9 LOFT 39
 PW:KASCO DOLPHIN WEDGE DW-113 N.S.PRO 950GH LOFT 44
 AW:CallaWay MACK DADDY3 48S LOFT 48
 SW:CallaWay MACK DADDY3 56W LOFT 56
 LW:CallaWay MACK DADDY3 60W LOFT 60
 CHIPPER:ODYSSEY ODYSSEY X-ACT TANK LOFT 37
 PUTTER:ODYSSEY 2BALL FANG Works LOFT 3
 計14本

 ボール:XXIO Aero Spin


西OUT 01番:374YD, PAR4, HDCP3

 ティーショットは登り、二打目が降りの比較的にフェアウェイが広いミドルですが、「さすがは群馬!」、と思わせるアップダウンを実感するホールです。

西OUT 01

 願いを込めて打った一打目のドライバー・ティーショットは、いとも簡単に右、林の中へと消えていきOB、早速、帰らぬボールとなりました。特設ティーからの前身4打はショート、グリーンオンには5打を要しました。

藤岡GC 西OUT 01

図の説明 図


西OUT 02番:274YD, PAR4, HDCP17

 距離のないミドルですが、ここもかなりの傾斜を有する登りで始まります。ティーショットでは、フェアウェイ中央にあるはずの木が右からせり出す林に隣接しているようで極めて落とし所が狭く見えます。

西OUT 02

 ドライバーによるティーショットはまたも右、林に捕まりました。OBではなく、なんとか打てる場所でしたので、6Iで上手に前進することができました。それにしても、ORLIMAR ORM-500 Hiのドライバー、嫌な予感のするスタートでありました。

藤岡GC OUT02


西OUT 03番:337YD, PAR4, HDCP15

 またも、距離はないものの、勾配がきつい登りで始まるミドルです。景観として、フェアウェイが広く感じられますが、アップダウンがその行く手を阻む、そんなホールでありました。

西OUT 03

 ドライバー、ティショットはまたも右、予定では230YDで残りが100YD切り、ウェッジでの2オンでありましたが、二打目はCHIPPERでフェアウェイに戻すのが精一杯で、三打目もグリーンに届きませんでした。

藤岡GC OUT 03


西OUT 04番:341YD, PAR4, HDCP9

 またも打ち上げのミドル、しかも狭い、要するに、OUTの初っ端から打ち上げで始まるミドルを4つも続けて、「群馬のゴルフ場はこうだ!」と言わんばかりの構成です。

西OUT 04

 ノイローゼ気味のティーショット、ドライバーはまたも右へのOBで、特設ティーからの前進4打、5オン2パットは7と、西OUTの1〜4ホール、すべてミドルは7, 6, 6, 7と厳しいスタートを余儀なくされました。

藤岡GC OUT 04


西OUT 05番:165YD, PAR3, HDCP7

 やっと狭い打ち上げミドル地獄から解放されたショート、大きな谷があって、165YDと決して短くはない厳しいホールですが、ドライバーを使わないですむ安心感はありました。

西OUT 05

 やや登りなので番手を上げた4番アイアンは見事に1オン、2パットでまとめてこの日初のパーでした。

藤岡GC OUT 05


西OUT 06番:511YD, PAR5, HDCP5

 恐ろしくフェアウェイが狭いロングにやって来ました。右から林がせり出し、左は崖と、両側とのOBで、右ドッグレッグの曲がり角、正面190YD地点にバンカーが待っております。

西OUT 06

 ティーショット、180YDを目論んだ5番ウッドはまたも右でOB、特設ティーに向かいながら「何やってんだろう?」って追い込まれる自分がいました。

藤岡GC OUT 06


西OUT 07番:418YD, PAR4, HDCP1

 このホールの、ティーグラウンドからの景観は安心させるものがありました。あまり、狭くはなく、登りでもありませんので、見通しは良好でありました。

西OUT 07

 ゆっくりとアドレスして、体重移動に気を配ったティーショット、ドライバーはちょっとボールが上がりすぎでしたが、この日、初めてのフェアウェイキープとなりました。二打目の4番アイアンも、ロブウェッジのアプローチもナイスショットで、3オンできました。

藤岡GC OUT 07


西OUT 08番:153YD, PAR3, HDCP13

 谷の向こうにグリーンがある、キャリーでグリーンを狙う5番ホールと似たようなショートです。

西OUT 08

 ここでは6番アイアンを選択して、少しひっかけ気味でしたが1オンとしました。

藤岡GC OUT 08


西OUT 09番:477YD, PAR5, HDCP11

 午前最後のホールはロングです。左ドッグレッグなのに、70YD付近に右からせり出す林があって、景観としてはS字のように見えて、登りではありませんが、フェアウェイはすごく狭く感じます。

西OUT 09

 またもやってしまいました。ティーショット、ドライバーは右へ、この日4つ目のOBです。前進4打の特設ティーからも3打を要して6オンに2パットで8打も叩きました。

藤岡GC OUT 09


西IN 10番:466YD, PAR5, HDCP16

 昼食後の午後一はロングホールでしたが、ここもまた登りのロングで右ドッグ、一打目、180YD付近から急に狭くなっております。

西IN 10

 前半のドライバーが右へ右へと行ってましたので、右手をかぶせることを意識して臨みましたところ、今度は左へ、5つ目のOBです。完全に平常心が失われたティーショットであります。

藤岡GC IN 10


西IN 11番:354YD, PAR4, HDCP8

 この日初めての打ち下ろしはミドルです。二打目は登りのようですが、グリーンまで見渡せるティーグラウンドの景観は誠に安心感を産みました。これまで苦しめられていたのが嘘のようです。

西IN 11

 ここでのティーショット、ドライバーはその日1番、230YD、フェアウェイキープとなりました。二打目はピッチングを用いて2オンでありました。

藤岡GC IN 11


西IN 12番:351YD, PAR4, HDCP14

 ここも登りではなく、見晴らしは良いミドルですが、フェアウェイは極めて狭く、またも不安がよぎります。

西IN 12

 不安を持って臨んだティーショット、ドライバーは、またも右手をかぶせる意識をしたところ、左にひっかける形で、なんと6つ目のOBでありました。

藤岡GC IN 12


西IN 13番:187YD, PAR3, HDCP6

 187YDと距離のあるショートですが打ち下ろしなので10YDほど短く見積もれます。

西IN 13

 この日好調の4番アイアンで臨んだところ、距離はぴったりでしたが、やや左に飛んでのバンカーでした。上手にナイスアウトで1パット、パーでまとめました。

藤岡GC IN 13


西IN 14番:341YD, PAR4, HDCP2

 まっすぐなミドル、ここもさすがは群馬の山間を感じる、両側に山と森、すり鉢のように狭いフェアウェイでありました。

西IN 14

 この日のドライバーがまともに打てるはずもなく、またも右にチョロ、OBにはなりませんでしたが、グリーンオンまで7打を要した大叩きとなりました。

藤岡GC IN 14


西IN 15番:147YD, PAR3, HDCP12

 打ち上げですが距離がそれほどでもないショートです。ピンも見えていますし、比較的やさしいホールに見えました。

西IN 15

 5番アイアンのティーショットは左のバンカーに飲み込まれ、1度はバンカーショットに失敗しましたが、1パットで沈めてボギーに収まりました。

藤岡GC IN 15


西IN 16番:299YD, PAR4, HDPC18

 300YDに満たないものの、またも激しい登りのミドルです。左右の林はOBとなっており、これも群馬を感じさせるホールでありました。

西IN 16

 もうこれまでの流れから、ドライバーへの気持ちは完全になく、ティーショットは5番ウッド、高く上がりましたが(てんぷら)、まっすぐ飛んでフェアウェイ、二打目も5番ウッドでグリーン周りへ、3オン2パットでまとめました。

藤岡GC IN 16


西IN 17番:465YD, Par5, HDCP10

 登って、降って、登って、降って、最後にもう一度登る、恐るべきロングです。フェアウェイは狭く、左右のOBは極めて近い、名物ホールとなっておりました。

西IN 17

 直前のミドルで5番ウッドがまあまあでしたし、ロングホールですので距離を稼ぎたい一心から、ついつい手を出してしまったドライバーは左、なんと7個目!、18ホール中7ホール目のOBとなりました。幸い前進の4打目4番アイアンがナイスショットで7打、ダブルボギーですみました。

藤岡GC IN 17


西IN 18番:405YD, PAR4, HDCP4

 打ち下ろしで見晴らしの良い、右ドッグレッグ、405YDと距離はありません。

西IN 18

 もう完全に自信喪失のドライバーには見向きもせず、ティーショットは4番アイアンで臨み、170YDのフェアウェイキープとなりました。以後のストロークはあまりよろしくなく、ここもダボでホールアウトしました。

藤岡GC IN 18


成 績

藤岡GCスコア


◇「イップス」とは?

 18ホールともなると、ずいぶん長くなってしまいましたが、己に起こった現象を「イップス」と呼ばせていただきました。藤岡グルフクラブでの出来事を振り返る前に、このイップスについて解説をはさみます。

 イップス(Yips)とは、精神的な原因でスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる運動障害のことであります。
 この用語は、1930年前後に活躍したプロゴルファーのトミー・アーマー氏が、この症状によってトーナメントからの引退を余儀なくされたことで知られるようになりました。アーマー氏は1967年出版の自著「ABCゴルフ」の中で、ある日突然、緊張のあまり、カップのはるか手前のところで止まるようなパットしか打てなかったり、カップをはるかにオーバーするようなパットを打ったりするようになる病気に「イップス, Yips」(うめき病)と名付けております。現在では、スポーツにおいて広くで使われるようになった言葉であります。


◇ 藤岡ゴルフクラブで己に起こったイップスを振り返る

 今回の経験は、ティーショット、ドライバーに起こりました。「登りで狭い」フェアウェイに、最初でつまづいてしまってからは、どうにも這い上がれず、OBを重ねに重ねて、フェアウェイキープ率は30%に及ばない、厳しいラウンドとなりました。
 言うまでもなく、ゴルフの練習で、本番のラウンドに一番近いのがティーショットであります。二打目以降は、どうしても芝の状態、傾斜があって、練習場の人工芝では作り出せない違いがありますが、ティーショットは平坦で、高さを調節できるティーのボールを打つのですから、練習場のパフォーマンスをラウンドにおいてもそのまま出せる技術だと思います。ラウンドの翌日、アコーディア・ガーデンの90分、打ち放題で250球全てをドライバーで打って来ましたが、高い頻度でまっすぐ正面に打つことができました。
 練習でできることが本番ではできない、これはスポーツで当たり前にあることですが、この日の藤岡、ドライバー以外はまあまあでありました。再三登場しました4番アイアンは購入してまだ日が浅いものの、見事に期待に応えてくれました。これに対して、ドライバーは飛距離が出る分、ミスショットで大怪我するものでありますが、それにしても、ノイローゼのように、あるいは、何かに取り憑かれたようにミスを重ねてしまいました。

オリマー宣伝

 素人でも打ちやすい大型ヘッドで、高反発、短尺シャフトを歌っており、練習場ではいい当たりを連発するORLIMAR ORM-500 Hiですが、「登りで狭い」と言うティーグラウンドでの景観がメンタルに影響した、まさにイップスであったと考えます。


◇ イップスと思われるプレーのご紹介

 日々、生でもデレビでも、スポーツ観戦をしており、今の季節はフィギュアスケートをよく見ますが、このブログでも再三取り上げた 浅田 真央 さんのトリプルアクセルも、練習では成功するものが、本番ではうまくいかない、これも小さなイップスであるかも知れませんん。ここでは、心に残る思わぬプレーをご紹介します、いずれも野球のシーンです。

1.甲子園のピンチを脱した投手に起こったこと

 いつだったか忘れましたが、2, 30年前の全国高校野球、甲子園大会での1シーンです。千葉県出身の私ですから千葉からの出場校の応援でテレビ画面に目を向けていたと思います。
 試合の後半になって、先発投手が崩れ、同点でノーアウト満塁のピンチを招き、ここでベンチはワンポイントのリリーフを繰り出すこととしました。右バッターが続くところで右のサイドスローを投入して、内野フライなどで2アウトまでこぎ着け、次の左バッターに左のサイドスローをリリーフさせたところ、ストライクが入りません。3ボールから真ん中のストライク2つでカウント2-3(今なら3ボール2ストライク)となり、ファールが続いた8球目くらいの打球はピッチャーゴロでありました。
 ところが、1バウンドのゴロをさばいたマウンドの左投手、1塁に送球したくても、ボールが上手く握れません。投げる動作はするのですが、肩も腕も手も強張って、もう一度、持ち替えても、やはり送球できずに、ついには1塁はセーフ、満塁ですので3塁ランナーは勝ち越しのホームインとなりました。
 ピッチャーゴロを1塁でアウトにするなんて、日々の練習でしている、子供の頃からやってきた、単純な作業ですが、これをし損なうところに甲子園の魔物、地元の期待を背負う重圧がのしかかった結果のイップスが起こったものと思います。

2。 故 小林 繁 投手(阪神)の開幕戦、敬遠サヨナラ暴投

 1982年4月3日、横浜大洋 vs 阪神の開幕戦、阪神先発の 故 小林 繁 投手は9回裏ツーアウトから、0-2が2-2と同点にされたところで1、3塁のピンチ、打者 高木 嘉一 選手に対してベンチの指示は敬遠でありました。ここで 小林 投手の3球目はとんでもない3塁方向への暴投となり、3塁ランナーの 大久保弘司 選手が生還、サヨナラゲームとなりました。

小林繁 敬遠 サヨナラ暴投

 当時、サイドハンドスローの 小林 投手が、短い距離の軽いキャッチボールを苦手にしていた、と言う分析が報道されましたが、9回裏ツーアウトでの満塁策で、心の動きがプレーに影響した可能性は否定できません。これもイップスであったのではないか?、と考える次第です。

イチロー選手 メジャー通算3000本安打 〜 日米野球の優劣について 〜 05(完結)


 もたもたと「日米野球の優劣について」を考えたり、取材旅行に出ていたら、ついに米大リーグ、フロリダ・マーリンズのイチロー選手が、8月7日(日本時間の8日)、メジャー通算3000本安打を達成しました。調べればいくらでも見られるものではありますが、これまでの流れから、ここでのインタビューもこの場に記録したうえで、「日米野球の優劣について」を完結といたします。


◇ イチロー選手 メジャー通算3000本安打 会見全文

 【イチロー3000本安打達成!!!】ベンチで涙も。。。 /達成シーン/ロングインタビュー/ 2016.8/8 YouTube

 *****

― 3000安打に到達しました。今の率直なお気持ちからお願いいたします。

「この2週間強ですね、随分…まあ、犬みたいに年取ったんじゃないかと思うんですけど。達成した瞬間にあんなにチームメイトたちが喜んでくれて…。ファンの人たちが喜んでくれた。僕にとって、『3000』という数字よりも、僕が何かをすることで僕以外の人たちが喜んでくれることが、今の僕にとって、何より大事なものだっていうことを再認識した瞬間でした。」

イチロー3000本安打インタビュー02

― 非常に高く上がった打球になりましたが、あれは打つときに少し狙ったというような気持ちが芽生えたのでしょうか?

「いやいや、まったく狙ってないですよ。そりゃイメージでは、ホームランだったらいいなとかね、考えますけど、まあそんな甘いもんでもないっていうこともわかっていますし。ただ、打球が上がった瞬間は超えて欲しいと思いました。結果的には三塁打で決めたというのは、ポール・モリターと僕ということだったので、結果的にはその方がよかったなという風に思いました。」

― あの三塁打は日米通算116本目になりました。福本(豊)さんを抜く一打で、日本記録ともなりました。

「そうでしたか。まあ福本さんですからね。もう、ごめんなさいしかないですけど。」

― 改めてですね、三塁ベース上にみんなが少しずつ近づいて来ました。あの時はどんなお気持ちだったんでしょうか?

「どういう形になるのかというのは、僕にはまったく想像できなかったですから。でも、おそらく一塁の上で達成する。まあ、達成するならシングルヒットだろうなという風に確率としては思っていたので、チームメイトに労力をかけなくてよかったなという風に思います。」

― 27歳のデビュー。これはメジャー史上でも、3000安打に到達した選手としては最も遅いデビューになります。その遅いデビューでここにたどり着いたということに関してはいかがでしょうか?

「そのことは、そんなに僕の中では大きなことではないんですけれども。2年ぐらい遅いですよね、感触としては。まあ随分時間がかかったという感触です。」

― 2998本になってから、なかなか前に歩を進められない状況があった中で、いつも敵地ですばらしい迎えられ方をしました。ただ、前に進めないという状況が続いた時、どんな気持ちで毎日を過ごしていたのでしょうか?

「セントルイスから球場の雰囲気、ファンの人たちが特別な空気をつくってくれて、迎えてくれたことから始まったんですけれども、随分長い時間、ホームで決めるというのが、何となく人が描いたイメージだったと思うんですけれども、なかなかそんなうまく行くわけもなく。まあ、それもわかっていたことですし。でも、これだけ長い時間、特別な時間を僕にプレゼントしてくれたと言う風に考えれば、この使われ方もよかったという風に今は思います。」

― その時はななかなかそういう風には思えないものと思いますが…

「もう、人に会いたくない時間もたくさんありました。もう、誰にも会いたくない、しゃべりたくない。僕はこれまで自分の感情をなるべく殺してプレーをしてきたつもりなんですけれども、なかなかそれもうまくいかず。そういう、苦しい時間でしたね。」

イチロー3000本安打インタビュー

― 1本1本の積み重ね自体がとても大変なことと思いますが。ただイチローさんのヒットにはすべて意味がある。野球という競技の中での局面であったり。ただ単に安打を打ってきただけではない1本1本の安打と感じているんですが、その辺のお気持ち、考えを教えていだけないでしょうか。

「ただバットを振って、バットを振ること以外も、そうですよね。走ること、投げること。すべてがそうですけども、ただそれをして、『3000』はおそらく無理だと思いますね。瞬間的に成果を出すことは、それでもできる可能性はありますけれども、それなりに長い時間、数字を残そうと思えば、当然、脳みそを使わなくてはいけない。使いすぎて疲れたり、考えてない人にあっさりやられることもたくさんあるんですけれども。でも、それなりに自分なりに説明ができるプレーをしたいというのは、僕の根底にありますから。それを見ている人に感じていただけるなら、とても幸せですね。」

― よくイチローさんは感謝という言葉を使われます。チームメイトだったり、仲間だったり、ファンの方だったり、支えてくれている色んな方々に。今日この『3000』というヒットを打ちました。この今日の日に感謝という言葉を1番向けるとしたらどなたに?

「それはありきたりになってしまいますよね。これだけ長い時間、色んな場所から集まってくれて、それはもう今さら言うまでもない、でも、『3000』を打ってから思い出したことは、このきっかけをつくってくれた仰木監督ですね。神戸で2000年の秋に、お酒の力を使ってですね、僕は口説いたんですけれども。その仰木さんの決断がなければ、何も始まらなかったことなので、そのことは頭に浮かびました。」

― みなさんがイチローさんの準備はすごいと言います。42歳になるまで、若い頃とまったく変わらぬ野球に対するアプローチができる、その準備も怠ることがない。おそらくイチローさんほど野球の好きな選手はいないんじゃないかと。どうしてこんなにずっと野球が好きでい続けられるんでしょうか。

「そんなこと僕に聞かれても困りますけどねえ。どうでしょう、上手く行かないことが多いからじゃないですか。これがもし成功率が7割を超えなくてはいけない競技であったら、辛いと思いますね。30パーセント、まあ3割でよしとされる技術なので、打つことに関しては。これはもういくらでも、自分の、志と言ってはちょっと重いですけれども、それさえあれば、その気持ちが失われることはないような気がしますけどね。」

― 3000安打はあくまでも通過点だと思います。イチローさんは常々、「50歳まで」という言葉を発してこられました。これから何を大事にしながら見ながら、野球を続けていくのでしょうか。

「結構、しんどかったですからね。特にこの何日かは。僕の中に、まだまだこれからという気持ちがあったら、それは残念なことだと思うんですよね。この先は子どもの時のようにとは、そこまではもちろんいくことはできない。プロである以上、それは不可能なことですけども。その時の立場というのも影響しますけれども。今は『4番目の外野手』というポジションなので。もう少し感情を無にしてきたところを、なるべく、嬉しかったならそれなりの感情を、悔しかったら悔しい感情を少しだけ見せられるようになったらいいなあ、という風に思います。」

― ちょっと2つほど伺いたいんですけれども

「2つはちょっととは言わないですけれどもね(笑)。」

― あ、すいません。

「2つお願いします、がいいかな(笑)」

― 2つお願いします。あの、アメリカでは3000本安打は偉大なレジェンドの仲間入りを意味する…

「あの、レジェンドって変な感じですよね。よく最近聞きますけどね。レジェンドってね、なんか馬鹿にされてるみたいだね。」

― 過去29人しか達成していなかった記録ですけれども、それで3000本をすごくメディアは取り上げたり、節目ということで取り上げているわけですけれども、イチロー選手にとっては3000本達成というのはどういう意味を持つ1本になるんでしょうか。

「3000本目ということですか?」

― はい、3000本に到達したという。

「これは皆さんもそうですけど、これだけたくさんの経費を使っていただいて、ここまで引っ張ってしまったわけですから、本当申し訳なく思ってますよ。それはもう、ファンの人たちの中にもたくさんいたでしょうし。そのことから解放された思いの方が…、思いの方がとは言わないですけど、そのことも大変大きなことですね、僕の中で。普段そこにあった空気が、なんとなく乱れてたっていうのも感じていましたし、明日から平穏な日々が戻ることを望んでいます。」

― もう一つ。その空気を乱してしまったのも我々だと思うんですけれども、達成感というものが今回あるとすれば、一般の人間はその達成感が今後の目標に到達する上で邪魔になると思うんですけれども、イチロー選手はその3000本の達成感をどう消化して、次の目標に進んでいかれるのか教えていだけないでしょうか。

「え?達成感って感じてしまうと前に進めないんですか?そこがそもそも僕には疑問ですけれども。達成感とか満足感というのは、僕は味わえば味わうほど、前に進めると思っているので。小さなことでも満足するっていうことは、すごく大事なことだと思うんですよね。だから僕は今日のこの瞬間、とても満足ですし。それを味わうとまた、次へのやる気、モチベーションというのが生まれてくると、僕はこれまでの経験上、信じているので、これからもそうでありたいと思っています。」

― 4年後の東京オリンピックで野球が12年ぶりに復活するということについて、野球人として率直な意見、考えを聞かせていただけたら。

「どういう形で復活するのか、ということによるんじゃないですか。オリンピックは、これは僕の意見ということですけど、昔から変わらないことですよね。アマチュアの最高の大会であるべきだ、という風に僕は思っているので。WBCという大会が、世界大会としてもう一つあるんですけれども、これはプロがベストのチームですね、プロを含んだベストのチームで戦うべきというのが僕の考え方ですね。オリンピックはアマチュアの最高の大会であってほしいなという風に思います。」

 *****


 今回のインタビューは、6月15日(日本時間16日)の日米通算4257安打の際のものとは随分と異なる雰囲気、内容でありました。記録となる安打数は前回の4257に対して今回は3000でありますが、前回が「日米通算」の成績であること、またそれに対するピート・ローズ氏の異論を唱える発言があったこと、などから、やや不本意な気持ちを滲ます会見でしたが、今回はメジャーだけの成績ですので、心から喜んでいる、達成感、感慨と言ったものが込められた会見でありました。己の記録に誰もが賞賛して、誰もが喜んでくれることにこだわりを持つ、実は極めてナイーブな人間であるように感じられました。


◇ ワールド・ベースボール・クラシックでは優劣を語れない

 イチロー選手は上のインタビューの最後で、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)がプロを含むベストのチームで戦うべき世界大会と位置付けて、オリンピックはアマチュア最高の大会であるとの意見を述べております。その考え方に異論はありませんが、では果たしてこれらの大会が「日米野球の優劣」を考える材料になり得るか?、と言うと現時点では疑問符が付きます。WBCについて言及致します。

【歴代のWBC結果】
           優勝     準優勝    3位     4位
 第1回(2006年) 日本     キューバ   韓 国    ドミニカ
 第2回(2009年) 日本     韓国     ベネズエラ  米国
 第3回(2013年) ドミニカ   プエルトリコ 日本     オランダ

 WBCの過去の結果を見ると、日本、すなわち「侍ジャパン」は世界的に強いチームであると言えます。しかしながら、この結果をから日本プロ野球が米大リーグに迫るレベルであるとは言えません。この日本チームはそのまま日本のプロ野球と同じではありませんし、同様に米国チームが米大リーグと同義でもありません。
 日本やプエルトリコ、ドミニカなどのチームには大リーグで活躍中の選手も含まれるため、WBCにおけるこれらのチームは実際の自国のプロ野球よりもレベルが高い選手の構成となります。一方、米大リーグは各国のスター・プレーヤーを構成要員としておりますので、WBCにおける米国チームは米大リーグよりもレベルが落ちることになります。
 さらに言えば、米国人であっても、米大リーグの一流プレーヤーで、シーズンの公式戦を重視してWBCに参加しない選手は多数おります。球団との契約、年俸に影響するものを重視するビジネス・ライクの考え方は、日本のWBCに対する姿勢とは大きく異なるものであります。
 WBCが「日米野球の優劣」、すなわち日本プロ野球と米大リーグのレベルの違いを示すものにはなりません。


◇ 来日と渡米の異なる移籍時期

 「日米野球の優劣」を考える材料として、以下に示します幾つかのケースを取り上げて参りました。

 1)来日してから成功を修めた外国人野手たち
 2)メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち
 3)日本からメジャーに渡った野手たち


 当ブログで取り上げたのは、日米で活躍した選手たちばかりでありましたが、実際には、米国では芽が出ずに来日してやはり日本でも駄目であった選手や、メジャーの実績を引っさげて来日したベテランが肉体的な衰えから日本では全く活躍できなかった選手もおりました。
 広く日米間の移籍選手を眺めた時、はっきり言えることは、米国から来日する外国人選手と日本から渡米する日本人選手では、個々の選手の野球人生における時期が異なることであります。

【米国から日本/日本から米国 の時期】
日米移籍の時期

 表に示した通り、米国から来日する選手は「まだ実績のない若手の時期」か「実績はあるが衰えが見えるベテラン」が多く、日本から渡米する選手でそういう時期の選手は稀でありました。一方、日本から渡米する多くの選手が「最も脂がのった旬な時期」であるのに対し、そうした時期に米国から来日する外国人選手は皆無であります。日本で活躍して渡米した日本人選手の中に米国ではレギュラーをつかめない選手がいるのに対して、米国でまさに旬の選手が来日することはなく、そうした選手が日本でどれほどすごい成績を収めるかは分かりません。このことが「日米野球の優劣」を考えるのを難しくさせていると思います。


◇ インタビューの中にヒントがある「日米野球の優劣」

 実は「日米野球の優劣」を考えるヒントが日米通算4257安打の際のイチロー選手のインタビューの中にあります。

 *****

― 日本のファンが自分たちの喜び、誇りになると国中が喜んでいる。こちらでプレーヤーとしてそういうことを与えられたということについては?

「それは嬉しいんですけど、難しいところですねぇ、合わせた記録というところが。だから、いつかアメリカで、ピート・ローズの記録を抜く選手が出てきてほしいし、それはジーターみたいな人格者であることが理想ですし、もっと言えば、日本だけでピート・ローズの記録を抜くことがおそらく一番難しい記録だと思うので、これを誰かにやってほしい。とてつもなく難しいことですけど、それを見てみたいですよねぇ。だから、日米合わせた記録とはいえ、生きている間に見られて、ちょっとうらやましいですね、ピート・ローズのことは。僕も見てみたいです。」

 *****


 イチロー選手はさりげなく言っております。

「日本だけでピート・ローズの記録を抜くことがおそらく一番難しい記録」

 それが何故なのかを考えた時に、おのずと答えが出てきます。それは、前の項で着目した「来日と渡米の異なる移籍時期」にも関連して来ますが、ローズの記録を抜くほどの旬の選手は、イチロー選手と同様、米大リーグを目指してしまいます。逆に米大リーグの最高のプレーヤーが日本でプレーすることはありません。このことが「日米野球の優劣」に対する答えであると思います。


◇ おわりに

 イチロー選手の大記録に対するピート・ローズ氏の異論に触れて、「日米野球の優劣」を考えました。両選手ともに野手でありましたので、投手については触れず、野手のみを取り上げましたので片手落ちの感は否めません。少しだけ申しますと、野手と似た様な傾向があって、米国では1勝もできなかったのに(2敗0セーブ)、横浜〜巨人の6年間で177セーブを記録したマーク・クルーン投手の様に、米国では全く通用しなかった投手が日本で大成することはよくあります。逆に、野茂 英雄 投手、佐々木主浩 投手など日本のエース・ピッチャーは米国でも成績を残しました。今年の前田 健太 投手も、全く期待を裏切ることなく活躍しております。

 さて、「日米野球の優劣」を、日米間で移籍した個々の選手の成績で判断するには限界があります。なぜならば、あくまでも個人の野球人生であり、目の前の生活にいかにして真剣に取り組むか、与えられたポジションでどう最高のプレーをするか、と言う個人の取り組み方によるところが大きいからであります。もちろん運・不運もありますし、指導者、指揮官に恵まれるか否かもあります。
 ゆっくりと1ヶ月近くを費やして「日米野球の優劣」を考えてきたのに、イチロー選手のインタビューの一言、「日本だけでピート・ローズの記録を抜くことがおそらく一番難しい記録」との発言をもって結論とするのは、あまりにも安易で、浅薄な発想かも知れませんが、米大リーグには日本プロ野球を超える、憧れ、ドリームと言うものがあって、それはお金(契約金、年俸)だけでは説明がつかないものであると思います。

 イチロー選手が、ピート・ローズ選手の記録を超えた超えない、と言ったことや、日米野球のどちらが上であるかと言った議論の前に、日本から米国に渡って、(もし米大リーグの方が優勢であるならば)より高いレベルにおいて最高のパフォーマンスを発揮した人物がいたこと、そのことがこの議論ほ始まりであって、そこにもっと大きな意義があると思います。日本人に夢と誇りを与えてくれたイチローと言う1アスリートに深く感謝する次第です。

日本からメジャーに渡った野手たち 〜 日米野球の優劣について 〜 04


 「助っ人外国人」として米大リーグから来日した野手をご紹介してまいりましたが、逆に、こちらのでのプレーが鮮明に思い出される、日本からメジャーへと渡った選手の、米国での成績を見ることにより「日米野球の優劣」が分かりやすいと思います。ここでも何人かの選手を取り上げますが、各選手の細かい経歴やエピソードは他に譲るとして、成績のみに注目いたします。


◇ イチロー

 改めてイチロー(鈴木 一朗、1973年10月22日〜)選手の年度別成績を供覧いただきますが、先の投稿でも申した通り、イチロー選手は、プロ入り9年目の2000年、日本プロ野球記録である通算7度目の首位打者、7年連続通算7度目となるベストナイン、ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得して、10年目となる01年、28歳のシーズンにシアトル・マリナーズにポスティング・システムでの移籍となりました、まさに脂の乗り切った、人生で最も「旬」な時期の渡米となりました。

イチロー打撃写真

【イチロー 選手 年度別打撃成績(昨年終了時点まで)】
イチロー年度別成績

 メジャーに移籍したイチロー選手、すぐに .350で首位打者となり、4年目のシーズンにはシーズン262安打の新記録で2度目の首位打者( .372)に輝き、昨年までのメジャー15年間で、200安打以上が10回、そのうちリーグ最多安打は7回にも及び、30盗塁以上も10回を数えております。この成績からは、日米野球の優劣はとても語れない、彼は日本でとほぼ同等の成功を米国でも修め、メジャー移籍によて成績が落ちることはなかったと言えるでしょう。


◇ 松井 秀喜

 イチロー選手ほどではありませんが、メジャー移籍で立派な成績を修めた野手として松井 秀喜(1974年6月12日〜)の成績も供覧いたします。松井選手もイチロー選手同様、野球人生最高の時期に渡米したことがデータから解ります。02年、28歳の彼は読売ジャイアンツにて50本塁打107打点の二冠王に輝き、自己最高打率 .334を最後に日本球界を去りました。

松井秀喜 打撃 写真

【松井 秀喜 選手 年度別打撃成績】
松井秀喜 打撃成績

 ニューヨーク・ヤンキースでの1年目、179安打、16本塁打、106打点 .287よりスタートし、2年目には本塁打30本超え(31本)、3年目に規定打席3割到達( .305)と、順調に成績を伸ばして主力選手であり続けました。極めて残念だったのは、メジャー移籍4年目の06年5月11日の本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の、浅めのレフト・フライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首、橈骨を骨折してしまいました。また、翌年以降も内股の肉離れ、左右の膝の故障に苦しめられ、成績も以後、下降線をたどることとなりました。
 松井選手のイチロー選手との大きな違いは故障に泣かされた点であり、これはたいへん残念なことでありましたが、メジャー移籍からの3年間は日米野球の優劣を感じさせない活躍でありました。


◇ 青木 宣親

 青木 宣親(1982年1月5日〜)選手、今なお現役プレーヤーではありますが、今年は極度の不振に陥っており、ここには米国大リーグのレベルの高さを感じさせます。
 早稲田大学より03年のドラフト4巡目でヤクルト・スワローズに入団して2年目には頭角を現し、202安打、.344で首位打者に輝きました。日本プロ野球在籍の8年間で、規定打席到達の3割が6回で、そのうち3割4分以上が4回と、イチロー選手の再来のように思われておりました。

青木 宣親 打撃 写真

【青木 宣親 選手 年度別打撃成績(昨年終了時点まで)】
青木 宣親 打撃成績

 ミルウォーキー・ブルワーズでのメジャー移籍は、12年、30歳となる年であり、最初の3年間、そこそこ活躍するものの、なかなか3割には届かない年が続きました。3割4-5分の打率が2割8分台ですので、明らかに米大リーグでは日本にいた時と同等な活躍はできない青木選手がおりました。昨年、メジャー3球団目のサンフランシスコ・ジャイアンツで出場機会が減り、今年はシアトル・マリナーズに在籍しておりますが、打率 .247と不調にあえぎ、6月24日、AAAに降格となりました。
 まだ現役でありますので、今後の巻き返しに期待いたしますが、現在34歳の彼が、まだ老け込む歳ではなく、日本プロ野球にいたならば、今の状況は考えづらく、もっともっと素晴らしい成績を残せたように思います。この選手の成績を見ると、米大リーグの方が厳しい環境であったと考えられます。


◇ 川崎 宗則

 青木選手よりもさらに米大リーグの壁に当たっている選手がいます。川﨑 宗則(1981年6月3日〜)選手は、高卒2年目よりダイエー/ソフトバンクの11年間で1145試合に出場、1343安打、267盗塁を記録し、最多安打、盗塁王のタイトルを経験しており、3割の常連でありました。

川崎宗則 打撃 写真

【川崎 宗則 選手 年度別打撃成績(昨年終了時点まで)】
川崎宗則 打撃成績

 31歳の年に憧れのイチロー選手がいるシアトル・マリナーズにメジャー移籍しましたが、これまでのところレギュラーの座を掴むことはなく、昨年は23試合の出場で6安打、今年は3A暮らしが長くなっております。この選手が、今までのところメジャーで成功していない理由は解りませんが、やはり日本におれば、もっともっと素晴らしい活躍をして、一流プレーヤーの1人となっていたと考えます。メジャーの壁を思わせる1人です。この選手も巻き返しに期待です。


◇「日本からメジャーに渡った野手たち」を見て

 上で挙げた選手以外にもたくさんの野手がメジャー移籍をしており、いくらか活躍した選手もいますが、そのほとんどが野球人生において最高の状態で渡米しており、しかし、残念ながら多くの場合が日本プロ野球時代よりも成績を落としております。日本プロ野球時代と同等かそれ以上に及ぶ、イチロー選手の大記録や故障までの松井選手のような活躍は稀であります。これまでのところ、米大リーグの野球は、日本に比べて、少なくとも、選手層が厚く、ともすると容易にレギュラーから外れてしまう、そんな印象を持ちます。


メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち 〜 日米野球の優劣について 〜 03


 ゆっくりとしたペースで論じておりますが、日米野球の優劣を考える題材として、米大リーグでの活躍は無かったものの日本野球で成功を修めた外国人野手を何人かご紹介しました。取り上げたランディー・バース、アレックス・ラミレス、タフィ・ローズ、そしてロバート・ローズと言った選手たちが、もし来日せずに米大リーグに残留していたならば、そのままレギュラーにはなれずに活躍することはなかったかどうか、それは解らない、ちょうどプレーヤーとして最高の時期が日本滞在期間であった可能性を申し上げました。
 さて今度は、同じ来日外国人野手でも、米国での成績が異なるタイプの選手をご紹介して、やはり、日米野球の優劣を考えたいと存じます。「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」でありますが、ここで1つだけ、はっきりと申し上げなければならないことがあります。
 日本人が米大リーグに挑戦する場合は、全てではありませんが、多くの選手が脂の乗り切った、まさに人生で最も「旬」な時期に渡米します。その最たる例がイチロー選手で、プロ入り9年目の2000年、日本プロ野球記録である通算7度目の首位打者、7年連続通算7度目となるベストナイン、ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得して、10年目となる01年、28歳のシーズンにシアトル・マリナーズにポスティング・システムでの移籍となりました。
 これに対して、米大リーグからの助っ人外国人で「メジャーで活躍してから来日した」と言えども、その活躍は直近のものではありません。「かつて活躍した」と言うものであり、メジャーにおいて今まさに活躍している、野球人生で最高の成績を挙げているまさに「旬」な選手の来日は皆無であります。

 日本人のメジャー挑戦の多くは脂の乗り切ったまさに人生で最も「旬」のことが多い
 今、まさにメジャーで活躍していて、人生で最高の成績を挙げている選手の来日は皆無


 これは、ある意味、当然であり、日本人は米大リーグに憧れるけれど、米大リーグの選手は日本プロ野球にそうした意識はなく、もちろん契約金や年俸面で日米に大きな違いがあります。日米野球の優劣を考えるにあたり、日本から米国へ、米国から日本へと移籍した選手を取り上げるのは、ごく自然の発想ではありますが、実は個々の選手の野球人生における浮き沈みについては、「日本から米国」、「米国から日本」に大きな違いがあると言えます。

 さて、前置きが長くなりましたが、「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」として、ちょっと古いですが、典型的な選手をご紹介します。横浜スタジアムに移転となった横浜大洋ホエールズに来日したフェリックス・ミヤーンと言う選手です。


◇ フェリックス・ミヤーン Felix Millan

 フェリックス・ミヤーン(Felix Bernardo Millan Martinez, 1943年8月21日〜)選手、上で「典型的な選手」と申しましたのは、「助っ人外国人」として典型的と言う意味ではなく、「メジャーで活躍して、衰えあるいは故障してからの来日」と言う意味であります。この選手は、パワー・ヒッターではなく、長打が少ない、安打製造機である点では、外国人として異色の存在でありました。

ミヤーン記事

 68年、25歳のシーズン、アトランタ・ブレーブスでレギュラーとなった彼は、米大リーグ実働12年で、70年、自己最高のシーズン打率 .310を記録、74年にはニューヨーク・メッツの一員として日米野球で来日、「キャット」の愛称が日本でも知られることに、翌75年は全162試合出場で、自己最高のシーズン191安打を記録しました。その翌年は139試合の出場にとどまり、150本安打と成績を下げ、77年のシーズン中、セカンドの守備でランナーと交錯、右鎖骨を骨折するアクシデントに見舞われました。同オフ、横浜大洋ホエールズからのオファを受けて、35歳となる78年の来日となりました。
 バットを水平に寝かせて構える独特のバッティング・フォームでしたが、来日1年目は鎖骨骨折の後遺症があって、肩が思わしくなく、あくまで私の記憶ですが、ある横浜大洋 vs 巨人の試合で、1アウト ランナー1, 3塁、打者 王貞治選手、斎藤明夫投手の投球に対してショートゴロでありましたが、ショート 山下大輔選手から転送されたボールを2塁ベースのミヤーン選手はジャンピング・スローしましたが、力無い送球は1塁に届かずセーフ、3塁ランナーがホームインでこれが巨人の決勝点と言うことがありました。
 ただ、バッティングは、さすがは大リーガーと思わせる能力があり、来日本塁打は78年5月23日の巨人戦、故 小林繁投手からの満塁アーチでありました。パワーはありませんけれども、当時の米国ではほとんど対戦がないタイプである故 小林投手の球をレフトに強振できるところに非凡な力を感じました(75年にメジャー・デビューしたエカーズリー投手はアメリカン・リーグのクリーブランド・インディアンスで、ミヤーン選手はナショナルリーグのニューヨーク・メッツ)。

 ミヤーン選手が年齢詐称とする松原氏のインタビューと故 小林繁投手からの本塁打シーン YouTube

 来日2年目となる79年、横浜大洋球団は二塁手の基満男選手を西武ライオンズからトレードで獲得しました。これはミヤーン選手の年齢的衰えを考慮しての方策と思われますが、この年の彼は、怪我と称して上手に休みながらもギリギリ規定打席に到達、打率 .346をマークして、球団史上初の首位打者に輝き、ベストナインにも選ばれました。36歳での首位打者獲得は、それまでの故 川上哲治氏、長嶋茂雄氏が持っていた日本プロ野球での最高齢記録を塗り替えるもので現在も破られていません。

【フェリックス・ミヤーン選手 年度別打撃成績】
フェリックス・ミヤーン年度別成績

 ミヤーン選手にとって何よりも幸いだったのは、鎖骨骨折と加齢に衰えを迎えた34歳の、ちょうど良いタイミングで日本からのオファーが来たことでした。そして、来日初年度は127安打2本塁打で打率 .287と平凡に物足りない成績であったのに、現役大リーガーに期待したのか?、横浜大洋は契約の延長をしてくれました。79年の史上最高齢の首位打者は、98試合の出場で、試合数が多く、広い国土を移動しながらダブルヘッダーも多い、米大リーグ時代とは雲泥の、随分と楽なシーズンを送ったものと思われます。言葉は悪いですが、昔の日本プロ野球は米大リーグの選手たちが故障や加齢に伴う衰えに際しての再就職先でありました。


◇ ラリー・パリッシュ Larry Parrish

 似たような選手をもう1人ご紹介します。ラリー・アルトン・パリッシュ(Larry Alton Parrish, 1953年11月10日〜)選手は、モントリーオル・エキスポズ、テキサス・レンジャース、ボストン・レッドソックスを経て、89年、ヤクルト・スワローズで来日したホームラン・バッターでありました。この選手は、米大リーグにおいて、2度の大活躍がありました。1度目は、79年のエキスポズ時代に167安打、30本塁打で打率 .307であり、2度目はレンジャーズでの84年、175安打22本塁打、101打点、打率 .285を記録しました。デビューから6年目の26歳時と脂がのりきった31歳時の成績であります。87年にも32本塁打、100打点を記録しましたが、この年は152試合に対して154三振と肉体的衰えを大振りすることでカバーしたと思われる記録が残っております。35歳となる88年、ついに全く打てなくなり、打率1割台でシーズン途中にレンジャースからレッドソックスへと移籍、シーズン通じて88安打、14本塁打、打率 .217と低迷しました。

パリッシュ活躍の記事

 89年、37歳、メジャー 256本塁打の記録をひっさげてヤクルトに入団、「ワニを食べる男」として話題となり、この年、42本塁打、103打点をマーク、本塁打王のタイトルを獲得し、ベストナインに選ばれました。しかし、三振も多く、池山隆寛、広沢克己 両選手と、3人揃って「100三振トリオ」と呼ばれ、同年オフに就任した野村克也 監督の評価は低く、ヤクルトを自由契約となりました。現役最後の年は、阪神タイガースにて95安打、28本塁打、80打点、.249の成績で終わりました。

【ラリー・パリッシュ選手 年度別打撃成績】
パリッシュ年度別成績

 パリッシュ選手は、年齢的限界から、米大リーグで通用しなくなった選手が、日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた典型だと思います。自身シーズン最高となる42本塁打は米大リーグでも経験のないリーグ本塁打王ですし、メジャーでは経験のないベストナインに選出されました。こうしたケースを見ると、米大リーグの方が日本プロ野球よりも厳しい世界であると思わされます。


◇ アンドリュー・ジョーンズ Andruw Jones

 もう1件、日米の野球レベルが拮抗して来たと言われるごく最近の選手をさらりとご紹介します。アンドリュー・ルドルフ・ジョーンズ(Andruw Rudolf Jones, 1977年4月23日〜)はオランダ出身の米大リーグにおけるスター・プレーヤーでありましたが、晩年を日本プロ野球、楽天・ゴールデン・イーグルスで過ごしました。

ジョーンズ画像

 「こんなすごいプレーヤーが日本に来たんだ!?」って思わせるほどの年度別打撃成績を以下に示しますが、上で紹介しましたラリー・パリッシュ選手と似たような経過を辿っております。この選手の「旬」は20代前半から後半にあったように思われます。00年、23歳のシーズンは3割、30本(36本塁打)、199安打で104打点、しかも21盗塁でありました。外野手として、98年から07年までの10年間、ゴールド・グラブ賞に輝き、今で言うならばヤクルトの山田哲人 選手のような三拍子そろった選手でありました。05年にはリーグ最多の51本塁打と打点王128打点で2冠を達成、プレイヤーズ・チョイス・アワーズ(Players Choice Awards)と言う、メジャーの選手会で選ばれるナショナル・リーグ優秀選手および両リーグ年間最優秀選手に選出されました。ちなみに、その前年のアメリカン・リーグの優秀選手はイチロー選手であります。米大リーグにおいて、シーズン30本塁打以上が7回、100打点以上が5回に及んでおります。

【アンドリュー・ジョーンズ選手 年度別打撃成績】
ジョーンズ年度別成績

 こうした優れた選手であっても、故障や年齢的な衰えは訪れます。07年のシーズンは肘を痛めて鎮痛剤の注射を打ちながらの出場であったとされます。同年オフにはフリー・エージェントとなり、ロサンゼルス・ドジャースと、日本円にして約36億円で2年契約を結びましたが、08年のシーズンは極度の不振で1年で解雇となりました。実はこの年以降、米大リーグでは規定打席に達することはありませんでした。ドジャースを解雇となった彼は、レンジャース、ホワイトソックス、ヤンキースと渡り歩きましたが、年間40〜60安打で10数本の本塁打、12年にはヤンキースで打率1割台にまで低迷しました。
 彼もパリッシュ選手同様、晩年に日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた選手でした。13年のシーズンは、チーム144試合中143試合に4番で出場、26本塁打で94打点、オールスターに出場し、楽天の日本一にも貢献しました。米大リーグのままであったらこれほどの活躍はなかったと思います。


◇「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」を見て

 もちろん、メジャーで活躍して来日したものの、全く日本プロ野球で満足いく仕事ができなかった選手は数多くいます。そうした選手たちは、大きく峠を過ぎており、米大リーグと同様に日本プロ野球でも通用しないレベルにまで落ち込んでいた、あるいは、日本プロ野球を舐めてかかり、老後の小遣い稼ぎのような感覚で来日した選手もいたと思われます。
 一方、今回、取り上げて選手たちは「メジャーで活躍してから来日した外国人野手たち」でありかつ、日本プロ野球で最後のひと花を咲かせた選手たちであります。彼らは、米国大リーグに残留したとしても、日本で残したような活躍はできなかったように思えます。彼らの努力、心機一転の巻き返しや、日本プロ野球への順応と言った、そうした要素は否定しませんが、こうした選手の存在を考えるにつけ、日本プロ野球よりも上を行く、米大リーグの選手層の厚さや、生き残りの厳しさを感じざるを得ません。

来日してから成功を修めた外国人野手たち 〜 日米野球の優劣について 〜 02


 日米野球の優劣を主張するピート・ローズ氏が言うところの、「(元近鉄の)タフィー・ローズはメジャーではさっぱりだったが…」来日してから成功を修めた選手は多数おります。むしろ、日本で活躍した外国人選手のかなりの部分をこうした選手が占めると言えます。「プロ野球」、「外国人」で検索すると、ある記事が目に入ってまいりました。

No1 助っ人

 「歴代最強助っ人外国人、週刊ベースボール社が球界人200人に聞いたベスト10」と題して、プロ野球の優れた外国人選手として紹介されているのは以下の10人であります。

 第01位 ランディー・バース(阪神)
 第02位 アレックス・ラミレス(ヤクルト、巨人、横浜DeNA)
 第03位 アレックス・カブレラ(西武、オリックス、ソフトバンク)
 第04位 タフィ・ローズ(近鉄、巨人、オリックス)
 第05位 ロバート・ローズ(横浜)
 第06位 ロベルト・ペタジーニ(ヤクルト、巨人、ソフトバンク)
 第07位 同率 ブーマー・ウェルズ(阪急、福岡ダイエー)
 第07位 同率 オレステス・デストラーデ(西武)
 第07位 同率 ウィリー・モー・ペーニャ(ソフトバンク、オリックス、東北楽天)
 第10位 ラルフ・ブライアント(中日、近鉄)


 この10人中、ペーニャ以外の9人に共通しているのは、来日前にほとんど米大リーグでの実績がないと言うことです。ペーニャにしても大リーグ生活8年間で5球団を渡り歩き、規定打席到達は1度もなく、メジャー通算425安打程度でありました。米大リーグでの実績がないのに、来日してから成功を修めた選手たちを何例か取り上げて簡単に解説いたします。


◇ ランディ・バース Randy Bass

 阪神で活躍したランディ・バース(Randy William Bass、1954年03月13日〜)選手は、米大リーグ時代に、すでに長打力は高く評価されていたそうですが、全力疾走ができないため守備にはつけられず、また速球には弱い弱点もあったとのことです。1983年に来日、1985年には打率 .350、54本塁打、134打点で三冠王に輝き、阪神、21年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献、シーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成しました。翌1986年も打ちまくり、2年連続の三冠王に、シーズン打率 .389は今なお日本記録であります。
 バース選手の日本での活躍にはいくつか要素があります。現代との大きな違いとして、球場の広さがあります。阪神の本拠地、甲子園球場は1991年まで左中間と右中間にラッキー・ゾーンがありました。バース選手は高い飛球を打つ傾向にありましたので、広い球場では外野手に捕球されてしまうような打球でもスタンド・インと言うケースがあったと思われ、これは打率、本塁打の向上に有利でありました。
 投手の質も米大リーグや現在の日本とは少し違ったと思われます。今から30年も前、当時の日本の投手は球速にして140 km/h前後がせいぜいで、これを超える球威がある投手は各チームに1人、2人であったと思われます。1985年の巨人には江川(11勝7敗)、斎藤雅(12勝8敗)、槇原(4勝7敗)各投手がいて、これほどの速球投手が揃っているチームは珍しく、多くのチームがエース投手や抑えの切り札のみが140 kg/hを超える速球を投げるものの、控え投手の球威の無さは米大リーグの比ではなく、速球に弱かったバース選手にはもってこいの環境でありました。
 優良外国人選手に共通の要素として、野球に対して極めて真面目であったことも言われています。バース選手は来日当初、アウトローの落ちる球に空振りを繰り返していました。低迷する阪神が第3の外国人としてリチャード・オルセン投手を獲得した際、日本の野球に適合していると評価されたスティーブ・ストローター選手を残してバース選手を解雇するプランがあったそうです。結局、球団がストローター選手を解雇してバース選手を残留させたのは、彼の態度、努力、人格を評価したと言われております。

ランディ・バース写真

【ランディ・バース選手 年度別打撃成績】
バース年度別成績


◇ アレックス・ラミレス Alexander Ramirez

 アレックス・ラミレス(Alexander Ramon Ramirez、1974年10月03日〜)選手は、ベネズエラ出身でヤクルト、巨人、横浜DeNAに所属、歴代外国人野手で唯一、2000本安打を達成、名球会選手であります。2016年現在、横浜DeNAの監督であり、これは同球団史上初の外国人監督であり、日本プロ野球では初のアメリカ人以外の外国人監督であります。
 米大リーグ時代はピッツバーグ・パイレーツにてスタメン起用されていたものの、極度のスランプに陥りチャンスをものにできなかったようですが、先述のバース選手同様、守備力は乏しく、果たして長期に渡り大リーグで活躍できたかは疑問でした。
 主としてヤクルト、巨人での活躍は記憶に新しいところですので解説の必要はないと思いますが、彼の偉業の中で、この選手を語る上で忘れてはならないのが2007年の成績であります。122打点、204安打、打率 .343、すなわち「100打点、200安打、打率3.00割」以上であり、これは、松井選手、イチロー選手も記録したことがない、日本プロ野球史上唯一の記録であります。
 ラミレス選手の打撃は、癖がない至ってオーソドックスな印象でありましたが、好打者に共通する、引っ張り専門ではない、右方向に追っ付ける柔軟なものでありました。彼の最大の特徴は、バッテリーの配給、とりわけ捕手のリードに対する研究でありました。「試合を支配する要素の70%はメンタリティー、残り30%がフィジカル」との考え方から、捕手が配球の主導権を握る日本野球のスタイルに合わせて、「捕手を中心に研究する」ようになったとされます。このあたりは、米大リーグには無い日本の野球にアジャストした結果と言えるかも知れません。

ラミレス2000本安打

【アレックス・ラミレス選手 年度別打撃成績】
ラミレス年度別成績


◇ タフィー・ローズ Tuggy Rhodes

 本名、カール・デリック・ローズ(Karl Derrick Rhodes、1968年08月21日〜)選手は28歳での来日で41歳まで現役でありました。日本プロ野球では唯一の400本以上の本塁打を記録した外国人選手であります。
 米国においては、1988年の1Aで65盗塁を記録するなど、俊足の中堅手として期待された選手でしたが、本人は長距離打者を目指しており、これが大リーグに残れなかった理由とされます。1994年のシカゴ・カブス時代、ニューヨーク・メッツとの開幕戦に先発出場して、ドワイド・グッデン投手から3打席連続本塁打を記録しました。この経験がさらに彼に、俊足を生かす選手よりもパワー・ヒッターをビジョンさせたのかも知れません。
 さて、ローズ選手の年度別で目を見張るのは、何と言っても三振の多さだと思います。近鉄入団から、規定打席に到達しなかった、オリックスでの選手生活最終年の2009年に途絶えるまで、日本プロ野球在籍の13年中、12年間に100三振以上を記録、130三振以上は7回に及び、合計では1655三振を数えました。1度もシーズン100三振を経験しなかったバース選手やこの後に紹介するロバート・ローズ選手とは雲泥の差であり、また年を重ねるにつれて三振数が減ったラミレス選手とも違う、むしろ三振数は歳と共に増加しております。
 そんな、昔の言い方で「大型扇風機」と揶揄されるような選手でありましたが、シーズンの打率は3割超えが3回あり、通算では .286とまずまずでありました。三振が多いのに打率を稼げて長打力がある、と言うのは、この選手が類い稀なる身体能力に恵まれているからと思います。スウィング・スピードの速さ、ボールを遠くに飛ばすパワーであります。つまり、引っ張り専門の荒い打者なので、空振りは多いものの、バットに当たりさえすれば詰まってでもヒット・ゾーンに打球が落ちる、そんな打撃スタイルであった、日本で成功した最大の理由はその優れた身体能力を上手に活用したため考えます。

タフィーローズ写真

【タフィー・ローズ選手 年度別打撃成績】
タフィローズ年度別成績


◇ ロバート・ローズ Robert Rose

 ロバート・ローズ(Robert Richard "Bobby" Rose, 1967年3月15日〜)選手は、ブログにていずれは必ず取り上げたい大洋〜横浜の歴史上最高の外国人選手であります。同時に申し上げたいのは、本年4月9日に他界した 故 牛込 惟浩(うしごめ ただひろ、享年79歳)氏の、大洋〜横浜、外国人スカウトとしての集大成であり、最高の仕事であったと言うことです。

牛込氏とその著書
故 牛込 惟浩 氏 と 著書「サムライ野球と助っ人たち 横浜球団スカウトの奮闘記」

 ロバート・ローズ選手は、1985年の米大リーグ、ドラフト5巡目指名選手であり、1989年、カリフォルニア・エンゼルスでメジャー昇格した際には、将来を嘱望される野手であったそうです。故牛込氏の記述では、1989年、別の選手の視察でエンゼルスのキャンプを訪れた際に、知り合いから「とても有望な選手がいるよ!」と紹介されたのがロバート・ローズ選手であり、それ以来、注目していたとのことでした。1992年5月、ニューヨークからボルチモアへ移動中だったバスが交通事故を起こして足を故障したためマイナーへ降格となり、そのオフ、横浜大洋ホエールズ球団(直後に「横浜ベイスターズ」に改称)との契約となりました。 彼は、この、日本のプロ野球チームへの入団を心から喜んで、契約書を胸に抱いて寝た、との逸話が残っております。今から24年前の1992年11月、ローズと言う名の選手の入団を知った私は、ふと「ピート・ローズくらいに働いてくれればなぁ!」と思ったものの、年俸3500万と知りちょっとがっかりしたのが想い出されます。スナップ・スローでダブルプレーが採れる「守備の人」との振れ込みでありました。

ロバートローズ守備写真

 ロバート・ローズ選手にとって幸いであったのは、ミルウォーキー・ブリュワーズやシンシナティ・レッズで活躍し、知名度が高く、大リーグの大先輩であるグレン・ブラッグス選手が同時に入団したことだったと思います。各球団のマークが分散したと言うことはあります。それ以上に、大変、優しいタイプの人間ですが、元々の真面目な性格に、ブラッグス選手の熱さ、ガッツや不屈の精神のようなものを教わったように思います。ブラッグス選手と一緒にいた3年間がその後の5年間に大きく影響したように考える次第です。

ブラッグスとローズ写真

 ロバート・ローズ選手の打撃は、多くの種類のバッド・スウィングを繰り出し、広角打法であり、軽打あり、強振あり、押っ付けた打撃ありで、極めてバラエティに富んでいたと思います。巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかく単打を打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とされるほど恐れられており、鹿取義隆コーチは「投手から見ると、どこに投げても打たれそうな雰囲気のあるバッターでした」と語っています。横浜時代同僚だった駒田徳広氏は、「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットにしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間に打球が飛んでいく。その技術は凄かったですね」と語っております。
 他の選手同様、打撃成績を下に供覧しますが、取得したタイトルは、首位打者 1回 (1999年)、打点王 2回 (1993年、1999年)、最多安打 2回 (1999年、2000年)、最高出塁率 1回 (1997年)、最多勝利打点 1回 (1994年)でありました。「お祭り男」のような要素もあって、史上唯一のサイクル安打3回(1995年05月02日 中日戦、1997年04月29日 ヤクルト戦、1999年06月30日 広島戦)を記録、4回出場したオールスター・ゲームのうち、1999年第2戦目には1試合最多タイの6打点をたたき出しました。1998年、大洋〜横浜球団として38年ぶりのリーグ優勝、日本一に輝いた「マシンガン打線」の4番バッターでありました。
 日本プロ野球における通算打率 .325は、生涯通算打率ランキングの条件である4000打数に71足りないものの、ランキング1位のレロン・リー選手の .320を上回っており、横浜時代に記録した1275安打は、外国人選手が一球団で放った安打数としてはロッテのレロン・リー選手に次いで史上2位であります。

 レロン・リー(11年)  1315試合 5485打席 4934打数 1579安打 283本 33盗塁 690三振 .320
 ロバート・ローズ(08年)1039試合 4525打席 3929打数 1275安打 167本 16盗塁 566三振 .325


 彼が日本で成功した理由、彼の研究心は、日本の投手やバッテリーの配球よりも、自身の打撃、身体能力に向けられていたように思います。打撃フォームがシーズンによって少しずつ変化して、例えば、来日時にはしっかりとしたクラウチング・スタイルでしたが年を経て徐々に起きて来たように記憶しています。スタンスも大きくオープンだったことも、スクエアだったこともあります。
 8年間で体型も随分変わりました。筋肉トレーニングを趣味のように重ねていましたので、年を追う毎にマッチョマンへと変身してまいりました。1996年、大矢監督の下、三塁にコンバートされた際に打撃不振となり、最終的には三割( .304)に到達したものの、16本塁打は助っ人外国人としてどうか?、と球団側がパワー面を物足りなく思っていたことがありましたが、弛まぬ努力の結果、パワー・ヒッターとしても開花し、1999年には37本塁打を記録するまでになりました。

ロバートローズ写真

 ロバート・ローズ選手 日本球界復帰のニュース YouTube

【ロバート・ローズ選手 年度別打撃成績】
ロバートローズ年度別成績


◇ 来日してから成功を修めた外国人野手たちを振り返って

  「歴代最強助っ人外国人、週刊ベースボール社が球界人200人に聞いたベスト10」の中の、第01位 ランディー・バース、第02位 アレックス・ラミレス、第04位 タフィ・ローズ、第05位 ロバート・ローズ 各選手について簡単に触れてまいりました。この4人の外国人選手に関して言えば、米国では、レギュラー選手にはなれず、成績を残せなかったものの、日本では水を得た魚のように活躍することができました。これをもって、日本の野球が米大リーグよりもレベルが低いとするのは早計かも知れません。新天地で真剣に野球に取り組んで、球団は「助っ人」としてチャンスを与えて、同時にプレーヤーとして最も脂が乗り切った「旬」な時期を日本で過ごしたと言えます。もし、この外国人たちが活躍した同じ時期に米大リーグにいたとしたら、やはり同じように活躍したかも知れない、それくらいハイレベルの選手たちでありました。
 また同時に、これらの選手と同様に、米大リーグでは活躍できなかった、あるいはそこそこの成績であった選手で、助っ人として来日したものの、日本でもいい仕事ができなかった外国人は無数におります。来日する助っ人外国人が日本で活躍するかどうかは、必ずしも日米野球の優劣では決められない、ピート・ローズ氏が言うところの、「(元近鉄の)タフィー・ローズはメジャーではさっぱりだったが、日本では55本塁打を放った、これが真実だ。」と、「来日してから成功を修めた外国人野手たち」という、ある一面だけを見て米大リーグの優位性を言うことは難しいと思います。

 もう一つ、心情的なことを言わせていただきますと、上で挙げたような外国人たちは日本のプロ野球において多くの夢を与えてくれた存在であります。異国から来た選手とは言え、彼らの熱意と努力を垣間見た時、日本の野球のレベルが低いから活躍できたのだ!、とは簡単に言えない気持ちはありますね。

イチロー選手「ローズ超え」日米通算4257安打 〜 日米野球の優劣について 〜 01


 米大リーグ、マイアミ・マーリンズのイチロー外野手が2016年6月15日(日本時間16日)の敵地パドレス戦で日米通算4257安打(日本プロ野球 1278本、米大リーグ 2979安打)を記録し、ピート・ローズ選手の米大リーグ歴代最多、4256安打を超えました。今さらこの題材を取り上げるのに記録達成から2週間の時間を要しました。話題となっている「日米通算」の記録に賛否両論があって、これに対する私見をまとめておりました。まずは、記録達成の映像、YouTubeのリンクを貼り付け、試合後のインタビューでのコメントを全文でご紹介いたします。

 フジテレビ とくダネ!「速報、イチロー歴代最多安打新記録達成4257本 20160615 対パドレス戦」YouTube

イチロー世界記録j達成の写真


◇ イチロー選手 日米4257安打 会見全文 と 年度別成績

 試合後に行われた会見におけるインタビューとそれに対する返答を全文でご紹介し、昨年終了時点までの年度別成績を供覧いたします。

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イチローインタビュー写真

― あめでとうございます。

「ありがとうございます。」

― 4257安打を積み重ねた率直な感想から。

「ここにゴールを設定したことがないので、実はそんなに大きなことという感じは全くしていないんですけど、それでもチームメートだったり、記録の時はいつもそうですけどファンの方だったりと、ああいう反応をしてもらえるとすっごくうれしかったですし、そこですね、それがなかったら、何にも大したことないです。」

― 場内の拍手については?

「う〜ん、僕としては日米合わせた数字ということで、どうしたってケチが付くことは分かっているし、ここに目標を設定していなかったので、あまりやらないでと思っていたんですけど(笑)、でもそれは止められないですから、無視するのも失礼ですし。1本目のファイブフィートの内野安打ではなかなかそれは出来なかったというか。まぁタイですしね。抜いたわけではなかったので。あそこでは絶対出来なかったし。でも、ダグアウトからチームメートが喜んでくれてる姿が見えたので、軽く返したということだったんですけど、さすがに2本目はしないことが僕の矜持だというところが少しありましたけど、それでもああされると、という感じですね。」

― チームメートはベンチの中で並んで立って拍手していた。その時の気持ちは?

「(メジャー)16年目なんですけど、アメリカに来て、途中チームメート、同じ仲間であってもしんどかったことはたくさんあったんですね。で、去年このチームに来て、1年一緒にやって、今年メンバーが少し変わったんですけど、チームメートとしては最高のチームメートとハッキリ言える、まぁ“子”たちですよね、もう、年齢差から言えば。本当に感謝してます、彼らには。」

― クラブハウスではこれまで節目の記録で色々とやってもらっていたが、今日はそういうのはあったのか?

「今日はこれ(会見)やるために時間がなかったので、ないですよ。本当はこんなこともしたくないんですけど(笑)、お願いされてしまったので。」

― 日本ではここ数日、社会現象というほどの注目が集まり、号外も出た。

「そうなんですか。別の号外の話も聞きましたけどね。」(場内爆笑)

― 日本のファンが自分たちの喜び、誇りになると国中が喜んでいる。こちらでプレーヤーとしてそういうことを与えられたということについては?

「それは嬉しいんですけど、難しいところですねぇ、合わせた記録というところが。だから、いつかアメリカで、ピート・ローズの記録を抜く選手が出てきてほしいし、それはジーターみたいな人格者であることが理想ですし、もっと言えば、日本だけでピート・ローズの記録を抜くことがおそらく一番難しい記録だと思うので、これを誰かにやってほしい。とてつもなく難しいことですけど、それを見てみたいですよねぇ。だから、日米合わせた記録とはいえ、生きている間に見られて、ちょっとうらやましいですね、ピート・ローズのことは。僕も見てみたいです。」

― 常々、50歳まで現役したいということもおっしゃっていますが、あと1000いくつというのをアメリカで、というのは?

「僕は子供の頃から人に笑われてきたことを常に達成してきているという自負はあるので、例えば小学生の頃に毎日野球を練習して、近所の人から『あいつプロ野球選手にでもなるのか』っていつも笑われてた。だけど、悔しい思いもしましたけど、でもプロ野球選手になった。何年かやって、日本で首位打者も獲って、アメリカに行く時も『首位打者になってみたい』。そんな時も笑われた。でも、それも2回達成したりとか、常に人に笑われてきた悔しい歴史が僕の中にはあるので、これからもそれをクリアしていきたいという思いはもちろんあります。」

― 9回1死三塁でスタントンが三ゴロ。5打席目は回ってこないかなと言う中で、我々は引きの強さと感じたが、ご自身では?

「それは言うまでもないでしょ。それは僕が持っていないはずがないですから。あそこでダブルプレーはないと信じてました。」

― 節目の前で足踏みがすごく少ない。すっと通り抜けてきた。そういうことをくぐり抜けて、通り抜けてきた経験として言えることは?

「何故そうなるかということですか? まぁ言っても3打席、足踏みしてますからね。今日で言うなら(笑)。2打席目に決めていたら別だけど。すっとはいってない印象ですよね。僕の中ではね。さっとやりたかったですよね。でも、なかなかそううまいこといかないですよ。」

― みんなうまいこといっていると思っている。

「そこの感覚のズレはありますかね。人と。やっている本人とはやっぱり違いますよ。これをさっとやっている感覚だったら、ここにいないんじゃないですか。あと、ロドニー嬉しかったですね。あいつ、なんかね、ラテン系の選手って無茶苦茶なんですけど、ああいうところあるから、なんかこう憎めないですよね。そう思った。なかなか出来ないですもんね。」

― 節目の記録に対する付き合い方というのは変わってきたか。

「200とこれは全然比較できないですからね。これはだから、今回のでいえば、ピート・ローズが喜んでくれてれば全然違うんですよ。それは全然違います。でもそうじゃないっていうふうに聞いているので。だから僕も興味がないっていうか、それを喜んでくれてたら、ハリー(張本さん)なんかは来てくれたじゃないですか、シアトルに。ハリーって、ハリーですけど。なんかかわいげがありますよね。」

― これからの先に来る数字というものへの付き合い方はどうか。

「これから先の数字ですか? 例えば3000とかってこと? でもそれに出会わないとわからないことですから。これ、終わってみてわかることですからね。」

― うまく付き合える感覚になってきたか。

「うまくかどうかはわからないですけど、今回のことで言ったら、僕は冷めてましたね。冷めてるところがあったので、なんか変な感じはありましたよね。テンションの違いがなんか。」

― 去年、タイ・カッブの記録を抜いた時は球場に表示がなかった。今回はあったが。

「僕、見てないんで。それでも。見てないです。反応だけ感じただけで。」

― 日米通算に対する捉え方が変わってきているように感じるが、米メディアからどういう反応として質問されたか。

「いやあ、その辺はわかんないです。僕。メディアの情報、一切見ないから。ただこうやって言ってたよって聞くじゃないですか、人からね。その程度しかないので、全然わかんないです。」

― 大リーグ記録ではないが、世界記録にしようという話も出ている。

「どうしてもらっても構わないですよ(笑)。好きなようにして下さいよ。全然構わないです。」

― 18歳でオリックスに入った時に、25年経ってこれだけヒットを積み重ねる姿というのを想像できたか。

「いやそれ、18の時に42までプレーしてることを想像してるやつは誰もいないと思いますけどね。」

― 去年は少し苦労したシーズンだったが、去年と今年の一番の違いはなにか。

「3年間ちょっとしんどかったですね。ヤンキースにいった2年目、3年目。マイアミの1年目、去年ですね。この3年間はちょっときつかったですね。もちろんリズムが明らかに変わった時期ではあったということが大きかったと思いますけど。まあでも長い時間やってたら3年くらいはちょっと許してっていう感じですかね。そういう時期あるよねっていう感じに今はなってるかな。なにがという。まあいろいろありますよ。いろいろというのは大変便利な言葉で、便利に使ってますけど、ありますよ、要因は。ただ同じユニホームを着た人に、足を引っ張られないということは大きいですね。ほんとにいい仲間だと思います。」

― 出場試合数を見るとローズよりも速いペースでの達成となった。

「だから、もっと速くできてるもんねえ。時間かかりすぎだよ。その3年間はちょっと足踏みだね。サッと抜きたいもんね。ちょっとなんかこう苦労した感じ出るじゃないですか。出ちゃったじゃないですか。それがあって今っていう考え方もありますけど、ちょっとサッとやりたかったね。」

― 苦労しているところを見せたくなかったと。

「それは見せたくないでしょ。そんなん見せたいやつ誰がいる? 上原と野村さん以外いる? そんなん、ねっ。だって、それは自分で雑草とかっていう人は見せたい人だから。」

― 苦労したというのは……。

「苦労してるように見えるというだけですよ。苦労したとは僕は言ってないですよ。」

― キャンプの時期から今年は変わるという感覚はあったのか。

「キャンプ中はなかったですね。キャンプ終わってからの、マイアミに戻ってヤンキースと試合しましたよね。あそこがポイントだったですね。その先は、ご容赦願います。願いたいと思います、かな。」

― ボンズ打撃コーチが安打を打つたびにボールを回収しているという話を聞いた。大記録を達成したことのあるボンズだからこその気遣いを感じるか。

「そうだと思いますよ。やっぱり気持ちがよく分かるっていうか、記録と向き合った人にしかわからないことだと思うので。ボンズの場合は全部外に行っちゃうから回収できないんだけど、僕の場合は内側だからね。しようと思えばできちゃうから。ただそういう気持ちがわかるのは、記録と向き合った人にしかわからないと思いますね。」

― そういう人がベンチにいるのは心強いか。

「でもボンズはそれくらいしか仕事がないっていうのがあるんで。」

― ローズは日米の記録を合わせるのはどうかと言っているが、それに抗うという気持ちは。

「全然ないですよ。わかる?」

― 違う違うと言い続ける気持ちはわかるか。

「そういう人がいた方が面白いしねえ。だって大統領選の予備選見てたって面白いじゃないですか。共和党の方がいらっしゃるから盛り上がってるわけで、そういうところありますよ。それが人間の心理みたいなものですから、それはいいんじゃないですか。じゃないと盛り上がらないしっていうところもあるでしょ。」

― 演じていると感じるか。

「それはわからないです。会ったことないしね。」

― ボンズはイチロー選手がローズと会ってる姿を見てみたいと言っていたが。

「昨日、なんかそんなこと言ってましたよね。ボンズに聞いたら、すごいいいやつだとかって言うから。でもそれは書かないであげて欲しいんだけど。演じてる可能性あるからね。営業妨害になっちゃうから。そうだとしたらね。」

― モリターやボンズなど、リスペクトしながら話せるというのは、自分がそのレベルに来たからという幸せに感じるところはあるか。

「そのレベルにいるって、僕は別に思ってないですけどね。ただ、数字を残せば人がそうなってくれるっていうだけのことですよ。ただ、いろんな数字を残した人、偉大な数字を残した人、たくさんいますけど、その人が偉大だとは限らないですよね。偉大な人間であるとは限らない、むしろ反対な方が多いケースがある、と僕は日米で思うし、だからモリターだったり、ジーターだったり、近いところで言えば、一緒にやった選手で言えば。すごいなと思いますよね。だからちょっと狂気に満ちたところがないと、そういうことができない世界だと思うので、そんな人格者であったらできないっていうことも言えると思うんですよね。その中でも特別な人たちはいるので、だから是非そういう人たちに、そういう種類の人たちにこの記録を抜いていって欲しいと思いますよね。」

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【イチロー選手 年度別打撃成績(昨年終了時点まで)】
イチロー年度別成績


◇ ピート・ローズ氏の唱える異論

 イチロー選手が記録を塗り替えたとされる米大リーグ歴代最多安打保持者、ピート・ローズ選手は1963年から1986年までの24年間、主としてシンシナティ・レッズで活躍したスイッチの中距離ヒッターでありました。選手生活最後の2年間は選手兼監督となりましたが1989年、監督として野球賭博に関わっていたことが発覚、永久追放処分を受けました。なお、1978年、レッズの一員として日米野球に来日しましたが、脳裏に浮かぶ素晴らしいプレーヤーでありました。

ピートローズ選手打撃

 さて、イチロー選手の記録達成直前の2016年6月14日、米全国紙“USA TODAY”は、このピート・ローズ氏の「みんなオレをヒット・クイーン(キングに続く2番目の意味)にさせたがっている」とのコメントを紹介しました。ローズ氏は「イチローの記録にとやかく言うつもりはない。彼は野球殿堂入りするような選手だ。だが、日本の記録とメジャーを足すことに意味はあるのか。高校時代の安打も加えることと同じだ。」とし、「イチロー選手が日本での安打も加えると言うのなら、私は自分のマイナー・リーグでの記録も加えたい。」ともコメントしております。日本球界とメジャーの格差には、「誰でも知っているところでは、(元近鉄の)タフィー・ローズはメジャーではさっぱりだったが、日本では55本塁打を放ったが、これが真実だ。」とも発言しております。

 日本プロ野球のレベルを高校時代やマイナー・リーグと同じように語るなど、興奮してなのか(?)、表現に語弊があるとは思いますが、日米の野球のレベルの違いから、「日米通算」の記録に異論を唱える気持ちは理解します。ここで、ピート・ローズ選手の年度別打撃成績も供覧いたします。

【ピート・ローズ選手 年度別打撃成績】
ピートローズ年度別成績

 イチロー選手とピート・ローズ選手の打撃成績を比較することは、あまりにも意味がありません。なぜなら、イチロー選手の選手生活が1992年からスタートして現在に至るのに対して、ピート・ローズ選手は1963年からで、ここには30年の開きがあります。その間に、日米ともに野球が変わって来ております。これは打者有利とも投手有利とも言える、両者の綱引きのような変化であります。
 例えば、投手の投球を向上させる機械はなかなかありませんが、バッティング・マシーンの発達はめざましく、球速160 km/hのマシーンは珍しくありません。同様に、ボールやバットなどの野球道具は、反発力や飛距離など、投手の投球を補うよりも打者の打撃が向上する方向に開発が進んでいます。
 投手がボールを人差し指と中指の間に挟んで投げるフォーク・ボールはピート・ローズ選手の時代にはとっくにありましたが、今や変化球の主流である、もっと浅く挟んだスプリット・フィンガー・ファースト(SFF)ボールは1970年代後半より頭角を現したシカゴ・カブスやセントルイス・カージナルスのストッパーで活躍した、ブルース・スーター投手が開発したとされます。ピート・ローズ選手がこのSFFボールを打つ局面は今よりも少なかったでしょう。ストライク・ゾーンやハーフ・スウィングなどのルールは、投手に有利な方向に変更されて来たと思いますが、ボークや二段モーションへの厳格化は投手に不利な材料です。

 よく、日米の「野球とベースボールの違い」、との言葉を耳にしますが、もっと大きな違いは、空間を超えた、世代の違い、時間の違いだと思います。ですから、イチロー選手の「日米通算」の記録に対してピート・ローズ氏が異論を唱えたとしても、少なくとも現時点の客観的評価は、イチロー選手とピート・ローズ選手の打撃成績の比較にはなりません。比較しようがない、と言うのが本当のところです。

 ここでは、もっと単純に日米の野球の格差、はっきり申し上げて優劣について検証いたします。「野球が違う」って煙に巻く必要はないと思いますし、その結果が、イチロー選手及びピート・ローズ選手の価値を貶めるものではありません。


「清原容疑者 野球が好きなのに、野球を愛していなかった」


 元プロ野球選手の清原和博氏が覚醒剤取締法違反の疑いで警視庁に逮捕され、その入手元などが明らかになりつつあり、なんと、現役時代から使用していたとの報道も見られます。特別に、清原選手のファンであったわけではないのですが、1野球ファンとして心を傷めるばかりです。今後も彼についての報道は後を絶たないでしょうし、彼を激しく否定し、非難する記事はあるでしょう。全国の野球ファンに夢を与える職業にいて、莫大な収入をもらいながら薬に手を出したのですから、当然ではありますが、そんな多くの報道の中、彼の真の姿、すなわち弱さと、それを支えた母親の弘子さんを取り上げた記事がありました。事件、犯罪としての清原氏に関する記事は別に譲るとして、ぜひ記録しておきたい、スポーツニッポン新聞社 特別編集委員 落合 紳哉 氏の記事をご紹介いたします。

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清原容疑者
野球が好きなのに、野球を愛していなかった


清原と母 弘子さん
1990年4月6日、開幕前日に母・弘子さん(右)と食事しながら笑顔を見せる清原容疑者

特集ワイド キヨへ。

 プロ野球通算525本塁打を放った偉大なスラッガーが今や容疑者と呼ばれている。西武、巨人、オリックスで活躍した清原和博容疑者(48)。無類の勝負強さで何度も日本一に輝き、高校時代の記録も含めてスーパースターだった。その男が「覚醒剤」という地獄へ転落、すべてを失った。西武に入団した1986年から7年間、担当記者として接した。あれほど家族を大切にし、野球に打ち込んだ男はどこへ行ったのか。(スポーツニッポン新聞社 特別編集委員 落合紳哉)

スポニチ落合氏
スポニチ・落合紳哉特別編集委員

 2月1日、プロ野球の正月ともいえるキャンプがスタートした。それからわずか1日。翌2日夜に飛び込んできた「清原、覚醒剤所持の容疑で逮捕」のニュースは衝撃的だった。それからの1週間、スポーツ新聞は連日1面で清原容疑者の情報を伝えた。ニュース、ワイドショーでもトップで報道され、警察車両に乗せられた丸刈りの清原容疑者が何度も画面に映る。その姿を見る度に、この車中で彼は何を考えていたんだろうと思った。現役時代はヒーローとしてカメラのフラッシュを浴び、今度は容疑者としてフラッシュを浴びる。この時、大阪・岸和田の両親の悲しみを思わずにはいられなかった。

 西武担当の7年間は、やんちゃな主砲を母・弘子さんが支えた姿を間近で見てきた。大阪遠征の度に宿舎に顔を出し、昼食を共にする。清原容疑者には、これ以上ないリフレッシュできる時間だったに違いない。合宿所生活ではマイカー禁止でも2年目のオフに免許を取得すると、内緒で合宿所の近くに車庫を借りBMWを所有。門限破りは1年目から。ルーキーの4月末、仙台遠征で深夜0時の門限に間に合わず、宿舎ホテル玄関前から夜の街にUターン。翌日、コーチからの鉄拳に加え、罰金も取られた。そうしたことがある度に球団から実家に連絡が行き、弘子さんは気の休まる暇がなかった。
 それでもかわいい息子。弱音を吐けば弘子さんが叱咤(しった)するというのがパターンだった。ドラフトで巨人がPL学園のチームメート・桑田真澄投手を指名し「巨人に裏切られた」という思いから、抜け殻のような数日を過ごしたときは「アンタが勝手に(巨人に)恋をして振られたんやないの」と言って立ち直らせた。あれも1年目だったか。写真誌にセクシー女優とのデート現場をスクープされ、西武球場に初めて芸能リポーターが押し寄せた。清原容疑者は私の顔を見て「どうしたらええ?」と真顔で聞いてきた。大きな子供。それが清原容疑者の姿だった。

 ただ、やんちゃでは済まないと思ったときは本人に話した。ヒーローになって西武ベンチに報道陣が殺到した際、誰かが清原容疑者のバットを誤って蹴っ飛ばした。最も大事にしている愛用バット。思わず「なにすんねん!」とベンチに怒声が響き渡った。担当記者は理解できても、担当以外の記者には異様に映った。このことを週刊誌が「生意気な清原」と原稿にした。その場にいた誰かが書いたと思った清原容疑者は、疑心暗鬼であいさつすらしなくなった。大阪遠征の宿舎。喫茶店で清原容疑者と向き合った。「知らない記者に何を書かれるのかと思うのも分かる。でもな、みんなキヨの人生の先輩だろ? ベンチに座っている記者を見たら『こんにちは』だけでいい、そう言ってグラウンドに出てみろ。みんな清原って、礼儀正しいじゃないかと思うぞ」と。その日の藤井寺球場。「こんにちは」と言ってグラウンドに出て行く姿があった。
 何年目か。車で清原容疑者を送っていく途中。「今度タイトル取ったら知り合いがベンツをプレゼントしてくれるねん」とうれしそうに話した。横には当時、付き合っていた女性が乗っていた。もう年俸は1億円を稼いでいたと思う。この話を聞きながら怒りと悲しみが込み上げ、女性が一緒でも言わずにはいられなかった。「おいキヨ、そんなにうれしいか? その知人はちゃんとした人でも、知り合いに危ない人がいたらどうする? ベンツもらって食事に誘われ、危ない人がいますから行けませんって断れるか? ベンツくらい稼いだ金で買えよ。お前は野球界を背負っていく男だぞ」。言えば分かってくれると信じていたのだが……。

 5年目で1人暮らしを始めてから弘子さんのフル回転に拍車がかかる。岸和田から時に空路で、時に新幹線を使って上京。息子が野球に集中できる環境作りを懸命に行った。私も何度か家にお邪魔したが、母子の何とも言えない空気感。栄養を考えながら好物をそろえ、黙々と食べる姿をうれしそうに見つめる母。ボソッと話す息子に10倍返す母。シーズン中、久しぶりの休日には愛車に母を乗せ日帰りで山梨の温泉まで出向いたこともあった。ちょっとした母親孝行。清原容疑者は口には出さなくても、母への感謝は十二分に感じていたはず。巨人にフリーエージェント(FA)移籍した後も、弘子さんは身を粉にして息子に尽くした。だから私は清原容疑者の愚かな行為が許せない。
 巨人に行って人生の歯車が狂ったのでないかと言った人がいた。それもあったろう。西武ではお山の大将、それが伝統ある巨人に飛び込み自分のスタイルを貫けば、どこかで軋轢(あつれき)が生じる。生え抜きと外様。「入ってみると外から見ているのとは全然違った」と言った。それもFAで選択した道。ある選手が引退、チームメートとして一緒に戦ったのに、選手主催の引退パーティーに呼ばれることはなかった。「そのとき、外様を痛切に感じた」と彼は言った。
 巨人の4番が打てなかったら紙面でたたかれるのは当たり前。周囲からのプレッシャーは想像以上だった。故障も増えた。「さあ試合や、と思ってベンチに入って、スコアボードを見たらスタメン外れてたわ」と直前まで知らされないこともあった。信頼関係の崩壊。巨人から戦力外通告を受け、被害者意識はさらに強まった。オリックス時代も異様な言動は耳に入っていた。暴走を誰も止められない状態。私にはそう見えた。

 週刊誌に覚醒剤使用疑惑を書かれてもやめなかったことになる。体に入れ墨を入れ、球界復帰を口にする。これも異様。誰が竜の入れ墨のある者を雇おうとするのか。覚醒剤をいつから始めたかは捜査を待たないとわからない。離婚して子供と会えないのが寂しいと薬に頼った? ふざけるな。世の中、海外や国内の単身赴任で家族と会えない人はどこにもいる。だから私は同情はしない。
 オリックスで引退を決め、母にそれを報告したとき、ともに泣いた母子。野球が好きでたまらない男だったのに、野球を愛していなかった。野球があって自分があると思ったら、こんな道に外れたことはしない。

 これからどうするのか。まずやるべきことはプロ野球ファンへの謝罪。そして歯を食いしばってでも更生への道を行くしかない。もう「番長」なんて呼ばれる姿は見たくない。

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 落合氏の文章は、薬に手を出す、考えられる様々な理由を全て否定した、決して清原氏を許ものではないことを語っていますが、同時に、清原氏のごく一部をありのままに描写していて、記者として接した愛情が強く感じられ、落合氏の無念さに胸が熱くなります。
 カテゴリーなんて、この際、どうでもいいのですし、ただの有名人の覚せい剤事件に他ならないのですが、日本プロ野球の歴史に残る大選手としての清原氏と、スポーツニッポン新聞社 特別編集委員 落合 紳哉 氏に敬意を払い、「アスリート」として扱います。私からも清原氏が更生することを強く願います。

日本プロ野球 40歳代 投手 先発対決


 アスリートのスピリッツ、連続投稿となります。私は、毎日、必ず横浜DeNAベイスターズの記事をチェックするのですが、昨日は三浦 大輔 投手の意気込みが記事となっておりました。

三浦40歳代先発対決に意欲の記事

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三浦“マサ道”引き継ぐ 広島・黒田と40歳代対決にも意欲

 DeNAの三浦大輔投手(41)が、50歳で現役を引退した中日・山本昌投手の道を引き継ぐ決意を示した。この日、横浜市内のホテルでクリスマスパーティーを開き、ファンと交流した三浦は「工藤さん、昌さんの2人が野球は年齢ではないという道をつくってくれた。一年一年、その道を太くしたいと思っている」と語った。

Xmasの三浦自撮り

 来季は現役最年長選手となる右腕は25日に42歳になるが「2桁勝てると思うし、自信もある」と09年以来の大台を見据える。さらに、来年2月に41歳となる広島・黒田との先発対決についても「巡り合わせはあるけど、頑張っていればね」と語った。実現すれば07年7月7日(広島)以来で、40歳代投手の先発対決は過去4度しかない。

 今永(駒大)、熊原(仙台大)と即戦力投手の加入で競争は激化するが「高いレベルで競って優勝したい」と25年目となるシーズンを見据えた。

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 この中で、「40歳代投手の先発対決は過去4度」とされております。今回は、横浜DeNAや三浦 大輔 投手とは別に、これまでの「40歳代投手の先発対決」を調べましたのでご紹介いたします。


◇ 1950年11月05日 西宮球場 浜崎 真二(48歳10ヶ月、阪急)vs 湯浅 禎夫(48歳1ヶ月、毎日)

 「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」、本邦における第1例目は、1950年110月5日、西宮球場における阪急ブレーブス 対 毎日オリオンズ20回戦のペナント・レース公式戦において実現しました。浜崎 真二(48歳10ヶ月、阪急、写真左)vs 湯浅 禎夫(48歳1ヶ月、毎日、写真右)の対戦であります。ただ、これはシーズン最後の公式戦で、阪急、毎日ともに監督がファンサービスで先発登板したものでありました。試合は故 浜崎 氏が2回8安打3失点で負け投手となりました。対戦相手の、故 湯浅 氏は2安打2失点で4回で降板しましたが、実は、アマチュア選手としての経験は豊富なものの、この年、1950年、毎日オリオンズのパ・リーグ参加、球団結成に際して、総監督兼任投手として就任し、この試合がプロ野球における唯一の出場機会でありました。

浜崎選手と湯浅選手 写真

 もう少し付け加えますと、故 浜崎 真二 氏(1901年12月10日-1981年05月06日、享年79歳)は、広島県出身で阪急ブレーブスに在籍した投手兼任監督でありました。1950年05月07日の登板で、48歳4ヶ月で勝利投手となり、タイトルにあります1950年11月05日の48歳10ヶ月に最終登板を果たしました。この日本プロ野球史上最年長勝利記録と日本プロ野球史上最年長出場記録は、いずれも昨年、2014年09月05日、中日の山本 昌 投手(49歳0ヶ月)が先発登板して勝利をあげるまで、64年間にわたり破られることがなかった記録でありました。


◇ 2005年09月09日 東京ドーム 工藤 公康(42歳4ヶ月、巨人)vs山本 昌(40歳、中日)

 55年ぶりに実現した「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」は、最多勝を狙う巨人、工藤 公康 投手(写真左)が6回3安打無四球無失点で11勝目をあげたのに対し、中日、山本 昌 投手(写真右)は1回3分の0、28球でのノックアウト降板となりました。

工藤左と0山本1


◇ 2006年06月24日 ナゴヤドーム 山本 昌(41歳8ヶ月、中日)vs工藤 公康(43歳1ヶ月、巨人)

 プロ野球史上、3度目の「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」は2年連続で同じ対決が2006年06月24日、ナゴヤドームにて実現しました。工藤投手が好投して、山本投手がノックアウトされた前回とは逆に、今回は、巨人、工藤投手は2回、満塁弾を浴びるなど5失点KO、山本投手は巨人打線を3回までノーヒット、5回4失点とまあまあ試合を作りました。

山本昌と工藤公康 写真


◇ 2010年08月07日 ナゴヤドーム 山本 昌(44歳11ヶ月、中日)vs 下柳 剛(42歳2ヶ月、阪神)

 「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」に3度も顔を出すのは山本 昌 投手(中日)ですが、もちろんそれは相手があってのことであり、2010年08月07日の対戦相手は阪神の下柳 剛 投手でありました。下柳 投手が4回4失点で降板したのに対し、山本 投手は6回1失点で勝利投手となっております。

山本と下柳 写真


◇ あとがき

 上で申した通り、「日本 プロ野球 40歳代 投手 先発対決」は相手投手がいることなので、狙ってできる記録、出来事ではありません。一方で、1950年の試合のように、意図的なファンサービスでも実現するものであります。
 ただ、投手ではありませんが、王 貞治 氏は30本塁打を打ちながら40歳でバットを置きました。村田 兆治 投手は10勝をあげた40歳で引退しております。400勝をあげた金田 正一 投手は40歳までは現役を続けられませんでした(36歳引退)。歴代2位の350勝をあげた米田 哲也 投手は39歳で引退しております。人生の、どの年齢をターニング・ポイントにするかは、業種により、職業により異なるところですが、プロ野球投手、とりわけ先発投手に限って考えた時、40歳という年齢は大きな節目であり、これを超えて先発マウンドを務めることは至難の技と言わざるを得ません。
 そういう年齢に達した投手が、同じように40歳代で頑張っている投手に対して意識しないはずはなく、来年のプロ野球においては、ついに、現役選手の最年長となった横浜DeNA、三浦 大輔 投手と、広島の黒田 博樹 投手の間で可能性があります。歴史の1ページ、その実現に期待する次第です。

三浦投手と黒田投手

浅田 真央 選手、技術的復活と上の段階に向かう苦しい階段を楽しめるようになれば道は開ける!


 フィギュアスケート男子、20歳の 羽生 結弦 選手が2週間前のNHK杯にに引き続き、さらなる史上最高得点(330.43)で、男子としては初の3連覇を達成し、日本の 宇野 昌磨 選手(17歳)はシニアのグランプリファイナルは初出場でいきなりの3位でありました。女子はこれまたグランプリ・ファイナル初出場のロシア、エフゲーニャ・メドベージェワ 選手(16歳)が優勝、2位には日本の 宮原 知子 選手(17歳)、3位はロシアのエレーナ・ラジオノワ選手(16歳)と、若手の台頭が目立ちました。これに対して25歳の 浅田 真央 選手 は最下位の6位、胃腸炎でエキシビジョンには出場せずに帰国となりました。さぞ、がっかりしていることと思います。

浅田真央、GPファイナルから帰国のニュース

 ともすると、世代交代を肌で感じ、自分の時代は終わったのではないか?、もう復活は難しいのでは?、次のオリンピックを目指すのは無理なのでは?、などとの感情が湧き出てきて、演技の前の緊張感が集中力に変えられず、不安感が募り、失敗をすることが頭をよぎって、その失敗を引き寄せてしまっている、そんな状況ではないことを祈るばかりです。

 世代交代?、時代の終わり?、限界?など様々な不安
 失敗が頭をよぎり失敗を引き寄せて


 本人が気付いているかどうか?、1年間の充電期間をおいて、現役復帰を決めて練習に取り組むようになってからまだ半年かそこらだと思います。元の勘を取り戻すのみならず、以前よりも難しいプログラムに挑戦していて、それ簡単に成功してしまう方がおかしいと言えます。そんなにアスリートの道は簡単ではないと言うことです。たぶん本人も分かっていると思います。

 まだ復帰を決めてから半年ちょっと!
 そんなに簡単なことではないことを本人も知っているはず


 現代のフィギュアスケートの選手としては年長の方だとしても、あらゆるスポーツのアスリートからすれば、そもそも、浅田 真央 さんの25歳と言う年齢はまだまだ若いと言えます。また、人生に目を転じた時、25歳と言う年齢は平均寿命の3分の1にも満たない年齢です。

 技術的な復活と、さらなる上の段階に向かうにあたり、苦しい階段を登っているのは間違いないところですが、そこをむしろ楽しんめるようになれば必ず道は開けると思います。そして、それを成し得た時、アスリートとして、人間としてさらなる成長があるでしょう。

日本の、誇りに思う!、フィギュアスケート男子、史上初300点台、羽生 結弦 選手 歴代最高得点!


 昨日、フィギュアスケート、男子フリーで 羽生 結弦 選手がすごい記録を作りました。まずは記事を掲載します。

羽生300点越えニュース

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羽生 史上初の300点超えで圧巻∨!SP、フリー共に世界最高得点

羽生NHK杯金メダル写真

 フィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ最終戦、NHK杯は28日、長野市ビッグハットで行われ、前日のショートプログラム(SP)で世界最高得点となる106・33点を記録した羽生結弦(20=ANA)が男子フリーに登場。フリーの世界最高得点となる216・07点を記録し、SPと合わせて322・40点で優勝した。300得点を超えるのは史上初めて。羽生は連覇中のGPファイナル(12月、スペイン・バルセロナ)への進出を決めた。

 前日と同じく最終滑走者として登場した羽生は、昨日に引き続きノーミスの演技を披露。パトリック・チャン(24=カナダ)の持つ、295・27点の世界最高得点を大幅に更新する、史上初の300点台の得点をを叩き出した。

 SPで95・64点の高得点を記録した金博洋(18=中国)が、合計266・43点で2位。SP3位の無良崇人(24=洋菓子のヒロタ)は合計242・21点で3位を守った。田中刑事(21=倉敷芸術科学大)は合計234・90点で自己ベストを更新し、5位に入った。

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◇ ショート・プログラム 映像 YouTube

 2015年11月27日 NHK杯 羽生 結弦 選手のショート・プログラム演技 YouTube


◇ フリーの演技 映像

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◇ 点数が出た瞬間

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◇ インタビュー

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◇ 私見

 人生において最高の時と言うのは誰にでもあると思います。「もっとも貪欲な時期」、「なんでも出来る時」、「円熟味を増した今」などなど、、、。アスリートにとっても、心身ともに最高レベルの時はあるはずです。私たち、アスリートを応援する立場の人間は、ついつい先に目が行きがちで、グランプリ・シリーズのNHK杯で優勝、ファイナル進出となると、そのファイナルでの活躍に期待します。そもそも、多くの人が、フィギュア・スケートにおいてはオリンピックを節目に思うものです。
 しかしながら、羽生選手が必ずオリンピック・イヤーに人生の最高の時を迎えるとか限りません。もしかしたら、昨日の試合が人生最高のプレーだったのかも知れません。それくらい、神が宿ったような、史上最高のプレーであり、鳥肌が立つ思いをしたのは私だけではなかったと思います。
 「血のにじむような練習をしてきた」とインタビューでの羽生選手、、、。我々に感動を与えてくれたその努力に深く感謝いたします。


高橋 尚成 投手 「引退はずっと考えてきた」、「気持ちの方が動かなくなった」、「やめる時ってこういうものなのかな」


 プロ野球について、極めて私事、私は大洋から始まって横浜大洋〜横浜〜横浜DeNAと、この球団のファンであり、個別の選手のファンと言うものではありません。ですから、読売巨人で優勝経験があり、大リーグでもまあまあの成績を残しての凱旋、それなりの契約金、年俸を用意して獲得したのに、なんの役にも立たなかった(昨年10試合51回0勝6敗 防御率5.29、今年5試合8.1回0勝1敗 防御率8.64) 高橋 尚成 投手(以下、高橋)、彼が引退を表明しても、そのこと自体になんら心が動かされるものではありません。
 ましてやこの秋は、横浜で生まれ育ち、プロ野球記録となる3018試合に出場した現中日監督兼選手である 谷繁 元信 捕手(44歳)も現役引退が噂されており、またこちらも横浜で育った、2004年にはシーズン40本塁打も放った、今季はなかなか1軍に上がれないでいる 多村 仁志 外野手(38歳)も、引退が囁かれています(本人は現役続行を希望との話も聞きますが、、、)。98年の横浜優勝で活躍した現楽天の 斎藤 隆 投手(45歳)はすでに引退表明をしています。

谷繁と権藤

多村仁志 写真

斎藤隆写真

 そんな背景ではありますが、高橋の引退報道には少しアスリートのスピリチュアルを感じました。まだまだやれる選手が、どうしても引退せざるを得ない心境を垣間見た、そんな報道を取り上げます。横浜では全く仕事をしなかった選手ですので「大洋〜横浜を観る40年」ではなく、「アスリートのスピリッツ」のカテゴリです。

高橋尚成引退の記事

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 DeNAの高橋尚成投手(40)が現役引退することが13日、分かった。スポーツ報知の独占取材に応え「体は無理してもできると思う。でも、気持ちの方がついてこなくなった」とユニホームを脱ぐ決断を語った。近日中に引退会見を行う。巨人でエースとして活躍し、海を渡って大リーグで2ケタ勝利もマークした男が、通算16年のプロ生活に幕を引く。

 尚成は落ち着いた声で切り出した。引き際の決断―。その目に涙はなかった。

 「アメリカから戻ってきた去年から、引退はずっと考えてきた。ここにきて、気持ちの方が動かなくなった。体は無理をしてもできると思う。でも、気持ちの方がついてこなくなった。モチベーションが上がってこなくなった」

 大リーグから5年ぶりに日本球界に復帰した昨年から、常に引退の2文字が心にあった。DeNA1年目となった昨年は10試合に登板し、1勝もできず。今年は4月29日の広島戦(マツダ)で先発したものの、負け投手となり翌日に登録抹消。8月8日の阪神戦(横浜)で再登録された時には、中継ぎとして復帰した。

 「自分から球宴休みの時に球団に話をした。メジャーで4年間、中継ぎをやってきたし、先発にこだわりはない。チームのためになるのであれば、中継ぎをやらせてもらいたいと」

 だが、その登板の中で、気持ちの限界を感じる時を迎えた。8月14日の広島戦(マツダ)で1点ビハインドの6回、丸に3ランを浴びた。そして同16日には同カードで、4点ビハインドの8回に新井にソロを献上した。

 「2本とも、打たれた直後に悔しさを感じられなかった。その時『やめる時ってこういうものなのかな』という思いが湧いた。特に新井に打たれた時、マウンドで『これでダメだな』という感情がこみ上げてきた。納得して投げたストレートをいとも簡単に、しかも(駒大で同窓の)1つ年下に打たれたから。新井とは大学時代から仲が良かったし、そういうヤツに打たれて…なんていうんだろ…しょうがないな、と。心を決められた」

 悔いが残らないと言えばウソになる。日本球界復帰をDeNAに決めたのは、駒大の大先輩である中畑監督からの「お前が必要だ」という熱い言葉があったから。監督には12日、電話で引退を伝えた。

 「DeNAで1勝もできなかったことが、やっぱり一番悔いとして残る。中畑さんの力になりたかった」

 プロ16年、忘れられない試合は「ありすぎて分からない」。プロデビュー戦の00年4月6日の中日戦(ナゴヤD)は初先発初勝利。その年の日本シリーズ初登板、10月27日の敵地でのダイエー(現ソフトバンク)戦は2安打完封勝利。新人で初登板完封勝利は日本球界でただ一人の偉業で、巨人の日本一に貢献した。09年オフには、眠れないほど悩んでメジャー行きを決め、10年にメッツとマイナー契約。結果を残してメジャー開幕を果たした。4月7日、本拠でのマーリンズ戦に同点の延長10回に登板して、2安打1失点を喫し負け投手となった。

 「35歳で上がったメジャー初マウンドで、自分の野球人生で初めて足がガクガクしたのを覚えている。プロ選手として特に大きい体もなく、どうやって生きていこうかと思う中、体を酷使し、頭も使ってきた。それが形になったから、メジャーでもできたんだと思う」

 周囲からは「まだやれるのでは?」の声も上がる。そんな中、尚成の頭には尊敬する松井秀喜さんの姿が浮かんでいた。

 「やり切った、という思いはある。ただ、ヘロヘロな球で引退したくない。(12年で引退した)松井さんも、まだまだできると言われてた。ああいう形もあるんだな、と思ったし、かっこいいなと思った。僕も松井さんみたいに、と。そこまでかっこよくはないけど」

 近日中に会見を行い、引退を表明する。球団は、最終戦となる10月2日の本拠での巨人戦を引退試合として用意するつもりだ。40歳左腕が、自分流に「楽しんだ野球」を完結する。

 ◆高橋 尚成(たかはし・ひさのり)1975年4月2日、東京都生まれ。40歳。修徳高から駒大―東芝を経て、99年ドラフト1位で巨人入団。07年には最優秀防御率(2.75)を獲得した。09年オフにFA宣言し、10年2月にメッツとマイナー契約し、開幕メジャー。13年オフにDeNAと2年契約し、5年ぶりに日本球界へ復帰した。通算成績は260試合で79勝73敗15セーブ、防御率3.79。メジャー通算は168試合で14勝12敗10セーブ、防御率3.99。177センチ、80キロ。左投左打。既婚。年俸6000万円。

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 大リーグで通用しない外国人投手が日本に仕事場を求めて来日するのと同じように、元NPBの日本人選手であろうとも大リーグで通用しなくなった投手の活躍には限界がある、そんな典型例のように思います。でも、アスリートがそんな発想に囚われてしまうとマイナス思考になってしまうでしょう。高橋は「アメリカから戻ってきた去年から、引退はずっと考えてきた。」と述べていますが、そんな予感、折れかかった心を持って横浜に入団したのでしょう。そしてそれが活躍できなかった一つの要因だったかも知れません。
 ここで、彼の心情に良い悪いの判断は致しません。ただ、アスリートの浮き沈み、大げさに言えば、生きるも死ぬも、内面的要素が大きいのだと、改めて思います。


女子フィギュアスケート 浅田 真央 選手の復帰の条件は?


 女子のフィギュアスケート、今年の冬は浅田真央 選手が休養しているため盛り上がりに欠けております。オリンピックに出場した 村上佳菜子 選手も浅田選手がいないからか元気がないですね。

浅田真央写真002

村上佳菜子3

 一方で、楽しみな若い選手が出て来ており、先日の四大陸選手権、優勝した米国 ポリーナ・エドモンズに続く2位と3位は宮原知子 選手と本郷理華 選手でありました。

宮原と本郷 写真
宮原 知子 選手(左)と本郷 理華 選手(右)

【2015年 フィギュアスケート四大陸選手権 女子】
 1位 ポリーナ・エドモンズ(米) 184.02(61.03 / 122.99)
 2位 宮原 知子(日)      181.59(64.84 / 116.75)
 3位 本郷 理華(日)      177.44(61.28 / 116.16)

 しかしながら、上の点数を見ると、なんとなく迫力がない印象は否めません。例えば、昨年の世界選手権、優勝の浅田真央 選手の休養前最後の得点は合計216.69(78.66 / 138.03)でありましたし、その直前のソチオリンピック優勝、アデリナ・ソトニコワ 選手(露)は224.59(74.64 / 144.19)であり、いずれの大会も上位3人までは合計200点越えでありました。

 この単純な点数の減少に、浅田 選手の休養のカギ、そして復帰の条件のヒントが隠されているような気がしております。まずは、昨年5月19日の浅田 選手休養の記事から、、、。


◇ 浅田真央 選手 休養宣言の記事

浅田真央休養宣言の記事

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 フィギュアスケートの浅田真央(中京大)が19日、都内で行われた自身が座長を務める7月のアイスショー「THE ICE」の開催記者会見で、2014-15年シーズンの1年間を休養に当てる意向を発表した。

 同日朝、浅田が去就を表明すると報道されたこともあり、会場にはあふれんばかりの数の報道陣が集結。騒然とした雰囲気の中、浅田は「今までいろいろ考えてはきたんですけど、やはり今年は自分の体も気持ちも少しお休みをするという形で決めました」と晴れやかな表情で決断を述べた。
 7月1日から始まる新シーズンはすべての競技会の出場を見送る。その後の復帰については「まだハーフハーフ」と悩める胸の内を吐露。引退するかどうかは、休養期間中にゆっくり決めるつもりだ。
 以下、休養を発表した浅田の一問一答。

この1年間を「ゆっくり考える年にしたい」

―― これからの活動について、これまで「ハーフハーフ」と答えていたが、その気持ちに変化はあるか?

 今までいろいろ考えてはきたんですけど、やはり今年は自分の体も気持ちも少しお休みをするという形で決めました。

―― 休養を決めた理由は?

 バンクーバー(五輪)からずっと、自分の気持ちもソチまで頑張るという気持ちでやってきました。今は全てをやり切った気持ちで、「これから頑張れるのかな」と。まずは1年間、今後何を目指していくか、どのようにしていきたいかをゆっくり考える年にしたいと思います。

―― 1年間というのは具体的にどの大会までを指すのか?

 少し体も心も休めるので、試合に復帰するのであれば、もう今から始めていかないと間に合わないと思います。とにかく今シーズンは、今の自分が考えているところでは、全ての試合をお休みするという形にしたいなと思います。

―― 今後の復帰の可能性は?

 私自身も、本当に先のことは分からなくて、その時の流れに任せればいいのかなというのが今の気持ちです。今シーズンについてはお休みという形ですが、(休養後の)次のシーズンについては、まだハーフハーフなんじゃないかなと思います(笑)。

「自分のやるべきことを精一杯やりたい」

―― 厳しい選手生活を続けてきたが、今、したいことは何か?

 今は「あぁ、終わったんだな」って。ソチ五輪のシーズンが終わったんだなという気持ちがすごく大きすぎて、特に何がしたいというのはないんですね。今、目の前にある、自分のやるべきことを精一杯やっていけたらいいなと思います。

―― これまで、いろんなところで進退について聞かれたと思うが、結論を発表した今の気持ちは?

 自分がスケート生活を始めて以来、試合に出ないシーズンはなかったので、自分が休むと言ったことに関してはあまり変わりはないです。ただ、これからスケートの試合をしない日々が続くのは、すごく新鮮な気持ちでいます。

―― 不安はないですか?

 はい。(楽しみな気持ちが大きい?)分からないですね。やはり試合をしないとなると、(そういう生活は)したことがないので。でも、いろいろと自分のやるべきことはあると思うので、それを毎日精一杯やりたいなと思っています。

―― 頭の片隅には、次の五輪で滑ってるイメージが少しでもあるか?

 ないですね。

休養明けの去就は「ハーフハーフ」

―― この休養は何のためか?

 本当にまだ、今後、競技を続けていくか分からない状態です。とにかく今シーズン、「頑張ってやることはできないな」という気持ちでいます。この1年間、しっかり気持ちと体を休めて、それでまた「やりたい」と思うかもしれないですし、「私はやり切ったからいいんだ」と思うかもしれません。まだその辺は分からないと思います。

―― 引退ではなく休養をしようと思った一番のきっかけは?

 今シーズンを終わってみて、自分が「やり切った」と思いました。まだ、自分が引退という決断には至ってはいないのが今の気持ちです。やっぱり体も心もちょっと疲れているので、とにかく1回休もうと思ったのが今の気持ちです。

―― 休養明けの去就について、今の気持ちを割合で表すと?

 ハーフーハーフです(笑)。

―― これから毎日やるべきことは何だと考えるか?

 まず、大学にまた通い始めたので、大学に通うのがメーンの生活になると思うんですけど、その中でスケートも滑りたいなと思っています。

今季は「ショーを楽しみに見に来てもらえたら」

―― 今回の決断にあたり、相談した人は?

 昨シーズンが終わってからまだまだ悩んでいて、「自分はできるんじゃないかな」とか「いや、できないんじゃないかな」という日々が続いていたんです。もうすぐショーもあるということで、いつも通り「滑ろうかな」と思ってずっと滑っていました。でも、これまでスケート生活を休まずに、1日1日を精一杯やってきたので、「またこれを4年間できるかな」と思って滑っていた時に、滑りながらもちょっと息抜きが必要だと思いましたし、休息も必要だな、と。とにかく今は、1年間は休もうと思ったのがきっかけです。

―― 姉の舞さんの反応は?

「1年間とりあえず休む」と言った時は、特には何も言ってなかったですね。

―― 休養を考える中で、ファンの姿も頭によぎったと思うが、ファンに対しては休養をどんな思いで伝えたいか?

 このソチ五輪が終わるまで、たくさんの方に応援してもらえて、私自身もすごくうれしかったですし、パワーにもなったと思っています。今シーズンは試合には出ませんが、今後、ショーもありますし、自分の滑りというのはファンの方にまた見てもらえると思います。試合よりも間近に見てもらえると思うので、ショーを楽しみに見に来てもらえたらうれしいです。

――1年間休むことについて、心の移り変わりがあれば教えてください。

 本当に小さなころというのは、365日滑っていても平気でしたし、試合も、姉と競い合って「負けたくない」という気持ちでやってきました。でも、やはりシニアに上がって、試合もたくさんのプレッシャーがありましたし、もちろん練習もすごく神経を集中していました。自分の体にも心にも負担になってきているんだなというのはすごく感じていたので、休みも必要なのかなと感じました。

休養宣言の浅田真央 写真

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 心身ともに疲れているのはよく解ります。何年も休みなしでしたし、母親の病死もあって、ソチオリンピックの2日間のドラマもありました。上の会見で言っていることは、多くの部分で本音だと思います。


◇ 休養宣言の20日前に国際スケート連盟から発表されたルール変更

 実は浅田選手が休養宣言をする20日ほど前の4月28日、国際スケート連盟(ISU)は、フィギュアスケートのルール変更を発表しました。ボーカル入りの曲の使用解禁や、名前をコールされてから演技開始までの持ち時間短縮などいくつかありますが、選手にとってもっとも影響が大きかったのは「ジャンプの踏み切り違反の厳格化」だとされます。

 ジャンプの踏み切り違反の厳格化

 ジャンプの明らかな踏み切り違反で基礎点を70%に減らすなど、厳格化した採点方式を来季から適用されるとのことでした。ショートプログラム(SP)でジャンプが規定の回転数に足りない場合やSP、フリーで1回転半未満のジャンプは無得点となります。その他、例えば3回転ルッツで踏み切り違反と判定された場合、今季は「6.0」だった基礎点が「4.2」に減らされます。踏み切り違反に回転不足が重なった場合は基礎点を半分にする新基準も採用されております。


◇ 安藤美姫さんが指摘していた浅田真央選手の欠点

 フィギュアスケートのジャンプの中で「ルッツ」と「フリップ」は、いずれも左足のエッジで踏み切り右足のつま先をついて跳ぶのですが、「ルッツ」はアウトサイドのエッジ、フリップは「インサイド」のエッジで踏み切らなければならないとされます。これが「ルッツ」なのにインサイドで、「フリップ」なのにアウトサイドで踏み切るとエッジエラーとして「e判定」が付きます。
 引退した 安藤美姫さんが 浅田選手のジャンプについて批判的な意見を述べていることがしばしば見受けられました。安藤さんの指摘では、浅田選手には「ルッツジャンプ」の踏み切りに癖があり、試合で「ルッツ」を跳ぶ場合はほぼ毎回のように踏み切りエラーとなるとのことでした。

 浅田選手のルッツジャンプはほぼ毎回踏み切りエラー

 確かに、浅田選手自身も「トリプル・アクセル」を口にすることはもちろん多かったですが、しばしば「ルッツジャンプ」とその次に「フリップ」に対する不安をインタビューで言っていたのを思い出します。


◇ 休養のきっかけは「ルール変更」?、復帰の条件はその克服への自信?

 浅田選手、昨年のソチオリンピックと世界選手権を終えて、心身ともに疲れた状態であったのは間違いないと思いますが、それに加えて、「ジャンプの踏み切り違反の厳格化」、これは彼女にとって厳しいルール変更であり、これを乗り越える気力、体力が残っていなかった、と言う要素があったかも知れません。
 今年になって、浅田選手は「『ハーフハーフ』が『復帰80%、引退20%』になるときもある」と発言しており、しかし「復帰するからには勝ちたい。辛いこともある」と決断にいたれない心境も語っています。彼女の休養からの復帰の条件は「ルール変更」の克服への自信だと思う次第です。

 2つほど、浅田選手、実際に復帰するスケートリンクに立ってみなければ解らないこともあるように思います。アスリートは常に挑戦と不安の繰り返しでしょう。今1つ、今季精彩を欠く村上佳菜子選手も「ルール変更」に苦しんでいるのでしょう。若くして五輪に出場した選手です。頑張ってほしいですね。

浅田真央選手の足を引っ張ったスケート連盟?

 薄々は感じられているかも知れませんが、私はフィギュアスケートにたいへん興味があって、家族グルミで毎冬観ております。この冬もトリプルアクセルについて触れて、浅田真央選手についての記事も掲載しました。もう最後、しばらくは離れようと思いますが、大変、残念な記事を見つけてしまいご報告します。

 日本スケート連盟がソチオリンピックにおいて浅田選手の調整に最善を尽くせなかった、という話をすこし誇張したような記事です。先に結論を申しますと、アスリートは長年のトレーニングを重ねて来て、最後の調整はそれほど大きな要素ではないように思えますが、浅田選手、彼女は前回のオリンピックで敗れたキム・ヨナとの対決を控えた若干23歳、精神的部分を考慮しても、日本選手団として最善の環境を提供してあげてもよかったと思います。以下の記事です。スケート連盟、改善できるところがあれば改善を望みますね。

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浅田関連記事 スケート連盟

浅田真央を“最悪のリンク”で調整させたスケート連盟の失態

 自己ベストをマークした舞いに、「これが自分がやろうと思っていたこと」と、演技終了直後に頬を濡らした浅田真央(23)。敗れてなお、多くのファンの記憶に残る伝説を作った。その陰で、ソチへの最終調整の場に関して、浅田側とスケート連盟は揉めに揉めていた。

 「真央には、精神的にもっとも落ち着ける場所で最終調整をさせてあげたい」と、佐藤信夫コーチ(72)は、スケート連盟幹部に(練習拠点の)中京大リンクで調整したい思いを伝えたという。だが連盟は、ソチへ移動が数時間でできる隣国アルメニアのリンクを確保していた。

 そこで、浅田側と連盟の“対立”の間に、第三案として浮上したのが、浅田の振付を担当するタラソワコーチ(67)の口添えで、ロシア代表のソトニコワ(17)、リプニツカヤ(15)らと一緒にモスクワの「ロシア・ナショナル・トレーニングセンター」で最終調整をおこなうという案だった。

 しかし、この案にも連盟は首を縦に振らなかった。 結局、浅田は連盟に押し切られる形で、渋々アルメニアに向かった。

 「この決断が最悪だった。アルメニアのリンクの氷には砂が混ざっているうえにガタガタ。急遽、刃を研ぎ直す必要に迫られた。しかも空調設備が悪く、非常に寒かった。浅田は最終調整どころか、調子を狂わせてソチ入りした」(スポーツ紙記者)

 連盟による“妨害”はこれだけではない。現地の報道関係者を取材すればするほど、それは次から次へと噴出するのだ。

 「連盟幹部たちは、我々に対しても高圧的。取材させてやっているんだという態度で、少しでも気に食わないことがあれば、『何を書いているんだ』と取材パスを取り上げられた記者も過去にいたほど」(民放関係者)

 それは選手に対しても同様で、今回の男子代表選手にも勇気づける立場にあるはずなのに、心ない言葉を浴びせ、逆に追い込むようなことをしていたという。

 「女子選手に直接言わないにしても、そのコーチや関係者などに失礼なことを言うのは日常的。選手をサポートする立場なのに、彼らはそれをせずに何をやっているかといえば、選手村で頻繁に酒盛り。チーム・ジャパンとして機能しているはずがない」(スポーツライター)

 今回、連盟幹部は十数名ソチ入りしているが、はっきりいって遊びに来ているのと同じ、とスポーツライターは続ける。

 「彼らの遠征費は、浅田らの広告料から多くが出ているが、そのお金で我が世の春を謳歌しているにほかならない。見かねた男子選手やその周辺からは『連盟の誰も信用できない』と、我々に相談をもちかけてきたこともあった」

 五輪前、男女で複数のメダルを目標に掲げながら、選手をサポートできない連盟は猛省どころではすまされない。

(週刊『FLASH』3 月11日号)

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浅田 真央 選手のスピリッツ

 数日前、フィギュアスケート女子、浅田 真央 選手に対する、森 喜朗 元総理の「あの子は、大事な時に必ず転ぶ」と言った発言について、、、、

 日本の政治家なんてこんなもの、発言が隙だらけで、
 およそアスリートの高い次元のスピリットを理解できない人種

 アスリートのスピリッツなど理解できない日本の政治屋


と申し上げました。この、情けない、悔しい気持ちに全く変わりはないのですが、、、。浅田 真央 選手は本日、帰国ののインタビューでその件について質問され、、、、

 「私自身、それを聞いたのは終わった後でした。
 人間なので失敗することもあります。
 失敗したくて失敗しているわけじゃないです」

 「私は別になんとも思っていないですけど、森さんが今、
 後悔しているのではないかなと思います」


と答えました。たいしたものです!、このアスリートは、実はやっぱり強い!、この選手にもう一度、オリンピックのメダルを託したい、と心から思いました。来年以降の現役続行に「ハーフ、ハーフ(50%、50%)」とのことですが、その笑顔の表情に、ある一定期間の休みをおいたとしても、心は次のオリンピックに決まりつつあるように思うのは私だけでしょうか?

真央インタビュー写真

浅田 真央 選手に対するアスリートたちの激励ツイッター

 ソチオリンピックもそろそろ終盤、連日、睡眠不足になりながら観戦しております。上村 愛子 選手、オリンピックは5回目、7位、6位、5位、4位と来て、今回も4位とメダルには届きませんでしたが、「すがすがしい気持ち」と語った涙の笑顔に胸が熱くなりました。

上村愛子

(金)メダルにこだわり続けたジャンプのレジェンド(伝説)こと、葛西 紀明 選手のラージヒル個人の銀メダルと団体での銅メダルは、自身の身の上話と併せて、深い感動を与えてくれました。フィギュアスケート男子の、皇帝プルシェンコから 羽生 結弦 への覇権の移動には未来に向けた新たな大いなる期待感をもらいます。

葛西紀明

 そんな中、期待通りにいかない、せつない思いにさせる出来事も少なくありません。女子スキージャンプの 高梨 沙羅 選手は、連戦連勝のシーズンを過ごしてきたのに、メダルに届かずに終わりました。そして、何と言ってもフィギュアスケート女子、昨夜の出来事ですが、浅田 真央 選手はショートプログラムの冒頭に転倒、その後もミスが目立ち30人中16位には息をのみました。期待通りに行かなかったことに加えて、真央選手の気持ちを憂いで辛い思いをした人は多いと思います。

真央3A転倒

 アスリートと言うものは、努力に裏打ちされた実力、自信、そして集中力と、つい失敗した時のことを思ってしまうプレッシャーや緊張感、弱気と言うものは背中合わせであり、実力通りのプレーが出来るかどうかは、「それも実力のうち」と言う言葉では片付けられない、「実力」とは違う次元の精神性の部分だと思います。

 あまり、浅田 真央 選手関連のニュースは見ないようにしていましたが、目に入ってしまい、つい読んでしまった、恥ずかし日本の政治家、元総理大臣の発言がありました。以下の通りです。

森発言記事

森元首相

 プライベートで何か言うならけっこうですが、マイクに向って話せば日本人の心を逆撫でします。浅田 選手の耳に届けば23歳の女の子が辛い気持ちになるでしょう。日本の政治家なんてこんなもの、発言が隙だらけで、おおよそアスリートの高い次元のスピリットなんか理解できない人種のように思えてしまいます。

 アスリートのスピリッツなど理解できない日本の政治屋

 そんな中、失意の気持ちが救われる記事もあります。海外の有名スケーターたちが「#GoMao」「#MaoFight!」と言ったTwitterでエールを送っているとのことです。同じアスリートとして、競技に望む時の厳しさを知っているからこそ、応援せざるを得ない、トップアスリートに対するリスペクトがあるからこそ寄せられている言葉です。今夜の 浅田 真央 選手、大切なのは順位ではなく、自分の実力を出すこと、頑張れ!!!

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ツイート記事表紙

maofight.jpg

 日本時間の2月20日早朝にソチ五輪で行われたフィギュアスケート女子シングルショートプログラムで、ミスが相次ぎ16位となった日本代表の浅田真央選手に対し、海外の有名スケーターたちがTwitterでエールを送っている。一般ユーザーからの応援の声も、ハッシュタグ「#GoMao」「#MaoFight!」に集まっている。

 ソチ五輪男子シングルで17位だったミーシャ・ジー選手(ウズベキスタン)は、浅田選手の演技前に「#GANBATE」タグ付きで声援。演技後には「真央の点数はとても残念だがあきらめないで。フリープログラムを良くするために、さらに大きなサポートを!」と「#MaoFight!」タグを付けてつぶやいた。このタグを使ったのはジー選手が最初のようで、浅田選手を応援するために作ったようだ。

ミーシャのツイート

 浅田選手を応援するタグとしては「#GoMao」が以前から使われており、ジー選手は「みんな、真央ちゃんをもっと支えて、もっと前向きな雰囲気を!」と「#GoMao」付きでもつぶやいている。

 同12位だったジェレミー・アボット選手(米国)は、「胸が張り裂ける思いだ。真央はすばらしいチャンピオン。明日はもっと強くなっているだろう」とツイート。バンクーバー五輪銅メダリストのジョアニー・ロシェット選手(カナダ)は「ミスは残念だったが、このプログラムは大好き」とつぶやいた。

 「Gambatte!!!」――トリノ五輪男子フィギュア銅メダリストで、羽生結弦選手の振り付けを担当したジェフリー・バトル元選手(カナダ)は、浅田選手の演技前にエール。演技後には「技術的にも芸術的にも限界に挑戦する真央をとても尊敬している」とツイートした。

 女子シングルフリーは日本時間21日午前時から。浅田選手は第2グループの最後、全体の12番目に滑走予定だ。

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年が明けて五輪の話題は浅田よりも高梨!?

 いよいよ、年が明けてソチにおける冬季オリンピックの話題が盛り上がって参りました。本日はスキー、ジャンプの出場選手が決まりました。ちょっとした雑感ですが、ソチ五輪の話題が、フィギュアスケートの浅田真央から女子スキージャンプの高梨沙羅に移りつつあるような気がしています。単純にメダリストとの期待の高さだけでしょうか? これは、日本のマスコミの浅田真央に対する、思いやり、高い期待、強く応援する気持ちの現れではないかと思います。もちろん、高梨沙羅選手に対する期待感に変わりはありませんが、、、。

高梨沙羅

 浅田はグランプリシリーズを2戦ともに優勝でファイナルに進み、ここでも優勝しました。でも、このグランプリファイナルの行われた日に韓国のキムヨナが別の大会で優勝して、復活をアピールしました。浅田の耳に入っていないはずはなく、インタビュ—で聞かれることは少なく、ですから口には出しませんが、キムヨナを意識しないはずはないです。バンクーバーで己を二位(銀メダル)に押しやった人物ですから、、、。
 浅田の全日本選手権はダメでした。ショートもフリーもトリプルアクセルに失敗し、鈴木明子に負けました。浅田は鈴木に負けたのでしょうか? やはりここでもキムヨナの存在が浅田の脳裏に影を落としてきたと思います。案の定、キムヨナは年明けの韓国内の大会で自己最高に迫る成績を出しました。いよいよ、一騎打ちの様相です。

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キムヨナ記事

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 五輪でキムヨナに負けたことを思い返したネガティブな発想から、不本意な演技を引き寄せてしまうか、それとも、対抗する選手を考えずに高いレベルを目指して、納得する演技を引き寄せるかは、これから1月あまりの浅田真央に人間性が試されるところだと思います。「人間性」と言うと厳格な響きですが、浅田のキムヨナに対する拘りや苦手意識、劣等感から解放された自由な気持ちを取り戻すことだと思います。

 浅田には無我の境地で最高の演技をしてもらいたい!

 昨今のマスコミ、ソチ五輪を控えて、浅田よりも高梨に注目を集めています。これは浅田にとって良いことです、放っておいて欲しい時は、必ずアスリートにはあります。日本人は高梨へと同じ、それ以上に浅田の金メダルを願っています。この時間を大切に過ごして欲しいと思う次第です。

真央

女子フィギュアスケート トリプルアクセルのスピリッツ

 このところ、スピリチュアルネタが連続して、理屈っぽくて、堅苦しく重い内容が続きましたが、ちょっと軽くて明るい内容を考えました。この冬は4年ぶり、冬期オリンピックのシーズンです。何と言っても、ソチ(ロシア)におけるフィギュアスケート女子で、今期限りでの引退をほのめかしている浅田真央選手の念願の金メダルが期待されるところです。先日のグランプリシリーズ第1戦アメリカ大会ではショートの冒頭で見事にトリプルアクセル(3回転半)のジャンプを決めて優勝、先週末のNHK杯でも浅田選手は自己最高得点で優勝、グランプリファイナル出場を決定づけております。オリンピックの優勝を占う、浅田選手の代名詞とも言えるトリプルアクセルについて、そのスピリッツに照準を当ててみました。


◇ フィギャアスケートにおける6種類のジャンプ

 まず最初にフィギュアスケートにおける6種類のジャンプをご説明します。けっこう理解が難しいですが、少なくともトリプルアクセルの難易度が高いことは分かります。

1.トウループ TOE LOOP

 右足外側のエッジに乗り、左足のトウをついて踏み切ります。滑ってきた軌道を利用しながらトウをついて跳ぶので、最も跳びやすいジャンプとされ、観戦者の目には、自然の流れに乗って跳んでいるように見えます。男子で跳ばれる4回転はその大半がこのトウループです。コンビネーションジャンプの2つ目に跳ぶジャンプとしてもよく使われますので、競技中のいろんな場面で見るジャンプであります。

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2.ループ LOOP

 右足踏み切りでトウを使わないジャンプです。右足外側のエッジで滑りながら、左足を少し前に出して、滑ってきた勢いを使って踏み切ります。跳ぶ瞬間に、イスに腰掛けたような格好になるのが特徴です。比較的難易度が低く、コンビネーションジャンプの2番目に跳ばれることが多いですが、トウループと異なり着氷した右足でトウピックの助けなしに再び跳び上がらなければならないため、トウループよりも難しいとされています。

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3.サルコウ SALCHOW

 ループ、トウループと同じく、ジャンプする直前の体の進行方向がジャンプの回転方向と同じです。そのため滑る勢いをそのままジャンプに生かしやすく、比較的難易度が低いとされます。ループ、トウループと異なり左足内側のエッジで滑りながら、右足を前上方に振り上げて跳ぶので、瞬間、内股が「ハ」の字になります。踏み切るときにスキーのボーゲンのような体勢になればサルコウと判断できます。比較的易しいジャンプなので、男子ではトウループに次いで4回転ジャンプに使われますし、安藤美姫選手が、女性では初めての4回転ジャンプを決めたのもサルコウです。

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4.フリップ FLIP

 次に述べるルッツと非常によく似ているので素人には見分けるのは困難です。ジャンプする直前に左足内側のエッジに乗り、右のトウをついて跳びます。前向きに滑走して踏み切る直前にぱっと後ろ向きになって跳ぶことが多いです。

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5.ルッツ LUTZ

 アクセルの次に難しいとされるのがルッツジャンプです。少し長めに左足の外側エッジに乗って後ろ向きに滑走し、左肩をぐっと入れて右のトウをついて跳びます。滑走で描いてきた軌跡と反対の回転をかけながら踏み切るので難しいとされるジャンプです。「左足外側エッジ」というのが重要なポイントで、これが「左足内側エッジ」に体重を乗せてしまうと、正しくないエッジと判定されて減点対象となります。長く左足で後ろ向きに滑走して跳ぶ選手と、右足で滑走して踏み切る直前に左足を右足にかぶせるようにクロスさせて踏み切る選手がいます。後者の場合、フリップジャンプとよく似てきます。

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6.アクセル AXEL

 名称は1882年にアクセルジャンプを初めて飛んだノルウェーのフィギュアスケート選手アクセル・パウルゼンに由来します。女子では1920年には同じノルウェーのソニア・ヘニーが初めてシングルアクセルに成功しました。6種類のジャンプの中で唯一前向きで踏み切るため見極めは簡単ですが、難易度が最も高いです。着氷は常に後ろ向きですから回転数は1/2回転加わり、1回転半がシングルアクセルとなります。男子選手にとって、トリプルアクセル(3回転半)で得点を稼ぐことが上位に食い込むための重要な鍵になります。しかし前向きで踏み切るのは難しいため、選手によってはさらに高難度とされている4回転トウループのほうが得意という人もいます。当然、女子にとってはことさら難しいジャンプとなり、トリプルアクセルを成功させた女子は過去に数えるほどしかいません。

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【各種三回転ジャンプの比較】
ジャンプ比較


◇ 女子におけるトリプルアクセル

 1948年、サンモリッツオリンピックでアメリカ男子のディック・バトンがダブルアクセル(2回転半)を成功させ、その5年後、1953年には同じくアメリカのキャロル・ヘイスが女子選手として初めてダブルアクセルに成功しました。1978年にカナダの男子、ヴァーン・テイラーが世界選手権で初めてトリプルアクセル(3回転半)に成功して、その10年後、1988年、伊藤みどりが女子でのトリプルアクセルを成功させたのが世界で初めての快挙でありました。女子でトリプルアクセルが公式認定されたのは以下に示す5プレーヤーのみであります。年、大会はいずれも各選手が初めてトリプルアクセルを成功、認定された時の記録であります。

【女子のトリプルアクセル】
女子トリプルアクセル経験者


◇ 女子トリプルアクセルの明と暗

1.トーニャ・ハーディングの2つの事件

 1991年、女子選手として史上2人目のトリプルアクセルを成功したトーニャ・ハーディング選手は、おそらくは世界のトップ、オリンピックでの金メダルを夢見たことと思います。今でこそ日本は世界有数のフィギュアスケート国家となりましたが、伊藤みどり選手が出現した頃は、米国の方が圧倒的に強く、実際、92年、アルベールビルオリンピックで伊藤みどり選手が銀メダルを獲得しましたが、その時の金メダルは米国、クリスティー・ヤマグチ選手、その後もナンシー・ケリガン、タラ・リピンスキー、ミシェル・クワン、サラ・ヒューズ、サーシャ・コーエンと言った多数のメダリストを輩出しております。そうした米国の背景にあって、史上2人目のトリプルアクセルを武器に頂点を目指すのは言うなれば当然であったと思います。

 激戦の米国内で唯一のトリプルアクセルプレーヤーとなって

 91-92年のスケートアメリカにてショートもフリーでもトリプルアクセルを成功して優勝、1992年の全米選手権は3位となり、アルベールビルオリンピックの切符を手に入れました。しかし、1992年のアルベールビルオリンピックでは、前年まで成功していたトリプルアクセルが、オリジナルプログラム、フリー共に着氷に失敗、4位に留まりメダルには手が届きませんでした。

 アルベールビルオリンピックではメダルに届かず

 夏季と冬季のオリンピックの開催をずらす目的で、92年に続いて94年にも冬季オリンピックが開催されることになっており、彼女には短期間で二度目のチャンスが巡って来ました。ところが、92-93年のシーズンは不調に陥り、世界選手権にも出場できませんでした。そんな状況で迎えた94年、リレハンメルオリンピックの選考会となる全米選手権の会場で、練習を終えたナンシー・ケリガン選手が何者かに襲われる事件が発生しました。俗にいう「ナンシー・ケリガン襲撃事件」であります。

 ナンシー・ケリガン襲撃事件

 ケリガン選手は膝を殴打され怪我を負い全米選手権を欠場、ハーディング選手がこの大会で優勝を果たし、リレハンメルオリンピックへの切符を勝ち取りました。しかし、事件発生から2週間後、元夫であるジェフ・ギルーリーらが逮捕され、ケリガン選手への暴行はハーディング選手に頼まれたとの証言をしました。全米スケート協会とアメリカオリンピック委員会はハーディング選手をオリンピックチームから追放することを検討しましたが、結局、そのままハーディング選手の出場となりました。

 疑惑の目を向けられながらオリンピック出場

 リレハンメルオリンピックでも彼女は事件を起こします。フリーの演技が始まって最初のトリプルルッツが1回転となる失敗の直後、突然泣き出して演技を中断し、「靴紐が切れて演技が出来ない」とジャッジに訴えました。映像ではひもが切れたり緩んだりのトラブルは見られませんでした。

 リレハンメルでは、失敗したフリーのやり直しを主張

 ジャッジが、ハーディング選手のフリー演技のやり直しを認めると、彼女は突如笑顔に変わりガッツポーズしながらリンクを一旦後にしました。グループの最後で再びリンクに登場し、演技を再度行った彼女は、結局、合計8位と平凡な結果に終わりました。

 多くの物議をかもし出したハーディング選手はオリンピックの後、ナンシー・ケリガン選手襲撃事件における罪を認め、その後はプロレスラーになったりボクサーに挑戦したりと波乱に富んだ人生を歩んでいるようです。せっかく修得したトリプルアクセルを生かせず、慢心などの逆に作用してしまった選手かも知れません。



2.攻撃的プログラム、中野友加里のトリプルアクセル

 2010年に引退してフジテレビに入社した中野友加里選手は、現役時代、スパイラルにおける満面の笑みと、美しいドーナツスピンが印象的な選手でありましたが、彼女もトリプルアクセルの使い手であり、実は、スパイラルやスピンよりも、彼女の特徴を示す言葉、それは極、端に難しいジャンプ構成を組む選手として「クレージーガール」、「攻撃的プログラムの使い手」でありました。

 「攻撃的プログラム」を組む「クレージーガール」

 02-03のシーズン、ショートプログラムにトリプルアクセル入れ、フリーには単独のトリプルアクセルと、トリプルアクセル — 2回転トウループのコンビネーションに、3回転フリップ-3回転トウループ、3回転ルッツ-3回転ループの2つのコンビネーションを跳ぶ極めて攻撃的なプログラム構成をしました。シーズン初戦の中部ブロック大会でトリプルアクセルに成功すると、続くスケートアメリカではISU公認記録としては伊藤みどり、トーニャ・ハーディングに次いで3人目となるトリプルアクセルに成功しました。さらに西日本選手権と全日本選手権では、3回転アクセル-2回転トウループにも成功、冬季アジア大会と四大陸選手権ではそれぞれ3位となり、荒川静香、村主章枝とともに日本人選手で表彰台を独占しています。こうした華々しい時もあったのですが、大技を使うという事は大きな失敗もあって、スランプになると長引く傾向にあったようです。

 大技は爆発力があるが失敗、スランプも!

 03-04年および04-05年は調子が出ずに辛いシーズンとなり、05-06年、東京ブロック大会で、国内競技会では初となるISUジャッジングシステムのもとでの6種類の3回転ジャンプに成功し、スケートカナダでは新採点システムの下で始めて3回転アクセルに成功、表彰台に載りました。NHK杯でGPシリーズ初優勝、GPファイナルでも初出場ながら3位に入り、念願のオリンピック出場に向けて順調なシーズンでありました。しかし、全日本選手権では大技にミスが出て5位にとどまり、トリノオリンピック出場はかないませんでした。

 大技プログラムで大ミス、トリノを逃し

 その後の中野友加里選手は、トリプルアクセルを回避することもしばしばで、確実性を上げておりましたが、その分、以前のような爆発的な演技が減り、2-5位くらいの安定したプレーヤーとなりました。しかし、バンクーバーオリンピックが近づいた09-10年のジャパンオープンの演技中、トリプルアクセルで激しく転倒し、左肩を亜脱臼してしまいました。この大怪我が影響して、その後の大会では精彩を欠き、全日本選手権ではショートで2位でしたがフリーでミスを連発、鈴木明子選手に僅差で敗れて、またも念願のオリンピック出場は叶いませんでした。代表に選出されていた四大陸選手権と世界選手権を故障を理由に欠場、バンクーバーオリンピックの開催中に引退を表明しました。


 トリプルアクセル転倒で大怪我、引退へ

 彼女は、真面目で負けん気が強い性格とされますが、トリプルアクセルと言う大きな武器を得て、さらに大きなプレーを目指してしまった、そこに落とし穴、大技の裏に潜む大失敗と怪我、があった選手でしょうか。

トニーと中野
トーニャ・ハーディング(左)と中野友加里(右)


3.浅田真央選手のギネス認定とその後

 記憶に新しいところで、2010年、バンクーバーオリンピックにおける金妍兒選手との一騎打ちは極めて高いレベルでありました。金妍兒選手が歴代最高得点を出して金メダルを取りましたが、浅田選手は1つの競技会中に3度の3回転アクセルを成功させ、これは女子シングル史上初であり、ギネス世界記録に認定されております。

金と朝だ
バンクーバーにおける浅田真央(左)と金妍兒(右)

 しかし、バンクーバーオリンピックの後、ジャンプの矯正に取り組み、新しく変えたジャンプに苦しんだ時期がありました。2011年は東日本大震災があって、2連覇のかかった世界選手権が1か月先に延期となり、その間に被災地の惨状を目の当たりにし、「こんな時に大会に行ってもいいのだろうか?」と練習に身が入らなくなったとされます。結果、大会ではトリプルアクセルは失敗、総合6位に終わりました。11-12年のシーズンになって、グランプリファイナルの大会に臨むにあたり、母親の危篤の知らせを受け棄権、至急で帰国しましたが、48歳で亡くなられた母親のの死の際に間に合いませんでした。このシーズンは成績が振るわず、トリプルアクセルのみならず、多くのジャンプでミスが見られ、本人曰く、シーズン終了後にはスケートへの意欲を失い、辞めることも考えたとされます。
 12-13年の昨シーズンは復調の兆しを見せ、しばらくは封印していたトリプルアクセルも復活させて良い雰囲気で今シーズンに繋いで来ました。「スケート人生の集大成」として、事実上、引退の宣言をしたソチオリンピックではショートとフリーにトリプルアクセルを3回導入し、フリーので3回転ジャンプを計8回とする目論みとのことです。


◇ トリプルアクセルと大会での成績

 トリプルアクセルを飛べることがどれほど女子の大会において優位であるかを検証いたしたく、トリプルアクセル経験者5人の国際試合における成績を列挙いたしました。確かに、トリプルアクセルを飛ぶほどのプレーヤーですので、トッププレーヤーとして輝かしい成績が見て取れます。

【女子トリプルアクセル経験者の国際試合での成績】
トリプルアクセラーの成績

 しかしながら、細かい部分に目を向けますと、女子トリプルアクセル経験者5人中、オリンピック出場は伊藤みどり選手(日本)が2回、トーニャ・ハーディング(米国)、浅田真央(日本)の両選手が各1回となっており、メダルについては伊藤、浅田両選手の銀メダル2つに留まっております。4年に1度ですのでタイミングもあろうかと思いますが、リュドミラ・ネリディナ(ロシア)と、上でご紹介した中野友加里(日本)の両選手はトリプルアクセル経験者でありながらオリンピックへの出場は叶いませんでした。
 逆の観点から、オリンピックでのメダリストに目を向けてみました。伊藤みどり選手がジュニアでの競技生活を始めた1980年移行の冬季オリンピック、フィギュアスケート女子シングルの成績は以下の通りです。

【冬季五輪フィギュアスケート女子シングルメダリスト一覧】
メダリスト

 金メダリストとして、トリノの荒川静香選手(日本)のイナバウアーや、上述、バンクーバーでの金妍兒選手の007のテーマに乗った演技は記憶に新しいところですが、こうして過去9回の大会を見渡しますと、9x3=27人のメダリスト中、トリプルアクセルに挑戦したのは2人、成功したのもその2人、全体の7.4%と言う低い少数派であります。上で申し上げました通り、出場できなかった選手もいるわけですから、トリプルアクセルはオリンピックに出場する絶対的な武器にはならず、また出場してもオリンピックで優勝する、あるいはメダルをとるための武器でもない、と言うのが今までのところかと存じます。

イナバウアー
荒川静香のイナバウアーの演技


◇ 今後の女子におけるトリプルアクセル

 1990年9月25日生まれで現在23歳の浅田真央選手が本当にソチオリンピックを最後に引退するのかどうかは解りませんが、13-14年の今シーズン、浅田選手以外にトリプルアクセルを飛ぶ女子選手はいないようです。上の表に示す通り、96年から01年までの間、トリプルアクセルを飛ぶ女子選手の国際大会での出場はありませんでした。もしかしたら、そうした時代に突入する可能性はあります。ハーディング選手は間違った道に進んでしまい、中野友加里選手もトリプルアクセルが飛べるが故に攻撃的なプログラムを組んだと推察します。浅田選手だってこの4年間、ずいぶんとジャンプに悩んでいました。トリプルアクセルは言うなれば「諸刃の剣」であり、大きな効果をもたらす可能性をもつ反面、多大な危険性をも併せもつものかも知れません。
 
 トリプルアクセルは「諸刃の剣」?

 もしかしたら、トリプルアクセルの魅惑に騙されず、着実、安全な道を歩む方がオリンピックのメダルに近いと言う時代がすぐそこに来るかも知れません。このあたり、もはやこれをやらずには上位進出はなくなった、男子の4回転ジャンプとはちょっと違う状況かと存じます。


◇ 伊藤みどりのトリプルアクセルにかける執念

 最後に伊藤みどり選手が、今から20数年前の1992年、アルベールビルオリンピックで飛んだトリプルアクセルを解説いたします。有名な話しですのでご存知の方は多いと思いますが、、、。
 伊藤みどり選手はカルガリーオリンピックのフリーで、5種類の3回転ジャンプを7度決め、思い通りの演技にガッツポーズを演技終了直前に見せ、演技終了前から2万人の観客のスタンディング・オベーションを受けました。この際、技術点では5.8-5.9点と出場選手中最高点をマークしましたが、芸術点は5.5-5.7点(芸術点だけでは5位)と低く抑えられたため、観客からはブーイングが起き、最終的には5位に終わりました。
 彼女が、ジュニアの時に練習していたトリプルアクセルに再度、挑戦したのはこのオリンピックの後からとのことです。88-89年のシーズン、愛知県フリー選手権でトリプルアクセルに挑戦し、競技会では初めての成功を収め、国際大会では1988年NHK杯で成功、この時、世界初として認定されました。

 カルガリーの後にトリプルアクセルを再開

 カルガリーオリンピックの後にルールの改正が起こり、規定演技が苦手な伊藤選手には有利となりました。そうなると、彼女にとっては新ルールの下、世界では唯一自分しか飛べないトリプルアクセルを武器にオリンピックのメダルを目指すのは当然のことでありました。
 
 いよいよアルベールビルオリンピックにおいて、残念ながら、伊藤みどり選手は精神的な緊張から大不調でありました。2日前の練習の段階で、トリプルアクセルのコンビネーションジャンプが14回中すべて失敗、トリプルアクセル単独は5回成功と成功率が落ちていました。そのため、オリジナルプログラムで予定していたトリプルアクセルを3回転ルッツに変更しましたが、そのルッツで転倒して4位と出遅れてしまいました。

 アルベールビルでは大不調、変更したルッツで転倒

 フリー演技、一度は3トリプルアクセルで転倒します。場内は大きな溜息が漏れますが、伊藤みどり選手はチャンスを伺いながらその他のジャンプを全て成功し、疲れが出て来る演技後半の残り1分で再びトリプルアクセルに挑み、見事に成功しました。

 フリーの序盤に転倒したトリプルアクセルに演技後半1分で再挑戦

 このトリプルアクセルについて、5歳の伊藤みどり選手を「家庭環境が恵まれない子だったので、スケートでご飯を食べていけるようにしてあげたい」という思いから自宅に引き取って育てたコーチの山田満知子氏は、、、

「あの子は転倒したトリプルアクセルにもう一度挑戦した。オリンピックでトリプルアクセルを本当に飛びたかったんだと思います。なんて強い子なんだろうと思います」

、、、と涙ながらにコメントされました。

 日本女子のフィギュアスケート選手として第二次大戦前にオリンピック出場を果たした稲田悦子氏は、、、

「最後に決めたトリプルアクセルには、自分のスケート人生をかけたんだという気迫が感じられました」

、、、と感想を述べています。

 また、後年、伊藤みどり選手の後輩であるフィギュアスケートプレーヤーである恩田美栄氏は、、、

「もう並大抵の体力じゃないです。それに同じジャンプを一度転んでるにも関わらず。私にはできない。跳ぶとしたら死ぬくらいの覚悟がいる」

、、、とも語っっております。やはり、トリプルアクセルはプレーヤーの心をつかんで離さない、もしかしたら「諸刃の剣」、後世の女子プレーヤーにとっても伊藤みどり選手のスピリッツが受け継がれた演技かも知れません。そう言う意味では浅田真央選手はトリプルアクセルの歴史を変えるかも知れないと思う次第です。

伊藤みどり

 YouYubeのリンクですが、映像をご用意いたしました。アルベールビルオリンピックにおける伊藤みどり選手のフリーの演技です↓。下の青字のタイトルをクリックしていただけばYouTubeに繋がり22年ぶりの演技を見られます。

伊藤みどり アルベールビルオリンピック フリーの演技


http://ja.wikipedia.org/wiki/アクセルジャンプ
http://skatingjapan.or.jp/figure/trick.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤みどり
http://ja.wikipedia.org/wiki/トーニャ・ハーディング
http://ja.wikipedia.org/wiki/中野友加里
http://ja.wikipedia.org/wiki/浅田真央

二人のアスリートに観た「燃え尽き症候群」

 先週の末、サッカー元日本代表MF、奥大介容疑者(37)の逮捕が報道されました。約8年間にわたり、妻である女優の佐伯日菜子さん(36)に対してドメスティックバイオレンス(DV、家庭内暴力)を繰り返し、「今から殺しに行く!」との脅迫に対して警察に通報したものとのことです。私はこの報道を見聞きして、直感的に、華々しい過去を持つスポーツ選手の燃え尽き症候群だろうと思うと同時に、一昨年、2011年7月下旬(24日より行方不明、発見は27日)に自殺した伊良部秀輝投手を憶い出しました。この二人のアスリートに観た「燃え尽き症候群」を取り上げたいと思います。まずは以下、スポーツ報知などの奥大介容疑者に関する報道です。


◇ サッカー元日本代表MF 奥 大介 氏 DVの記事

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 日本代表MFとして活躍し、J1でも横浜Mの2連覇に貢献した好選手の逮捕にサッカー関係者は動揺を隠せなかった。横浜M在籍時の奥容疑者とプレーしたある選手は「後輩を食事に連れていくなど、面倒見が良い兄貴分だった。選手として悩みを聞いてもらったことがあり、すごく世話になった。こんなことになるとは」とショックを受けた様子だった。横浜Mの職員として接した関係者も「寝耳に水だ。お酒が好きで、アスリートというよりも豪快な天才肌の選手という感じ。ホームゲームでは夫人や娘が試合をよく見にきていたのを覚えている」と驚いていた。

奥大介

 2007年に横浜Cで引退した奥容疑者は、2011年10月から横浜Cの強化部長を務めたが「体調がすぐれない」という理由で、昨年12月にテクニカルアドバイザーに異動。今年1月末に契約満了で退団した。佐伯さんと親しい関係者によると、奥容疑者のDVが日常化したのは結婚から3年たった2005年ごろからだという。「お前なんか大した女優でもないくせに」「誰のおかげでメシが食えていると思っているんだ」などの暴言とともに、小学生の娘2人の前で暴行を加えたこともあったという。地方の田んぼ道を歩いているとき、いきなり奥容疑者が佐伯さんを田んぼへ突き飛ばしたところも友人らによって目撃されている。また、奥容疑者は「お前、浮気しているだろう」となどと言って、佐伯さんの携帯電話を壊したという。最近では娘が通う小学校に「子どもを出せ。お前ら嫁とグルで隠しているんだろう」と何度も電話をかけ続けたという。佐伯さんは「仕事をすれば文句をつけ、邪魔をされてしまう。この状態では仕事ができない」と周囲に悩みを打ち明けていた。佐伯さんは4日に戸塚署に被害届を提出したが、DVを受けた際の録音テープやけがの診断書も用意していた。
 奥容疑者は実家のある尼崎市で逮捕されたが、別居状態にはなっていないという。ある関係者は「(サッカーの)仕事がなくなり、精神的にも参ってしまっている奥を佐伯さんが介護するような状態になっていた」と証言した。16日に愛知県で予定されていた奥容疑者のトークイベントは、ゲストにトラブルがあったとして中止になった。

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 まだ警察の取り調べの段階ですので、憶測で物を言うのは控えるべきと思われますが、はっきり言えることは、奥大介容疑者は佐伯さんと言う夫人を心から憎んだり嫌ったりしていたわけではなく、どうにもならない情動が彼の中にあったのであろうと言うことです。2005年頃よりDVは始まり2007年に現役引退とのことですので、30歳を迎える直前のサッカー選手として下り坂に入ったところに端を発したのだろうと予測いたします。


◇ 伊良部 秀輝 投手の自殺

 故伊良部秀輝投手は、1987年のドラフト1位でロッテに入団、1993年より頭角を現し、最多勝、最多奪三振、最優秀防御率などのタイトルを獲得した後、1997年よりメジャーリーグ(ヤンキース、エクスポズ、レンジャース)で活躍、2003年には阪神で日本復帰、13勝をあげて優勝に貢献しましたが、2004年オフには戦力外となりました。2005年に引退表明後、ロサンゼルスにてうどん屋を経営したり、アメリカ独立リーグや日本の四国・九州アイランドリーグで現役復帰、2010年1月、二度目の引退をして、2011年7月、自宅にて首を吊った状態で死亡しているのが発見されました。
 故伊良部投手に関しては、亡くなる直前にノンフィクションライターの田崎健太氏がインタビューをしており、それが世の中に出た2週間後の訃報でありました。また、団野村氏の書籍も発表されており、併せてオグマナオト氏がレビューを掲載しておりますのでこれを引用いたします。

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『伊良部秀輝はわがままでも傲慢でもなかった
 ただ野球を愛しすぎたのだ』

 手元に1冊の「SPA!」がある。2011年7月19日号。捨てられずにずっと取ってあるのは、伊良部秀輝、人生最後のインタビューが載っているから。「伊良部秀輝、ロスの自宅で自殺」の報が流れたのは、その「SPA!」が発売された2週間後のことだった。自殺の原因としてはどの新聞報道でも、「共同オーナーを務めていたうどん店の経営不振」、「家族との不仲、離婚問題」、「球界へ復帰したくても受け入れてくれる場所がない孤独」、という3点が挙げられていたが、これを真っ向から否定する書籍が登場した。

『伊良部秀輝 ラストインタビュー』 田崎 健太 著
『伊良部秀輝 野球を愛しすぎた男の真実』 団 野村 著

伊良部

 上梓したのは伊良部秀輝の代理人を務めた団野村。この本の冒頭で、うどん店は黒字だったが店のリース契約が切れたから閉店になったこと、離婚報道はデタラメで奥さんとも仲がよかったこと、そして今後の仕事についても講演や解説、野球教室などを計画し、来日の予定もあったことを記している。では、なぜ伊良部は自殺を選んでしまったのか。著者はこれまでの伊良部秀輝の野球人生、そして伊良部自身の野球哲学を振り返りながら、その背景を改めて考察する。

 伊良部秀輝、といえば最速158km/hの豪速球を武器に日米で活躍し、ヤンキース時代には日本人初のワールドリングを手にするなど、一時代を築いた投手だ。その一方で、ロッテ時代には広岡GM(当時)と何度も衝突を繰り返し、ヤンキース時代にはオーナーから「彼は太ったヒキガエルだ」と糾弾されるなど、「悪童」「わがまま」「傲慢」というイメージも強い。大阪のバーで店員を殴って逮捕されたことを覚えている方も多いだろう。その事件にしても、真相は別にあったと著者は綴る。曰く、支払いで提示したクレジットカードが15分過ぎても戻ってこなかったため、不振に思った伊良部が問いつめたところ店長が逃げようとしたので押さえつけた……むしろ伊良部の方がスキミングの被害者であり、事実、伊良部はその後、不起訴処分にもなっている。

《しかし、メディアはこうした事実をいっさい伝えなかった。(略)断言するが、ヒデキはわがままでも、自己中心的でも、傲慢でもない。そういうイメージはすべてメディアがつくりあげたもので、まったく事実ではない。それどころかヒデキは正反対の人間だった》

 本書では以降、伊良部がいかに繊細な男で、愚直に野球のことばかり考えていたかを、代理人として一番そばで見続けてきたからこその視点で明らかにしていく。メジャー志向になった経緯、ロッテ時代の先輩・牛島和彦に影響を受けた投球術やトレーニング方法、関節・筋肉の使い方まで含めた投球フォームへのこだわりなど専門的な記述も多い。一方で、イチロー・長谷川滋利との食事会において、3時間超二人を質問攻めにし、伊良部がトイレに立った際にイチローが「いつもどうやって話を切り上げるの?」と聞いてきたという、微笑ましいエピソードも登場する。豪速球のイメージが強い伊良部が実際にはとにかく研究熱心で、三振よりもどう打たれるかばかりを考えていたなど、これまでメディアで報じられていたイメージとは異なる面が多々描かれていく。中でも従来のイメージとのギャップを感じるのが、伊良部という男が抱えていた「恐怖心」だ。

《「このままでは、いずれ通用しなくなるのではないか。打たれるのではないか……」そういう強い恐怖心、おびえがヒデキの心のなかにはつねにあり、それが彼の研究心、向上心を駆り立てることになった(略)恐怖が、彼が野球を深く掘り下げるためのモチベーションになっていたのは間違いない》

 そして、恐怖心を乗り越えた先にある、野球でしか得ることができない「アドレナリン」こそが、伊良部が生きる上でのモチベーションになっていたと語る。

《アドレナリンの興奮と恍惚を知ってしまったアスリートにとっては、アドレナリンが湧いてこない状態はいわば “死んだも同然” なのではないだろうか》

 現役引退で喪失してしまったアドレナリンをどうやって取り戻せばいいのか、という伊良部の苦悩は、セカンドキャリアで失敗する例が多いアスリートの生き様を考える上でも示唆に富む事例であるだろう。
 著者である団野村は、代理人として野茂英雄・吉井理人・岩隈久志・ダルビッシュ有などのメジャー挑戦を支えてきた人物だ。本書の中でも、伊良部と野茂、伊良部とダルビッシュの比較論など、代理人ならではの客観的な評価軸が登場する。また、伊良部=わがまま、というイメージが決定的となった「メジャー移籍騒動」も、契約までの舞台裏においてロッテ、メジャー球団サイドとどんな口約束や事前交渉があり、反故にされたのかを実名も交え詳細に綴っていく。代理人でしか書けない強烈なコンテンツだ。
 しかし、本書の中で垣間見せるのは「代理人・団野村」の姿ばかりではない。団自身が元プロ野球選手だからこそ感じる一流アスリートへの憧憬、そして伊良部と同じ「ハーフ」という出自を持つからこその「自分は何者なのか」「自分のいるべき場所(国)はどこなのか」という悩みを自分語りとして綴る。
 同様に自分が真に輝ける場所を求め、アメリカに渡った伊良部。だが、冒頭で紹介した生前最後のインタビュー記事のタイトルが「やはり日本に帰りたい」だったのがなんとも皮肉である。いずれにせよ、日米の野球界に大きな爪痕を残した伊良部秀輝という人物の、メディアでは決して描かれることのない素顔を知る上で必読の書であるだろう。そんなメディアについて、伊良部自身が語っている言葉がある。最後に引用したい。(オグマナオト)

「野球のボールはコントロールできるけれど、メディアはコントロールできない」

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 上の文章で表現された「現役引退で喪失してしまったアドレナリンをどうやって取り戻せばいいのか?」、「セカンドキャリアで失敗する例が多いアスリートの生き様」と言う現象、奥大介容疑者はどうにもならない気持ちを暴力に訴えてしまい、故伊良部秀輝投手は自らの命を絶つこととなってしまった、これは燃え尽き症候群に他なりません。

 セカンドキャリアで失敗するアスリート


◇ 燃え尽き症候群

 燃え尽き症候群(Burnout Syndrome)とは、1970年代の米国で生まれた言葉とされ、一定の事象に対して献身的に努力した人間が、その活動が停止した場合、例えば引退、会社の倒産、リストラ、家族の不慮の死などに際して、それまでの人生最大の目標を終え、打ち込む物が何もなくなった状態から、慢性的で絶え間ないストレスが持続することにより、意欲を無くし、社会的に機能しなくなってしまう症状、一種の心因性(反応性)うつ病と説明されます。
 症状として、朝起きられない、会社または職場に行きたくない、アルコール多飲、イライラが募るなどから始まり、突然の辞職、無関心、過度の消費などにはけ口を見出したり、最後は仕事からの逃避、家庭生活の崩壊、対人関係の忌避、最悪の場合、自殺や犯罪や過労死や突然死などに終わるとされます。
 とりわけ、スポーツ選手の場合、マスコミなどから注目を集めた選手生活のピークの一時期が華やかであっただけにその後の新たな目標を見いだせず、「選手生活のピークが人生そのもののピークであった」という形になってしまう者も散見されており、そこに燃え尽き症候群が発生しているようです。

 一時期でも成功者となれたキャリアがあれば、その後の人生においてもまた別の分野で輝けるのではと、思えなくもないのですが、人間の心の問題は奥が深いと言わざるを得ません。奥大介容疑者には早く更正して第二の人生を取り戻して欲しいと願いますし、高校時代から大リーグまで、豪速球が脳裏に浮かぶ、故伊良部秀輝投手には謹んでご冥福をお祈りいたします。

http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20130608-OHT1T00016.htm
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130228/E1361978604520.html?_p=1
伊良部秀輝 野球を愛しすぎた男の真実(団野 村 著)PHP研究所 2013年
伊良部秀輝 ラストインタビュー(田崎 健太 著)デジタルディレクターズ 2011年
http://ja.wikipedia.org/wiki/燃え尽き症候群