アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜

アセンションを目指したある1外科勤務医のスピリチュアルおよびその周辺事項への探求をご紹介します

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1970年代後半の 20歳代の さだまさし さん が綴った恋の唄たち


 シンガーソングライターで、ラジオ・パーソナリティーで、小説家で映画監督の、今となっては随分と肩書きが増えた さだまさし さん(本名 佐田 雅志、1952年4月10日生)についての、ちょっとした私見を申し上げます。私が さだ さん を意識するようになったのは、恥ずかしながら、10代の時に3歳年下の妹が「私花集(アンソロジィ)」と言うアルバムを買って来てからでありました。このアルバムは1978年3月のリリースですので今から約40年も前であります。「恥ずかしながら」と申しましたのは、当時の「アルバム」とは、直径30 cmのレコードで回転数33 1/3回/分の「LP(Long Playing)」のことであり、1枚3000円もして、それを自分の小遣いで買うのを妹に先を越されたからであります。

私花集 ジャケット

 さすがに「精霊流し」(1974年)くらいは知っておりましたが、妹から借りてカセットテープにダビングした「私花集(アンソロジィ)」に聞き惚れて、その前とその後と、年に1本出されるアルバムを全て収集するちょっとしたブームでありました。医者になってから、さだ さん とは東北地方のコンサートを観に言った際に、知人で関係者の人に案内されて楽屋でお会いして握手させていただきました。その一度だけですが、ここでは「さだまさし さん」もしくは「さだ さん」と呼ばせていただきます。
 前置きが長くなりましたが、テーマはタイトルに示す通り「さだまさし さん が綴った恋の唄たち」で、1952年生まれ、31歳で結婚した彼が20代であった、大凡、1970年代の曲が対象であります。


◇ さだまさし さん が綴った恋の唄たちの分類

 さだ さん は日本の代表的なシンガーソングライターであり、「さだまさし研究会(さだ研)」なるものもあるくらいですから、彼についての詳しい紹介が必要ないのは助かります。さだ さん の楽曲は、人生観や歴史、世情を歌うもの、父や母への想い、個人的な誰かへの感情など、多岐に渡りますが、当然ごとく独身時代の20代は多数の恋の唄を歌っております。一般的に、恋愛を歌った多くの楽曲がハッピーエンドではなく、別れや苦しい恋心を表現していて、さだ さん の恋の唄もそういう傾向にあります。ここでは以下の如く分類して考えます。

 ・極めて少ないハッピーエンドはヒット曲
 ・意外に少ない軽いノリでの失恋の歌
 ・案外多い昔の恋人とのふれあい
 ・死に別れた恋人を歌う
 ・真骨頂! 美しい音色と芸術的な詩で綴られた失恋の歌


 こうして分類すると「まさにそうだ!」と共感される方がいらっしゃるかと思いますが、全くそうは思わない方がいるかも知れません。対象となるのは、以下の、ソロとして1つ目「帰去来」以下、6つのアルバムと、その時期に出されたシングルの恋愛の歌であります。

 1.「帰去来」 (1976年)
 2.「風見鶏」 (1977年)
 3.「私花集」 (1978年)
 4.「夢供養」 (1979年)
 5.「印象派」 (1980年)
 6.「うつろい」(1981年)


帰去来ジャケット

風見鶏 ジャケット

夢供養 じゃyケット

印象派 ジャケット

うつろい ジャケット


◇ 極めて少ないハッピーエンドはヒット曲

 改めて、多くのミュージシャンが恋愛を歌っておりますが、ハッピーエンドは少なく、さだまさし さん も同じ傾向にあります。ただ、さだ さん の場合は、少ないハッピーエンドを堂々とシングルでリリースしてヒットを生み出しました。ここでは「雨やどり」(1977年)と「天までとどけ」(1979年)を挙げます。なお、「パンプキンパイとシナモンティー」(1979年「夢供養」に収録)もハッピーエンドを惹起させますが、歌う本人ではなく、「(喫茶店の)マスター」と言う客観的存在を主役としたストーリーでありました。また「きみのふるさと」(1977年「風見鶏」に収録)はもうすでに結婚を意識した男性が恋人の故郷に向かう情景を歌ったハッピーな歌であります。

「雨やどり」(1977年)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

雨やどり ジャケット

 さだまさし さん の歌で最初のハッピーエンドかどうか知りませんが、ソロデビュー後、2枚目のシングルで、「精霊流し」を超えるオリコンシングルチャート1位にノミネートされる大ヒットとなりました。1977年2月11日ののレコーディングは埼玉県の熊谷会館でのコンサートライブで行われ、録音には観客の笑い声が入っております。後続として「もうひとつの雨やどり」(同年、シングルB面)、「雨どりや」(1979年)があります。以下に曲の冒頭と最後の歌詞をご紹介します。

 *****

 それはまだ私が神様を信じなかった頃
 9月のとある木曜日に雨が降りまして
 こんな日に素敵な彼が現れないかと
 思ったところにあなたが雨やどり

 すいませんねと笑うあなたの笑顔とても凛々しくて
 前歯から右に4本目に虫歯がありまして
 仕方がないので買ったばかりのスヌーピーのハンカチ
 貸してあげたけど傘の方が良かったかしら

 でも爽やかさがとても素敵だったので
 それは苦しい時だけの神頼み
 もしももしも出来ることでしたれば
 あの人にも一度逢わせてちょうだいませませ

  (再会して交際が始まり)

 本当なら連れて来てみろと言うリクエストにお応えして
 5月のとある水曜日に彼を呼びまして
 自信たっぷりに紹介したらば
 彼の靴下に穴がポカリ
 慌てて抑えたけどしっかり見られた

 でも爽やかさがとても素敵だわと受けたので
 彼が気を良くして急に
 もしももしも出来ることでしたれば
 このひとをお嫁さんにちょうだいませませ

 その後私気を失ってたからよく分からないけど
 目が覚めたらそう言う話がすっかり出来上がっていて
 おめでとうって言われても一度気を失って
 気がついたらあなたの腕に雨やどり

 *****



「天までとどけ」(1979年)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 フジテレビのドラマ「時よ燃えて!」の主題歌でありました、恋愛が成就して結婚に至る直前の、この上なく愛の喜びを歌った歌だと思います。当時の人気歌番組であるTBSテレビ「ザ・ベストテン」では合計6週間10位以内にランキングされました。

天までとどけ ジャケット


◇ 意外に少ない軽いノリでの失恋の歌

 さだまさし さん の失恋の歌と言えば、軽い笑顔で歌う曲と言う印象を持ってしまうのは私だけではないでしょうが、実は「軽いノリでの失恋」の歌は極めて希であります。

「絵はがき坂」(1976年「帰去来」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 アルバム「帰去来」(1976年)のB面に収録され、後にシングル「雨やどり」(1977年)のB面でも登場したこの曲は、実は初期の さだまさし ワールドにおけるファン投票 ベスト10に迫る人気曲であります。さだ さん が失恋を軽いノリで歌う印象を持たせたのはこの曲があったからと思います。コンサートでは観客が手拍子で共演する、実は、失恋の歌の舞台は、さだまさし さん が少年時代に過ごした長崎県長崎市の活水地区、彼の妹、玲子 さんの母校である活水女子大学とも、有名なオランダ坂とも言われています。

 *****

 あなたはためらいがちに何度も言いあぐねて
 どうしてそんなことああ迷うのですか
 一人で生きていけるほどお互い大人じゃないし
 それにしてもあなたの時計ああ進みすぎました

 カンナがもうすぐ咲くからそれまであなたが髪を
 切らなければいいね出来たら本当にいいね

 活水あたりはまだ絵はがき通りの坂
 つたやかづらの香り背に学生たちが通る

 あなたの横顔越しにシャボン玉が一斉に
 弾けた気がしたのはああ紫陽花ですか

 同じようにジーンズ着てアンアンノンノ抱えた
 若いお嬢さんたちが今シャッターを切った
 活水あたりはまだ絵はがき通りの坂
 僕も思い出欲しくてそっと心でシャッター押した

 絵はがき坂を下りながらあなたは
 やっぱり言いましたね ああさよならですか
 ああさよならですか
 ああさよならですか

 *****


「最后の頁(ページ)」(1978年「私花集」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 明るく美しい音色の曲です。「秋桜」(1977年)と共にカップリング曲として 山口 百恵 さんに提供されました。「サヨナラとマッチの軸でテーブルに書いた落書き、火を灯せばサヨナラが燃えて綺麗だ」と、いかにも「さだワールド」の歌詞であります。


◇ 案外多い昔の恋人とのふれあい

 もしかしたら さだまさし さん の独特の手法かも知れません。以前に交際した女性と再会している情景を歌っています。何やら、彼女から相談を受けて、それに答える設定です。なんとなくウキウキした気分が感じられ、実生活ではあまりない設定ですのでコミカルな雰囲気も感じます。

「吸い殻の風景」(1977年シングルおよび「風見鶏」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 昔の恋人と再会して、彼女の方から一方的に現状とかつての言い訳を聞くという設定です。歌詞を一部抜粋してご紹介いたします。

 *****

 (途中から)

 みんなはどう元気でいる
 私のこと覚えているかしら
 あの頃私子供だったから
 みんなを困らせたわ

 今になって考えれば
 あなたはとても良い人だった
 だからこそ
 落ち着くところへ落ち着いたの二人

 人は皆それぞれに自分の
 時刻表を持っているのよ

 あなたと私の場合はどちらかが
 列車を乗り違えただけの事じゃない

 だからそんな風に
 自分のこといじめるのは止して頂戴
 わかるでしょ風の日には
 誰だって目をつぶるわ

 *****


「立ち止まった素描画(デッサン)」(1979年「夢供養」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 別れた恋人が別の男性とも交際してまた別れたことを聞き、その彼女に語りかけているシーンです。実際に会って話しているかは不明ですが、詩の面白い言葉の言い回しが印象的です。一部を抜粋してご紹介いたします。

 *****

 別れたんだってね彼とまるであっけなく
 僕との時の様にきみから言い出して
 ちょっと買い物に出かける様な調子で
 ふらりと部屋を出て来たに決まってる

 (中略)

 忘れちゃいけないもしきみが
 地図にない街を捜したきゃ
 初めに地図が必要だってこと
 きみと僕で前に一度
 身に浸みたはずなのに
 きみはスケッチブックに素描画(デッサン)だけ済ませたら
 色付けの前に投げ出す繰り返し

 *****


「分岐点」(1981年「うつろい」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 昔の恋人に呼び出されて失恋話を聞かされます、それもミートパイとソーダ水をヤケになって飲み食いしながらのしゃべりまくり。最後のフレーズで、ふともう一度、ヨリを戻せるのではないかと考えている主人公の本音なんかも含めて、全体にコミカルで楽しい曲となっております。

 *****

 昔の恋人僕を呼びつけて
 また例によって失恋話
 普段は全く音沙汰も無しに
 何処かの誰かと別れるたびに呼び出す
 悲しい時にはお腹が空く性質で
 それも決まってミートパイとソーダ水
 それを泣きつ怒りつじっと頬張っている

 ごめんねいつも泣き顔ばかりで
 でも食べかけのミートパイじっと見てると
 いわゆり条件反射なのよね
 ボッとしたあなたの顔見たくなる

 そんな憎まれを叩いて2杯目の
 ソーダ水飲み干してやっと笑ったね

 (中略、最後のフレーズ)

 可笑しなもんだねもしかしたらきみと
 出直せるかなんて今思ってる

 *****



◇ 死に別れた恋人を歌う

 多くのシンガーに歌われる「死に別れた恋人を思う歌」を、20歳台の さだ さん は、少なくとも4曲は作っております。

「異邦人」(1976年「帰去来」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 亡くなった元恋人の弔問とアルバムを形見としてもらう為にかつて過ごした街を訪れたところ、街そのものは昔のままであったけれど、もはやそこには自分の居場所がないことを実感すると言う歌です。

「夕凪」(1976年「帰去来」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 渡辺 俊幸
 歌  さだまさし

 同じアルバムに2曲目となります亡き恋人を思う歌であります。夕暮れの海を眺めながら恋人を思い出しております。この情景は、後に「黄昏迄」(1981年「うつろい」に収録)に引き継がれ、大バラードとして完成します。

「みるくは風になった」(1980年「印象派」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 交通事故で他界した実在の女性に向けた鎮魂歌でありますが、その女性は恋人ではありませんでした。さだまさし さん がアルバム「風見鶏」のレコーディングのために渡米した際に案内役を務めた留学生の 故 相沢 玲子 さんは、帰国後も さだ さん や 渡辺 俊幸 氏 と親交があり、さだ さん にとっては妹のような感覚の女性だったようです。

「黄昏迄」(1981年「うつろい」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 先にも申しました、5年の歳月を経て、「夕凪」(1976年「帰去来」に収録)の続きとなる、黄昏の海を見ながら亡くなった恋人を思う歌であります。メロディの美しさ、歌詞の美しさ、さだまさし ファンの人気トップ10に入る名曲であります。

 *****

 海を見下ろす丘の上は
 いつでも向かい風が吹いて
 空と海の青と思い出とが一列に並ぶ

 きみが愛していた子犬は
 あれから大きく育った
 今僕の側で一緒に海鳴りを聴いている

 金色の波の上を帆影が一つ
 二つ港へと還ってゆく

 昔きみと約束していた
 二人して年老いたならば
 世界中を船で廻ろうと
 飽きるほど一緒にいようと

 突然に海に帰ったきみを
 追いかけて僕の心がカモメになって舞い上がる

 黄昏迄海を見ていたい
 温もりを懐かしむ様に
 寄せて返す波を見ていたい
 いつまでも漂いたい
 
 黄昏迄海を見ていたい
 温もりを懐かしむ様に
 寄せて返す波を見ていたい
 いつまでもいつまでも

 *****


黄昏迄 写真


◇ 真骨頂! 美しい音色と芸術的な詩で綴られた失恋の歌

 美しい音色でしっとりと歌った失恋の歌に、「指定券」(1976年「帰去来」に収録)、「つゆのあとさき」(1977年「風見鶏」に収録)、「最終案内」(1977年「風見鶏」に収録)、「フェリー埠頭」(1978年「私花集」に収録)などがあります。いずれも十分に失恋の情感を描写した美しい歌でありますが、これを遥かに超える、さだ さん の真骨頂と言えるのが、時に激しく、時に奥深く、総じて芸術性が加わった失恋の歌であります。

「胡桃の日」(1976年「帰去来」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 さだまさし さん が、まさにグレープ時代から卒業した様な、イメージを覆すロック調の曲であります。アップテンポで衝撃的なメロディに、いかにも目に浮かぶ様な男女の修羅場が描写されており、「真骨頂!」の範疇に入れさせていただきました。2番の歌詞だけ掲載いたします。

 *****

 窓の外には雨と唐松枝にはるりかけす
 きみの前には僕の前には胡桃の実がひとつ

 何気ない言葉で傷つくみたいで
 思わずきみに向かって
 振り上げた右手の拳で一体
 僕は何をしようとしてた
 
 まるで胡桃を素手で割ろうとしている様で
 驚いて振り向いたきみの眼が哀しい

 窓の外には雨と唐松枝にはるりかけす
 きみの前には僕の前には胡桃の実がひとつ

 *****


「飛梅」(1977年「風見鶏」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

太宰府天満宮を舞台に、菅原 道真 公 にまつわる「飛梅伝説」をモチーフにして、来年には同じ道を歩まない二人の別れを歌った楽曲であります。
 延喜元年(901年)、平安時代の貴族 菅原 道真 公 は、平安京朝廷内で 藤原 時平 氏 との政争に敗れて遠く大宰府へ左遷されることとなり、京都の屋敷内の庭木のうち、日頃からとりわけ大切にしていた梅の木に、以下のごとく語りかける様に歌を詠みました。

 東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主(あるじ)なしとて 春を忘るな

 「大鏡」等に記されている「飛梅伝説」とは、道真 公 を慕う梅の木が太宰府まで飛び、地に降り立ったと言うものであります。「飛梅」の歌詞、一部をご紹介いたします。

 *****

 心字池にかかる三つ赤い橋は 
 一つ目が過去で二つ目が今

 三つ目の橋できみが転びそうになった時
 初めてきみの手に触れた僕の指

 (中略)

 裏庭を抜けてお石の茶屋へ寄って
 きみが一つ僕が半分梅ヶ枝餅を食べた

 来年も二人で来れるといいのにねと
 僕の声にきみは答えられなかった

 時間と言う樹の想い出と言う落ち葉を
 拾い集めるのに夢中だったねきみ
 
 あなたがもしも遠くへ行ってしまったら
 私も一夜で飛んで行くと言った
 忘れたのかい飛梅

 あの日と同じ様に今鳩が舞う
 東風(こち)吹けば東風吹かばきみは
 何処かで想い起こしてくれるだろうか
 太宰府は春いずれにしても春

 *****


飛梅の心字池 橋


「晩鐘」(1977年「風見鶏」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 晩秋のどこにでもある、ある交差点での恋人との別れを、日本古来の美意識を駆使して描写しております。「きみは信号が待ちきれなかっただけ、心変わりに一番驚いているのはきみの方」などとと彼女をかばう主人公の優しさが伝わってくる名曲であります。

 *****

 風花がひとひらふたひらきみの髪に舞い降りて
 そして唇沿いに秋の終わりを白く縁取る

 別れる約束の次の交差点向けて
 まるで流れる水の様に自然なふりして冬支度

 僕の指にからんだ最後のぬくもり覚えていたくてつい立ち止まる
 きみは信号が待ちきれない様に向こう岸に向かって駆けてゆく
 銀杏黄葉の舞い散る交差点でたった今風が止まった

 哀しみがひとひらふたひら僕の掌に残る
 時を失くした哀れ蚊の様に散りそびれた木犀(もくせい)みたいに

 眩暈の後の虚ろさに似つかわしい幕切れ
 まるで長い夢をみてたふとそんな気がしないでもない

 心変わり告げるきみが痛々しくて思わず言葉を遮った僕
 きみは信号が待ちきれなかっただけ
 例えば心がわり一つにしても
 一番驚いているのはきっときみの方だと思う

 きみは信号が待ちきれなかっただけ
 流れに巻かれた浮浪雲桐一葉
 銀杏黄葉の舞い散る交差点でたった今思い出と出会った

 *****


「加速度」(1978年「私花集」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 渡辺 俊幸
 歌  さだまさし

 公衆電話から別れを告げる恋人の声に耳を傾けている、最後のコインが落ちた時に恋が終わると思われた、その瞬間は彼女の「それから!」って言葉でした。時間が来て電話が切れて、発信音と雨の音、なんとも言えない胸を打つシチュエーションです。作曲、編曲を担当した 渡辺 俊幸 氏 はビートルズを意識したと語っています。

 *****

 別れの電話は雨の日の午後
 受話器の向こうできみは確かに
 雨にうたれ声もたてずに泣いていた

 「最後のコインが落ちたから
 今までの全てがあと3分ね」って
 きみは途切れがちに小さく呟いた

 スローモーションで時が倒れてゆく
 言葉さえ塞いで
 ご覧愛の素顔は2つの世界の
 シソーゲーム 
 喜びと悲しみと

 最後の電話がコトリと切れて
 静かに僕の手に残ったものは
 発信音と穏やかな雨のさざめき

 途絶える直前のきみの優しさは
 最後にピリオド打たなかったこと
 まるで悲鳴の様に言いかけた「それから」って

 自分の重みに耐え切れずに落ちてゆく
 ガラス窓のしずく

 あたかも二人の加速度の様に
 悲しみを集めて
 ほら一つまた一つ

 *****


「まほろば」(1979年「夢供養」に収録)

 作詞 さだまさし
 作曲 さだまさし
 歌  さだまさし

 さだまさし ファンの人気投票で、第2位にランキングされた曲であります、最近はどうなっているかわかりませんが。歌の舞台は奈良の春日野、男女の心のすれ違い、言葉にすることの虚しさ、関係のうつろさを、日本ならではの古式ゆかしい美を曲に凝縮して歌っております。「万葉集」磐姫皇后の作歌 巻2-87、89を参考に歌詞が作られているとされます。

 万葉集 磐姫皇后の作歌 巻2-87
 原文:在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日
 読み:ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに
 意味:このままずっと君を待ちます、垂らしたままの私の黒髪に霜が置くまで

 万葉集 磐姫皇后の作歌 巻2-89
 原文:居明而 君乎者将待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文
 読み:居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも
 意味:夜を明かして君を待ちましょう、私の黒髪に霜が降ろうとも

 *****

 春日山から飛火野辺り
 ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ
 馬酔木の森の馬酔木に
 尋ね尋ねた帰り道

 遠い明日しか見えない僕と
 足元のぬかるみを気に病むきみと
 結ぶ手と手の虚ろさに
 黙り黙った別れ道

 川の流れはよどむことなく
 うたかたの時押し流してゆく
 昨日は昨日明日は明日
 再び戻る今日は無い

 例えばきみは待つと
 黒髪に霜のふる迄
 待てると言ったがそれは
 まるで宛名のない手紙

 寝ぐらを探して鳴く鹿の
 後を追う黒い鳥鐘の音一つ
 馬酔の枝に引き結ぶ
 行方知れずの懸想文

 二人を支える蜘蛛の糸
 ゆらゆらと耐えかねてたわむ白糸
 きみを捨てるか僕が消えるか
 いっそ二人で落ちようか

 時の流れは惑うことなく
 うたかたの夢押し流してゆく
 昨日は昨日明日は明日
 再び戻る今日は無い

 例えばここで死ねると
 叫んだきみの言葉は
 必ず嘘ではない
 けれど必ず本当でもない

 日は昇り日は沈み振り向けば
 何もかも移ろい去って
 青丹よし平城山の空に満月
 
 *****


まほろばの歌詞の一部


◇ あとがき

 さだまさし さん と言うと、「雨やどり」や「関白宣言」などの楽曲や、笑いを誘うコンサートでのトークなど、楽しい情景が思い浮かばれますが、一方で清潔感と芸術性を兼ね備えたシリアスな部分もあります。その本質は、極めて真面目な人物何だろうと拝察いたします。まだまだ60代半ばですので、今後のご活躍に大いに期待いたしますし、またいずれ、こちらのブログで扱わせていただくことがあろうかと存じますが、20歳代の さだ さん はもう帰って来ませんので、当時の恋愛の歌をまとめさせていただきました。分類法として正しかったのか、曲の解釈に間違いはなかったか、確固たる自信はありませんが、一つだけ、長くなりましたので誤字脱字はご容赦ください。
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とっても若くて純粋な恋愛感情に元気をもらう! ZARD「君に逢いたくなったら…」(再掲)


 以前、「音楽・芸術・演説等から」のカテゴリでZARDの曲をご紹介しましたが、演奏のYouTubeのリンクを貼りましたところ、当局から著作権に抵触する可能性を指摘され、同様な投稿全てを削除いたしました。少しずつ法に反さないかたちで再掲してまいりたいと考えておりました。そんな折、女優の野際 陽子 さん(享年81歳)が死去されたとの報道を受け、彼女が出演したドラマの主題歌をもう一度、ご紹介いたします。
 「君に逢いたくなったら…」(1997年02月26日発売、シングルとして20番目)は、1997年1〜3月のTBS「理想の結婚」と言うテレビドラマ(出演:常盤 貴子、竹野内 豊、榎本加奈子、伊東 四朗、野際 陽子など)の主題歌でありました。いささか古い曲ですし、ZAEDと言えば、「負けないで」(1993年01月27日、6番目)、「揺れる想い」(1993年05月19日、8番目)など、シングル、アルバムともにミリオンセラーを多数出しております。その中ではマイナーな類であるかも知れませんが、とっても元気でややアップテンポなメロディに故 坂井 泉水 さんの、ちょっと気恥ずかしくなるような、でも明るく前向きな歌詞に、様々な情景が浮かんでくる、とても素敵な曲です。


◇ ZARD「君に逢いたくなったら…」歌詞

君に逢いたくなったら…

作詞 坂井 泉水
作曲 織田 哲郎
歌  ZARD


君に逢いたくなったら ジャケット写真

 *****

 君に逢いたくなったら…
 その日までガンバル 自分でいたい
 青く暮れかけた街並み
 また思いきり騒ごうね


 ふと鏡を見れば なんて疲れた顔
 他人(ひと)の目には 自分はどう 映っているのかな?
 たまには 少し距離をおいて
 みたかったの しばらくは
 恋愛じゃない 恋人じゃない関係でいて

 君に逢いたくなったら…
 いつだってすぐに 飛んで行ける
 壊れやすいものだからこそ
 大切にしたいと思う


 それでもあんな出逢いは 二度とないよね
 悪ぶったって 人の良さそうな 瞳はかくせない
 遠い将来が こんなに
 早く来るとは 思わなかった
 本当に私でいいのか ゆっくり考えて…

 君に逢いたくなったら…
 いたずらな笑顔を 思い出す
 「大丈夫だよ」という君の言葉が
 一番大丈夫じゃない


 きっと運命が 二人の
 味方を してくれるでしょう
 我がままじゃない きらいだからじゃない わかって

 君に逢いたくなったら…
 その日までガンバル 自分でいたい
 これが最初で最後の恋に
 なればいいなと思う

 青く暮れかけた街並み
 また思いきり騒ごうね

 *****


 歌の冒頭、題名である「君に逢いたくなったら…」で始まりますが、この段階では主人公は男性なのか女性なのかは解りません。男性が女性に対して「君(キミ)」と呼ぶ方が、女性が男性を「君(キミ)」と呼ぶことより多いでしょうか? でも、中盤の歌詞に「本当に私でいいのか ゆっくり考えて…」としていますので、主人公は作詞した故 坂井 泉水 さんと同じ女性なんだろうと解ります。
 すると、女性から男性に「君(キミ)」と呼ぶ場合は、これは同級生の可能性が高く(あるいはもしかしたら年下)、少なくとも仲の良い友達同士から発展したものと推察します。「青く暮れかけた街並み また思いきり騒ごうね」の情景は、二人だけではなくグループのメンバーでしょうか?、例えばバンド仲間とか、サークルとか、仲の良い仲間たちの中から二人の恋愛が始まったように思えます。

 「君に逢いたくなったら…」に続く「その日までガンバル 自分でいたい」の意味は次の歌詞で徐々に理解されます。「ふと鏡を見れば なんて疲れた顔」と自分に自信を失っている言葉、そして「たまには 少し距離をおいて みたかったの」、「しばらくは 恋愛じゃない 恋人じゃない関係でいて」と、少しの間、逢わないようにしようとしている、それは自分が「疲れた顔」で自信がなくなっているから、また逢う日まで「ガンバル自分」でいることで自分を取り戻したいと言う気持ちでしょう。
 でも、これは、言うまでもなく永遠の別離ではなく、「壊れやすいものだからこそ 大切にしたいと思う」と、すごく大切な感情として述べたところで、「遠い将来が こんなに 早く来るとは 思わなかった」、「本当に私でいいのか ゆっくり考えて…」と、彼女の側の心は決まっています。

 「悪ぶったって 人の良さそうな 瞳はかくせない」、「いたずらな笑顔を 思い出す」、「『大丈夫だよ』という君の言葉が 一番大丈夫じゃない」なんて、相手の彼がどんな男の子か目に浮かぶようです。

 今は離れているけれど、「きっと運命が 二人の 味方を してくれるでしょう」、必ず再会して一緒の道を歩むことになるでしょう。ちょっと自分を取り戻すまでの期間なので、「我がままじゃない きらいだからじゃない わかって」と、男性に向けて念じています。


◇ ドラマ「理想の結婚」のシーンと主題歌

 ドラマ「理想の結婚」のシーンと主題歌の動画であります。

ドラマ「理想の結婚」のシーンと主題歌 リンク

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 こんな楽しい歌詞を作って歌を世に出してくれた故 坂井 泉水 さんと、様々なドラマ、映画に出演されて国民的な女優として活躍された野際 陽子 さんに心からご冥福をお祈りいたします。


文部科学省 前川 喜平 事務次官の全職員へ宛てたメール


 今年になって、森友学園に続いて加計学園問題と、首相の周辺が慌ただしく報道されております。その中にあって、「内閣府 vs 官僚」の構図を垣間見る出来事が、文部科学省 前事務次官 前川 喜平 氏の証言でありました。
 前川 氏は、本年5月25日の記者会見で、加計学園獣医学部新設の件で、内閣府から文科省に「総理のご意向」などと伝えられたと記された文書が「本物」であると主張しました。「自分が昨年秋に、担当の専門教育課から説明を受けた際、示された」と証言した上で、獣医学部の新設については、加計学園を前提に検討が進んだとして、「行政がゆがめられた」と語っております。

前川喜平 会見写真

 ところが前川 氏には、「天下り斡旋問題」、「出会い系バー問題」と言った後ろ指を指される問題が明るみになっております。前者は、各大学側が文部科学省の各種事業の補助金、交付金をもらうための天下りを受け入れるための「職務上知り得た人事情報」を渡すパイプ役をしていたと言うものであります。天下りを規制する法律に違反行為として停職相当の懲戒処分が施行される前の段階で辞任するに至りました。
 後者としては、本年5月22日、前川 氏が文部科学省在職中に売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに頻繁に出入りし、店内で気に入った女性と同席し値段交渉したうえで店外に連れ出していたことを読売新聞が報じております。菅 義偉 官房長官は、「常識的にいって、教育行政の最高の責任者がそうした店に出入りして、小遣いを渡すようなことは、到底考えられない」と不快感を表明しましたが、前川 氏は、女性と子供の貧困問題を理解し把握する為に必要な行為であったと反論しております。

 こうした経緯から、前川 氏の発言が、政府に対する仕返しや道連れのようと捉える向きはありますが、前川 氏が辞任に際して文部科学省全職員へ、自身を反面教師とし遵法意識の徹底に努めるべきとするメールを送信しました。前置きが長くなりましたが、そのメール全文をご紹介いたします。


◇「気は優しくて力持ちの文科省に」次官、全職員へメール

前川喜平 氏のメール記事

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 本日、私は大臣から辞職を承認する辞令を頂戴しました。

 文部科学省の皆さんが元気いっぱい仕事に打ち込めるようリードすべき立場の私が、このような形で退職することは、誠に残念であり申し訳なく思っています。国家公務員法が定める再就職規制を遵守(じゅんしゅ)できなかったことは事実であり、文部科学省として深く反省し、しっかりと再発防止措置をとる必要があります。私を反面教師として、二度とこのようなことが起こらないよう、職員の皆さんは遵法意識を徹底し国民の信頼回復に努めてください。

 しかし皆さん、動揺したり意気消沈したりしている暇はありません。一日たりともおろそかにできない大事な仕事があるからです。

 文部科学省の任務は極めて重要です。私が考える文部科学省の任務とは、教育・文化・スポーツ・科学技術・学術の振興を通じて、誰もが明るく楽しくしあわせに人生を全うできる社会をつくること、未知なるものに挑戦し限界を克服し輝く未来へと前進すること、さらには自由で平等で平和で民主的で文化的な国をつくり世界の平和と人類の福祉に貢献することです。
 そして、私が考える文部科学省職員の仕事は、子どもたち、教師、研究者、技術者、芸術家、アスリートなど、それぞれの現場でがんばっている人たちを助け、励まし、支えていくことです。特に、弱い立場、つらい境遇にある人たちに手を差し伸べることは、行政官の第一の使命だと思います。
 その意味でも、文部科学省での最後の日々において、給付型奨学金制度の実現の見通しがついたこと、発達障害や外国人の児童生徒のための教職員定数改善に道筋がついたこと、教育機会確保法が成立し不登校児童生徒の学校外での学習の支援や義務教育未修了者・中学校形式卒業者などのための就学機会の整備が本格的に始まることは、私にとって大きな喜びです。

 一方で、もんじゅの廃炉と今後の高速炉開発に向けた取り組み、文化庁の機能強化と京都への移転、高大接続改革の円滑な実施など、数々の困難な課題を残して去ることはとても心残りです。

 あとは皆さんで力を合わせてがんばってください。

 そして皆さん、仕事を通じて自分自身を生かしてください。職場を自己実現の場としてください。初代文部大臣森有礼の「自警」の表現を借りて言うなら「いよいよ謀りいよいよ進めついにもってその職に生きるの精神覚悟あるを要す」です。森有礼は「その職に死するの精神覚悟」と言ったのですが、死んでしまってはいけません。人を生かし、自分を生かし、みんなが生き生きと働く職場をつくっていってください。

 ひとつお願いがあります。私たちの職場にも少なからずいるであろうLGBTの当事者、セクシュアル・マイノリティの人たちへの理解と支援です。無理解や偏見にさらされているLGBT当事者の方々の息苦しさを、少しでも和らげられるよう願っています。そして、セクシュアル・マイノリティに限らず、様々なタイプの少数者の尊厳が重んじられ、多様性が尊重される社会を目指してほしいと思います。

 気は優しくて力持ち、そんな文部科学省をつくっていってください。

 いろいろ書いているうちに長くなってしまいました。最後まで読んでくれてありがとう。

 それでは皆さんさようなら。

 2017年1月20日 前川喜平

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 真剣に日本国の未来を考えた、ある熱い官僚、がそこにいたのかも知れません。

思わぬ不幸・災害から立ち直るスピリッツ 「いつも何度でも」


 今から22年前、平成7年(1995年)の4月のある肌寒い晴天の朝、神戸市にある長田区長田小学校の一室で、白衣を着て外来診療の椅子に腰掛けておりました。この年の1月17日に発生した阪神淡路大震災に対する、秋田市の事業として派遣された医療救護班であります。神戸にはその数年前に学会で訪れたことがあり、美味しい神戸牛をいただきましたので、変わり果てた街の惨状に驚きと落胆と悲しみを覚えたものでした。ただ、私たちが派遣された時は、震災から3ヶ月が経っており、春の日差しともに、人々の顔に少しずつ希望と意欲が感じられつつあった、そんな時間が神戸の街に流れておりました。
 その後の日本、平成23年(2011年)3月11日には東日本大震災とそれに伴う津波により多くの命が失われ街は破壊され、さらには福島第一原発事故で多数の避難者が出ました。昨年4月14日には平成28年熊本地震が発生して多くの死傷者と避難者を生みました。復興に携わるべき政治家の心無い失言が散見されはしましたが、東日本にしろ、熊本も、必ず確実に元の姿を取り戻す、世界的にも災害の多い我が国の国民は、そうしたものから、少しずつ、少しずつ立ち直る小さくても強い精神を持っているように思います。

 「いつも何度でも」

 日本人の死生観にも繋がる国民性、スピリッツの琴線に触れる楽曲であります。日本人で知らない人はほとんどいない、2001年のスタジオジブリの長編アニメ映画「千と千尋の神隠し」の主題歌でありますが、その歌詞の持つ意味を検証した報告は多くはありません。いささか想像の域を出ない部分はありますが、私なりの解釈でご紹介して参ります。

千と千尋の神隠し ジャケット


◇「いつも何度でも」

 この曲が生まれた過程について、作詞の 覚 和歌子 女史のインタビューがありました。まだ「千と千尋の神隠し」が作られる前、「煙突描きのリン」という映画の企画があって、それに合わせて書いた詩とのことでした。地震で廃墟となった町に唯一残った銭湯の煙突に、美大生が絵を描く、その女の子が屋根の上で口ずさむという設定であり、覚 和歌子 女史は東日本大震災を思い浮かべて詩を書いたとのことです。残念ながらこの企画は流れてしまいましたが、スタジオジブリの 宮崎 駿 氏から新しい映画に曲を使いたいと話があり、ああいう形で世に出ることとなって、「千と千尋の神隠し」のストーリーとは若干、異なる内容の主題歌になりました。

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 いつも何度でも

いつも何度でも ジャケット

 作詞 覚 和歌子
 作曲 木村  弓
 歌  木村  弓


 呼んでいる 胸のどこか奥で
 いつも心踊る 夢を見たい

 悲しみは 数えきれないけれど
 その向こうで きっと あなたに会える

 繰り返す誤ちの そのたび 人は
 ただ青い空の 青さを知る

 果てしなく 道は続いて見えるけれど
 この両手は 光を抱ける

 さよならの時の 静かな胸
 ゼロになる体が 耳を澄ませる

 生きている不思議 死んでゆく不思議
 花も風も 街も みんな同じ

 ラ ラ ラン ラン ラ ラン
 ラハハハハ
 ラン ラン ラ〜 ラン ララララ
 ラン ラン ララ ラン ラ〜ララ
 ラン ララララ ラン

 ホホホ ホホホホ
 ホホホホ
 ルルルル ルルルル
 ルルルル〜 ルル
 ル〜ン ルルル〜


 呼んでいる 胸のどこか奥で
 いつも何度でも 夢を描こう

 悲しみの数を 言い尽くすより
 同じくちびるで そっと歌おう

 閉じていく思い出の その中にいつも
 忘れたくない 囁きを聞く

 粉々に砕かれた 鏡の上にも
 新しい景色が 映される

 始りの朝の 静かな窓
 ゼロになる体 充たされてゆけ

 海の彼方には もう探さない
 輝くものは いつもここに
 私の中に 見つけられたから

 ラ ラ ラン ラン ラ ラン
 ラハハハハ
 ラン ラン ラ〜 ラン ララララ
 ラン ラン ララ ラン ラ〜ララ
 ラン ララララ ラン

 ホホホ ホホホホ
 ホホホホ
 ルルルル ルルルル
 ルルルル〜 ルル
 ル〜ン ルルル〜

 *****


「いつも何度でも」カバー YouTube URLです↓(冒頭に “h” を入れて入力して下さい)
 ttps://search.yahoo.co.jp/video/search?rkf=2&ei=UTF-8&dd=1&p=いつも何度でも


◇「いつも何度でも」歌詞の解釈

 呼んでいる 胸のどこか奥で
 いつも心踊る 夢を見たい


 災害があって、現実を見れば落ち込む気持ち、でも、胸の奥には未来に向けて心踊るような夢を見たい、そうした自分でありたい。

 悲しみは 数えきれないけれど
 その向こうで きっと あなたに会える


 悲しみは数えきれないけれど、それを乗り越えたその先の向こうに、自分が夢に思う誰か、自分(?)にきっと会えるだろう。

 繰り返す誤ちの そのたび人は
 ただ青い空の 青さを知る


 発展し過ぎた文明の誤ちに降りかかる災害が起こるたび、人間は青い空の青さ、すなわち自然そのものの大きさに気付かされる。


 果てしなく 道は続いて見えるけれど
 この両手は 光を抱ける


 心身共に立ち直る、復活、復興への道は果てしなく続くけれど、その両手にはしっかりと希望の光を抱いている。

 さよならの時の 静かな胸
 ゼロになる体が 耳を澄ませる


 不幸が起こり、知人との別離を迎えて、しかし、かえって心は落ち着いて、耳を済まして初心に返る自分がいる。

 生きている不思議 死んでゆく不思議
 花も風も 街も みんな同じ


 自分が生きていることの不思議、知人が死んでしまった、いわゆる運命の不思議は、それは、花すなわち自然も、風それは時間、そして街においても同じこと。


 呼んでいる 胸のどこか奥で
 いつも何度でも 夢を描こう


 災害があって、現実を見れば落ち込む気持ち、でも胸の奥に、いつも何度でも、未来に向けて夢を描く。

 悲しみの数を 言い尽くすより
 同じくちびるで そっと歌おう


 悲しい出来事を言葉にするよりも、未来への夢を細やかに語りたい。

 閉じていく思い出の その中にいつも
 忘れたくない 囁きを聞く


 悲しい出来事を拒絶するように薄れゆく記憶の中に、でも、忘れたくない言葉があって。

 粉々に砕かれた 鏡の上にも
 新しい景色が 映される


 粉々に砕かれて、激しく壊れた街の上に、復興した未来の新しい街並みが浮かんで来る。

 始りの朝の 静かな窓
 ゼロになる体 充たされてゆけ


 災害があって、そこから立ち直る始まりにおいて、一からやり直す心身が強い気持ちで充たされて欲しい。

 海の彼方には もう探さない
 輝くものは いつもここに
 私の中に 見つけられたから


 苦境から立ち直る、その強い情熱、未来への希望、高い志しを、はるか彼方に探したりはしない。大切なもの、それは自分の中に見つけることができから。


◇ ナターシャ・グジーさんが歌う「いつでも何度でも」

 この曲は、ウクライナ出身でチェルノブイリ原発事故に遭ったナターシャ・グジー Nataliya Gudziy さんの歌でも有名であります。彼女はこの歌詞を深く理解して、自分の経験として熱い思いで歌っております。

「いつも何度でも」Nataliya Gudziy YouTube URLです↓(冒頭に “h” を入れて入力して下さい)
 ttps://www.youtube.com/watch?v=6JiOQ1UBkzU

ナターシャグジー いつも何度でも

 彼女の経験と「いつも何度でも」に対する気持ちをご紹介します。

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「いつでも何度でも」を歌うナターシャ・グジーさんのインタビュー

 いまから、22年前にチェルノブイリ原発が爆発しました。当時わたしは6歳でしたが、お父さんが原発で働いていたので、家族全員で原発からわずか3.5キロのところに住んでいました。事故が起きたのは、夜中だったので、ほとんどの人たちは、そんなに大きな事故が起きたとは知りませんでした。

 そのため次の日は、普通に生活していました。子どもたちが学校に行き、お母さんたちが小さな子どもを連れて一日中外で遊んでいました。そして、一日中、目に見えない放射能を浴びていました。

 事故のことを知らされたのは、その次の日でした。たいした事が起きていません。でも、念のために避難してください。三日間だけ避難してください。三日後に必ず帰ってきますので、荷物は持たずに避難してください。そういわれて、わたしたちはみんな、荷物を持たずに、町を出てしまいました。でも、三日たっても、一ヶ月たっても、そして二十年たっても、その町にもどることはありませんでした。

 子どものころ、毎日遊んでいた美しい森も、たくさんの思い出がつまった家も、放射能のせいで、壊されて、土の中に埋められました。いまそこには、なんにも残っていません。かつて、命が輝いていた町は、死の町になってしまいました。あの恐ろしい事故で、わたしたちが失ったのはふるさとだけではありません。とってもたくさんの人が亡くなっています。わたしの友達も、なんにんも亡くなっています。
 
 そして当時、わたしと同じように子どもだった人たちが、もう大人になり、結婚したり、子どもを産んだりしています。そして新しく生まれてくる赤ちゃんたちの健康にも、異常があります。人間は、忘れることによって、同じ過ちを繰り返してしまいます。悲劇を忘れないでください。同じ過ちを繰り返さないでください。そう願ってわたしは歌を歌っています。

 *****



◇ あとがき

 震災や洪水、台風、火山の噴火、そして限りなく人災に近い原発事故に見舞われた人が、絶望の淵から立ち上がって、なんとかして元の生活を取り戻そうと頑張っています。そうした情景を思い浮かべてこの「いつも何度でも」の歌を口ずさむと、人間の平和への強い意志を感じ、人間の愛情の深ささえも感じます。さらには、「人間とはかくも強い存在なんだ!」と言う感情を持ちます。
 曲の題名、「いつも何度でも」に目を向けます。曲中におけるこの題名のフレーズは一箇所だけであり、「いつも何度でも 夢を描こう」であります。これは人間社会に、繰り返される自然災害や人災など、大きな不幸に見舞われる歴史があって、絶望の淵に追いやられても、でも、いつの時代においても、何度でも、そこから立ち直ろうとしてきたことを言っているのだと思います。
 不幸から「いつも何度でも」立ち直る精神、日本人だけではありません、チェルノブイリ原発事故を経験したウクライナ人、ナターシャ・グジーさん、に留まるものでもありません。世界中に伝えたい強い感情だと思います。


裁判の判決で引用された さだまさし さん の 「償い」(再掲)


 先日、ゴルフの帰りの圏央道、渋滞に遭遇し、何気なくスイッチを入れたiPod touchから さだまさし さんの懐かしい楽曲が流れて来ました。「償い」と言う、なんとなく暗い曲ではありますが、情景が浮かんで来る、さだ さん独特の詞の描写に久しぶりに心が動きました。
 実は、この曲は当ブログで取り上げたことがありましたが、恥ずかしながら、曲をYouTubeのURLで紹介したところ著作権に抵触すると当局より指摘を受け、掲載差し止めとなった経緯がありました。実はそう言うかたちで消えてしまった文章はいくらかあり、折をみて再掲載して参りたいと思っております。もちろん、YouTubeのリンクは控えます。


◇「マツコの知らない世界」で語った 山室 恵 元裁判官

 「マツコの知らない世界」と言うテレビ番組に 山室 恵 元裁判官が出演されていて、いろんな裁判(官)に関する様々なお話をされてましたが、その中で裁判の判決において さだまさし さんの「償い」と言う曲を引用したエピソードがありました。この話は2002年のことですが、私もおぼろげに憶えておりましたし、「償い」と言う曲はアルバムを持っておりますので元々、自分としては犯罪者が償うスピリットを歌った歌として高く評価しておりました。まさか、テレビ番組で元裁判官の口から出ようとは思いませんでしたが、、、。

山室恵 さん 写真
山室 恵 元裁判官

 事件は、2001年4月29日午前零時ごろ、東京都町田市の少年(当時18歳)と神奈川県相模原市の少年(当時18歳)が、東急田園都市線の車内で川崎市宮前区の銀行員、飲酒後の帰宅途中であった牧顕さん(当時43歳)と「足が当たった」などと口論になり、三軒茶屋駅のホームに降り立ち、少年2人がかりで牧顕さんを殴り、5月4日、くも膜下出血で死亡させたものです。
 裁判において、2人の少年は「深くおわびします」と口では反省する一方、酔っ払った被害者が先に絡んできた結果の過剰防衛に当たるなどと主張しました。山室恵裁判長はこれに対して「被害者に命を奪われるまでの落ち度はなかった」と弁護側主張を退け、それぞれ懲役3年以上5年以下の不定期刑とする実刑判決を言い渡しました。
 さらに、判決後、閉廷する直前のこと、反省の色が見られない少年2人に対し、山室恵裁判長は「唐突だが、さだまさしの『償い』という歌を聴いたことがあるだろうか?」と切り出し、うつむいたままの少年2人に、「この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と少年の心に訴えた、というエピソードです。


◇「償い」

 「償い」は昭和57年のアルバム「夢の轍(わだち)」の収録曲で、うっかり交通事故で男性を死なせてしまった若者が亡くなった男性の妻に7年間に渡り仕送りをする、知人の実話に基づいて、さだまさし さんが作詞作曲したものです。

夢の轍 ジャケット

 *****

償 い

作詩・作曲 さだまさし

月末になると ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに
必ず横町の角にある郵便局へとび込んでゆくのだった
仲間はそんな彼をみて みんな貯金が趣味のしみったれた奴だと
飲んだ勢いで嘲笑っても ゆうちゃんはニコニコ笑うばかり

僕だけが知っているのだ 彼はここへ来る前にたった一度だけ
たった一度だけ哀しい誤ちを犯してしまったのだ
配達帰りの雨の夜 横断歩道の人影に
ブレーキが間にあわなかった 彼はその日とても疲れてた

人殺し あんたを許さないと 彼をののしった
被害者の奥さんの涙の足元で 彼はひたすら大声で泣き乍ら
ただ頭を床にこすりつけるだけだった
 
それから彼は人が変わった 何もかも忘れて 
働いて 働いて 償いきれるはずもないが せめてもと
毎月あの人に仕送りをしている

今日ゆうちゃんが僕の部屋へ 泣き乍ら走り込んで来た
しゃくりあげ乍ら 彼は一通の手紙を抱きしめていた
それは事件から数えてようやく七年目に初めて
あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り

「ありがとう あなたの優しい気持ちは 
 とてもよくわかりました
 だから どうぞ送金はやめて下さい 
 あなたの文字を見る度に
 主人を思い出して辛いのです 
 あなたの気持ちはわかるけど
 それよりどうかもう あなたご自身の
 人生をもとに戻してあげて欲しい」
 
手紙の中身はどうでもよかった それよりも
償いきれるはずもない あの人から
返事が来たのが ありがたくて ありがたくて
ありがたくて ありがたくて ありがたくて
 
神様って 思わず僕は叫んでいた
彼は許されたと思っていいのですか
来月も郵便局へ通うはずの
やさしい人を許してくれて ありがとう
 
人間って哀しいね だってみんなやさしい
それが傷つけあって かばいあって
何だかもらい泣きの涙が とまらなくて
とまらなくて とまらなくて とまらなくて

 *****


さだまさし さんの償い

 今回の裁判を伝え聞いた さだ さんはサンケイスポーツの取材に対して「法律で心を裁くには限界がある。今回、実刑判決で決着がついたのではなく、心の部分の反省を促したのではないでしょうか」とコメントし、そのうえで、「この歌の若者は命がけで謝罪したんです。人の命を奪ったことに対する誠実な謝罪こそ大切。裁判長はそのことを2人に訴えたかったのでは」と語っております。


悲しい出来事を歌で伝えた「真白き富士の根(嶺)」、別名「七里ヶ浜の哀歌」


 世界の出来事、2009年(平成21年)と昨年と2ヶ年を加えて、以前に掲載したものには若干の文章を追加して列挙いたしました。お目を煩わし恐縮いたします。

 こうして過去を振り返って参りますと、ずいぶんの不幸な出来事があって、その情報がいとも簡単に手に入る世の中になったものだと、今更ながらに感心いたします。文章による情報のみならず、画像や動画でも起こった出来事を再現することが可能であり、ともすると閲覧者の気を引かんとする感情が沸き起こり、一つの出来事に対して少しでもよりリアルな画像を掲載するよう努めてしまいます。
 新聞や雑誌、画像や動画の技術、ラジオ、テレビと言ったメディアの発達に続いて、インターネットの普及と、目まぐるしい情報化社会の波が押し寄せる以前の、つい100年前はどうであったか?、と思い返した時、今と同様に不幸な出来事は発生しており、人々の悲しい気持ちや憤り、失われた命への哀悼の念と言ったものを後世に伝える手段としてしばしば歌が作られておりました。
 溢れる情報が簡単に手に入る今ではこういう手法は少なくなって来たと思われますが、これも一つの文化であったと、代表的な楽曲を一つご紹介いたします。まずは、起こった不幸な出来事から。


◇ 相模湾七里ヶ浜の悲劇と歌の誕生

 1910年(明治43年)1月23日、神奈川県の相模湾に漕ぎ出でた、県下の逗子開成中学ボート部の生徒等12人の乗ったボートが遭難し、救助は難航、遺体捜査に5日もかかりました。溺死した全員の遺体が七里ヶ浜に打ち上げらると言う悲劇が起こりました。


七里ヶ浜と逗子開成中学
神奈川県相模湾七里ヶ浜と現在の逗子開成中学校

 当時、逗子在住で、鎌倉女学校(現 鎌倉女学院)に勤務していた 三角 壽々 教諭(後の三角 錫子 氏)は七里ヶ浜の悲劇に触れ、ボート転覆事故の死者を想い、「七里ヶ浜の哀歌」として一晩で作詞したとされます。原曲は、イギリスの舞踏曲のひとつであり、アメリカの作曲家 ジェレミー・インガルス(Jeremiah Ingalls)氏が1805年に賛美歌集「クリスチャン・ハーモニー」の中に 「GARDEN(讃美歌)」の曲名として採集して紹介していたものです。2月6日、逗子開成中学 校庭にて大追弔大会が開かれ、12人の霊を弔いました。この際に鎌倉女学校生徒の合唱でこの歌が歌われました。


◇「真白き富士の根(嶺)」、別名「七里ヶ浜の哀歌」

曲 ジェレミー・インガルス
詞 三角 錫子


 *****

 真白き富士の嶺、緑の江の島
 仰ぎ見るも、今は涙
 歸らぬ十二の雄々しきみたまに
 捧げまつる、胸と心

 ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
 風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に
 力も尽き果て、呼ぶ名は父母
 恨みは深し、七里ヶ浜辺

 み雪は咽(むせ)びぬ、風さえ騒ぎて
 月も星も、影を潜め
 みたまよ何処に迷いておわすか
 歸れ早く、母の胸に

 みそらにかがやく、朝日のみ光
 暗(やみ)に沈む、親の心
 黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
 神よ早く、我も召せよ。

 雲間に昇りし、昨日の月影
 今は見えぬ、人の姿
 悲しさあまりて、寝られぬ枕に
 響く波の、音も高し

 帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
 我も恋し、失(う)せし人よ
 尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
 今日も明日も、かくてとわに

 *****


真白き富士の根 写真

 以下に楽曲を紹介するYouTubeのURLをご紹介いたします。著作権の関係でアドレス冒頭 “https”のhの文字を省いております。

ttps://search.yahoo.co.jp/video/search?p=真白き富士の根&tid=e6cfabe8119aa4e83167fcb941d3f6d7&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

真珠湾慰霊における日米両首脳の演説


 本日、日本時間、平成28年(2016年)12月28日朝、安倍 晋三 首相は日本国の総理大臣として初めて、米国ハワイの真珠湾に訪問し、バラク・オバマ 米大統領と最後の首脳会談を行った後、アリゾナ記念館を訪れて献花、演説を行いました。これに対して、ニューヨーク・タイムズ紙は 安倍 晋三 首相が「真珠湾攻撃への後悔を表明したが、謝罪はなかった」と伝え、米CBSテレビは現地からの中継で「両首脳は共に、詩的で感動的なスピーチで和解を強調した」などと報じております。歴史的意義、外交上の意味合い、そして両国政治の事情など、様々な見方はあろうかと思いますが、一つの歴史上の出来事として両首脳の演説を記録しておきます。これに対する、肯定も否定も、個人的見解は控えさせていただきます。

ハワイにて安倍、オバマ


◇ 日本国 安倍 晋三 首相

 オバマ大統領、ハリス司令官、ご列席のみなさま、そして全てのアメリカ国民の皆様、パールハーバー、真珠湾に今、私は日本国総理大臣として立っています。

 耳を澄ますと、寄せては返す波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の柔らかな光に照らされた、青い、静かな入り江。私の後ろ海の上の白いアリゾナ・メモリアル。あの慰霊の場を、オバマ大統領とともに訪れました。そこは私に沈黙を促す場所でした。亡くなった軍人たちの名が記されています。祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、さまざまな地から来て乗り組んでいた兵士たちがあの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いた時、紅蓮の炎の中で死んでいった。

 75年がたった今も、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。

 あの日、日曜の朝の明るく寛いだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語る若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。生まれてくる子の幸せを祈る声。一人ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や恋人がいた。成長を楽しみにしている子どもたちがいたでしょう。それら全ての思いが絶たれてしまった。その厳粛な事実を噛みしめる時、思う時、私は言葉を失います。その御霊よ安らかなれ。思いを込め、私は日本国民を代表して兵士が眠る海に花を投じました。

 オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、世界の、さまざまな国の皆さま。私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々の御霊に、ここから始まった戦いが奪った、すべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった、数知れぬ無辜の民の魂に、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 戦争の惨禍は、二度と繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は静かな誇りを感じながら、この不動の方針をこれからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固いその決意を、日本国総理大臣として表明いたします。

 昨日、私はカネオへの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し母艦に帰るのをあきらめ引き返し戦死した戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けた側にいた米軍の人々です。死者の勇気を称え、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のため命を捧げた軍人への敬意を込め「日本帝国海軍大尉」と、当時の階級を刻んであります。

 “The brave respect the brave“、「勇者は、勇者を敬う」。アンブローズ・ビアスの詩は言います。戦い合った敵であっても敬意を表する。憎しみ合った敵であっても理解しようとする。そこにあるのは、アメリカ国民の寛容の心です。

 戦争が終わり、日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は未来へと命をつなぐことができました。そして米国は、日本が戦後再び国際社会へと復帰する道を拓いてくれた。米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは平和と繁栄を享受することができました。

 敵として熾烈に戦った私たち日本人に差しのべられた、こうした皆さんの善意と支援の手、その大いなる寛容の心は、祖父たち、母たちの胸に深く刻まれています。私たちも覚えています。子や孫たちも語り継ぎ、決して忘れることはないでしょう。

 オバマ大統領とともに訪れた、ワシントンのリンカーン・メモリアル。その壁に刻まれた言葉が、私の心に去来します。

 「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」「永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務を、やりとげる」。エイブラハム・リンカーン大統領の言葉です。私は日本国民を代表し、米国が、世界が日本に示してくれた寛容に改めてここに心からの感謝を申し上げます。

 あの「パールハーバー」から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く強く結ばれた同盟国となりました。それは今までにも増して世界を覆う幾多の困難に共に立ち向かう同盟です。明日を拓く希望の同盟です。

 私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、“The Power of reconciliation“、「和解の力」です。私がここパールハーバーで、オバマ大統領とともに、世界の人々に対して訴えたいもの。それは、この和解の力です。

 戦争の惨禍は、未だに世界から消えない。憎悪が憎悪を招く連鎖は無くなろうとしない。寛容の心、和解の力を、世界は今こそ必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値の下、友情と信頼を育てた日米は、今こそ寛容の大切さと、和解の力を、世界に向かって訴え続けていく任務を帯びています。日本と米国の同盟は、だからこそ希望の同盟なのです。

 私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー、真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子どもたちが、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれる事を私は願います。そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに、固く、誓います。

 ありがとうございました。


◇ 米国 バラク・オバマ 大統領(和訳)

 安倍総理大臣、本日の総理のご出席と心のこもったステートメントは和解の力を証明する歴史的な行為であり、米国民を代表して感謝申し上げます。
 また、米国と日本の人々の同盟関係は、戦争による最も深い傷でさえも友情と恒久平和に取って代わられることを私たちに想起させるものであり、謝意を表します。ご列席の皆様、米軍関係者、そしてそのなによりも真珠湾攻撃の生存者の方々及びその大切な人へ。アロハ!

 米国人、特にハワイを郷里とする者にとって、この真珠湾は神聖な場所です。未だ嘆き悲しむこの湾に献花し、また花びらを投げ入れるとき、私たちは2400名を超える米国の愛国者たち、天の帆桁で永遠の敬礼をする父や夫、妻や娘を思います。
毎年12月7日になるといつもより少し背筋を正すオアフの守護者に敬礼し、そしてここで75年前に示された勇姿に思いを馳せるのです。

 12月のその日、夜が明けると、楽園はこれまでにないほど魅力的でした。水は温かく。そして現実と思えないほどに青く。水兵たちは食堂で食事をしたり、教会に行く準備をしたり、自由を胸にこぎれいな白い半ズボンとTシャツを身につけたりしていました。
湾では、船舶がきちんと列をなして停泊していました。カリフォルニア号、メリーランド号、オクラホマ号、テネシー号、ウエストバージニア号、ネバダ号、そしてアリゾナ号のデッキでは海軍の音楽隊がチューニングをしていました。

 その朝、兵士の肩に記された階級は、彼らの胸に宿る勇気ほどに意味をなしませんでした。彼らはこの海において、あらゆる手を尽くして自己を防衛しました。

 あるアフリカ系アメリカ人の食堂の給仕係は、普段であれば清掃の役割しか与えられていなかったが、この日、司令官を安全な場所に運び、そして弾薬がなくなるまで地対空砲を打ち続けました。

 私たちは、ウエストバージニア号の1級砲撃手であったジム・ダウニングのようなアフリカ人を誇りに思います。真珠湾に急行する前、彼の新妻は彼の手に聖書の言葉の一節を握らせました。「永遠なる神は女の拠り所、その永遠なる胸に抱かれて」というものです。
ジムが戦艦を守ろうと戦っている最中、彼は同時に倒れた者たちの名前を記録しました。家族にその事実を伝えることができるようにするためです。彼は言いました「人がする当然のことです」と。

 私たちはハリー・バンのようなアメリカ人を記憶しています。彼はホノルル出身の消防士で、荒れ狂う火を前にし、最後の命を取り綴り、燃える戦闘機の鎮火に取り組みました。彼はパーブル・ハート勲章(名誉負傷)を民間人の消防士として唯一受賞した人です。
 私たちは、2時間以上もの間、50口径のマシンガンを撃ち続け、20回以上も負傷し、最も高位の軍人の勲章である名誉勲章を受章したジョン・フリン上等兵層のようなアメリカ人に敬意を表します。

 私たちは、戦争のもっとも永続的な価値に対し如何に挑戦するかについて思いを馳せます。日系アメリカ人が如何にして戦争期間中、自由を奪われたのでしょうか。米国史上最も勲章を受章した部隊は、日系アメリカ人2世の舞台である第100歩兵大隊と442連隊でした。私の友達でハワイ出身の上院議員、ダニエル・イノウエさんも所属していました。彼はずっとここに住んでいます。そして私は上院議員になったとき、彼の友人であることを誇りに思いました。彼は名誉勲章、そして自由勲章を授与されました。そして彼の世代で最も偉大な政治家の一人です。

 第二次世界大戦における米国の最初の戦場である、ここ真珠湾で、私たちの国は奮起しました。多くの点で、この場所でアメリカ人は成熟したのです。私の祖父母を含め、多くの世代のアメリカ人は戦争を求めたりしませんでした。しかしながら、彼らは戦争から身を背けることを拒否し、経営の場や工場においてその役割を果たしました。そして75年後、誇り高い真珠湾攻撃の生存者の層は、時間の経過とともに薄くなってきています。この場で私たちが思い出す勇者は、私たちの国の心に永遠に生き続けます。真珠湾、そして第二次大戦の退役軍人の皆さん、立ち上がるか手を挙げていただけますでしょうか。感謝の心に富むこの国は、皆さんに御礼申し上げます。

 国の本質は、戦時において試されますが、平時において定義されます。人類史上最も恐ろしい期間の一つ、太平洋を渡り悲惨な戦闘により、何百万もの命が奪われた時期の後、米国と日本は何十年もの間、友好と平和を示しています。私たちの同盟は、両国をより繁栄させています。同盟は、新たな世界大戦を予防し、何十億もの人々とを貧困から救った国際秩序の強化に貢献しています。そして本日、米国と日本の同盟は、共通の利益によって結ばれ、共通の価値に基づき、アジア太平洋の平和と安定の礎となっており、世界の進歩を推進する力となっています、実際、私たちの同盟はこれまでにないほど強固なものとなっています。

 よい時も悪い時も、私たちはお互いを助けるためにいます。5年前、津波が日本と原子炉を襲い掛かり、福島の原子炉が融解したとき、米軍人は私たちの日本の友人を助けました。世界の中で米日はアジア太平洋地域と世界における安全を強化するために協力しています。たとえば、海賊を後退させ、疾病と戦い、核兵器の拡散を遅らせ、戦時の領土において平和を維持しています。

 そして本年前半には、真珠湾の近郊で日米両国の人々は、24か国とともに世界で最大の海上軍事訓練を実施しました。この訓練にはハリー・ハリス司令官が率いる米太平洋軍も参加しました。
ハリス司令官は、米国人の海軍兵を父に、日本人を母に持っています。ハリーは横須賀で生まれましたが、それは彼のテネシーなまりからわからないでしょう。ハリー、あなたの誇りあるリーダーシップに感謝します。

 このような観点から、本日私たちがここにいること、安倍総理がここにいることは、国と国、そして人と人との間に何が可能であるかということを気づかせてくれます。戦争は終わります。もっとも厳しい敵対関係にあったものが、最も強い同盟関係を結ぶことができます。平和という果実は、戦争による略奪をはるかに上回るものです。これが真珠湾のゆるぎない事実です。

 この場所で、憎しみの炎が最も強く燃え盛る時も、部族間の争いがあるときも、私たちは内向きになったり、私たちとは異なる者とを悪のように扱うといった欲求に抗わなければならないということを想起します。ここで払われた犠牲や戦争による怒りは、私たちの皆の中にある共通項を探すことで思い出させてくれます。これは、日本の友人の言葉を借りれば「オタガイノタメニ」、つまり「相手とともにあって、相手のために尽くす」よう努力することを求めています。これがミズーリ号に乗船していたウィリアム・キラハン船長による教訓です。彼は、彼の船が日本人のパイロットによって攻撃を受けた後も、同パイロットの遺体を米国兵が縫製した日本の国旗で包み、軍葬儀の礼を行うよう指示しました。そしてこれは何年もあとになって真珠湾を再訪し、米国海軍のラッパ手と友人となり、同ラッパ手に軍葬の際に流される曲を演奏してもらうように依頼し、毎月2本のバラの花(1本は米国の犠牲者に、もう一本は日本の犠牲者に)をこの記念館に飾ることとなった。日本人パイロットによる教訓でもあります。

 これは、2人の人がいかにもっとも平凡な方法で学ぶことができるかという点についての教訓です。多くの米国人が東京で勉強し、日本の若者も全米で勉強しています。日米の科学者はともに、がんに取り組み、気候変動と闘い、星を探査しています。またこれはマイアミのスタジアムを明るくし、米国人と日本人が共有する誇りによってともに元気づけられている。野球のイチロー選手についてもいえることです。米国人と日本人は平和と友情で結ばれています。

 それぞれ国として、そして人として、私たちは私たちが引き継ぐ歴史を選ぶことはできません。しかし、そこからどのような教訓を学び、そして歴史を使ってどのように私たちの未来の計画を立てるかということは選ぶことができます。

 安倍総理、私は友情の精神に基づき、あなたをここに歓迎します。それは日本人の人々が常に私を歓迎してくれたことと同様です。私たちが協働することによって、世界に対して、前に進むにあたっては戦争よりも平和によって多くのことを勝ち得ることができる。そして報復よりも若いがより多くの報償をもたらすというメッセージを送ることができることを期待します。

 この静かな港で、私たちは亡くなられた方々に対して敬意を表し、我々両国が友人として勝ち得たすべてに対して感謝を表明します。神が戦没者をとこしえの胸に抱え、海が退役軍人を見守り、皆が私たちのために番をしてくださいますように私たちに神の御恵みを。

事故死の 雨宮 まみ さん 「死にたくなる夜のこと」


 2013年の新語・流行語大賞にノミネートされた「こじらせ女子」と言う言葉の生みの親である作家、エッセイストの 雨宮 まみ さん(享年40歳)が亡くなったとの報道がされました。去る11月15日朝、自宅で心肺停止の状態で床に倒れているところを警察に発見され、事故のために亡くなったの発表、葬儀は親族のみで執り行われるとのことです。

雨宮まみ死去のニュース

 私はこの方とその著書を存じ上げなかったのですが、機会があれば作品に触れ、こちらでご紹介できればと思います。独特の感性があって、その飾らない作風には、どんな時も「なんとなく押し付けられる正しさ」を振り払ってくれる魅力がある、とされます。

雨宮まみさん 近影

女子をこじらせて表紙

 まだ現存する彼女のブログ「戦場のガールズ・ライフ」を見つけました。最新の記事は2017年01月01日と、未来の日付になっており、己の著書の紹介をされてますが、その直近は本年06月08日で、「死にたくなる夜のこと」と題した詩を綴っており、彼女の死生観がうかがわれます。以下に全文でご紹介いたします。

戦場のガールズライフ表紙

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2016-06-08
死にたくなる夜のこと

死にたくなる夜というのが、やってくる。

たいていはそのたびに、薬を飲んで、寝ようとして、
眠れなかったり、でもほかのことでは気を散らすことができなかったり、
朝日がのぼるまでの時間を、苦しいまま過ごすことになる。

「死んでもいいですか?」と、誰かに訊きたくなる。

否定してほしいわけじゃない。死んじゃダメだと言われたいわけじゃない。
心配なんか、かけたくない。でも、その言葉は甘えだと、よくわかっている。

死んでもなにも起こらない。
あとに残された人がいろいろ面倒だろうから、申し訳ないだけで。
それでも、この苦しさがあとどれだけ続くのかと思うと、耐えられなくなって、
ベランダからじっと地面を見つめるときがある。

冷たい手すりを握って、いつでもこの苦しみと決別しようと思えばできるのだ、と心に言い聞かせる。

死んだら、みんな、「わたしたちと一緒にいる時間は楽しくなかったの?」と思うだろう。
「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」
そんなことない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、わたしにはわたしの、
どうしようもない傷がある、というだけのことなんだ。

時間が経てば、こんな傷、何も感じなくなるときが来る。
経験でわかっていても、人の心は、なぜこんなふうに揺れるようにできているんだろう。

「この先の景色を見たい」という気持ちが、わたしにはない。
いつも、ずっと、一度もない。
「この人と一緒の時間を過ごすには、残りの人生は短すぎる」と思ったことは、一度だけある。

誰かと出会ったり、ものすごい才能を見たり、ひどいものに触れたり、そういうことがあるたびにまた、
あの冷たい手すりを握りしめて、「もうここまででいい」と思うんだろう。

いつも、手すりから引き返した日常を生きている。普通に笑って、話して、食べて、仕事をして。
そうじゃない日常が、どこかにあるんじゃないか。
手すりを引き返すなら、もっと、思い切り、もっと、何か、強烈な何かが欲しい。
たまらなくそう思うときがある。

感情が、すこし、過多なのだろう。


明日が、強烈な一日であるように。
「これでいいんだ」と思えるような決断ができるように。
引き返した先のほうが、ずっといいんだと実感できるように。


夜が過ぎるのを待つ。

mamiamamiya 163日前

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 心からご冥福をお祈りいたします。

「六輔永(ろくすけ なが)のお別れ会」における黒柳徹子さんのスピーチ


 大ヒット曲、「上を向いて歩こう」の作詞などを手掛け、本年7月7日、83歳で死去した放送タレント 永 六輔 さんのお別れの会が8月30日、東京都港区の青山葬儀所で開かました。この際の、自称「60年来の友達」、黒柳徹子さん(83歳)のスピーチは、ささやかに、そして優しく故人の一面を語るものであったと思いました。さすがは黒柳さんだなと思わせるスピーチの全文を記録しておきます。

永六輔お別れ会

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 永さんは私が死んだときの葬儀委員長をやるとおっしゃっていたのに、思惑が外れて申し訳ありませんでした。60年以上お友達でしたけど、一度もけんかしたことがありませんでした。本当に仲の良いお友達と言っていいと思います。亡くなる4日、3日ほど前にお見舞いに行きました。それまでは行かない方がいいかな、と思ったんですけど。永さんはずっと寝ていましたが「永さん!!」って呼ぶとぱっと目を覚まして私の方を見て、あははははってうれしそうに笑ってまた寝ちゃいました。3回か4回同じことを繰り返して…それでお別れしました。

葬儀における黒柳徹子さん

 今日はなるべく楽しいお話がいいというので、永さんのあごが外れた話をちょっとします。夜中に原稿を書いていて、あくびを止めようとほっぺたをたたいたらあごがガクッと外れちゃったそうです。どうしていいのか分からなくて、電話帳で整形外科を調べてタクシーに乗って行こうと思ったんですが、あごが外れるとしゃべれないってことを気づかないで、運転手さんに「あががが…」「あががが…」って言ってたら、運転手さんがお化けだと思って「降りてください」って言ったんです(会場爆笑)。家に戻って今度、紙に「あごが外れた、驚かないで」って書いて奥さまの昌子さんに見せたら、すぐに一緒に行きましょうってことになり整形外科の先生に看てもらったそうです。あごを入れるのは相当乱暴な仕事だそうで、最終的には寝てなさいと言われて足で抑えて上からガーンってやったら入って、「あ、永さんだったんですか」ってその先生が言ったって。

故 永六輔さん

 若いころは私たち渥美清さんとも仲が良かったんです。NHKに出ていたんで有名になるのは早かったんですが、お金がなくてみんな貧乏でした。中華料理を一緒に食べに行ってエビチリを頼んだんですが、人数からしてエビチリの数が少ないとけんかして、私は3個くださいって頼んだんです。渥美さんは「徹子、俺が働いて、数えなくてもいいように食わしてやるよ」って言ったんです。後で考えてみると、本当に寅さんのようでした。その時、永さんが「いや、そんなことないよ。今が一番幸せなんだよ。年とって食べられなくなって、いっぱい余っていても食べられなくなる方が不幸せじゃないか。今のようにみんなで“3個!”って言ってる今が一番幸せだ」って。そのとき、永さんは大往生のことをおっしゃってらしたんだなって思います。

故 渥美清さん

 奥さま、昌子さんが亡くなったあと、永さんが「講演に行って『僕は黒柳くんと結婚しません』って言うと、みんながわーっと笑うんだ」って言ってました。しばらくしたら受けなくなって、「このごろ黒柳くんと結婚しますって言ったら受けるんだよ」って。…でも、私はあなたとは結婚しないと思う、って言ったら、お嬢さんが「ダメだと思います。2人で朝から晩までしゃべって、どっちも言うこと聞いていないと思います」って言われたの。それもそうかなと。永六輔さんほどの難しい人とあんなに長く結婚されていた昌子さんは本当に良い奥さまだったと思います。多分、もう昌子さんにはお会いになったんでしょう。一番永さんが待っていたこと-。

永六輔夫妻

 徹子の部屋も39回の最多出場者で、そこで面白い話をしようと方々駆けずり回っていつも新しい話を仕入れてくれていました。もう、こんな長い話して、最初5~6分っていうことでしたんでね(会場爆笑。すでに20分ほど予定を上回る)、止めることにいたします。永さん、私はあと10年「徹子の部屋」をやろうと思っていますけど、はっきり言って永さんがいらっしゃらないこの世の中は非常につまらないと思っています。あなたが守ろうとした子供たちが、幸せに生きていってくれればいいと思っています。永さんが亡くなられたのは最後の一撃っていうふうに感じています。どうか永さん、私たちを見守ってください。「夢であいましょう」であなたがいっぱいお書きになった歌、忘れないようにして生きていきます。永さん、60年以上いいお友達でいてくれて本当にありがとうございました。心から永さんの優しさに感謝します。またどうせ近いうちにお会いすると思います。そのときに…また。じゃあね!

永さんお別れ会で黒柳徹子さん

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 謹んでご冥福をお祈りいたします。

米大統領広島訪問 オバマ氏の演説


 先日、5月27日、伊勢志摩サミット出席後の米国、バラク・フセイン・オバマ2世 大統領は、安倍 晋三 内閣総理大臣とともに、現職の大統領として初めて広島平和記念公園を訪問し、広島平和記念資料館を視察後、慰霊碑に献花を行い、黙祷、広島市の 松井 一実 市長や長崎市の 田上 富久 市長、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の 坪井 直(すなお)さん(91)らを前に演説を行いました。その内容は、「人類が悪を犯すことを根絶することはできないかもしれない。しかし、大量の核兵器を持つ、アメリカなどの国々は恐怖から脱却し、核兵器のない世界を追求しなければならない」として、「核兵器のなき世界」に向けた所感を述べた上で、「広島に原爆が投下された、あの運命の日以来、わたしたちは、希望を持てるような選択を行ってきた。そして、アメリカと日本は、同盟関係を築いただけでなく友情を育んできた」として日米同盟が世界平和に果たしてきた役割の重要さを強調しました。

 我々の知る由もない影の政治的な意味や、日米、あるいは安倍首相とオバマ大統領の利益/不利益があろうとは思います。政治家の演説なんて、支持率を優先した上辺だけのもの、政治的な意味合いが強く、そもそも本人の言葉ではなくライターがいてのものであることは周知の事実であります。
 しかしながら、例えば、黒人の自由、平等、解放を訴えた、故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の“I Have A Dream!”の演説や、ノーベル平和賞のマララ・ユスフザイさんの「すべての子どもに教育を受ける権利の実現を」と訴えた演説と、オバマ大統領の演説と、どちらが善でどちらが悪と線引きできるものではありません。言葉として発したものが活字となって残る場合、その文章の著者と発言者の思惑とは別に、それを読んで受け止める側にその価値の評価が委ねられます。加えて言えば、仮に政治的意味、利益誘導の意図があっての演説であろうとも、演者の真意はそこにだけあるものではない、心から自らの演説に共感している部分もあると思います。
 そうした考えに踏まえて、今回のオバマ氏の演説を記録することと致しました。特に日米両国政府を肯定するわけでも否定するわけでもなく、客観的な立場に立って、同演説で述べられていることに素直に共感いたします。演説の動画と、内容の英文と和訳と全文で供覧いたします。

広島で演説するオバマ

 毎日新聞「だから 私たちは 広島に来る」:オバマ氏広島演説・ノーカット版動画

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 Seventy-one years ago on a bright, cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of ligh t and a wall of fire destroyed a city, and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.

 71年前、晴天の朝、空から死が降ってきて世界が変わりました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示しました。

 Why do we come to this place, to Hiroshima? We come to ponder a terrible force unleashed in the not-so-distant past. We come to mourn the dead, including over a hundred thousand Japanese men, women and children, thousands of Koreans, a dozen Americans held prisoner. Their souls speak to us, they ask us to look inward, to take stock of who we are and what we might become.

 私たちはなぜここ広島に来るのでしょうか。それほど遠くない過去に恐ろしい力が解き放たれたことを考えるために来ます。また、10万人を超える日本の男性、女性、子ども、多数の朝鮮半島出身者、12人の米国人捕虜の死者を悼むために来ます。その魂がもっと心の内を見て私たちは何者なのか、私たちはどのようになれるのか、振り返るよう語りかけてきます。

 It is not the fact of war that sets Hiroshima apart. Artifacts tell us that violent conflict appeared with the very first man. Our early ancestors, having learned to make blades from flint, and spears from wood, used these tools not just for hunting, but against their own kind. On every continent, the history of civilization is filled with war, whether driven by scarcity of grain, or hunger for gold, compelled by nationalist fervor or religious zeal. Empires have risen and fallen. Peoples have been subjugated and liberated. And at each juncture, innocents have suffered -- a countless toll, their names forgotten by time.

 広島を際立たせているのは戦争という事実ではありません。人間が作った道具は暴力的な紛争が古くから行われてきたことを教えてくれます。私たちの先祖は石から刃物を、木から槍(やり)を作ってきました。これらの道具はただ単に狩りをするためでなく、人間に対しても使われてきました。どの大陸においても文明の歴史は戦争に満ちています。食料不足や黄金への渇望、民族主義的、宗教的な熱狂から戦争が起こり、帝国が台頭し、衰退してきました。そして、人々は支配され、解放されてきました。その時々で数えきれない犠牲者が出て罪のない人々が苦しみ、犠牲者の名前は時とともに忘れ去られました。

 The world war that reached its brutal end in Hiroshima and Nagasaki was fought among the wealthiest and most powerful of nations. Their civilizations had given the world great cities, and magnificent art. Their thinkers had advanced ideas of justice and harmony and truth. And yet the war grew out of the same base instinct for domination or conquest that had caused conflicts among the simplest tribes - an old pattern amplified by new capabilities and without new constraints. In the span of a few years, some 60 million people would die: men, women, children, no different than us, shot, beaten, marched, bombed, jailed, starved, gassed to death.

 広島と長崎で残虐的な終わりを迎えた世界大戦は、最も豊かで強い国々の間で戦われました。その文明は世界にすばらしい都市や美術を生み出してきました。そして、思想家は正義や調和、真実という進んだ考えを見いだしてきました。しかし、最も単純な部族同士の紛争の原因のように、支配、征服を欲する本能という同じ根本から戦争は起きてきました。つまり、古いパターンが制約が働くことなく、新しい能力により増幅されてきました。ほんの数年間で6000万人が亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと全く変わらない人たちです。銃で撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、拘束され、飢餓に苦しみ、毒ガスにより、亡くなりました。

 There are many sites around the world that chronicle this war, memorials that tell stories of courage and heroism, graves and empty camps that echo of unspeakable depravity. Yet in the image of a mushroom cloud that rose into these skies we are most starkly reminded of humanity's core contradiction - how the very spark that marks us as a species, our thoughts, our imagination, our language, our tool-making, our ability to set ourselves apart from nature and bend it to our will -- those very things also give us the capacity for unmatched destruction.

 世界にはこの戦争を記録している施設がたくさんあります。記念碑は勇ましさや英雄的な物語を伝え、墓地や収容所の跡は言い表せないほどの恐ろしい行為がなされたことを示しています。しかし、この空に上がったキノコ雲の姿は、最も明確に人類が抱える矛盾を想起させます。思想、想像、言語、道具作りなど、人類が自然界から離れ、自然を従わせることができると示す能力は、同時に、比類のない破壊力も生み出したのです。

 How often does material advancement or social innovation blind us to this truth? How easily we learn to justify violence in the name of some higher cause. Every great religion promises a pathway to love and peace and righteousness. And yet no religion has been spared from believers who have claimed their faith is a license to kill.

 物質的な進歩や社会の革新が、どのくらいこうした真実を隠してしまっているでしょうか。私たちはどれだけ簡単に、暴力を崇高な理由によって正当化してしまっているでしょうか。すべての偉大な宗教は、愛や平和、公正さにいたる道を説いていますが、どの宗教も信仰の名のもとに人を殺す信者を抱えることを避けられません。

 Nations arise, telling a story that binds people together in sacrifice and cooperation, allowing for remarkable feats, but those same stories have so often been used to oppress and dehumanize those who are different.

 国は犠牲や協力によって人々が団結するという物語を語り、台頭して偉大な成果を生みました。その同じ物語は、自分とは違う他者を虐げたり、非人間的に扱ったりすることに使われてきました。

 Science allows us to communicate across the seas and fly above the clouds, to cure disease and understand the cosmos. But those same discoveries can be turned into ever more efficient killing machines.

 私たちは科学によって海を越えてコミュニケーションできますし、雲の上を飛ぶこともできます。病気の治療や宇宙の解明もできます。しかし、そうした発見が、効率的に人を殺す機械になり得るのです。

 The wars of the modern age teach us this truth. Hiroshima teaches this truth. Technological progress without an equivalent progress in human institutions can doom us. The scientific revolution that led to the splitting of an atom requires a moral revolution as well.

 近年の戦争は私たちにこうした真実を伝えています。広島も同じ真実を伝えています。技術のみの発展だけでなく、同様に人間社会が進歩しなければ、我々を破滅させる可能性があります。原子を分裂させた科学の革命は私たちに道徳的な進歩も要求しています。

 That is why we come to this place.

 これが、私たちが広島を訪れる理由です。

 We stand here, in the middle of this city, and force ourselves to imagine the moment the bomb fell. We force ourselves to feel the dread of children confused by what they see. We listen to a silent cry. We remember all the innocents killed across the arc of that terrible war, and the wars that came before, and the wars that would follow. Mere words cannot give voice to such suffering. But we have a shared responsibility to look directly into the eye of history and ask what we must do differently to curb such suffering again.

 この広島の中心に立つと、爆弾が投下された瞬間を想像させられます。混乱した子供たちが抱いた恐怖感を感じ、声にならない叫びを聞きます。むごたらしい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起こるかもしれない戦争による、罪のない犠牲者に思いをはせます。言葉だけでは、このような苦しみを表すことはできません。しかし、私たちは正面からこの歴史に向き合い、このような苦しみを再び繰り返さないためにできることを問う責任を共有してきました。

 Someday the voices of the hibakusha will no longer be with us to bear witness. But the memory of the morning of Aug. 6, 1945 must never fade. That memory allows us to fight complacency. It fuels our moral imagination. It allows us to change.

 いつの日か、証言をする被爆者の声を聞くことができなくなります。しかし、1945年8月6日朝の記憶は決して消してはいけません。その記憶があるからこそ、我々は現状に満足せず、道義的な想像力の向上が促され、変われるのです。

 And since that fateful day, we have made choices that give us hope. The United States and Japan forged not only an alliance, but a friendship that has won far more for our people than we could ever claim through war.

 あの運命の日以来、私たちは希望をもたらす選択を行ってきました。米国と日本は同盟を築いただけでなく、友情をはぐくんできました。それは戦争よりもはるかに人々にとって有益でした。

 The nations of Europe built a union that replaced battlefields with bonds of commerce and democracy. Oppressed peoples and nations won liberation. An international community established institutions and treaties that worked to avoid war, and aspired to restrict, and roll back, and ultimately eliminate the existence of nuclear weapons.

 欧州の国々は貿易と民主主義の結びつきによって戦場に代わって連合を作りました。抑圧された人々や国家は自由を勝ち取ってきました。国際社会は戦争を避け、そして核兵器を規制、削減し、最終的には廃絶することを求めた機構や条約を設けてきました。

 Still, every act of aggression between nations, every act of terror and corruption and cruelty and oppression that we see around the world shows our work is never done.

 しかし、私たちが世界で目にする、すべての国家間の侵略行為やテロ行為、腐敗、残虐行為、そして抑圧は、私たちの仕事がまだ終わっていないことを示しています。

 We may not be able to eliminate man's capacity to do evil, so nations and the alliances that we formed must possess the means to defend ourselves. But among those nations like my own that hold nuclear stockpiles, we must have the courage to escape the logic of fear and pursue a world without them. We may not realize this goal in my lifetime. But persistent effort can roll back the possibility of catastrophe.

 私たちは悪を行う人類の能力をなくすことはできないかもしれません。だから、私たちが築いた国家や同盟は、私たち自身を守る手段を持たなければなりません。しかし、我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけません。私が生きているうちに、この目標を達成することはできないかもしれませんが、たゆまない努力で破滅の可能性を少なくすることはできます。

 We can chart a course that leads to the destruction of these stockpiles. We can stop the spread to new nations and secure deadly materials from fanatics. And yet that is not enough. For we see around the world today how even the crudest rifles and barrel bombs can serve up violence on a terrible scale.

 私たちはこれらの核兵器をなくす道のりを描くことができます。私たちは新たな(核兵器の)拡散を止め、狂信者から核物質を守ることができます。これだけでは十分ではありません。なぜならば、原始的なライフルや「たる爆弾」ですら、非常に大きな規模での暴力をもたらせるからです。

 We must change our mindset about war itself - to prevent conflict through diplomacy, and strive to end conflicts after they've begun; to see our growing interdependence as a cause for peaceful cooperation, and not violent competition; to define our nations not by our capacity to destroy, but by what we build. And perhaps above all, we must reimagine our connection to one another as members of one human race - for this, too, is what makes our species unique. We're not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past. We can learn. We can choose. We can tell our children a different story, one that describes a common humanity, one that makes war less likely and cruelty less easily accepted.

 私たちは戦争自体に対する考え方を変えなければいけません。外交を通じて紛争を防ぎ、始まってしまった紛争を終わらせる努力をする。相互依存が深まっていることを、暴力的な競争ではなく、平和的な協力の名分にする。国家を、破壊する能力ではなく、何を築けるかで定義する。そして何よりまして、私たちは人類の一員としてお互いのつながりを再び想起しなければなりません。このつながりこそが我々を人類たるものにしているからです。私たちは過去の失敗を繰り返すよう遺伝子で決められているわけではありません。私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。子どもたちに違う方法を伝えることができます。共通する人間性を説明し、戦争が起こりにくく、残虐性が簡単には受け入れられないようにする物語です。

 We see these stories in the hibakusha: the woman who forgave a pilot who flew the plane that dropped the atomic bomb because she recognized that what she really hated was war itself; the man who sought out families of Americans killed here because he believed their loss was equal to his own.

 被爆者の方たちの話から、それらが分かります。原爆を落とした爆撃機を操縦したパイロットを許した女性がいました。それは彼女が、自分が本当に嫌悪しているのは戦争そのものだと気付いたからです。広島で殺された米国人の家族を捜し出した男性がいました。なぜなら彼は、その米国人たちの喪失感は彼自身のものと同じだと確信していたからです。

 My own nation's story began with simple words: "All men are created equal and endowed by our Creator with certain unalienable rights, including life, liberty, and the pursuit of happiness." Realizing that ideal has never been easy, even within our own borders, even among our own citizens. But staying true to that story is worth the effort. It is an ideal to be strived for, an ideal that extends across continents and across oceans.

 私の国の物語は(独立宣言の)簡単な言葉で始まります。「すべての人類は平等に創造され、創造主によって奪うことのできない権利を与えられている。それは生命、自由、幸福追求の権利である」。しかしその理想を実現することは、米国内や米国民の間であっても、決して簡単ではありません。しかし、その物語にあくまでも忠実であろうとすることに価値があります。それは努力しなくてはならない理想であり、大陸と海をまたぐ理想です。

 The irreducible worth of every person, the insistence that every life is precious, the radical and necessary notion that we are part of a single human family: That is the story that we all must tell.

 全ての人のかけがえのない価値です。全ての人命は貴重であるということです。私たちは一つの家族の一部であるという根源的で不可欠な考え方です。それが私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

 That is why we come to Hiroshima, so that we might think of people we love, the first smile from our children in the morning, the gentle touch from a spouse over the kitchen table, the comforting embrace of a parent. We can think of those things and know that those same precious moments took place here, 71 years ago. Those who died, they are like us.


 だからこそ私たちは広島に来るのです。それによって、私たちは、愛する人たちに思いをはせます。朝一番の子供たちの笑顔。食卓での配偶者との優しい触れ合い。親の心地よい抱擁。そうしたことを思い、そうしたかけがえのない瞬間が71年前のここにもあったのだと考えることができます。亡くなった方々は私たちと全く変わらない人たちでした。

 Ordinary people understand this, I think. They do not want more war. They would rather that the wonders of science be focused on improving life, and not eliminating it.

 普通の方々はこうしたことを理解できると思います。彼らの誰もがこれ以上、戦争を望んでいません。むしろ科学の驚異を、命を奪うのではなく、もっと人生を豊かにすることに役立ててほしいと考えています。

 When the choices made by nations, when the choices made by leaders reflect this simple wisdom, then the lesson of Hiroshima is done.

 国家が選択をするとき、国家の指導者がこのシンプルな英知をかえりみて選択すれば、広島から教訓を得られたと言えるでしょう。

 The world was forever changed here. But today, the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting, and then extending to every child.

 世界はここで永遠に変わってしまいました。しかし、広島の子供たちは平和に日々を送っていくでしょう。なんと価値のあることでしょうか。それこそが守り、そして全ての子供たちに広げていく価値があることなのです。

 That is the future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.

 これこそが、私たちが選択できる未来です。広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりであるべきです。

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ユーミン「やさしさに包まれたなら」の 目にうつる全ての事は何のメッセージ?


 時々、好きな楽曲をご紹介するコーナーです。特にそのアーチストの代表的な曲と言うわけではなく、多くの場合はスピリチュアリズムを感じたものをご紹介していますが、概して、そういう曲は人気があって、多くの方が知っている場合も多いです。今回は、荒井 由実さんの「やさしさに包まれたなら」を取り上げます。

荒井由美 写真


◇ 荒井 由実 時代

 日本を代表するシンガー・ソング・ライターである松任谷(旧姓、荒井)由実さんについては、ここで紹介するまでもありません。ここでは彼女の出生からデビュー、「やさしさに包まれたなら」くらいまでの略歴をご説明申し上げます。なお、ここでは愛称である「ユーミン」と呼ばせていただくことをお許しください。

1.ユーミンの出身

 松任谷(旧姓、荒井)由実さん(以下、ユーミン)は、1954年(昭和29年)1月19日、東京の八王子、荒井呉服店に次女として生まれました。6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを習い、14歳時、プロとしての初めての仕事でスタジオでのピアノ演奏をしました。15歳で作詞家としてデビューし、1971年に17歳で作曲家としてデビューと、10代で才能が開いた人物でありました。

2.シンガー・ソング・ライターとしてデビュー

 1972年4月(18歳時)には、染色の専攻を志し、多摩美術大学に入学しましたが、同年7月、アルファレコードを設立した村井邦彦氏の勧めで、同年7月5日にかまやつひろし氏がプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビューとなりました。

3.あっと言う間に全国区に!

 デビュー作は売り上げ300枚と振るいませんでしたが、1973年11月(19歳時)にファーストアルバム「ひこうき雲」を発売、TBSラジオの深夜放送番組「パックインミュージック」金曜日第2部を担当していたパーソナリティの林 美雄 氏の絶大な支持を受けて知名度が上がり、翌1974年より本格的にステージ活動を開始しました。
 1974年4月(20歳時)には今回取り上げる「やさしさに包まれたなら」、1975年2月(21歳時)「ルージュの伝言」、同年10月には「あの日に帰りたい」、1976年3月(22歳時)「翳りゆく部屋」と、二十歳前後の段階で、現代でも聴かれ歌われ続けている名曲を発表しました。若くして驚くべき才能の開花と思わせる経歴です。

4.あっという間の結婚

 私だけではないと思いますが、ユーミンの凄さは、作る曲、書く詞が本人の私生活にマッチしていないところにあると思います。また別の機会に触れたいとは思いますが、「ひこうき雲」は彼女が小学校の時の同級生の男の子の死をモチーフに作られたとされます。ですから、この作品にはユーミンの実体験が込められております。しかし、後にも触れますが「やさしさに包まれたなら」はまだ独身の彼女から母親のような目線を感じます。また、「ルージュの伝言」は夫の浮気の話、「あの日に帰りたい」ではもの哀しく昔の恋人を想い、「翳りゆく部屋」は恋人関係に終焉を迎えた苦しい胸のうちを歌っています。そんな境遇にあったとは思えない出来事が起こり、「翳りゆく部屋」は荒井由実時代のラストシングルとなります。1975年12月(21歳時)にアレンジャー、松任谷 正隆 氏と婚約、1976年11月29日、22歳で結婚しました。実に不思議な感性の持ち主と思います。


◇「やさしさに包まれたなら」の略歴

 いろんなところで利用される楽曲、「やさしさに包まれたなら」は、もともとは不二家ソフトエクレアのCM依頼で書いた曲でした。ソフトエクレアとは、クリームをキャラメルでつつんだキャンディのことで、クリームをキャラメルでやさしく包んでいたCMの歌、だから「やさしさに包まれたなら」とは、そもそもキャラメルを包むことだったのです。

不二家ソフトエクレア

 サビの部分、「目にうつる すべてのことは メッセージ」は、キャンディのCMでは「目にうつる すべてのことは 君のもの」と歌われていたそうです。「やさしさに包まれたなら」が採用された略歴を箇条書きにしました。

1994年04月20日 シングル発売
1974年04月 不二家ソフトエクレアCM
1980年 不二家ソフトエクレアCM
1989年07月,9日 映画「魔女の宅急便」EDテーマ


魔女の宅急便 1シーン

2001年12月 上野の森美術館「MoMAニューヨーク近代美術館」CM
2003年12月 日本ミルクコミュニティ「MEGMILK」CM


 日本ミルクコミュニティ「MEGMILK」

2005年03月 JR東日本「Suicaキャンペーン」CM「Suicaと私」

 JR東日本 CM 2005年 Suica 西原亜希 「Suicaと私」 やさしさに包まれたなら YouTube

2006年11月 鹿児島テレビ放送のデジタルテレビOP、EDテーマ
2010年09月 ABCマート「エレガントウォーク」CM
2011年10月 サントリー「のんある気分」CM


 サントリー のんある気分「地中海レモン列車」篇 YouTube


◇「やさしさに包まれたなら」

 ずいぶんと前置きが長くなりましたが、曲のYouTubeと歌詞を供覧いたします。

やさしさに包まれたならジャケット

 魔女の宅急便 やさしさに包まれたなら YouTube

 作詞・作曲  荒井 由実
 プロデュース 村井 邦彦
 リリース   1974年4月20日


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 小さい頃は神様がいて 毎日夢をかなえてくれた.
 やさしい気持ちで目覚めた朝は おとなになっても 奇跡はおこるよ

 カーテンを開いて、静かな木漏れ陽の
 やさしさに包まれたなら きっと
 目にうつる全てのことは メッセージ


 小さい頃は神さまがいて 毎日愛を届けてくれた
 心の奥にしまい忘れた 大切な箱 ひらくときは今

 雨上がりの庭で くちなしの香りの
 やさしさに包まれたなら きっと
 目にうつる全てのことは メッセージ

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◇ 目にうつる全ての事は何のメッセージ?

 なぜ、この曲を取り上げたのか、もうお判りだと思いますが、「目にうつる全てのことは メッセージ」がどう言う意味なのかを検証したいと言う気持ちからです。

1.親の愛情に包まれた子供を描写した歌

 この曲は映画「魔女の宅急便」のテーマとなっております。失敗を繰り返しながら魔女へと成長していく魔法使いの女の子のお話に、漠然と、子供の感性のような捉え方をされている人が多いかも知れません。

 小さい頃は神様がいて 毎日夢をかなえてくれた.

 これは、子供の目には様々な出来事が不思議な魔法のように見えています。お腹が空けばご飯やオヤツが出てきて、寒いと思えば暖かくしてくれる、危ない状況に陥っても知らない間に救ってくれる存在がいます。それは多くの場合、愛情あふれるご両親であることが多いでしょう。そうして考えると、、、

 やさしさに包まれたなら きっと
 目にうつる全てのことは メッセージ


 すぐにサビの部分に飛んでしまいますが、両親の「やさしさに包まれたなら」、その子供の「目にうつる全てのことは」、親からの愛情と言う「メッセージ」である、とする考え方です。途中の歌詞を飛ばしていますので、矛盾点は多々ありますが、でも、こうした解釈でも、胸が暖かくなる、良いのではないかと思います。

2.小さい頃を思い出しながら大人になった今に当てはめた歌

 メッセージ見ているのは大人になった今の自分である、とする考え方です。ここではキー・ワードが二つあります。

 おとなになっても 奇跡はおこるよ

 心の奥にしまい忘れた 大切な箱 ひらくときは今


 いずれも1、2番における中盤のフレーズですが「おとなになっても」、「心の奥にしまい忘れた」とは、素直に「おとなになってから」、「小さい頃にしまい忘れた」と、子供から大人への月日の流れを歌っているようにも読めます。
 すると、子供の頃には様々な出来事を不思議な魔法のように捉えるのは1.と同じとして、大人になっても同じような純粋な感覚になれる時はあります、それは「やさしい気持ちで目覚めた朝は」と、豊かな気持ち、素直な感性を持った瞬間と言っているのかも知れません。

 やさしさに包まれたなら きっと
 目にうつる全てのことは メッセージ


 そして、そのことは、サビの部分で引き継いでおり、大人になった自分でも、心が「やさしさに包まれた」、そんな豊かな状態であれば、「目にうつる全てのことは」、美しい「メッセージ」として捉えられるものと歌っているように思えます。
 そう考えると2番は、同じように子供の頃に不思議な魔法のように思っていた事を、「大切な箱」に入れて「心の奥にしまい忘れた」、それをもう一度「ひらくときは今」だ!、と宣言して、やはり純粋な気持ちに戻って、世の中の美しい「メッセージ」を受け止めたい、とする感覚なのかも知れません。

3.子供の頃には可能であった宇宙や神とつながる事

 高次の存在と交信するかのような発想になりますが、子供には予知能力があったり、思わぬ自然や天空からのメッセージを受け取る能力があります。ユーミンの10代の感性に驚かされるように、若い時代の思わぬ霊力に触れる事はしばしばあります。これは汚れてしまった、あるいは常識的な発想しか持てなくなった大人には失われたものかも知れません。さて、ここでのキー・ワードは、、、

 カーテンを開いて、静かな木漏れ陽の

 雨上がりの庭で くちなしの香りの


 いずれも、身近で感じることのできる自然を描写した言い回しです。ちょっとした日常でも、「静かな木漏れ陽」を見ることも、「くちなしの香り」を感じることもできます。つまり大自然を肌で感じた時、子供の時の能力を取り戻すことはできる、直感を得る、天の声を聞く、高次の存在からの、これこそが「メッセージ」であると、そんな解釈はいかがでしょうか?


◇ あとがき

 この「目に映る全てのことはメッセージ」は、作詞したユーミンがテレビで、どうしてこの歌詞を書いたのか、わからない、と話していたそうです。天才の閃き(ひらめき)なのか?、直感なのか?、もう曲ができて40年以上の年月が経ち、ユーミンの作詞、作曲当時の心境を探ることは不可能のようです。でも、だからこそ、いろんな発想でこの曲を聴いてもいいと思っております。

1つの演説として(?)、「保育園落ちた日本死ね!!!」

 恐らくは女性でしょう!、シングルマザーか?、首都圏だろう!、憶測が飛び交いますが、保育園に子供を預けるのが叶わなかった人からの匿名ブログが話題になっております。これも、多くの方がネットで読んだと思いますが、問題を風化させないよう、1つの記録として取り上げておきたいと存じます。

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保育園落ちた日本死ね!!!

 何なんだよ日本。
 一億総活躍社会じゃねーのかよ。

 昨日見事に保育園落ちたわ。
 どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
 子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?

 何が少子化だよクソ。
 子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。

 不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
 オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
 エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
 有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。

 どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。

 ふざけんな日本。
 保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
 保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。

 国が子供産ませないでどうすんだよ。
 金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。

 不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
 まじいい加減にしろ日本。

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 色々と対象外のことに触れた不平不満で、とても正当とは申せませんが、日本国民の本音が垣間見れる文章だと思います。保育園に子供を預けなければ生活が苦しい、若い弱者に手を差し伸べる社会であってほしいと思います。

読売テレビ 清水 健 アナ、番組放送とインタビューで「妻の死から1年で『心折れそう』」


 思わぬ、心に染み入る記事に胸をグッと掴まれたような感覚になりました。乳がんで妻を亡くして1年が経過した読売テレビの 清水 健 アナウンサーの記事です。本日のYahoo!ニュースですので、ご覧になった方は多いと思います。ただ1つの不幸なニュースと捉えられなくもないですが、この場に記録することで、彼の心情を汲み、彼への惜しみない心の声援を送り、そして今後の彼を暖かく見守りたい、そんな感覚で取り上げます。

清水アナのニュース

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読売テレビ・清水健アナ 妻の死から1年で「心折れそう」

 毎週月曜~金曜夕方4時47分から約2時間にわたっての生放送番組『かんさい情報ネットten.』(読売テレビ系)は、メーンキャスターの清水健アナウンサー(39才)の「こんにちは」という挨拶で始まる。

 2月1日の彼は、いつものように、いや、いつも以上に動じず、冷静に、自分の言葉でニュースを伝えていたように見えた。

清水健アナ

 「実は今日はぼくにとって、特別な日なんです。ちょうど1年前、個人的なわがままだとわかった上、奈緒の看病に専念したいと、『ten.』のキャスターを休もうと決めたのが今日でした」

 彼の妻・奈緒さん(享年29)は、この清水アナの決断からわずか11日後の2015年2月11日、乳がんのため息を引き取った。

 清水アナは2月1日の生放送終了後、女性セブンのインタビューにこう続けた。

 「奈緒は、仕事をしているぼくが好きだと言ってくれていました。周りに気を使ってばかりで、一言も“しんどい”と言わない奈緒は、自分のせいでぼくの仕事に支障が出るのが嫌だったんだと思います。だからぼくも奈緒の乳がんがわかってからも、奈緒の想いに応えようと、正直、精神的にはいっぱいいっぱいでしたが、何とか踏ん張ってカメラの前に立ち続けました。でも、その時だけは、奈緒と息子と一緒に家族での時間を1秒でも長く過ごしたかった。もちろん、再び、キャスターの席に戻るつもりはない覚悟でした」(清水アナ)

 奈緒さんの一周忌を前に、闘病生活を振り返った手記『112日間のママ』(小学館・2月13日と14日に京都・大阪でサイン会実施)には、清水アナが奈緒さんに、「仕事を休む」と伝えた時のことが綴られている。

112日間のママ 表紙

《「ごめんね…。こんな疫病神で」
 一瞬、何を言っているのかわからなかった。ヤクビョウガミ。奈緒の言葉を反芻する。
「何言ってるねん、ふざけんな!」》

 清水アナが奈緒さんを怒ったのは、後にも先にも、それが最初で最後だったという。

 大阪出身の清水アナは、中央大学を卒業後、2001年に読売テレビに入社。情報バラエティー番組などを担当していたが、2009年3月に放送がスタートした『ten.』を担当することになり、2011年9月からはメーンキャスターに抜擢され、関西では知らぬ人がいない人気アナとなった。

 この番組のスタイリストをしていたのが奈緒さんだった。清水アナと奈緒さんは、2013年5月にゴールイン。翌2014年3月に妊娠がわかる。しかし2014年4月30日、奈緒さんの左胸の下の脇に近い部分に乳がんが見つかった。

 妊娠を継続するか、今回は治療だけに専念し、出産をあきらめるのか──夫妻は幸せの絶頂から一転、「命の選択」を迫られた。

 交際中も結婚してからも、いつも笑顔で、3歩下がって夫を支えてきた奈緒さんは、「あれが欲しい」とか「これを買って」とかを一切口にしなかった。その奈緒さんが、初めてはっきりと清水アナに目で語りかけていたという。「私は産みたい」と。

 2014年10月、無事に長男(1才3か月)が誕生。その直後、奈緒さんの体は一気に病魔に蝕まれたのだった。

 「奈緒が亡くなってからのこの1年間は、アナウンサー生活15年の中でいちばん働いた1年だったかもしれません。あえて土日も取材を入れたりしましたし。奈緒が頑張った意味を残すためにも、ぼくが踏ん張らなくちゃいけないって、かっこつけてきたんです。でも一周忌を迎えるにあたって、ちょっと心が折れそうというか…ギリギリの状態というのが正直なところです…」

 清水アナはそう言うと、左手薬指の結婚指輪に右手を重ねた。

※女性セブン2016年2月25日号

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 「奈緒が亡くなってからのこの1年間は、アナウンサー生活15年の中でいちばん働いた1年だったかもしれません。」

 わかります。喪失感と悲しみと、ネガティブなものを振り払い続けた1年だったのだろうと思います。

 「でも一周忌を迎えるにあたって、ちょっと心が折れそうというか…ギリギリの状態というのが正直なところです…」

 死に物狂いの1年間を過ごしたからならでは、なんだろうと思います。頑張ってほしいと思いますし、どこかで、人間は強いものだと思いたい気持ちはあります。謹んで、清水 健 アナウンサーの、亡き奥様のご冥福をお祈り申し上げます。


鳥肌必至!日本人の少女がエレクトーンで演奏する「スターウォーズ・メドレー」が凄い!


 知人に教わった記事で、日本人の少女のとんでもない演奏を観ました。強く心に響いたので、出典と併せてご紹介いたします。

826askaスターウォーズメドレー記事

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鳥肌必至!日本人の少女がエレクトーンで演奏する「スターウォーズ・メドレー」が凄い!

 日本人の少女がエレクトーンで演奏する『スターウォーズメドレー』。これが、海外のサイトで取り上げられ「一人オーケストラだ!」と絶賛されていたので紹介したいと思います。

826askaスターウォーズメドレーの風景

 「826aska」というユーザー名で、演奏風景をYouTubeにアップしている日本人の少女。おそらく、中学生だと思われるのですが…。スターウォーズの壮大な世界観を見事に表現する“826aska”さんの演奏っぷり。とても中学生の演奏だとは思えません。

 上鍵盤、下鍵盤、ペダル鍵盤という3つの鍵盤と、エクスプレッション(表現)ペダルによって構成されているエレクトーン。ちなみに、最新機種では500を超えるプリセット音色を持ち、それぞれ各鍵盤に割り当てる事が可能となっているそうですが…。そんなエレクトーンの機能を完璧に熟知し、最高のパフォーマンスを披露する“826aska”さん。

 素晴らしい! スターウォーズの世界観を見事に表現した“826aska”さん。『一人オーケストラ』と海外で絶賛されるだけの事はありますよね。

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 以下にYouTubeリンクを貼り付けましたので↓、是非ともご堪能ください。楽しみな少女の出現です!

 826aska 「スター・ウォーズ」メドレー 【 STAR WARS 】 エレクトーン演奏 YouTube

 ついでに、世界では絶賛されないかも知れませんが、日本人の、特に中年世代の心を揺さぶる演奏もありましたので、こちらもYouTubeリンクを貼り付けます↓。

 826aska ぱぱのリクエスト「【宇宙戦艦ヤマト】エレクトーン演奏」YouTube

 キリがないのでここらで止めますが、こちらも凄いです。「ドクターX ~外科医・大門未知子~」の オープニングテーマです↓。

 826aska 「【 ドクターX ~外科医・大門未知子~ 】 オープニングテーマ エレクトーン演奏」YouTube


医学の無力に憤る! 故 黒木 奈々 さん「未来のことは未来の私にまかせよう」


 ある文庫本のご紹介です。実は、読んで直ぐの段階では、必ず読後感想を文章にしようと思っていたのですが、どう解釈したものか?、どう表現したらいいのか?、例えば、若い女性に対する、ただの興味本位な気持ちではないか?、ブログ文章のネタのような発想はないか?、そんな自問自答が心の中で生じました。ここでご紹介する意味はどこにあるのか?、と言う疑問も起こりました。そうした自分の気持ちに真っ直ぐ問いかけたところ、それは題名の通り、「憤り」こそが偽らざる心境でありました。まずは、あるニュースを2つほど閲覧いただきます。

黒木奈々03

 国際報道での黒木奈々さん YouTYube映像


◇ 黒木 奈々 アナ32歳で死去 復帰願い叶わず

 先々月の2015年9月19日の記事であります。胃がんの手術後、アナウンサーとしての復帰を目指して闘病していたフリーアナウンサーで、NHK BS1「国際報道2015」でキャスターを勤めた、黒木 奈々さん(享年32歳)が2015年9月19日午前2時55分、胃がんにて永眠されたとの記事です。

黒木死去のニュース

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 黒木奈々アナ32歳で死去 復帰願い叶わず 

 昨年9月に胃がんを公表し、闘病中だったフリーアナウンサー・黒木奈々さんが19日午前2時55分、都内の自宅で亡くなった。32歳だった。所属事務所が同日、マスコミ各社にファクスで伝えた。通院しながら週1回出演していたNHK BS1「国際報道2015」を7月13日を最後に休養。1カ月ほど前から入院し、治療を続けていたが、復帰への願い叶わず、帰らぬ人となった。

 関係者によると、最期を看取ったのは両親。入院中も見舞いに行き、最近もメールなどでやりとりを続けていた事務所スタッフによると、「いつか良くなって復帰したいと思っていました。秋にも…10月からは無理かもしれませんが、再度治療を続けながら、復帰を目指していました。もう一度、あの場所に…スタジオに帰りたかったと思います」と無念の思いを代弁した。 がんに冒されてもなお、キャスターという仕事に熱き想いを抱き続けていたという。

 黒木さんは昨年4月から「国際報道2014」で長年の夢だった報道番組のキャスターになった。しかし、同7月末に胃潰瘍の治療を受けた後の検査で、胃がんが見つかり、無念の休業。9月10日にHPで「告知を受けた当初はあまりのショックで言葉も出ませんでしたが、今は、まずは闘い抜くこと、生きることだけを考えて、日々過ごしています」と胃がんを公表。9月下旬に全摘出手術を受けた。その後は入退院を繰り返しながら、基本的には自宅から通院の形で、治療を続けていた。
 今年1月4日放送の同局「国際報道2015」に生出演。4カ月ぶりにテレビ復帰を果たし、3月末からは毎週月曜の限定ではあるが、同番組に復帰し、レギュラー出演していた。しかし体調が再び悪化。7月13日が最後の出演となった。

 鹿児島県出身。上智大学外国語学部フランス語学科卒業後、毎日放送(MBS)に入社。報道局記者を経て07年2月に退社し、フリーに転身した。

 通夜は22日午後6時から、葬儀・告別式は23日午前10時から、ともに東京都港区南青山2丁目33の20、青山葬儀所で営まれる。喪主は父・黒木幹宏氏。

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黒木奈々02

 このニュースを観た時、「ああ、そう言えば若い女子アナウンサーが胃がんになったって聞いたことがあったな!、それにしてもつい最近の出来事だったような!?」と暗い気持ちと、少しびっくりした感覚がありました。その、ずいぶんと最近の出来事とした記事が次です。


◇ 黒木 奈々 胃がん告知に涙止まらず…闘病決意「必ず病気に打ち勝つ」

 こちらが昨年、黒木 奈々さんが胃がんを公表した2014年9月10日の記事であります。彼女は2014年07月27日午後7時すぎ、ワインバーでの突然の心窩部痛で発症、救急搬送先の病院で胃潰瘍の穿孔(穴が開くこと)と診断され、入院、外科的治療は行わず、10日ほどの保存治療で軽快退院となりました。郷里、鹿児島での静養後、08月16日よりNHK「国際報道2014」の仕事に復帰、08月25日には救急病院にて胃カメラの検査が行われ、潰瘍性病変は軽快しているものの、同部の生検の結果、胃がんの診断が得られた模様です。

黒木胃がんのニュース

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 黒木奈々 胃がん告知に涙止まらず…闘病決意「必ず病気に打ち勝つ」

 胃がんと診断されたNHK BS1「国際報道2014」(月~金曜後10・00)の黒木奈々キャスター(31)が10日、所属事務所の公式サイトでコメントを発表。「あまりに突然のことで、当初は悔しくて、悔しくて、毎日涙が止まりませんでした」と告知にショックを受けながらも「必ず病気に打ち勝ち、皆さまの前に戻れる日が来るよう頑張りますので、どうか温かく見守っていただけると幸いです」と闘病へ強い決意を示した。

 7月末、胃潰瘍穿孔の診断。その後、経過を見る検査の結果、胃がんと判明した。「応援してくださっている皆さまや関係者の方々に、何もご報告もご挨拶もできないまま」8月27日のオンエアを最後に番組を休んだ。

 「今回の件で、たくさんの方々にご心配、そして多大なるご迷惑をおかけしてしまったこと、本当に申し訳なく思っております。それと同時に、多くの方々の優しさに触れ、心の底から感謝する毎日です」

 「告知を受けた当初はあまりのショックで言葉も出ませんでしたが、今はまずは闘い抜くこと、生きることだけを考えて、日々過ごしています」と前を向く。「今、私は同じ病気を経験された方々が社会復帰されている姿を拝見し、日々励まされています。今度は私の番だと思って、必ず病気に打ち勝ち、皆さまの前に戻れる日が来るよう頑張りますので、どうか温かく見守っていただけると幸いです」と力強く復帰を誓った。

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 この記事が出る直前の9月5日、彼女は有明のがん研有明病院にセカンド・オピニオン目的で受診し、当初は早期がんとの説明を受けました。しかし、8日の胃カメラ再検後、早期がんではなく、スキルス胃がんであり、リンパ節郭清を含む胃全摘術が必要との説明を受け、大変なショックと悲しみに包まれた、そんな状況での9月10日の公表だったわけです。


◇ 故 黒木 奈々 さんの略歴

 彼女の著書をご案内する前に、その文中でも自己紹介されている彼女の略歴を、謹んでご紹介いたします。

1.出身・学歴

 1982年(昭和57年)11月12日、生まれで鹿児島県鹿児島市の出身です。中学では軟式テニス、鹿児島県立鶴丸高等学校では硬式テニス部に所属してキャプテンを務めました。小学生時代からアナウンサーを目指していたそうで、子供の時からの夢に向かって、女性アナウンサーを多く輩出している上智大学外国語学部フランス語学科に入学し、在学中にフランスのグルノーブル政治学院に1年間の留学をしています。

2.卒後就職と転職

 大学進学直後よりフジテレビのアナウンススクールに通っていましたが、卒業時のアナウンサー採用試験は在京キー局、地方局のすべてに落ち、報道記者枠で大阪の毎日放送(MBS)へ入社しました。報道局ニュースセンター所属の報道記者として勤務したものの、フリー・キャスターを目指して翌年、同局を退社して上京、「TBSニュースバード」のオーディションを受けて合格、2007年04月よりクリエイティブ・メディア・エージェンシー(CMA、現在のキャスト・プラス)に移籍すると同時にTBSニュースバードのニュース・キャスターとなりました。同番組では「ドクター月尾 地球の方程式」の2代目の聞き手役も務めるほか、2009年04月から半年間は早朝から午前7時台を担当しました。また、同局のキャスター汾陽 麻衣 さんとは同郷であり親友となりました。

3.セント・フォースに移籍とNHK「国際報道2014」

 2010年03月にCMAを退社、同年08月にセント・フォースに移籍しましたが、TBSニュースバードには2011年3月まで出演していました。2011年04月からは「ワールドWaveトゥナイト」(NHK BS1)サブキャスターを任され、いよいよ、2014年03月31日にNHK「際報道2014」のメインキャスターに就任しました。まさに、ニュース・キャスターと言う夢を現実のものとして、最も人生で輝いていた昨年の序盤でしたが、7月の発病以来、苦しい闘病の日々が始まったのでした。


◇ 黒木 奈々 著「未来のことは未来の私にまかせよう 31歳で胃がんになったニュースキャスター」

 本を紹介するにあたり、著作権に抵触しないよう、極力、本文の引用は避けたいと思います。なるべく、私の感じたこと、推測を優先して、本文については文章に変化を加えたかたちになります。まずは、故 黒木 さん自らがその著書をPRしている映像を見つけましたので、これを供覧いたします。
 本年3月26日に文藝春秋より、単行本「­未来のことは未来の私にまかせよう 31歳で胃がんになったニュースキャスター」が刊行されるのに先立ち、3月23日、故 黒木 さんより、本に込めた思いや読者へのメッセージを伝えています。

黒木奈々01

 「NHKBS1『国際報道2015』キャスター黒木奈々さん がん闘病で揺れ動く気持ちを綴った手記を刊行」YouTube

第一章 発症から手術まで

 上で申し上げました、2014年07月27日午後7時すぎ、ワインバーで旧友との飲み会に及んだ際に突然の激痛に襲われ、救急搬送された病院で胃潰瘍の穿孔と診断されました。手術は行われず、保存的治療にて軽快した彼女に、さらに襲いかかったのは、その潰瘍性病変の「がん」との診断でした。発病で休養していた職場に復帰し、キャスターとして番組のオンエアを終えたところで、テレビ局の廊下で父親から「悪性」との報告を受けた時の衝撃的な心境、職場の同僚や家族との絶望的な会話、わずかな希望と周囲の優しさが端的に表現されています。私事、日常の臨床で、これまでの数え切れないほどの悪性の告知に対して、様々な反応を見て参りましたが、医者の前で見せる反応と、私生活での姿は大きく異なることを改めて知らされました。

黒木奈々05

 その後、彼女とご家族はセカンド・オピニオンを求めて、がん研有明病院を受診しました。ここでは、同業者として、若干の疑問と不満を感じました。担当のドクターより、おそらくは早期がんであること、スキルス(「硬がん」とも言われます)ではない、「ご家族で乾杯していいですよ!」との説明がなされます。故 黒木 さんとそのご家族は、安堵する気持ち、大きな希望を得た日でありました。
 しかし、若い女性の胃がんであれば、細胞の分化度の低いスキルスの可能性は高く、しかも穿孔しているわけですから、進達度は漿膜に達しており、早期がんはあり得ないのが常識です。患者、家族を安心させたい気持ちはあったでしょうが、小説の文章の通りであれば、ちょっと楽観視が過ぎる印象はあります。
 その後の検査で、彼女とご家族は進行がんであり、開腹胃全摘術の必要性、術後化学療法(抗がん剤のこと)の可能性を説明され、再度、慟哭に陥ることになります。小説の中で、彼女自身、「なんてついらい1日だったことか」と述べております。悪性の病状説明において、その進行度が大きく変わるのは好ましくありません。常に、客観的姿勢で、ありのままをご説明したいものです。あまり、本人、家族の心理状態を大きく揺り動かしたくない、と言うのが本音です。
 そうした折、彼女は「心に響いた友人からのメール」を受け取ります。彼女が最も感銘を受けたのは、本の題名にもなった、、、

 「未来のことは未来の奈々(私)にまかせれば大丈夫だよ」

 、、、との言葉だったようです。がんに限らず、命に関わる病気、自分の将来に限界を知った瞬間、人は未来を憂う気持ちになります。でも、目の前に手術や化学療法を控えた時、自分の未来のことを考える余裕はありません。「未来のことは未来の自分にまかせよう」と言うのは、二つの意味があると思います。1つは、「未来を憂うことでふさぎこんだり暗い気持ちになるのは止めよう!」、と言う逃避的な発想と、今1つは、「未来のことは未来に考えるとして、今を精一杯生きよう!」と言う、現在に対する積極的な姿勢です。

胃がんを告白する黒木キャスター

 9月19日、彼女の手術は審査腹腔鏡を先行させて、開腹術へ移行となったとされます。これは、スキルス胃がんの場合、転移形式としても最も多いのが腹膜播種と言って、がん細胞が腹腔内に散布された状態であるため、その有無を腹腔鏡で観察し、播種があれば手術は終了、胃切除術は行わずに化学療法、播種が認められなければ根治術に行くと言うシステムです。ただ、彼女の場合は、腫瘍部分が穿孔を来しましたので、その近傍への播種が最も考えられるのですが、保存的に軽快する過程において、穿孔部が腹膜や大網に覆われて、鏡視下観察が困難であった可能性はあると思われます。

第二章 自叙伝

 故 黒木 さんの自叙伝となっている章です。暖かい家庭に恵まれ、一本気だけれど心配性の父親や、乳がんになって手術、化学療法、放射線治療を経験した我慢強い母親、優しいお兄さんのことが描写されております。小学生からアナウンサーに憧れていましたが、中学で「アンカーウーマン」と言う映画の、ある女性が田舎から苦学して夢の階段を駆け上がりテレビキャスターとなったサクセス・ストーリーを観て、いよいよ将来は決定的になったと述べております。高校受験前で、志望する高校が決まる前から、多くの女子アナウンサーが卒業した上智大学への進学を決めたとのこと、真の太い女の子だったように思います。

黒木奈々 テニス

アンカーウーマンDVD

 2001年、上智大学フランス語学科に入学して、フジテレビのアナウンストレーニングの学校に通い、アルバイトをして、精一杯に頑張っている大学時代を紹介しています。そして、フランス、グルノーブル政治学院への1年間の留学で、多くの経験をし、政治学を勉強して、それがキャスターとして国際問題を伝えたいと思うようになったきっかけであると説明しています。そして、この留学を機に、発病してワインバーで倒れた時に一緒だった、一生の友達をたくさん得たこと書かれております。
 彼女の上智大学卒業後の就職活動はアナウンサー採用試験だけでありました。ところが、どういう仕組みなのか?、理由が解らぬまま、全くうまく行きませんでした。特に「どうしてアナウンサーになりたいのか?」と言う面接の質問に苦慮したことを明かしています。結局、全国を駆けずり回って熊本の民放局で採用された以外は全滅でありましたが、報道記者からニュース・キャスターへの道を考え、大阪毎日放送の報道記者としての採用を受けました。
 しかし、彼女の「自分のアナウンサーとしての自分を試してみたい!」と言う思いは強く、しかも日に日に強固ちなって行き、ついには入社から1年保たずに大阪毎日放送を退職、フリー・アナウンサーを目指すべく上京、「TBSニュース・バード」のオーディションを受けました。結果は見事に合格、意志の強さ、行動力、そした彼女の内に秘める力が感じられる章です。

ニュースバード時代の黒木奈々さん
TBSニュースバード時代

汾陽麻衣と黒木奈々
TBSニュースバード時代、汾陽 麻衣 さんと

 TBSニュース・バードで3年を過ごして充実した毎日を送れたこと、恋愛もし、良い相手に出会えたけれど、仕事を優先したいと思ったことを告げたところで、いよいよ国際報道への道が開けたことに話しが移ります。2011年、NHKの国際ニュース番組のキャスターのオーディションを受け、「ワールドWaveトゥナイト」のサブキャスターに合格しました。大喜びする彼女の笑顔が目に浮かぶようです。
 そしてついに、2014年4月より、「ワールドWaveトゥナイト」が改編されて、「国際報道2014」メインキャスターに抜擢されます。小さい頃からの夢を実現した、まさに「引き寄せた」、そんな人生であり、「そういう人は強い!」、そう思わせる人物だったと思います。

第三章 抗がん剤と格闘

 再び闘病生活の話しです。術後早期の激しい疼痛や、胃全摘後の食生活における苦しみが、ひしひしと伝わって来る章です。そんな中、痛み止めを我慢するとか、廊下を少しずつ長く歩くと言った、身近なところで努力する姿を描写しています。よほどご高齢な方とか、激しい合併症がある患者でない限り、胃全摘後の経過は概ね順調であり、それが30代前半の女性であればなおさらと思われますが、彼女の術後の喜怒哀楽を見るにつけ、改めて臨床心理を考えさせられました。
 9月19日の手術から2週間とちょっと、10月5日に退院、自宅生活でのリハビリが始まった故 黒木 さんですが、退院後初めての外食で、以前のように食べられなくなった自分に悲観して号泣するなど、デデリケートな心理状態を紹介しています。そんな折、彼女は、自分の胃がんの進行度がステージIIIであることを知り、主治医からは今後の5年間での再発率が60〜70%に及び、特に最初の2年までが非常にリスクが高いことが説明され、そして、「抗がん剤を100%勧めます」との言葉を受けました。
 再発予防としての抗がん剤に、がん研有明病院からの提案は、TS1(ティー・エス・ワン)の経口投与とシスプラチンの点滴とのことでした。分子標的薬(胃がんではトラスツズマブ [ハーセプチン] )は、彼女の場合は標的となるHER2蛋白が陰性のため使用されないとのことでした。TS1もシスプラチンも、いずれも骨髄抑制や食欲不振などの一般的な副作用がありますが、とりわけTS1は色素沈着が顕著であり、油断すると顔や指の日焼けが著明になります。また、シスプラチンは吐き気が強く、腎障害もありますので、点滴が必要な薬剤であり、短期の入院でやられるのが一般です。色素沈着も吐き気も入院も、若い女性で胃全摘後、職場復帰を目指す患者には極めて酷なレジメンだと思いますが、現代の医療では最良の選択であることは確かです。
 自分の厳しい生命予後を知らされ、しかも抗がん剤治療の過酷な内容を前にして、激しく動揺する気持ちと、「絶対嫌だ!、負けたくない。悔しい。打ち負かしていみせる!」との固い意志も伺われます。人間は弱くもあり、強くもある、そう感じる彼女の文章でありました。10月28日、TS1が処方され、主として食欲不振の副作用に苦しみながら4週間の内服、2週間の休薬後、12月16日からのシスプラチン投与の入院を控えたところで章を閉じております。

第四章 1月4日のNHK総合「国際報道2015」特番を目指して

 入院でのシスプラチン投与を控えた彼女には、すでに、普段はBS1で放映している国際報道が年明けの1月4日、1日だけ、NHK総合で特番として放送されることが伝えられておりました。最終章では、その特番での復帰を目指す彼女の、シスプラチン副作用との壮絶な戦いが描写されております。

 「なんでこんなついらい思いをしないといけないの」

 シスプラチン投与中の彼女の言葉です。私は数え切れないほどの患者にTS1とシスプラチンを投与してきて、TS1は良い薬だと思いますが、白金製剤であるシスプラチンはすごく嫌いな薬です。入院で大量の輸液を必要として、強い吐き気の副作用は患者の心を折れさせます。吐き気があるだけではなく、味覚が失われるので食べ物の味が分かりません。32歳の若年胃がん患者に対する治療として、つい昨年の今頃に選択された化学療法ですので、これが現代の最先端の医療と言うことになります。ただ、大腸がんに認可されている同じ白金製剤で副作用の少ないエルプラットが胃がんにも適応が通りますので、今後は彼女のように苦しむ患者は少なくなるかと思います。
 入院から8日目に自宅へと帰っても食欲はなく、味覚障害は遷延していることが述べられています。恐らくはシスプラチン100 mgを1回のみ短時間で静注しただけどと思いますが、改めて壮絶な副作用だと思います。
 そんな状況が続いた、シスプラチン投与から10日目、12月26日、やっと元気になってきたと言っています。そして、退院後初めて外出し、NHKに対して「4日の特番に出演します」と報告を入れました。
小さい頃から夢見て、一度は掴んだニュース・キャスターのポジションへの復帰する、その強い意志が、厳しい予後を聞かされても、そんな「未来のことは未来の自分にまかせる」ことによって、辛い抗がん剤治療をも乗り越えて来たのが伝わって来ます。

黒木奈々04
 
 小説は、彼女が無事、1月4日のNHK総合の特番への出演を勤めて、来たるべき2回目のシスプラチン投与んに向かう段階で、「昨日、オンエアが終わった時、決意を新たにした。必ずがんを直して、この場に戻ってくる…」、と表明して終わっております。日記はまだまだ続いたと推測されますが、1月4日の特番を目指して抗がん剤との戦いに勝った、1つの段階を超えた心境で、発刊することとなったのでしょう。
 この小説のテーマとして、働く女性が、突然「がん」と宣告された時、どうアドバイスするか、と言うことが掲げられております。題名のごとく、故 黒木 奈々 さんは「未来のことは未来のアナタにまかせてください。今を一生懸命に生きてください」とメッセージを残しました。


◇ その後

 その後の故 黒木 さん、本年、2015年3月30日より、治療を継続しつつ、当面は毎週月曜日に限定する形でNHK BS1「国際報道2015」のキャスターに復帰しましたが、7月27日の放送から再び出演を取り止めており、その後8月31日の放送で正式に休養入りする事が発表されました。その後は報道の通りでありますが、公になった彼女の最後の言葉が、「初めて漏らした弱音」として報道されております。

黒木さん死去に際しての同僚の話 記事

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32歳で死去した黒木奈々さんが、初めて漏らした弱音…通夜で同僚明かす

 昨年9月に胃がんの手術を受け、闘病中の19日に32歳の若さで亡くなったフリーアナウンサーの黒木奈々(くろき・なな)さんの通夜が22日、東京・青山葬儀所で営まれた。親交のあった気象予報士の真壁京子さん(47)やフリーアナウンサーの江連裕子(38)らが参列。最後まで仕事復帰を目指していた黒木さんとの早すぎる別れを惜しんだ。葬儀・告別式は23日に同所で営まれる。

 青山葬儀所が涙に包まれた。通夜には黒木さんと同じ芸能プロダクションに所属する真壁さんや江連アナ、フリーアナウンサーの中田有紀(42)のほか、仕事関係者、友人などが多数参列した。

 祭壇は遺族の意向で報道陣には公開されなかったが、関係者によると、ピンクのバラなど色とりどりの花で彩られた。遺影は3月に著書「未来のことは未来の私にまかせよう 31歳で胃がんになったニュースキャスター」を出版した際に撮影されたもの。やさしくほほ笑む姿が参列者の涙を誘った。ファン向けの待機所に遺影と同じ写真が用意され、花を供える人の姿もあった。

 今月2日にメールを送ったという江連アナは「頑張っても頑張っても次から次に大きい壁が来て、疲れちゃった。でも小さな幸せや楽しみを見つけようとしています」と返信があったことを明かした。「初めて聞いた弱音でした…」。14日に送ったメッセージは読まれた形跡があったが、返信がなく、心配していた矢先の訃報だったという。「奈々ちゃんは最後まで気丈で、病気に打ち勝つと常に思っていた。番組に戻るという強い意志を持っていたと思います」と声を震わせた。

 落ち着いたら食事をしようと約束していたという真壁さんは「『神様って残酷だよ、なんでこんなに早く逝っちゃったの』って…。奈々ちゃんが一番悔しいと思う。奈々ちゃんの分も私たちが頑張っていかないといけない」と涙を拭った。所属事務所の広報担当者は「とにかく最後まであきらめずに『必ず治してもう一度スタジオに立つんだ』という気持ちがありました」と振り返り、無念の胸中を思いやった。

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◇ あとがき

 多くのがん患者に接してきて、今後もそのつもりでおります。舌や咽頭と言った頭頸部を除く、食道以下の全ての消化器のがんを経験してきて、私が接した患者で、最年少は6歳男子の肝細胞がん(肝芽種のような小児がんは除く)で、17歳男子のS状結腸癌、24歳女子の膵がんもおりました。そうした中、胃がんは20代が2人、30代は5人にも及びます。消化器のみならず、白血病や悪性リンパ腫のような血液疾患、脳腫瘍、骨肉腫も若年者に発症する悪性腫瘍であります。
 がん患者の苦悩を年齢で区別するわけではありません。お年を召された方の苦痛に心が痛むことはしばしばであります。一方、若い人の場合、これからの人生の夢や希望を打ち砕かれる出来事になり得ます。そうした、稀な患者への対応は、難しいと言うのも正直な気持ちです。
 故 黒木 奈々 さんの「未来のことは未来の私にまかせよう 31歳で胃がんになったニュースキャスター」を読んで、真っ先に感じたことは、冒頭でも申し上げた、己が信奉するところの「医学の無力に対する憤り」であります。手術と、シスプラチンをはじめ、副作用の強い抗がん剤による苦しみを経て、発症から1年ちょっとでの死に、私なんかよりも、がん研有明病院の担当医たちこそが無力感と憤りを感じていると思います。
 しかしながら、彼女は「未来のこと未来の自分にまかせよう」と言う言葉を残して、今後発生するがん患者に、ひとつの生き方を示したと思います。今後の臨床医としての生活に生かしていきたいと思います。謹んで、ご冥福をお祈りするとともに、ご遺族、関係者の方々には、重ねて謹んで、哀悼の意を申し上げます。

黒木奈々06

9.11 米国同時多発テロ事件への強い訴え 浜崎あゆみ “a song is born”


 9.11 米国同時多発テロ事件の公式発表から、その陰謀説までも、極めて浅い内容でご紹介いたしました。こういう事件があったということを未来に伝えたい、そして、もしかしたらおおやけになっていることとは違う別の構図があったかも知れないこと、そして、こうしたことは繰り返される可能性があることを、やはり未来に伝えたいと思います。
 私は、9.11 米国同時多発テロ事件 陰謀説に対して肯定的な立場も否定的な立場もとっておりません。「そんなことはどうでも良い」って言ったら無責任かも知れませんが、断言できる確かなことはあります。それは、「テロは確かにあった」と言うことです。ある一定の確率で起こる、自然発生的な事故ではありませんでした。人為的に多数の被害者を生む、無差別大量殺人であったのです。そして、もう一つ、忘れてならないこと、この事件を契機に引き起こされたアフガニスタンとイラクへの米国の侵攻は、さらなる罪のない無差別大量殺人を生み出しました。
 結局のところ、誰が最初の首謀者であったのか?、どんな裏があったのか?、「そんなことはどうでも良い」!、誰に対しての呼びかけか、誰を糾弾するものか、やはりこれも「そんなことはどうでも良い」!、あえて言えば我々人類全員に呼びかける楽曲をご紹介します。


◇ a song is born

 「a song is born」は、アメリカ同時多発テロ事件を受けて小室哲哉氏と松浦勝人氏が立ち上げたチャリティープロジェクト「songnation」の第1弾シングルであります。エイベックス所属の女性アーティストが小室氏の書き下ろし曲を歌い、売上の一部を国際連合本部に寄付すると発表しました。浜崎あゆみさんとKEIKOさん(globe)のデュエットによるシングルで、2001年12月12日にavex traxよりリリースされました。2002年1月1日発売の浜崎の4thアルバム「I am...」には浜崎あゆみさんのソロバージョンが収録されています。

a song is born

 作詞 浜崎あゆみ
 作曲 小室 哲哉
 歌  浜崎あゆみ、KEIKO(globe)

 2001年


a song is bornシングルジャケット

I amジャケット

「Ayumi Hamasaki- A Song Is Born ~Power Of Music 2011~(中日字幕)」YouTube

 「Ayumi Hamasaki 〜 A song is born 〜 in Arena Tour Hotel Love songs」YouTube

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 はるか はるか 数億年もの
 遠い 昔 この地球(ほし)は生まれた

 繰り返される 歴史のなかで
 僕らは命 受け継いだ んだ

 私には こんな 場所から
 この歌を 歌う事 でしか
 伝え られないけど

 もう一度だけ 思い出して
 僕らの地球(ほし)の あるべき姿
 そして どうか 忘れないで
 どうか どうか 忘れないで


 きっと きっと そんなに多くの
 事は 誰も望んではかった

 それぞれの花 胸に抱いて
 いつか大きく 咲けるようにと

 私には こんな 場所から
 この歌を 歌う事 でしか
 伝え られないけど

 君がもし ほんの 少し でもいいから
 耳をかた むけて くれれば うれしいよ

 もう一度だけ 思い出して
 泣きながらも 生まれついた
 君の夢や 明日への希望
 その全てが この地球(ほし)にある


 私には こんな 場所から
 この歌を 歌う事 でしか
 伝え られないけど

 君がもし ほんの 少し でもいいから
 耳をかた むけて くれれば うれしいよ

 もう一度だけ 思い出して
 僕らの地球(ほし)の あるべき姿
 そして どうか 忘れないで
 どうか どうか 忘れないで

 *****


私からも、9.11 米国同時多発テロ事件の被害者となった人々の魂をお慰めし、ご遺族様への強い哀悼の念をお伝えすると同時に、加害者に対しては、人類として初心にかえって欲しいと深く願います。

極めて高い次元のスピリチュアリズムを感じるヴォーカルユニット「フォルトゥナ+」(Fortuna PLUS)


 ある方からお便りをいただいて、広島在住のヴォーカルユニット「フォルトゥナ+(プラス)」について教わりました。YouTubeで曲を聴いてみますと、とても軽いメロディに言葉少なながら、心にしみ入る、魂にも届く透明感を感じました。高い次元のスピリチュアリズムを感じましたので、将来が楽しみ!、ご紹介いたします。


◇ フォルトゥナ+(Fortuna PLUS)

 「フォルトゥナ」とはラテン語で「幸運の女神」を意味し、ローマ神話に伝えられる「運命の女神」です。「フォルトゥナ+」は、昨年5月に結成された、広島市内で活躍する経営者、個性心理学スクール講師、 主婦などの一般女性7名で構成されたユニットです。メンバー全員の波動がとても高くその歌声を聴くだけで心が癒され、奇跡が起きると紹介されております。
 「フォルトゥナ+」のCDを聴いていますと、その波動が目に見えない世界で奇跡を起こし、心の中の不安、悲しみ、怒りなどのネガティブな気持ちをいつのまにか幸せで平和な気持ちに変えてくれる、また、フォルトゥナ+の曲は音の高波動だけでなく、心が平和で楽に生きることができる方法を歌の中で伝えてくれる、と説明されております。


◇ デビュー曲「フォルトゥナ 〜 癒しの光 〜」

 デビュー曲である「フォルトゥナ 〜 癒しの光 〜」のYouTubeリンクと歌詩をご紹介します。YouTubeでは英文の歌詩(直訳ではない)も載せられており、併せて供覧いたします。今後が楽しみなユニットです。

フォルトゥナ 癒しの光 ジャケット

 フォルトゥナ+「フォルトゥナ 〜癒しの光〜」 YouTube


フォルトゥナ 〜 癒しの光 〜

Fortuna+ 〜 Healing Light 〜 Spiritual song from Japan

 2014年5月19日 リリース

 *****

 「笑う」ってなんだろう? Mu …

 I wonder what smiling means to you. Mu …

 勇気が いるから 生きるには

 You must be brave before moving forward in your life.

 その勇気を 奮い立たすのが 「笑顔」 Ah …

 You always need to smile to gather courage in your life,
 That’s what you need.  Ah …

 そんなに意気込まないで 「笑顔」が 

 No need to push yourself too hard to get through hard times.

 あなたを 苦しむ世界から 解放してくれる いつも いつも

 You’ll be free from all suffering you have in your life.
 Smiling will solve your problems and bring you all happinesss.
 You always smile,

 「笑顔」だね

 just smile.


 「許す」ってなんだろう? Mu …

 I wonder what forgiveness means to you. Mu …

 勇気が いるから 生きるには

 You must be brave before moving forward in your life.

 その勇気を 奮い立たすのが 「許し」 Ah …

 You always need to forgive to find some courage in your life,
 that’s what you need. Ah …

 そんなに意気込まないで 「許し」が 

 No need to push yourself too hard to get through hard times.

 あなたを 苦しむ世界から 解放してくれる いつも いつも

 You’ll be free from all suffering you have in your life.
 Forgiveness will solve problems and bring you all happinesss.
 That’s fine like this,

 これでいい

 always.


 「感謝」ってなんだろう?

 I wonder what thanks means to you. Mu …

 勇気が いるから 生きるには

 You must be brave before moving forward in your life.

 その勇気を 奮い立たすのが 「感謝」 Ah …

 You always need to thank to gather courage in your life,
 that’s what you need. Ah …

 Ah … そんなに意気込まないで 「感謝」が 

 No need to push yourself too hard to get through hard times.

 あなたを 苦しむ世界から 解放してくれる いつも いつも

 You’ll be free from all suffering you have in your life.
 Gratitude will solve problems and bring you happinesss.
 Always deeply,

 ありがとう Oh … Mu … Woo …

 thank you Oh … Mu … Woo …

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言ってることとやってることは!? 戦後70年の安倍首相談話より


 本日、戦後70年目の節目として、安倍首相が談話を発表しました。いろいろ、「侵略」、「植民地支配」、「反省」、「お詫び」など過去の文言が盛り込まれるかどうか?、などと物議をかもしておりましたが、なんとなく波風立たない、常識的な文章に終始したようでありました。しかしながら、良い作文をして、それを読み上げる、あるいは暗記して発表することに、どれほどの意味があるのか?、「言ってることとやってること」が一致してこそ意味があるものと思われます。「音楽・芸術・演説等から」と題したカテゴリとして扱いますが、すごく評価するもものではないことをお断りしておきます。

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戦後70年の安倍首相談話 全文

安倍首相の70年談話

 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が日本にとって近代化の原動力となったことは間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は一千万人もの戦死者を出す悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で、日本は孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムはその歯止めたりえなかった。こうして日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前、日本は、敗戦しました。戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の哀悼の誠を捧げます。
 先の大戦では三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が無残にも犠牲となりました。
 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない苛烈なものです。一人一人にそれぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
 先の大戦への深い悔悟の念と共に我が国はそう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。ですから、私たちは、心に留めなければなりません。戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

 平成二十七年八月十四日

 内閣総理大臣 安倍晋三

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 当然の如く、戦争や植民地支配に対して批判する発言に終始しており、平和の尊さ歌い、我が国の歩むべき道を示しております。唯一の戦争被曝国として核兵器の不拡散をも訴えております。この談話を批判する意見は少ないところだと思います。まさに「言ってること」は正しいと言うところ、、、。
 では、「やってること」は?、思い返してみますと、安全保障法政、集団的自衛権の行使に向けて法整備、九条をはじめとする憲法の改正などと、日本が戦争をしやすい環境を整えつつあります。世界の平和を唱えつつ、武器輸出を強力に進めており、自国の利益のためならば、どこかの国で戦争をするお手伝いをしましょうと言う姿勢です。唯一の戦争被曝国でありながら原子力発電所(原発)を山ほど作って、しかもそれが事故を起こしておきながら、その原発を海外に輸出しようとしております。
 安倍首相の談話を見聞きして「言ってることとやってることは?」って思ったのは私だけではないと思います。


恋愛で人は成長する! 太田 裕美 さんの「青空の翳り」


 太田 裕美 さんの楽曲をご紹介します。彼女には「木綿のハンカチーフ」と言う大ヒット曲がありましたが、同じ失恋の曲でも、言葉少なに、心残りとその傷を癒して生きて行く姿勢を歌う「青空の翳り」に高いスピリッツを感じます。
 この曲を取り上げたのには理由があって、内閣府の「少子化白書」による最近の若者の恋愛に対するアンケート結果の記事に目が留まりました。「出会いが無い」、「自分に自信がない」、「恋愛感情に不安」、「どう声をかけるか分からない」と言った「恋愛下手」に加えて、「無理に結婚しない」、「恋愛が面倒」、「趣味や仕事を優先」、「興味がない」と言った「恋愛放棄」も見受けられました。まずは、その記事のご紹介から、、、。


◇ 恋人いない20-30代「出会いの場がない」55%、「恋愛が面倒」回答も 内閣府「少子化白書」

6:22 恋愛に関する記事 図

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 20-30代の恋人がいない未婚男女の約5割が、出会いの場がないことを不安に思っていることが22日、内閣府の結婚・家族形成に関する意識調査で分かった。一方、今は恋人が欲しくないとした未婚男女の約5割が「恋愛が面倒」と回答。恋愛に後ろ向きな若者の姿も浮かび上がった。

 こうした傾向は、若者の晩婚化・非婚化に拍車をかける恐れもあり、内閣府は「各自治体を通じて出会いの場を提供するなどさらなる対策を講じていきたい」と説明。調査結果を同日に閣議決定された平成27年版「少子化社会対策白書」に盛り込んだ。

 調査では「恋人が欲しいか」の問いに未婚男女の約6割が「欲しい」、約4割が「欲しくない」と回答。「恋人として交際する上での不安は何か」を複数回答で尋ねたところ、最も回答が多かったのは「そもそも出会いの場がない」(55.5%)。「自分は魅力がないのではと思う」(34.2%)▽「自分が恋愛感情を抱けるか不安」(20.5%)▽「気になる人にどう声をかけていいかわからない」(20.0%)が続いた。

 また、適当な相手にめぐりあわなかった場合の対応としては、「無理に結婚することはしない」が41.3%と最多となり、2位の「いろいろな方法を使って結婚相手を探す」の29.5%を引き離した。

 一方、「今は恋人が欲しくない」と答えた未婚男女にその理由を尋ねたところ、46.2%が「恋愛が面倒」と回答。「自分の趣味に力を入れたい」(45.1%)▽「仕事や勉強に力を入れたい」(32.9%)▽「恋愛に興味がない」(28.0%)が続いた。

 調査は全国の20-39歳の男女7千人を対象に、昨年12月~今年1月に実施し、2643人から回答を得た。

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【昨年12月〜今年1月 全国20-39歳の恋人がいない男女2643人の回答】

 ○恋人が欲しい:約6割
  ・出会いの場がない        55.5%
  ・自分は魅力がないのではと思う  34.2%
  ・自分が恋愛感情を抱けるか不安  20.5%
  ・どう声をかけていいかわからない 20.0%

 ○出会いが無かった場合の対応
  ・無理に結婚することはしない   41.3%
  ・いろいろな方法で結婚相手を探す 29.5%

 ○恋人が欲しくない:約4割
  ・恋愛が面倒           46.2%
  ・自分の趣味に力を入れたい    45.1%
  ・仕事や勉強に力を入れたい    32.9%
  ・恋愛に興味がない        28.0%



◇ 太田 裕美「青空の翳り」

太田裕美 青空の翳り ジャケット

 太田裕美「青空の翳り」カバー YouTube

 太田裕美「青空の翳り」

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青空の翳り

作詞 来生えつこ
作曲 浜田 金吾
歌  太田 裕美


悲しみをさりげなく 笑い話に
できる人は 素敵ね

喜びも穏やかに 飾り立てずに
話す人は 素敵ね

私も 心残り吹き消して 
過去には やさしく手を振るわ
あなたに こだわらず生きてゆく
余裕が 生まれて 来たけれど

春から 夏へ 移りゆく 
空は 爽やかすぎて
かえって 辛い季節だわ
あなたへの想い
私の心のすみずみまで 広がったまま


いつでも燃え尽きて 精一杯に
生きる人は 素敵ね

私も 青空に負けないで 
カラリと 心を解き放ち
あなたの 手紙やら束ねては
捨て去る つもりで いるけれど

風が さらって 行けるほど 
軽い 恋ではないし
涙で 溶かし ぼやけても 
あなたとの日々は
私の背中のすぐ後ろに 広がったまま

春から 夏へ 移りゆく 
空は 爽やかすぎて
かえって 辛い季節だわ 
あなたへの想い
私の心のすみずみまで 広がったまま

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 曲の1番も2番も、冒頭は強い他の人に対する尊敬の言葉で始まります。そして、自分も「心残り吹き消して、過去にはやさしく手を振るわ」、「私も、青空に負けないで、カラリと心を解き放ち」と、強がる姿勢が見られます。
 しかしながら、1番では「春から夏へ移りゆく、空は爽やかすぎて、かえって辛い季節」と季節から取り残された自分の心を歌い、2番では「風がさらって行けるほど軽い恋ではないし」と、はっきり失った恋への心残りを歌います。そして、「あなたへの想い、私の心のすみずみまで、広がったまま」、「あなたとの日々は、私の背中のすぐ後ろに、広がったまま」と、自分の正直な心境を述べて曲を閉じます。

 この女性が、この後にどうなるか? 私は、冒頭の強い他人への憧れと、たとえカラ元気でも、強がる姿勢を見せているこのヒトは、だんだんと時が解決して、立ち直って行くのではないかと思います。そういう、辛い時を乗り越える、そのちょっと前の時間を歌った曲と思います。

 人は、恋愛で傷つき、恋愛で辛い思いもしますけれど、恋愛で成長するものだと思います。この曲をどう解釈するか?、私は前向きな姿勢を感じる次第です。


◇ おわりに

 現代の若者が恋愛について抱いている感情、「恋愛下手」への悩み、逆に開き直って「恋愛放棄」の姿勢も、それは時代の流れの中で、直視せざるを得ない現実だと思います。これに対して良い悪いの評価は早計でしょう。一方、恋愛を歌った曲など、星の数ほどありますので、これが1番とは言えないのですが、太田 裕美 さんの「青空の翳り」の歌詞に現れる女性は、1つの失恋で陥った苦痛から立ち直ろうとしており、そうした過程を経て人間は何かを学ぶものと思います。恋愛をしたくてもできない若者、恋愛を自分から放棄する若者には、恋愛から得る人間としての成長が得られない、これも悲しい現実であります。

新天地に根を張り新しい人生を生きようとしている人に贈りたい! 元ちとせ「この街」


 ある古い友人、風の便りに、商売に失敗して遠くの街に移り住み、新しい仕事を始めているとのこと、人生の半ばを過ぎてからの、慣れない環境や新しい人間関係など、苦労を察します。こんな時、ある曲を思い出します。2002年から2003年まで放送された連続テレビ小説「まんてん」の主題歌で、元ちとせ さんの3枚目のシングル「この街」です。YouTubeのURLを貼付しましたので、まずは聴いてみて下さい↓。

 元ちとせ「この街」Cover曲 YouTube

この街 元ちとせ 写真

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この街

作詞 HUSSY_R
作曲 間宮 工
歌  元ちとせ



この街の空にも 星は瞬く
今はただ 姿を隠してるだけ

声が聞きたい
こんな夜だから
遠い距離(みち)を越えて

忙しく行き交う 人の波間に
混ざり合う 糸口も見つけられずに

落としたものが
あるような気がして
振り返る

どこに向かうのだろう
なにを探しだせるのだろう
足を止めることを知らない時の中

〜 アマヌフシ トゥミガ 〜

誇れるものに
出会えると信じて
この場所で

どこに向かうのだろう
なにを探しだせるのだろう
足を止めることを知らない時の中

どこに向かうのだろう
なにを探しだせるのだろう
足を止めることを知らない時の中

この街の空にも 星は瞬く

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 言葉少なにしっとりとした歌ですが、暗闇の手探りの中、不安に溢れる、そして、明るい未来は見えて来ない、そんな状況においても「誇れるものに 出会えると信じて この場所で」生きて行く強い意志が伝わって来ます。この気持ちを持っていれば、必ずや未来は開ける、自分の足で地面を踏みしめて歩んで行ける、そしていつか暗闇に「星は瞬く」、そんなスピリットを感じる楽曲です。


つんく♂氏の近畿大学入学式での祝辞

 喉頭がん治療のため療養していた音楽プロデューサー、つんく♂氏(46歳)が先週の土曜日、4月4日、自身の母校である近畿大学の入学式にサプライズで登場し、昨年10月にがん再発を公表後は初めて公の場に姿を見せました。新入生約7000人への祝辞の中で、声帯の摘出手術を受け、声を捨て生きる道を選んだことを告白し、新入生への激励の言葉を述べました。以下、入学式で発表された新入生への祝辞を全文でご紹介します。

近畿大学のつんく氏

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 平成27年度 近畿大学にご入学の皆さん 入学おめでとうございます!この大学の卒業生でもあります私「つんく♂」と申します。

 正直言いましょう、今日のこの入学式には、近畿大学にひっしのぱっちで入学した人。狙い定めた入った人。結果的に(滑り止めで)近畿大学に入った人。いろんな人がいるでしょう。でも、あなたにとってどの大学が正解だったんでしょうか…それはわかりません。ただ、ひとつ言えるのは、この先の人生で、あなた自身が「ああ、この大学に入ってよかったな。」という道を歩めば良いんだと思います。

 なぜ、今、私は声にして祝辞を読みあげることが出来ないのか…それは、私が声帯を摘出したからです。去年から喉の治療をしてきていましたが、結果的に癌が治りきらず、摘出するより他なかったから、一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選びました。
 そんな私に、「今年も近畿大学の入学式のプロデュースをお願いしたい!」と、この大学から依頼がありました。その時に思いました。「ああ、この大学を卒業してよかったな。こんな私がお役に立てるなら精一杯頑張ろう!」そう心に思いました。昨年末から何度も大学とメールでやり取りしたり、スタッフが伝言してくれたり、を繰り返しつつ、今日、この日を迎えました。KINDAI GIRLSの皆さん、吹奏楽、応援部の皆さん、その他たくさんの学生の皆さんが、今日の日の為に夢中でレッスンしたり、準備してくれました。「みんなで一緒に新入生を迎え入れよう!」と。

 ここまでの人生はもしかしたら受け身だった人もいるかもしれません。親が言うから…学校の先生がすすめたから…でも、もうすぐ皆さんは成人します。もう自分の人生を歩んで行くんです。後悔しても意味がないんです。今から進んでいくんです。自分で決めて進んで行けば、絶対に何かを得、そしてまた次のチャンスへと繋がっていくんだと思います。
 私も声を失って歩き始めたばかりの1回生。皆さんと一緒です。こんな私だから出来る事。こんな私にしか出来ない事。そんな事を考えながら生きていこうと思います。皆さんもあなただから出来る事。あなたにしか出来ない事。それを追求すれば、学歴でもない、成績でもない、あなたの代わりは無理なんだという人生が待っていると思います。

 近畿大学はどんな事にもチャレンジさせてくれます。だから何もしなかったら何もしないなりの人生をチョイスすることになるし、自分で切り開いていく道を選べば、きっと自分を大きく育てるようなそんな大学生活になるでしょう。仲間や友人をたくさん作り、世界に目をむけた人生を歩んでください。私も皆さんに負けないように、新しい人生を進んで行きます!

 だから最後にもう一度言わせてください。皆さん、近畿大学への入学、本当におめでとう!「ああ、良かった!」と思える大学生活をセルフプロデュースしてください! そして、今日のこの出会いに感謝します。ありがとう!

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 音楽家であり歌手でもあった、まだ40代の男性ががんに侵されて声を失う、その絶望の淵にありながら、後輩への激励の言葉を公表する、なかなかできることではないと思います。彼の不幸を告白され、その言葉を胸に人生を大事に生きて行くことを決意した若者は多数いたと思われると同時に、そうしたコメントを述べることで、自暴自棄にならず、不幸に打ち勝ち、今後の人生を精一杯生きて行く決意を、つんく氏が、自らに言い聞かしているような、そんな印象を受けました。今後のさらなるご活躍に期待いたします。

 1つYouTube動画のリンクをご用意しました。私が米国に留学していた1996年、小さな日本人向けマーケット「Tokyou」で日本のレンタルビデオを借りて観ていました。その中に同年4月からフジテレビで放映された「Age,35」(主演 中井貴一、田中美佐子)と言うドラマがあり、その主題歌「いいわけ」です。


「いいわけ」
 作詞・作曲 つんく
 編曲    シャ乱Q


シャ乱Q「いいわけ」YouTube動画

シャ乱Q ジャケット

石原 慎太郎 氏 引退会見

 いろんな意味で戦後の日本を代表する政治家、石原 慎太郎 氏が昨日、政界を引退することを正式表明しました。私は正直に、けっこう尊敬していました。「この人に全てを任したら大変なことになる!」と思うこともしばしばでしたが、発想や発言にブレが無い、日本のあるべき姿に対して確固たる信念がある、そんなふうに思っております。会見での言葉を拾って来ましたので掲載いたします。

石原氏引退会見

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晴れ晴れとした気持ちで政界去れる

 皆さん、こんにちは。僭越(せんえつ)でございますが、大してニュースバリューもないこの私が個人の資格で皆さんにこうやって大がかりな記者会見を申し込んだ理由は、私も延べ50年以上政治に携わってきたが、結局、今度の選挙でああいう結果になって、私は引退を決心した。ただ、(衆院選の)開票日に、いってはいけないが、自宅にまで浅薄なメディアの先兵が押しかけて、歩く途中もマイクを突きつけて「一言、二言」と(コメントを求められた)。そこで、後にゆっくり話させてくれということで、日本記者クラブにご厚意いただいて、この機会を設けさせていただいた。私が申し上げたいことを端的に申し上げて、皆さんに批判をいただきたい。

 結論から言えば、かねがね私はこの解散が決まったときに、選挙をきっかけに引退をするつもりだった。私自身も肉体的にひびが入ったりもして、見回してみると国会議員の中の最高齢者になった。これ非常に皮肉な話だ。かつては奥野誠亮さんという尊敬していた大先輩が、90歳を過ぎるまでかくしゃくとして国会議員を務められたそうだが、とても私にはその自信も能力もないので、これをきっかけに引退ということを声明しようと思った。

 この選挙で引退を決意した

 限られた仲間が「今引退されると党、選挙の趨勢(すうせい)に悪い影響を与えるから思いとどまってほしい」ということだった。特に若い議員からは連判状などもいただいた。いろいろ勘案して、選挙の事前に私が引退を声明することは仲間のためにもよろしくない、と判断した。それならば皆さんと、とにかく戦うと決心した。
 いずれにしても私は引退を覚悟で戦いをするわけだから、討ち死にを覚悟の出陣ということで、東京比例のランキングは一番最後してほしいことを、党の方も受け入れてくれた。ある意味で結論が知れていることだったので、空いている時間に仲間の応援に駆け回った。残念ながら風邪をひいたりして肝心の名古屋の大きな大会には出席できなかったが、仲間に対する義理だけは最低限、果たせたな、と思っている。

 討ち死に覚悟の出陣
 東京比例のランキングは一番最後


 私の実家の石原家は、武田武士の残党だった。武田家は(織田)信長に滅ばされて雲散霧消した。武田の赤備えというのは戦国時代有名だったそうで、武田武士を争って3つの藩が抱えたそうだ。1つは毛利藩、1つは井伊藩、もう1つは伊予藩だった。私の先祖は甲州から追われて伊予藩に抱えられたそうだ。
 かつての時代に弓矢の武功で禄を食(は)んでおって、家の家紋は黄金分立のきかない「7つ矢」だ。珍しい家紋だ。正月に赤塗りのお膳で家族そろって雑煮を食べたりするときに、据えられたお膳に7つの紋が記されているな、と印象深く覚えている。
 母の方の略紋は三ツ矢サイダーに似た3つの紋だったが、7つの紋はなかなか日本に珍しい家紋で、私もいわれを聞かされて子供心にプライドを持っていた。石原家の弓で勝ち取ったわが家の家訓は、「明日の戦 己はむなしと心得べし」という。これは武士の家訓としてもなかなかいい家訓だなと思った。

 石原家の家訓「明日の戦 己はむなしと心得べし」

 それを受けて私は討ち死に覚悟というか、本当なら引退を声明して退くべきだと思ったが、やっぱり仲間の若い武士たちのために自分も一緒に戦って、恥ずかしいことだが落選という形の討ち死にすることは 自分の1つの宿命かな、と思って決心をした。私からこの選挙についてのかかわりについて申し上げることはそれだけだ。

 落選という形の討ち死には自分の1つの宿命

 振り返ってみると、参院の全国区から始まって、衆院を25年務め、インターバルをおいて、思うところあって都知事に就任した。できるだけのことはやったつもりだ。政治家として、どの国も物書きが政治に参画、コミットするのは例がないわけではない。ゲーテとか、(フランスの)ドゴール(大統領)の文化相を務めた(アンドレ)マルローの例もある。
 印象的だったのは激しい最初の、自民党からの優秀な人材が5、6人出た選挙で何とか都知事になったとき、縁があって日本に来られたときに2日ほどお会いして旅もした、マルローなんていう人は印象的な人物だったが、アンドレ・マルローの未亡人から私に「知事になって頑張れ」という手紙をもらったのを覚えている。

 今までのキャリアの中で歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは私にとって、政治家としても物書きとしてもありがたい、うれしい経験だったという気がする。それをもって、私が欣快(きんかい)として今、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるな、という気でいる。1つご理解いただきたい。


本当は「新党ヤマト」でいけばよかった

 --今回の選挙では石原氏が落選の“討ち死に”をしたほか、次世代の会のほとんども“討ち死に”をした。もともと地盤の強かったベテラン2人だけしか生き残らなかった。この結果について。

 「次世代の党」という党名そのものに私は異議を呈した。非常にわかりにくいというか、説明しなくてはなかなか意思が伝わらないネーミングだった気がする。私は小説家だから、自分としても自負しているが、小説の名前を付けるのは割とうまい方だ。政党の名前としてはどうも問題があるなと。
 いくつか他にも案があった。昔、私たちがつくった「黎明(れいめい)の会」とか。それとこれは(次世代の党党首の)平沼(赳夫)君が言い出したと思うが、富士山の名前をとって「新党富士」というのも良いじゃないかとね。でも、「ふじ」という名のリンゴがあるのでネーミングとしてバッティングすると。
 それから私が一番良いと思ったのはカタカナで「新党ヤマト」だ。これまた「宇宙戦艦ヤマト」というアニメがあって紛らわしい。私は本当は「新党ヤマト」でいけばよかったと思ったが、過ぎたことだから愚痴でしかない。ただ、やっぱり党名が浸透しにくい名前だった。(選挙戦の)時間がなかった。
 維新の会と一緒だったが、分党になった。分党するときに、橋下(徹)くんと肝胆相照らした。私の人生の中で、彼と知己を得たのは快事の一つだと思っているが、やっぱり大阪維新の会が発売元本舗だから、「維新」の名前を私たちがひねって使うのは失礼だと思うし、遠慮した。結局、党員全体で投票して「次世代の党」という名前を選んで、この結果になった。

 --次世代の党が選挙戦で前面に打ち出したのは自主憲法制定だった。それに対する世の中の評価については。

 憲法は良い意味でも悪い意味でも、これだけ日本社会に定着してしまうと、国民の関心はあまりない気がする。本当に憲法を変えなくてはいけないと考えている人は、残念ながら希少な存在でしかなくなったと思う。

 本当に憲法を変えなくてはと考える人は希少

 皆さんもメディアの方々だから文章について講釈するのはうるさいことだと思うが、あの醜い前文ひとつを見ても、間違いが非常に多い。私も最後の予算委員会で安倍(晋三)総理に話したが、言葉には助詞、動詞、形容詞、いろいろあり、助詞も非常に大事な要素だ。この助詞の間違いが前文にたくさんある。例えば「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という部分だが、人にお金を貸すとき、「あなたに信頼してお金を貸します」とは言わない。やっぱり「信義を信頼」だ。
 かつてシェークスピアを訳した福田恒存さんと前文の話をしているとき、「石原君、勘定してごらん。5つも6つも7つも8つも助詞の間違いがあるぞ」と言う。私も本当にその通りだと思う。9条を変えるとなると大事になるから、せめて「に」だけは国文学者を集めて、変えようじゃないかと総理に言った。それが蟻の一穴となって憲法を変えることができるんじゃないかと。安倍さんは残念ながら答えませんでしたな。

 憲法における助詞の間違いの多さ

 --石原氏はかつては300万票を得票したこともある。その石原氏が比例で出馬しながら、これだけ集票が落ちた。

 私に対する投票じゃなく。誰かが言っていたが、「比例の一番初めに石原さんの名前が挙がったらおそらく票数も違ったのではないか」と。でもそれはわからない。うぬぼれているわけじゃないから。選挙の結果はいいでしょう。もう勘弁してください。

 --今回の選挙で自公3分の2体制になったが、民意は何を示したと評価するか。

 それを逆に明かしているのは共産党の躍進だと思う。なんというか、今回、共産党に多くの支持が集まったのは、いま自分たちを囲んでいるもろもろの社会的な現実に対する、みんなが漠として感じている現況への不満の社会心理学的なリアクションだと思う。何が不満かというと、色んな格差が出てきた。

 共産党躍進は格差への社会心理学的リアクション

 例えば私たちがあえて「次世代」という言葉を使ったのも、これから日本を担っていく20代、30代の人にあまり希望がないからだ。結婚できない。しても子供をつくれない。なんていうかなあ、人生の黎明(れいめい)期にいる20代の人間が、自分の人生に対して大きな期待を持てない。そういう現象がある。

 人生の黎明期の20代が自分に人生に期待を持てない

 例えば経済一つにしても、私は新聞を読まずに主にテレビで情報を拾っているが、ニュースの度に、経済を評価する指標に株の値段があげられる。経済動向を測るメジャースティックに株の値段が真っ先に取り上げられる。私はあまり良いことじゃないと思う。ほとんどの人が株なんてやってない。
 確かに株価は2倍になった。でも株価が何を表しているかというと、経済界の上層部、つまり上場を果たしている企業の内容だ。それだけをもって、日本全体が良くなっている、国民の生活が向上しつつある、そういった判定を下すには確かな指標にはならないと思う。その不満や不安がこの結果になった気がする。

 株価を経済の第1の指標とする間違い

 それとメディアの怠慢だと思う。前から言ってきたが、なんで日本の会計制度を変えないのか。日本は単式簿記で大福帳の域を出ない。どんな国でも複式簿記ですよ。日本は国家の財政運営に財務諸表がない。バランスシートがない。そんな近代国家はないですよ。国家の体をなしている国で、日本と同じように大福帳の域を出ないのは、私の知る限り北朝鮮とフィリピンとパプアニューギニアぐらいですな。

 日本の会計制度の問題
 単式簿記より複式簿記
 財政運営に財務諸表、バランスシート


 メディアが頑張って、少し勉強して、声を起こして経済界が動いたらこの国は変わってくると思う。国の借金は1兆円近くあると言いながら、個人の持っている金融資本は1250兆くらいある。このギャップが埋められない。


橋下徹は若いときの田中角栄

 --橋下徹という政治家について、今後の彼の生き方も含め、どんな思いでみているか。

 彼は天才ですね。私は絶対、彼は(衆院選に)出るべきだったと思っている。前日まで私は何度も電話をして口説いた。彼は彼なりの言い分で、「自分はちょっと風呂敷を広げすぎたから、これを畳まなくちゃいかん」と。風呂敷って何か。大阪都構想ですよ。よくわかりにくい言葉だが、つまり東京に並ぶ大都市である大阪の復活ということだ。
 私は大阪が衰退するということは、日本の衰退だと思う。橋下君も感じていると思うし、安倍総理にしても自民党の政治家も、大阪というものをもう少し持ち上げないと、日本のバランスが取れないと痛感していると思う。
 橋下君はそれを念願するんだったら、国会に出てくるべきだ。安倍君とも(菅義偉)官房長官とも親しい仲らしいし、そういった人脈を通じて、とにかく国会で内閣を動かさないと大阪は持ち上がってこない。僕は絶対、彼は出るべきだったと思う。

 --しかし出なかった。

 出なかった。本当に残念だ。私は彼に「君は大阪の井戸の中にいて、なかなか大海が見えていない。一回、井戸から出て、国会議員になって、日本を全部眺めろよ」と言ったが、残念ながら忌避した。

 橋下くん、大阪の井戸から出て日本全部を眺めろよ!

 --橋下氏は総理になる器か。総理になる可能性はあるか。

 僕はあると思う。あんなに演説のうまい人をみたことない。言葉の調子は違うが、田中角栄だね。若いときの。それから例が良くないかもしれないけど、彼の演説のうまさ、迫力というのは若いときのヒトラーですよ。ヒトラーは後にバカなことをしたが。
 ドイツの外交官が「石原さん、ヒトラーは悪名を被っているが、若い時にやったことは間違っていなかった。ただ、ユダヤ人を偏見で虐殺したことは許せないが」と言っていた。私はその言葉を是とするし、橋下徹ってのは彼に該当する政治家だ。惜しいことをしたなあ。彼は必ずもう一回でてくるだろう。再登場すると思う。させなきゃいかんですよ。

 --石原氏は(前東京都知事の)猪瀬直樹氏に副知事を経験させ、後継に指名したが、(医療法人徳洲会グループから)5千万円の提供を受けて問題になった。誤算だったか。

 それはわからないが、私は彼を評価している。物書きのくせにあんなに数字に精通して、数字の虚構を見破ることできる男を私は知らなかった。それから役人が体裁の上でつく嘘を見破るのも非常にうまい。彼は日本でも一流のノンフィクション作家だったから、そういうリサーチ能力は非常にあった。非常に惜しい人を失ったと思う。東京のためにも大きな損失だった。

 --その5千万円をいただいた相手は(「徳洲会」前理事長の)徳田虎雄氏だった。徳田氏はもともと石原さんのファンであり支持者だったが、違和感はなかったか。

 むしろ私が徳田さんのファンだ。彼は本当に日本のシュバイツァーといっていいのか、見事な志を持った大事業家だと思う。日本の医師会が彼に反発し、自民党が彼をボイコットしたのは間違いだと思う。彼だけの自己犠牲を踏まえて病院の経営で人を助けた人がいますか。

 --猪瀬氏から石原氏に相談はなかったのか。

 ない。個人の金融の問題ですから。

 --数ある歴史の十字路の中で、忘れ得ない十字路は。

 私は日本の国会議員として初めてアメリカの戦略基地を訪れた。(元首相の)佐藤(栄作)さんが向こうの国務省にはかってくれたんだろうが。佐藤ってすごい人だと思う。沖縄返還交渉で非核三原則を唱えながら、アメリカの大統領のジョンソンに「日本は核を持ちたい、日本の核について協力してくれ」って言って断られている。それを諦めた後、沖縄返還の時にニクソン(元米大統領)と丁々発止やりながら、ドイツと一緒に核開発をしようと思って話をもちかけている。これだけの大きな二枚舌を使った政治家はいないと思う。

 佐藤栄作元首相の大きな二枚舌

 私はそれで「アメリカの核の抑止力はない、アメリカの核の傘というのは全く信用できない」ということを暴いた。そのおかげで私は核保有論者にされたが、あの体験は日本に覚醒をもたらしたと思うし、自分にとっても歴史的な十字路に立ったポイントだと思っている。


共産中国は嫌い 中国の若者は共産党独裁の壊滅を!

 --(中国人記者)中国人が石原先生にどういう質問があるかインターネットで集めた。3つの質問に絞って質問する。

 絞って3つ?

 --先生は本当に中国が嫌いか。また嫌いだとしたらどういう理由か。

 嫌い。共産主義も嫌い。共産中国嫌いだ。あなた方がチベットをなくしたんだ。

 --東京都が尖閣諸島を買おうという運動で日中関係は悪化した。今の結果は望んでいるか。日中関係はこれからどうすればいいか。

 もうちょっと頭冷やして、共産党の独裁というのを壊滅させることだ。それがあなたも含めて幸せなことではないか。

 --中国の若者に対してメッセージを。

 自分の人生を自由闊達に開いていくために共産党の独裁というのを壊滅させなければだめだ。

 --石原先生がかつて自民党にいる時は「変わった人」と思われていた。最近の自民党は、かつて石原先生がおっしゃってたことと同じようなことを言っている。これを見ていて自民党はよくなっているとお考えか。それとも悪くなっているとお考えか。

 僕と同じ事をどんな人が言っているのか。

 --自主憲法制定まではいかないが、憲法改正を唱えている方は今の自民党内では半数を…。

 当たり前じゃないですか。自民党の党是じゃないですか。

 --青嵐会をやっているころは、例えば河野洋平さんのような憲法改正反対の方が相当おられたような気がしませんか。

 さあ。河野君というのは全く例外的な人物で、私は大嫌いですけど。

 --「晴れ晴れした気分」とおっしゃったがそうは見えない。実際悔いはないか。正直なところを。

 悔いはありませんな。サバサバした気持ちだから。

 --本当にこれで終わりなのか。終わりなら次は何をするのか。今日は田中角栄元首相の命日だが、宿敵の田中角栄氏と、長期政権になるであろう安倍晋三首相に政治家として何を言い残すか。

 安倍さんには初志貫徹してもらいたい。しかし、角栄という人物は素晴らしかった。あんなおもしろい人はいなかった。私はかつて若い仲間と選挙権を18歳に下げようというキャンペーンをやった。選挙権を18歳に下げようという会合をやるために「自民党のホールを貸してくれ」と申し込みに行った。幹事長は田中角さん。角さんが「何に使うんだ」と言うから、「選挙権を18歳に下げるキャンペーン」と言ったら、「馬鹿なことを言うな。馬鹿なことを。何を馬鹿なことを言っているんだお前。選挙権は25歳でいいんだ。25歳で。頭冷やせ馬鹿」と言われて、私は後になってその通りだなと思った。成人式に親を連れてこなくちゃいけない連中が多い時代に18歳まで選挙権下げるのは間違いだ。絶対反対だ。25歳で十分だ。

 --ロッキード事件の背景に角福戦争があったのか。それともアメリカの謀略か。

 日本のエネルギー問題でウラニウムの取得というものをアメリカルートじゃなくて自分で開発しようと動きだした。これはアメリカの虎の尾を踏んだと思う。しかもロッキード裁判というのはめちゃくちゃな裁判だ。アメリカの刑法を日本に持ち込んできて、向こうでやった免責証言は日本の裁判で使われて、しかもそれに対する日本側の反対尋問を許さない。こんなでたらめな暗黒裁判はない。

 ロッキード裁判はめちゃくちゃな裁判

 --本当にやめるのか。やめるとしたら今後何をするのか

 何かやります。アラブや東南アジアの芸術家との交流をやろうと思う。内外の若い芸術家を育てる仕事をしていきたい。


尖閣の中国公船 私なら追っ払う

 --週刊誌で「シナと戦争して勝つこと」と発言。文学者としての発言なのか、政治家としての発言か。日本政府が尖閣諸島を国有化した後に海域の緊張が続いている。

 私が首相なら追っ払う。ある週刊誌のインタビューで「一番したいこと」を聞かれたので「シナと戦争して勝つこと」と。私は日本人として言った。

 --衝突が起きてもいいのか。

 衝突を仕掛けているのは中国だ。けんか仕掛けているのは向こうだ。日本の領海に入っているのはシナ人の方だ。頭を冷やした方がいいよ、シナの人は。

 --メディアには政治家をどう扱ってほしいか。

 お互い人間だから問われたことに対して簡潔に分かりやすく話したか話さなかったかはある。メディアも相手の言論に対する理解力が足りないと思う。

 --政界を引退したらヨットレースをするか。

 今でも暇な時は乗っている。今年の夏も2つほどレースで優勝した。来年もまだ生きてて元気だったらレースの試合をしたいと思う。

 --若い芸術家の育成以外にトライしてみたいことがあれば。

 新しくつくった財団で、アラブとか東南アジアとか、日本人と違った感性を持っている若い芸術家がいるから、そういう人たちに日本に来てもらい、刺激を受けて、新しい芸術を世界のために展開してもらいたい。その手伝いをできるだけするつもりだ。

 --政治生活で成し遂げたことは何か。心残りは何か。

 小さなことで都知事の立場でやれたことはいくつかあった。ただ、痛快だったのは日本の経済使節団が中国に行った。周恩来が「これからいかなる日本人も歓迎する」と言った。経済人が「青嵐会も歓迎するか」と聞いたら、周恩来が呵々大笑(かかたいしょう)して「私は彼らを非常に評価している。青嵐会の人たちは昔の日本人ですね」と発言したそうだ。心残りは憲法が一字も変わらなかったことだ。

 --都知事時代に東京五輪招致の道筋をつけた。

 都知事時代に招致運動で敗れはしたが、一回灯したたいまつだからもう一回火をつけようということで、在任中だったがもう一回チャレンジをすることを権限で決めた。皆が頑張って、世界の情勢もずいぶん変わったのだろうが、東京に決まったということで、たいまつの火を消さずにいてよかったなあと思っている。

 --憲法改正に対する国民へのメッセージは。

 もう一回前文だけでも読み直してもらいたい。あんな前文を持っている憲法は世界中にない。

 --今の心境は。

 いくつで死ぬか知らないが間もなく死ぬのだろう。死ぬまでは言いたいことを言って、やりたいことをやる。人から憎まれて死にたいと思う。

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フランク・シナトラ「マイ・ウェイ」の 死の床から人生を振り返るスピリッツ

 堅苦しい「出来事」系の記事が続いてお目を煩わしました。今夜は、フィギュアスケート、2014年グランプリシリーズ第6戦、NHK杯を観ました。今シーズンからボーカル(歌詞)入りの曲が認可され、すごく新鮮な感覚で観られる選手がおり、総合10位で終わったイヴァン・リギーニ(イタリア)と言う選手もそうでした。彼のフリーのテーマには、20世紀を代表する歌手の1人、故フランク・シナトラ氏(Francis Albert "Frank" Sinatra、1915年12月12日 - 1998年5月14日)が歌う「マイ・ウェイ(My Way)」が盛り込まれており、今回はこの曲について勉強いたしました。

マイ・ウェイ My Way

原曲:Comme d'habitude(仏、1967年)

作曲:クロード・フランソワ(仏)、ジャック・ルヴォー(仏)
作詞:ポール・アンカ(カナダ)
歌 :フランク・シナトラ(米、1969年)


 主人公の男性が、自分の死が近付く死の床にあって、自分の人生で起こったすべての苦難に対して行ったことについて、後悔せず自信を持っていることを語る内容であります。なお、ポール・アンカが書いた詞の内容は原曲の内容とは無関係とされます。また、「マイ・ウェイ」は、カバーされた回数が史上第2位、第1位はビートルズの「イエスタデイ」とされます。

フランク・シナトラ画像

↓フランク・シナトラ「マイ・ウェイ」YouTube画像
フランク・シナトラ「マイ・ウェイ」動画

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And now, the end is near.

そして今、終わりが近づいている。

And so I face the final curtain.

僕の前に人生最後の幕が降りようとしている。

My friend, I'll say it clear, I'll state my case, of which I'm certain.

友よ、はっきりと言おう、僕は確信を持って言うことが出来る。

I've lived a life that's full.

僕は人生を精一杯生きてきた。

I've traveled each and ev'ry highway.

僕はどんな道も全ての道を避けずに歩んで来た。

And more, much more than this, I did it my way.

そして更に、それ以上に自分の道を歩んで来た。


Regrets, I've had a few, but then again, too few to mention.

後悔、それは、少しはあった、でも、それはいまさら、言う程の事ではない。

I did what I had to do, and saw it through without exemption.

僕は己のするべきことをして来た、そして、目を逸らすことなく、それを見据えた。

I planned each charted course.

僕は自分で人生の設計図を立てた。

Each careful step along the byway, and more, much more than this, I did it my way.

自分で立てた人生の設計図をもとに遠回りをしながらも慎重に歩み、更には、それ以上のことを自分なりの方法で成し遂げた。


Yes, there were times, I'm sure you knew when I bit off more than I could chew.

そう、君は確かに知っている、僕は自分では噛み切れないものに噛み付いたことはあった。

But through it all, when there was doubt, I ate it up and spit it out.

だけど、どんな時でも、疑問が残ればそれを食い尽くしてからそいつを吐き出してやった。

I faced it all and I stood tall, and did it my way.

僕はひるむことなく何にでも立ち向かい、自分の道を生きて来た。


I've loved, I've laughed and cried.

僕は愛し、笑い、そして泣いた。

I've had my fill, my share of losing.

欲しいものは手に入れたけれど、失うこともあった。

And now, as tears subside, I find it all so amusing.

そして今、涙は乾き、僕は楽しい思いで一杯になったのを感じている。

To think I did all that and may I say not in a shy way, "Oh no, oh no not me, I did it my way".

僕がして来た全てのことを考えると、「ああ、いや、そうではないんだよ、僕は、自分の信じることをして来たんだ!」と、ためらい無く言える。


For what is a man, what has he got?

男として何をすればいいのか、何を得れば良かったのか?

If not himself, then he has naught to say the things he truly feels, and not the words of one who kneels.

もし自分を偽れば、本当に感じた事を言う事も出来なければ、祈りの言葉も口にすることは出来ないだろう。

The record shows I took the blows, and did it my way!

僕の人生の足跡は、僕が戦いながら、自分の信ずるままに生きてきた証なのだ!


Yes, it was my way.

そう、それが僕の生きる道だった。

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映画「ランボー」に観るPTSD(再掲)

 カテゴリの追加見直しに伴い、過去の文章を分割して再投稿といたしました。PTSDについて記事にしたものです。

 日本における心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder, PTSD)は、1995年の阪神・淡路大震災および地下鉄サリン事件、2000年 新潟少女監禁事件、2005年 JR福知山線脱線事故 以降、よく指摘される病態となって来たと申しましたが、その1995年の13年前、今から30年以上前の1982年に公開されたアメリカ映画「ランボー」ではまさにPTSDを題材としておりました。
 シルヴェスター・スタローンが演ずるベトナム戦争からの帰還兵を通じて、反戦映画、戦場から帰った軍人への社会の冷たい目、そういった題材に加えて、「死に至るほどの重症な外傷や心に加えられた衝撃的な傷が原因となって、様々なストレス障害を引き起こす疾患」、まさにPTSDをまざまざと紹介されています。以下、コピーで恐縮ですがストーリーと映画のシーンを供覧いたします。

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ランボー

監 督 テッド・コッチェフ
脚 本 マイケル・コゾル、ウィリアム・サックハイム、
    シルヴェスター・スタローン
原 作 ディヴィッド・マレル「一人だけの軍隊」
出演者 シルヴェスター・スタローン、リチャード・クレンナ、
    ブライアン・デネヒー
音 楽 ジェリー・ゴールドスミス
主題歌 ダン・ヒル「It's a Long Road」

ランボー02

 1981年12月のワシントン州。ベトナム帰還兵ジョン・ランボーは、ベトナム時代の戦友を訪ねて山間の田舎町を訪れる。しかし戦友は、戦争で浴びた化学兵器の後遺症で癌を患い、既にこの世を去っていた。戦友宅を辞去し、食事をとるため街へ入ったランボーに、保安官ティーズルが声を掛ける。ティーズルはランボーがトラブルを起こしそうな身なりや顔つきだと見るや、街を出ていけと高圧的な態度で告げ、ランボーをパトカーに乗せて市街地の外れへと追い出す。それでも来た道を戻り街へ入ろうとするランボーを、ティーズルは浮浪罪とサバイバルナイフ所持で逮捕し保安官事務所へと連行する。

 事務所の取調室に入れられたランボーに、ベトナム時代に囚われの身になった時の事がフラッシュバックする。取調べにあたる保安官達はフラッシュバックにより沈黙するランボーに対し、取り調べに協力的でないとして高圧的に接し、拷問じみた嫌がらせを行う。そしてランボーの髭を剃ろうと羽交い絞めにし、シェービングクリームも付けずにその顔へ剃刀を近付けた瞬間、ランボーの脳裏に、かつてベトナムで受けた拷問の様子が鮮烈に蘇ってくる。その場にいた保安官全員を素手で叩きのめし、ランボーは没収されたナイフを奪い返して山中へと逃走する。

ランボー01

ランボー02

ランボー03

ランボー04

ランボー05

ティーズルは部下を率いて山狩りを開始し、絶壁まで追い詰める。しかしヘリに乗っていた保安官が独断でランボーの射殺を図り、身を守ろうとしたランボーが投げた石によってヘリから転落し、命を落とす。「これは事故だ、彼を殺す意志はなかった」と戦闘の停止を呼びかけるランボーに対し、死んだ保安官の独走を知らないティーズル達は仇討ちとばかりに発砲。これをきっかけにランボーは反撃へと転じ、グリーンベレー仕込みのゲリラ戦で保安官達を1人ずつ無力化し、最後に残ったティーズルの喉元にナイフを突き付けて「この山では俺が法律だ」と言い残し、山奥へと姿を消す。

ティーズルが麓へ戻ると、州警察と州兵によって組まれた対策本部へ、国防総省からサミュエル・トラウトマン大佐が派遣されてくる。ランボーのベトナム時代の上官である大佐は、ゲリラ戦においてランボーがどれだけ優秀な兵士であるかを語り、被害を最小限に抑えるため、一旦ランボーから手を引いて山から下ろし、別の街へ移動したところを改めて逮捕することを提案する。しかしティーズルは自分の手でランボーを捕えることに固執し、大佐の案を聞き入れない。ランボーを説得するため、大佐はベトナム時代のコールサインを使って無線で呼び掛ける。応答したランボーは、ベトナム時代の戦友たちが彼を除いて全員死んだことを伝えつつ、先に仕掛けてきたのは保安官達だと告げ、投降の意思がないことを明確に表す。

夜が明け、ランボーがねぐらにしていた廃坑を州兵が包囲する。戦闘慣れしていない州兵たちはランボーの戦闘力に恐怖し、ティーズルが生け捕りにしろと言うのも聞かず、坑道にロケット弾を撃ちこんでランボーを生き埋めにする。跡形もなく崩れ落ちた廃坑を見て、州兵、州警察、ティーズルは、ランボーの死を確信する。しかし生きていたランボーは坑道の中をひたすら進み、出口を見つけて地上へと脱出。そして通りかかった州兵のトラックとM60機関銃を強奪して再び街へと姿を現す。

ランボー06

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ランボーはガソリンスタンドを爆破して街の注意をそちらに向けた後、保安官事務所の電源を断って近所の銃砲店を破壊し、保安官事務所に乗りこむ。ティーズルは天井の吹き抜けに潜んで待ち伏せていたが、ランボーに返り討ちにされ、重傷を負う。とどめを刺そうとするランボーの前に、大佐が現れる。周囲は完全に包囲され、もう助かる見込みはない、投降しろ、戦いは終わったと告げる大佐に、ランボーは「まだ終わっちゃいない!戦争は続いている!」と絶叫する。そしてその口から、戦争終結から7年経った現在でも続くトラウマと悲劇が語られる。

戦争に負けて帰還した時に浴びせられた反戦デモの罵声。ベトナムの戦場には助け合える友人がたくさんいたのに、本土では誰も助けてくれない。100万ドルの兵器を使いこなした歴戦の勇士でも、本土では駐車場の警備員の仕事にすら就けない。そして今なお悪夢として自分を苛む、博打好きだった親友の無惨な爆死。戦友とは、この戦争が終わったらラスベガスでスポーツカー(吹き替え版ではシェビー)を乗り回そうと楽しそうに語って、約束していたことも。ランボーはまるで子供のように泣きじゃくり、凄惨な事件の背後にある悲劇を知った大佐は、ただランボーをその胸に抱きとめることしかできなかった。

そしてランボーは投降。救急車で搬送されるティーズルを横目に大佐の手で連行されていき、事件は終結する。

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チャネラーなのでは? ノーベル平和賞、マララ・ユスフザイさん(当時16歳)の国連本部での演説

 「日本の憲法九条をノーベル平和賞に!」との気運もありましたが、本年のノーベル平和賞はパキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)とインドのカイラシュ・サトヤルティ氏(60)に決まりました。
 史上最年少での受賞となったマララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai、1997年7月12日 -)さんはパキスタンのフェミニスト、人権運動家で、ちょうど2年前の2012年10月9日(当時15歳)、通っていた中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていたところを複数の男に銃撃され、頭部と首に計2発の銃弾を受け負傷しました。犯人は武装勢力パキスタン・ターリバーン運動(TTP)のメンバーとされ、女性に対して教育を受ける権利はないと主張する立場でありました。
 彼女の思想と「日本の憲法九条」のどちらがノーベル平和賞に値するか?、彼女の16歳の誕生日、2013年7月12日、ニューヨークの国連本部で、「すべての子どもに教育を受ける権利の実現を」と訴えた演説を供覧します。彼女のスピリッツに大いに共感し、スピリチュアルの周辺記事といたします。↓↓以下をクリックいただければYouTube動画を供覧できます。

マララ・ユスフザイ 2013年7月12日、ニューヨーク国連本部における演説

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マララ・ユスフザイ

国連本部における演説 和訳

マララ写真

 慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において、パン・ギムン国連事務総長、ブク・ジェレミック国連総会議長、ゴードン・ブラウン国連世界教育特使、尊敬すべき大人の方々、そして私の大切な少年少女のみなさんへ、アッサラーム・アライカム(あなたに平和あれ)。

 今日、久しぶりにこうしてまたスピーチを行えてとても光栄です。このような尊敬すべき人たちと共にこのような場にいるなんて、私の人生においても、とてもすばらしい瞬間です。そして、今日、私が故ベナジル・ブット首相のショールを身にまとっていることを名誉に思います。

 どこからスピーチを始めたらいいでしょうか。みなさんが、私にどんなことを言ってほしいのかはわかりません。しかしまずはじめに、我々すべてを平等に扱ってくれる神に感謝します。そして、私の早い回復と新たな人生を祈ってくれたすべての人たちに感謝します。私は、みなさんが私に示してくれた愛の大きさに驚くばかりです。世界中から、温かい言葉に満ちた手紙と贈り物をもらいました。それらすべてに感謝します。純真な言葉で私を励ましてくれた子どもたちに感謝します。祈りで私を力づけてくれた大人たちに感謝します。私の傷を癒し、私に力を取り戻す手助けをしてくれたパキスタン、イギリス、アラブ首長国連邦の病院の看護師、医師、そして職員の方々に感謝します。国連事務総長パン・ギムン氏のGlobal Education First Initiative(世界教育推進活動)と国連世界教育特使ゴードン・ブラウン氏と国連総会議長ブク・ジェレミック氏の活動を、私は全面的に支持します。みなさんのたゆまないリーダーシップに感謝します。みなさんはいつも、私たち全員が行動を起こすきっかけを与えてくれます。

 親愛なる少年少女のみなさんへ、つぎのことを決して忘れないでください。マララ・デーは私一人のためにある日ではありません。今日は、自分の権利のために声を上げる、すべての女性たち、すべての少年少女たちのためにある日なのです。何百人もの人権活動家、そしてソーシャルワーカーたちがいます。彼らは人権について訴えるだけではなく、教育、平和、そして平等という目標を達成するために闘っています。
 何千もの人々がテロリストに命を奪われ、何百万もの人たちが傷つけられています。私もその1人です。そして、私はここに立っています。傷ついた数多くの人たちのなかの、一人の少女です。私は訴えます。自分自身のためではありません。すべての少年少女のためにです。私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声が聞こえてこない「声なき人々」のためにです。それは、自分たちの権利のために闘っている人たちのことです。平和に生活する権利、尊厳を持って扱われる権利、均等な機会の権利、そして教育を受ける権利です。

 親愛なるみなさん、2012年10月9日、タリバンは私の額の左側を銃で撃ちました。私の友人も撃たれました。彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。でも失敗しました。私たちが沈黙したそのとき、数えきれないほどの声が上がったのです。テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。私はこれまでと変わらず「マララ」のままです。そして、私の志もまったく変わりません。私の希望も、夢もまったく変わっていないのです。
 親愛なる少年少女のみなさん、私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロリストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありません。ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっきりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たちのために教育が必要だと思うのです。私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。これは、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継がれた変革という財産なのです。これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。そして、これは私の父と母から学んだ「許しの心」です。まさに、私の魂が私に訴えてきます。「穏やかでいなさい、すべての人を愛しなさい」と。
 親愛なる少年少女のみなさん、私たちは暗闇のなかにいると、光の大切さに気づきます。私たちは沈黙させられると、声を上げることの大切さに気づきます。同じように、私たちがパキスタン北部のスワートにいて、銃を目にしたとき、ペンと本の大切さに気づきました。

 「ペンは剣よりも強し」ということわざがあります。これは真実です。過激派は本とペンを恐れます。教育の力が彼らを恐れさせます。彼らは女性を恐れています。女性の声の力が彼らを恐れさせるのです。
 だから彼らは、先日クエッタを攻撃したとき、14人の罪のない医学生を殺したのです。
だから彼らは、多くの女性教師や、カイバル・パクトゥンクワやFATA(連邦直轄部族地域/パキスタン北西部国境地帯)にいるポリオの研究者たちを殺害したのです。だから彼らは、毎日学校を破壊するのです。なぜなら、彼らは、私たちが自分たちの社会にもたらそうとした自由を、そして平等を恐れていたからです。そして彼らは、今もそれを恐れているからです。
 私たちの学校にいた少年に、あるジャーナリストがこんなことを尋ねていたのを覚えています。「なぜタリバンは教育に反対しているの?」。彼は自分の本を指さしながら、とてもシンプルに答えました。「タリバンはこの本の中に書かれていることがわからないからだよ」。彼らは、神はちっぽけで取るに足りない、保守的な存在で、ただ学校に行っているというだけで女の子たちを地獄に送っているのだと考えています。テロリストたちは、イスラムの名を悪用し、パシュトゥン人社会を自分たちの個人的な利益のために悪用しています。パキスタンは平和を愛する民主的な国です。パシュトゥン人は自分たちの娘や息子に教育を与えたいと思っています。イスラムは平和、慈悲、兄弟愛の宗教です。すべての子どもに教育を与えることは義務であり責任である、と言っています。

 親愛なる国連事務総長、教育には平和が欠かせません。世界の多くの場所では、特にパキスタンとアフガニスタンでは、テロリズム、戦争、紛争のせいで子どもたちは学校に行けません。私たちは本当にこういった戦争にうんざりしています。女性と子どもは、世界の多くの場所で、さまざまな形で、被害を受けています。
 インドでは、純真で恵まれない子どもたちが児童労働の犠牲者となっています。ナイジェリアでは多くの学校が破壊されています。アフガニスタンでは人々が過激派の妨害に長年苦しめられています。幼い少女は家で労働をさせられ、低年齢での結婚を強要されます。貧困、無学、不正、人種差別、そして基本的権利の剥奪――これらが、男女共に直面している主な問題なのです。

 親愛なるみなさん、本日、私は女性の権利と女の子の教育という点に絞ってお話します。なぜなら、彼らがいちばん苦しめられているからです。かつては、女性の社会活動家たちが、女性の権利の為に立ち上がってほしいと男の人たちに求めていました。しかし今、私たちはそれを自分たちで行うのです。男の人たちに、女性の権利のために活動するのを止めてくれ、と言っているわけではありません。女性が自立し、自分たちの力で闘うことに絞ってお話をしたいのです。

 親愛なる少女、少年のみなさん、今こそ声に出して言う時です。そこで今日、私たちは世界のリーダーたちに、平和と繁栄のために重点政策を変更してほしいと呼びかけます。世界のリーダーたちに、すべての和平協定が女性と子どもの権利を守るものでなければならないと呼びかけます。女性の尊厳と権利に反する政策は受け入れられるものではありません。
 私たちはすべての政府に、全世界のすべての子どもたちへ無料の義務教育を確実に与えることを求めます。私たちはすべての政府に、テロリズムと暴力に立ち向かうことを求めます。残虐行為や危害から子どもたちを守ることを求めます。私たちは先進諸国に、発展途上国の女の子たちが教育を受ける機会を拡大するための支援を求めます。私たちはすべての地域社会に、寛容であることを求めます。カースト、教義、宗派、皮膚の色、宗教、信条に基づいた偏見をなくすためです。女性の自由と平等を守れば、その地域は繁栄するはずです。私たち女性の半数が抑えつけられていたら、成し遂げることはできないでしょう。私たちは世界中の女性たちに、勇敢になることを求めます。自分の中に込められた力をしっかりと手に入れ、そして自分たちの最大限の可能性を発揮してほしいのです。

 親愛なる少年少女のみなさん、私たちはすべての子どもたちの明るい未来のために、学校と教育を求めます。私たちは、「平和」と「すべての人に教育を」という目的地に到達するための旅を続けます。誰にも私たちを止めることはできません。私たちは、自分たちの権利のために声を上げ、私たちの声を通じて変化をもたらします。自分たちの言葉の力を、強さを信じましょう。私たちの言葉は世界を変えられるのです。なぜなら私たちは、教育という目標のために一つになり、連帯できるからです。そしてこの目標を達成するために、知識という武器を持って力を持ちましょう。そして連帯し、一つになって自分たちを守りましょう。
 親愛なる少年少女のみなさん、私たちは今もなお何百万人もの人たちが貧困、不当な扱い、そして無学に苦しめられていることを忘れてはいけません。何百万人もの子どもたちが学校に行っていないことを忘れてはいけません。少女たち、少年たちが明るい、平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。

 1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。

 エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。

 ありがとうございました。

 *****


 マララさんはノーベル平和賞受賞において「この賞は、ただ部屋にしまっておくためのメダルではない。終わりではなく、始まりに過ぎない」と表明しています。

 私は、あまりにも若くして真実に目醒めたこの少女が、自分の心の中で構築した考え方というよりも、1つのひらめき、直感が働いたもの、もっとはっきり誰かからのメッセージを伝えている、すなわちチャネリングが起こっているように思わざるを得ない、そんな衝撃を受けております。もちろん、ノーベル平和賞として「憲法第九条」が比較の対象にもならないと思うのは私だけではないと考える次第です。

素晴らしい! 輝くオーラを放つSAS「希望の轍」

 先日、映画「アナと雪の女王」主題歌 “Let It Go”に強い「引き寄せ」の精神を感じることを申しました(7月10日)。また、「『運気の流れ』を導く『気 ≒ オーラ』 〜 輝く『オーラ』が望むものを引き寄せると言うこと 〜」(8月25日)などと、解りにくい題名で人に備わるオーラについて思うところを述べました。同じように論ずるのが適切かどうか?、けっこう多くの人が知っている、サザンオールスターズ(SAS)の「希望の轍」(きぼうのわだち)と言う曲をご紹介します。私は、個人的に、このコンサートシーンに素晴らしい輝くオーラを感じております。

 楽曲や歌詞についての細かい解説は省略しますが、この歌の中に登場する聞き慣れない「エボシライン」と言う単語は、桑田 佳祐 氏の造語であり、茅ヶ崎にある烏帽子岩(えぼしいわ)のシルエットと言う説と、神奈川県の横須賀と大磯を結ぶ国道134号線と言う説があります。言うまでもなく、この地をサザン、桑田 佳祐 氏は出発点として、少しずつ希望を実現して来た、その歴史、車輪の跡を、高い自負を持って歌っている、そんなオーラであります。間違いなく、成功者の出すオーラですね!

烏帽子岩写真
烏帽子岩

国道134号線写真
国道134号線


希望の轍

作詞、作曲  桑田 佳祐
編曲     桑田 佳祐、小林 武史
演奏、歌   サザンオールスターズ、桑田 佳祐


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 夢を乗せて走る車道
 明日への旅
 通り過ぎる街の色
 思い出の日々

01「明日への旅」シーン

 恋心 なぜに切なく胸の奥に迫る
 振り返る度に野薔薇のようなBaby love

02「野薔薇のような」シーン

 遠く遠く離れゆくエボシライン
 Oh, my love is you.
 舞い上がる蜃気楼

03「エボシライン」シーン

 巡る巡る忘られぬメロディライン
 Oh my, oh yeah,
 Gonna run for today oh, oh・・・・

04「メロディライン」シーン

 風の詩よ黄昏よ ためらいの道
 波の音は今宵もブルー
 愛しい君の名を誰かが呼ぶ

「05ためらいの道」シーン

 ため息の中にほのかなあこがれが寄り添う
 愛されるために羽ばたくようなBaby love

06「愛しい君の名」シーン

 熱く熱くこみあげる涙に
 Oh, my love is you.
 たわむれる放射線

07「熱く熱く」シーン

 揺れる揺れる面影は哀しく
 Oh my, oh yeah,
 Be the one for tonight, oh, oh・・・・

08「Oh my, Oh yeah」シーン

 情熱の重さは夜の凪
 さまよう夏の日は陽炎

09「情熱の重さ」シーン

 遠く遠く離れゆくエボシライン
 Oh, my love is you.
 舞い上がる蜃気楼

10終わりの方の「エボシライン」シーン

 Di di di・・・・・
 Oh my, oh yeah,
 Let me run for today.

11 希望の轍 最後のシーン

 *****

“Let It Go” その素晴らしい「引き寄せ」の精神

「アナと雪の女王」主題歌 “Let It Go”

作詞:Kristen Anderson-Lopez・Robert Lopez・高橋知伽江
作曲:Kristen Anderson-Lopez・Robert Lopez
歌手:Idina Menzel、松たか子


アナと雪の女王DVD


一緒に歌おう♪『アナと雪の女王』「Let It Go<歌詞付Ver.>」イディナ・メンゼル

一緒に歌おう♪『アナと雪の女王』「Let It Go<歌詞付Ver.>」 松たか子


 〜 以下、英文および和文歌詞(翻訳ではありません)〜

The snow glows white on the mountain tonight, not a footprint to be seen.
降り始めた雪は 足跡消して

A kingdom of isolation and it looks like I'm the queen.
真っ白な世界に ひとりのわたし

The wind is howling like this swirling storm inside.
風が心にささやくの

Couldn't keep it in, Heaven knows I tried.
このままじゃ ダメなんだと

Don't let them in, don't let them see.
とまどい 傷つき 

Be the good girl you always have to be.
誰にも 打ち明けずに

Conceal don't feel, don't let them know.
悩んでた それももう

Well, now they know!
やめよう

Let it go, let it go.
ありのままの

Can't hold it back anymore.
姿見せるのよ

Let it go, let it go.
ありのままの

Turn away and slam the door.
自分になるの

I don't care what they're going to say.
何も怖くない

Let the storm rage on.
風よ吹け

The cold never bothered me anyway.
少しも寒くないわ


It's funny how some distance, makes everything seem small.
悩んでたことが うそみたいね

And the fears that once controlled me, can't get to me at all.
だってもう自由よ なんでもできる

It's time to see what I can do, to test the limits and break through.
どこまでやれるか 自分を試したいの

No right, no wrong, no rules for me. I am free!
そうよ変わるのよ わたし

Let it go, let it go.
ありのままで 

I am one with the wind and sky.
空へ風に乗って

Let it go, let it go.
ありのままで

You'll never see me cry.
飛び出してみるの

Here I stand, and here I'll stay. Let the storm rage on.
二度と 涙は流さないわ


My power flurries through the air into the ground.
冷たく大地を包み込み

My soul is spiraling in frozen fractals all around.
高く舞い上がる 想い描いて

And one thought crystallizes like an icy blast.
花咲く氷の結晶のように

I'm never going back; the past is in the past!
輝いていたい もう決めたの

Let it go, let it go.
これでいいの

And I'll rise like the break of dawn.
自分を好きになって

Let it go, let it go.
これでいいの

That perfect girl is gone.
自分信じて

Here I stand, in the light of day.
光あびながら

Let the storm rage on!
歩きだそう

The cold never bothered me anyway.
少しも寒くないわ

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 前置きも無く、今更ながらの大ヒット曲です。

 外来に来るある若い男性患者、食欲不振の原因ははっきりしていて、この春の就職に失敗して、具体的には、入った会社に馴染めず退職してしまい、自分を責める毎日です。上の曲、「聞いたことがあります」、程度の認識でしたのでCDと歌詞カードをさしあげました。
 思わぬところでつまづいて、道を外れてしまうことは誰にでもあること、そうした状況を作り出してしまうのは多くの場合は「自分」ですが、その苦境から抜け出して、明るい未来を切り開くことが出来るのも、やはり「自分」なのです。


Let It Go 01

Let It Go 002

ブロック矢印

Let It Go 003

Let It Go 004

Let It Go 005

Let It Go 006

Let It Go 007

Let It Go 011

Let It Go 07

Let It Go 009

Let It Go 010


 ヒット曲とは言え、小さな一つの楽曲がきっかけで、「引き寄せ」の力強い精神を享受し、「自分」を奮い立たせ、立ち直った、それこそ「高く舞い上がる 想い描く」ことができた人は、全世界に少なくないと思います。この曲は多くの人に伝えたい1曲です。

古い映画の記憶が蘇る街中のあるポスター

 ちょっと息抜き、スピリチュアルとは全く関連のない、最近の街中の風景から、、、。ある映画のポスターを観て、別の古い映画のポスター画像が心に蘇ります。最近、通っているフィットネスは映画館が併設されているので、2、3日に一度はその映画館の前を通って、だんだん確信を持つようになりました。

 その蘇った古い映画のポスターを先に掲載いたします。

スター・ウォーズ

 これは言わずと知れた「スターウォーズ」1作目のポスターでありました。「言わずと知れた」と申しましたが、日本での公開は1978年のこと、実に36年も前でありました。私は高校生の同級生と映画館に観に行きました。SFXの映像がたいへん衝撃的であったのを憶えており、世界的に大センセーションを巻き起こした1作だったことは言うまでもありません。監督や出演者のご紹介は他に譲りますが、ポスターで剣を掲げているのはルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)とレイア・オーガナ姫(キャリー・フィッシャー)です。

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 さて、上で申し上げた「スターウォーズ」1作目のポスターを思い起こさせた、現在、公開されている映画のポスターは以下です。

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 「テルマエ・ロマエII」と言う、阿部寛が演ずるローマ人が現代とを行き来して風呂やトイレの技術をローマに持ち帰ると言うストーリーであった1作目の続編であります。桶を掲げた阿部寛さんと上戸彩さんの構図がスターウォーズのポスターをちょうど反転した形になっております。

 両方のポスターを並べてみました。中国、韓国のパクリをしばしば話題にする日本人ですが、36年も経過したところで、かりに真似だとしても一つのユーモアで良いのでは?、と思います。

スターとてるまえ

 この手の発見をしても、必ず誰かが指摘しているものです。まったく正直に私は自分でこの事例にひらめいたのですが、ネットで検索してみると、2ちゃんねるに発言している人がもういました。敬意を払って、こちらも供覧いたします。

スターてるまえ2チャンネル記事

ルーズベルト大統領の死去に伴い終戦前最後の総理大臣 鈴木貫太郎 氏が世界に発信した哀悼の意

 今年になって、靖国参拝や従軍慰安婦を勉強して、終戦直前のある出来事を知り心が動かされました。「そんなことも知らなかったのか?」と笑われるかも知れませんが、(勇気を出して)ご報告します。
 太平洋戦争が終戦を迎える1945年、米国のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は4月12日の昼食後、脳卒中で倒れて他界しました。これに対して、その僅か5日前の4月7日に大日本帝国の総理大臣に就任したばかりの鈴木貫太郎氏が哀悼の意を世界に発信した、と言う出来事です。平時では、国際社会において、他国の指導者の死を悼む声明は普通のことでありますが、当時は大きな戦争における敵味方の関係、日本は配色濃厚で、広島、長崎の原子爆弾投下以前とは言え、1945年の3月10日の東京大空襲は死者10万人にも及ぶものでありました。我が国に甚大な被害を及ぼしている敵国の大統領の死去に対する声明に少なからず胸を熱く致しました。人の死に接した日本人の感じ方にスピリチュアル記事として投稿いたします。

東京大空襲
大空襲後の東京


◇ フランクリン・ルーズベルト大統領

 詳しくは別の機会に譲るとして、ごく表面的な大統領としてのルーズベルト氏を振り返ってみます。彼が大統領に就任したのは世界恐慌のまっただ中でありました。なお、ノーベル平和賞をとったセオドア・ルーズベルト氏は従兄(12親等)に当たります。

 1933年 第32代大統領に就任、直後よりニューディール政策を展開
 1936年 大統領再選
 1937年 (日中戦争勃発)、日独に対して侵略国家として非難声明
 1939年 日米通商航海破棄、(第二次大戦勃発)、中立宣言、マンハッタン計画
      ※マンハッタン計画:原子爆弾の開発計画
 1940年 (日独伊三国同盟)、大統領3選
 1941年 日米交渉開始、対日石油輸出禁止、太平洋戦争開戦
      ※日本海軍のハワイの奇襲を大統領は知っていてあえて攻撃させ、
       「リメンバー、パールハーバー」の言葉で世論を誘導し、
       空母だけは保護したとの説が有力
 1942年 ミッドウェイ開戦
 1943年 (イタリア無条件降伏)
 1944年 大統領4選(米大統領では唯一)、11月より東京大空襲開始
 1945年 2月4日ヤルタ会談、4月12日急死

ルーズベルト
フランクリン・ルーズベルト大統領


◇ 鈴木貫太郎総理の哀悼の声明

 我が国を、ある意味、戦争に導き、多くの日本国民の命を奪い、さらに多大な人命を奪った原子爆弾の計画を進めたルーズベルト大統領の死に接し、我が国の終戦前最後の総理大臣である鈴木貫太郎氏は、同盟通信社の短波放送により以下の談話を世界に発信しました。なお、鈴木貫太郎氏は非国会議員、江戸時代生まれという2つの点で総理大臣を務めた最後の人物であり、また満77歳2ヶ月での就任は2011年現在、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録であります。

 「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」

鈴木貫太郎
鈴木貫太郎氏 海軍時代と総理就任時

◇ ヒトラーとトーマス・マンの反応

 この頃、日本と同様に配色濃厚で、ルーズベルト大統領の死去18日後の4月30日に自殺したナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、国内向けのラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵ったとされます。これに対して、アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは鈴木貫太郎氏のルーズベルト大統領死去に対する哀悼声明に深く感動し、英国BBCで以下の如く声明を発表、鈴木貫太郎総理の武士道精神を称賛し、総理の言葉は戦時下の世界に感銘を与えたとされます。

 「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」


◇ 鈴木貫太郎総理の哀悼声明の意味

 歴史上、最大級の犯罪者であるヒトラーの反応であろうとも、当時の世界において、ルーズベルト大統領の死を喜ぶ発言はあり得ることだったと思います。当時の日本においても、敵対する米国のリーダーが急死して戦局が好転するかも知れないと考えた人はいたでしょう。
 しかし、鈴木貫太郎総理の、敵国である米国のルーズベルト大統領の死に対する哀悼の表明には、今の時代においても、日本人の多くが共感できると思います。たとえ敵であろうとも、自国のために尽くした人間に対する高い尊敬の意と、その人物の死に触れて、その国の国民の感情を思いやる気持ち、日本人ならではとまでは申しませんが、我々日本人の精神に通ずる情感を感じます。
 日本人は高い志と高貴な死生観を持つ民族である、と思える一つのエピソードと考えます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/フランクリン・ルーズベルト
http://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木貫太郎#cite_note-17
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京大空襲

西田 敏行 氏の 口笛に込められた情感

 正月、HDDに録画してあった「ドクターX ~外科医・大門未知子~ 第2シリーズ」の最終回(昨年12月19日放送)を見直したところ、西田敏行氏が演ずる蛭間 外科統括部長が一人、教授室で口笛を吹く場面がありました。たった数秒でありますが、そのシーンを観て西田さんの情感に触れた人がいたのではないかと思います。

ドクターX画像
「ドクターX ~外科医・大門未知子~ 第2シリーズ」

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「ドクターX」の1シーン、西田敏行氏の口笛

 口笛は「もしもピアノが弾けたなら」(1981年、作詞:阿久悠、作曲・編曲:坂田晃一)でありますが、これは西田氏が1981年のNHK紅白歌合戦に出場して歌ったヒット曲ですので、30年以上の年月を経て、ドラマの中で西田氏が演ずる配役が口ずさんだとしても、これはちょっとした演出、ユーモア、若しくはアクセントと考えられます。それはそれで良いと思いますが、私はちょっと考え過ぎでしょうか?、あの口笛は西田氏が自ら進言してやらせてもらったのではないか?、と思います。あまり、理屈っぽい話にするつもりはないのですが、西田敏行氏の略歴からご説明いたします。


◇ 俳優 西田敏行 氏

 西田敏行氏(1947年 – 、現在66歳)は福島県郡山市の出身で、明治大学付属中野高等学校卒業、明治大学農学部中退、身長166cm、体重80kg超、主演の映画「釣りバカ日誌」は1988年から2009年まで22作続いた代表作であります。以下、2014年1月までの主な芸能活動を列挙いたします。

西田敏行

・1967年(20歳) ドラマ「渥美清の泣いてたまるか」(TBS)でテレビ俳優としてデビューするも、しばらくは役者として不遇の日々
・1976年(29歳) レギュラー出演した「いごこち満点」、「三男三女婿一匹」(共にTBS)で注目を集め、個性的な演技、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得
・1977年(30歳) NHK大河ドラマ「花神」に出演(山縣有朋 役)
・1977年(30歳) ドラマ「特捜最前線」(テレビ朝日)に出演
・1978年(31歳) ドラマ「西遊記」(日本テレビ)に出演(猪八戒 役)
・1980年(33歳) ドラマ「池中玄太80キロ」(日本テレビ)で主演
・1981年(34歳) NHK大河ドラマ「おんな太閤記」に出演(豊臣秀吉 役)
・1981年(34歳) ドラマ「池中玄太80キロ」第2シリーズ主演、この時の挿入歌「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒット、年末にはNHK紅白歌合戦に出場
・1984年(37歳) NHK大河ドラマ「山河燃ゆ」に出演(天羽忠 役)
・1986年(39歳) ドラマ「泣いてたまるか」(TBS)リメイクの主役
・1986年(39歳) 映画「植村直己物語」に主演、モンブラン(フランス)、エベレスト(ネパール)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行
・1988年(41歳) NHK大河ドラマ「武田信玄」に出演(山本勘助 役)
・1988年(41歳) 映画「敦煌」主演
・1988年(41歳) 映画「釣りバカ日誌」1作目に主演、以後、89, 90, 91, 92, 93, 94, 94, 96, 97, 98, 98, 00, 01, 02, 03, 04, 05, 06, 07, 08, 09年の計22作
・1990年(43歳) NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」で主演(西郷隆盛 役)
・1993年(46歳) 映画「学校」で主演
・1993年(46歳) 映画「男はつらいよ 寅次郎の縁談」に出演
・1994年(47歳) 東宝ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢、その後7年にわたり出演
・1995年(48歳) NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」で主演
・1996年(49歳) 映画「学校II」で主演
・1996年(49歳) 映画「虹をつかむ男」で主演
・1997年(50歳) 映画「虹をつかむ男 南国奮斗篇」で主演
・2000年(53歳) NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」に出演(徳川秀忠 役)
・2001年(54歳) 頸椎性脊髄症を患い入院、神経圧迫部位を除去する手術施行
・2002年(55歳) 映画「陽はまた昇る」に主演
・2003年(56歳) NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」に出演(内山半兵衛 役)
・2003年(56歳) 映画「ゲロッパ」に主演
・2003年(56歳) 自宅にて心筋梗塞を発症、吉永小百合の手紙に従い禁煙
・2006年(59歳) NHK大河ドラマ「功名が辻」に出演(徳川家康 役)
・2006年(59歳) 映画「椿山課長の七日間」に主演
・2008年(61歳) 長年にわたる演劇界での業績が認められ、紫綬褒章を受章
・2009年(62歳) 日本俳優連合理事長に就任
・2010年(63歳) 「釣りバカ日誌」シリーズの22年間の功績が讃えられ三國連太郎氏と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞
・2012年(65歳) 社団法人日本喜劇人協会主催の喜劇人大賞を受賞
・2013年(66歳) NHK大河ドラマ「八重の桜」に出演(西郷頼母 役)
・2013年(66歳) ドラマ「ドクターX〜外科医・大門未知子〜 第2シリーズ」(テレビ朝日)に出演

 その他、多数の映画、ドラマに出演され、ご紹介しませんでしたが、テレビのバラエティー番組、ラジオにまでも活動範囲を拡げております。ご紹介に取りこぼしがあればご容赦ください。
 さて、ご紹介した西田敏行氏の芸能生活序盤に目を向けますと、NHK大河ドラマ「花神」に出演した山縣有朋 役は、明治維新政府における、長州出身の個性ある軍人、政治家として強いインパクトがありました。「特捜最前線」に出演した後、堺正章(孫悟空 役)故夏目雅子(三蔵法師 役)、岸部シロー(沙悟浄 役)と共演した(猪八戒 役)、「西遊記」のオープニングはゴダイゴの「Monkey Magic」、エンディングでは同「ガンダーラ」がヒットして、同ドラマは人気番組となりました。

西遊記
1978年 ドラマ「西遊記」(日本テレビ) 左から西田敏行、堺正章、岸部シロー、夏目雅子

 こうして、10年以上の下積み時代を経た30代の青年は俳優として徐々に成長を遂げ、ついに西田敏行氏に、(ほとんど)初めての主演の連続ドラマのチャンスが巡ってきたのが1980年(33歳時)、ドラマ「池中玄太80キロ」(日本テレビ)でありました。1980年4月5日より6月28日まで13話を数えたドラマは1話を除く12話で視聴率20%超えとなり、翌年には第2シリーズが作られ、その挿入歌「もしもピアノが弾けたなら」を西田敏行氏が自ら歌い、これが大ヒット、ドラマも大成功に終わりました。西田氏が、「今、自分があるのはあのドラマのおかげ」と思っているかも知れない、ドラマ「池中玄太80キロ」のとりわけ出演者に目を向けてご説明します。

池中玄太スナップ


◇ 「池中玄太80キロ」(1980年〜)
 〜 西田氏を一人前にするために揃った豪華キャスト 〜

 池中玄太(西田敏行;以下、玄太)は通信会社(大京通信)で、楠 編集長(長門裕之)の下、カメラマンとして報道撮影の仕事に従事しており、副業で鳥類、特に丹頂鶴の写真を撮影することをライフワークとしていました。そんな玄太は、3人の子持ちの未亡人、鶴子(丘みつ子)と知り合い、結婚することになりましたが、結婚式の直後に鶴子はくも膜下出血で他界してしまいます。周囲より、他人である玄太が残された子供達を育てるのは無理とされ、鶴子の3人の娘、絵里(中学生、杉田かおる)、未来(小学生、有馬加奈子)、弥子(小学生、安孫子里香)は別々の親戚の家に引き取られて行きます。しかし玄太は、鶴子との約束だと言って、3人を立派に育てて見せると宣言して、娘達を連れ戻し、玄太と血のつながらない3人の娘の共同生活が始まります。
 最初のうちはギクシャクとした関係が続き、玄太と3人の娘は本音で格闘し合ったりもしましたが、玄太の涙ぐましい努力と、周囲の温かい応援で、いつしか、本当の家族以上に理解しあえる関係になっていく、そんなストーリーでありました。
 第2シリーズでも家族の結束を固める出来事が続く池中家でありますが、玄太は同僚である鳴山暁子(アッコ、坂口良子)とお互いに心が惹かれ合うようになります。アッコが別の男性と婚約までしたところで、どんでん返し、二人が結ばれるところでシリーズが完結します。

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【スタッフ(第1、2シリーズ)】

 原案・脚本:松木ひろし
 脚本   :松原 敏春、林  秀彦、清水 邦夫、金子 成人、
       桃井  章
 音楽   :坂田 晃一
 製作   :溝口  至、中島 忠史、安念 正一、成田美津留
 演出   :石橋  冠、宮崎  洋、中山 史郎、宮崎  洋、
       松永 好訓、剣政  博
 製作著作 :日本テレビ
 主題歌  :第1シリーズ 
       「風に抱かれて」
       作詞:喜多 條忠 作曲:芳野 藤丸 編曲:木森 敏之
       歌 :西田 敏行
       「娘たちよ」
       作詞:東海 林良 作曲:木村  昇 編曲:木森 敏之
       歌 :西田 敏行
       第2シリーズ
       「もしもピアノが弾けたなら」
       作詞:阿久  悠 作曲・編曲:坂田 晃一
       歌 :西田 敏行
       「いい夢見ろよ」
       作詞:阿久  悠 作曲・編曲:坂田 晃一
       歌 :西田 敏行
       「鳥の詩」
       作詞:阿久  悠 作曲・編曲:坂田 晃一
        歌 :杉田かおる


【キャスト(第1、2シリーズ、年齢は開始時)】

 池中家
 池中 玄太(玄太)          :西田 敏行 (33歳)
 池中 絵里(えり)  長女      :杉田かおる (16歳)
 池中 未来(みく)  次女      :有馬加奈子
 池中 弥子(やこ)  三女      :安孫子里香 (07歳)
 池中 鶴子      妻       :丘 みつ子 (32歳)

 大京通信社
 楠  英政(楠公)  大京通信社上司 :長門 裕之 (46歳)
 鳴山 暁子(アッコ) 大京通信社同僚 :坂口 良子 (25歳)
 前川 秀也(ヒデ)  大京通信社同僚 :三浦 洋一 (26歳)
 杉野  透(半ペラ) 大京通信社同僚 :井上 純一 (22歳)

 その他
 飯島 歌子(ママ)  喫茶店ママ   :松尾 和子 (45歳)
 秋田 チエ(チエ)  喫茶店店員   :藤谷美和子 (17歳)
 鳴山 春江      アッコの母親  :丹阿弥谷津子(56歳)
 本城理三郎(本城)  鳥類研究家   :宇野 重吉 (66歳)

 *****

 こうしてドラマ「池中玄太80キロ」のキャストを振り返りますと、日本テレビが西田敏行氏を一人前にするために、まさに旬で演技派の男優、女優をとり揃えて、ストーリーと同様、共演者全員で西田氏を応援した構図が伺われます。
 第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優、宇野重吉氏が鳥類研究家として玄太(西田)の指南役であり、同じく職場の上司には、長門裕之氏、第二次大戦前より名子役としてデビューしており、1956年には22歳時「太陽の季節」(原作 石原慎太郎、石原裕次郎氏のデビュー作)に主演した、こちらも日本を代表する俳優でありました。松尾和子さんもレギュラー出演されましたが、元々は「誰よりも君を愛す」で1960年、日本レコード大賞を受賞した、「ムード歌謡の女王」と称されるスター歌手でしたが、ドラマ出演の経験も豊富で、たいへん味のある演技だったと思います。

宇野、長門、松尾

 その他、若い出演者たちも、長女を演じた杉田かおるは7歳にして天才子役と言われ、1979年「3年B組金八先生」にも出演しておりましたし、藤谷美和子さんも12歳でカルビーポテトチップスのCMで芸能界入り、1978年、井上純一と共に「ゆうひが丘の総理大臣」に出演して人気を集めておりました。

杉田、藤谷、井上

西田氏より7歳年下の三浦洋一氏は、20歳の時に演出家つかこうへい氏と出会い、1975年には「熱海殺人事件」の主演の舞台を踏んでおり、1978年「七人の刑事」で人気を得ておりました。坂口良子さんは16歳でミス・セブンティーンコンテストで優勝、芸能界入りし、1972年(17歳時)、フジテレビのドラマ「アイちゃんが行く!」で主演デビュー、その後もドラマ「たんぽぽ」(1973年)、ドラマ「前略おふくろ様」(1975年)、映画「犬神家の一族」(1976年)など、多数のドラマ、映画に出演して人気女優の地位を確立しておりました。

坂口、三浦

 本ドラマの共演者は、ベテランはもちろんのこと、若者においても、主演の西田氏よりも既に成功を納めている、人気を博している方が多かった、今でこそ日本を代表的する俳優である西田敏行さんが、ドラマ「池中玄太80キロ」の中では、共演者たちに励まされ、持ち上げられて役を演じたであろうことが想像されます。


◇ 共演者のその後

 たいへん悲しいことですが、ドラマ「池中玄太80キロ」が始まった年から34年が経過して、あのドラマにおける多くの共演者に不幸がありました。西田敏行さんの心中察して余りあるものがあります。

 宇野重吉氏は、ドラマ「池中玄太80キロ」出演後の1985年、宇野重吉一座を立ち上げ地方公演を始めましたが、晩年は癌との戦いであり、胃切除術、肺部分切除術を受け、1988年1月9日、死去、73歳でありました。

 1991年、松尾和子さんの息子が覚せい剤取締法違反で逮捕され、この事に思い悩み、睡眠薬を多量服用し、自殺未遂を起こしたこともありました。1992年9月25日、自宅の階段から転落して頭部を強打し、数時間後に急変、帰らぬ人となりました。享年57歳の若さでした。

 1999年6月、三浦洋一氏は食べ物のつかえ感を訴え検査したところ末期状態の食道癌が見つかりました。11月、新宿コマ劇場での人生最後の舞台は点滴を打ちながら千秋楽まで勤めた後に入院、2000年5月14日、46歳の若さでなくなりました。

 長門裕之氏は、2004年頃より認知症の症状が出始めた妻、南田洋子さんの介護で晩年を過ごし、2009年、南田氏がクモ膜下出血で死去した1年半後の2011年5月21日、脳出血で77歳にて他界しました。

 昨年、2013年3月27日、坂口良子さんが横行結腸癌のため死去、享年57歳でありました。その2日後の3月29日、西田敏行氏は以下の談話を発表しております。

 *****

 早過ぎるよアッコ、これから沢山楽しい事が待ってるのによ~
 池中玄太はこう言って天を仰いで号泣しています。

 坂口良子さん早過ぎます、順番が違います、
 西田敏行はこう言って悔しさに唇を噛んでいます。

 ただ、今は現実を受け止めようと必死にもがいています。

 言えるのは、玄太を愛したアッコをあんなにステキに演じてくれて
 ありがとうございました。

 おかげで玄太を日々楽しく生きる事が出来ました。
 ホントにホントありがとうございました。

 合掌

 西田敏行拝

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 冒頭に話しを戻して、ドラマ「ドクターX」の1シーン、西田敏行氏の口笛、「もしもピアノが弾けたなら」は、ドラマ「池中玄太80キロ」にて自分を支え、励まし、育ててくれた共演者たちへの、西田氏のさりげない呼びかけ、ねぎらいの言葉、そんな情感が込められているように思える次第です。


◇ ドラマ「池中玄太80キロ」のシーンから

 最後に少しだけ、ドラマ「池中玄太80キロ」から、出演者たちの肉声が入った動画を供覧いたし、最後に第2シーズンの主題歌「もしもピアノが弾けたなら」をご紹介いたします。まだ一周忌に達していない坂口良子さん他、故人の方々には謹んでご冥福をお祈りいたします。

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第1シリーズ 第3話 「やったぜ!特ダネ」から
 ちょうど玄太(西田)が仕事で失敗した際に、娘が犯人逮捕の手柄を挙げ、本城(宇野)のところで愚痴を言う玄太でした。

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第1シリーズ 第8話 「給料日の約束」から
 アッコ(坂口)がにわかに恋した相手(三橋美智也)は犯罪者でありました。心配してアパートで待っていた玄太(西田)のところに帰って来たアッコは涙にくれるのでした。

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第1シリーズ 最終話 「娘たちよ、大きく翔べ!」から
 タイとカンボジアの取材の話があって玄太(西田)は内心では行きたいのだが、娘たちのことを考えて躊躇している。そんな時、3人の娘が楠部長(長門)を訪れ海外出張の命令をお願いしました。

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第2シリーズ 第20話 「欲しいものはとれ!」から
 玄太(西田)に惹かれながら別の男性と婚約するアッコ(坂口)の気持ちを思い、ヒデ(三浦)が玄太に対して行動に出るよう促し、ついには殴り合いとなります。

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第2シリーズ 最終話 から
 玄太(西田)と結婚することとなったアッコ(坂口)が玄太の優しさを語り、そのまま最後のシーン、「もしもピアノが弾けたなら」のエンディングテーマに続きます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/西田敏行
http://ja.wikipedia.org/wiki/池中玄太80キロ
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130329/ent13032913170019-n1.htm

マーティン・ルーサー・キング牧師の演説 “I Have A Dream!”、マンデラ元大統領追悼式に添えて

 12月5日、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領(享年95歳、1918年7月18日 - 2013年12月5日)が永眠され、12月10日に開かれた追悼式は、雨天の中、世界中の要人が集まる壮大なものでありました。改めて、反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年、「国家反逆罪」として終身刑の判決、27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年、釈放され、アパルトヘイト撤廃に尽力した、ノーベル平和賞(1993年)の偉人は、歴史に名を残し、世界の多くの人民の記憶に残る人物であると痛感いたしました。

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 慎んでご冥福をお祈りすると同時に、死後の世界において、ある人物と面会していることを想像します。それは、同じくノーベル平和賞(1964年)を受賞した故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏(1929年1月15日 - 1968年4月4日)であります。皮肉な事に、こうして年号を入れて行くと、キング牧師がノーベル賞を取った年にマンデラ元大統領は投獄されました。二人に接点があったかどうか知りませんが、共にお互いの労をねぎらう仲であろうと思います。

 私事で恐縮いたしますが、1996年の4月から1998年10月までの2年6ヶ月、米国のある街に肝移植の勉強で留学しました。その生活の始めの頃は、あらゆる所、デパートやモール、飛行場などで、黒人と白人はほぼ同等に生活しているように見えました。そもそも、人種差別は過去のものであり、現代の世の中には存在しない、そんな感覚で17年前の30代前半の私は米国生活を始めたように記憶しています。

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 しかし、米国における黒人に対する「人種差別の名残り」は確かに1990年代後半にもありました。そして、米国内旅行の途中でジョージア州、アトランタに行った際に、キング牧師の記念館に立ち寄り、彼の偉業に触れ、彼の演説を観て、胸が熱くなったのが思い出されます。
 今回は、マンデラ元大統領死去と言うきっかけを利用して、もしかしたら今でも変わらない、1990年代後半の米国における「人種差別の名残り」に触れ、故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の、1963年8月28日、ワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で行われた、有名な“I Have a Dream”を含む演説のビデオを供覧し、その全文が手に入りましたので、和文英訳を付けて、彼の人種差別撤廃に向けたスピリッツをご紹介いたします。



◇ 96–98年 米国生活で見た「人種差別の名残り」

1.公園によって遊んでいる黒人の子供の割合が異なる

 米国生活を始める時、長女が2歳半でしたのでよく公園(パーク)に連れて行きました。私が住んでいたアパートのすぐそばにあるメロンパークには黒人の子供が8割で、その次が日本人や中国人などの東洋人で、白人の子供は1割もいませんでした。居住区の関係なのか?、理由はよく解りませんでした。少し離れたところにシンリーパークがあって、こちらは白人の子供が多く、東洋人は2、3割いますが、黒人は1割以下でした。シンリーパークはその街のほぼ中心部にあり最も大きなパークでしたが、白人が優位でありました。私のラボのボスが住んでいた裕福な人々の区画にはフリックパークがあって、そこでは黒人の子供は見たことはありませんでした。
 これは「立ち入り禁止」と言った人種差別があったわけではありません。長い年月で子供の遊び場に棲み分けが起こっていたのかも知れません。もちろん、白人と黒人の子供が一緒に遊ぶ場所で問題が起こったことは聞きませんでした。しかしながら、我々、日本人は、黒人の子供が多くいるパークをちょっと危険な感覚で捉えましたし、白人の子供が多いパークは安全で高級なイメージを持ちました。これは残念ながら正直な感覚です。白人たちが同じ感覚を持っていたかどうかは解りません。

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シンリーパーク


2.スーパーマーケットの深夜のレジは黒人

 渡米当初は、警戒感から、深夜に出歩くことはありませんでしたが、慣れてくると夜中に買い物をすることもありました。とりわけ、車で国内旅行に行った際には、道に迷って深夜にモーテルに到達し、水や食料を買いにスーパーに行きました。ある時から気付いたのですが、スーパーにおける昼間のレジは白人が多かったですが、深夜に白人を見るとは無く、ほぼ100%黒人でありました。


3.夜間の手術 機械出しは黒人

 スーパーと似たような現象は病院でもありました。私は、留学1年が経ったところでラボが消滅してしまい、実験生活から臨床医に戻りました。肝移植は脳死者が出て成立するものですので、ドナー(臓器提供者)手術にしろレシピエント(移植を受ける患者)手術にしろ、不定期の緊急手術であります。よく夜間にポケベルで呼び出されて手術に入りました。手術の形態は日本も米国もあまり変わりはなく、術者に手術器具を渡すナースがいて、それを日本語では「機械出し」と呼びます。英語でなんて呼ぶか忘れました。日中の手術は白人の機械出しが多く、夜間になるとほぼ黒人が担います。偶然ではありません。私は米国留学の後半1年半で120のドナー手術に加わり、216の肝移植手術に関わりましたので、手術の機械出しが「昼は白人、夜は黒人」のシステムは明らかでした。

 この「昼は白人、夜は黒人」の、スーパーマーケットと大学病院手術室の機械出しにおける奇妙な一致は、つまり雇用体制なんだと思います。スーパーでも病院でも夜間出勤の危険性があり、勤務においては、スーパーなら強盗とか、手術では睡魔から針刺しなどの、やはり危険性があります。雇用の段階で、白人は昼間の仕事に就けて黒人は夜間と、明確な規定があるかどうかは知りませんが、明らかに暗黙の了解はありました。


4.いささかレベルの落ちる黒人のフェロー

 米国では医師免許取得後の研修医をレジデントと呼び、その上のもう少し専門的な、日本で言う後期研修医をフェローと呼びます。このフェローの中にはある一定の割合で黒人が含まれており、しかし残念ながら、その黒人はかなりの確率で技術も知識も落ちるドクターでありました。サボったり嘘を言うこともあり、これは一人ではなく、何人もの黒人フェローに見られ、年間数百もの肝移植を行う施設として残念に思いました。
 実は、フェローとして受け入れる段階で、何割かは黒人を雇用しなければならない法律があるそうです。つまり、その問題のフェローは成績が及ばないけれどその規定によって雇用された人材の可能性はありました。これは、スーパーや病院手術室の「昼は白人、夜は黒人」とは逆で、黒人にチャンスを与えるルールでありますが、黒人への「人種差別の名残り」であると言えると思います。

 公園によって遊ぶ子供の肌の色が違うとか、様々な雇用における黒人と白人の違いを紹介しましたが、過去における人種差別はそんな生易しいもので無かったことは明白であります。現代の米国は、大きな変革の後の、さらに改良される過程にまだあるように思います。


◇ 故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師

 1998年の8月、帰国を2月後に控えて、米国東海岸を南北に縦断する車の旅行に出ました。その途中で、ジョージア州アトランタに一泊して、ストーンマウンテンに登り、コカコーラ博物館に行きました。あまり興味は無かったのですが、キング牧師の記念館にも立ち寄りました。そこで、彼の黒人に対する人種差別撤廃運動を知り、$15(1500円)で演説のビデオを購入しました。故マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師をウィキペディアの抜粋で供覧いたします。

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ジョージア州アトランタ ストーンマウンテン

キング牧師
史上最年少のノーベル平和賞受賞のキング牧師とキング牧師記念館内の写真

キング牧師墓
キング牧師夫婦の墓

 *****

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr., 1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。キング牧師の名で知られ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した。
 「I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名なスピーチを行った人物。1964年のノーベル平和賞受賞者。2004年の議会名誉黄金勲章受章者。アメリカの人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)の歴史を語る上で重要な人物の一人である。

初めての差別

 1929年、ジョージア州アトランタ市でバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれる。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは1935年にマーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・キング、ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング、シニア」と呼ばれる。
幼少の頃隣に白人の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「(黒人とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての差別体験であった。高校時代には討論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。

牧師として

 モアハウス大学卒業後、ペンシルベニア州のクローザー神学校を経て父親と同じくバプテスト派の牧師となる。その後1955年にボストン大学神学部で博士号を取得した。
 ボストン大学に在学中、コレッタ・スコット・キング(Coretta Scott King)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て、夫が亡くなった後もその意思を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は2005年8月16日に脳卒中で倒れて半身不随となり、2006年1月31日に78歳で死去した。
 なおキングがボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事を理由に白人の店員が注文を取りに来なかったが、同店の所在地がこの様な行為を州法で禁じているボストン北部であったため、店員は人種差別として即逮捕となった。南部出身で人種差別を受けることが多かったキングは、むしろこの出来事に驚いたという。

 1954年以来、アラバマ州モンゴメリーのバプテスト派教会の牧師をしていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件に抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を指導する。11ヶ月後に裁判所から呼び出しがあり運動中止命令かと思っていたが、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取る。これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。

非暴力主義

 キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。
 事実、1963年5月にアラバマ州バーミングハムでのバーミングハム運動の中で、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの警官による事件映像が映し出され、世論は次第にそれらの暴力に拒絶反応を示していった。
 公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比べれば人種差別の撤廃に肯定的であり、州政府ないしは州兵に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。
 キングも1963年4月12日にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、4月19日まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。

I Have A Dream!

 1963年8月28日に行われたワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で有名な“I Have a Dream”(私には夢がある)を含む演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ。
 当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるがその内容は高く評価され、1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説と並び20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。

勝利

 キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。
 ジョンソンは人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ政権時代のことであるが、議会内において強い政治的影響力を持たなかったケネディを後押しし続けたジョンソンが、キングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。
 公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった(受賞発表は10月14日で、授賞式は12月10日だった)。これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。ただし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がキングに同意していたわけではなく、一部の過激派はマルコムXを支持しキングの非暴力的で融和的な方針に反発した。

その後の黒人解放運動

 ワシントンDCへの20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。
 黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れたり(「ブラック・パワー運動」といわれる事もある)、ブラックパンサー党が結成されたり1967年夏にニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。

 キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。

 1. 公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。
 2. 深く根付いた差別意識は依然として教育や雇用の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。
 3. 差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の失業問題は、白人に比べ深刻である。
 4. ベトナム戦争により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。
 5. 大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。

 そして「ベトナム戦争反対」の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。

暗殺

 その後、キングは激化の一途をたどるベトナム戦争へのアメリカの関与に反対する、いわゆる「ベトナム反戦運動」への積極的な関与を始めるようになったが、その主張は一向になくならない人種差別に業を煮やし、暴力をも辞さない過激思想への理解すら示しつつあった「黒人社会」の主流のみならず、ベトナム戦争への関与をめぐり2つに割れつつあった「白人社会」の主流からさえ離れて行き、さらにキングを邪魔だと考える「敵」も増えていった。爆弾テロや刺殺未遂(犯人は精神障害のある黒人女性)もあったが、奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていた。
 1968年4月4日に遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “en:I've Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説。その後メンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーでその夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のならず者、ジェームズ・アール・レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。

 暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『申命記』32章のモーセを思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“en:I Have a Dream”と共に有名なものとなった。

  …前途に困難な日々が待っています。
  でも、もうどうでもよいのです。
  私は山の頂上に登ってきたのだから。

  皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
  長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
  神の意志を実現したいだけです。

  神は私が山に登るのを許され、
  私は頂上から約束の地を見たのです。
  私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
  ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。

  今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
  神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

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暗殺の前日に演説を行うキング牧師

 *****


 次に、キング牧師の1963年8月28日、ワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で行われた“I Have A Dream!”の演説をビデオと原文と和訳をご紹介します。彼の演説に大いなるスピリチュアルを感じる人は多いと思います。なぜなら、彼は、このブログでもご紹介した「引き寄せの法則」を実践した人物だと思われるからです。黒人の自由、平等、解放を訴えて、強い強い意志の波動を宇宙に送り続けたキング牧師は、暗殺されはしたものの、思いは実現しました。


◇ キング牧師“I Have A Dream!”演説

Martin Luther King's Speech I Have A Dream!
August 28, 1963

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I am happy to join with you today in what will go down in history as the greatest demonstration for freedom in the history of our nation.

我が国において、自由のために最も偉大なデモンストレーションとして歴史に残る集会に、今日、皆さんと共に参加できることを私はうれしく思います。

Five score years ago, a great American, in whose symbolic shadow we stand today, signed the Emancipation Proclamation.

今から100年前、今日、我々の目の前にいるその像の偉大なるアメリカ人(=リンカンー大統領)が、奴隷解放宣言に署名しました。

This momentous decree came as a great beacon light of hope to millions of Negro slaves who had been seared in the flames of withering injustice.

この偉大なる宣言は、燃えさかる不正義の炎に焼き焦がされてきた何百万もの黒人奴隷たちに希望を与える大きな光でした。

It came as a joyous daybreak to end the long night of their captivity.

それは奴隷制度の長い夜の終わりを告げる喜びの夜明けでした。

But one hundred years later, the Negro still is not free.

しかし、あれから100年たった今、黒人は、今だに自由ではありません。

One hundred years later, the life of the Negro is still sadly crippled by the manacles of segregation and the chains of discrimination.

100 年たった今、黒人たちの生活は、今なお人種隔離の手かせと人種差別の足かせに縛られています。

One hundred years later, the Negro lives on a lonely island of poverty in the midst of a vast ocean of material prosperity.

100 年たった今、黒人たちは物質的繁栄の広大な海に浮かぶ貧困という孤島に暮らしています。

One hundred years later, the Negro is still languished in the corners of American society and finds himself an exile in his own land.

100 年たった今、黒人たちは今だにアメリカ社会の片隅で苦しんでいて、自分たちの国の中で島流しの状態です。


So we have come here today to dramatize a shameful condition.

私たちが今日この場に集まったのは、この恥ずべき状態を広く世に訴えるためです。

In a sense we've come to our nation's capital to cash a check.

ある意味では、私たちは、小切手を現金に換えるために、私たちの国の首都に来たのです。

When the architects of our republic wrote the magnificent words of the Constitution and the Declaration of Independence, they were signing a promissory note to which every American was to fall heir.

私たちの共和国の創設者が、憲法と独立宣言の崇高なる言葉を書き記したとき、彼らはあらゆるアメリカ人が継承すべき約束手形に署名したのです。

This note was a promise that all men, yes, black men as well as white men, would be guaranteed the "unalienable Rights" of "Life, Liberty and the pursuit of Happiness."

この手形には「生命、自由および幸福追求」という「譲ることのできない権利」が、白人と同様に黒人も、すべての人に保証されるべきであるという約束でありました。

It is obvious today that America has defaulted on this promissory note, insofar as her citizens of color are concerned.

今日、有色人種の市民に関する限り、アメリカがこの約束手形の履行を怠っていることは明白です。

Instead of honoring this sacred obligation, America has given the Negro people a bad check, a check which has come back marked "insufficient funds."

この神聖な義務を守る代わりに、アメリカは黒人たちに、「残高不足」とマークされて戻った小切手である、不渡り小切手を与えているのです。

But we refuse to believe that the bank of justice is bankrupt.

しかし、私たちは、正義の銀行までもが破産していると思うことを拒否します。

We refuse to believe that there are insufficient funds in the great vaults of opportunity of this nation.

私たちは、この国の機会の偉大なる金庫が資金不足になっていると信じることを拒否します。

And so, we've come to cash this check, a check that will give us upon demand the riches of freedom and the security of justice.

従って、私たちはこの、我々の要求に応じて自由という富と正義の保証を与えてくれると言う小切手を換金するために来たのです。

We have also come to this hallowed spot to remind America of the fierce urgency of Now.

私たちは、また、アメリカに今の激しい緊急性を思い出させるために、この神聖な場所に来ているのです。


This is no time to engage in the luxury of cooling off or to take the tranquilizing drug of gradualism.

今は、クーリングオフの贅沢にふけったり、漸進主義という精神安定剤を飲むというような悠長な時ではないのです。

Now is the time to make real the promises of democracy.

今こそ、民主主義の約束が実現されるときです。

Now is the time to rise from the dark and desolate valley of segregation to the sunlit path of racial justice.

今こそ、隔離され暗く荒涼とした谷から人種平等の陽の当たる道に上ってゆく時です。

Now is the time to lift our nation from the quicksand of racial injustice to the solid rock of brotherhood.

今こそ、私たちの国を、人種差別の泥沼から、兄弟愛の揺るぎない岩へと引き上げる時なのです。

Now is the time to make justice a reality for all of God's children.

今こそ、全ての神の子が実際に正義を手にするときです。

It would be fatal for the nation to overlook the urgency of the moment.

現在の緊急な状態を見落とすことは国家として致命的と言えます。

This sweltering summer of the Negro's legitimate discontent will not pass until there is an invigorating autumn of freedom and equality.

黒人の正当な不満が渦巻く蒸し暑い夏は、自由と平等のさわやかな秋になるまで終わらないでしょう。


Nineteen sixty-three is not an end, but a beginning.

1963年は終わりではなく始まりです。

And those who hope that the Negro needed to blow off steam and will now be content will have a rude awakening if the nation returns to business as usual.

黒人にはうっぷん晴らしが必要だったがもう収まるだろうと期待している人々は、この国をこのままもとの状態に戻すつもりなら、嫌な現実をいきなり突きつけられることとなるでしょう。

And there will be neither rest nor tranquility in America until the Negro is granted his citizenship rights.

そして、黒人に公民権が与えられるまで、休息も平穏もアメリカにはあり得な いでしょう。

The whirlwinds of revolt will continue to shake the foundations of our nation until the bright day of justice emerges.

正義が行われる明るい日になるまで、反乱の嵐は我が国の土台を揺るがし続けることになるでしょう。


But there is something that I must say to my people, who stand on the warm threshold which leads into the palace of justice.

しかし、正義の殿堂にいたる情熱的な入り口に立つ仲間に言わなければならない事があります。

In the process of gaining our rightful place, we must not be guilty of wrongful deeds.

我々の公正を得る過程で、我々は不正な行為を犯してはなりません。

Let us not seek to satisfy our thirst for freedom by drinking from the cup of bitterness and hatred.

自由への乾きを、恨みと憎悪の杯を口にすることで満たそうととしてはなりません。

We must forever conduct our struggle on the high plane of dignity and discipline.

私たちは尊厳と規律の高い次元で我々の闘いを永遠に実行しなければなりません。

We must not allow our creative protest to degenerate into physical violence.

私たちの創造的な抗議が物理的な暴力に陥るのを許してはなりません。

Again and again, we must rise to the majestic heights of meeting physical force with soul force.

繰り返し、繰り返し申します、私たちは魂の力で物理的力に立ち向かい、荘厳な高みに上らなければなりません。


The marvelous new militancy which has engulfed the Negro community must not lead us to a distrust of all white people, for many of our white brothers, as evidenced by their presence here today, have come to realize that their destiny is tied up with our destiny.

黒人社会を包み込んでいる素晴らしい新しい闘志が、全ての白人の人々に対する不信に至る必要はなく、白人の兄弟の多くは、今日ここに彼らが存在することで明らかなように、彼らの運命が我々の運命に結びつけられると理解するようになりました。

And they have come to realize that their freedom is inextricably bound to our freedom.

そして、彼らの自由が我々の自由と分かちがたく結びついていると認識しています。

We cannot walk alone.

私たちは一人では歩けません。

And as we walk, we must make the pledge that we shall always march ahead.

そして、いざ歩きだしたら、私たちは前進し続けることを心に誓わなければなりません。

We cannot turn back.

私たちは引き返すことはできません。


There are those who are asking the devotees of civil rights, "When will you be satisfied?"

公民権運動に献身する人に「あなた方はいつになったら納得するのでしょうか?」と尋ねる人たちがいます。

We can never be satisfied as long as the Negro is the victim of the unspeakable horrors of police brutality.

私たちは、黒人が警察の残虐行為による言葉に表せない恐怖の犠牲者である限り、決して満足することはできません。

We can never be satisfied as long as our bodies, heavy with the fatigue of travel, cannot gain lodging in the motels of the highways and the hotels of the cities.

私たちは、旅の疲れで重くなった身体なのに、高速道路に(黒人の) 泊まれるモーテルが無く、街に(黒人の)泊まれるホテルがない限り、 決して満足することはできません。

We cannot be satisfied as long as the negro's basic mobility is from a smaller ghetto to a larger one.

私たちは、黒人の日常的な黄道範囲が、小さなゲットーから大きなゲットーになったにすぎないのである限り満足することはできません。

We can never be satisfied as long as our children are stripped of their self-hood and robbed of their dignity by a sign stating: "For Whites Only."

私たちの子どもが「白人専用」の標識によって彼らの個性をはぎ取られ、彼らの尊厳を奪われている限り、我々は決して満足することかはできません。

We cannot be satisfied as long as a Negro in Mississippi cannot vote and a Negro in New York believes he has nothing for which to vote.

ミシシッピー州の黒人が投票することができず、ニューヨーク州の黒人が投票しても無駄だと信じる状態が続く限り、私たちは決して満足することはできません。

No, no, we are not satisfied, and we will not be satisfied until "justice rolls down like waters, and righteousness like a mighty stream."

決して、決っして、我々は満足はしない、「正義が水のようにこぼれ落ち、公正さが強力な流れになる」まで満足することはないでしょう。


I am not unmindful that some of you have come here out of great trials and tribulations.

私は、あなた方の中には大変な試練と苦難をへてここに来た人々がいる事を忘れてはいません。

Some of you have come fresh from narrow jail cells.

あなた方の中には、刑務所の狭い独房から出てきたばかりの人もいるでしょう。

And some of you have come from areas where your quest -- quest for freedom left you battered by the storms of persecution and staggered by the winds of police brutality.

また、あなた方の中には、自由を求めたために迫害の嵐に見舞われ警察の残虐行為の暴風によろめくままにされている地域から来た人もいるでしょう。

You have been the veterans of creative suffering.

あなた方は苦しみを感じることにベテランでした。

Continue to work with the faith that unearned suffering is redemptive.

不当な苦しみはあがなわれると信じて闘い続けましょう。

Go back to Mississippi, go back to Alabama, go back to South Carolina, go back to Georgia, go back to Louisiana, go back to the slums and ghettos of our northern cities, knowing that somehow this situation can and will be changed.

ミシシッピー州へ帰りましょう、アラバマ州へ帰りましょう、サウスカロライナ州へ帰りましょう、ジョージア州へ帰りましょう、ルイジアナ州へ帰りましょう、北部の街のスラムやゲットーへ帰りましょう、この状況はなんとしても打開するし、 打開されるだろうということを信じて。

Let us not wallow in the valley of despair.

絶望の谷を彷徨うのはもうやめましょう。

I say to you today, my friends, so even though we face the difficulties of today and tomorrow, I still have a dream.

わが友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわれは今日も明日も困難に直面しているが、それでもなお私には夢があると。

It is a dream deeply rooted in the American dream.

それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢です。


I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."

私には夢がある、いつの日か、この国が立ち上がり、「我々は すべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」というこの国の信条を真の意味で実現させることだ。

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

私には夢がある。ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢だ。

I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.

私には夢がある。今、差別と抑圧の炎熱に焼かれるミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変われる日が来るという夢だ。

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.

私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住めるようになるという夢だ。

I have a dream today.

私には、今日、夢がある!

I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of "interposition" and "nullification" -- one day right there in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.

私には夢がある、いつの日かアラバマ州で、目下のところ悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られ、「(連邦政府の)干渉排除」や「(連邦法の実施の)無効化」を主張している州知事のいるアラバマ州においてさえ、将来いつの日か、幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちと兄弟姉妹として手に手を取ることができるようになるという夢だ。

I have a dream today.

私には、今日、夢がある!

I have a dream that one day every valley shall be exalted, and every hill and mountain shall be madelow, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight; "and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall seeit together."

私には夢がある、いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。そして神の栄光が現れ、すべての人々が共にその栄光を見るだろう。

This is our hope.

これは私達の希望なのだ。


This is the faith that I will go back to the South with.

この信念をもって、私は南部へ戻るつもりだ。

With this faith we will be able to hew out of the mountain of despair a stone of hope.

この信念をもってすれば、絶望の山からも希望の石を切り出すこができるのだ。

With this faith we will be able to transform the jangling discords of our nation into a beautiful symphony of brotherhood.

この信念をもってすれば、我々は祖国にうずまく不協和音を人類愛のすばらしいシンフォニーに昇華することができるのだ。

With this faith we will be able to work together, to pray together, to struggle together, to go to jail together, to stand up for freedom together, knowing that we will be free one day.

この信念をもってすれば、いつの日か自由が来るのだということを信じて、我々は共に働き、共に祈り、共に闘い、共に投獄され、共に自由のために立ちあがることができるのだ。

This will be the day...., this will be the day when all of God's children will be able to sing with new meaning "My country 'tis of thee, sweet land of liberty, of thee I sing. Land where my fathers died, land of the Pilgrim's pride, from every mountainside, let freedom ring!"


そしてその日が来れば、その日が来れば、神の子はみなおしなべて、新しい意味をこめて「我が祖国よ、美しい自由の国をたたえ私は歌う。父が骨を埋めた国、開拓者の誇りとする国。すべての山々から、自由よ鳴り響け」と歌えるのだ。

And if America is to be a great nation, this must become true.

そして、アメリカが偉大な国であるならば、このことを実現しなければならない。


So let freedom ring from the prodigious hilltops Hampshire.

だから、自由の鐘を鳴らそう、ニューハンプシャー州の偉大ないただきから。

Let freedom ring from the mighty mountains of New York.

自由の鐘を鳴らそう、ニューヨーク州の悠々しき山々からも。

Let freedom ring from the heightening Alleghenies of Pennsylvania.

自由の鐘を鳴らそう、ヘペンシルベニア州にそそり立つアレギニーの山からも。

Let freedom ring from the snow-capped Rockies of Colorado.

自由の鐘を鳴らそう、雪を頂くコロラド州のロッキー山脈からも。

Let freedom ring from the curvaceous slopes of California.

自由の鐘を鳴らそう、カリフォルニア州のなだらかな山々からも。

But not only that, let freedom, ring from StoneMountain of Georgia.

それだけではない、 自由の鐘を鳴らそう、ジョージア州のストーンマウンテンからも。

Let freedom ring from Lookout Mountain of Tennessee!

自由の鐘を鳴らそう、テネシー州のルックアウトマウンテンからも。

Let freedom ring from every hill and molehill of Mississippi.

自由の鐘を鳴らそう、ミシシッピー州のすべての丘やほんの小さな塚からも

From every mountainside, let freedom ring!

すべての山々から、自由の鐘を鳴らすのだ!

And when this happens, when we allow freedom to ring, when we let it ring from every village and every hamlet, from every state and every city, we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old Negro spiritual.

そうすれば、私たちが自由の鐘を鳴り響かせば、すべての村、すべての集落から、すべての州、すべての街から、自由の鐘を鳴らせば、 すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人(非ユダヤ人)も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取りあって、あの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。

"Free at last! free at last! Thank God Almighty, we are free at last!"

「ついに自由だ、ついに自由になれた。全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ!」と。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/ネルソン・マンデラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

五輪招致スピリッツ 阿部首相、佐藤真海選手のスピーチから

 オリンピック招致の最終プレゼンテーションにおける各人のスピーチが、世界の各方面から絶賛され、様々な話題を呼んでおります。以下の記事など、、、

 ****

 高円宮妃久子さまの流麗なトリリンガルぶりに皇室の品位と底力を感じ、フェンシング太田雄貴の発信した「アスリート・ファースト(選手第一)」の理念にスポーツライターとして心を揺さぶられ、滝川クリステルの「お・も・て・な・し」の美しさは今なお耳の奥で心地よく響いている。

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 確かに高円宮妃久子さまの英語、特にフランス語には素人の私でもその流暢さを感じるものでありましたし、太田選手のアスリートとしての情熱あふれるスピーチには感銘を受けました。加えて、滝川さんの愛らしさは、ああいった場では「反則ではないか?」と思えるほど、観ている者を魅了する映像でした。

高円宮

滝川

 一方、阿部首相、特に下記の部分には、事実と異なる断言、被災者の心を逆なでする発言、などと反論や批判が散見されます。確かに、日本人であれば、一連の報道から、汚染水の地下水脈や海への流出が疑われる状況は知っており、「0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロック!」なんて「ハイ、そうですか!」とは言えません。事実と異なるコメントに憤りを覚える関係者の方がいてもおかしくないと思います。

東京電力福島第1原発について私は皆さんに約束する。状況はコントロールされている。決して東京にダメージを与えない。

汚染水による影響は福島第1原発の港湾内の0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている。


阿部

 しかしながら、私個人の正直なところを申しますと、私は阿部首相に「よく言った!」と賞賛の気持ちでおります。もっとはっきり言うならば「よくぞハッタリをかました!」ってところです。
 阿部さんは、心からオリンピックを東京に招致したかったのだと、つくづく思います。支持率のため、公共事業推進のため、などと尾ひれを付けることは簡単ですが、経済効果、不況からの脱却を目論み、強い愛国心を持っての行動として評価します。国のために、「嘘つき」呼ばわりは承知のうえ、後から「言葉の責任」を云々されることも覚悟のうえでしょう。だいたい、政治家、とりわけその国のトップが自国のために海外でハッタリの一つも言えなければ!、などとも思います。

 「嘘つき」呼ばわりや後からの「言葉の責任」は覚悟のうえ

 そもそも、スピーチにおける「嘘」や「美化」は阿部首相だけではありません。例えば、オレオレ詐欺、無差別殺人など、必ずしも今の日本は安全ではありません。他のどの国、どの街よりも安全、と言うわけではありません。「おもてなし」の心、それは日本人に特徴的かも知れませんが、一方で今の日本人に失われつつある心でもあります。幼児虐待やいじめ、亡くなられた肉親を弔う事もせずに年金をもらい続けた例など、荒んだ心に触れることはしばしばです。

 スピーチ中の「嘘」や「美化」は今の日本から失われつつあるもの

 そういう意味では、苦境、逆境を乗り越えて、未来を切り開く、現代に失われつつある強い心、強靭な精神力を、身を以て示した佐藤 真海 選手のスピーチは、上で申した大なり小なりの「嘘」と「美化」を含むスピーチとは異なる、説得力に溢れた、価値あるものだったと思います。 NHKのページに英文の全文がありましたので、日本語訳を付けて以下に記録しておきます。

佐藤

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佐藤 真海 選手 のスピーチ

Mr President, Distinguished members of the IOC. I am Mami Sato. And I am here because I was saved by sport. It taught me the values that matter in life. The values that Tokyo 2020 is determined to promote worldwide.

会長そしてIOCの委員の皆様、佐藤真海です。私がここにいられるのは、スポーツによって救われたからです。スポーツは私に人生で大切な価値を教えてくれました。その価値とは、2020年東京大会において世界に広めようとしているものです。

Today, that global vision will be outlined by: President Tsunekazu Takeda, Prime Minister Shinzo Abe, Governor Naoki Inose, Bid CEO Masato Mizuno, Bid ambassador Christel Takigawa, And double silver medallist Yuki Ota.

本日は、以下のメンバーで、そのグローバルなビジョンについてご説明いたします。招致委員会理事長、竹田恆和。内閣総理大臣、安倍晋三。東京都知事、猪瀬直樹。招致委員会副理事長兼専務理事、水野正人。招致アンバサダー、滝川クリステル。そして、過去2大会での銀メダリストである太田雄貴選手です。

Please allow me to return to my story. I was nineteen when my life changed. I was a runner. I was a swimmer. I was even a cheerleader.

私自身の話に戻ることをお許しください。19歳の時に私の人生は一変しました。私は陸上選手で、水泳もしていました。チアリーダーでもありました。

Then, just weeks after I first felt pains in my ankle, I lost my leg to cancer. Of course, it was hard. I was in despair. Until I returned to university and took up athletics.

初めて足首に痛みを感じてからたった数週間のうちに、その足を失うこととなりました。癌(骨肉種)でした。もちろん、それは私にとって辛いことで、私は絶望の淵に沈みました。でもそれは、大学に戻り陸上に取り組むことで救われました。

I found that I enjoyed setting a goal - and beating it. I developed new confidence. Most of all, I learnt that what was important was what I had, not what I had lost.

私は目標を決め、それを越えることに喜びを感じ、新しい自信が生まれました。そして何より、私にとって大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではないということを学びました。

I competed at the Paralympic Games in Athens and Beijing. I felt privileged to have been touched by the power of sport. And I was looking forward to London 2012.

私はアテネと北京のパラリンピック大会に出場しました。スポーツの力に感動させられた私は、恵まれていると感じました。2012年ロンドン大会も楽しみにしていました。

Then came the 11th of March 2011. The tsunami hit my hometown. For six days I did not know if my family were still alive. And, when I did find them, my personal happiness was nothing compared to the sadness of the nation.

しかし、2011年3月11日、津波が私の故郷の町を襲いました。6日もの間、私は自分の家族がまだ無事でいるかどうかわかりませんでした。そして家族を見つけ出したとき、自分の個人的な幸せは、国民の深い悲しみと比較できるものではありませんでした。

I collected messages from schools and took them home. And shared with the people my own experiences. I also took food supplies. And other athletes did the same. Together, we organised sport activities to help restore confidence.

私はいろいろな学校からメッセージを集めて故郷に持ち帰りました。私自身の経験を人々に話しました。食糧も持って行きました。ほかのアスリートたちも同じことをしました私達はいっしょになってスポーツ活動を準備して、自信を取り戻すお手伝いをしました。

Only then did I see the true power of sport. To create new dreams and smiles. To give hope. To bring people together.

そのとき初めて、私はスポーツの真の力を目の当たりにしたのです。新たな夢と笑顔を育む力。希望をもたらす力。人々を結びつける力。

More than 200 athletes, Japanese and international, making almost 1,000 visits to the affected area, are inspiring more than 50,000 children.

200人を超えるアスリートたちが、日本そして世界から、被災地におよそ1,000回も足を運びながら50,000人以上の子どもたちを励ましてくれています。

What we have seen is the impact of the Olympic Values as never before in Japan. And what the country has witnessed is that those precious Values, Excellence, Friendship and Respect, can be so much more than just words.

私達が目にしたものは、かつて日本ではみられなかったオリンピックの価値が及ぼす力です。そして、日本が目の当たりにしたのは、これらの貴重な価値、卓越、友情、尊敬が、言葉以上の大きな力をもつということです。

 *****

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaiyumiko/20130910-00028001/
http://www3.nhk.or.jp/news/0904olympic/presentation.html

映画「エデンの東」、ジュリー・ハリスさん死去

 一昨日、8月24日、映画「エデンの東」(East of Eden, 1955年)でジェームズ・ディーンの相手役を務めた米女優のジュリー・ハリスさんが米北東部マサチューセッツ州の自宅で心不全のため亡くなられたとのこと、87歳とご高齢には最初、少し驚きました。私が知っている彼女は、永遠に「エデンの東」の中の聡明で愛情深い女性“アブラ”でありましたから、、、。

East of Eden2
映画「エデンの東」

ジュリー・ハリス
ジュリー・ハリス 「エデンの東」のワンシーン

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ジェームズ・ディーン「エデンの東」のワンシーン

 私にとっては主人公キャルを演じたジェームズ・ディーンの影がある演技も好きでしたけれど、ジュリー・ハリスさんの観覧車でキャルとキスする時の葛藤の表情、エンディングのキャルの父アダムに対する心を込めた懇願がいつまでも心に残っております。
 エリア・カザン監督、ジョン・スタインベックの同名小説をポール・オズボーン脚色、24歳で事故死したジェームズ・ディーンが初の主演映画で彼はこの役でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた、レナード・ローゼンマン氏作曲の名曲もあり、有名な名作ですので観た人は多いと思いますが、いつまでも私の心に残る作品を、ちょっとご紹介させて下さい。

◇ 物語の基礎となったカインとアベル

 「エデンの東」は、スタインベック氏が小説の執筆に際して、旧約聖書「創世記」第4章に登場する、アダムとイヴの息子たち、兄のカインと弟のアベルを題材に、父親からの愛を切望する息子の葛藤、反発、そして原罪などを描いたものと思われます。ですから、登場人物の名前は聖書に出て来る名前に類似しています。

 弟  キャル = カイン(聖書では兄)
 兄  アロン = アベル(同弟)
 父  アダム = アダム(同父)
 恋人 アブラ = アブラム?(別の時代の男性)


 エデンの園にて、主なるエホバ神よりアダム(男)は「善悪の知識の実」だけは食べてはならないと言われていましたが、その後に創造されたイブ(女)が蛇に騙されてその実を食べてしまい、アダムにもそれを勧めてアダムも食べて、エホバはアダムとイブをエデンの園から追放しました(失楽園)。

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アダムとイブ(アルブレヒト・デューラー画)

 カインとアベルは、アダムとイヴがエデンの園を追われた後に生まれた兄弟であり、兄のカインは農耕を行い、アベルは羊を放牧するようになりました。
 ある日、二人は各自の収穫物をエホバに捧げることとなり、カインは農耕による収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げました。しかし、エホバはアベルの供物に興味を示すものの、カインの供物は無視したため、カインは嫉妬にかられて野原にアベルを誘い殺害してしまいます。その後、エホバにアベルの行方を問われたカインは「知りません。私は弟の監視をする者(子守り)なのですか?」と答えたとされます。これが人間のついた最初の嘘とされています。

 人類最初の殺人者
 人間がついた初めての嘘


 大地に流されたアベルの血はエホバに対してカインの罪を訴え、エホバはカインを「エデンの東」にあるノド(「さすらい」の意)の地に追放しました。

 カインの追放先が「エデンの東」

 これがスタインベック氏の「エデンの東」の題名の由来であり、ストーリーの基本となる逸話であります。テーマは「愛と原罪」と言えるかも知れません。

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アベルを死へと導くカイン(ジェームズ・ティソ画)


◇ 映画「エデンの東」ストーリー

 1917年、アメリカ合衆国カリフォルニア州サリナス、トラスク家の双子の兄弟の次男ケイレブ(キャル)は、無賃乗車してモントレーの港町に通っていました。そこにあるいかがわしい酒場を経営しているケートが、死んだと聞かされていた自分の母親かも知れないとの情報を得て、探りを入れていたのです。父アダムに問いただしたことはありましたが、父は母との不和を話したものの、彼女は死んだと念を押されます。

 キャルが探っていた両親の過去

 キャルは不真面目な不良青年の印象で、優等生の良い子である兄アロンが父より評価されているのを不満に思っていました。父アダム・トラスクもアロンも聖人君子のような人間で、世の中の汚いこと、醜いものに対して目を背けるタイプの人間でありました。ある日、キャルは「父から愛されていない」という悩みを兄アロンの恋人アブラに打ち明けます。キャルに対して恐怖心を抱いていたアブラも、後妻を迎えた自分の父親に対して同じ悩みを抱えていたことを語り、初めてキャルとアブラの心が通い合います。

 劣等生の弟キャルと優等生の兄アロン
 アロンの恋人アブラはキャルに共感


 そんな中、父アダムは冷凍保存したレタスをニューヨークに輸送する事業に失敗し多額の借金を負います。キャルは父の損失を取り戻すため、戦争で値段が高騰すると考えられた豆の栽培を計画し、モントレーのいかがわしい店で働くキャルとアロンの母、ケートのもとへ向かい資金を求めます。そこで、ケートが家を出た理由は自由を求めたから、アダムがインディアンとの戦いで負ったと言っていた傷はケートが家を出るときに彼女に撃たれて負ったとのこと、ケートも息子キャルと同じようにアダムから聖書を引用した叱責を受けたこと、などが語られ、話の最後に資金の提供を受けることになります。結果として、戦争を控えて、豆の栽培とその販売は大成功を納め、キャルは大金を手にすることとなります。

 父アダムの事業失敗をキャルは取り返そうと画策するが、、、

 戦争が始まったある祭りの場でキャルは、アロンと待ち合わせしていたアブラと偶然に出会います。アロンとの待ち合わせの時間までアブラはキャルと行動を共にします。二人は観覧車に乗り、アブラは、アロンとの間には何か違和感を感じること、アロンは美しいもの、正しいもの、善に目が向いており、母のいないアロンが自分に対して美しい母親の像を求めていることをキャルに打ち明けます。アブラは、自分はそんなに善人ではない、アロンは本当の自分を愛しているのではなく、美化した母親を自分に求めているのではないか?、そんな誰にも言えない気持ちをキャルに話したのです。二人は先のキャルの打ち明け話と併せて、同様な気持ちを共有し、急速に愛が芽生えます。以下、観覧車でのシーンを撮影しました。

 観覧車の中で愛情が通い合ったキャルとアブラ

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 豆の取引で得た利益を父に渡すタイミングを考えたキャルは父アダムの誕生会をアブラと共に計画します。しかし、アダムはその頃、戦争における徴兵を選ぶ辛い立場にあり、戦争のおかげで利益を得たキャルの金は邪悪だとして受け取れないと断ります。一方、兄、アロンはアブラの意向を聞かずにアブラとの婚約をアダムに誕生プレゼントとして伝え、これに対してアダムはこの上無い清らかなものとして喜びます。
 キャルは自分の贈り物を邪悪として断り、兄には笑顔を向ける父アダムに絶望して激しく嘆きます。そして、アロンをモントレーにいる母、ケートと店で対面させるという報復を行います。アロンは美しい母親の幻想を持っていたため激しく傷つき、狂乱し、誰彼かまわず喧嘩をふっかけ、その日のうちに戦争に向けて出兵します。アロンの行方をアダムに問われたキャルは「知らないね、僕は兄さんの子守りじゃない!」と返答し、ケートが家を出た理由にも触れ、父との決別を告げます。

 キャルの贈り物は邪悪、アロンのアブラとの婚約は美しいもの
 キャルはアロンが美化して考えていた実母にモンテレーで会わせる
 アロンは激しく傷つき、狂乱し、その日のうちに戦争に向けて出兵


 アロンの出兵を駅で見たアダムは脳卒中を起こしてその場で倒れます。聖書の中でカインがエデンの東へ追われたように、自分もどこかに去らねばならないと決意したキャルはアダムの前で最後の懺悔を告げます。その時、アブラは無動無言のアダムに対して、キャルが父の愛を求めていたことを語り、このままではキャルは一生が破滅であるとして、キャルに対するささやかな愛情を示して欲しいと懇願します。この時の原文を入手しましたので、日本語訳を付けて掲載いたします。

 脳卒中で倒れたアダムにキャルへの愛情を懇願するアブラ

 +++++

Mr. Trask, it's awful not to be loved. It's the worst thing in the world. Don't ask me, even if you could, how I know that. I just know it. It makes you mean and violent and cruel.

 トラスクさん、愛されないというの辛いことです。この世の中で一番辛いです。何故そんなことがわかるかなんて聞かないで下さい。私にも覚えがあります。愛されないと心がねじれます。

And that's the way Cal has always felt, Mr. Trask. All his life! Maybe you didn't mean it that way but it's true. You never gave him your love. You never asked for his. You never asked him for one thing.

 これはキャルがいつも感じてきたことなのです、トラスクさん。彼の人生においてずっとです。貴方の本心ではないでしょうけれど、これは真実です。貴方はけっして彼に愛を与えず、彼に愛を求めませんでした。彼に何一つ求めはしませんでした。

Cal did something very bad and I'm not asking you to forgive him or bless him or anything like that. Cal has got to forgive you for not having loved him or for not having shown your love. And he has forgiven you. I know he has.

 キャルはとても悪いことをしてしまいました。私は貴方ににそれを許して欲しいとも認めて欲しいとも、何かして欲しいとも言うつもりはありません。キャルは貴方が彼を愛さなかったこと、貴方が愛を表さなかったことを許さなければなりません。そう、キャルは貴方のことを許します。私には分かります。

But you must give him some sign, Mr.Trask,,,,some sign that you love him or he'll never be a man. All his life he'll feel guilty and alone unless you release him.

 でも貴方は彼になにか示して下さい、トラスクさん、彼への愛を示して下さい、でないと彼は破滅です。彼の心の鎖を解かなければ、彼は一生罪人です。

I love Cal, Mr. Trask. And I want him to be happy and strong and whole. And only you can do it. Try! Please try! Find a way to show him! Ask for something. Let him help you, so he knows you love him.

 私はキャルを愛しています、トラスクさん。私は彼にずっと幸せで強くいて欲しいです。そしてそれは貴方にしか出来ません。お願いです。何か彼に示して下さい。彼に何かを求めれば、彼は貴方の愛を悟ります。

 +++++

 アブラに「今を逃したらお父さまと話す機会は永遠にない」と促されてアダムのベッドサイドにキャルは行きます。アダムは「あの看護師は我慢がならない!」と告げ、キャルに看護婦に替わって付き添ってくれと頼みます。キャルの心が報われた瞬間でありました。以下、テレビの撮影で供覧します映画のラストシーンです。

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http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2501K_V20C13A8CC1000/?dg=1
http://ja.wikipedia.org/wiki/エデンの東_(映画)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュリー・ハリス
http://ja.wikipedia.org/wiki/カインとアベル


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「父ちゃんのポーが聞こえる <則子・その愛と死>」

父ちゃんのポーが聞こえる01 のコピー

 若いヒトに己の経験した「生と死」を伝えたいとしてブラックジャックをご紹介しましたが、もう少し芸術的なところでは、私が幼稚園の頃に実家においてあって、何度も反復して読んでは「将来は必ず医者になる!」と意志を固めていった詩集がございます。立山連峰の麓、高岡市〜富山市で、小学校6年生より発病して、その翌年から昭和45年7月26日21歳で亡くなるまでの9年間をずっと病院で過ごしたハンチントン舞踏病の少女、故松本則子さんが遺した詩集であります。私はいつの日か、彼女の過ごした土地を訪れたいと考えておりましたが、やっと平成21年5月の連休、当地に赴くことができました。この際には、40年近くの歳月を経て、己が医者になるきっかけとなった人物の郷里に立ち、胸が熱くなったのを思い出します。なお、この詩集は映画にもなりました。

映画父ちゃんのポーが聞こえる

 ハンチントン舞踏病の少女が遺した詩集

 徐々に転倒する頻度が多くなってきた彼女は、いよいよ普通の中学生としての生活は困難となり、昭和38年9月より高岡市民病院こまどり学級と言う特殊学級に入りました。当時、約1年間は確実な診断に至らず、徐々に症状が悪化するにつれ、すでに亡くなられていた母親より遺伝した病気であることが判明したようです。下記に詳しい病態を示しますが、常染色体優性遺伝とのことですので、両親のどちらかにその遺伝子があれば1/2の確率で遺伝します。徐々に全身の筋肉が動かなくなり、意志とは関係なく踊るような不随意運動が出ることから「舞踏病」と名付けられており、最後には呼吸筋も動かなくなるため窒息あるいは肺炎で亡くなることが多いようです。

父ちゃんのポーが聞こえる03 のコピー

父と本人

 *****

【ハンチントン舞踏病】
 大脳中心部にある線条体尾状核の神経細胞が変性・脱落することにより進行性の不随意運動(舞踏様運動)、認識力低下、情動障害等の症状が現れる病態。常染色体優性遺伝。日本では特定疾患に認定された指定難病である。
 原因となる変異をもつ場合には、高い確率で40歳前後に発症し、10-20年かけて進行する。世代を経るごとにその発症年齢が早くなること、父親から原因遺伝子を受け継いだときにそれが顕著になる現象も知られている。1872年に米国ロングアイランドの医師ジョージ・ハンチントン(George Huntington)によって報告され、人種により異なるが白人での発生率は5-10/100,000、アジア人、アフリカ人ではその数十分の1となる。
 遺伝性疾患の為に、2006年現在では根本的な治療法や進行を防止する治療法は現在のところ確立されていない。

 *****


 こまどり学級の頃より詩を書き始めた故松本さんは、昭和40年3月に同学級を卒業、富山市にある肢体不自由児の施設である高志学園に移動となりましたが、郷里の高岡からは離れているため、大好きな父親は頻繁には病院に来れなくなり、「寂しい想いから詩のひとつひとつに命をこめたました」との記載が詩集にあります。そんな時、その、機関士であった父親が、高志学園の付近を客車を引いて走ることとなり、学園の近くを通る定まった時間に汽笛を鳴らす約束をします。父親の汽笛を聞いた時にしたためた詩が以下です。

 ポー 
 汽笛がこだまする
 空に小さく消えて行く
 午後四時四十五分ちょうど
 父だ
 父の引いている列車が高山線を走っているのだ

 ポー
 胸の奥でひそかに
 則子も声ない汽笛をあげる
 涙が頬をこぼれ落ちた
 <40.4.9>


高志学園

富山病院


 昭和44年2月、いよいよ重症で手がかかり、治る見通しもない故松本さんは古里保養園(現、国立療養所富山病院)に移動となりましたが、当時の障害者に対する医療は必ずしも満足できるものではなかったようで、トイレや便器での排泄はさせてもらえずオムツをさせられていたそうです。年頃の女の子にとっていかにも忍び難いことだったと思われます。ある時、看護師が病室を覗くとベッドから抜け出した彼女が扉の近くで転がっていたことがあり、病室を抜け出したい一心で転がって来たようで、これに対して病院側は二度としないようにベッドを柵で囲う処置をとったそうです。心が痛みます。以下、いくつか詩集の中から抜粋してご紹介いたします。

 私は 健康で 明るくって
 人から愛される娘になりたかった
 そして平々凡々と一生を送りたかった
 あたりまえの あたりまえの 女の子であってほしかった
 でも そうでない私—
 自分の病気を考えると死にたくなることだって 時々
 ・・・・・
 「死ぬ勇気があるのなら生きなさい」
 そう
 私は生きたい
 生きるからには 一生けんめいにと心にちかう私


  **

 うれしいこと
 それは お便所から出てくると
 歩行器が部屋の方向に向けてあるとき
 だれがしてくれるのか
 しらないけれど うれしい


  **

 私は父が好きだ
 ほんとうにこの世で
 一番尊敬し 愛する
  シュバイツアーより
  ワシントンより
  ヘレン・ケラーより
  ほんとに私の知ってる限り
  最高に 最高の人である
 私はずい分チビッ子の頃からの
 お父ちゃん子である
 で 私は大きくなったら
 おとうちゃんに せいいっぱいの孝行を
 しなくちゃ
 と思っていた
 それなのにー
 運命のバッキャローめ
   私は父の為に生きて
   いるのかもしれない
   私が死んだら
   泣いてくれるのは
   父ちゃんだけかもしれない
 泣いた ひとりで
 涙で顔が
 クシャクシャになった


  **

 今日も、父ちゃんのポーが聞こえた
 うれしくって、とても悲しかった


  **

 愛することはたやすいが、愛されることはむずかしい?
 愛されたくて、愛したんじゃないといいきれる?

 愛されるのは資格がいるけど
 愛するのはいいでしょう?


  **

 おお だるい だるい
 このだるさ ひだるさ
 全身をめぐる
 このだるさというやつ
 進行性筋萎縮症の
 結末は「死」であるという
 私もそういう「死」というやつを
 予期せずして
 予想していなければならない
  死にたくない
  けれども 死ぬ
  たまらない人生

 死ぬトキ
 「幸福でした」といって 死にたい


  **

 苦しみぬいたと
 うぬぼれてはならない
 苦しみきれぬと
 絶望してはならない
 たえず苦しめ
 苦しみの上にあれ
 そしてほほえめ
 苦しみは
 波のようなものではないか
 磯岩をかむその波 波
 海藻を洗う波 波


  **

 失ったものを数えるな
 残ったものを数えろ!


  **


詩1
「立山連峰に身を捧げたい」左手で書いた直筆の詩

立山

 最近では脊髄小脳変性症の少女、「1リットルの涙」が有名です。どんなかたちのものであろうと、病気と向き合って生きてゆく生き様を見ると命の尊さや生きる事の意味(人生観)、逆に死とはどういうものか(死生観)が見えて来ることもあろうかと思います。

父ちゃんのポーが聞こえる 則子・その愛と死 松本則子著 1971年 立原書房
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハンチントン病


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ブラック・ジャック「絵が死んでいる!」から、、、解ってほしい! ヒトが生きること、ヒトが死ぬことを

広島・少女遺体遺棄事件

 今、メディアを騒がせている事件があります。広島県呉市の山中に若い女性の遺体を遺棄したとして男女7人が逮捕された事件で、元々は、最初に自首した広島市の少女(16)が被害者とみられる元同級生(16)との間で接客サービスにおける金銭トラブルがあったとのこと、、、。この最初に自首した少女は約1年前に広島市内の高等専修学校を中退、元同級生ら数人と一緒に接客サービスを始め、取りまとめ役をしていたそうです。周囲に「1月で100万円ぐらい稼いだ」などと話していたこともあったそうで、元同級生と売上金の分配をめぐってトラブルになった可能性があるとされています。

広島少女事件

 少女は調べに対し無料通話アプリ、LINE(ライン)で、元同級生に「死ね」、「人間じゃない」などの悪口を書かれたことが犯行の動機と供述しており、6月27日深夜~28日未明、広島市中区内で友人ら6人と合流、広島県内の少女(16)に電話で元同級生を呼び出させ、少女らは現れた元同級生を車に乗せ、行き先を告げないまま灰ケ峰山中に向かい、車中から暴行を加えたとのことです。複数の少年少女らは「みんなで暴行を加えた」「殴ったり首を絞めたりして殺害した」などと供述、28日早朝、最初に自首した少女とほか数人が遺体を約20メートル運び、崖下に遺棄したとみられております。

 ラインの文章に見え隠れするヒトの死に対する認識の低さ

 以下に、公開されている少女たちが会話したラインの文章の一部を掲載いたします。いかに暴力や殺人と言うものに対して無頓着になっているか!、しかしながら、私の娘たちを含む今の若い世代にはこうした会話がもしかしたらありがちなのではないか?、と思わせる、そんな会話が見られます。

 *****

◇ 公開されたラインの文章

 「○○ゆうやつ」
 「いま行方不明でさがされよる」
 「なんで殺したん?」
 「わからん はらたったけん」
 「まって」
 「一から説明できる?」
 「○○ってこと会ったときに?」

 「グルチャでいいあいになって、
  いまからこいやゆてなってあって、
  タクシーではいがみねいって、
  殴って蹴ってやら根性焼きやらしよおたら
  あんま動かんくなって、
  それで首絞めて最後に首の骨おって
  なげてすてた」
 「なんで喧嘩なったん?」
 「あいつが喧嘩うってきた」
 「グルチャでいいあいしおたけないようおぼえてないけど、
  人間ぢゃないとか? しねとかー
  で、ころしたるわいゆうてゆたらわかった
  ころしにこいやゆうけえころしたった」

 *****


 正直申し上げて「またか!」と言う感覚でおります。今に始まったことではないのですが、最近の若者はつまらないことでヒトを死に追いやってしまいます。いじめや暴力、幼児や弱者への虐待、自らの自殺、等々、、、。例えば以前に紹介した神風特別攻撃隊が敵の戦艦に体当たりして死に急ぐ、それは愛する者の命を守るための行為であり、必ずしも己の命を粗末にした結果ではありません。今の若者の命に対する認識の低さは、ネットをはじめとする刺激的なメディアやテレビゲームなどの影響はあるでしょうけれど、それとは別に、もっと上の私たち大人が命の尊さ、生きるということの大切さを教えきれていないのかも知れません。

 我々、大人が命の尊さを教えきれていないのではないか?

 私は日々のライフワークとして医療講演を行っており、その中には小中学生を対象とした「生と死」と題したものがあります。そのスライドでは故手塚治虫氏の漫画を引用して、ヒトが生きること、死ぬことの大きさを子供たちに訴えております。この場を借りて、故手塚氏のブラックジャック(1973年11月19日 開始)の中のある1話をご紹介いたします。営利目的のブログではありませんので著作権等のご指摘はご容赦いただければ幸いです。

 *****

 1975年8月18日 ブラックジャック 
 第86話『絵が死んでいる!』
 手塚 治虫 著

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 画家のゴ・ギャンはある自然が残る島で絵を描いていましたが、突然K国の核実験の犠牲となってしまいます。

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 瀕死の重傷を負った彼は、名医ブラックジャックを呼び、画家として「地獄絵を描き上げなければ死んでも死にきれない」と治療を懇願します。

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 ブラックジャックは診察の後に、最後の手段としてゴ・ギャンの脳を別の健常な身体に移植するしかないと説明、手術に及びます。

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 手術は成功し、別の肉体で蘇った彼は早速、キャンバスに向かい、核実験の光景を描き始めます。ところが、元気になってしまうとどうしても自分が満足できる物が描けないとこぼし始め、ついには筆を折ってしまいます。

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 それから1年あまりが過ぎて、ブラックジャックの元に急の電話、ゴ・ギャンが脳に再発して昏睡状態になったとのこと、、、。彼は書きかけの絵画を完成させたいと希望し、死に瀕しながらキャンバスの前に立ちます。

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 彼は絵画を完成して、ついに倒れました。自分が死ぬ瞬間にして、己の訴えたかったこの世の地獄を描ききったのであります。呼吸停止状態を見た医師の「手おくれでしょう?」との問いに、ブラックジャックは「いや、(絵を書くのに)手おくれではなかった」と返答する、そのゴ・ギャンの顔は満足な笑みを浮かべておりました。

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 ヒトの生き死にを尊ぶ教え方はどのような形ででも伝えられます。ちまたに溢れる刺激的で残虐な映像やストーリー以上に、小さな命の大切さを知る機会は数えきれなくあります。故手塚氏は、健康な時には失われていることがあっても、死が目前に迫って蘇るものがあり、苦しみに耐えて生きることにより得られる人生の満足や大きな仕事があること、そして生き方によってはヒトは短くとも情熱に溢れて充実した生が得られることを言いたかったのだと思います。

 若いヒトに己の経験した「生と死」を伝え続けることの意義

 故手塚治虫氏の一つの漫画の中に生きることと死ぬことが取り上げられており、これを紹介させていただきました。特別な状況を設定しなくとも、ヒトの生き死には日常茶飯事であり、そこかしこにそれぞえの人生があります。私達は若者に、もしかして「うざい」と言われながらも、己の経験した「生と死」を伝え続けて良いと思います。いつの日か、ヒトの命の尊さを解ってくれるときが来る日まで、、、。

http://www.phoenix.to/75/bj86.html

科学?/非科学? いろは歌に隠された暗号?

 いろは歌のご紹介をしましたが、実はこの歌には暗号文が隠されているとの説(?)もあります。こちらはスピリチュアルと言うよりもその周辺、むしろ科学と非科学の境界領域としての扱いになりますが、「こういう考え方もある!」、と言うことです。

 いくつかの仮説において、基本的には下図の如くいろは歌を7字ずつに区切った升目で記して論じております。これは仮説を確からしくするためではなく、古来からいろは歌は、七文字ずつに区切って記されており、先の記事に載せました「金光明最勝王経音義」(1079年)に記されたいろは歌も、七文字ずつに区切られ、七行で記されています。理由は不明であり、こうしたところは暗号説を後押しするところかと存じます。

いろは7x7
図1.いろは歌を含む7x7升目

◇ イエス・キリストの処刑を示す暗号との説

 下図に示す通り、いろは歌の升目の上部(青線枠、青字)を左から読みますと「いちよらやあえ(ゑ)」となります。この言葉を「イチ・ヨラ・ヤアエ」から「イーシ・エル・ヤハウェ」と読み替え、さらにヘブライ語の「イーシ」は人、「エル」は神、「ヤハウェ」は聖書に出てくる神の名と解釈すると以下の如く「神ヤハウェの人」(つまりイエス)となります。

いろは仮説1
図2.いろは歌升目の上部(青線枠、青字)と下部(赤線枠、赤字)に注目

 「イチ・ヨラ・ヤアエ」
    ↓    
 「イーシ・エル・ヤハウェ」
    ↓
 「神ヤハウェの人」(つまりイエス)


 さらに、上図のいろは歌升目の下部(赤線枠、赤字)を左から読みますと「とかなくてしす」となります。これはそのまま「咎なくて死す」となり、上述と併せて、「神ヤハウェの人(イエス) 咎なくて死す」と読めるとの説です。

 「神ヤハウェの人(イエス) 咎なくて死す」

 また別の見方としては、下図の如くいろは歌の升目の上右、上左、下左の隅(青線枠、青字)を読むと「いゑ(え)す=イエス」となり、先の「とかなくてしす」(「す」はイエスの「す」と)重複)と併せて、「イエス、咎なくて死す」と言う暗号が含まれているとの主張です。

いろは仮説2
図3.いろは歌升目の上右、上左、下左の隅(青線枠、青字)を読むと「イエス」、下部(赤線枠、赤字)を左から読むと「咎なくて死す」
 
 「イエス、咎なくて死す」

◇ 五・七・五・七・七で救世主イエスを讃える暗号との説

 さらにすごい発想があります。いろは歌の升目の上部(青線枠、青字)を左から5文字まで読み「いちよらや」(図4、青線枠、青字)、左端までいったところで右斜め下方に読み下がり「あゑ(え)さけゐ(い)つわ」(図5、青線枠、青字)、さらに下部を右から左に5文字まで読み「とかなくて」(図6、青線枠、青字)、、、。

いろは仮説3−1
図4.いろは歌升目の上部(青線枠、青字)を左から5文字まで読み「いちよらや」

いろは仮説3−2
図5.左端までいったところで右斜め下方に読み下がり「あゑ(え)さけゐ(い)つわ」

いろは仮説3−3
図6.さらに下部を右から左に5文字まで読み「とかなくて」

 次は図7(青線枠、青字)の如く、下部左端の「し」より斜めに上がった「す」から斜めに一つ下がって「み」より斜め右上に上がって行き、全部あわせて「しすみこゐ(い)れり」、最後には左上より一文字おきに降りて来て、「いはほと」から左に一文字おき「なて」(図8、青線枠、青字)、併せて「いはほとなて」となりました。

いろは仮説3−4
図7.下部左端の「し」より斜めに上がった「す」から斜めに一つ下がって「み」より斜め右上に上がって行き、全部あわせて「しすみこゐ(い)れり」

いろは仮説図8
図8.最後には左上より一文字おきに降りて来て、「いはほと」から左に一文字おき「なて」、

 これを全て合わせますと下記の短歌となり、それを解釈したのが矢印以下とのことです。

いちよらや あえさけいつわ とかなくて 
しすみこいれり いはほとなて
    ↓    
素晴らしい神の人は 八重桜に隠された逸話となり 
罪無くして死んだ御子イエスこそ 救いを完結する救世主である


 暗号の解き方、解釈に仕方など、多くの部分で省略いたしました。詳しくあURLを記しておりますのでそちらを参考にして下さい。私的には、激しく突飛な発想に賛否の姿勢を明らかにするまでも無いですが、一つだけ歴史上の事実(少なくとも言い伝え)に、上で申し上げた暗号説を後押しするものがあります。それは聖徳太子がイエス・キリストと同じく馬小屋で生まれたとの逸話です。

 聖徳大使はイエスと同じく馬小屋で生まれたとの言い伝え

 イエス・キリストは、その両親であるヨセフと妊婦であったマリアが、住民登録のために先祖の町ベツレヘムへ赴く途中に産気付き、その付近の馬小屋を借り手イエスを出産したと言われています。聖徳太子の本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)であり、母が実母である蘇我小姉君の実家で出産したため、つまり叔父・蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸(うまやど、うまやと)と付けられたとする説や、生誕地の近辺に厩戸という地名があり、そこから名付けられたとする説がありますが、厩戸の前で出生したことによるとの伝説もあります。彼は、イエスとは異なるバリバリの皇族であり、後の用明天皇の第二皇子、母親は欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女であり、臨月を迎えた穴穂部間人皇女が馬小屋あたりで産気付くことには疑問が残ります。これに対して、紀元前4年のイエス・キリストの生誕が、紀元後574年の聖徳太子の出生の言い伝えに関与したとの可能性はあると思います。

イエスと聖徳太子


http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/049irohauta.htm
http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=165
http://ja.wikipedia.org/wiki/イエス・キリスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/聖徳太子


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「いろはにほへと」のスピリチュアル

 今日は「いろはにほへと」をご紹介します。ご存知の通り、平仮名47(48)文字全てをそれぞれ1度ずつ使って作られた「いろは歌」のことです。お恥ずかしながらつい最近まで、五十音順(あいうえお順)が一般化される以前のひらがな教育(手習い)の教材、あるいは日本語における箇条書きの順番法(火消しの「いろは組」のような)として用いらるもの、その程度の認識でありました。

 ひらがなの手習いの教材または箇条書きの順番法との認識?
 実は「涅槃経」の諸行無常、是正滅法、生滅滅己、寂滅為楽を歌う

 あるかたから、この平安時代末期に流行した「いろは歌」には『涅槃経(ねはんきょう)』の
「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を教えられましたので、元々知っている方はスルーいただき、ここにご紹介いたします。
 ちなみに、作者、起源は正確には不明であり、院政期以来卜部兼方の『釈日本紀』には、いろは歌は空海の作であるとしていますが、真言宗系の学僧、空海よりさらに古い時代の柿本人麻呂を作者とする説、讒言で大宰府に左遷された源高明が作ったなどの説もあります。

いろは歌
現存で日本最古のいろは歌。「金光明最勝王経音義」にあり、万葉がなで記されている。各行の末尾の字を読むと「とかなくてしす」(咎なくて死す)、各行の初めの文字を読むと「いちよらやあえ」となる。

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『いろは歌』

◇ いろはにほへと ちりぬるを
  色は匂へど   散りぬるを

香りよく色美しく咲き誇っている花も やがては散ってしまう
 =諸行無常

 この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないものである。

◇ わかよたれそ  つねならむ
  我が世誰そ   常ならむ

この世に生きる私たちとて いつまでも生き続けられるものではなく
 =是生滅法

 あらゆる事物は生まれてから滅っするまで変化しうつろいゆくという生滅の法則に従っている。

◇ うゐのおくやま けふこえて
  有為の奥山   今日越えて

この無常の有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて、、、
 =生滅滅己

 生まれてから死に至るまでの変化しうつろうことを是認して、無常であることに捕らわれなければ、、、

◇ あさきゆめみし ゑひもせすん
  浅き夢見じ   酔ひもせず

もはや儚い夢を見ることなく 仮相の世界に酔いしれることもない
 =寂滅為楽

 悟りの世界に至れば、迷いの世界から離れた心安らかな悟りの境地が、楽しいものである。

 *****

 平仮名47(48)文字全てをそれぞれ1度ずつ使って作られた文章にこの世の無常から悟りの境地までを歌う、日本の美しい分化、スピリチュアルを感じる次第です。

 もう一つ、「鳥啼歌」と言うのもご紹介します。明治36年、万朝報という新聞で、新しいいろは歌(国音の歌)が募集され、通常のいろは歌に「ん」を含んだ48文字という条件で作成されたものでです。坂本百次郎と言う方が一位に選ばれました。「いろは順」に対して「とりな順」とも呼ばれています。

 *****

『鳥啼歌』

◇ とりなくこゑす ゆめさませ
  鳥啼く声す   夢覚ませ

鳥が鳴く声がしますよ。夢から目覚めなさい。

◇ みよあけわたる ひんかしを
  見よ明け渡る  東を

ごらんなさい、東の日の出の明るいお空を。

◇ そらいろはえて おきつへに
  空色栄えて   沖つ辺に

暁の空の色に染まる、沖の水平線のかなた。

◇ ほふねむれゐぬ もやのうち
  帆船群れゐぬ  靄の中

朝もやの中、帆をかけ船が集まっていますよ。

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 早朝の明るい1日の始まる歌ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/いろは順
http://ja.wikipedia.org/wiki/五十音順
http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/konitan/iroha.htm
http://mwlab.net/2010/03/鳥啼歌.html

「誕生」に聴く 中島みゆき の力強いスピリット

 テレビ番組からふと思い出した事件、さだまさしの楽曲にまで言及して、「スピリチュアルの周辺」と称して なんでもあり! となって来ましたことご容赦ください。音楽には、時として、その作曲家、作詞家の心の底、精神世界が反映されていることがあると思います。とりわけかつてフォークソングと呼ばれたシンガーソングライターの歌にはアーチストの経験や心情が込められた作品が少なくないでしょう。今ひとつ、私のスピリチュアルをかき立てる1曲をご紹介いたします。中島みゆきさんの「誕生」と言う曲です。

 1992年 映画「奇跡の山 さよなら、名犬平治」の主題歌『誕生』

奇跡の山 さよなら、名犬平治

 1992年公開、映画「奇跡の山 さよなら、名犬平治」の主題歌で、2004年6月30日にTBS系列で放送された水曜プレミア特別企画「つぐない」の主題歌としても起用されました。シングルとして発売されましたが大きなヒットとはならず、しかしながら、名もなき者たちへの無条件の慈愛に満ちた賛歌として、中島みゆきファンのみならずたいへん人気のある曲で、「この曲に力付けられました!」と言うコメントをしばしば見かけます。
 歌詞全文にフレーズ毎に私見を交えた解説をお許しください。人それぞれに感じ方はあると思いますが、私はこの曲に中島みゆきさんの力強いスピリットを感じます。

 *****

 『誕生』 作詞・作曲:中島みゆき


中島 誕生
「誕生」シングル(左)と「誕生」が収録されたアルバム「EAST ASIA」(右)

 ひとりでも私は 生きられるけど
 でも誰かとならば 人生ははるかに違う
 強気で 強気で 生きてる人ほど
 些細な寂しさで つまずくものよ


 独りで頑張って来られたみゆきさんの強がりと寂しさ、自らの経験を語っているようにも聴かれますが、世の中にたくさんいる独りで頑張る男女にありがちな心情をうたっていると思います。

 呼んでも 呼んでもとどかぬ恋でも
 むなしい恋なんて ある筈がないと言ってよ
 待っても 待っても 戻らぬ恋でも
 無駄な月日なんて ないと言ってよ


 恋愛の切なさがひしひしと伝わって来ます。みゆきさんがかつて経験したかのように、それともやはり一般的男女がしばしば感じる感情を表現したのでしょうか? でも、この曲が恋愛のみを題材としたものでないことは曲全体を見渡すと分かります。

 めぐり来る季節を数えながら
 巡り逢う命を数えながら
 畏れながら 憎みながら
 いつか愛を知ってゆく


 ヒトは多くのヒトと出逢いますし、また疎遠にもなります。昨年知らなかったヒトと今年出逢うこともあります。そうした時間の流れの中で繰り返す出逢いがあって、いくつもの新しい感情が生まれる輪廻のような発想をうたっています。

 泣きながら生まれる子供のように
 もいちど生きるため 泣いて来たのね


 他人との出逢いのために傷つくことがあったとしても、泣きながら生まれる子供のように、もういちど「誕生」があってヒトとして生きていく、あるいは「(強く)生きなさい!」そうした意味に捉えます。ここにも生まれ変わる輪廻の思想をイメージさせます。

 Remember 生まれた時
 だれでも 言われた筈
 耳をすまして 思い出して
 最初に聞いた Welcome


 “Remember” の訳を「記憶している」、「憶えている」ではなく、ここでは「思い出して!」といたします。生まれた時のこと、あなたは “Welcom!” と歓迎されたのです。

 Remember 生まれたこと
 Remember 出逢ったこと
 Remember 一緒に生きてたこと
 そして覚えていること


 そう!、あなたはずっと独りだったわけではない。思い出して!、生まれた時のこと、出逢いがあったこと、一緒に生きた時があったこと、そしてそれらのことを心の中に記憶として留めていること。


 振り返るひまもなく 時は流れて
 帰りたい場所が またひとつずつ消えてゆく
 すがりたいだれかを失うたびに
 だれかを守りたい 私になるの


 頑張って生きていると知らず知らずに時が過ぎ、ヒトとの死別や別れがあって、自分が拠り所としたかつての場所、頼りにしているヒトが失われます。みゆきさんのみならず、誰にでもこうした経験や心情、寂しさはあるでしょう。恋愛や失恋のみをうたったものではありません。もっと大きなヒトとヒトとの出逢いと別れをうたっていると思います。

 わかれゆく季節を数えながら
 わかれゆく命を数えながら
 祈りながら 嘆きながら
 とうに愛を知っている


 出逢いよりも別れを数えています。時とともに、季節がめぐるとともに別れがあり、繰り返す切なさをうたいつつ、様々な感情と「愛」を培っていきます。

 忘れない言葉はだれでもひとつ
 たとえサヨナラでも 愛してる意味


 非常に興味深い、心に残るフレーズです。「サヨナラ でも 愛している意味」、人類愛をも感じる言葉です。

 Remember 生まれた時
 だれでも 言われた筈
 耳をすまして 思い出して
 最初に聞いた Welcome


 “Remember” の訳を「思い出して!」として、最初に聞いた Welcomeを思い出して、「また生きるのです!」と励ましています。

 Remember けれどもしも
 思い出せないなら
 私いつでもあなたに言う
 生まれてくれて Welcome


 みゆきさんがこの曲で一番言いたかったのはこの文章に込められていると思います。もしも “Welcome!” の言葉を思い出せないのなら、もしも心が折れてしまって生きてゆけない心情なら、「私がいつでも言う “Welcome” と!」、とにかく頑張って生きなさい!、新しい「誕生」を迎えなさい! 

 Remember 生まれたこと
 Remember 出逢ったこと
 Remember 一緒に生きてたこと
 そして覚えていること


 思い出して!、あなたはずっと独りだったわけではない。思い出して!、生まれた時のこと、思い出して!、出逢いがあったこと、思い出して!、一緒に生きた時があったこと、そしてそれらのことを心の中に記憶として留めていること。

 悲しい別離が訪れた時、絶望した時、挫折した時、生きていくことに不安になった時、「生まれ変われば良いんだよ!」、「こころから応援するよ!」、「あなたは独りではないんだよ」、そういう意味での、輪廻のように繰り返す『誕生』と言うタイトルなんだと思います。

You Tubeのページを貼付けました。クリックいただけば楽曲が聴けます↓。

男声合唱で「誕生」(中島みゆき)

http://ja.wikipedia.org/wiki/誕生/Maybe
http://ja.wikipedia.org/wiki/奇跡の山_さよなら、名犬平治
http://dailydrink.exblog.jp/1934939

チャップリンの「独裁者」 演説

 ガイドとの接触の場に「オストリッチの中庭」を選択、などとしましたが、少し横道に逸れますけれど、チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』の最後の演説の原文が手に入りましたので日本語訳をつけて掲載します。これもひとつの平和を願うスピリットであります。
 ご存知の方は多いと思いますが、この映画はナチスドイツのヒトラーがユダヤ人迫害、フランスやポーランドへの侵攻を進める最中に公開されたもので、こうしたファシズムに対する風刺、批判精神を訴えたものであります。映画の中で、素朴な床屋を扮するチャーリーが、ふとしたことから世界征服が実現して皇帝に就任するヒンケルと入れ替わり、その就任挨拶の演説の壇上に立つことになりました。
 この演説を現代の映像を組み込んだYouTube作品を見ますと、現代、世界が抱える問題点にも通ずる点が多々あり、70年以上も前のチャップルンの危惧は今なお続いていると言うところでしょう。

 *****

 映画『独裁者』演説 YouTube動画↓
チャップリン「独裁者」演説


I'm sorry but I don't want to be an Emperor. That's not my business. I don't want to rule or conquer anyone. I should like to help everyone if possible, Jew, gentile, black man, white.


 申し訳ない 私は皇帝になりたくない。そんなことは私のすべきことではない。私は人々を規制したり征服したりしたくない。私はできるだけ多くの人を支援したい。ユダヤ人であろうと黒人であろうと白人であろうとも。

We all want to help one another, human beings are like that. We all want to live by each other's happiness, not by each other's misery. We don't want to hate and despise one another. In this world there is room for everyone and the earth is rich and can provide for everyone.

 人類はお互いに助け合って生きるべきだ。本来人間はそういうものだ。私達はお互いの幸福を願って生きるのであって、互いに憎しみあったり、見下したりして生きるものではない。世界には全人類を養う充分な場所がある。

The way of life can be free and beautiful. But we have lost the way. Greed has poisoned men's souls has barricaded the world with hate, has goose-stepped us into misery and bloodshed.

 人生は自由で美しいはずであるのに、私たちは道を違えてしまっている。貧欲が人々の魂を蝕み、その貧欲が世界を憎しみで分断し、悲劇と流血を招いている。

We have developed speed but we have shut ourselves in, machinery that gives abundance has left us in want. Our knowledge has made us cynical, our cleverness hard and unkind.

 私たちは急速に発展したが、その発展という檻のなかに本来の私たちを閉じ込めてしまった。発展した機械は私たちのあるべき姿を置き去りにした。私たちの知識は私たちを利己的にし、私たちの英知は私たちを不親切な人間にした。

We think too much and feel too little, more than machinery we need humanity, more than cleverness we need kindness and gentleness, without these qualities, life will be violent and all will be lost.

 私たちは考えすぎ、そして感じることが少なくなった。人間性や親切心がなければ、私たちの人生は暴力的になり、そして私たちは全てを失う。

 The airplane and the radio have brought us closer together. The very nature of these inventions cries out for the goodness in men, cries out for universal brotherhood for the unity of us all. Even now my voice is reaching millions throughout the world, millions of despairing men, women and little children, victims of a system that makes men torture and imprison innocent people. To those who can hear me, I say "Do not despair".

 飛行機やラジオは私たちお互いの距離を縮めた。そしてそれらの発明品を扱うには善意や人間愛や団結が必要だ。今、この瞬間、私の声は世界中の数百万人の人間耳に届いている。絶望した男性、女性、小さな子供たち、これらの人々は人を拷問し無実の人を投獄するシステムの被害者だ。私の声を聴く彼らに対し私は言う、「失望してはならない!」

 The misery that is now upon us is but the passing of greed, the bitterness of men who fear the way of human progress, the hate of men will pass and dictators die, and the power they took from the people will return to the people, and so long as men die, liberty will never perish.

 今私たちを覆っている惨めさは、本来の人間の繁栄を恐れる人たちの貧欲さや敵意からもたらされるものであり、この感情が去れば、独裁者たちは死に、かつて独裁者が人々から奪った権利は人々の元に返されるだろう。人類が滅亡しないかぎり私たちの自由は失われることはない。

Soldiers, Don't give yourselves to brutes, men who despise you and enslave you - who regiment your lives, tell you what to do, what to think and what to feel, who drill you, diet you, treat you as cattle, as cannon fodder.

 軍人たちよ!、残忍な奴らに自分の身を委ねるな!。そいつらはお前たちを侮辱し、奴隷にし、厳しく生き方を強制し、お前たちに「何をすべきか」、「何を考えるべきか」、「どう感じるべきか」を言って来る。お前たちに軍事訓練をさせ、お前たちに餌を与え、お前たちを家畜のように扱い、末には砲弾の餌食にする、そういう奴らだ。

Don't give yourselves to these unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts. You are not machines. You are not cattle. You are men.

 そんな非人間たちに身を委ねるな! 機械的な奴らは機械的な心しか持っていない。お前たちは機械ではない! お前たちは家畜ではない! お前たちは人間なんだ!!

You have the love of humanity in your hearts. You don't hate, only the unloved hate. Only the unloved and the unnatural (hate). Soldiers! Don't fight for slavery, fight for liberty.

 お前たちの心には人間らしい愛がある。お前たちは憎しみ合うことはない。愛を知らぬ者、非人間性の者だけが憎み合うのだ! 軍人たちよ!、奴隷化のために戦うな、自由の為に戦え!

In the seventeenth chapter of Saint Luke it is written "the kingdom of God is within man" - not one man, nor a group of men - but in all men - in you, the people.

 聖ルークの第17章に「神の国は人々の心にある」と記されている。1人の人間のなかでも、1つの集団のなかでもない、君たちすべての人々の心のなかにあるんだ。

You the people have the power, the power to create machines, the power to create happiness. You the people have the power to make life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.

 君たちには力がある。その力が機械を創り、その力が幸福をもたらす。そして君たちが持っている力が人生を自由で美しく、そして素晴らしい冒険の旅にしてくれるのだ。

Then in the name of democracy let's use that power - let us all unite. Let us fight for a new world, a decent world that will give men a chance to work, that will give you the future and old age and security.

 民主主義の名の下に、その力を使おうじゃないか! 団結するんだ! 新しい世界の為に戦おうじゃあないか。本来あるべき世界は、人々に働く機会があり、若者に明るい未来を示し、お年寄りには社会保障、そんな社会なのだ。

By the promise of these things, brutes have risen to power, but they lie. They do not fulfil their promise, they never will. Dictators free themselves but they enslave the people.

 こうした約束に基づいて力を付けた権力者は、しかし約束を守らなかった。彼らがその約束を実現することはない、絶対に。独裁者たちは自分たちだけを自由にして人民を奴隷にしている。

Now let us fight to fulfil that promise. Let us fight to free the world, to do away with national barriers, do away with greed, with hate and intolerance. Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men's happiness. Soldiers! In the name of democracy, let us all unite!

 今、約束を果たすために戦おう。自由な世界のため、国境を取り外すため、貧困や憎しみ、不寛容を取り除くために戦おう。意味ある世界のために、科学や発展がすべての人々を幸福に導くために戦おう。軍人たちよ、民主主義の名の下に今こそ団結しよう!

Hannah, can you hear me? Wherever you are, look up Hannah. The clouds are lifting, the sun is breaking through. We are coming out of the darkness into the light. We are coming into a new world. A kind new world where men will rise above their hate, their greed and their brutality.

 ハンナ、聞こえるかい? どこにいようと顔を上げるんだ。雲が消えて太陽が輝いている。我々は暗闇から明るい世界へと脱出して来ている。新しい世界だ。人々は憎しみや貧欲を乗り越えた。

Look up Hannah. The soul of man has been given wings - and at last he is beginning to fly. He is flying into the rainbow - into the light of hope, into the future, the glorious future that belongs to you, to me, and to all of us. Look up hunna. Look up.

 ハンナ、見上げてごらん。人の魂には翼があったんだ。少なくとも今、彼は飛び始めている。彼は虹に向って飛んでいる、未来の希望の光に向って、その未来とは、キミに私にも、すべての人間にとって輝く未来だ。見上げてごらんハンナ、見上げてごらん!

チャップリン

http://www.geocities.jp/ryunk/contents/chaplin/last_speech.html
http://www.youtube.com/watch?v=CfAHws-6CMY

全然違う 日本の「神風」とイスラムのテロ、「永遠の0」に込められた 百田 尚樹 氏の訴え

 単一民族で高い精神性を持つ日本人にアセンションは近い、と言う、本当かどうか?、いささか自意識過剰な日本人の記述を見る機会があります。この点については後日、検討したいと思いますが、今日は別の角度から日本人のスピリットについて、一部の間違った見解を正したくキーボードを叩いております。

 1996〜1998年の米国留学時、一人のギリシャ人フェローと親しくしていました。ある時、彼に "I can not understand Japanese KAMIAKAZE." と言われて討論したことがあります。詳しくは忘れましたが、欧米人と日本人では死を意識した際の生への見方が若干違う印象を持ちました。また、欧米人にとって日本の「神風特攻隊」は自分たちと異なる死生観として奇異な感覚で捉えられているのは間違いありませんでした。この討論において、30代であった私は明確な返答ができず歯がゆい思いをしたのが思い出されます。

 欧米人にとって異なる死生観として捉えられる日本の「神風」

 今週明けの15日(日本時間16日)、米国ボストンマラソンで爆弾テロがありました。無差別な行為で被害に遭われた方々に心よりお悔やみを申し上げます。
 テロと言うとどうしても2001年の「9. 11 アメリカ同時多発テロ事件」を思い出しますが、その際のテロのことが "Kamikaze Attack" として報道されました。もちろんこれは、第二次大戦における日本国連合艦隊の「神風特別攻撃隊(特攻)」から惹起された言葉であります。また、 ”le kamikaze” (フランス語調で「カミカズ〜」と発音)と言う単語 は既にフランス語となっており、「自爆攻撃、自爆テロ」という意味で使われ、パレスチナに関する報道では,ほぼ日常的にお目にかかるそうです。

  "Kamikaze Attack" として報道された米国同時多発テロ
  フランス語にもある”le kamikaze” 「自爆攻撃、自爆テロ」

 欧米では、自爆など自己犠牲による無差別殺人を日本人とイスラムの特有の「死生観」として捉えられているようです。また、本当の特攻の実情を知らずに現代の若い世代が、単なる自爆や自己犠牲として後世に伝えていっているような、そんな風潮もあります。

 日本軍の特攻とイスラムの自爆テロ、一見、やっていることは似ていても中味は全く違います。特攻は戦時中に祖国を守り、家族を守るため、敵の艦隊に対して行ったもの、平和な社会において無差別に大量殺人を行うイスラム過激派とは全く異なるものです。

 日本の特攻は戦時中の敵艦隊に対して行ったもの
 イスラム過激派は平和な社会における無差別な殺人
 特攻とイスラムテロ、両者は断じて同じものではない!

 年末、こうした欧米諸国の日本人のスピリットに対する不適切な評価、今の日本の若者の間違った認識に対して一石を投じる小説に出会いました。ベストセラーですのでご存知の方は多いと思いますが、「永遠の0」(百田尚樹氏)がそれです(映画化が決まり12月公開予定とのことです)。

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 百田尚樹氏の「永遠の0」における訴え

永遠の0

 ある姉弟が、神風特別攻撃隊員であった自分たちの祖父がどのような人物であったのか、いかにして亡くなったのかを探求することとなったというストーリーです。何人かの戦友や生徒などの取材から、戦闘機乗りとしての高い技術と、死ぬ事を恐れて家族の下に帰ることを第一に考える「臆病者」と罵られていたこと、また当時の軍隊の状況、多くの軍人達が軍部に検閲されるために家族に対して本当の気持ちを遺書に記すことなく死んでいったことが描写されております。
 小説の中には「イスラムのテロと神風は同じ」と言う若いジャーナリストが出て来て、多くの隊員の遺書に死を恐れる文言はなく、国のため良い仕事をしているかの言い回しに触れたところ、特攻隊から帰国して企業の社長にまでなった人物が、一喝して、現代のテロリストと神風特攻隊は違うと言ってジャーナリストを嗜め、ジャーナリズムのあり方を正すと同時に、「我が身なき後の家族と国家を思い、残る者の心を思いやって書いた特攻隊員たちの遺書の行間」を指摘しています。「臆病者」と罵られた主人公である祖父は、実は当時の若者の心の奥にあるものの代弁者だったと言うことを暗に示唆しています。

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 うっかりすると歴史は歪曲されて伝わります。中韓の「反日教育」はその最たるものです。神風特攻の客観的な史実は史実としても、当時の人間の心の内面の部分にまで歴史認識を間違えてはいけません。日本人は非戦争時における無差別殺人を行ったのではなく、神や天皇のために命を無駄にしたのでもありません。言うまでもなく、日本と言う国を守るため、愛するものを守るため、家族を守るためでありました。そこにそれほど特別な死生観は無かったと思います。

 人間の内面における歴史認識の重要性

 日本人のスピリットについて間違った認識が欧米諸国でなされており、日本人のジャーナリストまでも!、そうして考えた時、最初に戻って、「単一民族で高い精神性を持つ日本人にアセンションは近い」との発想が、違うとは思いますが、イスラムと日本の固有のものとの考えに立脚するならば、これは日本人のスピリットに対する大いなる誤解を指摘せざるを得ません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/死生観
http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ同時多発テロ事件
http://fr.wikipedia.org/wiki/Kamikaze
http://ja.wikipedia.org/wiki/永遠の0